・教皇が「軽微の体調不良」で27日の恒例行事の一部をお休みに

Pope Francis falls ill in virus-stricken Italy

Pope Francis blows his nose as he leads the Ash Wednesday Mass which opened Lent at Santa Sabina Church in Rome on Feb. 26. (Photo: Albert Pizzoli/AFP)

(2020.2.28 カトリック・あい)

 灰の水曜日の翌日の27日、ローマのラテラノの聖ヨハネ大聖堂で、ローマ教区の主任司祭たちの集いが行われたが、恒例の教皇フランシスコによる講話と司祭たちへの赦しの秘跡は、中止された。準備されていた講話は、ローマ教区教皇代理司教アンジェロ・デ・ドナーティス枢機卿に託された。

 バチカン報道官は、教皇の講話などの中止の理由を、「軽微の体調不良のため」としているが、新型コロナウイルスについて検査を受けられたかどうかについては明らかにしなかった。イタリアではこれまでに655人の感染が確認され、17人が亡くなるなど、欧州各国の中で最多の感染者が出ていることから、大事をとられたものと見られる。

 なお、教皇は27日、バチカンの宿舎、サンタ・マルタ館の礼拝堂での朝のミサのほか、「世界カトリック環境運動」関係者との出会いなどは、予定通りこなされている。

 教皇はこれまで青年時代の20代前半に結核で肺の取り除かれたが、その後は健康でおられる。2013年に教皇就任以来、毎年平均4回の外国訪問をこなすなど、精力的に活動されているが、83歳のご高齢もあり、坐骨神経痛による脚の痛みで定期的な理学療法を受けておられる、という。

 

 

 

 

2020年2月28日

教皇、バチカン外交官の卵たちに一年間の宣教経験を義務付け

   教皇フランシスコが、教皇庁立教会アカデミー会長に宛てた書簡の中で、バチカン外交官の育成にあたって1年の宣教経験を義務づけを求めたことがあきらかになった。当然の判断と思われるが、司祭として当然の宣教司牧の現場での訓練がされてこなかったことに、強い違和感を感じる。

[2020.2.17バチカン放送]

  教皇フランシスコは、教皇庁立教会アカデミー会長ジョセフ・マリーノ大司教に宛てた書簡で、同アカデミーで学ぶ司祭のため、12カ月の宣教経験をカリキュラムに求める旨を明らかにされた。 教皇庁立教会アカデミーは、教皇庁の外交官等を養成する歴史ある機関。教皇は、アマゾン地域をテーマにしたシノドス閉会前の講話でも、その必要性に触れていた。

   教皇フランシスコは、2月11日付の書簡で、「教皇庁の外交に携わる準備をしている司祭たちが、1つの教区において、1年間の宣教に従事することを希望する」とされ、「このような宣教体験が司祭職の準備・開始の段階にあるすべての若い人々、特に将来、教皇庁の外交部門で働くよう期待され、諸国や地方教会に派遣される人々に役立つことを確信している」と言明された。

  そして、拡大する教会と世界の課題に前向きに対応するために、教皇庁の未来の外交官たちが、堅固な司祭的・司牧的養成と、アカデミーにおける専門的な育成に加え、「自分の教区外における個人的な宣教体験」を通し、「現地の日常的な宣教活動に参加しながら、宣教地の教会と歩みを共にする」ことが必要と強調された。

   この宣教体験の義務付けは、同アカデミーの2020年-2021年度新入生より実施される。

2020年2月19日

・”暫定合意”の重要性と対話継続を確認-バチカン外務局長と中国外相が会談

Archbishop Paul Richard Gallagher, Holy See’s Secretary for Relations with States meets His Excellency Mr. Wang Yi, Minister of Foreign Affairs of the PRCギャラガー・バチカン国務省外務局長と王毅・中国外相(VaticanNews )

 世界各国の首脳や閣僚などが安全保障問題について話し合う「ミュンヘン安全保障会議」が14日からドイツ・ミュンヘンで3日間の予定で始まった。会議にはフランスのマクロン大統領やアメリカのポンペイオ国務長官、中国の王毅外相など世界各国の首脳や閣僚ら100人以上が参加し、日本からは茂木外相と河野防衛相が出席している。

 初日14日の冒頭に演説したドイツのシュタインマイヤー大統領は、近隣国と衝突する中国の南シナ海進出やトランプ米政権の自国第一主義に言及し、「平和な世界を作るための国際協調という目標から年々遠ざかっている」と危機感を強調するとともに「国際協調や国家間の結び付きが平和を構築する」と各国の努力を訴えた。

 会議では、安全保障や経済政策上のリスクとなっている新型コロナウイルス感染対策や緊張が続くシリアなど中東情勢などが議論の中心となる模様だが、バチカンを代表して出席中のポール・ギャラガー国務省外務局長が14日、中国の王毅外相と会談した。。

 現地時間14日夕、バチカン広報が声明によると、会談は「友好的な雰囲気の中で」行われ、「長期にわたって、前向きに発展してきた両国の関係」について話し合った。具体的には、一昨年9月22日にバチカンと中国が署名した「中国国内での司教任命に関する暫定合意の重要性」を強く認識し、中国におけるカトリック教会の活動と中国人民の利益を促進するために、二国間の継続的な対話を進めることに前向きの意志」を改めて確認。「新型コロナウイルスの撲滅のために払われている努力、感染者への連帯に謝意が表明された」としている。

 また、両者は、世界の平和を促進するための「より大きな国際協力への熱意」と「異文化間の対話と人権に関する考察が交わされた」と表明した。

 なお、新型コロナウイルスの世界的な流行に関しては、教皇フランシスは12日の一般謁見で、これによって影響を受けているすべての人々のために祈り、感染源となり、特に大きな被害を受けている中国の兄弟姉妹のために祈ることを勧め、感染したすべての人が速やかに回復するよう希望を表明されている。

 

 

2020年2月15日

・使徒的勧告「愛するアマゾン」発表-社会、文化、エコロジー、そして教会の夢

教皇フランシスコの使徒的勧告「ケリーダ・アマゾニア」発表

(2020.2.12 バチカン放送)

 アマゾン地域をめぐるシノドス後の教皇フランシスコの使徒的勧告「ケリーダ・アマゾニア(愛するアマゾン)- 神の民とすべての善意の人々に」が12日、発表された。

 バチカンでは昨年10月6日から27日まで、「アマゾン、教会と統合的エコロジーのための新たな歩み」をテーマに「アマゾン周辺地域のための特別シノドス(世界代表司教会議)」が開かれた。

 使徒的勧告は、このシノドスの成果を受け、福音宣教、環境保護、貧しい人々への配慮などにおける、新たな歩みの指針を示すもので、前書きと、第1章「社会の夢」、第2章「文化の夢」、第3章「エコロジーの夢」、第4章「教会の夢」で構成されている。

 バチカン放送では、使徒的勧告の主なポイントを章を追って紹介する。

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 「愛するアマゾンは、世界を前に、すべてのその輝き、そのドラマ、その神秘を示している」ー使徒的勧告は、このような一文で始まる。

 教皇はその前書きの部分(2-4)で、アマゾン地域諸国の司教協議会の資料や、アマゾンにゆかりの深い作家たちの詩を豊かに引用した「この使徒的勧告の意味」を述べている。そして、同文書を通して、このシノドスが教皇ご自身に与えた影響を表現することを望んだ、と強調されている。

 さらに、この使徒的勧告は「シノドスで採択された最終文書を差し替えるものでも、繰り返すものでもない」とし、「この勧告全体を熟読し、全教会がこれに耳を傾け、豊かにされると共に、アマゾン地域の教会がこの勧告の具体的な適用に努力する」ことを願われ、「アマゾンの夢」(5-7)を分かち合い、その未来に共に関心を持つことを希望されている。

 この勧告で教皇は、アマゾンの「4つの大きな夢」として、貧しい人のために闘う「社会の夢」、豊かな文化を守る「文化の夢」、美しい自然を保護する「エコロジーの夢」、アマゾンにおいてキリスト教共同体が取り組み、具体化すべき「教会の夢」を挙げている。

【第1章】「社会の夢」

*虐げられた人々に寄り添う教会

 第1章は、アマゾンの「社会的な夢」 (8)について記し、真の「エコロジー的アプローチ」とは、「社会的アプローチ」でもあるという観点から、先住民族の知恵に基づく生活を称えると共に、環境保護だけを絶対目標とする傾向に警戒を呼びかけている。

 また、「不正義と犯罪」(9-14)について、教皇は、ベネディクト16世がすでに、アマゾンの破壊を告発していたことを思い起こされ、「先住民族は地域の権力と外部の権力の双方への隷属を感じている。破壊・殺害・社会的腐敗を生む経済活動は、不正義と犯罪に値するもの」と語り、ヨハネ・パウロ2世が指摘したように、「グローバル化が新たな植民地主義となってはならない」と強調している。

*アマゾンの未来について貧しい人々の声に耳を傾ける

 そして、これらの多くの不正を前に、教皇は「恥じ、赦しを乞う」よう(15-19)に促し、「連帯と発展のネットワーク」が必要であり、この問題に取り組むよう、政治家をはじめすべての人に求め、共同体意識をテーマに考察している(20-22)。

 また、アマゾンの人々にとって「人間関係は自然と深く結びついているために、都市に移住することは、真の切り離しを意味している」と指摘。他の問題として、教育の不備(23-25)、社会的対話(26-27)、国家や制度を蝕む腐敗に触れ、アマゾンが「社会的対話の場所」となり、貧しい人々の声が「一番力強い声」となるように、と願われた。

【第2章】「文化の夢」

*アマゾンの多様性を大切に

 第2章は、アマゾンの「文化的な夢」について語っている。教皇は「アマゾンの発展を推進する」とは、「文化的な植民地化」を意味するものではないと明言 (28)。「アマゾンの多様性」に満ちた姿を示し(29-32)、ポストモダンの植民地化と闘う必要を述べている。

 さらに、「ルーツを守ること」をアマゾンの緊急の課題とする。回勅「ラウダート・シ」と使徒的勧告「クリストゥス・ヴィヴィト」を引用しつつ、「人類の消費的ビジョン」が「文化の画一化」をもたらす傾向、特にそれが若者に与える影響を指摘。ルーツを大切にし、失われつつある記憶を取り戻すよう求めている。

*閉鎖的な先住主義ではなく、異なる文化間の出会いの必要

 「異なる文化間の出会い」について(36-38)、一見「最も先進的に見える文化」でも、「自然に結ばれた文化の宝を発展させた」人々から多くを学ぶことができる、と述べ、相互の違いを、ぶつかり合う「前線」ではなく、「橋」とするべき、としている。また、「脅かされる文化、危機にある民族」に言及しつつ(39-40)、アマゾンにおけるあらゆる計画が人々の権利を尊重したものであるように、と希望している。

【第3章】「エコロジーの夢」

環境への配慮と人々への配慮の一致を

 第3章は、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」と間接的につながる「エコロジー的な夢」をテーマとする。 冒頭では、アマゾンにおける人間と自然の深い関係が強調される。主が私たちを大切にされるように、私たちの兄弟を大切にすることが「私たちに必要な最初のエコロジー」と教皇は言う。

 環境への配慮と貧しい人々への配慮は「切り離せないもの」だ。教皇は「水」への関心を喚起し、パブロ・ネルーダや他の詩人たちの言葉を通して、アマゾン川の偉大さと美しさを見つめ、「自然を圧迫する消費主義からの解放」を説いている。

 

*アマゾンの叫びを聴く、持続可能な発展を

 教皇は「アマゾンの叫び」に耳を傾けることが急務、と強調(47-52)。そして、地球のバランスは、地球自体の健康にかかっていることを指摘した。

 アマゾンには「地域以外の国々の強い利害も絡んでいるが、地元国の政府の責任を確固とすることが、地域の問題解決のために不可欠」としたうえで、持続可能な発展のためには、住民が諸計画について十分に情報を得ることが大切であり、不可侵の限界を示す規範を設けることが必要、と主張された。

 また、「先住民族に耳を傾け、アマゾンを利用するだけなく、愛することを学ぶ」ことを希望された。「エコロジー的な教育と習慣の重要性」についても言及、「エコロジーにおいて、技術面だけでなく、教育的側面にも注意を向けるように」と求めている。

 

【第4章】「教会の夢」

*「アマゾンの顔」をもつ教会を

 最終章の第4章は、「教会的な夢」をめぐり、直接、カトリックの司牧者と信徒たちに向けられている。 教皇は大きな宣教的告知をもって、「アマゾンの顔をもつ教会を発展させる」よう求めている。「社会的メッセージをもたらすだけでは十分ではありません」とし、「福音の告知の無い教会は、単なるNGOになってしまう」と注意している。そして、「インカルチュレーション」について語り、それは「アマゾンの文化に福音の満ち満てる光をもたらすプロセスです」と強調された。

アマゾンにおける福音の新たなインカルチュレーション

 さらに、アマゾンにおけるインカルチュレーションの道に深い視線を注がれ(70-74)、「本来の共同体に存在していた価値は、福音宣教において考慮される必要があります」と説いている。「社会的・霊的インカルチュレーション」(75-76)を語る中で、「アマゾンの多くの貧しい人々の状況を前に、インカルチュレーションが社会的性質を持たざるをえないが、それを霊的要素によって補う必要がある」とされた。

 

*貧しい人をはじめ、すべての人が秘跡を受けられるように

 教皇は「アマゾンの聖性の出発点は、他の地域のモデルの模倣であってはならない」と述べる (77-80)。

 「先住民族のシンボルを、偶像崇拝的な定義をすることなしに、受け入れることは可能」とし、「霊的な意味に満ちた存在」を当然のように「異教的誤り」と決めつけてはならず、いくつかの宗教的祭日についても、「浄化のプロセス」を経つつ「聖なる意味を含有するもの」と価値づけることができる、との判断を示している。

 また、「典礼のインカルチュレーション」にも言及(81-84)し、教皇は、すでに第2バチカン公会議で、先住民族における典礼上のインカルチュレーションに対する努力が求められていることを、ここで確認している。 昨年のアマゾン・シノドスで「アマゾン典礼」起草の提案がされたことについて、「秘跡には、貧しい人々をはじめ、すべての人が与ることができなければならない」と述べ、使徒的勧告「愛の喜び」を引用し「教会が『関所』とならないように注意している。

*ラテンアメリカの司教らは、アマゾンに宣教師派遣を

 勧告では、「教会の役務のインカルチュレーション」についても記し、「教会はこれに対し勇気ある回答をすべきです」(85-90)としたうえで、「出来る限り、ミサを捧げること」が保証されるべき、と強調。「司祭に最も特有なものを見極める」ことが重要とし、「聖職位階の中で、司祭だけがミサを執行することができる」と言明した。

 「遠隔地で司祭の役務をいかに保証するか」という課題について、ラテンアメリカをはじめ、すべての司教たちに対して、「宣教者的召命のある人々」に、「アマゾンへの宣教を目指すよう導く」とともに、「司祭育成について見直す」ように、理解と協力を求めている。

 

*共同体における信徒の役割の重要さを促す

 また勧告は、「生命あふれる共同体」について語り(91-98)、信徒たちが「重要な責務」を担う必要を強調。「これは聖職者の不足を補うためだけではありません… 信徒の活躍が、共同体に新しい命を与えないなら、それは限られた目標に終わってしまいます」と指摘し、「新しい信徒の役割… 信徒が主役となることを通して、教会はアマゾン地域の課題に応えることができるのです」と述べている。同時に、奉献生活者たちの特別な役割にも期待を示している。

 

*女性に、聖職者化とは異なる新しいスペースを

 女性の能力と賜物(99-103)については、アマゾンでいくつかの共同体が「強く寛大な女性たちの存在のおかげ」で支えられていることを認めつつ、「単に、教会が機能的な組織に矮小化」されないように注意している。

 また、「マリアの強さと優しさ」の延長としての女性的な貢献を認める一方で、女性の「聖職者化」は退け、「司教の公式な認可のもと、共同体の決定において示される『女性の新しい奉仕』が生まれる」ように促している。

 

*アマゾンの貧しい人々のために共に闘うキリスト者

 教皇は、「闘争を超えた、新しい地平を広げる必要」を説き (104-105)、アマゾンが「部分的な見方に閉じ込められた、限られた視点を、超えていく」よう促している。

 最終章は「エキュメニカルかつ宗教を超えた共存」をテーマに締めくくられる(106-110)。教皇は信者たちに、「対話と、共通善のために共に行動するためのスペースを見つけるように」求め、「アマゾンの貧しい人々を守るために、共に闘い、祈り、働くように」と呼びかけている。

 

*アマゾンとその人々をマリアに託して

 勧告を、アマゾンの母マリアへの祈りで締めくくられる(111)。

 「母よ、アマゾンの貧しい人々を見つめてください。彼らの家はあさましい人々の利害のために壊されました。…権力者たちの心に触れてください。もし手遅れでないならば、まだ生きているものを救えるように、私たちを召してください」

(編集「カトリック・あい」)

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*勧告の公式英語版全文以下の通り*

POST-SYNODAL APOSTOLIC EXHORTATION QUERIDA AMAZONIA OF THE HOLY FATHER FRANCIS 

   TO THE PEOPLE OF GOD AND TO ALL PERSONS OF GOOD WILL

1. The beloved Amazon region stands before the world in all its splendour, its drama and its mystery. God granted us the grace of focusing on that region during the Synod held in Rome from 6-27 October last, which concluded by issuing its Final Document, The Amazon: New Paths for the Church and for an Integral Ecology.

The significance of this Exhortation

2. During the Synod, I listened to the presentations and read with interest the reports of the discussion groups. In this Exhortation, I wish to offer my own response to this process of dialogue and discernment. I will not go into all of the issues treated at length in the final document. Nor do I claim to replace that text or to duplicate it. I wish merely to propose a brief framework for reflection that can apply concretely to the life of the Amazon region a synthesis of some of the larger concerns that I have expressed in earlier documents, and that can help guide us to a harmonious, creative and fruitful reception of the entire synodal process.

3. At the same time, I would like to officially present the Final Document, which sets forth the conclusions of the Synod, which profited from the participation of many people who know better than myself or the Roman Curia the problems and issues of the Amazon region, since they live there, they experience its suffering and they love it passionately. I have preferred not to cite the Final Document in this Exhortation, because I would encourage everyone to read it in full.

