・シノドス第一週・言語別グループ討議詳報-「性的虐待」に加え、若者の「性」や”デジタル認知症”なども(Crux)

 

Bishops emphasize abuse crisis, but point to wider range of issues(2018.10.9 Crux Staff)

Pope Francis sits among bishops and cardinals during a meeting with youths attending the Synod in the Paul VI hall, at the Vatican, Saturday, Oct. 6, 2018. (Credit: AP Photo/Gregorio Borgia.)

ローマ発―3日始まった「若者シノドス」は二週目に入ったが、全体会議と共に開かれている使用言語別の小会議のこれまでの教義の内容が、9日発表された。

 それによると、児童性的虐待の問題に多くの時間がかけられたが、それにとどまらず、移民・難民、デジタル社会の功罪半ばする現実、性に関する教会の教えの提示、女性の役割、世俗化された世界における信仰の伝え方の難しさ、その他、司教たちが考慮すべき問題も提起されている。

 以下が、Cruxがまとめた、使用言語別のグループで先週開かれた小会議での内容だ。

*英語グループ「若者たちに現実的な対応が求められる」

 英語グループで取り上げられたほぼ共通したテーマは性的虐待問題。現在カトリック教会に大きな影を落としている危機は「わずかな短い文章で表面を撫でる」だけで対処できるものではない、シノドスは「たたき壊された信頼、被害者たちの心理的な外傷、一生続く苦しみ、管理上の壊滅的な過ち、恐るべき犯罪と罪に対して何人かが続ける黙否」を率直に認める必要がある、という認識が示された。

 少なくとも一つのグループは、今回の最終文書が、来年2月に教皇が招集される性的虐待への対応のための全世界司教協議会会長会議の議論の基礎を提供する必要がある、と主張した。

 性的虐待以外では、現代の若者たちが置かれた具体的な現実に、司牧の面で、そしてシノドス文書でどのように応えるべきか、という問題が提起され、具体的に、シノドスの広報委員会から、一週間ごとにその週の議論の内容を400語以内にまとめ、写真付きで発表することが提案された。

 また今シノドスの後に発出されると予想される教皇の使徒的勧告の縮刷版、あるいは勧告そのものについて、世界から来た若者たちの見本となるグループとともに、教皇が”路上試験”するように、との提言もあり、グループは「これが成功すれば、すべての主要文書は若者たちに親しまれるような特徴を備えて提起されるようになるだろう」と期待を表明した。

 さらに、多くの若者たちが勧告の全文を読むことがない、との前提で、教皇によるビデオ講話、解説を含む勧告の学習案内を作ることも提案された。

 カトリックの教義の問題では、複数のグループが、シノドスの最終文書のとりまとめに当たって、「キリスト論的な視点」を強調すべきであり、キリスト教の人と人との結びつきを重んじる性向を、多くの若者が最も強く駆り立てられるものとして際立たせる必要がある、との意見で一致した。

 さらに、最終文書のまとめ方について、あるグループが「貞節について明確に示すべきだ」としたのに対して、他のグループは「教会は、あたかも自分たちが”既製品”の答えを持っているかのような『道徳的』『論争的』な振る舞いを避け、喜びと発見の冒険の雰囲気の中で若者たちとともに歩むことで、若者たちとともにあることに全力を傾けるべき」とし、ニュアンスの違いを見せた。

 最終文書への他の提案としては、若者たちが持つ友情(ロマンティックな関係ではない)への熱望、sexting(翻訳スマートフォン などのモバイル端末を使用し、性的欲求を刺激するようなメッセージや画像をやりとり する行為)を含むデジタル時代の諸問題について項目を立てて言及すること、なども挙げられたが、これまでの議論が「あまりにも欧米の問題意識に偏っていた」との反省の声もあった。

*ドイツ語グループ「若者が生きるデジタル社会に潜む危険を認識する必要」

 ドイツ語を使用する司教たちは、カトリシズムの世界的な多様性の認識から議論を始め、「多くの国々の若者たちの具体的な状況に大きな相違があることに、私たちは皆、驚いている」としたうえで、「地球的、多元的な見方を支持する中で、欧州的な文脈は”後部座席”に座っているのを感じる」と語った。

 そのような多くの相違にもかかわらず、次の点では幅広い一致が見られた、としている。

 ・性行為の問題 ・性的虐待 ・信仰を伝えることのむつかしさ ・デジタル化 ・人を惹きつける聖職者と説教 ・移民 ・自由、確実に寄り添ってもらいたいという若者たちの強い要求 ・若者たちの積極的な参加 ・教会のおける女性に対する公正な扱い

