・世界人権宣言70周年前に基本的人権の国際シンポジウム

Francis and Benedict back symposium exploring human rights

 Pope Francis with Pope Emeritus Benedict XVI

(2018.11.16  Tablet  James Roberts)

 国連の世界人権宣言70周年を前に、ラッツィンガー基金 (Joseph Razinger/Benedict XVI Vatican Foundation)が主催する「基本的人権と諸権利の間の対立」をテーマとするシンポジウムが15,16両日、ローマで開かれ、 教皇フランシスコと名誉教皇ベネディクト16世がともに、フェデリコ・ロンバルディ同基金会長に開会を祝う書簡を送った。

 「12月10日に、国連総会で世界人権宣言が採択されて70周年を迎えます。これはその歴史的出来事を祝うだけでなく、今日の世界で人権の理念を発展させ、実現することを考える機会となります」と教皇フランシスコは13日付け書簡で、次のように述べた。

 「私は、今年1月の外交団に対するあいさつで、人権宣言を取り上げ、このように申し上げました-人類家族を区別している分離の壁を取り除き、人間にとって不可欠な成長を助ける方向に向けられている、と。同時に、時がたつとともに、諸権利の中に変更が加えられていくー互いに反目し合うのではなく、多くの”新たな権利”が加わっていく-ことも強調しました。そうして一連の問題が明らかになり、権利についての考えとその基礎に深く関係していくのです。ベネディクト16世は、私たちの時代の差し迫った諸問題についてはっきりと警告し、思索家、司牧者として権威をもって、それに介入しました。それゆえに、20年前、こちらの大学は、当時ラッツインガー枢機卿だったベネディクト16世に”laurea honoris causa”を授与しました。ですから、私は、これから始まる学術的なシンポジウムが私たちの尊敬する名誉教皇の考えと真理を伝える権威に啓発され、勇気と深い思慮をもって人間の尊厳と成長を守るための根本的な問題を明らかにすることを期待します」

 また名誉教皇ベネディクト16世も12日付け書簡で語った。 「親愛なるロンバルディ神父へ。ご存知のように、数か月前に、今回の国際シンポジウムの計画を教えられ、即座に、それはとても有益な会議であり、素晴らしいことです、と申し上げました。特に、私にとっては、『諸権利の増殖』の問題と『人権の理念の破壊』のリスクについて腹蔵のない議論がなされることが重要と思われます。シンポジウムのプログラムに載っているように、人家族の共生の基礎を守ることは、現在の、根本的な課題であり、さらなる、秩序を持った見直しのテーマに値するものなのです。シンポジウムの全ての発言者、参加者に祈りをもって敬意と親しみを表明し、教会のため、そして人類家族のための貴重な奉仕としての働きを、主が祝福してくださいますように」

(翻訳・「カトリック・あい」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

 

「”人権”が選り好みされている」「”権利”の増殖が民主主義的プロセスに破壊的効果」

(2018.11.16 Vatican News By Lydia O’Kane)

 ラッツィンガー基金が主催する国際シンポジウムが16日終了した。おもな発言者は、バチカン国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿、プリンストン大学のロバート・ジョージ教授、ハーバード大学のマリー・アン・グレンドン教授など。16日の会議での講演で、グレンドン教授は「世界人権宣言の普遍的な広がりと、その効果的な適用」について語った。

 講演で、教授は「諸権利の選り好みの態度」を取り上げ、人権の考えはそれ自身の成功の犠牲になっている、と指摘。この意味について、教授はVaticanNewsに「残念なことに、その力を見せる間もなく、あらゆる種類の利益集団がこう言うのですー『さあ、我々の協議のテーマとして人権を取り上げよう』と」。

 彼女はまた、テーマに合わないような諸権利の攻撃に触れ、それに十分に気を付けるべきだ、として、その理由を「人権宣言のような文書に載せられる諸原則が相互に条件を付けられているから。例えば、我々は自由を止めたくない、我々は平等を止めたくない、と言うけれども、この二つは常に緊張関係にあり、私たちが幸いにも手に入れている民主主義社会で生きている中での動的な緊張の一部をなしています」と説明する。

 さらに「権利の増殖は通貨価値を下げる-極めて破壊的な効果をもち、自由な民主主義社会で私たちが幸いにも手にしている『仲間の市民に話しをし、歩み寄りを図る』という正常なプロセスを知らぬ間に害する-それが民主主義の政治の全てであり、もしも、政治的なプロセスからその決定を外し、裁判所の全てか、無かの判断を裁判所に任すことにすれば、何が起きるか。敗者は怒りと失望で出ていき、救済されることはありません」。