4. May God grant that the entire Church be enriched and challenged by the work of the synodal assembly. May the pastors, consecrated men and women and lay faithful of the Amazon region strive to apply it, and may it inspire in some way every person of good will.

Dreams for the Amazon region

5. The Amazon region is a multinational and interconnected whole, a great biome shared by nine countries: Brazil, Bolivia, Colombia, Ecuador, Guyana, Peru, Surinam, Venezuela and the territory of French Guiana. Yet I am addressing the present Exhortation to the whole world. I am doing so to help awaken their affection and concern for that land which is also “ours”, and to invite them to value it and acknowledge it as a sacred mystery. But also because the Church’s concern for the problems of this area obliges us to discuss, however briefly, a number of other important issues that can assist other areas of our world in confronting their own challenges.

6. Everything that the Church has to offer must become incarnate in a distinctive way in each part of the world, so that the Bride of Christ can take on a variety of faces that better manifest the inexhaustible riches of God’s grace. Preaching must become incarnate, spirituality must become incarnate, ecclesial structures must become incarnate. For this reason, I humbly propose in this brief Exhortation to speak of four great dreams that the Amazon region inspires in me.

7. I dream of an Amazon region that fights for the rights of the poor, the original peoples and the least of our brothers and sisters, where their voices can be heard and their dignity advanced.

I dream of an Amazon region that can preserve its distinctive cultural riches, where the beauty of our humanity shines forth in so many varied ways.

I dream of an Amazon region that can jealously preserve its overwhelming natural beauty and the superabundant life teeming in its rivers and forests.

I dream of Christian communities capable of generous commitment, incarnate in the Amazon region, and giving the Church new faces with Amazonian features.

CHAPTER ONE
A SOCIAL DREAM

8. Our dream is that of an Amazon region that can integrate and promote all its inhabitants, enabling them to enjoy “good living”. But this calls for a prophetic plea and an arduous effort on behalf of the poor. For though it is true that the Amazon region is facing an ecological disaster, it also has to be made clear that “a true ecological approach always becomes a social approach; it must integrate questions of justice in debates on the environment, so as to hear both the cry of the earth and the cry of the poor”.[1] We do not need an environmentalism “that is concerned for the biome but ignores the Amazonian peoples”.[2]

Injustice and crime

9. The colonizing interests that have continued to expand – legally and illegally – the timber and mining industries, and have expelled or marginalized the indigenous peoples, the river people and those of African descent, are provoking a cry that rises up to heaven:

“Many are the trees
where torture dwelt,
and vast are the forests
purchased with a thousand deaths”.[3]

“The timber merchants have members of parliament,
while our Amazonia has no one to defend her…
They exiled the parrots and the monkeys…
the chestnut harvests will never be the same”.[4]

10. This encouraged the more recent migrations of the indigenous peoples to the outskirts of the cities. There they find no real freedom from their troubles, but rather the worst forms of enslavement, subjection and poverty. Those cities, marked by great inequality, where the majority of the population of the Amazon region now live, are witnessing an increase of xenophobia, sexual exploitation and human trafficking. The cry of the Amazon region does not rise up from the depths of the forests alone, but from the streets of its cities as well.

11. There is no need for me to repeat here the ample diagnoses presented before and during the Synod. Yet let us at least listen to one of the voices that was heard: “We are being affected by the timber merchants, ranchers and other third parties. Threatened by economic actors who import a model alien to our territories. The timber industries enter the territory in order to exploit the forest, whereas we protect the forest for the sake of our children, for there we have meat, fish, medicinal plants, fruit trees… The construction of hydroelectric plants and the project of waterways has an impact on the river and on the land… We are a region of stolen territories”.[5]

12. My predecessor Benedict XVI condemned “the devastation of the environment and the Amazon basin, and the threats against the human dignity of the peoples living in that region”.[6] I would add that many of these tragic situations were related to a false “mystique of the Amazon”. It is well known that, ever since the final decades of the last century, the Amazon region has been presented as an enormous empty space to be filled, a source of raw resources to be developed, a wild expanse to be domesticated. None of this recognizes the rights of the original peoples; it simply ignores them as if they did not exist, or acts as if the lands on which they live do not belong to them. Even in the education of children and young people, the indigenous were viewed as intruders or usurpers. Their lives, their concerns, their ways of struggling to survive were of no interest. They were considered more an obstacle needing to be eliminated than as human beings with the same dignity as others and possessed of their own acquired rights.

13. Certain slogans contributed to this mistaken notion, including the slogan “Don’t give it away!”,[7] as if this sort of takeover could only come from other countries, whereas in fact local powers, using the excuse of development, were also party to agreements aimed at razing the forest – together with the life forms that it shelters – with impunity and indiscriminately. The original peoples often witnessed helplessly the destruction of the natural surroundings that enabled them to be nourished and kept healthy, to survive and to preserve a way of life in a culture which gave them identity and meaning. The imbalance of power is enormous; the weak have no means of defending themselves, while the winners take it all, and “the needy nations grow more destitute, while the rich nations become even richer”.[8]

14. The businesses, national or international, which harm the Amazon and fail to respect the right of the original peoples to the land and its boundaries, and to self-determination and prior consent, should be called for what they are: injustice and crime. When certain businesses out for quick profit appropriate lands and end up privatizing even potable water, or when local authorities give free access to the timber companies, mining or oil projects, and other businesses that raze the forests and pollute the environment, economic relationships are unduly altered and become an instrument of death. They frequently resort to utterly unethical means such as penalizing protests and even taking the lives of indigenous peoples who oppose projects, intentionally setting forest fires, and suborning politicians and the indigenous people themselves. All this accompanied by grave violations of human rights and new forms of slavery affecting women in particular, the scourge of drug trafficking used as a way of subjecting the indigenous peoples, or human trafficking that exploits those expelled from their cultural context. We cannot allow globalization to become “a new version of colonialism”.[9]

To feel outrage and to beg forgiveness

15. We need to feel outrage,[10] as Moses did (cf. Ex 11:8), as Jesus did (cf. Mk 3:5), as God does in the face of injustice (cf. Am 2:4-8; 5:7-12; Ps 106:40). It is not good for us to become inured to evil; it is not good when our social consciousness is dulled before “an exploitation that is leaving destruction and even death throughout our region… jeopardizing the lives of millions of people and especially the habitat of peasants and indigenous peoples”.[11] The incidents of injustice and cruelty that took place in the Amazon region even in the last century ought to provoke profound abhorrence, but they should also make us more sensitive to the need to acknowledge current forms of human exploitation, abuse and killing. With regard to the shameful past, let us listen, for example, to an account of the sufferings of the indigenous people during the “rubber age” in the Venezuelan Amazon region: “They gave no money to the indigenous people, but only merchandise, for which they charged dearly and the people never finished paying for it… They would pay for it but they were told, “You are racking up a debt” and the indigenous person would have to go back to work… More than twenty ye’kuana towns were entirely razed to the ground. The ye’kuana women were raped and their breasts amputated, pregnant women had their children torn from the womb, men had their fingers or hands cut off so they could not sail… along with other scenes of the most absurd sadism”.[12]

16. Such a history of suffering and contempt does not heal easily. Nor has colonization ended; in many places, it has been changed, disguised and concealed,[13] while losing none of its contempt for the life of the poor and the fragility of the environment. As the bishops of the Brazilian Amazon have noted, “the history of the Amazon region shows that it was always a minority that profited from the poverty of the majority and from the unscrupulous plundering of the region’s natural riches, God’s gift to the peoples who have lived there for millennia and to the immigrants who arrived in centuries past”.[14]

17. Yet even as we feel this healthy sense of indignation, we are reminded that it is possible to overcome the various colonizing mentalities and to build networks of solidarity and development. “The challenge, in short, is to ensure a globalization in solidarity, a globalization without marginalization”.[15] Alternatives can be sought for sustainable herding and agriculture, sources of energy that do not pollute, dignified means of employment that do not entail the destruction of the natural environment and of cultures. At the same time, the indigenous peoples and the poor need to be given an education suited to developing their abilities and empowering them. These are the goals to which the genuine talent and shrewdness of political leaders should be directed. Not as a way of restoring to the dead the life taken from them, or even of compensating the survivors of that carnage, but at least today to be authentically human.

18. It is encouraging to remember that amid the grave excesses of the colonization of the Amazon region, so full of “contradictions and suffering”,[16] many missionaries came to bring the Gospel, leaving their homes and leading an austere and demanding life alongside those who were most defenceless. We know that not all of them were exemplary, yet the work of those who remained faithful to the Gospel also inspired “a legislation like the Laws of the Indies, which defended the dignity of the indigenous peoples from violence against their peoples and territories”.[17] Since it was often the priests who protected the indigenous peoples from their plunderers and abusers, the missionaries recounted that “they begged insistently that we not abandon them and they extorted from us the promise that we would return”.[18]

19. Today the Church can be no less committed. She is called to hear the plea of the Amazonian peoples and “to exercise with transparency her prophetic mission”.[19] At the same time, since we cannot deny that the wheat was mixed with the tares, and that the missionaries did not always take the side of the oppressed, I express my shame and once more “I humbly ask forgiveness, not only for the offenses of the Church herself, but for the crimes committed against the native peoples during the so-called conquest of America”[20] as well as for the terrible crimes that followed throughout the history of the Amazon region. I thank the members of the original peoples and I repeat: “Your lives cry out… You are living memory of the mission that God has entrusted to us all: the protection of our common home”.[21]

A sense of community

20. Efforts to build a just society require a capacity for fraternity, a spirit of human fellowship. Hence, without diminishing the importance of personal freedom, it is clear that the original peoples of the Amazon region have a strong sense of community. It permeates “their work, their rest, their relationships, their rites and celebrations. Everything is shared; private areas – typical of modernity – are minimal. Life is a communal journey where tasks and responsibilities are apportioned and shared on the basis of the common good. There is no room for the notion of an individual detached from the community or from the land”.[22] Their relationships are steeped in the surrounding nature, which they feel and think of as a reality that integrates society and culture, and a prolongation of their bodies, personal, familial and communal:

“The morning star draws near,
the wings of the hummingbirds flutter;
my heart pounds louder than the cascade:
with your lips I will water the land
as the breeze softly blows among us”.[23]

21. All this makes even more unsettling the sense of bewilderment and uprootedness felt by those indigenous people who feel forced to migrate to the cities, as they attempt to preserve their dignity amid more individualistic urban habitats and a hostile environment. How do we heal all these hurts, how do we bring serenity and meaning to these uprooted lives? Given situations like these, we ought to appreciate and accompany the efforts made by many of those groups to preserve their values and way of life, and to integrate in new situations without losing them, but instead offering them as their own contribution to the common good.

22. Christ redeemed the whole person, and he wishes to restore in each of us the capacity to enter into relationship with others. The Gospel proposes the divine charity welling up in the heart of Christ and generating a pursuit of justice that is at once a hymn of fraternity and of solidarity, an impetus to the culture of encounter. The wisdom of the way of life of the original peoples – for all its limitations – encourages us to deepen this desire. In view of this, the bishops of Ecuador have appealed for “a new social and cultural system which privileges fraternal relations within a framework of acknowledgment and esteem for the different cultures and ecosystems, one capable of opposing every form of discrimination and oppression between human beings”.[24]

Broken institutions

23. In the Encyclical Laudato Si’, I noted that “if everything is related, then the health of the society’s institutions has consequences for the environment and the quality of human life… Within each social stratum, and between them, institutions develop to regulate human relationships. Anything which weakens those institutions has negative consequences, such as injustice, violence and loss of freedom. A number of countries have a relatively low level of institutional effectiveness, which results in greater problems for their people”.[25]

24. Where do the institutions of civil society in the Amazon region stand? The Synod’s Instrumentum Laboris, which synthesizes contributions made by numerous individuals and groups from the Amazon region, speaks of “a culture that poisons the state and its institutions, permeating all social strata, including the indigenous communities. We are talking about a true moral scourge; as a result, there is a loss of confidence in institutions and their representatives, which totally discredits politics and social organizations. The Amazonian peoples are not immune to corruption, and they end up being its principal victims”.[26]

25. Nor can we exclude the possibility that members of the Church have been part of networks of corruption, at times to the point of agreeing to keep silent in exchange for economic assistance for ecclesial works. Precisely for this reason, proposals were made at the Synod to insist that “special attention be paid to the provenance of donations or other kinds of benefits, as well as to investments made by ecclesiastical institutions or individual Christians”.[27]

Social dialogue

26. The Amazon region ought to be a place of social dialogue, especially between the various original peoples, for the sake of developing forms of fellowship and joint struggle. The rest of us are called to participate as “guests” and to seek out with great respect paths of encounter that can enrich the Amazon region. If we wish to dialogue, we should do this in the first place with the poor. They are not just another party to be won over, or merely another individual seated at a table of equals. They are our principal dialogue partners, those from whom we have the most to learn, to whom we need to listen out of a duty of justice, and from whom we must ask permission before presenting our proposals. Their words, their hopes and their fears should be the most authoritative voice at any table of dialogue on the Amazon region. And the great question is: “What is their idea of ‘good living’ for themselves and for those who will come after them?”

27. Dialogue must not only favour the preferential option on behalf of the poor, the marginalized and the excluded, but also respect them as having a leading role to play. Others must be acknowledged and esteemed precisely as others, each with his or her own feelings, choices and ways of living and working. Otherwise, the result would be, once again, “a plan drawn up by the few for the few”,[28] if not “a consensus on paper or a transient peace for a contented minority”.[29] Should this be the case, “a prophetic voice must be raised”,[30] and we as Christians are called to make it heard.

This gives rise to the following dream.

 

CHAPTER TWO
A CULTURAL DREAM

28. The important thing is to promote the Amazon region, but this does not imply colonizing it culturally but instead helping it to bring out the best of itself. That is in fact what education is meant to do: to cultivate without uprooting, to foster growth without weakening identity, to be supportive without being invasive. Just as there are potentialities in nature that could be lost forever, something similar could happen with cultures that have a message yet to be heard, but are now more than ever under threat.

The Amazonian polyhedron

29. The Amazon region is host to many peoples and nationalities, and over 110 indigenous peoples in voluntary isolation (IPVI).[31] Their situation is very tenuous and many feel that they are the last bearers of a treasure doomed to disappear, allowed to survive only if they make no trouble, while the postmodern colonization advances. They should not be viewed as “uncivilized” savages. They are simply heirs to different cultures and other forms of civilization that in earlier times were quite developed.[32]

30. Prior to the colonial period, the population was concentrated on the shores of the rivers and lakes, but the advance of colonization drove the older inhabitants into the interior of the forest. Today, growing desertification once more drives many of them into the outskirts and sidewalks of the cities, at times in dire poverty but also in an inner fragmentation due to the loss of the values that had previously sustained them. There they usually lack the points of reference and the cultural roots that provided them with an identity and a sense of dignity, and they swell the ranks of the outcast. This disrupts the cultural transmission of a wisdom that had been passed down for centuries from generation to generation. Cities, which should be places of encounter, of mutual enrichment and of exchange between different cultures, become a tragic scenario of discarded lives.

31. Each of the peoples that has survived in the Amazon region possesses its own cultural identity and unique richness in our multicultural universe, thanks to the close relationship established by the inhabitants with their surroundings in a non-deterministic symbiosis which is hard to conceive using mental categories imported from without:

“Once there was a countryside, with its river,
its animals, its clouds and its trees.
But sometimes, when the countryside, with its river and trees,
was nowhere to be seen,
those things had to spring up in the mind of a child”.[33]

“Make the river your blood…
Then plant yourself,
blossom and grow:
let your roots sink into the ground
forever and ever,
and then at last
become a canoe,
a skiff, a raft,
soil, a jug,
a farmhouse and a man”.[34]

32. Human groupings, their lifestyles and their worldviews, are as varied as the land itself, since they have had to adapt themselves to geography and its possibilities. Fishers are not the same as hunters, and the gatherers of the interior are not the same as those who cultivate the flood lands. Even now, we see in the Amazon region thousands of indigenous communities, people of African descent, river people and city dwellers, who differ from one another and embrace a great human diversity. In each land and its features, God manifests himself and reflects something of his inexhaustible beauty. Each distinct group, then, in a vital synthesis with its surroundings, develops its own form of wisdom. Those of us who observe this from without should avoid unfair generalizations, simplistic arguments and conclusions drawn only on the basis of our own mindsets and experiences.

Caring for roots

33. Here I would like to point out that “a consumerist vision of human beings, encouraged by the mechanisms of today’s globalized economy, has a leveling effect on cultures, diminishing the immense variety which is the heritage of all humanity”.[35] This especially affects young people, for it has a tendency to “blur what is distinctive about their origins and backgrounds, and turn them into a new line of malleable goods”.[36] In order to prevent this process of human impoverishment, there is a need to care lovingly for our roots, since they are “a fixed point from which we can grow and meet new challenges”.[37] I urge the young people of the Amazon region, especially the indigenous peoples, to “take charge of your roots, because from the roots comes the strength that will make you grow, flourish and bear fruit”.[38] For those of them who are baptized, these roots include the history of the people of Israel and the Church up to our own day. Knowledge of them can bring joy and, above all, a hope capable of inspiring noble and courageous actions.

34. For centuries, the Amazonian peoples passed down their cultural wisdom orally, with myths, legends and tales, as in the case of “those primitive storytellers who traversed the forests bringing stories from town to town, keeping alive a community which, without the umbilical cord of those stories, distance and lack of communication would have fragmented and dissolved”.[39] That is why it is important “to let older people tell their long stories”[40] and for young people to take the time to drink deeply from that source.

35. Although there is a growing risk that this cultural richness will be lost; thanks be to God, in recent years some peoples have taken to writing down their stories and describing the meaning of their customs. In this way, they themselves can explicitly acknowledge that they possess something more than an ethnic identity and that they are bearers of precious personal, family and collective memories. I am pleased to see that people who have lost contact with their roots are trying to recover their damaged memory. Then too, the professional sectors have seen a growing sense of Amazonian identity; even for people who are the descendants of immigrants, the Amazon region has become a source of artistic, literary, musical and cultural inspiration. The various arts, and poetry in particular, have found inspiration in its water, its forests, its seething life, as well as its cultural diversity and its ecological and social challenges.