 また、教皇フランシスコが2016年の使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」で離婚して再婚した信徒の聖体拝領に道を開いたことを積極的に支持することを、多くのドイツの司教たちが確認する一方で、それぞれの個人が置かれた異なる状況を尊重する必要があることも強調された。「私たちは、現実に生きている人々、彼らのおかれた具体的な状況を見、たとえその具体的な現実がキリスト信徒のとしての生活の理想に一致しない、あるいはまだ一致していないとしても、現存される神がどのように光を当てられているのかを理解するようにしたい」。

 また、シノドス事務局が事前に準備した討議文書について、「21世紀の若者たちが生きているデジタルについて、討議文書の見方は楽観的過ぎる」と指摘。「デジタル社会に現実について、潜在的に前向きな側面と破壊的な危険(ハード・ポルノや暴力シーンを見ることのできる年齢を11歳以上とするような制限の問題など)をもっと具体的に書き込む必要がある、と考える」と訴えた。

 そして「デジタル社会が、若者たちにとって長期にわたってどのような影響を及ぼすのが、私たちには分からない。「デジタル認知症」(注・日本を始め多くの国で若者中心に急増していると言われる、スマホなどデジタル機器を長時間使用することで発症する、認知症に似た症状)、あるいは新規の(スマホなどの)常用癖ないしは集中力の欠如、、についての医学的な議論、複雑な教本をよむ能力の劣化、対人関係の欠如など、についての医学関係者の議論を注目する必要がある」としている。

 最後にグループとして、今シノドスの最終文書に、若者たちに対する教会の積極的な展望を、次の点で示すように求めている。

 ・変化する世界における信頼性 ・秘跡や信仰上の判断における公正性 ・カリスマ的な現象 ・公正な裁判の名中で、不正を公正に裁くことの可能性

 

*スペイン語グループ「偏見なしに若者たちの声を聴く」

 スペイン語グループBはレポートで、シノドスの準備書面について、教会と若者たちを区別しているように見える、と指摘、「まるで若者たちが教会でないかのようだ。若者たちは教会。教会の一部であり、教会を構成している存在だ」と強調した。

 また、このグループのメンバーたちは、シノドスの最終文書がカトリック信徒の若者たちだけでなく、若者一般に宛てたものになるように、特に言及。「カトリック教会は、謙遜の心をもって、すべての人にアプローチし、愛の喜びの内に自分たちの生活の感覚を持てるように助けなければならない」とした。

 グループAも、準備書面は、これまで2年間のシノドス準備期間中の話し合いで若者たちが語ったことを反映しており、若者たちは「私たちに教会に自分たちの空間を開けてくれるように求め、若者たちには大きな価値があり、間違いを犯す権利があることを認識している」と指摘。グループBとともに、今回のシノドスが先に二回開かれた「家庭」をテーマとするシノドスの延長上に置かれるべきだ、と強調した。

 他に、両グループがそろって提起したのは、母親の責任に帰せられることの多い「信仰伝達」における「父親の役割」の再強化だ。

 「私たちは、誰に話しかけているかについてはっきりしなければならない」とするグループAは「若者たちは、キリスト教徒、受洗者である前に『人』だ。だから、シノドスの最終文書は、対象を一般の若者まで広げて記述する必要がある。私たちは、この世界の一般の若者たちに対して話しているのだ」と主張した。

 また両グループは、最終文書は親しみやすいものにする必要があり、そのために、音響映像の助けを借りることも含めて、これまでとは「異なった様式」を取ることになろう、とした。

 グループAはまた、若者たちは宗教と霊的なものに関心を持っているが、「関心はカトリック教会まで届いていない」と指摘したうえで、要点を三つ示したー若者の声を聴くために「イエスのなさり方のように、自由に、共感を持ち、偏見なしに」若者たちの声を聴くこと、「教会を傷つけるのに加えて、イエスの弟子たちであることに反する行為」である性的虐待、そして「社会と教会の構造を変える役割を若者たちに与えること」だ。

 二つ目のグループは、準備書面の第一部の一つ一つのポイントに目を通し、用語の変更、繰り返し使われている形容詞の削除、シノドスの最終文書とするために不足している様々な点を指摘した。その中には、準備書面で使われている “gender”という言葉を “sex” あるいは “sexual orientation”という言葉に変更するべきだ、との主張も入っている。

*ポルトガル語グループ「若者の成長に必要な父母の役割が認識されない?」

 他の多くのグループと同様に、このグループも、教会が若者たちに届くことの必要性を強調し、教会はデジタルの世界に密着する必要がある、と指摘した。

 ブラジル、ポルトガル、そしていくつかのアフリカの国から来た高位聖職者は「若者の人生における家庭の基本的役割と父母の役割の自己認識の危機」を重視した。

 また「いくつかの文脈」の中で、教会は「身体と性行為についてのキリスト教の人類学的な見方」を若者に適切に伝えることに困難さを抱えているが、「教会は若者たちと対話する経験があり、この分野でもっと認識を共有できる仕組みをもっている」との見方を示した。