 人権宣言70周年を振り返る意義については、「そうすることはとても重要です。なぜなら、人権の理念の乱用についての最も早い時期の、最も深遠な批判の一つが十年前にベネディクト16世がなさったものだからです。国連での演説で、普遍的な人権の理念を脅かしている問題の大半を詳細に示されたのです」と説明した。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2018年11月18日

・「キリスト教徒のいない中東は想像不可能」教皇とアッシリア東方教会総主教が共同声明

(2018.11.9 バチカン放送)

 教皇フランシスコは9日、バチカンでアッシリア東方教会のカトリコス総主教マル・ゲワルギス3世と会談後、レデンプトリス・マーテル礼拝堂で中東平和のために祈り、共同声明に署名した。

 声明で、アッシリア東方教会とカトリック教会間の信仰と愛における歩み寄りの発展を神に感謝し、完全な一致が訪れる日を待ちながら、相互理解と福音を共に証しすることにおいて、前進していく決意を確認した。

 また、中東地域、特にイラクとシリアのキリスト教徒たちの悲劇的状況に対する、共通の苦しみを表明し、「何万という無実の人々が正当化しがたい暴力的紛争に苦しみ、キリスト教徒たちが使徒時代から諸宗教の人々と共存してきたその土地から逃避せざるを得ない現状を前に、共に祈り、人道的支援に取り組みたい」としている。

 そして、「キリスト教徒のいない中東は想像不可能」とし、キリスト教徒に対して「他の宗教の人々と共に、寛容・相互の尊重・受容という、中東地域特有のアイデンティティに貢献するように」と促すとともに、国際社会に対して、「すべての側の権利と義務を認める政治的解決がされるように」と呼びかけた。

2018年11月10日

・教皇基金が”サイバーいじめ”防止の国際的運動開始に協力

(2018.11.9 カトリック・あい)

 ツイッターやラインによるトラブルやいじめで自殺に追い込まれる若者が増加を続けており、9月にも、女子中学生が上級生からインターネット交流サイト(SNS)上で非難を受けたのが原因で、不登校になり、電車に飛び込んで命を落とすという痛ましい事件が起きた。文部科学省の調査によると14年度の小・中・高・特別支援学校におけるいじめの認知件数は18万8057件。うちパソコンや携帯電話等を使ったいじめは7898件にのぼっている。

 こうしたスマホいじめ、サイバーいじめは日本に限ったことではないようだが、具体的な取り組みも出てきている。イタリアではいじめの犠牲となった少女の父親が、サーバーいじめ防止の基金を作り、これに教皇フランシスコが創設した世界の学校問題対策の基金などと連携して、国際的な運動を視野に、具体的な取り組みを始めた。手をこまねいているばかりに見える日本の関係者、教会関係者もこうした動きから学ぶことがありそうだ。

以下、Cruxの報道より。

(2018.11.8 Crux Senior Correspondent Elise Harris)

 これは、自宅三階の寝室から飛び降りて命を絶った当時14歳のイタリアの少女、カロリーナ・ピッキオが残した言葉だ。彼女は、”サイバー”いじめの悪の連鎖の犠牲者だ。

 そして、これにショックを受けたカロリーナは翌年1月4日の夜に自らの命を絶ったのだった。彼女の死後、イタリア議会は2017年5月、オンライン上での未成年保護のため、スマホいじめを犯罪として取り締まる法律を成立させた。

 カロリーナの父、パオロは8日、ローマで会見し、スマホいじめ防止に役立てるため、彼女の名を冠した「カロリーナ基金」を設け、教皇フランシスコが設立した世界の学校のネットワーク構築のための「Scholas Occurentes」基金と連携、iDea Congressとも協力して、「サイバーいじめ防止の国際監視所」を開設することになった、と発表した。今後4,5か月以内に、サイバーいじめについて、徹底した調査をし、来年4月をめどに開く大会で結果を明らかにする予定だ。

 カロリーナ基金のイバノ・ゾッピ事務局長によると、調査は、サイバーいじめの実態把握、サイバーいじめのもたらしている影響と取締法令の現状、そして防止効果が証明された規制の手法の3項目に分けて行われる。

 また、「Scholas Occurentes」基金のホセ・マリア・コラール会長は、基金は世界中の若者たちの声を聴いており、実際に現地訪問した国々で、「若者たちが問題を抱え、答えを持っていない」ことが分かった、としたうえで、「もし世界を変えたければ、教育を変えなけばなりません」と、設立者の教皇フランシスコの言葉を繰り返した。

 また、十代の若者たちの間にある憔悴と自殺志向について、「彼らの多くは孤独を感じている」として、勉強するために米国にやってきた十代のメキシコ人少女が、米国滞在中に酷いいじめを受け、それを許すことを学んだものの、消えない心の傷が残った、という実例を挙げ、「こうしたことが繰り返されないために、監視所は、現在は得られない情報、具体的な提案に結び付く情報を提供したい」と述べた。

