・「若者シノドス」の最終文書・骨子と全文(翻訳中)

*「若者シノドス」最終文書骨子

 *「若者シノドス」最終文書は、約一か月にわたる協議をもとに、起草委員会が原案をまとめ、364か所の修正、追加を経て、全体会議に提出され、詳細に、建設的に検討されたうえ、採択に必要な出席司教たちの3分の2の支持を得て、正式文書となった。会議閉幕直後にシノドス事務局が発表した最終文書の骨子は以下の通り。(バチカン放送)

第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

 最終文書の第1部では、若い人々の生活の具体的な諸側面を考察している。

 学校と小教区の重要性を強調し、多くの司祭と司教がオーバーワークとなっていることから、一般信徒が若者に寄り添う訓練を受ける必要があることを確認した。またカトリックの教育機関のかけがえのない役割にも言及。また、課題として、効果的でなく、生き生きとしていないことが多い召命への取り組み、とくに要理教育に関して、小教区の役割を再考する必要が指摘された。

 移民、性的虐待、”使い捨て文化”に関する若者の現実に関する記述も盛り込まれた。とくに、性的虐待に関しては次のように呼びかけた-「そうした虐待が繰り返されることのない、厳格な予防策の実施を固く約束する。まず、指導と教育の役割を担う人物の選定と編成から始める」。

 第1部では、このほか、芸術、音楽、スポーツについても、司牧の手段としての観点から言及されている。

第2部「”彼ら”の目は開かれた」

 第2部ではまず、若者たちを、主が自らを現わされる「聖書に基礎を置いた(神学的な)場」である、というシノドスの認識を示したうえ、若者たちのおかげで、教会は「鈍重さと対応の遅さ」を振り払い、自らを刷新することができる、としている。

 さらに、「(宣教の)使命」は、確実な、持続する幸せをもたらす賜物であるがゆえに、若者たちにとっての「確かな羅針盤」であること、「使命」の概念は「召命」と密接につながっており、洗礼による召命は聖性への呼びかけであること、を指摘している。

 また、別の二つの側面-「使命」の発展における助けと若者たちの召命は、寄り添いと識別の二つの側面をもっていることにも触れている。

第3部「”彼ら”は遅滞なく、発つ」

 シノドスの司教たちが示した人物は、復活したイエスに最初に出会ったマグダラのマリア。すべての若者たちは、様々に異なる人生の展望を持つ者も含めて、神の心の内にある、とした。

 「ともに歩む」ことは、司教たちが第3部で強調した教会会議の推進力だ。司教たちは、世界各国・各地域の司教協議会に対して、具体的に司牧面での課題解決を進める目的を持って、識別の手順を踏み続けるように促した。 “Synodality”の定義として示されたのは、(宣教の)使命を果たすための一つのスタイル-「私」から「私たち」に進むように、そして私たちの顔、感受性、素性、文化の多様性を考えるように、私たちを強く促すことだ。

 会議で繰り返された要望として、司教区と小教区の指導者たちが若者たちと若者たちのためにする訓練と実行を適切なものとするのを助ける各国レベルの「召命の要点についての若者司牧の指針」の取りまとめ、があったことも示された。

 また、若者たちが性の賜物を見出すために、彼らと歩みをともにする、家庭とキリスト教共同体の重要性も指摘され、現在の文化的な状況の中で「性に関するキリスト教的洞察のすばらしさ」を彼らに伝えることの難しさも、同時に示された。そして、「新たな人格形成の道の開発に具体的につながるような適切な方法」を見出すことが緊急の課題だ、としている。

 最後に、最終文書は、このシノドスで出された様々な課題は召命の推進力、聖性への招きとなったとし、「召命の様々な相違は、聖性への唯一の、普遍的な招きに集合される」と述べた。迫害に遭っても、福音への信仰を守るために命を捨てることもいとわない若者たちの聖性を通して、教会はその霊的熱情と使徒的活力を新たにすることができる、と強調している。

・・・・・・・・・・・

*「若者シノドス」最終文書全文

・・・1月19日現在、翻訳済みは1項-6項、77項-80項です・・・

final document of the synod of bishops

 「若者、信仰、そして召命の識別」に関するシノドス最終文書

*目次

・はじめに

・序文

・第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

  第1章 声を聴く教会

  第2章 三つの重要な要素

  第3章 アイデンティティーと諸関係

  第4章 今日、若者であること

・第2部「”彼ら”の目は開かれた」

  第1章 若さの賜物 

  第2章 召命の神秘

  第3章 寄り添う福音宣教

  第4章 識別の技法

・第3部「”彼ら”はすぐさま、発つ」

  第1章 教会の共に歩む宣教 

  第2章 日々の生活の中で共に歩む 

  第3章 新たにされた宣教の活力 

  第4章 欠かせない人格形成

・おわりに

・・聖書の引用か所の日本語訳は「聖書 聖書協会共同訳」(2018年12月刊行)を原則として使用します。

*本文

・はじめに

  私たちが今回のシノドスで経験したことは

1.「私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る(使徒言行録2章17節、ヨエル書3章1節)」。これは私たちが、今回のシノドスで経験したことです-共に歩き、聖霊の声に耳を傾けました。聖霊はその賜物の豊かさをもって、私たちを驚かせました。世界に希望をもたらすその勇気と力強さで、私たちを満たされました。

 私たちは聖ペトロの後継者と共に旅をし、彼は私たちを信仰において力づけ、福音宣教への新鮮な活力と熱意をくれました。私たちは、文化と教会用語で広く異なる背景をもって集まってきたにもかかわらず、自分たちを結び付けている霊的な絆を、対話と真の共感への熱意を、最初から知っていました。私たちは共に働き、自分たちの強い関心事項を分かち合い、懸念を伝え、負っている重荷を隠すことはしませんでした。協議の間にされた意見発表は私たちを深く感動させ、福音宣教の共感を目覚めさせましたーともに苦しみ、喜ぶ、一つの身体であることを感じました。私たちはどの人とも、自分が経験した恵みを分かち合いたい、福音の喜びを私たちの教会、そして全世界に、伝えたいと思います。

  若者たちの参加は新たな出発でした。彼らを通して、若者世代全体の声が、このシノドスで、大きく、はっきりと聞こえました。聖ペトロの墓への巡礼者として、彼らとともに歩み、このように共に歩むことが、どのようにして教会が対話の場となり、活力に満ちた友愛を証しするものとなる条件を育てるのかを、私たちは経験しました。この経験のもつ強さは、全ての疲れ、弱さを克服します。主は私たちに、何度も何度も言い続けられますー「恐れるな。私はあなたと共にいる」と。

  準備から始まった会議のプロセス

2.私たちは、司教たちの貢献から、小教区の司祭、修道者、一般信徒、専門家、教員その他多くの方々から、大きな恩恵をいただきました。会議の準備に、若者たちが初めから参加しました-オンラインでの質問、数多くの個人的な貢献、そして何よりも、シノドス準備会合は、そのことを雄弁に物語りました。若者たちの貢献は欠かすことができないもので、まさに、聖書にあるパンと魚の奇跡の話にあるものでした-イエスは、持っていたパンと魚を全部差し出した少年の価値のある振る舞いのおかげで、奇跡を行うことができたのです(ヨハネ福音書6章8‐11節)。

 すべてのこれらの貢献は、シノドス準備書面にまとめられています。同書面は、何週間もの会議を通しての議論にしっかりとした基盤を提供してくれました。今、最終文書は、準備を含めて会議が行った結果をまとめ、未来に向けて送り出します-シノドスに参加した司教たちが、神の言葉に照らして、認識し、解釈し、選択したものを示します。

  シノドスの最終文書は

3. 準備書面と最終文書の関係を明確にすることは重要です。前者は、2年にわたる聴き取りの作業で浮かび上がった包括的で統合的な、議論のための骨格であり、後者は、それを受けて開かれたシノドスの成果であり、シノドスに参加した司教たちが特別に力と熱意を込めて集中的に行った重要な論点をテーマ別にまとめたものです。 このようにして、これら二つの文書の 相違と相互補完性を知ることができます。

 最終文書は今回のシノドスの成果として、教皇に、そして全教会に提示されます(エピスコパリス・ コムニオ」=注:教皇フランシスコが昨年9月に発表したシノドスに関する使徒憲章=18項など参照)。今回のシノドスのプロセスはまだ終わっておらず、実施段階はこれから(同19‐21項参照)であり、最終文書は、教会に求められている次の段階の行程表となるものです。

*この最終文書で使用する「シノドス」は、シノドス全体のプロセスを指す、ないしは2018年10月3日から28日まで開かれた全体会議を指すこととします。

・序文

イエスはエマオに向かう弟子たちと旅をされた

4.   私たちは、若い世代に対する教会の福音宣教を理解するためにぴったりの聖書の箇所として、エマオへの旅を思い浮かべます(ルカ福音書24章13‐35節)。この箇所は、今回のシノドスで私たちが経験したこと、若者たちとの関係で経験することができるようにするために、私たちの教会がどうあるべきか、をよく示しています。

 イエスは、ご自身に起きた事の意味を理解できない2人の弟子、仲間の出来たちがいるエルサレムを離れた彼らと歩みを共にします。彼らの仲間のようにして、共に歩かれます。イエスは彼らに問いかけ、彼らなりの出来事の顛末を辛抱強くお聴きになり、彼らが経験していることをはっきりと分かるように、助けようとします。そして、彼らに、愛情と力を込めて御言葉を示し、聖書の光の下で、自分たちが経験した出来事を理解するように導きます。

 夕方になって、イエスは、一緒に宿に泊まるようにとの彼らの申し出を受けます-彼らの闇に入られます。イエスの話を聴く時、彼らの心は燃え、はっきりと理解しました-イエスがパンを割かれた時、彼らの目は開かれました。彼らは、すぐさま、これまでとは反対の方向に、旅を再開する選択をします。仲間の弟子たちのところに戻って、復活された主に出会った経験を分かち合います。

 準備書面に続く形で、この最終文書はこの福音書の箇所の諸段階に対応して3部構成になっています。第1部は”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」(ルカ福音書24章15節)で、若者たちが自分自身を見出すという文脈について、シノドスに参加した司教たちが何を認識したか、を明らかにし、その力強さと課題に光を当てます。第2部「”彼ら”の目は開かれた」(同24章31節)は説明的な部分で、今回のシノドスのテーマを理解する基本的な手段を提供します。そして、第3部「”彼ら”はすぐさま、発つ」(同24章31節)は、霊的、司牧と福音宣教の転換のための選択肢を提示します。

・第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

5.「この日、2人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた」(ルカ福音書24章13‐15節)。

 この箇所で、ルカは、彼らが体験した出来事の意味を求める2人の旅人に必要なもの、を伝えています。特に、彼らの旅に加わられたイエスの振る舞いに焦点を当てています。復活された主はすべての若者たちと共に歩み、彼らが期待していることを、それがまだ実現していなくても、お聴きになり、彼らの望みを、それが採るに足らないものであっても、お聴きになります。イエスは歩き、聴き、分かち合われるのです。

 第1章 声を聴く教会

  共感をもって聴き、よく見る

   聴くことの価値

6.聴くことは、自由な出会いです。それには、謙遜、忍耐、理解するための用意、そして、新たなやり方で答えを考え出す決意が求められます。聴くことは、特に、それが内的な調和の性向と聖霊に対する従順さをもってなされた時に、聴く人の心を変えます。聴くことは、単に情報を集めることでも、目的を達成するための方策でもありません。神ご自身が民と関係を持つ仕方なのです。神は民の苦しみをつぶさにご覧になり、叫ぶ声を聴かれて、深く心を動かされ、彼らを救い出されます(出エジプト記3章7‐8節)。教会は、聴くことを通して、御子において一人ひとりの人間に近づかれる神のなさることに共鳴するのです。

(注:英語原文のlistenは「聞く」とも「聴く」とも訳せますが、日本語では、大辞林(小学館刊)にもあるように、「聞く」は「音や声を耳に受ける、感じ取る」場合、「聴く」は「注意して耳にとめる、耳を傾ける」場合に使います。この最終文書の場合は、後者の訳の方が適切と判断し、「聴く」で統一します。)

(以下、翻訳中)

The young want to be heard

7.         The young are called to make constant choices that give direction to their lives;  they express the desire to be heard, recognized, accompanied.  Many find that their voice is not considered interesting or useful in social and ecclesial circles.  In some situations little attention is paid to their cry, particularly the cry of the poor and the exploited – few older people are willing and able to listen to them.