Intercultural encounter

36. Like all cultural realities, the cultures of the interior Amazon region have their limits. Western urban cultures have them as well. Factors like consumerism, individualism, discrimination, inequality, and any number of others represent the weaker side of supposedly more developed cultures. The ethnic groups that, in interaction with nature, developed a cultural treasure marked by a strong sense of community, readily notice our darker aspects, which we do not recognize in the midst of our alleged progress. Consequently, it will prove beneficial to listen to their experience of life.

37. Starting from our roots, let us sit around the common table, a place of conversation and of shared hopes. In this way our differences, which could seem like a banner or a wall, can become a bridge. Identity and dialogue are not enemies. Our own cultural identity is strengthened and enriched as a result of dialogue with those unlike ourselves. Nor is our authentic identity preserved by an impoverished isolation. Far be it from me to propose a completely enclosed, a-historic, static “indigenism” that would reject any kind of blending (mestizaje). A culture can grow barren when it “becomes inward-looking, and tries to perpetuate obsolete ways of living by rejecting any exchange or debate with regard to the truth about man”.[41] That would be unrealistic, since it is not easy to protect oneself from cultural invasion. For this reason, interest and concern for the cultural values of the indigenous groups should be shared by everyone, for their richness is also our own. If we ourselves do not increase our sense of co-responsibility for the diversity that embellishes our humanity, we can hardly demand that the groups from the interior forest be uncritically open to “civilization”.

38. In the Amazon region, even between the different original peoples, it is possible to develop “intercultural relations where diversity does not mean threat, and does not justify hierarchies of power of some over others, but dialogue between different cultural visions, of celebration, of interrelationship and of revival of hope”.[42]

Endangered cultures, peoples at risk

39. The globalized economy shamelessly damages human, social and cultural richness. The disintegration of families that comes about as a result of forced migrations affects the transmission of values, for “the family is and has always been the social institution that has most contributed to keeping our cultures alive”.[43] Furthermore, “faced with a colonizing invasion of means of mass communication”, there is a need to promote for the original peoples “alternative forms of communication based on their own languages and cultures” and for “the indigenous subjects themselves [to] become present in already existing means of communication”.[44]

40. In any project for the Amazon region, “there is a need to respect the rights of peoples and cultures and to appreciate that the development of a social group presupposes an historical process which takes place within a cultural context and demands the constant and active involvement of local people from within their own culture. Nor can the notion of the quality of life be imposed from without, for quality of life must be understood within the world of symbols and customs proper to each human group”.[45] If the ancestral cultures of the original peoples arose and developed in intimate contact with the natural environment, then it will be hard for them to remain unaffected once that environment is damaged.

This leads us to the next dream.

CHAPTER THREE
AN ECOLOGICAL DREAM

41. In a cultural reality like the Amazon region, where there is such a close relationship between human beings and nature, daily existence is always cosmic. Setting others free from their forms of bondage surely involves caring for the environment and defending it,[46] but, even more, helping the human heart to be open with trust to the God who not only has created all that exists, but has also given us himself in Jesus Christ. The Lord, who is the first to care for us, teaches us to care for our brothers and sisters and the environment which he daily gives us. This is the first ecology that we need.

In the Amazon region, one better understands the words of Benedict XVI when he said that, “alongside the ecology of nature, there exists what can be called a ‘human’ ecology which in turn demands a ‘social’ ecology. All this means that humanity… must be increasingly conscious of the links between natural ecology, or respect for nature, and human ecology”.[47] This insistence that “everything is connected”[48] is particularly true of a territory like the Amazon region.

42. If the care of people and the care of ecosystems are inseparable, this becomes especially important in places where “the forest is not a resource to be exploited; it is a being, or various beings, with which we have to relate”.[49] The wisdom of the original peoples of the Amazon region “inspires care and respect for creation, with a clear consciousness of its limits, and prohibits its abuse. To abuse nature is to abuse our ancestors, our brothers and sisters, creation and the Creator, and to mortgage the future”.[50] When the indigenous peoples “remain on their land, they themselves care for it best”,[51] provided that they do not let themselves be taken in by the siren songs and the self-serving proposals of power groups. The harm done to nature affects those peoples in a very direct and verifiable way, since, in their words, “we are water, air, earth and life of the environment created by God. For this reason, we demand an end to the mistreatment and destruction of mother Earth. The land has blood, and it is bleeding; the multinationals have cut the veins of our mother Earth”.[52]

This dream made of water

43. In the Amazon region, water is queen; the rivers and streams are like veins, and water determines every form of life:

“There, in the dead of summer, when the last gusts from the East subside in the still air, the hydrometer takes the place of the thermometer in determining the weather. Lives depend on a painful alternation of falls and rises in the level of the great rivers. These always swell in an impressive manner. The Amazonas overflows its bed and in just a few days raises the level of its waters… The flooding puts a stop to everything. Caught in the dense foliage of the igarapies, man awaits with rare stoicism the inexorable end of that paradoxical winter of elevated temperatures. The receding of the waters is summer. It is the resurrection of the primitive activity of those who carry on with the only form of life compatible with the unequal extremes of nature that make the continuation of any effort impossible”.[53]

44. The shimmering water of the great Amazon River collects and enlivens all its surroundings:

“Amazonas,
capital of the syllables of water,
father and patriarch, you are
the hidden eternity
of the processes of fertilization;
streams alight upon you like birds”.[54]

45. The Amazon is also the spinal column that creates harmony and unity: “the river does not divide us. It unites us and helps us live together amid different cultures and languages”.[55] While it is true that in these lands there are many “Amazon regions”, the principal axis is the great river, the offspring of many rivers:

“From the high mountain range where the snows are eternal, the water descends and traces a shimmering line along the ancient skin of the rock: the Amazon is born. It is born every second. It descends slowly, a sinuous ray of light, and then swells in the lowland. Rushing upon green spaces, it invents its own path and expands. Underground waters well up to embrace the water that falls from the Andes. From the belly of the pure white clouds, swept by the wind, water falls from heaven. It collects and advances, multiplied in infinite pathways, bathing the immense plain… This is the Great Amazonia, covering the humid tropic with its astonishingly thick forest, vast reaches untouched by man, pulsing with life threading through its deep waters… From the time that men have lived there, there has arisen from the depths of its waters, and running through the heart of its forest, a terrible fear: that its life is slowly but surely coming to an end”.[56]

46. Popular poets, enamoured of its immense beauty, have tried to express the feelings this river evokes and the life that it bestows as it passes amid a dance of dolphins, anacondas, trees and canoes. Yet they also lament the dangers that menace it. Those poets, contemplatives and prophets, help free us from the technocratic and consumerist paradigm that destroys nature and robs us of a truly dignified existence:

“The world is suffering from its feet being turned into rubber, its legs into leather, its body into cloth and its head into steel… The world is suffering from its trees being turned into rifles, its ploughshares into tanks, as the image of the sower scattering seed yields to the tank with its flamethrower, which sows only deserts. Only poetry, with its humble voice, will be able to save this world”.[57]

The cry of the Amazon region

47. Poetry helps give voice to a painful sensation shared by many of us today. The inescapable truth is that, as things stand, this way of treating the Amazon territory spells the end for so much life, for so much beauty, even though people would like to keep thinking that nothing is happening:

“Those who thought that the river was only a piece of rope,
a plaything, were mistaken.
The river is a thin vein on the face of the earth…
The river is a cord enclosing animals and trees.
If pulled too tight, the river could burst.
It could burst and spatter our faces with water and blood”.[58]

48. The equilibrium of our planet also depends on the health of the Amazon region. Together with the biome of the Congo and Borneo, it contains a dazzling diversity of woodlands on which rain cycles, climate balance, and a great variety of living beings also depend. It serves as a great filter of carbon dioxide, which helps avoid the warming of the earth. For the most part, its surface is poor in topsoil, with the result that the forest “really grows on the soil and not from the soil”.[59] When the forest is eliminated, it is not replaced, because all that is left is a terrain with few nutrients that then turns into a dry land or one poor in vegetation. This is quite serious, since the interior of the Amazonian forest contains countless resources that could prove essential for curing diseases. Its fish, fruit and other abundant gifts provide rich nutrition for humanity. Furthermore, in an ecosystem like that of the Amazon region, each part is essential for the preservation of the whole. The lowlands and marine vegetation also need to be fertilized by the alluvium of the Amazon. The cry of the Amazon region reaches everyone because “the conquest and exploitation of resources… has today reached the point of threatening the environment’s hospitable aspect: the environment as ‘resource’ risks threatening the environment as ‘home’”.[60] The interest of a few powerful industries should not be considered more important than the good of the Amazon region and of humanity as a whole.

49. It is not enough to be concerned about preserving the most visible species in danger of extinction. There is a crucial need to realize that “the good functioning of ecosystems also requires fungi, algae, worms, insects, reptiles and an innumerable variety of microorganisms. Some less numerous species, although generally unseen, nonetheless play a critical role in maintaining the equilibrium of a particular place.”[61] This is easily overlooked when evaluating the environmental impact of economic projects of extraction, energy, timber and other industries that destroy and pollute. So too, the water that abounds in the Amazon region is an essential good for human survival, yet the sources of pollution are increasing.[62]

50. Indeed, in addition to the economic interests of local business persons and politicians, there also exist “huge global economic interests”.[63] The answer is not to be found, then, in “internationalizing” the Amazon region,[64] but rather in a greater sense of responsibility on the part of national governments. In this regard, “we cannot fail to praise the commitment of international agencies and civil society organizations which draw public attention to these issues and offer critical cooperation, employing legitimate means of pressure, to ensure that each government carries out its proper and inalienable responsibility to preserve its country’s environment and natural resources, without capitulating to spurious local or international interests”.[65]

51. To protect the Amazon region, it is good to combine ancestral wisdom with contemporary technical knowledge, always working for a sustainable management of the land while also preserving the lifestyle and value systems of those who live there.[66] They, particularly the original peoples, have a right to receive – in addition to basic education – thorough and straightforward information about projects, their extent and their consequences and risks, in order to be able to relate that information to their own interests and their own knowledge of the place, and thus to give or withhold their consent, or to propose alternatives.[67]

52. The powerful are never satisfied with the profits they make, and the resources of economic power greatly increase as a result of scientific and technological advances. For this reason, all of us should insist on the urgent need to establish “a legal framework which can set clear boundaries and ensure the protection of ecosystems… otherwise, the new power structures based on the techno-economic paradigm may overwhelm not only our politics, but also freedom and justice”.[68] If God calls us to listen both to the cry of the poor and that of the earth,[69] then for us, “the cry of the Amazon region to the Creator is similar to the cry of God’s people in Egypt (cf. Ex 3:7). It is a cry of slavery and abandonment pleading for freedom”.[70]

The prophecy of contemplation

53. Frequently we let our consciences be deadened, since “distractions constantly dull our realization of just how limited and finite our world really is”.[71] From a superficial standpoint, we might well think that “things do not look that serious, and the planet could continue as it is for some time. Such evasiveness serves as a license to carrying on with our present lifestyles and models of production and consumption. This is the way human beings contrive to feed their self-destructive vices: trying not to see them, trying not to acknowledge them, delaying the important decisions and pretending that nothing will happen”.[72]

54. In addition, I would also observe that each distinct species has a value in itself, yet “each year sees the disappearance of thousands of plant and animal species which we will never know, which our children will never see, because they have been lost forever. The great majority become extinct for reasons related to human activity. Because of us, thousands of species will no longer give glory to God by their very existence, nor convey their message to us. We have no such right”.[73]

55. From the original peoples, we can learn to contemplate the Amazon region and not simply analyze it, and thus appreciate this precious mystery that transcends us. We can love it, not simply use it, with the result that love can awaken a deep and sincere interest. Even more, we can feel intimately a part of it and not only defend it; then the Amazon region will once more become like a mother to us. For “we do not look at the world from without but from within, conscious of the bonds with which the Father has linked us to all beings”.[74]

56. Let us awaken our God-given aesthetic and contemplative sense that so often we let languish. Let us remember that “if someone has not learned to stop and admire something beautiful, we should not be surprised if he or she treats everything as an object to be used and abused without scruple”.[75] On the other hand, if we enter into communion with the forest, our voices will easily blend with its own and become a prayer: “as we rest in the shade of an ancient eucalyptus, our prayer for light joins in the song of the eternal foliage”.[76] This interior conversion will enable us to weep for the Amazon region and to join in its cry to the Lord.

57. Jesus said: “Are not five sparrows sold for two pennies? Yet not one of them is forgotten in God’s sight” (Lk 12:6). God our Father, who created each being in the universe with infinite love, calls us to be his means for hearing the cry of the Amazon region. If we respond to this heartrending plea, it will become clear that the creatures of the Amazon region are not forgotten by our heavenly Father. For Christians, Jesus himself cries out to us from their midst, “because the risen One is mysteriously holding them to himself and directing them towards fullness as their end. The very flowers of the field and the birds which his human eyes contemplated and admired are now imbued with his radiant presence”.[77] For all these reasons, we believers encounter in the Amazon region a theological locus, a space where God himself reveals himself and summons his sons and daughters.

Ecological education and habits

58. In this regard, we can take one step further and note that an integral ecology cannot be content simply with fine-tuning technical questions or political, juridical and social decisions. The best ecology always has an educational dimension that can encourage the development of new habits in individuals and groups. Sadly, many of those living in the Amazon region have acquired habits typical of the larger cities, where consumerism and the culture of waste are already deeply rooted. A sound and sustainable ecology, one capable of bringing about change, will not develop unless people are changed, unless they are encouraged to opt for another style of life, one less greedy and more serene, more respectful and less anxious, more fraternal.

59. Indeed, “the emptier a person’s heart is, the more he or she needs things to buy, own and consume. It becomes almost impossible to accept the limits imposed by reality… Our concern cannot be limited merely to the threat of extreme weather events, but must also extend to the catastrophic consequences of social unrest. Obsession with a consumerist lifestyle, above all when few people are capable of maintaining it, can only lead to violence and mutual destruction”.[78]

60. The Church, with her broad spiritual experience, her renewed appreciation of the value of creation, her concern for justice, her option for the poor, her educational tradition and her history of becoming incarnate in so many different cultures throughout the world, also desires to contribute to the protection and growth of the Amazon region.

This leads to the next dream, which I would like to share more directly with the Catholic pastors and faithful.

CHAPTER FOURTH
AN ECCLESIAL DREAM

61. The Church is called to journey alongside the people of the Amazon region. In Latin America, this journey found privileged expression at the Bishops’ Conference in Medellin (1968) and its application to the Amazon region at Santarem (1972),[79] followed by Puebla (1979), Santo Domingo (1992) and Aparecida (2007). The journey continues, and missionary efforts, if they are to develop a Church with an Amazonian face, need to grow in a culture of encounter towards “a multifaceted harmony”.[80] But for this incarnation of the Church and the Gospel to be possible, the great missionary proclamation must continue to resound.

The message that needs to be heard in the Amazon region

62. Recognizing the many problems and needs that cry out from the heart of the Amazon region, we can respond beginning with organizations, technical resources, opportunities for discussion and political programmes: all these can be part of the solution. Yet as Christians, we cannot set aside the call to faith that we have received from the Gospel. In our desire to struggle side by side with everyone, we are not ashamed of Jesus Christ. Those who have encountered him, those who live as his friends and identify with his message, must inevitably speak of him and bring to others his offer of new life: “Woe to me if I do not preach the Gospel!” (1 Cor 9:16).

63. An authentic option for the poor and the abandoned, while motivating us to liberate them from material poverty and to defend their rights, also involves inviting them to a friendship with the Lord that can elevate and dignify them. How sad it would be if they were to receive from us a body of teachings or a moral code, but not the great message of salvation, the missionary appeal that speaks to the heart and gives meaning to everything else in life. Nor can we be content with a social message. If we devote our lives to their service, to working for the justice and dignity that they deserve, we cannot conceal the fact that we do so because we see Christ in them and because we acknowledge the immense dignity that they have received from God, the Father who loves them with boundless love.

64. They have a right to hear the Gospel, and above all that first proclamation, the kerygma, which is “the principal proclamation, the one which we must hear again and again in different ways, the one which we must announce one way or another”.[81] It proclaims a God who infinitely loves every man and woman and has revealed this love fully in Jesus Christ, crucified for us and risen in our lives. I would ask that you re-read the brief summary of this “great message” found in Chapter Four of the Exhortation Christus Vivit. That message, expressed in a variety of ways, must constantly resound in the Amazon region. Without that impassioned proclamation, every ecclesial structure would become just another NGO and we would not follow the command given us by Christ: “Go into all the world and preach the Gospel to the whole creation” (Mk 16:15).

65. Any project for growth in the Christian life needs to be centred continually on this message, for “all Christian formation consists of entering more deeply into the kerygma”.[82] The fundamental response to this message, when it leads to a personal encounter with the Lord, is fraternal charity, “the new commandment, the first and the greatest of the commandments, and the one that best identifies us as Christ’s disciples”.[83] Indeed, the kerygma and fraternal charity constitute the great synthesis of the whole content of the Gospel, to be proclaimed unceasingly in the Amazon region. That is what shaped the lives of the great evangelizers of Latin America, like Saint Turibius of Mogrovejo or Saint Joseph of Anchieta.