 コラール会長は、教皇が「いじめの第一の責任は、私たち、一般の人々にある、それは、いじめの背後に、”物言わぬ集団”がいるからです」と言われたことを取り上げ、「黙っていることが、いじめを悪化させ、力づけてしまう。いじめをしている者たちに、喝さいを受けている、と思わせてしまうのです」とし、「もはや黙っていることはできません。立場を明確にし、いじめと戦うのです…”空席”ができないように」と訴えた。

 また、今回の「監視所」創設のきっかけとなったカロリーナの父、パオロ・ピッキオはこの会見で、これまでにイタリア国内の300以上の学校を訪問し、3万人以上の若者たちにサイバーいじめの問題について話したことを明らかにし、その結果として、「単に話をするだけでなく、学校、礼拝施設、スポーツ・センターにサイバーいじめ防止の拠点を置き、指導資格を持った人を配置する必要がある」という思いを強く持った、と述べた。

 さらに、「若者の多くが、問題を抱えた時、親や先生には話せない、と感じている。それは、何か言いたいことがあっても、「話さなければよかった」と彼らを後悔させるような対応を、家族や先生がするからなのです」と指摘し、「この問題の専門家、若者たち、そして家族が一緒になって、問題を適切なやり方で考え、現実的で具体的な解決方法を求める必要がある」と力説した。

 そして、最後に、娘の遺書に強く心を動かされたのは、彼女が仲間たちに「お互いを尊敬するように、お互いと話をするように」と求める言葉を残していたこと、そして、彼女をからかった者たちに対して「もう一度、ハグを交わし、本当の友達、手を握っていると感じる友達になって」と切望していたこと、だった、と語り、「私たちが今日、ここで会見したのは、壮大な計画を実施しようとするからです。私たちは、国際的なレベルでこの問題を理解したい、若者たちと連絡を取り、問題を知ることで、完全にサイバーいじめを防ぐことができなくても、せめていじめを減らすようにしたいのです」と訴えた。

 

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2018年11月9日

・「若者シノドス」閉幕一週間たっても最終文書はイタリア語のまま‐に批判の声

(2018.11.7 「カトリック・あい」)

「若者シノドス」は世界中から集まった司教、一般信徒代表などによる1か月にわたる議論を経て10月28日に閉幕したが、一週間以上たった11月7日現在になっても、その成果を世界中の司教、司祭、信徒に知らせるはずの最終文書がイタリア語の原文のまま、主要外国語に翻訳されたものが発表されていない。

カトリック教会は半世紀前の第二バチカン公会議で、これまで「公用語」として全世界の教会の典礼などに使われていた「ラテン語」を改め、各国、各地域の言語を使用するようにしたが、今回のシノドスでは、小会議こそ英語、ドイツ語、フランス語など主要言語別に議論が行われたが、全体会議はイタリア語で、最終日前日に配られた最終文書原案はイタリア語、それがパラグラフごとに司会者が読み上げる時に主要言語による同時通訳がされたにとどまった。

結果、パラグラフごとに3分の2以上の賛成をもって、採択された正式の最終文書もイタリア語のみ。主要言語の翻訳版が同時に出されることはなく、採択後の記者会見で、バチカン広報から翻訳版の発表期日について具体的な説明はされないまま、現在(7日)に至っている。

 これについては、関係者から疑問や批判が上がっており、有力カトリック・ニュースサイトの「Lacroix International」も、2日付けで、この問題を取り上げ、「1か月にわたるシノドスで最大のスキャンダルは、ローマを本拠とする組織者たちによる、この会議の主要文書類‐採決に付された最終文書を含めて‐の翻訳版の提供の拒否、ないしは、そうすることへの関心の完全な欠如だった」と批判した。

 さらに、「すべては、何の断りもなく、イタリア語で書かれ、配布された」「これまで、シノドスの全ての文書はイタリア語版が出来てから24時間以内に世界の主要言語に翻訳され、世界中から会議に参加した人々は、これをもとに自信をもって討議に参加し、最終文書原案に対して責任をもって賛否を表明することができた」「だが、今回はそうでなかった。採決のために世界から集まった司教たちに配布された60ページの最終文書はイタリア語版のみだった。パラグラフごとの採決の際に、ヘッドフォンから主要言語の同時通訳が流されたのみ(注:印刷された活字として目を通すことはできなかった)」と、最終文書採決に至る過程の問題点を指摘。

