♰「ソーシャル・ネットワーク・コミュニティから人間共同体へ」ー世界広報の日メッセージ

第53回「世界広報の日」(5月26日)教皇メッセージ

「わたしたちは、互いにからだの一部なのです」(エフェソ4・25)

「ソーシャル・ネットワーク・コミュニティから人間共同体へ」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 インターネットが用いられるようになった当初から、教会はつねに、人と人との出会いと、あらゆる人の間の連帯のために役立つその活用を促進してきました。このメッセージを通してわたしが皆さんに再度お願いしたいことは、わたしたちが互いにかかわり合う存在であることの根拠と重要性についてよく考え、現代のコミュニケーションが広範な問題を抱える中で、孤独でいたくないという人間の思いに、改めて目を向けることです。

「ネットワーク」と「共同体」の隠喩

 今日のメディア環境は、日常生活の領域と区別できないほど広がっています。ネットワークは現代の資源です。それは、過去には考えも及ばなかった、知識とかかわり合いの源です。しかし多くの専門家が明らかにしているように、コンテンツの作成、流布、活用のプロセスにテクノロジーがもたらした著しい変化には、世界規模での正確な情報の検索や共有を脅かすリスクも伴います。インターネットが知識にアクセスする途方もない可能性を示すのであれば、それが、信頼喪失を頻繁に招くことになる、事実や人間関係に関する偽情報や、ある目的に基づく意図的な曲解にもっともさらされる場の一つであることも確かです。

 ソーシャル・ネットワークは、一方ではわたしたちがより密接に結びつき、互いを認め、助け合うために役立っていますが、他方では、政治的、経済的な利益のために、個人とその権利を尊重しない個人情報の不正操作に利用されていることも認識すべきです。統計によると若者の四人に一人がネット上のいじめに巻き込まれています(1)

 こうした複雑な状況の中で、インターネットの肯定的な可能性を再発見するためには、当初その根底にあった、ネット(網)というものの隠喩についての考察へと立ち戻ることが有益でしょう。ネットのイメージは、中心も階層的構造も縦型組織もなくとも安定している、多数の線と交点を思い起こさせます。ネットワークは、すべての構成要素が共にかかわることによって機能します。

 人類学的な観点に立ち戻ると、ネットワークの隠喩は、共同体というもう一つの重要なイメージを思い起こさせます。共同体は、団結して連帯するほど、また信頼によって生き生きとし、共通の目的を追い求めるほど、いっそう強められます。連帯のネットワークとしての共同体は、責任をもって発言することに基づく相互の傾聴と対話を必要とします。

 だれの目にも明らかなように、現状においては、ソーシャル・ネットワーク・コミュニティは必ずしも共同体と同義ではありません。このコミュニティは、最良の状態にあるならば団結と連帯のあかしとなりますが、大抵は、同じ関心や話題という弱いきずなによって認識し合う、個人の集合体にすぎません。しかも、ソーシャルウェブ上のアイデンティティは、ほとんどの場合、他者や部外者との対比に基づいています。

 つまり、結びつけることではなく、分け隔てることによって自己を定義しており、それにより疑いを生じさせ、あらゆる種類の偏見(民族、性、宗教などによる)を噴出させているのです。こうした傾向により、異質な存在を排除するグループが勢いを増し、歯止めの利かない個人主義がデジタル環境内にも広がり、憎しみの連鎖に至ることさえあります。このように、世界への窓(ウインドウ)となるべきものが、自己陶酔を誇示するショーウインドウになっています。

 ネットワークは他者との出会いを促す機会となりますが、わなにはめる蜘蛛の巣のように、わたしたちをさらに孤立させることもあります。若者は、ソーシャルウェブが自分の対人関係を完全に満たしてくれるという錯覚にとりわけ陥りやすく、彼らが、社会から完全に引き離される危険のある「ひきこもり」になるという深刻な事態まで起きています。こうした劇的な動向は、かかわり合いから成る社会構造に深刻な断絶、無視できない亀裂があることを物語っています。

 この油断のならない多面的な現実は、倫理、社会、司法、政治、経済の在り方にさまざまな問題を投げかけ、教会にも課題を突きつけています。各国政府は、自由で、開かれていて、安全であるという、ネットワークの本来の姿を維持するための法的規制を模索していますが、わたしたち皆が、その有益な活用を推進する役割と責任を担っているのです。

 相互理解を深めるには、接続回数を増やすだけでは不十分であることは明らかです。それでは、オンラインのネットワーク上でも互いに担うべき責任への自覚に基づく、共同体の一員としての真のアイデンティティを見いだすには、どうしたらよいでしょうか。