Inculturation

66. As she perseveres in the preaching of the kerygma, the Church also needs to grow in the Amazon region. In doing so, she constantly reshapes her identity through listening and dialogue with the people, the realities and the history of the lands in which she finds herself. In this way, she is able to engage increasingly in a necessary process of inculturation that rejects nothing of the goodness that already exists in Amazonian cultures, but brings it to fulfilment in the light of the Gospel.[84] Nor does she scorn the richness of Christian wisdom handed down through the centuries, presuming to ignore the history in which God has worked in many ways. For the Church has a varied face, “not only in terms of space… but also of time”.[85] Here we see the authentic Tradition of the Church, which is not a static deposit or a museum piece, but the root of a constantly growing tree.[86] This millennial Tradition bears witness to God’s work in the midst of his people and “is called to keep the flame alive rather than to guard its ashes”.[87]

67. Saint John Paul II taught that in proposing the Gospel message, “the Church does not intend to deny the autonomy of culture. On the contrary, she has the greatest respect for it”, since culture “is not only an object of redemption and elevation but can also play a role of mediation and cooperation”.[88] Addressing indigenous peoples of America, he reminded them that “a faith that does not become culture is a faith not fully accepted, not fully reflected upon, not faithfully lived”.[89] Cultural challenges invite the Church to maintain “a watchful and critical attitude”, while at the same time showing “confident attention”.[90]

68. Here I would reiterate what I stated about inculturation in the Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium, based on the conviction that “grace supposes culture, and God’s gift becomes flesh in the culture of those who receive it”.[91] We can see that it involves a double movement. On the one hand, a fruitful process takes place when the Gospel takes root in a given place, for “whenever a community receives the message of salvation, the Holy Spirit enriches its culture with the transforming power of the Gospel”.[92] On the other hand, the Church herself undergoes a process of reception that enriches her with the fruits of what the Spirit has already mysteriously sown in that culture. In this way, “the Holy Spirit adorns the Church, showing her new aspects of revelation and giving her a new face”.[93] In the end, this means allowing and encouraging the inexhaustible riches of the Gospel to be preached “in categories proper to each culture, creating a new synthesis with that particular culture”.[94]

69. “The history of the Church shows that Christianity does not have simply one cultural expression”,[95] and “we would not do justice to the logic of the incarnation if we thought of Christianity as monocultural and monotonous”.[96] There is a risk that evangelizers who come to a particular area may think that they must not only communicate the Gospel but also the culture in which they grew up, failing to realize that it is not essential “to impose a specific cultural form, no matter how beautiful or ancient it may be”.[97] What is needed is courageous openness to the novelty of the Spirit, who is always able to create something new with the inexhaustible riches of Jesus Christ. Indeed, “inculturation commits the Church to a difficult but necessary journey”.[98] True, “this is always a slow process and that we can be overly fearful”, ending up as “mere onlookers as the Church gradually stagnates”.[99] But let us be fearless; let us not clip the wings of the Holy Spirit.

Paths of inculturation in the Amazon region

70. For the Church to achieve a renewed inculturation of the Gospel in the Amazon region, she needs to listen to its ancestral wisdom, listen once more to the voice of its elders, recognize the values present in the way of life of the original communities, and recover the rich stories of its peoples. In the Amazon region, we have inherited great riches from the pre-Columbian cultures. These include “openness to the action of God, a sense of gratitude for the fruits of the earth, the sacred character of human life and esteem for the family, a sense of solidarity and shared responsibility in common work, the importance of worship, belief in a life beyond this earth, and many other values”.[100]

71. In this regard, the indigenous peoples of the Amazon Region express the authentic quality of life as “good living”. This involves personal, familial, communal and cosmic harmony and finds expression in a communitarian approach to existence, the ability to find joy and fulfillment in an austere and simple life, and a responsible care of nature that preserves resources for future generations. The aboriginal peoples give us the example of a joyful sobriety and in this sense, “they have much to teach us”.[101] They know how to be content with little; they enjoy God’s little gifts without accumulating great possessions; they do not destroy things needlessly; they care for ecosystems and they recognize that the earth, while serving as a generous source of support for their life, also has a maternal dimension that evokes respect and tender love. All these things should be valued and taken up in the process of evangelization.[102]

72. While working for them and with them, we are called “to be their friends, to listen to them, to speak for them and to embrace the mysterious wisdom which God wishes to share with us through them”.[103] Those who live in cities need to appreciate this wisdom and to allow themselves to be “re-educated” in the face of frenzied consumerism and urban isolation. The Church herself can be a means of assisting this cultural retrieval through a precious synthesis with the preaching of the Gospel. She can also become a sign and means of charity, inasmuch as urban communities must be missionary not only to those in their midst but also to the poor who, driven by dire need, arrive from the interior and are welcomed. In the same way, these communities can stay close to young migrants and help them integrate into the city without falling prey to its networks of depravity. All these forms of ecclesial outreach, born of love, are valuable contributions to a process of inculturation.

73. Inculturation elevates and fulfills. Certainly, we should esteem the indigenous mysticism that sees the interconnection and interdependence of the whole of creation, the mysticism of gratuitousness that loves life as a gift, the mysticism of a sacred wonder before nature and all its forms of life.

At the same time, though, we are called to turn this relationship with God present in the cosmos into an increasingly personal relationship with a “Thou” who sustains our lives and wants to give them a meaning, a “Thou” who knows us and loves us:

“Shadows float from me, dead wood.
But the star is born without reproach
over the expert hands of this child,
that conquer the waters and the night.
It has to be enough for me to know
that you know me
completely, from before my days”.[104]

74. Similarly, a relationship with Jesus Christ, true God and true man, liberator and redeemer, is not inimical to the markedly cosmic worldview that characterizes the indigenous peoples, since he is also the Risen Lord who permeates all things.[105] In Christian experience, “all the creatures of the material universe find their true meaning in the incarnate Word, for the Son of God has incorporated in his person part of the material world, planting in it a seed of definitive transformation”.[106] He is present in a glorious and mysterious way in the river, the trees, the fish and the wind, as the Lord who reigns in creation without ever losing his transfigured wounds, while in the Eucharist he takes up the elements of this world and confers on all things the meaning of the paschal gift.

Social and spiritual inculturation

75. Given the situation of poverty and neglect experienced by so many inhabitants of the Amazon region, inculturation will necessarily have a markedly social cast, accompanied by a resolute defence of human rights; in this way it will reveal the face of Christ, who “wished with special tenderness to be identified with the weak and the poor”.[107] Indeed, “from the heart of the Gospel we see the profound connection between evangelization and human advancement”.[108] For Christian communities, this entails a clear commitment to the justice of God’s kingdom through work for the advancement of those who have been “discarded”. It follows that a suitable training of pastoral workers in the Church’s social doctrine is most important.

76. At the same time, the inculturation of the Gospel in the Amazon region must better integrate the social and the spiritual, so that the poor do not have to look outside the Church for a spirituality that responds to their deepest yearnings. This does not mean an alienating and individualistic religiosity that would silence social demands for a more dignified life, but neither does it mean ignoring the transcendent and spiritual dimension, as if material development alone were sufficient for human beings. We are thus called not merely to join those two things, but to connect them at a deeper level. In this way, we will reveal the true beauty of the Gospel, which fully humanizes, integrally dignifies persons and peoples, and brings fulfilment to every heart and the whole of life.

Starting points for an Amazonian holiness

77. This will give rise to witnesses of holiness with an Amazonian face, not imitations of models imported from other places. A holiness born of encounter and engagement, contemplation and service, receptive solitude and life in community, cheerful sobriety and the struggle for justice. A holiness attained by “each individual in his or her own way”,[109] but also by peoples, where grace becomes incarnate and shines forth with distinctive features. Let us imagine a holiness with Amazonian features, called to challenge the universal Church.

78. A process of inculturation involving not only individuals but also peoples demands a respectful and understanding love for those peoples. This process has already begun in much of the Amazon region. More than forty years ago, the bishops of the Peruvian Amazon pointed out that in many of the groups present in that region, those to be evangelized, shaped by a varied and changing culture, have been “initially evangelized”. As a result, they possess “certain features of popular Catholicism that, perhaps originally introduced by pastoral workers, are now something that the people have made their own, even changing their meaning and handing them down from generation to generation”.[110] Let us not be quick to describe as superstition or paganism certain religious practices that arise spontaneously from the life of peoples. Rather, we ought to know how to distinguish the wheat growing alongside the tares, for “popular piety can enable us to see how the faith, once received, becomes embodied in a culture and is constantly passed on”.[111]

79. It is possible to take up an indigenous symbol in some way, without necessarily considering it as idolatry. A myth charged with spiritual meaning can be used to advantage and not always considered a pagan error. Some religious festivals have a sacred meaning and are occasions for gathering and fraternity, albeit in need of a gradual process of purification or maturation. A missionary of souls will try to discover the legitimate needs and concerns that seek an outlet in at times imperfect, partial or mistaken religious expressions, and will attempt to respond to them with an inculturated spirituality.

80. Such a spirituality will certainly be centred on the one God and Lord, while at the same time in contact with the daily needs of people who strive for a dignified life, who want to enjoy life’s blessings, to find peace and harmony, to resolve family problems, to care for their illnesses, and to see their children grow up happy. The greatest danger would be to prevent them from encountering Christ by presenting him as an enemy of joy or as someone indifferent to human questions and difficulties.[112] Nowadays, it is essential to show that holiness takes nothing away from our “energy, vitality or joy”.[113]

The inculturation of the liturgy

81. The inculturation of Christian spirituality in the cultures of the original peoples can benefit in a particular way from the sacraments, since they unite the divine and the cosmic, grace and creation. In the Amazon region, the sacraments should not be viewed in discontinuity with creation. They “are a privileged way in which nature is taken up by God to become a means of mediating supernatural life”.[114] They are the fulfillment of creation, in which nature is elevated to become a locus and instrument of grace, enabling us “to embrace the world on a different plane”.[115]

82. In the Eucharist, God, “in the culmination of the mystery of the Incarnation, chose to reach our intimate depths through a fragment of matter”. The Eucharist “joins heaven and earth; it embraces and penetrates all creation”.[116] For this reason, it can be a “motivation for our concerns for the environment, directing us to be stewards of all creation”.[117] In this sense, “encountering God does not mean fleeing from this world or turning our back on nature”.[118] It means that we can take up into the liturgy many elements proper to the experience of indigenous peoples in their contact with nature, and respect native forms of expression in song, dance, rituals, gestures and symbols. The Second Vatican Council called for this effort to inculturate the liturgy among indigenous peoples;[119] over fifty years have passed and we still have far to go along these lines.[120]

83. On Sunday, “Christian spirituality incorporates the value of relaxation and festivity. [Nowadays] we tend to demean contemplative rest as something unproductive and unnecessary, but this is to do away with the very thing which is most important about work: its meaning. We are called to include in our work a dimension of receptivity and gratuity”.[121] Aboriginal peoples are familiar with this gratuity and this healthy contemplative leisure. Our celebrations should help them experience this in the Sunday liturgy and encounter the light of God’s word and the Eucharist, which illumines our daily existence.

84. The sacraments reveal and communicate the God who is close and who comes with mercy to heal and strengthen his children. Consequently, they should be accessible, especially for the poor, and must never be refused for financial reasons. Nor is there room, in the presence of the poor and forgotten of the Amazon region, for a discipline that excludes and turns people away, for in that way they end up being discarded by a Church that has become a toll-house. Rather, “in such difficult situations of need, the Church must be particularly concerned to offer understanding, comfort and acceptance, rather than imposing straightaway a set of rules that only lead people to feel judged and abandoned by the very Mother called to show them God’s mercy”.[122] For the Church, mercy can become a mere sentimental catchword unless it finds concrete expression in her pastoral outreach.[123]

Inculturation of forms of ministry

85. Inculturation should also be increasingly reflected in an incarnate form of ecclesial organization and ministry. If we are to inculturate spirituality, holiness and the Gospel itself, how can we not consider an inculturation of the ways we structure and carry out ecclesial ministries? The pastoral presence of the Church in the Amazon region is uneven, due in part to the vast expanse of the territory, its many remote places, its broad cultural diversity, its grave social problems, and the preference of some peoples to live in isolation. We cannot remain unconcerned; a specific and courageous response is required of the Church.

86. Efforts need to be made to configure ministry in such a way that it is at the service of a more frequent celebration of the Eucharist, even in the remotest and most isolated communities. At Aparecida, all were asked to heed the lament of the many Amazonian communities “deprived of the Sunday Eucharist for long periods of time”.[124] There is also a need for ministers who can understand Amazonian sensibilities and cultures from within.

87. The way of shaping priestly life and ministry is not monolithic; it develops distinctive traits in different parts of the world. This is why it is important to determine what is most specific to a priest, what cannot be delegated. The answer lies in the sacrament of Holy Orders, which configures him to Christ the priest. The first conclusion, then, is that the exclusive character received in Holy Orders qualifies the priest alone to preside at the Eucharist.[125] That is his particular, principal and non-delegable function. There are those who think that what distinguishes the priest is power, the fact that he is the highest authority in the community. Yet Saint John Paul II explained that, although the priesthood is considered “hierarchical”, this function is not meant to be superior to the others, but rather is “totally ordered to the holiness of Christ’s members”.[126] When the priest is said to be a sign of “Christ the head”, this refers principally to the fact that Christ is the source of all grace: he is the head of the Church because “he has the power of pouring out grace upon all the members of the Church”.[127]

88. The priest is a sign of that head and wellspring of grace above all when he celebrates the Eucharist, the source and summit of the entire Christian life.[128] That is his great power, a power that can only be received in the sacrament of Holy Orders. For this reason, only the priest can say: “This is my body”. There are other words too, that he alone can speak: “I absolve you from your sins”. Because sacramental forgiveness is at the service of a worthy celebration of the Eucharist. These two sacraments lie at the heart of the priest’s exclusive identity.[129]

89. In the specific circumstances of the Amazon region, particularly in its forests and more remote places, a way must be found to ensure this priestly ministry. The laity can proclaim God’s word, teach, organize communities, celebrate certain sacraments, seek different ways to express popular devotion and develop the multitude of gifts that the Spirit pours out in their midst. But they need the celebration of the Eucharist because it “makes the Church”.[130] We can even say that “no Christian community is built up which does not grow from and hinge on the celebration of the most holy Eucharist”.[131] If we are truly convinced that this is the case, then every effort should be made to ensure that the Amazonian peoples do not lack this food of new life and the sacrament of forgiveness.

90. This urgent need leads me to urge all bishops, especially those in Latin America, not only to promote prayer for priestly vocations, but also to be more generous in encouraging those who display a missionary vocation to opt for the Amazon region.[132] At the same time, it is appropriate that the structure and content of both initial and ongoing priestly formation be thoroughly revised, so that priests can acquire the attitudes and abilities demanded by dialogue with Amazonian cultures. This formation must be preeminently pastoral and favour the development of priestly mercy.[133]

Communities filled with life

91. The Eucharist is also the great sacrament that signifies and realizes the Church’s unity.[134] It is celebrated “so that from being strangers, dispersed and indifferent to each another, we may become united, equals and friends”.[135] The one who presides at the Eucharist must foster communion, which is not just any unity, but one that welcomes the abundant variety of gifts and charisms that the Spirit pours out upon the community.

92. The Eucharist, then, as source and summit, requires the development of that rich variety. Priests are necessary, but this does not mean that permanent deacons (of whom there should be many more in the Amazon region), religious women and lay persons cannot regularly assume important responsibilities for the growth of communities, and perform those functions ever more effectively with the aid of a suitable accompaniment.

93. Consequently, it is not simply a question of facilitating a greater presence of ordained ministers who can celebrate the Eucharist. That would be a very narrow aim, were we not also to strive to awaken new life in communities. We need to promote an encounter with God’s word and growth in holiness through various kinds of lay service that call for a process of education – biblical, doctrinal, spiritual and practical – and a variety of programmes of ongoing formation.

94. A Church of Amazonian features requires the stable presence of mature and lay leaders endowed with authority[136] and familiar with the languages, cultures, spiritual experience and communal way of life in the different places, but also open to the multiplicity of gifts that the Holy Spirit bestows on every one. For wherever there is a particular need, he has already poured out the charisms that can meet it. This requires the Church to be open to the Spirit’s boldness, to trust in, and concretely to permit, the growth of a specific ecclesial culture that is distinctively lay. The challenges in the Amazon region demand of the Church a special effort to be present at every level, and this can only be possible through the vigorous, broad and active involvement of the laity.

95. Many consecrated persons have devoted their energies and a good part of their lives in service to the Kingdom of God in Amazonia. The consecrated life, as capable of dialogue, synthesis, incarnation and prophecy, has a special place in this diverse and harmonious configuration of the Church in the Amazon region. But it needs a new impetus to inculturation, one that would combine creativity, missionary boldness, sensitivity and the strength typical of community life.

96. Base communities, when able to combine the defence of social rights with missionary proclamation and spirituality, have been authentic experiences of synodality in the Church’s journey of evangelization in the Amazon region. In many cases they “have helped form Christians committed to their faith, disciples and missionaries of the Lord, as is attested by the generous commitment of so many of their members, even to the point of shedding their blood”.[137]

97. I encourage the growth of the collaborative efforts being made through the Pan Amazonian Ecclesial Network and other associations to implement the proposal of Aparecida to “establish a collaborative ministry among the local churches of the various South American countries in the Amazon basin, with differentiated priorities”.[138] This applies particularly to relations between Churches located on the borders between nations.

98. Finally, I would note that we cannot always plan projects with stable communities in mind, because the Amazonian region sees a great deal of internal mobility, constant and frequently pendular migration; “the region has effectively become a migration corridor”.[139] “Transhumancein the Amazon has not been well understood or sufficiently examined from the pastoral standpoint”.[140] Consequently, thought should be given to itinerant missionary teams and “support provided for the presence and mobility of consecrated men and women closest to those who are most impoverished and excluded”.[141] This is also a challenge for our urban communities, which ought to come up with creative and generous ways, especially on the outskirts, to be close and welcoming to families and young people who arrive from the interior.

The strength and gift of women

99. In the Amazon region, there are communities that have long preserved and handed on the faith even though no priest has come their way, even for decades. This could happen because of the presence of strong and generous women who, undoubtedly called and prompted by the Holy Spirit, baptized, catechized, prayed and acted as missionaries. For centuries, women have kept the Church alive in those places through their remarkable devotion and deep faith. Some of them, speaking at the Synod, moved us profoundly by their testimony.

100. This summons us to broaden our vision, lest we restrict our understanding of the Church to her functional structures. Such a reductionism would lead us to believe that women would be granted a greater status and participation in the Church only if they were admitted to Holy Orders. But that approach would in fact narrow our vision; it would lead us to clericalize women, diminish the great value of what they have already accomplished, and subtly make their indispensable contribution less effective.

101. Jesus Christ appears as the Spouse of the community that celebrates the Eucharist through the figure of a man who presides as a sign of the one Priest. This dialogue between the Spouse and his Bride, which arises in adoration and sanctifies the community, should not trap us in partial conceptions of power in the Church. The Lord chose to reveal his power and his love through two human faces: the face of his divine Son made man and the face of a creature, a woman, Mary. Women make their contribution to the Church in a way that is properly theirs, by making present the tender strength of Mary, the Mother. As a result, we do not limit ourselves to a functional approach, but enter instead into the inmost structure of the Church. In this way, we will fundamentally realize why, without women, the Church breaks down, and how many communities in the Amazon would have collapsed, had women not been there to sustain them, keep them together and care for them. This shows the kind of power that is typically theirs.

102. We must keep encouraging those simple and straightforward gifts that enabled women in the Amazon region to play so active a role in society, even though communities now face many new and unprecedented threats. The present situation requires us to encourage the emergence of other forms of service and charisms that are proper to women and responsive to the specific needs of the peoples of the Amazon region at this moment in history.