 イタリア人でない何人かの司教たちが、会議の場でシノドス事務局長のロレンツォ・バルディッセーリ枢機卿に大々的に抗議したが、「枢機卿は気色ばんでこう言ったという。『あなた方がそれ(注:イタリア語)を好まないなら、次の会議はラテン語だけになるでしょう!』と」「はっきりさせよう。教皇庁は”石器時代”にとどまり、すべての業務はイタリア語でやる、と言い張り続けているのだ-『結局のところ、それが地元の言葉だから』と。だが、シノドスの組織者たちがそうすることは正しいことではない」とシノドス事務局の対応を非難。

 そして、「バルディッセーリ枢機卿は『シノドス制度が不正に操作されている』という陰謀説を”裏付け”る材料を、教皇の敵対勢力に提供するだけだ。今後開かれるシノドスでこのような過ちを繰り返してはならない」と訴えている。

 

 

 

2018年11月7日

☩「シノドスは私たちの心の中で働き続けねばならない」‐教皇、閉幕に当たって

(2018.10.28 VaticanNews  Christopher Wells)

 「若者シノドス」の閉幕に当たって、教皇フランシスコは28日、会議の一か月を振り返り、心に抱き続けている三つの点について話された。

*シノドスは”議会”ではない

  まず、教皇は「シノドスは議会ではありません」、むしろ、シノドスは聖霊が働かれる「守られた空間」であり、それゆえに、シノドスで起きた事についての情報は、いくつかの具体的な詳細な内容とともに、一般的なものとなった、と語った。そして「このことを忘れないようにしましょう。ここで働かれたのは聖霊です」と。

*シノドスは私たちの心の中で働かねばならない

 教皇が指摘された第二のポイントは、27日に採択されたシノドス最終文書に関係するものだった。「シノドスの結果は”文書”ではありません。むしろ、「シノドスは、私たちの心の中で働かねばならない」「聖霊は、この文書を、私たちの心の中で働くようにくださったのです。私たちはこの文書の受け手であり、外部の人々ではありません」と語られ、最終文書が働くために、「この文書とともに祈り、この文書を学び、光を求める」ことが重要だ、と強調した。

*祈りと償いで非難する者と戦う

 最後に、教皇は「私は、私たちの母、聖なる母である教会のことを考えます」と述べ、最終文書は、たとえ「教会の子供たちである私たちが罪人」だとしても、教会は聖なるものであると認識している、としたうえで、”偉大な告発人”はいつも私たちの罪を利用し、特に今、「彼は力を込めて告発し、この告発は迫害になってきています」と語った。

 そしてその迫害は、肉体的な暴力だけでなく、世界のいくつかの場所で見られるように、教会を汚すように作られた告発ともなっている、個々の信徒は汚れていても、教会はそうではないのだから、「今、私たちの母を守らねばならない。私たちの母は祈りと償いによって、”偉大な告発者”から守られるのです」と強調。

 それが、この月の初めに、世界の信徒たちに一か月を通して、ロザリオの祈りと聖ミカエルへの祈りを捧げるように、教皇が求めた理由だった、と説明し、「今は困難な時期です。それは、告発者が教会には手を付けず、私たちを通して私たちの母なる教会を攻撃するからです。シノドスの終わりに、私はこのことを『心から』申し上げます」と語った。そして、次のように締めくくった。「今、聖霊が、私たち全てのため、そしてまた私のために、にこの文書を授けます。彼が私たちに話したいことについて、深く考えるために。ありがとう、ありがとう、皆さん!」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2018年10月29日

・「耳を傾ける」「寄り添う」「証しする」-教皇と司教たちのミサでシノドス閉幕

(2018.10.28 バチカン放送)

 「若者、信仰そして召命の識別」をテーマとした「世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会」が28日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われた教皇フランシスコとシノドス参加司教たちによるミサで閉幕した。

 ミサには、若者たちをはじめ約7千人が参加、教皇は説教で、この日の福音朗読箇所、マルコ福音書のイエスがバルティマイという目の見えない人を癒すエピソード(10章46-52節 )を取り上げ、「耳を傾ける」「寄り添う」「証しする」という、信仰の歩みにおける3つのステップを示された。

「耳を傾ける」

 イエスは、道端で物乞いをしている目の見えないバルティマイの叫びを聞かれた。教皇は「信仰の歩みを助ける第一のステップは『耳を傾ける』こと、すなわち『耳の使徒職』にあります」と話された。

 だが、バルティマイは「弟子たちにとって、自分たちの歩みに迷惑な存在、旅の計画を邪魔する者」であり、「彼らは、イエスの時間よりも、自分たちの時間を大事にし、他人に耳を貸すよりも、自分たちの言葉に重きを置き、イエスに従いながらも、実際には自分たちの計画を頭に描いていたのです」と話された。

