・21日から全世界の司教協議会会長による”聖職者性的虐待サミット”-日本の司教団どう対応?

(2019.2.10 カトリック・あい)

 世界中で表面化、深刻化を続ける聖職者による未成年性的虐待と隠ぺい問題への対応を協議する全世界カトリック司教協議会会長会議が21日からバチカンで開かれる。

 この問題については、昨年10月の世界の若者を巡る問題と対応、召命に関する全世界代表司教会議(シノドス)でも話し合われた。だが、シノドスとしてこの深刻な過ちに公けに謝罪し、かねてからの教皇フランシスコの願いである「zero torelance(一切の例外、許容を認めない対応)」でこの問題に対処することを最終文書に書き込む寸前まで議論が進みながら、これは自分たちの地域の問題でない、などとするアフリカ、アジアなどの司教たちの頑強な反対で見送られた、という。

 教皇は、自らが招集した今回の会議で、世界中の信徒に限らず、多くの人々の間で教会、聖職者に対する信用を失墜させ、宣教活動にも大きな影響を与えているこの問題の深刻さについて、認識を確実に共有し、再発を許さない断固とした道筋を確認することを、強く希望しておられる、と伝えられている。

 果たして、今回の会議が教皇の思いを確実にと反映し、会議の結果を持ち帰る各国の司教協議会会長が具体的な方策の実施を通して、教会の、司教、司祭の信頼回復につながる歩みを踏み出せるのか。この問題について明確かつ具体的な対応を日本全体として進めずに来た日本の司教団も含めて、しっかりとした対応が求められている。

 日本では、聖職者による性的虐待が大きな問題として世界的に表面化し始めた2002年に、司教団が「子どもへの性的虐待に関する司教メッセージ」を聖職者、修道者、信徒当てに発出し、「不幸にして日本の教会において聖職者、修道者による子どもへの性的虐待があったことが判明いたしました。私たちはこの点に関してこれまで十分に責任を果たしてこなかったことを反省します。私たち司教は、被害者の方々に対し誠実に対応するとともに、その加害者である聖職者、修道者に対しては厳正に対処いたします」とし、翌年、「聖職者による子どもへの性虐待に対応するためのマニュアル」を発行、カトリック中央協議会に「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」を設置、その次の年に全国アンケート調査を実施し、回答111件の7割がセクハラがある、と答え、身体的接触があった、との訴えも17件に上った。

 だが、こうした反省をし、調査結果を公表したにもかかわらず、現在に至るまで、全国的な取り組み、対応がなされた、とは聞かない。福岡、大阪など教区によっては相談窓口を設け、実態把握や司祭教育に努めているところもあるようだが、その間にも、2009年に大阪でカトリック系大学の学長を務めたこともある司祭が信徒の母子に対する強制わいせつで逮捕されるなどの事件が起きている。事件化しなくても、神学生時代に女性との不適切な関係を繰り返し、レッド・カードを受けながら、他教区に移って最近叙階し、また同じことが疑われ、彼を信頼していた信徒たちを傷つける司祭もいる。2013年には、何の釈明もなく突然、教区長やその他の要職を放棄して出奔するという、司祭、信徒たちに大きな打撃を与える非常識極まる行動をとり、関係の問題も疑われながら、本人も司教団も未だに説明責任を果たさずにいる高位聖職者もいる。

 上記のアンケート調査でもその片鱗が明らかになったように、自らの恥を表沙汰にしたくない、組織、集団を傷つけたくない、教会や聖職者を糾弾したくない、とする日本的な風土の中で、表立って告発もできず、水面下で苦しみを受けている方も少なくないようだ。教皇フランシスコの全世界の司教団に向けた「性虐待被害者のための祈りと償いの日」制定の通達を受けて、四旬節第2金曜日をこの日とし、2017年3月17日からミサなどの行事を始めたが、それで済まされる問題ではないだろう。

 聖職者による未成年者への性的虐待と隠ぺい問題について、まさに2002年に、当時の自国の高位聖職者たちの圧力をはねのけ、聖職者による性的虐待の世界的スクープを報道、世界の教会がこの問題に顔を向けざるを得なくなる端緒を作り、以来、性的虐待・隠ぺい問題を追い続ける米国の有力日刊「Boston Globe」をルーツに持つカトリック系インターネット・ニュースCruxが、21日からの全世界カトリック司教協議会会長会議を前に、7日付けで掲載した解説には、日本の問題を考えるうえでも示唆的な内容が多く含まれている。以下に翻訳して転載する。

 (「カトリック・あい」南條俊二記)

(Cruxは、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けている。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています)

(Crux解説)「”Zero tolerance”は過剰な期待とは見なせない」

(2019.2.7 Crux Editor John L. Allen Jr.