103. In a synodal Church, those women who in fact have a central part to play in Amazonian communities should have access to positions, including ecclesial services, that do not entail Holy Orders and that can better signify the role that is theirs. Here it should be noted that these services entail stability, public recognition and a commission from the bishop. This would also allow women to have a real and effective impact on the organization, the most important decisions and the direction of communities, while continuing to do so in a way that reflects their womanhood.

Expanding horizons beyond conflicts

104. It often happens that in particular places pastoral workers envisage very different solutions to the problems they face, and consequently propose apparently opposed forms of ecclesial organization. When this occurs, it is probable that the real response to the challenges of evangelization lies in transcending the two approaches and finding other, better ways, perhaps not yet even imagined. Conflict is overcome at a higher level, where each group can join the other in a new reality, while remaining faithful to itself. Everything is resolved “on a higher plane and preserves what is valid and useful on both sides”.[142] Otherwise, conflict traps us; “we lose our perspective, our horizons shrink and reality itself begins to fall apart”.[143]

105. In no way does this mean relativizing problems, fleeing from them or letting things stay as they are. Authentic solutions are never found by dampening boldness, shirking concrete demands or assigning blame to others. On the contrary, solutions are found by “overflow”, that is, by transcending the contraposition that limits our vision and recognizing a greater gift that God is offering. From that new gift, accepted with boldness and generosity, from that unexpected gift which awakens a new and greater creativity, there will pour forth as from an overflowing fountain the answers that contraposition did not allow us to see. In its earliest days, the Christian faith spread remarkably in accordance with this way of thinking, which enabled it, from its Jewish roots, to take shape in the Greco-Roman cultures, and in time to acquire distinctive forms. Similarly, in this historical moment, the Amazon region challenges us to transcend limited perspectives and “pragmatic” solutions mired in partial approaches, in order to seek paths of inculturation that are broader and bolder.

Ecumenical and interreligious coexistence

106. In an Amazonian region characterized by many religions, we believers need to find occasions to speak to one another and to act together for the common good and the promotion of the poor. This has nothing to do with watering down or concealing our deepest convictions when we encounter others who think differently than ourselves. If we believe that the Holy Spirit can work amid differences, then we will try to let ourselves be enriched by that insight, while embracing it from the core of our own convictions and our own identity. For the deeper, stronger and richer that identity is, the more we will be capable of enriching others with our own proper contribution.

107. We Catholics possess in sacred Scripture a treasure that other religions do not accept, even though at times they may read it with interest and even esteem some of its teachings. We attempt to do something similar with the sacred texts of other religions and religious communities, which contain “precepts and doctrines that… often reflect a ray of that truth which enlightens all men and women”.[144] We also possess a great treasure in the seven sacraments, which some Christian communities do not acceptin their totality or in the same sense. At the same time that we believe firmly in Jesus as the sole Redeemer of the world, we cultivate a deep devotion to his Mother. Even though we know that this is not the case with all Christian confessions, we feel it our duty to share with the Amazon region the treasure of that warm, maternal love which we ourselves have received. In fact, I will conclude this Exhortation with a few words addressed to Mary.

108. None of this needs to create enmity between us. In a true spirit of dialogue, we grow in our ability to grasp the significance of what others say and do, even if we cannot accept it as our own conviction. In this way, it becomes possible to be frank and open about our beliefs, while continuing to discuss, to seek points of contact, and above all, to work and struggle together for the good of the Amazon region. The strength of what unites all of us as Christians is supremely important. We can be so attentive to what divides us that at times we no longer appreciate or value what unites us. And what unites us is what lets us remain in this world without being swallowed up by its immanence, its spiritual emptiness, its complacent selfishness, its consumerist and self-destructive individualism.

109. All of us, as Christians, are united by faith in God, the Father who gives us life and loves us so greatly. We are united by faith in Jesus Christ, the one Saviour, who set us free by his precious blood and his glorious resurrection. We are united by our desire for his word that guides our steps. We are united by the fire of the Spirit, who sends us forth on mission. We are united by the new commandment that Jesus left us, by the pursuit of the civilization of love and by passion for the kingdom that the Lord calls us to build with him. We are united by the struggle for peace and justice. We are united by the conviction that not everything ends with this life, but that we are called to the heavenly banquet, where God will wipe away every tear and take up all that we did for those who suffer.

110. All this unites us. How can we not struggle together? How can we not pray and work together, side by side, to defend the poor of the Amazon region, to show the sacred countenance of the Lord, and to care for his work of creation?

CONCLUSION
MOTHER OF THE AMAZON REGION

111. After sharing a few of my dreams, I encourage everyone to advance along concrete paths that can allow the reality of the Amazon region to be transformed and set free from the evils that beset it. Let us now lift our gaze to Mary. The Mother whom Christ gave us is also the one Mother of all, who reveals herself in the Amazon region in distinct ways. We know that “the indigenous peoples have a vital encounter with Jesus Christ in many ways; but the path of Mary has contributed greatly to this encounter”.[145] Faced with the marvel of the Amazon region, which we discovered ever more fully during the preparation and celebration of the Synod, I consider it best to conclude this Exhortation by turning to her:

Mother of life,
in your maternal womb Jesus took flesh,
the Lord of all that exists.
Risen, he transfigured you by his light
and made you the Queen of all creation.
For that reason, we ask you, Mary, to reign
in the beating heart of Amazonia.

Show yourself the Mother of all creatures,
in the beauty of the flowers, the rivers,
the great river that courses through it
and all the life pulsing in its forests.
Tenderly care for this explosion of beauty.

Ask Jesus to pour out all his love
on the men and women who dwell there,
that they may know how to appreciate and care for it.

Bring your Son to birth in their hearts,
so that he can shine forth in the Amazon region,
in its peoples and in its cultures,
by the light of his word,
by his consoling love,
by his message of fraternity and justice.

And at every Eucharist,
may all this awe and wonder be lifted up
to the glory of the Father.

Mother, look upon the poor of the Amazon region,
for their home is being destroyed by petty interests.
How much pain and misery,
how much neglect and abuse there is
in this blessed land
overflowing with life!

Touch the hearts of the powerful,
for, even though we sense that the hour is late,
you call us to save
what is still alive.

Mother whose heart is pierced,
who yourself suffer in your mistreated sons and daughters,
and in the wounds inflicted on nature,
reign in the Amazon,
together with your Son.
Reign so that no one else can claim lordship
over the handiwork of God.

We trust in you, Mother of life.
Do not abandon us
in this dark hour.

Amen.

 

Given in Rome, at the Cathedral of Saint John Lateran, on 2 February, the Feast of the Presentation of the Lord, in the year 2020, the seventh of my Pontificate.

 

FRANCISCUS


[1] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 49: AAS 107 (2015), 866.[2] Instrumentum Laboris, 45.

[3] ANA VARELA TAFUR, “Timareo”, in Lo que no veo en visiones, Lima, 1992.

[4] JORGE VEGA MÁRQUEZ, “Amazonia solitária”, in Poesía obrera, Cobija-Pando-Bolivia, 2009, 39.

[5] RED ECLESIAL PANAMAZÓNICA (REPAM), Brazil, Síntesis del aporte al Sínodo, 120; cf. Instrumentum Laboris, 45.

[6] Address to Young People, São Paulo, Brazil (10 May 2007), 2.

[7] Cf. ALBERTO C. ARAÚJO, “Imaginario amazónico”, in Amazonia real: amazoniareal.com.br (29 January 2014).

[8] SAINT PAUL VI, Encyclical Letter Populorum Progressio (26 March 1967), 57: AAS 59 (1967), 285.

[9] SAINT JOHN PAUL II, Address to the Pontifical Academy of Social Sciences (27 April 2001), 4: AAS 93 (2001), 600.

[10] Cf. Instrumentum Laboris, 41.

[11] FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS, Aparecida Document (29 June 2007), 473.

[12] RAMÓN IRIBERTEGUI, Amazonas: El hombre y el caucho, ed. Vicariato Apostólico de Puerto Ayacucho-Venezuela, Monografía n. 4, Caracas, 1987, 307ff.

[13] Cf. “AMARÍLIS TUPIASSÚ, “Amazônia, das travessias lusitanas à literatura de até agora”, in Estudos Avançados vol. 19, n. 53, São Paulo (Jan./Apr. 2005): “In effect, after the end of the first colonization, the Amazon region continued to be an area subject to age-old greed, now under new rhetorical guises… on the part of “civilizing” agents who did not even need to be personified in order to generate and multiply the new faces of the old decimation, now through a slow death”.

[14] BISHOPS OF THE BRAZILIAN AMAZON REGION, Carta al Pueblo de Dios, Santarem-Brazil (6 July 2012).

[15] SAINT JOHN PAUL II, Message for the 1998 World Day of Peace, 3: AAS 90 (1998), 150.

[16] THIRD GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS, Puebla Document (23 March 1979), 6.

[17] Instrumentum Laboris, 6. Pope Paul III, in his the Brief Veritas Ipsa (2 June 1537), condemned racist theses and recognized that the native peoples, whether Christian or not, possess the dignity of the human person, enjoy the right to their possessions and may not be reduced to slavery. The Pope declared: “as truly men … are by no means to be deprived of their liberty or the possession of their property, even though they be outside the faith of Jesus Christ”. This magisterial teaching was reaffirmed by Popes GREGORY XIV, Bull Cum Sicuti (28 April 1591); URBAN VIII, Bull Commissum Nobis (22 April 1639); BENEDICT XIV, Bull Immensa Pastorum Principis to the Bishops of Brazil (20 December 1741); GREGORY XVI, Brief In Supremo (3 December 1839); LEO XIIIEpistle to the Bishops of Brazil on Slavery (15 May 1888); and SAINT JOHN PAUL II, Message to the Indigenous People of America, Santo Domingo (12 October 1992), 2: Insegnamenti 15/2 (1982), 346.

[18] FREDERICO BENÍCIO DE SOUSA COSTA, Pastoral Letter (1909). Ed. Imprenta del gobierno del estado de Amazonas, Manaus, 1994, 83.

[19] Instrumentum Laboris, 7.

[20] Address at the Second World Meeting of Popular Movements, Santa Cruz de la Sierra-Bolivia (9 July 2015).

[21] Address at the Meeting with Indigenous People of Amazonia, Puerto Maldonado-Peru (19 January 2018): AAS 110 (2018), 300.

[22] Instrumentum Laboris, 24.

[23] YANA LUCILA LEMA, Tamyahuan Shamakupani (Con la lluvia estoy viviendo), 1, at http://siwarmayu.com/es/yana-lucila-lema-6-poemas-de-tamyawan-shamukupani-con-la-lluvia-estoy-viviendo.

[24] BISHOPS’ CONFERENCE OF ECUADOR, Cuidemos nuestro planeta (20 April 2012), 3.

[25] No. 142: AAS 107 (2015), 904-905.

[26] No. 82.

[27] Ibid., 83.

[28] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 239: AAS 105 (2013), 1116.

[29] Ibid., 218: AAS 105 (2013), 1110.

[30] Ibid.

[31] Cf. Instrumentum Laboris, 57.

[32] Cf. EVARISTO EDUARDO DE MIRANDA, Quando o Amazonas corria para o Pacifico, Petrópolis, 2007, 83-93.

[33] JUAN CARLOS GALEANO, “Paisajes”, in Amazonia y otros poemas, ed. Universidad Externado de Colombia, Bogotá, 2011, 31.

[34] JAVIER YGLESIAS, “Llamado”, in Revista peruana de literatura, n. 6 (June 2007), 31.

[35] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 144: AAS 107 (2015) 905.

[36] Post-Synodal Apostolic Exhortation Christus Vivit (25 March 2019), 186.

[37] Ibid., 200.

[38] Videomessage for the World Indigenous Youth Gathering, Soloy-Panama (18 January 2019).

[39] MARIO VARGAS LLOSA, Prologue to El Hablador, Madrid (8 October 2007).

[40] Post-Synodal Apostolic Exhortation Christus Vivit (25 March 2019), 195.

[41] SAINT JOHN PAUL II, Encyclical Letter Centesimus Annus (1 May 1991), 50: AAS 83 (1991), 856.

[42] FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS, Aparecida Document (29 June 2007), 97.

[43] Address at the Meeting with Indigenous People of Amazonia, Puerto Maldonado-Peru (19 January 2018): AAS 110 (2018), 301.

[44] Instrumentum Laboris, 123, e.

[45] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 144: AAS 107 (2015), 906.

[46] Cf. BENEDICT XVI, Encyclical Letter Caritas in veritate (29 June 2009), 51: AAS 101 (2009), 687: “Nature, especially in our time, is so integrated into the dynamics of society and culture that by now it hardly constitutes an independent variable. Desertification and the decline in productivity in some agricultural areas are also the result of impoverishment and underdevelopment among their inhabitants”.

[47] Message for the 2007 World Day of Peace, 8: Insegnamenti, II/2 (2006), 776.

[48] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 1691117138240: AAS 107 (2015), 854, 884, 894, 903, 941.

[49] Document Bolivia: informe país. Consulta pre sinodal, 2019, p. 36; cf. Instrumentum Laboris, 23.

[50] Instrumentum Laboris, 26.

[51] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 146: AAS 107 (2015), 906.

[52] Documento con aportes al Sínodo de la Diócesis de San José del Guaviare y de la Arquidiócesis de Villavicencio y Granada (Colombia); cf. Instrumentum Laboris, 17.

[53] EUCLIDES DA CUNHA, Los Sertones (Os Sertões), Buenos Aires (1946), 65-66.

[54] PABLO NERUDA, “Amazonas” in Canto General (1938), I, IV.

[55] REPAM, Document Eje de Fronteras. Preparación para el Sínodo de la Amazonia, Tabatinga-Brasil (3 February 2019), p. 3; cf. Instrumentum Laboris, 8.

[56] AMADEU THIAGO DE LELLO, Amazonas, patria da agua. Spanish translation by Jorge Timossi, in http://letras-uruguay.espaciolatino.com/aaa/mello_thiago/amazonas_patria_da_agua.htm.

[57] VINICIUS DE MORAES, Para vivir un gran amor, Buenos Aires, 2013, 166.

[58] JUAN CARLOS GALEANO, “Los que creyeron”, in Amazonia y otros poemas, ed. Universidad externado de Colombia, Bogotá, 2011, 44.

[59] HARALD SIOLI, A Amazônia, Petropolis (1985), 60.

[60] SAINT JOHN PAUL II, Address to an International Convention on “The Environment and Health” (24 March 1997), 2.

[61] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 34: AAS 107 (2015), 860.

[62] Cf. ibid., 28-31: AAS 107 (2015), 858-859.

[63] Ibid., 38: AAS 107 (2015), 862.

[64] Cf. FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS, Aparecida Document (29 June 2007), 86.

[65] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 38: AAS 107 (2015), 862.

[66] Cf. ibid, 144, 187: AAS 107 (2015), 905-906, 921.

[67] Cf. ibid., 183: AAS 107 (2015), 920.

[68] Ibid., 53: AAS 107 (2015), 868.

[69] Cf. ibid., 49: AAS 107 (2015), 866.

[70] Preparatory Document for the Synod on the Pan Amazon Region, 8.

[71] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 56: AAS 107 (2015), 869.

[72] Ibid., 59: AAS 107 (2015), 870.

[73] Ibid., 33: AAS 107 (2015), 860.

[74] Ibid, 220: AAS 107 (2015), 934.

[75] Ibid., 215: AAS 107 (2015), 932.

[76] SUI YUN, Cantos para el mendigo y el rey, Wiesbaden, 2000.

[77] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 100: AAS 107 (2015), 887.

[78] Ibid., 204: AAS 107 (2015), 928.

[79] Cf. Documents of Santarem (1972) and Manaos (1997) in NATIONAL CONFERENCE OF THE BISHOPS OF BRAZIL, Desafío missionário. Documentos da Igreja na Amazônia, Brasilia, 2014, pp. 9-28 and 67-84.

[80] Cf. Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 220: AAS 105 (2013), 1110.

[81] Ibid., 164: AAS 105 (2013), 1088-1089.

[82] Ibid., 165: AAS 105 (2013), 1089.

[83] Ibid., 161: AAS 105 (2013), 1087.

[84] As the Second Vatican Council states in No. 44 of the Constitution Gaudium et Spes: “The Church learned early in her history to express the Christian message in the concepts and languages of different peoples and tried to clarify it in the light of the wisdom of their philosophers: it was an attempt to adapt the Gospel to the understanding of all and the requirements of the learned, insofar as this could be done. Indeed, this kind of adaptation and preaching of the revealed word must ever be the law of all evangelization. In this way it is possible to create in every country the possibility of expressing the message of Christ in suitable terms and to foster vital contact and exchange between the Church and different cultures”.

[85] Letter to the Pilgrim People of God in Germany, 29 June 2019, 9: L’Osservatore Romano, 1-2 July 2019, p. 9.

[86] Cf. SAINT Vincent of Lerins, Commonitorium primum, cap. 23: PL 50, 668: “Ut annis scilicet consolidetur, dilatetur tempore, sublimetur aetate”.

[87] Letter to the Pilgrim People of God in Germany, 29 June 2019, 9. Cf. the words attributed to Gustav Mahler: “Tradition ist nicht die Anbetung der Asche, sondern die Weitergabe des Feuers”: “Tradition is not the worship of ashes but the passing on of the flame”.

[88] Address to University Professors and Cultural Leaders, Coimbra (15 May 1982): Insegnamenti 5/2 (1982), 1702-1703.

[89] Message to the Indigenous Peoples of the American Continent, Santo Domingo (12 October 1992), 6: Insegnamenti 15/2 (1992), 346; cf. Address to Participants in the National Congress of the Ecclesial Movement of Cultural Commitment (16 January 1982), 2: Insegnamenti 5/1 (1982), 131.

[90] SAINT JOHN PAUL II, Post-Synodal Apostolic Exhortation Vita Consecrata (15 March 1996), 98: AAS 88 (1996), 474-475.

[91] No. 115: AAS 105 (2013),1068.

[92] Ibid., 116: AAS 105 (2013),1068.

[93] Ibid.

[94] Ibid., 129: AAS 105 (2013), 1074.

[95] Ibid., 116: AAS 105 (2013), 1068.

[96] Ibid., 117: AAS 105 (2013), 1069.

[97] Ibid.