 教皇は、イエスのように愛をもって耳を傾ける心を恵みとして得ることを祈られ、若者たちに対し「教会の大人たちが、あなた方に耳を傾けなかったこと、あなた方の心を開く代わりに、自分たちの言葉であなた方の耳を塞いだこと」を謝られ、「これからは『イエスの教会』として愛をもって若者たちに耳を傾けたい」と述べられた。

「寄り添う」

 イエスは、バルティマイに「何をしてほしいのか」と言われた。教皇は、耳を傾けることの次のステップは「寄り添う」ことである、と話され、「イエスは、固定観念にとらわれず、バルティマイの立場になり、『あなたは、私があなたのために何をすることを望んでいるのか』と、彼のために、彼の状況に合わせて、寄り添っておられいます」と教皇は語られた。

「証しする」

 教皇は3つ目のステップ「証しする」について、イエスがバルティマイを呼んでくるように言った際、弟子たちがバルティマイにかけた言葉、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」に注目。「イエスだけが心に安心を与え、立ち直らせることができ、イエスだけが心身を癒し、イエスだけが、従うように呼びかけた人の人生を変えることができるのです」と話された。

 そして、「キリスト者は、兄弟たちが扉をたたくのを待っていてはいけない。自分から彼らのもとに出向き、彼らを自分自身のところではなく、イエスのところに連れて行かなければなりません」と説かれた。

シノドスを振り返って

 説教の終わりに、教皇はシノドスの日々を共に歩んだ司教たちの証しに感謝を述べるとともに、交わりのうちに、率直な態度で、神とその民に奉仕する熱意をもって取り組んだ、シノドスの作業を振り返られ、司教たちが若者たちに耳を傾け、寄り添い、人生の喜びであるイエスを彼らに証しすることができるようにと、主の祝福を祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

*教皇の説教全文の公式英語訳は以下の通り。

HOMILY OF HIS HOLINESS POPE FRANCIS Final Mass of the Synod 28 October 208

The account we have just heard is the last of those that the evangelist Mark relates about the itinerant ministry of Jesus, who is about to enter Jerusalem to die and to rise.  Bartimaeus is thus the last of those who follow Jesus along the way: from a beggar along the road to Jericho, he becomes a disciple who walks alongside the others on the way to Jerusalem.  We too have walked alongside one another; we have been a “synod”.  This Gospel seals three fundamental steps on the journey of faith.

First, let us consider Bartimaeus.  His name means “son of Timaeus”.  That is how the Gospel describes him: “Bartimaeus son of Timaeus” (Mk 10:46).  Yet, oddly, his father is nowhere to be found.  Bartimaeus lies alone on the roadside, far from home and fatherless.  He is not loved, but abandoned.  He is blind and has no one to listen to him.  Jesus hears his plea.  When he goes to him, he lets him speak.  It was not hard to guess what Bartimaeus wanted: clearly, a blind person wants to see or regain his sight.  But Jesus takes his time; he takes time to listen.  This is the first step in helping the journey of faith: listening.  It is the apostolate of the ear: listening before speaking.

Instead, many of those with Jesus ordered Bartimaeus to be quiet (cf. v. 48).  For such disciples, a person in need was a nuisance along the way, unexpected and unplanned.  They preferred their own timetable above that of the Master, their own talking over listening to others.  They were following Jesus, but they had their own plans in mind.  This is a risk constantly to guard against.  Yet, for Jesus, the cry of those pleading for help is not a nuisance but a challenge.  How important it is for us to listen to life!  The children of the heavenly Father are concerned with their brothers and sisters, not with useless chatter, but with the needs of their neighbours.  They listen patiently and lovingly, just as God does to us and to our prayers, however repetitive they may be.  God never grows tired; he is always happy when we seek him.  May we too ask for the grace of a heart that listens.  I would like to say to the young people, in the name of all of us adults: forgive us if often we have not listened to you, if, instead of opening our hearts, we have filled your ears.  As Christ’s Church, we want to listen to you with love, certain of two things: that your lives are precious in God’s eyes, because God is young and loves young people, and that your lives are precious in our eyes too, and indeed necessary for moving forward.

After listening, a second step on the journey of faith is to be a neighbour.  Let us look at Jesus: he does not delegate someone from the “large crowd” following him, but goes personally to meet Bartimaeus.  He asks him, “What do you want me to do for you?” (v. 51).  What do you want… –  Jesus is completely taken up with Bartimaeus; he does not try to sidestep him.  …me to do – not simply to speak, but to do something.  …for you – not according to my own preconceived ideas, but for you, in your particular situation.  That is how God operates.  He gets personally involved with preferential love for every person.  By his actions, he already communicates his message.  Faith thus flowers in life.