  Listening in the Church

8.        In the Church there are plenty of initiatives and consolidated experiences that can offer young people an experience of acceptance, listening and making themselves heard.  The Synod recognizes, though, that the ecclesial community does not always succeed in conveying the attitude shown by Jesus towards the Emmaus disciples, when he asked them, before enlightening them with the Word, “What is this conversation which you are holding with each other as you walk?” (Lk 24:17).  Sometimes there can be a tendency to provide pre-packaged answers and ready-made solutions, without allowing the young people’s questions to emerge in their freshness and engaging with the challenges they pose.

Listening makes possible an exchange of gifts in a context of empathy.  It allows young people to make their own contribution to the community, helping it to grasp new sensitivities and to consider new questions.  At the same time it sets the conditions for a proclamation of the Gospel that can truly touch the heart, incisively and fruitfully.

  Listening as practised by pastors and qualified laypersons

9.        Listening is a key element in the ministry of pastors, above all in that of bishops, although bishops are frequently burdened by many duties and they struggle to find enough time for this essential service.  Many have pointed out the shortage of qualified people dedicated to accompaniment.  Belief in the theological and pastoral value of listening implies the need to rethink and renew the ways in which priestly ministry is ordinarily exercised and to conduct a review of its priorities.  Moreover, the Synod recognizes the need to prepare consecrated persons and laypersons, male and female, who are qualified to accompany young people.  The charism of listening that the Holy Spirit calls forth within the communities might also receive institutional recognition as a form of ecclesial service.

 The variety of contexts and cultures

  A plural world

10.    The very composition of the Synod brought out the presence and the contribution of many different regions of the world, highlighting the beauty of being a universal Church.  Notwithstanding a context of growing globalization, the Synod Fathers asked that the many differences between contexts and cultures, even within a single country, be duly noted.  The plurality of young people’s worlds is so great that in some countries there is a tendency to use the term “youth” in the plural.  Moreover, the age range considered by the present Synod (16-29 years) does not represent a homogeneous category, but is made up of different groups each with their own life experience.

All these differences have a profound impact on young people’s concrete experience:  they affect the different phases of maturing, the forms of religious experience, the structure of the family and its importance for the transmission of the faith, relations between generations – as for example the role of the elderly and the respect due to them – ways of participating in the life of society, attitudes towards the future, ecumenical and interreligious questions.  The Synod recognizes and accepts the richness of the diversity of cultures and puts itself at the service of the communion of the Spirit.

  Changes that are taking place

11.   Of particular significance is the difference in demographic dynamics between countries with a high birthrate, where young people represent a significant and growing proportion of the population, and those in which the influence of the young is on the wane.  A further differentiating factor is the result of history: there are countries and continents of ancient Christian tradition, whose culture is marked by a memory that is not to be lightly dismissed, but there are also countries and continents marked by other religious traditions, in which Christianity is a minority presence – often a recent one.  In other territories again, the Christian communities and the young people who belong to them suffer persecution.

Exclusion and marginalization

12.   Then there are differences between countries – and within countries – caused by the structure of society and the economic power that separates, dramatically at times, those with access to the increasing opportunities offered by globalization from those who live on the margins of society or in the rural world and who find themselves excluded or discarded.  A number of interventions signalled the need for the Church to align herself courageously on their side and to help build alternatives that remove exclusion and marginalization, reinforcing acceptance, accompaniment and integration.  This highlights the need to be aware of the indifference that affects many Christians too, so as to overcome it by deepening the social dimension of the faith.

  Men and women

13.    Nor must we overlook the difference between men and women with their characteristic gifts, their specific sensitivities and their experiences of life.  This difference can give rise to forms of domination, exclusion and discrimination, from which all societies, including the Church, need to be liberated.

The Bible presents man and woman as equal partners before God (cf. Gen 5:2):  all domination and discrimination based on sex is an offence against human dignity.  The Bible also presents the difference between the sexes as a mystery that is constitutive of the human being and cannot be reduced to stereotypes.  The relation between man and woman is understood in terms of a vocation to live together in reciprocity and in dialogue, in communion and in fruitfulness (cf. Gen 1:27-29; 2:21-25) in every area of human experience:  life as a couple, work, education and so on.  God has entrusted the earth to their covenant.

  Cultural colonization

14.    Many Synod Fathers coming from non-Western contexts point out that in their countries globalization brings with it forms of cultural colonization which uproot young people from their cultural and religious origins.  The Church needs to make a commitment to accompany them in this process so that they do not lose sight of the most precious features of their identity.

There are contrasting interpretations of the process of secularization.  Some see it as a welcome opportunity to be purified from a religiosity based on mere custom or on ethnic and national identities, while others see it as an obstacle to the transmission of the faith.  In secular societies we are also witnessing a rediscovery of God and of spirituality.  For the Church this should act as a stimulus to recover the importance of the dynamisms of faith, proclamation and pastoral accompaniment

 A first look at the Church of today

  The Church’s involvement in education

15.   There are many regions where young people see the Church as a force that is alive and engaging, of significance also for their contemporaries who do not believe or who belong to other religions.  The Church’s educational institutions seek to welcome all young people, irrespective of their religious choices, their cultural origins and their personal, family or social situation.  In this way the Church makes a fundamental contribution to the integral education of the young in many different parts of the world.  This happens through education in schools of every shape and size, in centres of professional formation, in colleges and in universities, but also in youth centres and oratories;  this commitment is also demonstrated through the welcome given to refugees and the great variety of forms of social engagement.  In all these ways the Church unites her witness and her proclamation of the Gospel to her educational work and her human promotion.  When inspired by intercultural and interreligious dialogue, the Church’s educational activity is appreciated even by non-Christians as an authentic form of human promotion.

  Activities in youth ministry

16.    As the Synod progressed, it became clear that youth ministry needs a vocational slant, and that vocational pastoral care should be directed towards all young people.  It was emphasized that pastoral programmes need to address the whole period from infancy through to adult life, helping the young to find their place in the Christian community.  It was also noted that numerous parish groups, movements and youth associations already offer an effective process of accompaniment and formation for the young in their life of faith.

World Youth Day – the fruit of a prophetic insight of St John Paul II, who remains a point of reference for young people in the third millennium – along with the national and diocesan meetings, has an important part to play in the lives of many young people because it offers a lived experience of faith and communion that helps them to address life’s great challenges and to assume responsibly their position in society and in the Church community.  These gatherings can feed into ordinary pastoral accompaniment of individual communities, where reception of the Gospel has to be deepened and translated into life choices.

  The burden of administration

17.   Many Fathers pointed out that the burden of administrative duties absorbs the energy of many pastors in an excessive and sometimes suffocating way;  this is one of the reasons why it can be difficult to encounter and accompany the young.  To highlight the priority of pastoral and spiritual duties, the Synod Fathers insist on the need to rethink the concrete ways in which the ministry is exercised.

The situation of parishes

18.    While parishes remain the first and principal way of being Church in a particular territory, there were indications from several quarters that the parish is struggling to be relevant to young people and that its missionary vocation needs to be rethought.  Its low profile in urban areas, the lack of dynamism in parish activities, together with spatio-temporal changes in lifestyles all cry out for a renewal.  Even if there have been various attempts at innovation, the river of young life often flows along the margins of the community, without encountering it.

  Initiation into Christian life

19.     Many note that programmes of Christian initiation do not always succeed in introducing children, adolescents and young adults to the beauty of the experience of faith.  When the community is a place of communion and a true family of the children of God, it expresses a generative force which transmits the faith;  where, on the other hand, it yields to the logic of delegation and where bureaucratic organization holds sway, Christian initiation is misinterpreted as a course of religious instruction which ends with the sacrament of Confirmation.  So we urgently need a profound rethink of the way catechesis is presented and the link between transmission of the faith in the family and in the community, providing space for processes of personal accompaniment.

  Formation of seminarians and consecrated persons

20.   Seminaries and houses of formation are most important places in which the young who are called to the priesthood and to the consecrated life can deepen their vocational choice and can mature in discipleship.  Sometimes these settings do not take sufficient account of the candidates’ previous experience, underestimating its importance.  This blocks the person’s growth and risks giving rise to the adoption of formal attitudes rather than the development of God’s gifts and profound conversion of the heart.

Chapter II Three crucial Elements

The newness of the digital environment

A pervasive reality

21.    The digital environment is characteristic of the contemporary world.  Broad swathes of humanity are immersed in it in an ordinary and continuous manner.  It is no longer merely about “using” instruments of communication, but living in a highly digitized culture that has had a profound impact on ideas of time and space, on self-understanding, on understanding of others and of the world, on how to communicate, to learn, to inform oneself, to enter into relationship with others.  An approach to reality that privileges images over listening and over reading influences the way people learn and the development of their critical faculty.  It is already clear that “The digital environment is not a parallel or purely virtual world, but is part of the daily experience of many people, especially the young” (Benedict XVI, Message for the XLVII World Day of Social Communications).

  The network of opportunities

22.   The internet and social networks are a public square where the young spend much of their time and meet one another easily, even if not all have equal access to it, particularly in some regions of the world.  They provide an extraordinary opportunity for dialogue, encounter and exchange between persons, as well as access to information and knowledge.  Moreover, the digital world is one of socio-political engagement and active citizenship and it can facilitate the circulation of independent information that can provide effective protection for the most vulnerable, publicizing violations of their rights.  In many countries, internet and social networks already represent a firmly established forum for reaching and involving young people, not least in pastoral initiatives and activities.

  The dark side of the internet

23.   The digital environment is also one of loneliness, manipulation, exploitation and violence, up to the extreme case of the “dark web”.  Digital media can expose people to the risk of dependency, isolation and gradual loss of contact with concrete reality, blocking the development of authentic interpersonal relationships.  New forms of violence are being spread through social media, for example cyber-bullying;  the internet is also a channel for spreading pornography and exploitation of persons for sexual ends or through gambling.

24.   Finally, there are huge economic interests operating in the digital world, capable of exercising forms of control as subtle as they are invasive, creating mechanisms of manipulation of consciences and of the democratic process.  The way many platforms work often ends up favouring encounter between persons who think alike, shielding them from debate.  These closed circuits facilitate the spread of fake news and false information, fomenting prejudice and hate.  The proliferation of fake news is the expression of a culture that has lost its sense of truth and bends the facts to suit particular interests.  The reputation of individuals is put in jeopardy through summary trials conducted online.  The Church and her pastors are not exempt from this phenomenon.

 Migrants as a paradigm of our time

  A multi-faceted phenomenon

25.    Migration considered globally is a structural phenomenon, not a passing emergency.  Migration may occur within a country or between different countries.  The Church’s concern is focused especially on those fleeing from war, violence, political or religious persecution, from natural disasters including those caused by climate change, and from extreme poverty: many of them are young.  In general they are seeking opportunities for themselves and their families.  They dream of a better future and they want to create the conditions for attaining it.

Many Synod Fathers stressed that migrants are a “paradigm” able to shed light on our times and particularly on the youthful condition, and they remind us of the originating condition of faith, that of being “strangers and exiles on the earth” (Heb11:13).

  Violence and vulnerability

26.   Other migrants are attracted by Western culture, and sometimes they form unrealistic expectations which expose them to grave disappointments.  Unscrupulous traffickers, often linked to drug cartels or arms cartels, exploit the weakness of migrants, who too often experience violence, trafficking, psychological and physical abuse and untold sufferings on their journey. Nor must we overlook the particular vulnerability of migrants who are unaccompanied minors or the situation of those compelled to spend many years in refugee camps or those who remain trapped for a long time in transit countries, without being able to pursue a course of studies or to express their talents.  In some host countries, migration causes fear and alarm, often fomented and exploited for political ends.  This can lead to a xenophobic mentality, as people become closed in on themselves, and this needs to be addressed decisively.