[98] SAINT JOHN PAUL II, Address to the Plenary Assembly of the Pontifical Council for Culture (17 January 1987): Insegnamenti 10/1 (1987), 125.

[99] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 129: AAS 105 (2013), 1074.

[100] FOURTH GENERAL MEETING OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN EPISCOPATE, Santo Domingo Document (12-28 October 1992), 17.

[101] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 198: AAS 105 (2013), 1103.

[102] Cf. VITTORIO MESSORI-JOSEPH RATZINGER, Rapporto sulla fede, Cinisello Balsamo, 1985, 211-212.

[103] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 198: AAS 105 (2013), 1103.

[104] PEDRO CASALDÁLIGA, “Carta de navegar (Por el Tocantins amazónico)” in El tiempo y la espera, Santander, 1986.

[105] Saint Thomas Aquinas explains it in this way: “The threefold way that God is in things: one is common, by essence, presence and power; another by grace in his saints; a third in Christ, by union” (Ad Colossenses, II, 2).

[106] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 235: AAS 107 (2015), 939.

[107] THIRD GENERAL MEETING OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN EPISCOPATE, Puebla Document (23 March 1979), 196.

[108] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 178: AAS 105 (2013), 1094.

[109] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 11; cf. Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 10-11.

[110] APOSTOLIC VICARIATES OF THE PERUVIAN AMAZON, “Segunda asamblea episcopal regional de la selva”, San Ramón-Perú (5 October 1973), in Éxodo de la Iglesia en la Amazonia. Documentos pastorales de la Iglesia en la Amazonia peruana, Iquitos, 1976, 121.

[111] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 123: AAS 105 (2013), 1071.

[112] Cf. Apostolic Exhortation Gaudete et Exsultate (19 March 2018), 126-127.

[113] Ibid., 32.

[114] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 235: AAS 107 (2015), 939.

[115] Ibid.

[116] Ibid., 236: AAS 107 (2015), 940.

[117] Ibid.

[118] Ibid., 235: AAS 107 (2015), 939.

[119] Cf. Constitution on the Sacred Liturgy Sacrosanctum Concilium, 37-40, 65, 77, 81.

[120] During the Synod, there was a proposal to develop an “Amazonian rite”.

[121] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 237: AAS 107 (2015), 940.

[122] Apostolic Exhortation Amoris Laetitia (19 March 2016), 49: AAS 108 (2016), 331; cf. ibid. 305: AAS 108 (2016), 436-437.

[123] Cf. ibid., 296, 308: AAS 108 (2016), 430-431, 438.

[124] FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS’ CONFERENCES, Aparecida Document, 29 June 2007, 100 e.

[125] Cf. CONGREGATION FOR THE DOCTRINE OF THE FAITH, Letter Sacerdotium Ministeriale to Bishops of the Catholic Church on certain questions concerning the minister of the Eucharist (6 August 1983): AAS 75 (1983), 1001-1009.

[126] Apostolic Letter Mulieris Dignitatem (15 August 1988), 27: AAS 80 (1988), 1718.

[127] SAINT THOMAS AQUINAS, Summa Theologiae III, q. 8, a.1, resp.

[128] Cf. SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Decree on the Ministry and Life of Priests Presbyterorum Ordinis, 5; SAINT JOHN PAUL II, Encyclical Letter Ecclesia de Eucharistia (17 April 2003), 26: AAS 95 (2003), 448.

[129] It is also proper to the priest to administer the Anointing of the Sick, because it is intimately linked to the forgiveness of sins: “And if he has committed sins, he will be forgiven” (Jas 5:15).

[130] Catechism of the Catholic Church, 1396; SAINT JOHN PAUL II, Encyclical Letter Ecclesia de Eucharistia (17 April 2003), 26: AAS 95 (2003), 451; cf. HENRI DE LUBAC, Meditation sur l’Église, Paris (1968), 101.

[131] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Decree on the Ministry and Life of Priests Presbyterorum Ordinis, 6.

[132] It is noteworthy that, in some countries of the Amazon Basin, more missionaries go to Europe or the United States than remain to assist their own Vicariates in the Amazon region.

[133] At the Synod, mention was also made of the lack of seminaries for the priestly formation of indigenous people.

[134] Cf. SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Dogmatic Constitution on the Church Lumen Gentium, 3.

[135] SAINT PAUL VI, Homily on the Solemnity of Corpus Christi, 17 June 1965: Insegnamenti 3 (1965), 358.

[136] It is possible that, due to a lack of priests, a bishop can entrust “participation in the exercise of the pastoral care of a parish… to a deacon, to another person who is not a priest, or to a community of persons” (Code of Canon Law, 517 §2).

[137] FIFTH GENERAL CONFERENCE OF THE LATIN AMERICAN AND CARIBBEAN BISHOPS’ CONFERENCES, Aparecida Document, 29 June 2007, 178.

[138] Ibid., 475.

[139] Instrumentum Laboris, 65.

[140] Ibid., 63.

[141] Ibid., 129, d, 2.

[142] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 228: AAS 105 (2013), 1113.

[143] Ibid., 226: AAS 105 (2013), 1112.

[144] SECOND VATICAN ECUMENICAL COUNCIL, Declaration on the Relation of the Church to Non-Christian Religions Nostra Aetate, 2.

[145] CELAM, III Simposio latinoamericano sobre Teología India, Ciudad de Guatemala (23-27 October 2006).

(編集「カトリック・あい」)

2020年2月12日

♰「イエスは慰めと安らぎを約束してくださる」-2月11日「世界病者の日」に教皇メッセージ

(2020.2.10 カトリック・あい)

 全世界のカトリック教会は毎年2月11日を「世界病者の日」と定め、病気という重荷を担うすべての人とその家族、すべての医療関係者のために祈ることとしており、教皇フランシスコはこの日のために以下のメッセージを出されている。日本の教会でも、東京教区が11日午後1時半から東京カテドラルマリア大聖堂でミサを捧げるなど、各地の教会でミサや祈りが予定されている。

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2020年第28回「世界病者の日」教皇メッセージ

   「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ福音書11章28節)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

1.「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。イエスのこのことばは、恵みへの神秘的な道を指し示しています。それは、素朴な人に示され、疲れた人、弱り果てた人に安らぎを与える道です。この言葉は、人の子イエス・キリストの、傷つき苦しんでいる人間に対する連帯の表れです。あまりにも多くの人が、心身に苦しみを負っています。

 イエスはあらゆる人に、ご自分のもとに来るよう呼びかけておられます。「私のもとに来なさい」。そして、慰めと安らぎを約束してくださいます。「こう述べたとき、イエスの目の前には、ガリラヤの路上で日々出会う人々がいました。大勢の庶民、貧しい人々、病者、罪人、律法の重圧や抑圧的な社会構造によって疎外された人々です。これらの人々は、希望が与えられるイエスのことばを聞こうと、……いつもその後をついて回りました。イエスのことばはいつも希望を与えてくれます」(「『お告げの祈り』での言葉(2014年7月6日)」)。

 この第28回「世界病者の日」に、イエスは病者、抑圧された人、貧しい人を招いておられます。自分が完全に神に頼っていることを知っているその人々は、試練の重荷によって傷つき、いやしを求めています。もろさ、痛み、弱さを抱えた自身の状態に苦悩する人々に、イエス・キリストは律法を課すのではなく、ご自分のあわれみを、つまりいやし手であるご自身を与えてくださいます。イエスは傷ついた人類を見つめておられます。奥深くにまで届くそのまなざしは、見て、気づきます。無関心にはならずに目をとめ、どのような健康状態にあっても、誰一人排除することなく、人間のすべてを受け入れ、ご自分のいのちに入り、優しさに触れるよう、一人ひとりを招いておられます。

2.イエス・キリストは、なぜそのような思いを抱かれるのでしょう。ご自身が弱い者となって人間の苦しみを経験し、御父のなぐさめをご自身も受けたからです。実際に自分自身でそれを経験した人だけが、人を慰めることができるのです。苦しみの厳しさはさまざまです。難病、精神疾患、リハビリや緩和ケアを要する状態、さまざまな障がい、小児疾患や高齢者疾患などです。

 こうした状態においては、人間らしさが奪われるように感じられることがあります。ですから、全人的な回復のためには、治すだけではなく相手を思いやり、それぞれの病者に合わせて対応することが求められます。人は病気になると、身体の健全だけでなく、人間関係、知性、情緒、精神も脅かされているように感じてしまいます。だからこそ、治療だけでなく、支え、気遣い、思いやり……、ひとことで言えば、愛を期待するのです。さらに病者の傍らには、同じく慰めと寄り添いを求めている、苦しむ家族がいます。

3.親愛なる兄弟姉妹である病者の皆さん。病は、独自のしかたで皆さんを、イエスのまなざしと心を引きつける「疲れた者、重荷を負う者」にしてくれます。それによって、あなたがたの闇の時間に光が射し、失意に希望が訪れます。「来なさい」、イエスはそう言って、ご自身のもとへと招いておられます。この心身の「暗夜」にあって生じる不安や疑問を乗り越える力は、まさしくイエスのうちにあります。キリストは処方箋を手渡すのではなく、ご自分の受難と死と復活によって、私たちを悪の支配から解き放ってくださるのです。

 そうした状態にあっては、元気を取り戻す場が確かに必要です。教会はよりいっそう、キリストである良いサマリア人の「宿屋」(ルカ福音書10章34節参照)でありたいと望んでいます。それは、親しさ、歓迎、慰めのうちに示されるキリストの恵みが見いだされる家です。そこで出会うのは、その弱さにおいて神のあわれみによって癒された人々です。彼らは、皆さんの傷口を小さな窓に変えることによって、十字架を担う皆さんを支えることができます。その窓を通して皆さんは、病気の彼方の地平を見つめ、生きるための光と空気を受け取るのです。

 病に苦しむ兄弟姉妹の回復のために、医療関係者、医師、看護師、衛生と管理のスタッフ、助手、ボランティアの方々が貢献しています。病者を慰め、傷をいやしながら世話してくださるキリストの現存を感じさせることを通して、彼らはその能力を駆使して働いています。けれども、こうした人々もまた、弱さを抱え、病気になることもある人間です。次の言葉は、とりわけ彼らに当てはまります。「キリストの安らぎと慰めを受けたなら、今度は私たちが、主に倣って柔和で謙遜な姿勢で、兄弟姉妹の安らぎと慰めにならなければなりません」(「『お告げの祈り』でのことば(2014年7月6日)」)。

4.親愛なる医療関係者の皆さん。あらゆる診断、予防措置、治療、研究、介護、リハビリテーションは、病気の人のために行われるものです。そこでは「人」という名詞が、必ず「病気の」という形容詞よりも大切にされなければなりません。ですから、常に人間の尊厳と命のために働き、もはや回復の見込みがない病であったとしても、安楽死や自殺ほう助、命を奪う行為に、決して屈しないでください。

 ますます疑問視される臨床例や致命的な誤診を前に、医学にも限界があり過失が起こりうることを経験している皆さんは、自分の職業に十全な意味を与えることができる、超越的な次元へと自らを開くよう招かれています。いのちは、神聖で、神に属するものであり、それゆえ侵すことも意のままにすることもできないこと(『生命のはじまりに関する教書』5、回勅『いのちの福音』29-53参照)を思い起こしましょう。

 命は始まりから死に至るまで、受け入れられ、守られ、尊重され、仕えられなければなりません。人間の理性と、いのちの創造主である神への信仰の双方が、そのことを要求しています。いのちと人間を一貫して「肯定」し続けるためには、場合によっては良心的拒否を選択しなければならないこともあります。いずれにせよ、キリスト者としての愛から力を得ている皆さんの専門職は、生きる権利という真の人権への最上の奉仕であり続けるでしょう。たとえ治せなかったとしても、病者に安らぎと慰めを与える行いや工夫によって、いつでもいやすことができるのです。

 不幸なことに、戦争や武力紛争下にある地域では、病者の受け入れと救護に従事する医療関係者や施設が標的にされています。また、政府が自分の利益のために医療活動を操作しようとして、医療専門職がもつ正当な自律性を制限している地域もあります。社会という体の、苦しんでいるメンバーに尽くす人々を攻撃しても、まったく何の益にもなりません。

5.この第28回「世界病者の日」にあたり、貧困のうちに生活しているために治療を受けられない、世界中の大勢の兄弟姉妹のことを思います。ですから、経済的な思惑から社会正義をおろそかにしないよう、世界各国の医療機関と政府に呼びかけます。連帯の原理と補完性の原理を組み合わせることにより、健康の維持と回復に向けた十分な処置をだれもが受けられるよう協力することを願ってやみません。病者に奉仕するボランティアのかたがたに心から感謝します。彼らは、構造的な欠陥を幾度も補い、優しさと親しみにあふれる行いを通して、キリスト、良いサマリア人の像を映し出しています。

 病気という重荷を担うすべての人とその家族、そしてすべての医療関係者を、病者の癒しである乙女マリアにゆだねます。私は祈りのうちに皆さんに寄り添うことを約束し、心から使徒的祝福を送ります。

 バチカンにて 2020年1月3日 イエスのみ名の記念日 フランシスコ (カトリック中央協議会訳)

2020年2月10日

♰「皆へのもてなしの心を学ぼう」-キリスト教一致祈祷週間の終わりに

ローマの城壁外の聖パウロ大聖堂で行われたエキュメニカルな夕べの祈り 2020年1月25日ローマの城壁外の聖パウロ大聖堂で行われたエキュメニカルな夕べの祈り 2020年1月25日  (ANSA)

(2020.1.26 バチカン放送)

 18日に始まった全世界の「第53回キリスト教一致祈祷週間」が「聖パウロの回心」を祝う25日、最終日を迎え、教皇フランシスコは同日午後、ローマの城壁外の聖パウロ大聖堂で、教会一致の夕べの祈りをとり行われた。

 この集いには、正教会のエキュメニカル総主教府使節や、英国国教会カンタベリー大主教のローマ代理、教皇庁キリスト教一致推進評議会議長クルト・コッホ枢機卿などが出席。教皇とともに、使徒聖パウロの墓前で、そしてイタリアのテルモリからもたらされた聖パウロの弟子・聖テモテの聖遺物の前で祈りを捧げた。

 今年の「キリスト教一致祈祷週間」のテーマは、「人々は大変親切にしてくれた」(使徒言行録28章2節参照)。教皇は、集いでの説教で、使徒言行録に記された使徒パウロたちの船が暴風で難破し、打ち上げられたマルタ島で住民から温かいもてなしを受けた出来事を振り返られ、「使徒言行録のこのエピソードは、私たちキリスト者の、神が望まれる一致への旅路でもあります」と話された。

 そして「パウロの遭難の体験は、最も傷つきやすく弱い立場にある人々が、最も大切な救いのメッセージをもたらすことができることを物語っています」として、「世界の各地で疎外や迫害を受けているキリスト者たちの存在」を想起された。また、「神は一緒に航海するすべての者を自分に任せてくださった「」と、パウロが天使のお告げを人々に説明しているように、「神にとって何より大切なことは、すべての人々の救いです」と強調された。

 教皇は、マルタの人々のまれに見る親切、特に雨と寒さをしのげるように、と島の住民が焚いてくれた火は、「人間的な温かさのシンボルです」と語られ、最後に、「このキリスト教一致祈祷週間を機会に、私たちも、キリスト者同士はもとより、異なる宗教の信者たちに対しても、もてなしの心を学びましょう」と呼びかけ、受容の精神をキリスト者の共同体と家庭の伝統として示された。

2020年1月27日

♰「霊的な一致と対話は、キリスト者が『共にいること』の意味を深めるーフィンランドのルーテル教会使節団と

教皇フランシスコ、フィンランドのルーテル教会のエキュメニカル使節団と 2020年1月17日教皇フランシスコ、フィンランドのルーテル教会のエキュメニカル使節団と 2020年1月17日  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは、1月17日、フィンランドのルーテル教会のエキュメニカル使節団とお会いになった。使節団は、18日から始まる「キリスト教一致祈祷週間」と、フィンランドの使徒、聖ヘンリック(ウプサラ司教・殉教者=英国生まれ、生年不詳、1156年にフィンランドで没)の祝日(1月20日)を記念してバチカンを訪れた。

 使節団への挨拶で、教皇は「先の日曜日に記念した『キリストの洗礼』の祝日は、私たちの洗礼を思い起こさせるもの」とされ、「自分自身の洗礼に対する感謝の念において、すべてのキリスト者は一致しています」と話された。また「キリスト者たちは、キリストの神秘体の肢体として一致し、互いの重みを支え合い、福音を証しするという共通の使命を負っているのです」と強調された。

 さらに、今年の「キリスト教一致祈祷週間」のテーマ、「人々は大変親切にしてくれた」(使徒言行録28章2節参照)を取り上げ、「人をもてなし、受容することも、日々の共通の信仰の証しです」と指摘。「人をもてなす者は、貧しくなるのではなく、より豊かになります… 与える者は、与えられるのです」とも話された。

 また、「私たちキリスト者は、人類のメッセンジャーです。人となられた神のあわれみを受ける者として共に歩んでいます」としたうえで、「キリスト者の共同体とは、単に隣り合い、並んでいることではなく、より深い意味で『共にいること』でありたい」と願われ、「霊的なエキュメニズムと対話は、この『共にいること』の意味を深めるためのもの… 『共にいること』の促進と発展が、フィンランドに実りをもたらしますように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年1月19日

・今年のキリスト教一致祈祷週間の心は「移民・難民の人々へのいたわり」(VN)

Migrants at a reception center in MaltaMigrants at a reception center in Malta 

 

 

 

 

2020年1月18日

・第三主日の26日は教皇が定めた「神のみことばの主日」の初の日

 (2020.1.18 カトリック・あい)

 教皇が昨年秋、自発教令で年間第3主日を「神のみことばの主日」とされたが、1月26日はその初の記念日となる。 教皇フランシスコは昨年9月30日、自発教令「Aperuit illis(彼らに開いた)」を公布し、典礼暦の年間第3主日を「神のみことばの主日」と定められた。

 この主日について教皇は「典礼年間の中でも、ユダヤ教との絆を強めると同時に、キリスト者の一致を祈るよう招く時期に位置しています… 聖書はその言葉に耳を傾ける者に、真の堅固な一致に到達するための道を指し示すことから、教会一致を祈る時期に『神のみことばの主日』を祝うことには「エキュメニカルな意義があります」と説明され、「教会共同体が、『神のみことばの主日』を祭日としてふさわしく過ごす方法を見つけ、ミサの中で聖書を聖なるものとして祝うことで、みことばが持つ価値を会衆にはっきりと示すことが重要です」と強調された。