Faith passes through life.  When faith is concerned purely with doctrinal formulae, it risks speaking only to the head without touching the heart.  And when it is concerned with activity alone, it risks turning into mere moralizing and social work.  Faith, instead, is life: it is living in the love of God who has changed our lives.  We cannot choose between doctrine and activism.  We are called to carry out God’s work in God’s own way: in closeness, by cleaving to him, in communion with one another, alongside our brothers and sisters.  Closeness: that is the secret to communicating the heart of the faith, and not a secondary aspect.

 Being a neighbour means bringing the newness of God into the lives of our brothers and sisters.  It serves as an antidote to the temptation of easy answers and fast fixes.  Let us ask ourselves whether, as Christians, we are capable of becoming neighbours, stepping out of our circles and embracing those who are not “one of us”, those whom God ardently seeks.  A temptation so often found in the Scriptures will always be there: the temptation to wash our hands.  That is what the crowd does in today’s Gospel.  It is what Cain did with Abel, and Pilate with Jesus: they washed their hands.  But we want to imitate Jesus and, like him, to dirty our hands.  He is the way (cf. Jn 14:6), who stopped on the road for Bartimaeus.  He is the light of the world (cf. Jn 9:5), who bent down to help a blind man.  Let us realize that the Lord has dirtied his hands for each one of us.  Let us look at the cross, start from there and remember that God became my neighbour in sin and death.  He became my neighbour: it all starts from there.  And when, out of love of him, we too become neighbours, we become bringers of new life.  Not teachers of everyone, not specialists in the sacred, but witnesses of the love that saves.

The third step is to bear witness.  Let us consider the disciples who, at Jesus’ request, called out to Bartimaeus.  They do not approach a beggar with a coin to shut him up, or to dispense advice.  They go in Jesus’ name.  Indeed, they only say three words to him, and all three are words of Jesus: “Take heart; get up, he is calling you” (v. 49).  Everywhere else in the Gospel, Jesus alone says, “Take heart”, for he alone “heartens” those who heed him.  In the Gospel, Jesus alone says, “Get up”, and heals in spirit and body.  Jesus alone calls, transforming the lives of those who follow him, helping raise up the fallen, bringing God’s light to the darkness of life.  So many children, so many young people, like Bartimaeus, are looking for light in their lives.  They are looking for true love.  And like Bartimaeus who in the midst of that large crowd called out to Jesus alone, they too seek life, but often find only empty promises and few people who really care.

It is not Christian to expect that our brothers and sisters who are seekers should have to knock on our doors; we ought to go out to them, bringing not ourselves but Jesus.  He sends us, like those disciples, to encourage others and to raise them up in his name.  He sends us forth to say to each person: “God is asking you to let yourself be loved by him”.  How often, instead of this liberating message of salvation, have we brought ourselves, our own “recipes” and “labels” into the Church!  How often, instead of making the Lord’s words our own, have we peddled our own ideas as his word!  How often do people feel the weight of our institutions more than the friendly presence of Jesus!  In these cases, we act more like an NGO, a state-controlled agency, and not the community of the saved who dwell in the joy of the Lord.

 To listen, to be a neighbour, to bear witness.  The journey of faith in today’s Gospel ends in a beautiful and surprising way when Jesus says “Go; your faith has made you well” (v. 52).  Yet Bartimaeus had made no profession of faith or done any good work; he had only begged for mercy.  To feel oneself in need of salvation is the beginning of faith.  It is the direct path to encountering Jesus.  The faith that saved Bartimaeus did not have to do with his having clear ideas about God, but in his seeking him and longing to encounter him.  Faith has to do with encounter, not theory.  In encounter, Jesus passes by; in encounter, the heart of the Church beats.  Then, not our preaching, but our witness of life will prove effective.

To all of you who have taken part in this “journey together”, I say “thank you” for your witness.  We have worked in communion, with frankness and the desire to serve God’s people.  May the Lord bless our steps, so that we can listen to young people, be their neighbours, and bear witness before them to Jesus, the joy of our lives.

28 October 2018, 10:57
2018年10月29日

・「教会は皆さんの情熱を必要としている」-シノドスの司教たちから世界の若者へ手紙

(2018.10.28 バチカン放送)

 3日から開かれていた「若者、信仰そして召命の識別」をテーマとしたシノドス(世界代表司教会議第15回通常総会)が28日、教皇フランシスコと参加司教たちによる閉会ミサで終了、閉会にあたって参加司教たちから世界の若者あての手紙が発表された。内容は以下の通り。

**********

世界代表司教会議・第15回通常総会  シノドス参加司教たちから若者たちへの手紙

 皆さん、世界の若者たちに、私たちシノドス参加司教は、希望と信頼と慰めの言葉をもって話しかけたいと思います。ここ数日、私たちは「永遠に若いキリスト」イエスの声に耳を傾けるために集いました。そして、イエスの中に、皆さんの多くの声、皆さんの喜びの叫び、嘆き、沈黙を認めました。