  Stories of separation and of encounter

27.   Young migrants experience separation from their place of origin and often a cultural and religious uprooting as well.  Fragmentation is also felt by the communities they leave behind, which lose their most vigorous and enterprising elements, and by the families, especially when one or both of the parents migrates, leaving the children in the country of origin.  The Church has an important role as a point of reference for the young members of these divided families.  But the stories of migrants are also stories of encounter between persons and between cultures: for the communities and societies where they arrive, they bring an opportunity for enrichment and the integral human development of all.  Initiatives of welcome involving the Church have an important role from this perspective and they can bring new life to the communities capable of adopting them.

  The prophetic role of the Church

28.   Given the varied backgrounds of the Synod Fathers, the theme of migrants saw many different perspectives coming together, in particular between countries of departure and countries of arrival.  Moreover, alarm bells sounded from the Churches whose members are forced to escape war and persecution and who see these forced migrations as a threat to their survival.  The very fact that the Church embraces all these various perspectives gives her a prophetic role vis-à-vis society on the theme of migration.

 Recognizing and reacting to all types of abuse

  Establishing the truth and asking for forgiveness

29.   The various forms of abuse perpetrated by certain bishops, priests, religious and laypersons give rise in the victims, many of whom are young, to sufferings that can last a lifetime and that no repentance can remedy.  This phenomenon is widespread in society and it affects the Church too and represents a serious obstacle to her mission.  The Synod underlines the firm commitment to adopt rigorous preventative measures intended to avoid any recurrence, starting with the selection and formation of those to whom tasks of responsibility and education will be entrusted.

  Going to the roots

30.   Abuse exists in various forms: abuse of power, abuse of conscience, sexual or financial abuse.  Clearly, the ways of exercising authority that make all this possible have to be eradicated and the irresponsibility and lack of transparency with which so many cases have been handled have to be challenged.  The desire to dominate, the lack of dialogue and transparency, forms of double life, spiritual emptiness, as well as psychological weaknesses are the ground on which corruption thrives.  Clericalism, in particular, “arises from an elitist and exclusivist vision of vocation, that interprets the ministry received as a power to be exercised rather than as a free and generous service to be given.  This leads us to believe that we belong to a group that has all the answers and no longer needs to listen or learn anything, or that pretends to listen” (Francis, Address to the 1st General Congregation of the XV General Assembly of the Synod of Bishops, 3 October 2018).

  Thanks and encouragement

31.    The Synod expresses thanks to those who have the courage to denounce the evil they have suffered:  they help the Church to acknowledge what has happened and the need to respond decisively.  The Synod appreciates and encourages also the sincere commitment of countless lay men and women, priests, consecrated men, consecrated women and bishops who devote themselves every day with honesty and dedication to the service of the young.  Their work is like a forest that grows silently.  Many of the young people present at the Synod also expressed thanks for those who have accompanied them and they emphasized the great need for figures of reference.

The Lord Jesus, who never abandons his Church, offers her the strength and the tools to set out on a new path.  Confirming the line of timely “actions and sanctions that are so necessary” (Francis, Letter to the People of God, 20 August 2018, 2) and aware that mercy demands justice, the Synod recognizes that confronting the question of abuse in all its aspects, not without the valuable help of the young, can truly be an opportunity for a reform of epoch-making significance.

Chapter III Identity and relations

Family and intergenerational relations

The family as a privileged point of reference

32.   The family continues to be the principal point of reference for young people.  Children appreciate the love and care of their parents, they hold family ties dear and they hope to succeed in forming a family in their turn.  Undoubtedly the increase in separations, divorces, second unions and one-parent families can cause great suffering and identity crises in young people.  Sometimes they must shoulder responsibilities disproportionate to their age which force them to become adults ahead of time.  Grandparents often make a decisive contribution in affection and religious education: with their wisdom they are a decisive link in the relationship between generations.

 The importance of maternity and paternity

33.   Mothers and fathers have distinct roles but they are equally important as points of reference in forming children and passing on the faith to them.  The maternal figure continues to have a role that young people consider essential for their growth, even if it is not sufficiently recognized in cultural, political and employment terms.  Many fathers perform their own role with dedication, but we cannot conceal the fact that in some contexts, the paternal figure is absent or evanescent, and in others oppressive or authoritarian.  These ambiguities are also reflected in the exercise of spiritual paternity.

The relations between generations

34.   The Synod recognizes the dedication of many parents and teachers who are deeply committed to the transmission of values, notwithstanding the difficulties of the cultural context.  In some regions, the role of the elderly and reverence for ancestors are key elements for education and contribute strongly to the formation of personal identity.  The extended family – which in some cultures is what the family really means – also plays an important role.  Some young people, though, find family traditions oppressive and they flee from them under the impulse of a globalized culture that sometimes leaves them without points of reference.  In other parts of the world, though, there is no actual generational conflict between young people and their elders, but rather a mutual estrangement.  Sometimes older people do not try or do not succeed in transmitting the basic values of life or else they adopt “youthful” styles, reversing the relationship between generations.  In this way the relationship between young people and their elders risks remaining on the affective level, leaving the educative and cultural dimensions untouched.

The young and cultural roots

35.   The young are focused on the future and they face life with energy and dynamism.  But they are also tempted to concentrate on enjoying the present and sometimes they tend to give little attention to the memory of the past from which they come, in particular the many gifts transmitted to them by their parents, their grandparents and the cultural baggage of the society in which they live.  Helping the young discover the living richness of the past, treasuring its memory and making use of it for their choices and opportunities, is a genuine act of love towards them for the sake of their growth and the choices they are called upon to make.

Friendship and relationships between peers

36.   Alongside intergenerational relationships, those between contemporaries are not to be overlooked.  These represent a fundamental experience of interaction and gradual emancipation from the family context of origin.  Friendship and debate, often within more or less structured groups, offer the opportunity to strengthen social and relational skills in a context in which one is neither valued nor judged.  Group experience is also a great resource for sharing the faith and for mutual help in witness.  The young are able to guide other young people and to exercise a genuine apostolate among their friends.

Body and affectivity

Changes taking place

37.   The young recognize how important the body and sexuality are for their lives and for the growth of their identity, since they cannot live friendship and affectivity without these.  In the modern world, though, they encounter phenomena in rapid evolution in regard to these things.  Above all, developments in science and in biomedical technologies have a strong influence on the perception of the body, leading to the idea that it is open to unlimited modification.  The capacity to intervene in DNA, the possibility of inserting artificial elements into the organism (cyborg) and the development of neurosciences constitute a great resource, but at the same time they raise anthropological and ethical questions.  An uncritical acceptance of the technocratic approach to the body weakens one’s awareness of life as a gift and the sense of creaturely limits:  one can be misled or exploited by economic and political forces (cf. Francis, Laudato si’, 106).

Moreover, in some youth circles, there is a growing fascination for risk-taking behaviour as a tool for self-exploration, for seeking powerful emotions and obtaining recognition.  Alongside the continuation of older phenomena, such as precocious sexual behaviour, promiscuity, sexual tourism, the exaggerated cult of the physical, today one notes the widespread diffusion of digital pornography and exhibition of one’s body online.  Such phenomena, to which young generations are exposed, constitute an obstacle for serene maturation.  They point to social forces that are utterly new and that influence personal choices and experiences, making them fertile terrain for a kind of ideological colonization.

Reception of the Church’s moral teachings

38.   This is the context in which Christian families and ecclesial communities seek to help young people discover sexuality as a great gift indwelt by Mystery, so as to live relationships according to the logic of the Gospel.  But they do not always succeed in translating this aspiration into a thorough affective and sexual education, going above and beyond occasional input.  Where such education has been genuinely taken up as an option to be proposed, there are positive results which help young people grasp the relationship between their adherence to faith in Jesus Christ and their way of living affectivity and interpersonal relationships.  These results invite and encourage greater investment of the Church’s energies in this area.

The questions of the young

39.   The Church has a rich tradition on which to build and from which to put forward her teaching in this area:  for example, the Catechism of the Catholic Church, the theology of the body developed by St John Paul II, the Encyclical Deus Caritas Est by Benedict XVI, the Apostolic Exhortation Amoris Laetitia by Pope Francis.  But the young, including those who know this teaching and live by it, express a wish to hear from the Church a clear, humane and empathetic word.  Frequently, though, sexual morality gives rise to incomprehension and distancing from the Church, inasmuch as she is perceived as a space of judgement and condemnation.  In the face of social changes and new ways of living affectivity and the multiplicity of ethical perspectives, the young show themselves sensitive to the value of authenticity and dedication, but are often disoriented.  They express more particularly an explicit desire to debate questions concerning the difference between masculine and feminine identity, the reciprocity between men and women, and homosexuality.

Forms of vulnerability

The World of Work

40.   The world of work remains an area in which the young express their creativity and their innovative capacity.  At the same time they experience forms of exclusion and marginalization.  The first and most serious is youth unemployment, which in some countries reaches exorbitant levels.  Besides making them poor, the lack of work impacts negatively on young people’s capacity to dream and to hope and it deprives them of the possibility of contributing to the development of society.  In many countries this situation depends on the fact that some swathes of the young population lack adequate professional skills, perhaps because of deficiencies in the educational and formational system.  Often the precariousness in employment that afflicts the young is linked to economic interests that exploit labour.

Violence and persecutions

41.   Many young people live in war zones and they experience violence in countless different forms: kidnappings, extortion, organized crime, human trafficking, slavery and sexual exploitation, wartime rape, etc.  Other young people, because of their faith, struggle to find their place in society and they undergo various types of persecution, even to death.  Plenty of young people, whether through force or through lack of alternatives, live by committing crimes and acts of violence: child soldiers, armed gangs, criminal gangs, drug-trafficking, terrorism, etc.  This violence destroys many young lives.  Abuses and dependencies, just like violence and deviance, are among the reasons that lead young people into prison, with a higher incidence in certain ethnic and social groups.  All these situations present the Church with questions.

Marginalization and social malaise

42.   Even more numerous in the world are the young people who suffer forms of marginalization and social exclusion, for religious, ethnic or economic reasons.  Let us recall the difficult situation of adolescents and young people who become pregnant and the plague of abortion, as also the spread of HIV, the various forms of dependency (drugs, gambling, pornography, etc.) and the situation of street children, without homes, families or economic resources;  particular attention is owed to young prisoners.  Various interventions underlined the need for the Church to value the skills of excluded young people and the contributions they can offer to their communities.  The Church should courageously take their side, accompanying them as they set about regaining their dignity and a role in building the common good.

The experience of suffering

43.   Contrary to a widespread stereogype, the world of young people is profoundly marked by the experience of vulnerability, disability, sickness and suffering.  In many countries, especially among the young, there are increasing levels of psychological suffering, depression, mental illness and eating disorders, linked to experiences of profound unhappiness or to the inability to find a place within society;  nor should one forget the tragic phenomenon of suicides.  The young who experience these various trials, together with their families, count on the support of Christian communities, but these communities are not always adequately equipped to welcome them.

The resource of vulnerability

44.   Many of these situations are brought about by the “throwaway culture”:  young people are among its first victims.  Nevertheless, this culture can also taint the young, Christian communities and their leaders, thereby contributing to the human, social and environmental  degradation that afflicts our world.  The Church’s response is an appeal for conversion, for solidarity and renewed educative action, as she makes herself especially present in these situations of hardship.  The young who live in these situations have precious resources to share with the community and they teach us to measure ourselves against the limit, helping us to grow in humanity.  There is no end to the creativity with which a community animated by Gospel joy can present an alternative to malaise and to situations of hardship.  In this way society can experience that the stones rejected by the builders can become cornerstones (cf. Ps 118:22; Lk 20:17; Acts 4:11;  1 Pet 2:4).