 なお、教令が公布された9月30日は、4大ラテン教父の一人で、「ブルガタ訳」と呼ばれるラテン語訳聖書の翻訳者として知られる聖ヒエロニモ司祭教会博士(347年頃-420年)を記念する日に当たる。聖ヒエロニモは2020年に帰天1600年を迎えるが、その記念日に自発教令を発表された教皇は、「聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと」という同聖人の言葉を引用しつつ、「御言葉に捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育む」ことを願われた。

 自発教令のタイトル「Aperuit illis(彼らに開いた)」は、復活後のイエスが弟子たちに現れ、昇天の前に、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」というルカ福音書の記述(24章45節)から採られている。

【教皇フランシスコ自発教令『アペルイト・イッリス』(Aperuit illis「彼らに開いた」の意)の全文】(Sr.岡立子による試訳)】
1.「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた」(ルカ福音書24 章45節)。これは、復活の主によって成し遂げられた、昇天前の最後のジェスチャーの一つです。

 主は弟子たちが共に集まっているところに現れ、彼らと共にパンを裂き、彼らの心(精神、頭脳)を聖書の理解へと開きました。おびえ、失望していた彼らに、過越の神秘の意味を明らかにしました:つまり、御父の永遠の計画に従って、イエスは、罪人の回心と赦しを差し出すために、苦しみ、死者の中から復活しなければなりませんでした(ルカ福音書24章46- 47節参照);そして、この救いの「神秘」の証人となる力を与えるであだろう聖霊を約束します。

 復活の主、信じる者たちの共同体、聖書の関係は、私たちのアイデンティティーにとって、非常にに重要です。私たちを導く主がいなければ、聖書の深みを理解することは不可能です。しかしまた、その反対も真実です:聖書がなければ、イエスの使命(ミッション)の出来事と、世における教会の出来事は、不可解なままです。

 正当にも、聖ヒエロニモは書くことができました:「聖書を知らないことは、イエスを知らないことである」(In Is.,Prologo: PL 24,17)。

2.慈しみの特別聖年の終わりに、私は「神のみことばに完全に捧げられた主日」を考えることを願いました。

 「主とその民との間の対話から生まれ出る、くみ尽くすことのできない豊かさを理解するために」(使徒的書簡『あわれみあるかたと、あわれな女』Misericordia et misera 7項)。典礼暦の一つの主日を、特別に、神のみことばに捧げることは、何よりも先ず、教会、そして私たちにも、ご自分のみことばの宝庫を開ける復活の主のジェスチャーを追体験させることを可能にします-私たちが、世において、この汲み尽くせない豊かさを告げる者となることが出来るように-。

 それに関する聖エフレムの教えが思い起こされます:「主よ、誰が、あなたの言葉の中の、たった一つの言葉のすべての豊かさを理解することが出来るでしょうか。私たちが理解出来るものよりも、見逃されるものの方が、はるかに多いのです。

 私たちはまさに、泉から水を飲む、のどの渇いた者のようです。あなたの言葉は、多くの異なる側面を差し出します。それを研究する人々の観点が多くあるように。主は、ご自分の言葉を、多彩な美しさで色づけました。それを極める人々が、彼らが望むものを観想することが出来るように。主は、ご自分の言葉の中に、すべての宝を隠しました。私たち一人ひとりが、観想しているものの中に、豊かさを見つけるように」(Commenti sul Diatessaron, 1,18)。

 ですから、私はこの書簡をもって、神の民の側から届いた、全教会が目的において一致して、「神のみことばの主日」を共に祝うことができるようにという、多くの要求に答えようと思います。キリスト共同体が、その日々の存在における神のみことばの偉大な価値に集中する時を経験するのは、すでに共通の実践になっています。

 さまざまな地方教会において、聖書が、これまで以上に、信徒たちにアクセスしやすくなるように、豊かなイニシアティブがあります-こうして、信徒たちが、このように大きな賜物に感謝し、毎日それを生きることに献身し、一貫性をもってそれを証しするように-。

 第二バチカン公会議は『啓示憲章』(Dei Verbum)をもって、神のみことばの再発見に大きな弾みを与えました。つねに黙想し、生きるに値するこれらのページから、聖書の性質(本質)naturaが明確な方法で浮かび上がります:世代から世代へと継承されること(第二章)、その神的インスピレーション(第三章)-それは旧約と新約聖書を包括します(第四、五章)-、その、教会の生活における重要性(第六章)。

 この教えを促進するため、ベネディクト十六世は、2008年、「教会の生活と使命(ミッション)における神のみことば」というテーマで、司教会議(シノドス)を招集し、その後、わたしたちの共同体にとって不可欠の教えを形成する、使徒的勧告『主のことば』Verbum Dominiを公布しました1。この文書の中で、特別な方法で、神のみことばの遂行的(すいこうてき)特徴(il carattere performativo)ー特に、典礼的行為において、その固有な秘跡的特徴が浮かび上がる時に-が深められました。

 したがって、私たちの民の生活の中で、この、主がご自分の花嫁に、決して疲れることなく向ける生ける神のみことば-愛と信仰の証しにおいて成長するために-との決定的な関係が欠けることがないようにすべきです。

3.ゆえに、年間第三主日が、神のみことばを祝い、黙想し、広めることに捧げられることを制定します。この「神のみことばの主日」は、このようにして、年間の中の適切な時-私たちが、ユダヤ人との絆を強め、キリスト者の一致のために祈るよう招かれている時-に置かれます。

 それは単なる偶然ではありません:「神のみことばの主日」を祝うことは、エキュメニカルな価値を表しています。なぜなら、聖書は、耳を傾ける者たちに、真の一致、堅固
な一致に達するために辿るべき道を示すからです。

 各共同体は、この「主日」を、祭日として生きるための方法を見出すようにしてください。ですから、聖体祭儀において、聖なる書を祝聖する(intronizzare()ことは大切でしょう-このようにして、会衆に、神のみことばがもっている規範的価値(il valore normativo)を明白にするために-。この主日に、特別な方法で、その宣言を明らかにすること、また、主のみことばに与えられる奉仕を強調するために説教を適応させることは有益でしょう。

 司教たちは、この主日に、朗読奉仕者(Lettorato)の儀式を執り行うこと、または、同じような職務を委託することができます-典礼における神のみことばの宣言の重要性を呼び起こすために-。実際、何人かの信徒たちを、適切な準備をもって、みことばの真の告知者となるよう準備することに、あらゆる努力を惜しまないことは本質的です-侍者や、聖体奉仕者のために、すでに一般的に起きているように-。

 同じ尺度で、教区司祭たちは、聖書、またはその一つの書を、全会衆に届けるための形を見出すことが出来るでしょう-日々の生活の中で、継続的に、朗読、聖書を深めること、聖書とともに祈ることの大切さを浮き立たせるために-「霊的読書(レクチオ・ディビナlectio divina)」への特別な言及とともに-。

4.イスラエルの民の、バビロン捕囚後の母国への帰還は、律法の書の朗読によって、意味深い方法で印されました。聖書は私たちに、ネヘミヤ記の中で、その時の感動的な描写を差し出しています。民はエルサレムの水の門の前の広場に集まり、律法の書に耳を傾けました。この民は、追放によって離散されていましたが、今、聖書の周りに、あたかも「一人の人(un solo uomo)」のように集まりました(ネヘミヤ記8章 1節)。

 聖なる書の朗読に、民は「耳を傾け」ました(同3節)-この言葉の中に、経験した出来事の意味を見出す(回復する)ことが出来ると知りながら-。これらの言葉の宣言への反応は、感動と涙でした:「[レビ人たちが]神の律法の書を読み、それを訳し、説明したので、1 Cfr AAS 102 (2010), 692-787. 2 「こうして、みことばの秘跡的性格を、聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとでのキリストの現実の現存との類比によって理解することができます。私たちは、祭壇に近づき、聖体の会食にあずかることにより、本当にキリストの体と血にあずかります。典礼において神の言葉が朗読されることにより、キリストご自身が私たちとともにいて、私たちに語りかけ、ご自分の言葉に耳を傾けることを望んでおられることを私たちに悟らせてくれます(『主のことば』56項)。

民は朗読された事を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり律法学者であるエズラと、民に説明したレビ人たちは、民全体に向かって言った、『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日である。嘆いたり、泣いたりしてはならない』。律法の言葉を聞いて、民はみな泣いていたからである。[…]『悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力である』」(ネヘミヤ記8章8-10節)。

 これらの言葉は、偉大な教えを含んでいます。聖書は、ただ、何人かの財産でも、ましてや、少数の特権的な人々のための全集でもありません。それは、何よりも先ず、このみ言葉を聞き、み言葉の中に自らを認める(自分自身を認識する)ために招集された民に属しています。

 しばしば、聖なる書を独占しようとする傾向が起こります-それを、いくつかのサークル、または、選抜されたグループに追いやりながら-。そうであってはなりません。聖書は、主の民の書です。民は、それを聞くことにおいて、離散や分裂から一致へと通過します。神のみことばは、信徒たちを一つにし(結び付け)、一つの民とします。

5.聞くことから生まれる、この一致において、牧者たちは、第一に、聖書を説明し、すべての人が理解できるようにする、大きな責任をもっています。

 聖書は民の書なので、み言葉の奉仕者となる召命をもっている人々は、それを自分の共同体にアクセス可能にする必要を、強く感じるべきです。

 説教は、特に、まったく特有な役割を帯びています。なぜなら「秘跡的ともいえる性格(un carattere quasi sacramentale)」をもっているからです(使徒的勧告『福音の喜び』142)。聞いている人に適した簡単な言語で、神の言葉の深みに入らせることは、司祭に、「善の実践へと励ますために主が用いたイメージの美しさ」(同)を発見させることを可能にします。これは、見逃すべきではなく、司牧的機会です!

 実際、私たちの信徒たちの多くにとって、これは、神のみ言葉の美しさを捉え、彼らの日常生活に関連しているのを見るための唯一の機会です。ですから、説教の準備のために適切な時間を捧げることが必要です。聖なる朗読への解釈は、即興的には出来ません。

 私たち説教者たちには、学者ぶった説教、または無関係な話しで、過度に広げない務めが求められます。私たちが、聖なる書について黙想し、祈るために留まるとき、聞いている人の心に届くよう、心から語ることが出来ます-把握され実を結ぶ、本質を表現することによって-。

 聖書に時間と祈りをささげることに、決して疲れないようにしましょう。それが、「人間の言葉としてではなく、神の言葉として」受け入れられるために(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)。

 カテキスタもまた、信仰において成長することを助けるための彼らの任務のために、聖書との親しさと勉強を通して、自分自身を刷新する緊急性を感じることは良いことです-それは、彼らの言葉を聞く人々と神のみことばとの間の、真の対話を促進することが出来ます-。

6.家の中に閉じこもっていた使徒たちの所に行き、彼らを聖書の知識に開く(ルカ福音書24章 44- 45節参照)前に、復活の主は、エルサレムからエマオへ行く道を歩いている、二人の弟子に現れます(同13-35節参照)。

 福音記者ルカの話は、それが復活と同じ日、つまり日曜日であると記しています。これらの二人の弟子たちは、最近のイエスの受難と死の出来事について話し合っています。彼らの歩みは、イエスの悲劇的な最後への悲しみと失望で印されています。

 彼らはイエスの中に、解放をもたらすメシアを期待していましたが、今、十字架刑のスキャンダルを前にしています。復活の主ご自身が、節度をもって近づいてきて、弟子たちと共に歩き始めました。しかし、彼らはイエスであることに気付きませんでした(同16節参照)。道を歩きながら、主は彼らに問いかけました。彼らに、ご自分の受難と死の意味が分かっていないことを悟らせながら。彼らを「物わかりが悪く、心の鈍い者たち」(同25節)と呼び、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、二人に説明された」(27節)。

 キリストは、最初の聖書解釈者です!旧約聖書が、キリストが実現するだろうことを先取りしていただけでなく、キリストご自分が、その「みことば」に忠実であることを望みました-キリストのうちに完成を見出す、唯一の救いの歴史を明らかにするために-。

7.このように、聖書は聖なる書であるので、キリストについて語り、キリストを、栄光に入るために苦しみを通過しなければならなかった方として告げます(26節参照)。一部だけでなく、聖書全体がキリストについて語っています。

 彼の死と復活は、聖書がなければ解読することは出来ません。そのため、最も古代の信仰宣言は、キリストが「聖書に書いてあったとおりに私たちの罪のために死んでくださり、葬られ、聖書に書いてあったとおりに三日目に復活し、ケファに現れ、次いで十二人に現れた」(コリントの信徒への手紙一15章 3- 5節)と強調しています。

 聖書は、キリストのことを語っているので、キリストの死と復活が神話ではなく、歴史に属していること、また、彼の弟子たちの信仰の中心にあると信じることを可能にします。聖書と、信じる者たちの信仰との間には深い絆があります。信仰は聞くことから来て、聞くことはキリストの言葉に中心を据えているので(ローマの信徒への手紙10章17節参
照)、そこから、信じる者たちが、典礼の行為においても、祈りや個人的黙想においても、主のみ言葉に耳を傾けることを確保しなければならない、という緊急性と重要性が生じます。

8.復活の主の、エマオの弟子たちとの「旅」は、夕食で結ばれます。謎の旅人は、二人が彼に向けた執拗な要求を受け入れました:「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」(ルカ福音書24章29節)。イエスは、食卓に座り、パンを取り、賛美をささげて(祝福を唱えて)、それを裂いて、彼らに渡しました。この瞬間、彼らの目は開かれ、彼らはイエスであることに気付きました(同31節参照)。

 この場面から、私たちは、聖書と聖体祭儀(Eucaristia)の関係が、どんなに切り離せないものであるかを理解します。第二バチカン公会議は教えています:「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである」(『啓示憲章』21項)。

 聖書と、聖体祭儀に、絶え間なくあずかることは、属している人同士が、互いに認め合うことを可能にします。私たちは、キリスト者として、歴史の中を歩む唯一の民です-私たちのただ中にいる、私たちに語りかけ、私たちを養う主の現存に強められて-。聖書に捧げられた日が、「一年に一回(una volta all’anno)」ではなく、一年全体のための機会(una volta per tutto l’anno)となるように。

 なぜなら、私たちは、聖書と、信じる者たちの共同体の中で、絶え間なく「み言葉」と「パン」を裂く復活の主と、親しく親密になる、緊急な必要をもっているからです。そのため、私たちは、聖書との持続的な親密さの中に入る必要があります。そうでなければ、心は冷たくなり、目は閉じたままになります-私たちがそうである、無数の無知(盲目)の形によって打たれて(colpiti come siamo da innumerevoli forme di cecità)-。

 聖書と諸秘跡は、互いに切り離せません。秘跡が、「み言葉」によって導入され、照らされるとき、それらは歩みの目的として現れます-その中で、キリストご自身が、ご自分の救いのわざに気づくよう、頭(知性)と心を開きます-。このコンテクスト(文脈)において、黙示録から来る教えを忘れないことが必要です。そこでは、主が、戸口に立って叩いていることと教えます。もし誰かが、キリストの声を聞いて戸を開くなら、キリストは、共に食事をするためにそこに入ります。

 キリスト・イエスは、聖書を通して私たちの戸を叩いています。もし、私たちが耳を傾けて、頭と心の戸を開くなら、その時、キリストは私たちの生活(人生)の中に入り、私
たちと共に留まります。

9.テモテへの第二の手紙の中で-それは、何らかの方法で、パウロの霊的遺言を形成しています-、聖パウロは、彼の忠実な協力者に、絶え間なく聖書に親しむよう勧告しています。

 使徒は、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益」であると確信してます。この、パウロのテモテへの勧告は、公会議の『啓示憲章』が、聖書の霊感についての偉大なテーマを取り扱った土台を形成しています-その土台から、特に、聖書の救済的目的(la finalità salvifica)、霊的側面l(a dimensione spirituale)、受肉の原理)(il principio dell’incarnazione)が浮かび上がります-。

 特に、パウロのテモテへの勧告を呼び起こしながら、『啓示憲章』は強調します:「聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書として書き留められることを欲した真理を堅固に忠実に誤りなく教えるものである」(11項)。聖書は、キリストにおける信仰による救いを考慮して教えているので(テモテへの手紙二3章15節参照)、そこに含まれている諸真理は、私たちの救いに役立ちます。聖書は、歴史書の全集でも記録でもなく、全面的に、人間の総体的救い(la salvezza integrale della persona)に向けられています。

 聖書に含まれているさまざまな書の、否定できない歴史的ルーツ(根源)は、この原初の目的を忘れさせるものであってはなりません:私たちの救い。すべては、聖書の本質自身の中に刻み込まれている、この目的に向けられています。聖書は、救いの歴史として成り立っています。その中で、神は語り、行動します-すべての人々に会いに行くために、彼らを悪から、死から救うために-。

 そのような救済的目的に達するために、聖書は、聖霊の働きのもとに、人間のやり方で書かれた人間の(人々の)言葉を、神の「み言葉」に変容させます(『啓示憲章』12参照)。聖書における聖霊の役割は本質的です。聖霊の働きなしには、原理主義的な解釈を容易にしながら、書かれたテキストだけの中に閉じこめられる、警戒すべき危険があります。

 そこから離れる必要があります。聖なるテキストがもっている、インスピレーションを受けた、ダイナミック(動的)、霊的な性格を裏切らないように。使徒が思い起こしているように、「『文字』は人を殺し、『霊』は人を生かす」(コリントの信徒への手紙二3章6節)。ゆえに、聖霊は聖書を、神の生けるみ言葉―ご自分の聖なる民の信仰の中に経験され、継承された―に変えます。

10.聖霊の業は、単に聖書の形成に関するだけではなく、神のみことばを聞くことに身を置く人々の中にも働きます。公会議教父たちの断言は重要です。彼らによると、聖書は「それが書かれたのと同一の霊において読まれかつ解釈されなければならない」(『啓示憲章』12項)。イエス・キリストと共に、神の啓示は、その成就、充満に達しました。