 皆さんの内的追求や、皆さんの不安定さを形作っている喜び、希望、悲しみ、苦悩を私たちは知っています。ここで皆さんに私たちの言葉を聞いて欲しいのです。それは、皆さんが、待ち望んでいることを、高い目標へと変容できるよう、そのために私たちは皆さんの喜びの協力者となりたいということです。自分たちの夢を、生活や人類の歴史の中で具体化させるために、皆さんが生きることへの意欲をもって、努力しようとしていることを、私たちはよく知っています。

 私たちの弱さが皆さんを失望させることがないように、脆さや罪が皆さんの信頼を妨げることがないようにと願っています。教会は、皆さんにとってお母さんです。教会は皆さんを見捨てず、新しい道や、山道を一緒に歩んでくれます。高みにある細い道では、聖霊がより強く吹き、無関心や、軽薄さ、落胆を吹き飛ばしてくれます。

 神が御子イエスを与えるほどに愛された世界が、物事や、たやすい成功、享楽に閉じこもり、最も弱い人々を押しつぶす時、皆さんは、世界が再び立ち上がり、その眼差しを愛と美と正義に再び向けることができるよう、助けてあげてください。

 1か月にわたって、私たちはここで皆さんの何人かと一緒に、そして私たちと結ばれた多くの皆さんは祈りと愛情をもって、共に歩んできました。今、私たちはそれぞれの地で、歩み続けたいと望んでいます。イエスは私たちを、そこに、弟子・宣教者として派遣されるのです。

 教会と世界は皆さんの情熱を緊急に必要としています。より弱い人々、貧しい人々、人生に傷ついた人たちの道のりを、共に寄り添う人となってください。

 皆さんは現在であり、そして、より輝ける未来です。

 2018年10月28日

2018年10月28日

・シノドス最終文書「若者たちは傷ついた教会を癒す助けができる」(Crux)

2018年10月28日

・シノドス*全体会議で司教たちが3部12章60ページの最終文書採択

(2018.10.27 VaticanNews)

 3日から開かれていた若者をテーマとするシノドス(全世界代表司教会議)第15回通常総会は27日午後の全体会議で、約一か月にわたる討議の結果をまとめた3部12章60ページの最終文書を採択した。

 採択後の記者会見で、シノドスの運営の責任者、セルジオ・ダ・ホーシャ枢機卿は「最終文書は大きな拍手の下に採択されました。これは、参加した司教たち、他の参加者たち、そして”特別な形での若者たち”の真のチームワークの結果です」と語った。最終文書は、そのようなチームワークで草案をもとに364か所の修正、追加がなされ、原案として全体会議に出され、詳細に、建設的に検討されたうえ、採択に必要な3分の2の支持を得て、正式文書となった。

 今回のシノドス最終文書の着想は、福音書記者ルカが記したエマオでの2人の弟子へのイエスの出現の出来事(ルカ福音書24章13∼32節)によっている。

(注:エマオはエルサレムから11㌔のところにある村。エルサレムでキリストが十字架上で亡くなった後、まだ復活を知らない二人の弟子がエマオに向かって、これまでの出来事を論じ合って歩いていた時、復活したイエスが近づいて来て、ともに歩いた。そして、先へ行こうとするイエスを彼らが引き留め、宿で食事の席に着き、イエスが賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったとき、2人の目が開け、イエスだと分かった=絵画は、カラヴァッジオ作『エマオの晩餐』)

 最終文書は、ホーシャ枢機卿と特別秘書のジャコモ・コスタ神父、ロッサノ・サラ神父、および最終文書起草委員会のブルーノ・フォルテ司教から説明された。事前に発表された討議要綱をもとにし、3部構成で、主な内容は以下の通り。

第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

 最終文書の第1部では、若い人々の生活の具体的な諸側面を考察している。

 学校と小教区の重要性を強調し、多くの司祭と司教がオーバーワークとなっていることから、一般信徒が若者に寄り添う訓練を受ける必要があることを確認した。またカトリックの教育機関のかけがえのない役割にも言及。また、課題として、効果的でなく、生き生きとしていないことが多い召命への取り組み、とくに要理教育に関して、小教区の役割を再考する必要が指摘された。

 移民、性的虐待、”使い捨て文化”に関する若者の現実に関する記述も盛り込まれた。とくに、性的虐待に関しては次のように呼びかけた-「そうした虐待が繰り返されることのない、厳格な予防策の実施を固く約束する。まず、指導と教育の役割を担う人物の選定と編成から始める」。