Chapter IV Being young Today

Aspects of today’s youth culture

Originality and specificity

45.   The way young generations approach reality has some particular characteristics.  The young ask to be accepted and respected in their originality.  To mention some of the most evident characteristics of youth culture, preference is given to the image over and above other forms of communication, importance is attached to sensations and emotions as a way of approaching reality and priority is given to the concrete and the operative rather than to theoretical analysis.  Friendship is very important for them, as is belonging to peer groups, held together through social media.  The young are generally spontaneous and open with regard to diversity, and this makes them attentive to the themes of peace, inclusiveness and dialogue between cultures and religions.  There is plenty of evidence from many parts of the world that the young know how to be pioneers of intercultural and interreligious encounter and dialogue, in the context of peaceful coexistence.

Commitment and social engagement

46.   Albeit in a different way from earlier generations, social commitment is a specific feature of today’s young people.  Alongside some who are indifferent, there are many others who are ready to commit themselves to initiatives of voluntary work, active citizenship and social solidarity, and they need to be accompanied and encouraged, so as to bring out their talents, skills and creativity and to provide incentives for them to assume responsibility.  Social commitment and direct contact with the poor remain a fundamental opportunity for discovery or deepening of faith and discernment of vocation.  There is strong and widespread sensitivity to ecological themes and sustainability, that the encyclical Laudato si’ has galvanized.  It has also been pointed out that the young are ready to engage in the political field so as to build the common good, something that the Church has not always been able to accompany by providing opportunities for formation and spaces for discernment.  With regard to the promotion of justice, the young ask the Church to show decisive and consistent engagement, stamping out any complicity with a worldly mentality.

Art, music and sport

47.   The Synod recognizes and appreciates the importance that the young give to artistic expression in all its forms: there are many young people who use their God-given talents in this field, promoting beauty, truth and goodness, growing in humanity and in their relationship with God.  For many, artistic expression is also an authentic professional vocation.  We must not forget that for centuries the “way of beauty” has been one of the privileged ways of expressing faith and evangelization.

Music is particularly important, representing as it does a real environment in which the young are constantly immersed, as well as a culture and a language capable of arousing emotion and shaping identity.  Musical language also represents a pastoral resource with a particular bearing on the liturgy and its renewal.  The standardization of tastes through commercial interests sometimes risks compromising the link with traditional forms of musical and liturgical expression.

Equally significant is the emphasis that young people place on sporting activity, whose potential for education and formation the Church must not underestimate, maintaining a solid presence there.  The world of sport needs to be helped to overcome the ambiguities by which it is afflicted, such as the idolization of champions, subservience to commercial interests and the ideology of success at any cost.  One way forward is to underline the value of accompaniment and support for the disabled in sporting activity.

Spirituality and religiosity

The different religious contexts

48.   The religious experience of the young is strongly influenced by the social and cultural context in which they live.  In some countries the Christian faith is a strong and lively community experience, in which the young participate with joy.  In other areas of ancient Christian tradition, the majority of the Catholic population does not experience a real sense of belonging to the Church;  yet there is no shortage of creative minorities and experiences that point to a revival of religious interest as a reaction against a reductive and suffocating vision.  In other places still, Catholics along with other Christian denominations form a minority that sometimes experiences discrimination or even persecution.  Finally there are places where sects or forms of alternative religiosity are on the rise;  their followers frequently become disillusioned and averse to any form of religion.  If in some regions the young have no opportunity to express their faith publicly or find their religious freedom is not recognized, in others they feel the weight of historic choices – including political ones – that have undermined the Church’s credibility.  It is not possible to speak of the religiosity of the young without taking all these differences into account.

The religious quest

49.   In general the young say they are searching for the meaning of life and they show interest in spirituality.  This attention, though, can sometimes take the form of a search for psychological well-being rather than openness to encounter with the Mystery of the living God.  Particularly in some cultures, many see religion as a private matter and they choose from a variety of spiritual traditions those elements in which they find their own convictions mirrored.  There thus spreads a certain syncretism, which develops on the relativistic assumption that all religions are equal.  Adherence to a community of faith is not seen by everyone as a privileged way to access the meaning of life, and it is accompanied and sometimes replaced by ideologies or by the cult of success in professional and economic terms, with a view to material self-fulfilment.  Certain practices inherited from tradition remain alive, though, such as pilgrimages to shrines, which at times involve large numbers of young people, and expressions of popular piety, often linked to devotion to Mary and the Saints, which preserve the faith experience of a people.

The encounter with Jesus

50.   The same variety is found in the relationship of the young with the figure of Jesus.  Many recognize him as Saviour and Son of God and they often feel close to him through Mary, his mother, and they commit themselves to a journey of faith.  Others have no personal relationship with him, but consider him a good man and an ethical point of reference.  Others again encounter him through a powerful experience of the Spirit.  For others, though, he is a figure from the past who is very remote from human experience and has no relevance for their lives.

Even though to many young people God, religion and the Church seem empty words, they are sensitive to the figure of Jesus when he is presented in an attractive and effective way.  In many ways, the young people of today are saying to us:  “We wish to see Jesus” (Jn 12:21), thus manifesting the healthy restlessness that characterizes the heart of every human being:  “the restlessness of spiritual seeking, the restlessness of the encounter with God, the restlessness of love” (Francis, Mass for the Beginning of the General Chapter of the Order of Saint Augustine, 28 August 2013).

The desire for living liturgy

51.   In many settings, young Catholics ask for prayer opportunities and sacramental celebrations capable of impacting upon their daily lives through a fresh, authentic and joyful liturgy.  In some parts of the world liturgical experience is the principal resource for Christian identity and there is a good level of participation, with conviction.  The young see the liturgy as a privileged moment of experience of God and of the ecclesial community and a point of departure for the mission.  Elsewhere, though, we are witnessing a certain abandonment of the sacraments and of the Sunday Eucharist, perceived more as a moral precept than as a joyful encounter with the Risen Lord and the community.  In general it seems that even where sacramental catechesis is offered, there is little by way of educative accompaniment for living the celebration profoundly, for entering into the mysterious riches of its symbols and its rites.

Participation and active involvement

The young want active involvement

52.   In the face of society’s contradictions, many young people wish to offer the fruits of their talents, skills and creativity and they are ready to assume responsibility.  Among the themes they hold most dear are social and environmental sustainability, discrimination and racism.  The involvement of the young often follows entirely new paths, and this includes harnessing the potential of digital communication in terms of mobilization and political pressure:  spread of lifestyles and critical models of consumption and investment, in solidarity and attentive to the environment;  new forms of commitment and participation in society and in politics;  new forms of welfare in aid of the weakest.

Reasons for a distance

53.   The Synod is aware that a substantial number of young people, for all sorts of reasons, do not ask the Church for anything because they do not see it as significant for their lives.  Some, on the contrary, expressly ask to be left alone, as they find the presence of the Church a nuisance, even an irritant.  This request does not always stem from uncritical or impulsive contempt, but may also be based on serious and respectable reasons:  sexual and economic scandals;  the fact that the clergy are ill prepared to engage effectively with the sensitivities of the young; lack of care over homily preparation and the presentation of the Word of God; the passive role given to the young within the Christian community;  the Church’s difficulty in explaining its doctrinal and ethical positions in the face of contemporary society.

Young people in the Church

54.   Young Catholics are not merely on the receiving end of pastoral activity: they are living members of the one ecclesial body, baptized persons in whom the Spirit of the Lord is alive and active.  They help to enrich what the Church is and not only what she does.  They are her present and not only her future.  The young are protagonists in many Church activities in which they offer their services generously, particularly through leading catechesis and liturgy, caring for the weak, voluntary work with the poor.  Movements, associations and religious congregations also offer young people opportunities for commitment and co-responsibility.  Sometimes the availability of the young meets with a certain authoritarianism and mistrust from older people and pastors, who do not sufficiently recognize their creativity and who struggle to share responsibility.

Women in the Church

55.   The young also clamour for greater recognition and greater valuing of women in society and in the Church.  Many women play an essential part in Christian communities, but often it is hard to involve them in decision-making processes, even when these do not require specific ministerial responsibilities.  The absence of the feminine voice and perspective impoverishes debate and the Church’s journey, depriving discernment of a precious contribution.  The Synod recommends that everyone be made more aware of the urgency of an inevitable change, not least on the basis of anthropological and theological reflection on the reciprocity between men and women.

The mission of the young towards their peers

56.   In various contexts there are groups of young people, often from ecclesial movements and associations, who are actively involved in the evangelization of their peers through a transparent life witness, accessible language and the capacity to establish authentic bonds of friendship.  This apostolate makes it possible to bring the Gospel to people who might not otherwise be reached by ordinary youth ministry and it helps to mature the faith of those who engage in it.  So it deserves to be appreciated, supported, wisely accompanied and integrated into the lives of communities.

Desire for a more authentic and fraternal ecclesial community

57.   The young ask the Church to offer a shining example of authenticity, exemplariness, competence, co-responsibility and cultural solidity.  At times this request can seem like a criticism, but often it assumes the positive form of personal commitment to a fraternal, welcoming, joyful and committed community, prophetically combatting social injustice.  Among the expectations of the young, one that stands out particularly is the desire for the Church to adopt a less paternalistic and more candid style of dialogue.

Part II  “Their eyes were opened”

58.   And beginning with Moses and all the prophets, he interpreted to them in all the Scriptures the things concerning himself.  So they drew near to the village to which they were going.  He appeared to be going further, but they constrained him, saying ‘Stay with us, for it is towards evening and the day is now far spent.’  So he went in to stay with them.  When he was at table with them, he took the bread and blessed, and broke it, and gave it to them.  And their eyes were opened and they recognized him; and he vanished out of their sight” (Lk 24:27-31).

After listening to them, the Lord addresses an incisive and decisive, authoritative and transforming “word” to the two wayfarers.  In this way, gently but firmly, the Lord enters their dwelling, he stays with them and he shares the bread of life:  he is the eucharistic sign that permits the two disciples finally to open their eyes.

A new Pentecost

The action of the Holy Spirit

59.   The Holy Spirit inflames the heart, opens the eyes and awakens the faith of the two wayfarers.  He is at work from the beginning of the creation of the world so that the Father’s plan to recapitulate all things in Christ may reach fulfilment.  He acts in every time and in every place, in the variety of contexts and cultures, calling forth even in the midst of difficulties and sufferings the commitment to justice, the search for truth, the courage of hope.  Hence Saint Paul states that “the whole creation has been groaning in travail together until now” (Rom 8:22).  The desire for life in love and the healthy restlessness that is found in the hearts of young people form part of the great longing of all creation for the fullness of joy.  In each of them, including those who do not know Christ, the Creator Spirit acts so as to lead them to beauty, goodness and truth.

The Spirit rejuvenates the Church

60.   Youth is an original and stimulating stage in life, which Jesus himself experienced, thereby sanctifying it.  The Message to Young People of the Second Vatican Council (7 December 1965) presented the Church as the “real youth of the world”, which possesses “the ability to rejoice with what is beginning, to give oneself unreservedly, to renew oneself and to set out again for new conquests”.  With their freshness and their faith, young people help to show this face of the Church, in which we see a reflection of “the great Living One, the Christ who is eternally young”.  It is not about creating a new Church for the young, but rather rediscovering with them the youth of the Church, opening ourselves to the grace of a new Pentecost.

The Spirit in the life of the believer

61.   The Christian’s vocation is to follow Christ, passing through the waters of Baptism, receiving the seal of Confirmation and becoming part of his Body through the Eucharist.  “So the Holy Spirit comes, fire after water, and you are baked into the bread which is the body of Christ”  (Saint Augustine, Sermon 227).  In the journey of Christian initiation, it is above all Confirmation that allows believers to relive the Pentecostal experience of a new outpouring of the Spirit for growth and mission.  It is important to rediscover the richness of this sacrament, to grasp its link with the personal vocation of every baptized person and with the theology of charisms, to take greater care over the way it is presented pastorally, so that it does not become a formal and insignificant moment.  Every vocational journey has the Holy Spirit as protagonist:  He is the “interior teacher” whose lead it behoves us to follow.

An authentic experience of God

62.   The first condition for vocational discernment in the Spirit is an authentic experience of faith in Christ, dead and risen, remembering that faith “is not a light which scatters all our darkness, but a lamp which guides our steps in the night and suffices for the journey”  (Francis, Lumen Fidei, 57).  In Christian communities we sometimes risk proposing, even without intending it, an ethical and therapeutic theism, which responds to the human need for security and comfort, rather than a living encounter with God in the light of the Gospel and in the strength of the Spirit.  If it is true that life is awakened solely through life, it becomes clear that young people need to encounter Christian communities that are truly rooted in friendship with Christ, who leads us to the Father in the communion of the Holy Spirit.