 しかし、聖霊はその業を継続します。実際、聖霊の業を、神の霊感を受けた聖書の性格と、そのさまざまな著者にだけ限定するのは少なすぎるでしょう。ゆえに、ご自分の独自のインスピレーションの形を実現し続ける聖霊の業に、信頼することが必要です―教会が聖書を教えるとき、教導職が聖書を公的に解釈するとき(同、10項)、また、一人一人の信者が、それを、自分の霊的規範(la propria norma spirituale)とする時に―。

 この意味で、私たちはイエスが言った言葉を理解することができます―ご自分のたとえ話の意味を把握したと認めた弟子たちに―:「天の国について学んだ学者はみな、新しいものと古いものを、自分の倉から取り出す、一家の主人に似ている」(マタイ福音書13章 52節)

11.最後に、『啓示憲章』は明確にしています:「かつて永遠なる父のみ言葉が人間の弱さをまとった肉を受け取って人間と同じようなものになったのと同様に、神の言葉は人間の言語で表現されて人間の言葉と同じようにされた」(13項)。それは、神のみことばの受肉が、神のみ言葉と、人間の言語との間の関係に、形と意味を与えた―その歴史的、文化的状態とともに―、と言うようなものです。

 「伝統」-それもまた神のみ言葉です(9項参照)―が形を取ったのは、この出来事においてです。聖書と「伝統」を分離する危険が、しばしばあります―それらが一緒に「啓示」の唯一の源泉であることを理解せずに―。

 前者の、書かれた性格は、完全に生ける言葉であるということを何も奪いません(Il carattere scritto della prima nulla toglie al suo essere pienamente parola viva);世代から世代にわたって絶え間なくそれを継承している、教会の生ける伝統も、「信仰の最高の基準」(21項)として、あの聖なる書を所有しています。

 また、書かれたテキストとなる前に、聖書は口伝で継承され、それを自分たちの歴史、他の多くの民のただ中でのアイデンティティーの原則として認識した民の信仰によって、生き生きと保たれてきました。ゆえに、聖書的信仰は、本にではなく、生けるみ言葉に土台を据えています。

12.聖書は、それをもって書かれたのと同じ霊において読まれる時、常に新しく残ります。旧約聖書は、決して、かつてあった古いことではなく、新約聖書の一部です-なぜなら、それにインスピレーションを与えた唯一の霊によって、すべてが変えられるからです-。

 聖なる書全体は、一つの預言的役割をもっています:それは、将来に関するのではなく、この「み言葉」で養われている人の「今日」に関するものです。イエスご自身、ご自分の任務の始めに明言しています:「この聖書の言葉は、あなた方が耳にしたこの日[今日]、成就した」(ルカ福音書4 章21節)。日々、神のみことばに養われている人は、自分が出会う人々と同時代であるイエスのようになります;過去への不毛なノスタルジー(郷愁)に陥ることも、将来への肉体のない(具体的ではない)ユートピアに陥ることもありません。

 聖書は、その預言的な業を、先ずそれを聞いている人に対して行います。聖書は甘美さと苦さです。預言者エゼキエルが、主から、巻物の書を食べるように招かれたときの言葉が思い起こされます:「それはわたしの口に、蜜のように甘かった」(同3章 3節)。福音作者ヨハネも、パトモスの島で、巻物を食べる、エゼキエルと同じ経験をしますが、さらに詳細を加えます:「口には蜜のように甘かったが、食べてしまうと腹には苦かった」(10章10節)。

 神のみ言葉の甘美さは、私たちの人生において出会う人々を、それに参与させるように私たちを急き立てます―それが含んでいる希望の確信を表すために(ペトロの手紙一3章 15-16節参照)―。他方、苦さは、しばしば私たちにとって、一貫性をもってそれを生きることがどんなに難しいかを実証することから、また、人生に意味を与えるために有効ではないと見なされ、それが拒否されることを体験することから来ます。

 ですから、決して「神のみ言葉」に慣れてしまわないこと、私たちの神との関係、兄弟たちとの関係を、深く見出し、それを生きるために、み言葉で養われることが必要です。

13.聖書から来るさらなる挑戦は、愛の業(la carità)に関することです。神のみ言葉は、ご自分の子らに愛の業において生きるよう求める、御父の慈しみ深い愛を、絶え間なく呼び起こします。

 イエスの生涯は、この神の愛の、完全で満ち溢れる表現でした。イエスは何もご自分の為に取って置かず、ご自身を、制限なく、すべての人々に差し出しました。貧しいラザロのたとえ話の中に、私たちは貴重な示唆を見出します。ラザロと金持ちが死んだ時、金持ちは、貧しい人がアブラハムの懐にいるのを見て、自分の兄弟たちに彼を遣わし、彼らに、隣人への愛に生きるよう忠告するようよう頼みます―彼らが同じ苦悩を味わうことがないように―。

 アブラハムの答えは辛辣です:「彼らにはモーセと預言者たちがいる、彼らの言うことを聞けばよい」(ルカ福音書16章29節)。慈しみを実践するために、聖書に耳を傾けること:これは私たちの人生の前に置かれた、大きな挑戦(課題)です。神のみ言葉は、私たちを、窒息させ、不毛に導く個人主義から脱出させるために、私たちの目を開くことが出来ます。分かち合いと連帯の道を開け放って。

14.イエスと弟子たちの関係の中で、最も意味深いエピソードの一つは「主の変容」の物語です。

 イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に、祈るために山に上ります。福音作者たちは、イエスの顔と衣が輝き、二人の人がイエスと話していたことを思い出させます:モーセとエリヤ、彼らはそれぞれ、律法と預言者、つまり聖書を擬人化しています。このビジョン(幻)へのペトロの反応は、喜ばしい驚きに満ちています:「先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。三つの仮の庵を造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」(ルカ福音書9章33節)。その時、雲がその影で彼らを包み、弟子たちは恐れます。

 主の変容は、捕囚からの帰還の後、エズラとネヘミヤが民に聖なる書を読み聞かせた、幕屋祭を思い起こします。同時にそれは、受難のスキャンダルへの準備において、イエスの栄光、主の現存の象徴である弟子たちを覆った雲からも呼び起こされる、神の栄光を先取りします。

 この、主の変容は、聖書の変容に似ています―それは、信じる者たちの生活を養うとき、自身を超越します。『主のことば』が思い起こしているように:「聖書のさまざまな意味の間の関係を再発見するうえで、文字から霊への移行を捉えることが不可欠です。この移行は自動的でも自然なものでもありません。むしろ私たちは文字を乗り越える必要があります」。

 神のみ言葉の受容の歩みにおいて、主から告げられたことが成就すると信じたので、幸いと認められた(ルカ福音書1章45節参照)主の母が、私たちに寄り添います。マリアの幸い(beatitudine)は、イエスが、貧しい人、苦しむ人、柔和な人、平和をもたらす人、迫害されている人々に向かって発した、すべての幸いに先立ちます。なぜなら、それは、他のどんな幸いにも必要な条件だからです。

 貧しい人は、貧しいから幸いなのではありません。その人は、マリアのように、神のみ言葉が成就することを信じる時、幸いになります。そのことを、偉大な弟子であり、聖書の先生、聖アウグスチヌスが思い起こしています:「群衆の中の誰かが、熱意にかられて叫びました:『あなたを宿した胎は、何と幸いなことでしょう』。そしてイエスは言います:『むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人々である』。こう言うかのように:あなたが幸いと呼ぶ、私の母も、まさに、神の言葉を守ったから幸いなのです。

 彼女の中に、み言葉が肉(人)となり、私たちの間に住んだからではなく、神のみ言葉そのもの―それを通して彼女は造られ、そして彼女の中で肉(人)となった―を守ったから幸いなのです」(『ヨハネの福音について』10章3節)。

 み言葉ことばに捧げられた主日が、神の民の中で、聖書との、熱心で敬虔な親しさを育てることが出来ますように。すでに、古代において、聖書の作者が教えていたように:「その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる」(申命記30章14節)。

ローマ、ラテラノ大聖堂にて、2019年9月30日 聖ヒエロニモ帰天1600周年の始まりに フランシスコ

(聖書の引用の日本語

は原則として「聖書協会 共同訳」とし、ジャン間の編集を加えてあります「カトリック・あい」)

2020年1月18日

・前教皇が「沈黙の約束」を破ったことで制御不能な事態に(LaCroix)

(2020.1.16 LaCroix Robert Mickens)

  バチカン発- このような事態は予想されていなかった。だが、事態は悪化している可能性があり、さらに悪化する可能性もある。

 だが今、前教皇、ベネディクト16世は、司祭独身制を強く擁護する本の共著者であると明示したことを巡る見苦しい論叢の真っただ中に、自分がいることを知った。そして、この共著書は、教皇フランシスコに既婚者の司祭叙階について検討さえもさせない試みのように、疑われている。

 この本の発案者であり、ベネディクトと共に共著者となったのは、バチカン完了を長く勤め、現在は典礼秘跡省の長官であるロベール・サラ枢機卿。教皇フランシスコの改革路線に反対するカトリック保守派のヒーローの1人だ。

 問題の本「From the Depths of Our Hearts」は、既にフランス語版が出ており、英語版も間もなく出版される。保守的なフランスの日刊紙「ル・フィガロ」は、この本の抜粋とサラ枢機卿のインタビューを12日付けの紙面に掲載し、教会関係者の間に大きな動揺を引き起こした。

*教皇フランシスコへの”警告”?

 特に出版のタイミングが問題だった。つまり、教皇フランシスコが、昨年秋のアマゾン地域シノドスでの議論をもとにした司教たちの提案を受ける形で、数週間後にも、文書を発表するとされている、その時期を狙ったような本の出し方だ。

 司教たちの提案の主眼は既婚男性の司祭叙階を条件付きで承認することにあり、この時期の出版には、教皇が文書でこの提案を認めるのを思いとどまらせようとする狙いがある、と受け止められたのである。

 この本についての報道があって48時間以内に、ベネディクトの個人秘書、ゲオルク・ゲンスヴァイン大司教はこの件について発言し、前教皇は共著者となることに同意したことが絶対になく、本の表紙から自分の名前を削除するよう要求した、と言明した。「自分はサラ枢機卿に随想文を渡しただけで、他には何も書いていない、本の表紙(の原稿)も見なかった、とベネディクトは言っておられます」。

 ソーシャルメディアのCatholic関係者に議論の場を提供するページでは、今回起きたことをめぐる様々な憶測、そして激しい闘争が巻き起こった。-サラ枢機卿がベネディクトを利用したのか?共著者に仕立て上げたのか? それとも、秘書のゲンスヴァイン大司教が、ベネディクトを共著者にすることを認めたのか?今回の事でベネディクトや他の人たちが不満を表明したので、大司教は否定声明を出したのか?

*ただの誤解なのか?

 真相はまだ明らかではない。大司教は「ベネディクトは自分の名前を本に入れることに決して同意しませんでした」と言うが、サラ枢機卿はベネディクトが署名したいくつかのタイプ印刷の手紙をすでに作成しており、そのことはベネディクトが実際に同意していたことを示している。

 サラ枢機卿は、すくなくとも今は、大司教の言明に従い、ベネディクトの名は再版の段階で外す、と述べたが、ベネディクトがこの本の寄稿者であり、本の中身が変わることは無い、と念を押している。そして、ゲンスヴァイン大司教は「それは、誤解の問題です。サラ枢機卿の誠実さに疑問を投げかけるものではありません」と説明した。にもかかわらず、サラ枢機卿への疑惑は無くならない。彼を熱烈に支持していた保守派の人々の中には、ベネディクトを利用しようとした、として彼を非難する者もいる。

 他の人々は「すべてがゲンスヴァインのせいだ」と言い、自分たちの計画が台無しにされたとして、彼を犠牲にした。

*誤った主張より問題なのは…

 本の実際の内容について言えば、ベネディクトのこの本への寄与は別にして、それ以外は、司祭職と独身制の関係に関するカトリックの教義をひどく誤って伝える内容になっている。歴史的な事実も無視している。さらに言えば、独身司祭職の終末を迎える危機にあるという、ごまかしを主張していることだ。

 実際のところ、独身制の廃止を提案する者はこれまでに一人もいない。既婚者の司祭叙階を、教会の歴史の初めのころのように、全教会で再開するよう求める意見があるだけだ。

 この本の中でなされた不当な主張は、実際にはあまり重要ではない。本当の問題は、前の教皇が、普遍教会を統治する自分の後継者の自由を妨げようと努めている(あるいは引き込まれている)ところにある。

 

*だれが責任を負うべきか

 非難すべきことは多い。

 ゲンスヴァイン大司教は確かに責任の一端を負わねばならない。 63歳のこのドイツ人高位聖職者は、ベネディクト16世の個人秘書を、彼が教皇に選ばれる2年前から務めている。ベネディクトは、教皇辞任を発表するわずか2か月前に、ゲンスヴァインを教皇公邸管理部室長にし、司教に任命した。新教皇フランシスコは、彼をそのポストに留任させ、しかも、彼はベネディクトの個人秘書も従来通り勤め続けている。

 男性2人と聖別された一般信徒の女性4人が現在、ベネディクトが住むバチカン庭園にある複数階の建物に共に住み込んでいる。ベネディクトは、引退後7年近く、ほとんど毎日、訪問者をこの自宅に迎えている。彼の秘書は”門番”で、誰がベネディクトに会うことができ、誰が会えないかを決める。

 過去数年間、ベネディクトは歳を重ねるごとに弱ってきたため、「保護者および介護者」としての大司教の役割はより重要になってきた。今月初めにドイツのバイエルンのテレビで放映されたドキュメンタリーは、ベネディクトの衰弱が進んでいることを示していた。

 そのようなわけで、サラ枢機卿に独身制に関する彼の考えを公けにする許可を与えるために、ベネディクトが書いた(あるいは筆記させた)手紙の署名は、ほとんど判読できない。このことは、少なくとも、誰か(つまりベネディクトの秘書)が、この本の出版計画について、サラ枢機卿と交渉する責任を負った可能性があることを示唆しているのだ。

 

*新保守派、サラ枢機卿が反フランシスコを煽る

 ロベール・サラ枢機卿がバチカンで働き始めたのは2001年。当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が彼を福音宣教省の長官に任命してからだ。彼は、その22年前、34歳の時に、故郷のギニア、コナクリ教区の教区長、司教に選ばれていた。福音宣教省長官時代の彼は「物静かな、祈りの人」をして知られていたが、保守主義者として頭角を現したのは、ベネディクト16世が彼を開発援助促進評議会の議長にした時からだ。

 フランシスコが教皇に選出された後、彼の司牧面での改革、とくに離婚して再婚した信徒の扱いに対する方針に異議を唱える枢機卿集団の一員となり、教皇に対する完全な信頼の欠如を示す小論や著作を欠き始めた。だから、教皇が彼を2014年に、典礼秘跡省の長官に任命した時には、驚きの声が上がった。

 以前に伝えられたように、教皇がこのポストに最初に考えたのは、教皇儀典長のピエロ・マリーニ大司教だったが、ベネディクトに近い人々(おそらく、ベネディクトの要請を受けた人々)は、フランシスコにそのような人事をしないよう強く求め、カトリックの保守派との抗争を引き起こす、と警告した。

 それを受ける形で、教皇はサラ枢機卿を典礼秘跡省の長官に任命したのだが、それ以来、教皇は、聖木曜日に(注:それまでは男性だけと限られていたのを改め)女性の足を洗うなどの典礼改革を進めるために、抵抗するサラ枢機卿を手なずけねばならなかった。教皇はまた、第二バチカン公会議をもとにした典礼改革のさらなる改革(すなわち破滅)をもとめる保守派の主張を、枢機卿が公に支持したことで、彼を叱責せねばならなかった。

 サラ枢機卿は、この新しい本で論争を巻き起こしたことで、ゲンスヴァイン大司教と同程度に有罪だ。2人の男は政治的に保守主義者であり、教会的には新保守主義者であり、欧州の右翼政治家、社交界の名士たち、後退行動の人々と結束している。いずれも、これらの人々と集団がベネディクト16世を教皇フランシスの対抗勢力とし見なし、ベネディクトを唯一の正当な教皇と主張することさえあるのを、十分に認識している。この新しい本の出版のように、彼らの公開キャンペーンに、引退教皇の支持を得ることによって、教皇フランシスコへの反対する動きを煽ろうとしているのだ。

*最も責任が重いのは…だが、自分自身も守れない

 だが、この最新の混乱に最も責任があるのは、ベネディクトに他ならない。

 2013年に教皇職を放棄した時、彼はローマの司教としての権利と義務も失った。彼は大胆かつ向こう見ずな動きをし、歴代の教皇が約600年間したことのないことをした。だが、彼と彼の助言者たちの小さな集団は、この新しい状況に対処する精密な計画を立てるために、(全く、でないとすれば)広く相談することをしなかった。引退教皇のための確立された儀典書はなかったし、今だにない。ベネディクトと彼の人々は,急いでその埋め合わせをしたように思われる。

 しかし、自分が教皇の権力をまだ持っている、あるいは(注:フランシスコと)共有していることを示唆しないよう、細心の注意を払わねばならない、ということをはっきりと直観していたようだ。だから、自分から進んで沈黙を固守することを約束し、今後は「世界から隠された存在になる」と言ったのだ。

 だが、彼が沈黙の約束を破るまで、6か月しか要さなかった。ヨゼフ・ラッツィンガー時代の初期の作品の1つを批判した学者と哲学的、神学的な議論を始めた時、そのやりとりを公開する許可を与えた。そして、それ以来、彼は多くの集団(多くは保守主義者だ)に、彼らを支持する手紙を書いた。彼らは、ラッツインガー時代の著作と思想を、しばしば歪んだ方法で、教皇フランシスとの戦いに使った。

 ベネディクトは、これらの声との関係を公けに断つことで、そうした戦いを止めることができたただろう。しかも、沈黙を破ることが正当化されたのは一度だけだ。

 そして今、彼は衰弱し、もはや自分自身を守ることができない。そして、彼を守る義務がある人たちは、彼の声、つまり沈黙を保たなければならない声を利用して、教会の未来を形成しつつある前向きな議論を圧倒しようと、愚かで無責任な試みを続けている。

 しかし、結局のところ、これは彼らの過ちではない。彼らは、ベネディクト16世が自らの沈黙の約束を破った時に始まったことを、続けているだけなのだ。私たちが今目撃しているのは、約束の破綻がもたらした制御不能な結果だ。 そして、物事がそのまま続いた場合、非常に有害で不可逆的な事態になる可能性がある、ということだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年1月18日