・バチカンの報道局長、副局長が突然辞任-ジャーナリストの”限界”か?

(2019.1.5 カトリック・あい)

 教皇フランシスコが2018年12月31日付で、バチカン報道局のグレッグ・ブルク局長とパロマ・ガルシア・オベヘロ副局長の辞職を承認した。バチカンの公式発表は2人の辞任の理由を明らかにしていないが、年末ぎりぎりになっての”任期”なかばでの(バチカンの外で経験を積んだ)ジャーナリストの出身として注目されていたバチカン広報のキーパーソン二人の突然の辞任。その本当の理由は何か。Crux記者の解説からうかがえることは…

 教皇は、辞任した2人の暫定後任として、バチカンの広報省で現在ソーシャルメディア部門の責任者を務めるアレッサンドロ・ジソッティ氏を任命した。イタリア人でバチカン内部の広報畑で過ごしてきた人物だ。そして、初仕事と言えるのは、1月下旬から2月上旬にかけて、パナマでのワールド・ユース・デイ出席、アラブ首長国連邦での宗教間対話の広報。彼をトップとする新報道チームにとって、準備に与えられた時間はわずかだ。

 しかも、これらの直後の2月下旬には世界中から各国の司教協議会会長たちがバチカンに集合しての性的虐待危機への対応協議が控えている。広報担当者として世界の各種報道機関の窓口として、十分な役割を果たせるのか。2人の辞表を受理したのは適切な判断だったのだろうか。

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(Crux 解説)

(2018.1.2 Crux Editor  John L. Allen Jr.) ローマ発-大みそかに、バチカンの広報幹部二人-米国人のグレッグ・ブルクとスペイン人のパロマ・ガルシア・オベヘローが辞任」というニュースが飛び込んで来た時、多くのメディアの見出しに「突然」「予想外」という言葉が躍った。

 彼らが間もなく辞任する、という兆候はなかったからだが、正直に申し上げると、私自身にとっては、これが「予想外」では全くなかった。彼らが2016年にポストに就いて以来、この日が来るのではなかと、ずっと懸念していたからだ。

 その理由は簡単なことだ。2人は、心底からジャーナリストであり、ジャーナリストは企業・団体の代弁者ではないからだ。

 当然ながら、2人はともに信仰厚いカトリック信者だし、教会から奉仕を頼まれたら、「はい」と答える。だが、これがまさに重要な点だ-教会は彼らに頼まないという分別を持つべきだったのだ。彼らは(バチカンの)外から見る立場にいる方が、存在価値が高いからだ。

 ブルクは、ローマとバチカンに深い知識のあるベテランの米国人ジャーナリストだ。カトリック系の新聞記者を振り出しに、Time と Fox Newsで働いていた。ガルシア・オベヘロはスペイン司教団の公式ラジオ局でスペイン第二のラジオ局COPEのローマ特派員として、ローマで最も仕事熱心なジャーナリストとして知られていた。

 2人がバチカンの発するメッセージを作る本当の機会-トップに直接、話すことができ、政策決定のプロセスで意味のある役割を担うなどーを与えられていたら、事態は異なったものになっていただろう。だが、そのような機会は全く与えられなかった。彼らが報告するのはバチカン国務省の役人で、教皇フランシスコに直接、ではなかった。つまり、バチカン官僚に依存するジャーナリスト、というわけだ。

 実際のところ、これでは、成功の処方箋にはなり得ない。(バチカンで力を持つ人間が、事が起きる前にそこで働くジャーナリストに相談したなら、多くの頭痛が起きるのを避けれただろう。)

 「ご自身の決定や声明がどのように受け止められるか」「無用な誤解を避け、彼の意図通りに人々に伝えるにはどうしたらいいか」などを、教皇に事前に助言できればよかったのだが、彼らが与えられた役割は、ツイートやインスタグラムなどインターネット通信業務の管理や報道室の維持管理などに矮小化されていた。このような業務は、優れた才能を持ち、創造的で行動的なジャーナリストにふさわしくない。

 だが、彼らのバチカン広報局での活動が失敗だった、というわけではない。彼らは広報局を、リラックスした、人間的な気風のある、ジャーナリストたちが大切に、親切に扱われている、と感じる場所にした。(それほど大きく変わったと見えないかも知れないが、これまで20年以上、ずっと、そうしたことが無かったのだ。)

 彼らはさらに、情報伝達に新たな方法を試みた-ニュース源となる関係者と記者の非公式の”会合場所”を設け、長々とした声明文を出すことを避け、時間をもっと有効に使うようにした。教皇の内外訪問を取材しやすくした-常に当然視はできない、彼らのジャーナリストとしての経験が生かされた一面だ。

 彼らはまた、バチカンが国際的なニュース発信源であることを理解していた。重要な発表文書類の信頼できる翻訳を主要な言語で入手できるようにした。

 「締め切り時間」の重要性を理解し、速報とその後の動きはリアルタイムで、Telegram(Telegram Messenger LLPが開発するインスタントメッセージシステム)のようなアプリを活用して発信し、電話やインターネットでの問い合わせにすぐに応じた-ガルシア・オベヘロの場合、午前3時であっても応対し、「一体いつ眠るのだろうか」を我々を心配させるほどだった。

 2人とも記者たちがする質問の内容を理解し、隠し事をするようなことは無かった。お気に入りの記者に特別扱いをすることもなく、働いた。彼らがバチカンの報道室で仕事について以来、皆が彼らに世話になった。

 だが、彼らはいつもフラストレーションを感じていたに違いない-彼らがおかれた現実とあるべき姿との落差の大きさに。そのような落差がバチカンのコミュニケーションの扱い方に組み込まれていたとしたら、最近の何週間かのどんでん返しにもかかわらず、それが変わることはありそうもない-バルクとガルシア・オベヘロがいつも壁にぶつかることは、運命づけられていたのだ。

 それについて考えるとすれば、それは機会費用(複数ある選択肢のうち、同一期間中に最大利益を生む選択肢とそれ以外の選択肢との利益の差のこと)だということだ。極めて有能な記者である2人-優れた縁故を持ち、速報の文脈について深く理解し、事実を正しく理解した2人-は2年の在任期間中に、聖職者による性的虐待が引き起こした危機、教皇フランシスコの治世に解き放たれたバチカン内部の緊張、あるいは成果を生まないバチカンの財政金融改革などについて語る立場にあった。

 それができたら、記者たちはバチカンの官僚機構の行き詰まりと誤りを明らかにし、教皇職についてもっと良く理解されるようにし、そして、カトリック教会をいくつかの重要な分野でその活動を浄化を強く促すことができたろう。

 バチカン担当の記者たち自身に問うてもらいたい。「”巨大な宣伝コピー機”を動かす以上に彼らの時を活用してきただろうか」と。

 いずれにしても、ここに予見がある-バチカンの発信でブルクからもガルシア・オベヘロからも最後の言葉を聞いていない。率直に言って、恐らくいつもいた街の脇道に彼らが戻って、最上の日々が約束されているかどうか、私には確信が持てない。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

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2019年1月5日