 Chapter I The gift of Youth

Jesus as a young man among the young

The youth of Jesus

63.    “A youth for youths, becoming an example to the young, and thus sanctifying them for the Lord” (Irenaeus, Adversus Haereses, II, 22, 4), Christ sanctified the stage of youth by the very fact that he lived it.  The biblical narrative presents only one episode from Jesus’ youth (cf. Lk 2:41-52), which was spent without fuss, in simplicity and in the working environment of Nazareth, so much so that he was known as “the carpenter” (Mk 6:3) and “the carpenter’s son” (Mt 13:55).

Contemplating his life is the best way to grasp the blessing of youth: Jesus had an unconditional trust in the Father, he maintained friendship with his disciples and even in moments of crisis he remained faithful to them.  He showed a profound compassion for the weakest, especially the poor, the sick, sinners and the excluded.  He had the courage to confront the religious and political authorities of his time;  he had the experience of feeling misunderstood and rejected;  he experienced the fear of suffering and he knew the fragility of the Passion;  he turned his gaze towards the future, entrusting himself into the Father’s safe hands in the strength of the Spirit.  In Jesus, all the young can see themselves, with their fears and their hopes, their uncertainties and their dreams and they can entrust themselves to him.  For them it will be a source of inspiration to contemplate Jesus’ encounters with the young.

With the Lord’s gaze

64.   Listening to Christ and communion with him help pastors and educators to cultivate a wise interpretation of this stage in life.  The Synod tried to look at the young with the attitude of Jesus, to discern in their lives the signs of the Spirit’s activity.  We believe that even today God speaks to the Church and to the world through the young, their creativity and their commitment, as well as their sufferings and their pleas for help.  With them we can read our era more prophetically and recognize the signs of the times;  hence the young are one of the “theological arenas” in which the Lord tells us some of his expectations and challenges for building tomorrow.

Characteristics of youth

65.   Youth, as a phase in the development of the personality, is marked by dreams which gather momentum, by relationships which acquire more and more consistency and balance, by trials and experiments, and by choices which gradually build a life project.  At this stage in life, the young are called to move forward without cutting themselves off from their roots, to build autonomy, but not in solitude.  The social, economic, cultural context does not always offer favourable conditions.  Many young saints have allowed the features of youth to shine forth in all their beauty and in their day they have been real prophets of change.  Their example shows what the young are capable of when they open themselves up to encounter with Christ.

Young people with disabilities or marked by illness can also offer a valuable contribution.  The Synod invites communities to make room for initiatives that recognize and permit them to be protagonists, for example through the use of sign language for the deaf, suitably tailored catechetical programmes, social experiences and work experience.

The healthy restlessness of the young

66.   The young experience a restlessness that above all is to be accepted, respected and accompanied, with utter confidence in their freedom and responsibility.  The Church knows from experience that their contribution is fundamental for renewal.  Young people, in some respects, can be a step ahead of their pastors.  On Easter morning the young Beloved Disciple arrived first at the tomb, before Peter, who was weighed down by age and by betrayal (cf. Jn 20:1-10);  in the same way in the Christian community youthful dynamism is a renewing energy for the Church, because it helps her to shake off anything weighing her down or holding her back, so as to open up to the Risen Lord.  At the same time, the attitude of the Beloved Disciple indicates that it is important to remain in touch with the experience of the elderly, to recognize the role of pastors and not to go forward alone.  Hence the symphony of voices that is the fruit of the Spirit.

Wounded young people

67.   The young, like everyone else, also carry wounds.  There are the wounds of the defeats they have suffered, frustrated desires, experiences of discrimination and injustice, of not feeling loved or recognized.  There are physical and psychological wounds.  Christ, who consented to endure his passion and death, comes close, through his cross, to all suffering young people.  Then there are moral wounds, the weight of one’s errors, the sense of guilt for having made mistakes.  Today more than ever, to be reconciled with one’s wounds is a necessary condition for a good life.  The Church is called to support all the young in their trials and to promote whatever pastoral action may be needed.

Becoming adult

The age of choices

68.   Youth is a time of life which has to come to an end, to make way for adult life.  This transition does not take place automatically, but it implies a journey of maturation, not always helped by the environment in which young people live.  In many regions there is a widespread culture of the provisional which favours an indefinite prolongation of adolescence and postponement of decisions;  fear of the definitive thus generates a kind of paralysis of decision-making.  Yet youth cannot remain on hold.  It is the age of choices and herein lies its fascination and its greatest responsibility.  Young people take decisions in professional, social and political fields and in other more radical ways that determine the shape of their lives.  It is because of choices of this kind that one can speak more precisely of “life choices”:  a young person’s life, in its unrepeatable uniqueness, is given a definitive orientation.

Life under the sign of mission

69.   Pope Francis invites young people to view their lives within the horizon of mission: “So often in life, we waste time asking ourselves: ‘Who am I?’  You can keep asking, ‘Who am I?’ for the rest of your lives.  But the real question is: ‘For whom am I?’” (Address during the Prayer Vigil in preparation for World Youth Day, Basilica of Santa Maria Maggiore, 8 April 2017).  This statement sheds a profound light on life choices, because it invites us to make them within the liberating horizon of self-giving.  This is the only way to arrive at an authentic and lasting happiness!  Effectively “My mission of being in the heart of the people is not just a part of my life or a badge I can take off; it is not an ‘extra’ or just another moment in life. Instead, it is something I cannot uproot from my being without destroying my very self. I am a mission on this earth; that is the reason why I am here in this world” (Francis, Evangelii Gaudium, 273).

A pedagogy capable of dialogue

70.   Mission is a sure target for life’s journey, but not a “satellite navigation system” which lays out the whole route in advance.  Freedom always entails a dimension of risk which needs to be evaluated with courage and accompanied wisely, according to the “law of graduality”.  Many pages in the Gospel portray Jesus inviting us to be daring, to put out into the deep, to pass from the logic of following commandments to that of generous and unconditional gift, without concealing the requirement to take up one’s cross (cf. Mt 16:24).  He is radical: “He gives all and he asks all: he gives a love that is total and asks for an undivided heart” (Francis, Homily, 14 October 2018).  Without misleading the young through minimalist proposals or overwhelming them with a corpus of rules that give Christianity a reductive and moralistic image, we are called to invest in their fearlessness and to educate them to take on responsibilities, in the sure knowledge that error, failure and crisis are experiences that can strengthen their humanity.

The true sense of authority

71.   In order to undertake a true journey of maturation, the young need authoritative adults.  In its etymological meaning, auctoritas indicates the capacity to cause to grow;  it does not express the idea of a directive power, but of a real generative force.  When Jesus encountered the young, in whatever state and condition they might find themselves, even if they were dead, in one way or another he said to them: “Arise!  Grow!”  And his word brought about what he was saying (cf. Mk 5:41;  Lk 7:14).  In the episode of the healing of the possessed epileptic (cf. Mk 9:14-29), which evokes so many of the forms of alienation experienced by young people today, it seems clear that Jesus stretches out his hand not to take away freedom but to activate it, to liberate it.  Jesus fully exercises his authority: he wants nothing other than the growth of the young person, without a trace of possessiveness, manipulation or seduction.

Family bonds

72.   The family is the first faith community where, for all its limitations and incompleteness, the young person experiences God’s love and begins to discern a vocation.  The last two Synods and the Apostolic Exhortation Amoris Laetitia which came out of them, repeatedly emphasized that the task of the family, as a domestic Church, is to live the joy of the Gospel in daily life and to bring all its members to do so, according to their circumstances, remaining open to the dimension of vocation and mission.

Yet families do not always teach their children to consider the future through the lens of vocation.  Sometimes the desire for social prestige and personal success, the ambition of parents or a tendency to determine the choices of their children leave little room for discernment and condition the decisions that are made.  The Synod recognizes the need to help families arrive at a clearer understanding of life as a vocation.  The Gospel account of the adolescent Jesus (cf. Lk 2:41-52), subject to his parents but able to detach himself from them so as to concern himself with his Father’s affairs, can shed valuable light on how to interpret family relationships from a Gospel perspective.

Called to Freedom

The Gospel of freedom

73.   Freedom is the essential condition for every authentic life choice.  Yet there is a risk of it being misunderstood, not least because it is often inadequately presented.  The Church herself comes across to many young people as an institution that imposes rules, prohibitions and obligations.  Yet Christ “has set us free for freedom” (Gal 5:1), leading us from the regime of the Law to that of the Spirit.  In the light of the Gospel, it is helpful today to acknowledge more clearly that freedom is essentially relational and to show that passions and emotions matter in so far as they guide us towards authentic encounter with others.  This perspective clearly shows that true freedom is intelligible and possible only in relation to truth (cf. Jn 8:31-32) and above all to charity (cf. 1 Cor 13:1-13; Gal 5:13): freedom is being oneself in the heart of another.

A responsorial freedom

74.   Through lived experience of fraternity and solidarity, especially with the lowliest, young people learn that authentic freedom comes from feeling accepted, and the more we make space for others, the more it grows.  They have a similar experience when they make a commitment to simplicity of life or respect for the environment.  When they experience mutual recognition and shared commitment, they discover within their hearts a silent appeal to love that comes from God.  This makes it easier to recognize the transcendent dimension that lies at the heart of freedom and that comes alive through contact with the most intense life experiences – birth and death, friendship and love, guilt and forgiveness.  These are the experiences that help us to see that the nature of freedom is radically responsorial.

Freedom and faith

75.   More than 50 years ago, Saint Paul VI introduced the expression “dialogue of salvation” and he interpreted the mission of the Son in the world as an expression of an “appeal of love”.  He added, though, that we are “free to respond to it or to reject it” (cf. Ecclesiam Suam, 75).   From this perspective, the act of personal faith appears both free and liberating:  it will be the point of departure for a gradual appropriation of the contents of the faith.  So faith is not an element added to freedom as if from outside, but it fulfils the desire of conscience for truth, goodness and beauty, rediscovering them fully in Jesus.  The witness of so many young martyrs past and present, echoed powerfully at the Synod, is the most convincing proof that faith makes us free in the face of the powers of this world, in the face of its injustices and even in the face of death.

Freedom that is wounded and redeemed

76.   Human freedom is scarred by wounds from personal sin and from concupiscence.  But when, by experiencing forgiveness and mercy, people become aware of the obstacles that imprison them, they grow in maturity and can commit themselves with greater transparency in definitive life choices.  From an educative perspective, it is important to help young people not to feel discouraged in the face of errors and failures, even humiliating ones, because these form an integral part of the journey towards a more mature freedom, aware of its greatness and its weakness.

But evil does not have the last word : “For God so loved the world that he gave his only Son” (Jn 3:16).  He loved us to the end and thus he ransomed our freedom.  Dying for us on the cross, he poured out the Spirit, and “where the Spirit of the Lord is, there is freedom” (2 Cor 3:17 : a new freedom, a paschal freedom, which is fulfilled in the daily gift of self.