 ローマ発ー聖職者による性的虐待に関する全世界の司教協議会会長たちによる会議が、21日から24日にかけて開かれる。我々は、この会議に過剰な期待を抱かないように、と最近、バチカンから二度にわたって”注意”を受けた。

 まず、バチカンの報道官、イタリアのベテラン・ジャーナリストであるアンドレア・トルニエリ氏が1月10日に、メディア関係者に対して、この会議について過大に扱い過ぎている、まるで「公会議と教皇選出会議の中間」のような報道がされている、と苦労を呈した。

 そして次は、会議招集者の教皇フランシスコ本人が、世界青年の日大会出席でパナマを訪問した帰りの機内での記者会見で「会議への期待は、少しばかり膨らみ過ぎのように感じています」と語り、「ガス抜きをする必要があります」と述べたことだ。

 会見で、教皇は、この会議の狙いについてどう見ているかについて言及された。まず、虐待された子供たちが経験した「ひどい苦しみ」について司教たちに自覚を促すこと。次に、虐待の案件に対処する手順を司教たちが理解するのを助けること。そして、この問題と対処の手順についての自覚が「全ての司教協議会」に及ぶことを確実にすること。

 ある程度の期待を盛り上げる努力は、完全に理に適っている。なぜなら、3日間の会議で世界を変えるのを期待することは、そもそも常識では考えられない。虐待問題に対処する努力は多くがバチカンではなく、それぞれの現地でされるものだ。成果の出る出ないは、「バチカンではなく、会議に参加した司教たちが戻ってからの、それぞれの地元での具体的な対応」によるのだ。

 ここ何十年も、性的虐待の被害者たち、問題解決に全力を傾けて来た関係者たち、信仰を揺らがされている一般信徒たちは、激しい不満を募らせている。中でも米国の人々は、1980年代半ばから繰り返し性的虐待のスキャンダルを知らされ、”厭戦気分”が強い。2002年には問題を解決するとの約束を聞かされたが、その後、17年経ってもまだ心に痛みを起こし続けねばならない、ということは、多くの人にとって理解しがたいことだ。多くの善意の人々にとって、期待を萎めることは、否定、無関心、あるいは最悪の場合、隠蔽という形で黙認してしまうことに、つながりかねない。

 では、2月の会議から現実問題として、何を期待すればいいのか?性的虐待撲滅のガイドラインで合意せねばならないとすれば、虐待の訴えへの対処を誤った司教たちをどの様に扱うのかについて真剣な議論が行われることが重要になる。だが、昨年10月の「若者シノドス」で性的虐待とからんで焦点となり、判断が持ち越された“zero tolerance”の扱いが特に緊急の課題となるように思われる。 10月のシノドスでは、最終文書に zero tolerance を書き込むことで合意寸前まで行ったが、アジア、アフリカ、それとイタリアなど欧州の一部の反対で、見送られた。

 反対の表向きの理由は、教皇が招集される2月の会議の前にそのようなことを決めるのは時期尚早、というものだったが、実際は、司教たちの中に、いまだに「 zero toleranceは”過剰反応”だ」「アングロ・サクソンの世界では文化的に適当な対策だろうが、他の地域ではそうではない」と考える者がいたのは明らかだ。

 そうした経過から、2月の会議は教皇にとって、zero toleranceがカトリック教会の「世界標準」であること明確にするのに適した機会となる。聖職者による性的虐待問題の文脈でzero toleranceの意味を考えると、教会は児童性的虐待について不寛容、となるだけでなく、一度でも未成年者に対する性的虐待が立証されれば、教会員は管理運営の職を永久に解かれる、聖職者であれば、聖職者としての地位をはく奪される、ということを意味する。

 これは、米国のような西側国では標準的な慣行となっているが、地域によっては、それを守らない方が評価される所がある。よく知られた例が、インドのタミル・ナードゥ州出身のジョセフ・パラニベル・ジェヤパウルの事件だ。2004年から2005年にミネソタ州で働いていた時、14歳の少女二人に性的いたずらをしたとして訴えられたが、逃亡、実家に戻った。2010年にインドの教区によって留置され、2012年にインターポール(国際刑事警察機構)に逮捕され、米国に連れ戻され、有罪の宣告を受け、刑務所に入れられた。だが、インドに帰国した際、一年もたたないうちに、地元の司教がバチカンに嘆願して、ウータカマンド教区での教会活動に復帰が認められた。

 このようなことは、2月で教皇は終わりにできる類のものであり、ご自身が繰り返し言明されているzero toleranceを支持する姿勢と合致する。

 教皇は、昨年のペンシルバニア州大陪審の同州の聖職者による性的虐待に関する報告を受けた書簡で、こう述べているー「私は、世界の様々な地域でなされている努力と働きを承知しています…zero toleranceと、これらの罪を犯したり、隠ぺいしたりする者すべてに説明責任の義務を負わすことを実行するために。私たちは、強く求められていたこうした行動を起こし、必要な制裁措置をとるのを遅らせてきましたが、それらの措置が、現在、そして将来、弱い者を守る、より大いなる文化を保証する助けになると確信しています」。

 道理をわきまえた人々は、2月の会議で教皇ご自身の公約が支持されるのを期待するのが「過大な期待」とは全く思われない、との見方に同意するに違いない。そして、教皇フランシスコも「過大な期待ではなかった」とお考えになるかどうか、間もなく判明するだろう。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年2月11日