 さらに、若者たちとミサ典礼との関係についても議論し、多くの所で、もっと深くかかわりたい、と望む若者がいる一方、ミサ典礼への参加は空々しいと感じている者もいる、との指摘もあった。

 若者たちと奉献生活との関係について、とくに次の4つの分野で刷新が必要、と主張した。

 ・形成 ・権威者との関係と従順 ・男女の相互補完性 ・管理運営と物品の使用

 なお、ポルトガル語を使用するグループによる小会議が開かれたのは、1960年代にパウロ6世によって始められたシノドスの歴史で初めてのこと。世界でポルトガル語を話す人はアフリカ、中南米、欧州あわせて3億5000万人もいることから、このグループの恒久化を望む声が出された。

*イタリア語グループ「”性的虐待”か加速する教会変革の緊急性・若い移民たちへの対処

 イタリア語の第一グループでは、4つの点がとくに課題として挙げられた。一つは教会自身の変革を進める取り組みの「緊急性」で、転換の一部はその困難さゆえに、教会の指導者たちはしばしば若者たちと同じ考えを抱いている-若者たちと互いに距離を置いている。

 緊急性と共に求められているのは、性的虐待の醜態が若者たちにもたらしたダメージと権威者の虐待を「認識」すること。「このことゆえに、若者たちの成長の過程で彼らと共に歩むために自己を改める態度をとることが、全教会にとって緊急であると感じられている」と強調している。

 そして若者たちは教会の一部であり、内包されねばならず、そうすることで、彼らは「自分たちはよそ者」と感じることがなくなる、とも主張。司牧の分野では、「若者とともに、ではなく、若者たちのために主導権を発揮」しようとする危険が存在する、と指摘している。

 さらに、「信仰を伝える方法」を見つける必要も強調した。これは西欧世界だけの課題ではなく、全世界にとっての課題であり、しばしば「自己中心的な包括的、心理学的な幸せ」に矮小化され、秘跡と教会共同体から引き離されたものとなる「霊的生活」の問題を伴っている、との見方を示した。

 第二グループでは、福音宣教省長官のフェルナンド・フィローニ枢機卿がリーダーを務め、性行為と移民の問題に重点が置かれた。

 移民の問題では、とくに、若い移民たち、戦争・飢餓・貧困・腐敗・民主政治の欠落の中で生きている若者たち、そして「非現実的な幸せの幻想に騙される」若者たちの問題が取り上げられた。移民による人口動態の変化にも焦点が当てられ、移民たちに「安全で法的に保障された手段」を提供するための国際的な協力の必要性が強調された。移民の「第二世代」ー彼らの子供たちーの問題にも触れた。時として、彼らは現地社会に溶け込むのに苦闘し、生活の根を下ろすの難しいことを知り、しばしば「浪費の文化」の犠牲となっている。

 性行為の問題については、これを若者たちが典型的に多くの疑問を抱く分野であり、この問題に関する教会の教えが受け入れがたいと感じている、と指摘し、この面で若者たちを助けるために、「彼らとはっきりと、深い人間性と共感をもって話す人が必要である」と強調した。

 第三グループは、イタリア、エジプト、エチオピア、ハンガリー、レバノン、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、スロバキア、アイスランド、そして韓国と多様な国々から人々で構成されているが、司教たちがもつ「認識と評価に様々な違いがある」ことを確認した。

 ドイツ人たちのように、このグループは、準備文書よりもデジタルの世界に懸念をもっており、「20年前、若者たちが抱く大衆的な夢に焦点が当てられたように、誰もが制御し順応する”砦”の革新的な体験の中で、ウェブの横断的な範囲が逆に縮小している」とした。

 また、イタリアは第二次世界大戦以最悪の欧州の難民危機に締め付けられており、第三グループがこの問題を強調しているのは、驚くべき事ではない。「移民問題はもう一つの大きなテーマ。それは”古典的現象”であり、もはや緊急性の高い問題ではないが、「時の真のしるし」-あらゆるレベルで聖霊と一致する教会が、どうしても取り上げずにはいられず、取り上げることで、決定的に歴史的に避けがたい現実に心を開くように諸文化を助けること-となっているのだ」と説明した。

 そして最後に、教会における女性の在り方について、「その役割を巡る不毛な対立」の泥沼にはまるのではなく、「男女両性の尊厳によりよく対応する人間形成を通して、神の王国の建設の責任を生産的に分かち合うことに注力する方向」で議論することを提唱した。

 

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2018年10月10日