第2章 召命の神秘

  召命の探求

   召命、旅、そして発見

77.サムエル記(同3章1-21節参照)を読むと、識別するための基本的な要素が何であるかがわかります。神が導かれることをよく聞き、認識する、個人的な経験、理解を徐々に深め忍耐強く、丁寧に、神秘を伴って、共同体への使命、であることがはっきりしてくるのです。サムエルは召命を引き受けねばならない運命を決して負わされたのではなく、日々の相互信頼の中での愛の提案、宣教への派遣です。

 若いサムエル同様、男女問わずすべての人間にとって、召命には、特に選別された、という瞬間がある一方、長い旅路が求められます。主の言葉は理解し、解釈するのに時間がかかります。託された使命は、徐々に明らかになるのです。若者は次第に自己を発見していく冒険に魅了され、様々な活動や、出会いや、人との関係から意欲的に学び、日々の生活の中で自分を試していくのです。

 ですが、いろいろな体験をつなぎ合わせ、軌道からそれる危険を克服し、神が示されるサインを認識しながら、信仰の観点から読み取るためには、助けが必要です。召命は、一度には明確になりません。それは、「信仰は旅する範囲でしか、神の言葉によって開かれた地平の向こうに行くことを選んだ範囲でしか、見えない」(教皇フランシスコ回勅「 Lumen Fidei(信仰の光)」9項)からです。

  召命、恵みと自由

78.何世紀もの間、召命の神秘の神学的理解の力点は、そのテーマが作り出された時点の社会、宣教の文脈によって、異なってきました。どの様な場合にも、「召命」という言葉の類似的な性格は、その時々の現実の様々な局面と同様に、認める必要があります。

 これは、時として、全体像の持つ複雑さに常に適切に対応するとは限らないやり方で、個人的な側面を強調してきました。ですから、究極の源が神にある「召命の神秘」を深く取り込むためには、想像力と宗教的言語を純化し、聖書の物語の豊かさと調和を再発見せねばなりません。

 特に、神の選択と人間の自由の相互作用について、あらゆる決定論、あらゆる外在論と切り離して、よく考えることが必要です。召命は、人間がただ復唱するだけの、前もって書かれた台本でもなければ、台本なしのアドリブでもありません。神は私たちを「友」と呼ばれ、「僕」ではない(ヨハネ福音書15章13節参照)のですから、私たちの選択は、神の愛の計画の歴史的な展開に真に貢献するのです。

 一方、救済は、私たちを無限に超えた神秘-ですから、主のなさることに耳を傾けることによってのみ、救済において私たちが果たすように呼ばれている役割を知るのです。この見地から分かることは、召命は真の恩寵の賜物であり、契約の賜物―「私たちの自由」という、最も美しく最も貴重な秘密の宝-なのです。

  創造と召命

79.聖書は「万物は御子によって、御子のために造られた」(コロサイの信徒への手紙1章16節)と言明し、「召命の神秘」を神の創造そのものに満ちた現実として読み取るよう、私たちに指示しています。

 神は言葉によって創造されたー言葉は存在を呼び寄せ、命を呼び寄せ-そして、闇と混沌の中から、様々な特徴づけを行い、秩序の美と多様性の中の調和を宇宙に刻み込まれました。

 聖パウロ6世教皇は「すべての命は召命である」(回勅「Populorum Progressio(人類の進歩)15項)と言われ、ベネディクト16世教皇は「人間は対話する存在として創造された」と付け加えられました-創造の御言葉は、私たち一人ひとりを個人的に呼ばれ、生命そのものが神からの召命だ、ということ示された」(使徒的勧告「Verbum Domini(主のことば)」77項)と。

  召命としての文化に向かって

80.召命という言葉で人生について語ることは、私たちに、若者の成長にとって大変重要な要素に光を当てることを可能にします-それは、「召命は、運命で決められたり、偶然の産物だったりするものだ」という見方を排除し、そうではなく、自らの意思で苦労して求めるべき「私的財」だ、ということを意味します。

 第一のケースで、存在することの価値のある目的が分からないために、召命がないなら、第二のケースで「根無し」と考えられる人間は、「召命を持たない」ということになります。これが、信徒たちの洗礼の自覚を基礎に作られた全てのカトリック共同体社会が「真の召命の文化と召命のために常に祈る責任を育てることができるようにする環境」を作り上げることが重要だ、という理由です。

 The vocation to follow Jesus

The attractiveness of Jesus

81.   Many young people are fascinated by the figure of Jesus.  To them his life appears good and beautiful, because it is poor and simple, built on sincere and profound friendships, given for his brethren with generosity, never closed towards anyone, but always open to gift.  Still today the life of Jesus is profoundly attractive and inspiring; for all young people it is a provocation which challenges them.  The Church knows that this is due to the fact that Jesus has a deep bond with every human being because “Christ, the new Adam, by the revelation of the mystery of the Father and His love, fully reveals man to himself and makes his supreme calling clear” (cf. Gaudium et Spes, 22).

 

Faith, vocation and discipleship

82.   Indeed Jesus not only fascinated people with his life – he also issued an explicit call to faith.  He encountered men and women who recognized in his words and actions the right way to speak of God and to relate to him, pointing them towards the faith that leads to salvation:  “Daughter, your faith has made you well.  Go in peace!” (Lk 8:48).  Others who met him were called to become his disciples and witnesses.  He did not conceal from those who wanted to be disciples the need to take up the cross every day and follow him on a paschal journey of death and resurrection.   Faith as witness lives on in the Church, the sign and instrument of salvation for all peoples. There have always been various forms of discipleship within the community of Jesus.  Most of the disciples lived the faith in the ordinary circumstances of daily life;  others, though, including some women, shared the itinerant and prophetic existence of the Master (cf. Lk 8:1-3);  from the outset the apostles had a particular role in the community and they were associated by him with his ministry of guiding and preaching.

 

The Virgin Mary

83.   Among all the biblical figures who illustrate the mystery of vocation, we should contemplate in a particular way the figure of Mary.  This young woman, with her “yes”, made the Incarnation possible, thereby creating the conditions for every other ecclesial vocation.  She remains the first disciple of Jesus and the model of all discipleship.  In her pilgrimage of faith, Mary followed her Son to the foot of the Cross and after the Resurrection she accompanied the nascent Church to Pentecost.  As mother and merciful teacher she continues to accompany the Church and to implore the Spirit who gives life to every vocation.  Clearly, then, the “Marian principle” has an eminent role and illuminates the whole life of the Church in its various manifestations.  Alongside the Virgin, the figure of Joseph her spouse constitutes another exemplary model of vocational response.

 

  Vocation and vocations

Vocation and mission of the Church

84.   It is not possible to understand the significance of the baptismal vocation in its fulness unless we remember that for everyone, without exception, it is a call to holiness.  This call necessarily implies an invitation to share in the Church’s mission, which has as its fundamental goal communion with God and communion among all people.  Ecclesial vocations are multiple and articulated expressions through which the Church realizes her call to be a real sign of the Gospel received in a fraternal community.  The different ways of following Christ express, each in its own way, the mission to bear witness to the event of Jesus, in which every man and every woman finds salvation.

 

The variety of charisms

85.   Saint Paul returns many times in his letters to this theme, recalling the image of the Church as a body made up of various members and emphasizing that each member is necessary and at the same time a part of the whole, since only the unity of all makes the body alive and harmonious.  The origin of this communion Saint Paul locates in the very mystery of the Most Holy Trinity: “There are varieties of gifts, but the same Spirit;  and there are varieties of service, but the same Lord; and there are varieties of working, but it is the same God who inspires them all in every one” (1 Cor 12:4-6).  The Second Vatican Council and the subsequent Magisterium offer valuable indications for elaborating a correct theology of charisms and ministries in the Church, in such a way as to receive with recognition and to value with wisdom the gifts of grace that the Spirit continually calls forth in the Church to rejuvenate her.

 

Profession and vocation

86.   Many young people live their professional lives within a vocational horizon.  They often reject attractive work proposals that are not in line with Christian values and they make their choice of career by asking how best to bring their personal talents to bear fruit in the service of the Kingdom of God.  Work is seen by many as an opportunity to recognize and value the gifts they have received:  in this way men and women participate actively in the Trinitarian mystery of creation, redemption and sanctification.

 

The family

87.   The two recent Synodal Assemblies on the family, followed by the Apostolic Exhortation Amoris Laetitia, offered a rich contribution on the vocation of the family in the Church and the essential contribution that families are called to make in witness to the Gospel through mutual love and through the procreation and education of children.  Speaking of the riches contained in the recent documents reminds us how important it is to take up their message again so as to rediscover and help today’s young people to understand the beauty of the vocation to marriage.

 

Consecrated life

88.   The gift of consecrated life, both contemplative and apostolic, which the Spirit calls forth in the Church, has a particular prophetic value inasmuch as it is a joyful witness of the gratuitousness of love.  When religious communities and new foundations live their fraternity authentically, they become schools of communion, centres of prayer and contemplation, places of witness of intergenerational and intercultural dialogue and arenas for evangelization and charity.  The mission of many consecrated men and women who take care of the lowliest on the world’s peripheries manifests concretely the dedication of an outward-looking Church.  If in some regions it is experiencing reduction in numbers and the fatigue of ageing, consecrated life continues to be fruitful and creative, not least through co-responsibility with many lay people who share the spirit and the mission of the various charisms.  The Church and the world cannot be without this vocational gift, which is a great resource for our time.

 

The ordained ministry

89.   The Church has always taken particular care of vocations to the ordained ministry, in the knowledge that holy order is a constitutive element of the Church’s identity and is necessary for Christian life.  Hence she has always devoted special attention to the formation and accompaniment of candidates for the priesthood.  The concern of many churches for their numerical decline demands a renewed reflection on the vocation to the ordained ministry and on the pastoral care of vocations so as to convey the fascination of the person of Jesus and of his call to become pastors of his flock.  Likewise the vocation to the permanent diaconate calls for greater attention, because the full potential of this resource has yet to be tapped.

 

The condition of “singles”

90.   The Synod reflected on the situation of people who live as “singles”, recognizing that this term can indicate a great variety of circumstances.  The single state can have many causes, voluntary or involuntary, and can depend on cultural, religious and social factors.  It can therefore express a very broad range of life choices.  The Church recognizes that this state, lived in a spirit of faith and gift, can be one of the many roads by which the grace of baptism is realized and a person advances towards the holiness to which are all called.

 

 Chapter III The mission to accompany

The Church that accompanies

Faced with choices

91.   In the modern world, marked by an ever more evident pluralism and by an ever wider range of possible options, the theme of choices arises with particular force at a variety of levels, especially in the face of life journeys that are less and less linear and marked by great precariousness.  Often the young oscillate between approaches as extreme as they are ingenuous: from considering themselves in thrall to a predetermined and inexorable destiny, to finding themselves overwhelmed by an abstract ideal of excellence, within a framework of unregulated and violent competition.

Accompaniment for the sake of valid, stable and well-founded choices, is therefore a service that is widely needed.  Being present, supporting and accompanying the journey towards authentic choices is one way for the Church to exercise her maternal function, giving birth to the freedom of the children of God.  Service of this kind is simply the continuation of the way in which the God of Jesus Christ acts towards his people:  through constant and heartfelt presence, dedicated and loving closeness and tenderness without limits.

 

Breaking bread together

92.   As the account of the Emmaus disciples shows us, accompanying requires availability to walk a stretch of road together, establishing a significant relationship.  The origin of the term “accompany” points to bread broken and shared (cum pane), with all the symbolic human and sacramental richness of this reference.  It is therefore the community as a whole that is the prime subject of accompaniment, precisely because in its heart it develops that drama of relationships that can support the person on his journey and furnish him with points of reference and orientation.  Accompaniment in human and Christian growth towards adult life is one of the ways in which the community demonstrates that it is capable of renewal and of renewing the world.

The Eucharist is the living memorial of the paschal event, a privileged place of evangelization and transmission of the faith for the sake of mission.  In the assembly gathered for the eucharistic celebration, the experience of being personally touched, instructed and healed by Jesus accompanies each person on his or her journey of personal growth.

 

Environments and roles

93.   As well as family members, those called to exercise a role of accompaniment include all the significant persons in the various spheres of young people’s lives, such as teachers, animators, trainers, and other figures of reference, including professional ones.  Priests, men and women religious, while they do not have a monopoly of accompaniment, have a specific task which arises from their vocation and which they must rediscover, as they were asked to do by the young people present in the Synodal Assembly, in the name of so many others.  The experience of some Churches exalts the role of catechists as accompaniers of the Christian communities and of their members.

 

Accompanying the entry into society

94.   Accompaniment cannot limit itself to the path of spiritual growth and to the practices of the Christian life.  Equally fruitful is accompaniment along the path of gradual assumption of responsibilities within society, for example in the professional sphere or in socio-political engagement.  In this sense, the Synodal Assembly points to the importance of the Church’s social teaching.  In society and in ecclesial communities that are ever more intercultural and multireligious, there is need for accompaniment that focuses specifically on relationship with diversity, that sees it as a mutual enrichment and as a possibility for fraternal communion, against the twofold temptation of retreating within one’s own identity and relativism.