「わたしたちは互いにからだの一部なのです」

 その答えは、からだとその部分という第三の隠喩から引き出すことができます。それは、聖パウロが人間の互恵関係を表現するために用いたことばであり、各部分が一つとなって有機体を形作っていることに基づいています。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いにからだの一部なのです」(エフェソ4・25)。互いにからだの一部であることは深遠な動機であり、使徒パウロはその動機のもとに嘘を退け、真理を語るよう呼びかけています。

 真理を守る責務は、交わりの相互関係を否定しないという要求から生じます。真理はまさに、交わりにおいて明らかにされます。それに引きかえ嘘は、自分が一つのからだの一部であることを、利己的に拒絶することです。自分自身を他者に差し出すことを拒むことにより、自分自身を見いだす唯一の道を見失っているのです。

 からだとその部分の隠喩は、交わりと他者性に根差す自らのアイデンティティについて省察するよう導きます。キリスト者としてわたしたちは皆、自分がキリストを頭とするからだの一部であることを自覚しています。それによってわたしたちは、競争相手になりうる存在として他者をとらえるのではなく、敵であっても人として考えられるようになります。自分自身のことを明らかにするのに、敵はもはや必要ありません。すべてを包み込むまなざしをキリストから学んだわたしたちは、かかわりをもち、親しくなるために欠かせないもの、その条件として、他者性を新たな視点でとらえることができるからです。

 人々の間で理解し合い、コミュニケーションをとるこの能力は、神のペルソナの愛の交わりに根ざしています。神は独りでおられるかたではなく、交わるかたです。神は愛です。ですからコミュニケーションが成り立ちます。愛とは絶えず伝えるものですから、神は人と出会うために、ご自分を伝えてくださいます。わたしたちと話を交わし、わたしたちに伝えるために、神は人間のことばにご自身を当てはめ、歴史を通して人類と比類のない真の対話をしておられるのです(第二バチカン公会議公文書『神の啓示に関する教義憲章』2参照)。

 交わりであり、ご自身を伝えるかたである神の像と似姿として造られているからこそ、わたしたちは交わりながら生きたい、共同体に属したいという願いをつねに心に抱きます。聖バジリオが言うように、「互いに交わりを結び、相互に依存し合うことほどに、わたしたちの自然本性に固有なことはないから」(2)です。

 この現状にあってわたしたちは、関係を築くために尽力し、互いにかかわり合うという人間の本質を、ネット上においても、ネットを通じても確認しなければなりません。とりわけわたしたちキリスト者は、信者としてのアイデンティティに刻まれている交わりをはっきり示すよう求められています。まさに信仰それ自体がかかわり合いであり、出会いです。わたしたちは神の愛に後押しされて、他者というたまものとかかわり、その人を受け入れ、理解し、こたえることができるのです。

 三位一体の交わりはまさに、個とペルソナとの違いを明らかにしています。三位一体の神を信じているからこそ、わたし自身であるためには他者が必要となるのです。他者とかかわり合って初めて、わたしは真の人間、真のペルソナとなります。ペルソナということばはまさに、他者のほうを向き、他者とかかわる「顔」として、人間を表しています。わたしたちのいのちは、その性質が個的なものからペルソナ的なものへと移行することにより、人間性において成長します。人間性を深める真の道のりは、他者を競争相手とみなす個的存在から、旅の同伴者とみなすペルソナ的存在へと向かうものです。

「いいね!」から「アーメン」へ

 ソーシャルウェブの活用は、相手の肉体、心、目、視線、息を通してなされる生身の本人との出会いを補完するものであることを、からだとその部分のたとえは思い起こさせてくれます。そうした出会いの伸展と期待のために用いられるなら、ネットは本来の姿を失わずに、交わりに資するものであり続けます。

 家族が互いの結びつきを強め、食卓を囲んで見つめ合うために用いられるならば、ネットは一つの資源です。教会共同体がともに感謝の祭儀をささげるために、ネットを通してその活動を調整し合うのであれば、それは一つの資源です。自分から物理的に離れたところで起きた、素晴らしい、もしくは苦しい出来事や体験に近づく機会となるなら、また、ともに祈り、自分たちを結びつけるものを再発見することにともに善を見いだす機会となるなら、ネットは一つの資源です。

 ですからわたしたちは、診断から治療へと移行することができます。対話、出会い、笑顔、触れ合い……、そうしたことへの道を開く、これこそが、わたしたちが求めるネットワークです。わなにかけるためではなく、解放するため、自由な人々の交わりを守るためのネットワークです。教会そのものも、聖体の交わりによって織りなされるネットワークです。教会の一致は、「いいね!」にではなく、真実に、各自がキリストのからだと一つになり他者を受け入れることを表す「アーメン」に基づいているのです。

 バチカンより 2019年1月24日 聖フランシスコ・サレジオの記念日 フランシスコ

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2019年5月25日