 第1部では、このほか、芸術、音楽、スポーツについても、司牧の手段としての観点から言及されている。

第2部「”彼ら”の目は開かれた」

 第2部ではまず、若者たちを、主が自らを現わされる「聖書に基礎を置いた(神学的な)場」である、というシノドスの認識を示したうえ、若者たちのおかげで、教会は「鈍重さと対応の遅さ」を振り払い、自らを刷新することができる、としている。

 さらに、「(宣教の)使命」は、確実な、持続する幸せをもたらす賜物であるがゆえに、若者たちにとっての「確かな羅針盤」であること、「使命」の概念は「召命」と密接につながっており、洗礼による召命は聖性への呼びかけであること、を指摘している。

 また、別の二つの側面-「使命」の発展における助けと若者たちの召命は、寄り添いと識別の二つの側面をもっていることにも触れている。

第3部「”彼ら”は遅滞なく、発つ」

 シノドスの司教たちが示した人物は、復活したイエスに最初に出会ったマグダラのマリア。すべての若者たちは、様々に異なる人生の展望を持つ者も含めて、神の心の内にある、とした。

 「ともに歩む」ことは、司教たちが第3部で強調した教会会議の推進力だ。司教たちは、世界各国・各地域の司教協議会に対して、具体的に司牧面での課題解決を進める目的を持って、識別の手順を踏み続けるように促した。 “Synodality”の定義として示されたのは、(宣教の)使命を果たすための一つのスタイル-「私」から「私たち」に進むように、そして私たちの顔、感受性、素性、文化の多様性を考えるように、私たちを強く促すことだ。

 会議で繰り返された要望として、司教区と小教区の指導者たちが若者たちと若者たちのためにする訓練と実行を適切なものとするのを助ける各国レベルの「召命の要点についての若者司牧の指針」の取りまとめ、があったことも示された。

 また、若者たちが性の賜物を見出すために、彼らと歩みをともにする、家庭とキリスト教共同体の重要性も指摘され、現在の文化的な状況の中で「性に関するキリスト教的洞察のすばらしさ」を彼らに伝えることの難しさも、同時に示された。そして、「新たな人格形成の道の開発に具体的につながるような適切な方法」を見出すことが緊急の課題だ、としている。

 最後に、最終文書は、このシノドスで出された様々な課題は召命の推進力、聖性への招きとなったとし、「召命の様々な相違は、聖性への唯一の、普遍的な招きに集合される」と述べた。迫害に遭っても、福音への信仰を守るために命を捨てることもいとわない若者たちの聖性を通して、教会はその霊的熱情と使徒的活力を新たにすることができる、と強調している。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2018年10月28日

シノドス閉幕へ:若者たちから教皇に、感謝伝える催しと手紙

(2018.10.27 バチカン放送)

 「若者シノドス」の閉会を翌々日に控えた26日、全体会議の後半、参加の若者たちが教皇フランシスコに感謝を伝える催しが行われた。

 全体会議ではまず、第15回通常理事会のメンバー選出があり、管轄・地域別に16名の司教(東方典礼カトリック教会1、北米2、ラテンアメリカ3、欧州3、アフリカ3、オセアニア1、アジア3)が選ばれた。これに9月15日に発表されている新使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ」に従い、次回シノドスのテーマにふさわしい教皇庁組織(省・評議会等)の責任者1名、教皇が指名するメンバー4名を加え、理事会メンバーは21名となる。

 全体会議の後半では、パウロ6世ホールのエントランスの広間で、シノドスに参加した若者たちによって、教皇フランシスコに対する感謝の催し行われた。イベントは事前の予定になかったもので、若者たちはフラッシュモブや音楽で、教皇や司教たちに喜びと感謝を伝え、シノドス事務局長のロレンツォ・バルディッセーリ枢機卿がピアノ演奏を披露するなど、会場には和やかな雰囲気が広がった。

 教皇に手渡された手紙で、若者たちは、教皇や司教たちとともに「小さな歴史的一片」を過ごした喜びと、自分たちの考えを述べる機会を与えてくれたことへの感謝とともに、「今日の世界は、私たち若者に、これまでにないチャンスとともに、多くの苦しみをもたらしています。これらの苦しみに対し、新しい答えと新しい愛のエネルギーが必要です。世界は、より良い社会のために働きながら、受け取るよりも与えることの幸せを生きる、希望の再生を必要としています」と訴えた。そして、教皇の「貧しい人々をはじめ、すべての人に開いた、外に向かう教会、野戦病院としての教会」という夢を共有し、自分たち自身も、平和と連帯の文化構築のために努力することを約束し、教皇が始めたその歩みを続けることができるよう祈った。

 手紙と花束を受け取った教皇は、若者たちに心からの大きな感謝を述べられ、皆に祝福を与えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年10月28日