 

Community accompaniment, of groups and individuals

A fruitful tension

95.   There is an inherent complementarity between personal accompaniment and community accompaniment, which every spirituality or ecclesial sensibility is called to articulate in its own way.  In particularly delicate moments, such as the phase of discernment over fundamental life choices or the negotiation of critical periods, direct personal accompaniment will prove particularly fruitful.  Yet it also remains important in daily life as a way of deepening one’s relationship with the Lord.

Then one must underline the urgency of personally accompanying seminarians and young priests, religious in formation, as well as couples preparing for marriage and in the early stages after the celebration of the sacrament, drawing inspiration from the catechumenate.

Community accompaniment and group accompaniment

96.   Jesus accompanied his group of disciples, sharing his daily life with them.  Community experience highlights the qualities and the limits of every person and helps us to recognize humbly that unless we share the gifts we have received for the common good, it is not possible to follow the Lord.

This practice continues in the Church today, as the young join groups, movements and associations of various kinds, where they experience a warm and welcoming environment and the intensity of relationships that they desire.  Joining organizations of this kind is particularly important once the journey of Christian initiation has been completed, because it offers the young an opportunity to bring their Christian vocation to maturity.  Pastors should maintain a presence in these environments, so as to guarantee suitable accompaniment.

In these groups, the formators and animators represent a point of reference in terms of accompaniment, while the friendships that develop within them prepare the ground for peer accompaniment.

 

Personal spiritual accompaniment

97.   Spiritual accompaniment is intended to help people integrate step by step the various dimensions of their lives so as to follow the Lord Jesus.  In this process three elements can be identified:  listening of life, encounter with Jesus and mysterious dialogue between God’s freedom and that of the individual.  Those who accompany should be welcoming and patient, they elicit pertinent questions and recognize the signs of the Spirit in the replies of the young.

In personal spiritual accompaniment one learns to recognize, interpret and choose from the perspective of faith, listening to the Spirit’s promptings within the life of every day (cf. Francis, Evangelii Gaudium, 169-173).  The charism of spiritual accompaniment is not necessarily linked to ordained ministry, nor was it in the past.  Never has there been so great a need as there is today for spiritual guides, fathers and mothers with profound experience of faith and humanity, over and above their intellectual preparation.  In this area, the Synod devoutly hopes for a rediscovery of the immensely fruitful resource of consecrated life, especially its female form, and of well-formed laypersons, young and old.

 

Accompaniment and the sacrament of Reconciliation

98.   The sacrament of reconciliation plays an essential part in helping us move forward in the life of faith, marked as it is not only by limits and frailties, but also by sin.  The ministry of reconciliation and spiritual accompaniment must be clearly distinguished from one another, because they take different forms and have different objectives.  A healthy and wise graduality of penitential paths is needed pastorally, involving of a range of educative figures, who can help young people to read their moral lives, to develop a correct sense of sin and above all to open themselves to the liberating joy of mercy.

 

Integral accompaniment

99.   The Synod recognizes the need to promote an integral accompaniment, in which the spiritual aspects are well integrated with the human and the social.  As Pope Francis explains, “spiritual discernment does not exclude existential, psychological, sociological or moral insights drawn from the human sciences.  At the same time, it transcends them” (Gaudete et Exsultate, 170).  It is a question of absorbing all these elements dynamically, respecting different spiritualities and cultures, without exclusion and without confusion.

 

Psychological or psychotherapeutic accompaniment, as long as it is open to transcendence, can prove fundamental for a journey of integration of the personality, and it can reopen to the possibility of vocational growth certain aspects of the personality that are closed or blocked.  Young people live all the richness and fragility of being an “open book”.  Psychological assistance could not only help them patiently to relive their personal history, but also to reopen questions so as to help them arrive at a more stable affective equilibrium.

 

Accompaniment during formation for the ordained ministry and consecrated life

100.        When young people are admitted to houses of formation or seminaries, it is important to establish whether they are sufficiently rooted in a community, and whether they show stability in relations of friendship with peers, in commitment to study or work, and in contact with poverty and suffering.  In spiritual accompaniment, it is crucial to begin with prayer and the interior world, learning discernment above all in their own lives, not least though forms of renunciation and asceticism.  Celibacy for the Kingdom (cf. Mt 19:12) should be understood as a gift to be recognized and verified in freedom, joy, gratuitousness and humility, before admission to candidacy or first profession.  The contribution of psychology is to be understood as an aid to affective maturation and integration of the personality, to be used in formation according to professional ethics and with respect for the effective freedom of those in formation.  The figure of the rector or whoever is responsible for formation becomes ever more important for unifying the journey of formation, for arriving at a realistic discernment, consulting all those involved in formation, and for deciding whether or not to interrupt the journey of formation, guiding individuals onto a different vocational path.

Once the initial phase of formation is concluded, there is a need for ongoing formation and accompaniment of priests and consecrated men and women, especially younger ones, who often have to face challenges and responsibilities that are quite out of proportion.  The task of accompanying them falls not only upon those duly delegated, but must be personally exercised by bishops and superiors.

 

Quality accompaniers

Called to accompany

101.        In many ways, the young ask us to describe the qualities needed in an accompanier.  The service of accompaniment is a genuine mission, which requires apostolic availability on the part of those who provide it.  Like the deacon Philip, the accompanier is called to obey the call of the Spirit, going outwards and leaving behind the safe area enclosed by the walls of Jerusalem, a figure of the Christian community, so as to set out towards an inhospitable desert place, perhaps a dangerous one, in which he makes the effort to pursue a chariot.  Having reached it, he must find a way of entering into a relationship with the foreign traveller, so as to elicit a question that perhaps would never have been formulated spontaneously (cf. Acts8:26-40).  In brief, to accompany requires placing oneself at the disposal of the Spirit of the Lord and of the one accompanied, with all his or her qualities and capacities, and then having the courage to step aside with humility.

 

The profile of the accompanier

102.        A good accompanier is a person who is balanced, a listener, a person of faith and prayer, who has the measure of his own weaknesses and frailties.  Hence he knows how to be accepting of the young people he accompanies, without moralizing and without false indulgence.  When necessary he also knows how to offer a word of fraternal correction.

The awareness that accompanying is a mission that requires a profound spiritual rootedness will help him to remain free in his dealings with the young people he accompanies: he will respect the outcome of their journey, supporting them with prayer and rejoicing in the fruits that the Spirit produces in those who open their hearts to him, without seeking to impose his own will and his own preferences.  Equally he will be capable of placing himself at their service, not taking centre stage or adopting possessive and manipulative attitudes that create dependence rather than freedom in others.  This profound respect will also be the best guarantee against any risk of domination or abuse of any kind.

 

The importance of formation

103.        In order to perform this service, the accompanier will need to cultivate his own spiritual life, nourishing the relationship that links him to the One who assigned this mission to him.  At the same time he needs to feel the support of the ecclesial community to which he belongs.  It is important that he receive a specific formation for this particular ministry and that he can benefit in his turn from accompaniment and supervision.

It is worth noting, finally, that among the characteristics of our “being Church” that the young particularly appreciate are a readiness and a capacity for working collaboratively: in this way the formation of the young can be more significant, effective and incisive.  The skill required for working collaboratively involves cultivating specific relational virtues: the discipline of listening and the capacity to give the other person space, readiness to forgive and willingness to “put oneself on the line”, according to a genuine spirituality of communion.

 

Chapter IV The Art of Discernment

The Church, an environment for discernment

A constellation of meanings in the variety of spiritual traditions

104.        Vocational accompaniment is a key dimension of a process of discernment on the part of the person who is called to choose.  The term “discernment” is used in a variety of ways, albeit interrelated.  In a more general sense, discernment indicates the process by which important decisions are taken;  in a second sense, more typical of the Christian tradition and more relevant for our purposes, it corresponds to the spiritual dynamic by which a person, a group or a community seek to recognize and to follow the will of God in their particular situation:  “test everything;  hold fast to what is good” (1 Thess5:21).  In so far as it involves seeking to recognize the Spirit’s voice and to accept the Spirit’s call, discernment is an essential dimension of Jesus’ manner of life, a fundamental attitude rather than a particular action.

Throughout Church history, different spiritualities have addressed the topic of discernment with different emphases, and in relation to different charismatic sensitivities and historical epochs.  During the Synod we recognized some common elements, which do not take away from differences of language:  the presence of God in the life and the history of every person;  the possibility of recognizing God’s action; the role of prayer, of sacramental life and of asceticism;  continual engagement with the demands of the Word of God;  freedom with regard to acquired certainties; constant evaluation in the light of everyday life; the importance of adequate accompaniment.

At the heart of the Word and of the Church

105.        In so far as it is an “interior attitude rooted in an act of faith” (Francis, Address to the 1st General Congregation of the XV Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops, 3 October 2018), discernment lies at the heart of the Church, whose mission is to bring every man and every woman to meet the Lord who is already at work in their lives and in their hearts.

The ecclesial context favours a climate of trust and freedom as individuals search for their vocation in an environment of recollection and prayer;  it offers concrete opportunities for rereading one’s history and for the discovery of one’s gifts and vulnerabilities in the light of God’s Word;  it permits engagement with witnesses who act out a variety of life choices.  And encounter with the poor rapidly deepens what is essential in life, while the sacraments – especially the Eucharist and Reconciliation – nourish and sustain those who set out on the path of discovery of God’s will.

The horizon of community is always implied in every discernment, which can never be reduced to the merely individual dimension.  At the same time every personal discernment puts a question to the community, inviting it to listen to what the Spirit is saying through the spiritual experience of its members:  like every believer, the Church too is always in discernment.

 

Conscience in discernment

God speaks to the heart

106.        Discernment focuses attention on what is actually happening in the heart of every man and every woman.  In the Bible, the term “heart” is used to indicate the central point of interiority of the person, where listening to the Word that God is constantly addressing to us becomes a criterion for evaluating our life and our choices (cf. Ps 139).  The Bible considers the personal dimension, but at the same time underlines the community dimension.  Moreover, the “new heart” promised by the prophets is not an individual gift, but concerns the whole of Israel, within whose tradition and salvation history the believer takes his place (cf. Ezek 36:26-27).  The Gospels follow the same line: Jesus insists on the importance of interiority and he locates the centre of the moral life in the heart (cf. (Mt 15:18-20).

 

The Christian idea of conscience

107.        Saint Paul amplifies what the biblical tradition had to say about the heart, placing it in relation to the term “conscience”, which he takes from the culture of his time.  In the conscience we gather the fruit of encounter and communion with Christ: a salvific transformation and acceptance of a new freedom.  The Christian tradition insists on the conscience as the privileged place for special intimacy with God and encounter with Him, where his voice is heard:  “Conscience is the most secret core and sanctuary of a man. There he is alone with God, Whose voice echoes in his depths” (Gaudium et Spes, 16).  This conscience is not about immediate and superficial sentiment, nor about “self-consciousness”:  it testifies to a transcendent presence, which each person discovers in his own interiority, but which he does not control.

 

The formation of conscience

108.        Forming our conscience is the work of a lifetime, in which we learn to cultivate the very sentiments of Jesus Christ, adopting the criteria behind his choices and the intentions behind his actions (cf. Phil 2:5).  To reach the deepest dimension of conscience, according to the Christian vision, it is important to cultivate the interiority that thrives on periods of silence, on prayerful, listening contemplation of the Word, on the sustenance gained from the sacraments and from Church teaching.  Moreover we need to develop the habit of doing good, which we review in our examination of conscience: an exercise which is not just about identifying sins, but includes recognizing God’s work in our daily lives, in the events of our history and our cultures, in the witness of so many other men and women who went before us or who accompany us with their wisdom.  All this helps us to grow in the virtue of prudence, giving an overall direction to our life through concrete choices, in the serene awareness of our gifts and limitations.  The young Solomon asked for this gift more than any other (cf. 1 Kings 3:9).

 

Ecclesial conscience

109.        At the most personal level, the conscience of every believer is always related to the ecclesial conscience.  It is only through the mediation of the Church and its tradition of faith that we can access the real face of God revealed in Jesus Christ.  Spiritual discernment is therefore seen as a sincere work of conscience, in our duty to know the good that is possible, on the basis of which to make responsible decisions as to the right exercise of practical reason, within and in the light of our personal relationship with the Lord Jesus.

 

The practice of discernment

Familiarity with the Lord

110.        As an encounter with the Lord that takes place deep within the heart, discernment can be understood as an authentic form of prayer.  Hence it requires sufficient periods of recollection, both in the context of daily life and at privileged moments, like retreats, courses of spiritual exercises, pilgrimages, etc.  Serious discernment is helped by all those occasions when we encounter the Lord and deepen our familiarity with Him, in the various forms in which he makes himself present:  the Sacraments, and especially the Eucharist and Reconciliation;  listening and meditating on the Word of God, Lectio Divina in the community, the fraternal experience of common life, and encounter with the poor – with whom the Lord Jesus identifies.

 

The attitudes of the heart

111.        Opening ourselves to listen to the Spirit’s voice requires particular interior dispositions: the first is the attention of the heart, favoured by silence and by a self-emptying that demands asceticism.  Equally fundamental are self-awareness, self-acceptance and repentance, combined with a willingness to put one’s life in order, abandoning whatever might emerge as an obstacle and regaining the interior freedom necessary to make choices that are guided only by the Holy Spirit.  Good discernment also requires attention to the movements of the heart, as we grow in the capacity to recognize and name them.  Finally, discernment requires the courage to engage in spiritual combat, as there will be no shortage of temptations and obstacles that the Evil One places in our path.

 

The dialogue of accompaniment

112.        The various spiritual traditions all agree that good discernment requires regular interaction with a spiritual guide.  Putting our lived experience into words authentically and personally helps us to see it more clearly.  At the same time, the accompanier provides us with an essential element of accountability, becoming a mediator of the maternal presence of the Church.  This delicate function was considered in the previous chapter.

 

Decision and confirmation

113.        Discernment as a dimension of the manner of life of Jesus and his disciples makes possible the concrete processes that carry us beyond uncertainty, to the point where we can assume responsibility for decisions.  Hence processes of discernment cannot last indefinitely, either in our personal lives, or in the lives of communities and institutions.  Decision-making is followed by an equally fundamental phase of implementation and verification in daily life.  It is therefore essential to proceed via attentive listening to interior promptings so as to hear the voice of the Spirit.  Engagement with daily reality takes on special importance in this phase.  Various spiritual traditions point out the value of fraternal life and service to the poor as a test for decisions that have been taken and as a setting in which the person fully reveals himself.

 

Part III They set off without delay

114.         “They said to each other: ‘Did not our hearts burn within us while he talked to us on the road, while he opened to us the scriptures?’ And they rose that same hour and returned to Jerusalem: and they found the elven gathered together and those who were with them, who said, ‘The Lord has risen indeed, and has appeared to Simon!’  They they told what had happened on the road, and how he was known to them in the breaking of the bread” (Lk 24:32-35).

From listening to the Word, we pass to the joy of an encounter that fills the heart, gives meaning to life and injects new energy.  Faces light up and the journey gains new energy: the light and strength of the vocational response becomes mission towards the community and the whole world.  Without delay and without fear, the disciples retrace their steps to join their brethren and to testify to their encounter with the risen Jesus.

 

A young Church

An icon of resurrection

115.        In continuity with the paschal inspiration of Emmaus, the icon of Mary Magdalene (cf. Jn 20:1-18) illuminates the path that the Church seeks to follow with and for the young as a fruit of this Synod: a path of resurrection that leads to proclamation and mission.  Nursing a profound desire for the Lord and defying the darkness of the night, Mary Magdalene runs to Peter and the other disciple; her movement triggers theirs, her womanly dedication anticipates the path of the apostles and opens up the way for them.  At the dawn of that day, the first day of the week, she experiences a surprise encounter: Mary went in search because she loved, but she finds because she is loved.  The Risen One makes himself known as he calls her by name and he asks her not to cling to him, because his risen Body is not a treasure to be locked up, but a Mystery to be shared.  Thus she becomes the first missionary disciple, the apostle of the apostles.  Healed from her wounds (cf. Lk 8:2) and a witness of the resurrection, she is the image of the young Church of our dreams.

 

Walking with the young

116.        Passion for seeking truth, amazement at the Lord’s beauty, the capacity to share and the joy of proclamation are still alive today in the hearts of many young people who are living members of the Church.  This is not about simply doing something “for them”, but living in communion “with them”, growing together in understanding of the Gospel and in the search for more authentic ways of living it and bearing witness to it.  The responsible participation of young people in the life of the Church is not optional, but it is a demand of baptismal life and an essential element for the life of every community.  The trials and frailties of young people help us to be better, their questions challenge us, their doubts cause us to reflect on the quality of our faith.  Their criticisms are also necessary for us, because often it is through them that we hear the voice of the Lord asking us for conversion of heart and renewal of structures.

 

The desire to reach all the young

117.        At the Synod we have always questioned ourselves about young people, by which we mean not only those who belong to the Church and work actively in her, but also all those who have other visions of life, who belong to other religions or who distance themselves from religion altogether.  All the young, without exception, are in the heart of God and therefore also in the heart of the Church.  But we recognize frankly that this statement on our lips does not always find real expression in our pastoral actions: often we remain closed in our environments, where their voice does not penetrate, or else we dedicate ourselves to less demanding and more enjoyable activities, suppressing that healthy pastoral restlessness that would urge us to move out from our supposed security.  And the Gospel too asks us to be daring and we want to be so without presumption and without proselytizing, testifying to the love of the Lord and stretching out our hands to all the young people in the world.

 

Spiritual, pastoral and missionary conversion

118.        Pope Francis often reminds us that this is not possible without a serious journey of conversion.  We are aware that it is not just a question of starting up new activities, nor do we want to write “vast apostolic projects, meticulously planned, just like defeated generals” (Francis, Evangelii Gaudium, 96).  We know that in order to be credible, we must live a reform of the Church, which implies purification of the heart and changes of style.  The Church must truly allow herself to take on the form of the Eucharist, which she celebrates as the source and summit of her life – the form of a loaf made up of many grains and broken for the life of the world.  The fruit of this Synod, the choice that the Spirit has inspired in us through listening and discernment, is to walk with the young, going out towards everyone, so as to bear witness to the love of God.  We could describe this process by speaking of synodality for mission, or missionary synodality: “Making a synodal Church a reality is an indispensable precondition for a new missionary energy that will involve the entire People of God.”[1]  We are dealing here with a prophecy of the Second Vatican Council, which we have yet to absorb in all its profundity and to develop in its daily implications, as Pope Francis reminds us when he says:  “It is precisely this path of synodality which God expects of the Church of the third millennium” (Francis, Address for the Commemoration of the 50th Anniversary of the Institution of the Synod of Bishops, 17 October 2015).  We are convinced that this choice, a fruit of prayer and debate, will allow the Church, by God’s grace, to be and to appear more clearly as the “youth of the world”.

 

 Chapter I The Missionary Synodality of the Church

A constitutive dynamism

The young ask us to walk together

119.        The Church as a whole, when choosing through this Synod to concern herself with the young, took a very definite option: she considers this mission a pastoral priority of epoch-making significance, in which to invest time, energy and resources.  From the start of the journey of preparation, young people have expressed the desire to be involved and appreciated and to feel themselves co-protagonists of the life and mission of the Church.  In this Synod we have experienced how co-responsibility lived with young Christians is a source of profound joy for bishops too.  We recognize in this experience a fruit of the Spirit which continually renews the Church and calls her to practise synodality as a way of being and acting, promoting the participation of all the baptized and of people of good will, each according to his age, state of life and vocation.  In this Synod, we have experienced how the collegiality that unites the bishops cum Petro et sub Petro in solicitude for the people of God is called to express itself and enrich itself through the practice of synodality at all levels.

 

The Synodal process continues

120.        The ending of the Synodal Assembly and the document which gathers together its fruits do not close the synodal process, but constitute a stage within it.  Since the concrete circumstances, the real possibilities and the urgent needs of the young are very different in different countries and continents, even within the commonality of the one faith, we invite the Episcopal Conferences and particular Churches to continue this journey, committing themselves to processes of communal discernment, including in the discussions some who are not bishops, as this Synod has done.  The style of these ecclesial processes should include fraternal listening and intergenerational dialogue, with a view to drawing up pastoral programmes that are particularly attentive to marginalized young people and those who have few or no contacts with ecclesial comunities.  Let us hope that families, religious institutes, associations, movements and young people themselves will take part in these processes, so that the “flame” of what we have experienced in these days may spread.

 

The Synodal form of the Church

121.        The experience they shared has made the Synod participants aware of the importance of a synodal form of the Church for the proclamation and transmission of the faith.  The participation of the young helped to “reawaken” synodality, which is a “constitutive element of the Church … as Saint John Chrysostom says, that ‘Church and Synod are synonymous’,(19) inasmuch as the Church is nothing other than the ‘journeying together’ of God’s flock along the paths of history towards the encounter with Christ the Lord”  (Francis, Address for the Commemoration of the 50th anniversary of the institution of the Synod of Bishops, 17 October 2015).  Synodality characterizes both the life and the mission of the Church, which is the People of God formed of young and old, men and women of every culture and horizon, and the Body of Christ, in which we are members one of another, beginning with those who are pushed to the margins and trampled upon.  In the course of the exchanges and the testimonies, the Synod brought to life certain fundamental traits of a synodal style: this is the goal of the conversion to which we are called.

 

122.        It is in relationships – with Christ, with others, in the community – that faith is handed on.  For the sake of mission, too, the Church is called to adopt a relational face that places the emphasis on listening, welcoming, dialogue and common discernment in a process that transforms the lives of those taking part.  “A synodal Church is a Church which listens, which realizes that listening ‘is more than simply hearing’. It is a mutual listening in which everyone has something to learn. The faithful people, the college of bishops, the Bishop of Rome: all listening to each other, and all listening to the Holy Spirit, the ‘Spirit of truth’ (Jn 14:17), in order to know what he ‘says to the Churches’ (Rev 2:7)” (Francis, Address for the Commemoration of the 50th anniversary of the Institution of the Synod of Bishops, 17 October 2015).  In this way the Church presents herself as the “tent of meeting” in which the Ark of the Covenant is preserved (cf. Ex 25):  a dynamic Church, in movement, which accompanies while journeying, strengthened by many charisms and ministries.  Thus does God make himself present in this world.

 

A participatory and co-responsible Church

123.        A characteristic feature of this style of Church is the valuing of the charisms that the Spirit gives according to the vocation and role of each of her members, through a dynamic of co-responsibility.  In order to activate it, conversion of the heart becomes necessary, as well as a readiness for mutual listening, which builds an effective common mind. Animated by this spirit, we can proceed towards a participatory and co-responsible Church, able to value the wealth of the variety of which it is composed, gratefully receiving the contributions of the lay faithful too, including young people and women, female and male consecrated persons as well as groups, associations and movements.  No one should be put aside or should put themselves aside.  This is the way to avoid both clericalism, which excludes many from decision-making processes, and the clericalization of the laity, which imprisons them instead of launching them towards missionary commitment in the world.

The Synod asks that the active participation of the young become effective and normal in places of co-responsibility in the particular Churches and in the organs of the Episcopal Conferences and the universal Church.  It also asks that the activity of the Office for the Young in the Dicastery for the Laity, the Family and Life be strengthened, not least through the constitution of an organ to represent the young at international level.

 

Joint processes of discernment

124.        The experience of “walking together” as the People of God helps us to understand more and more deeply the sense of authority as service.  Pastors need to have the capacity to increase collaboration in witness and mission and to accompany processes of joint discernment so as to interpret the signs of the times in the light of faith and under the guidance of the Spirit, with all the members of the community contributing, starting with those on the margins.  Church leaders with these capacities need a specific formation for synodality.  In this regard, it would seem desirable to devise joint formation courses for young lay people, young religious and seminarians, especially where matters like the exercise of authority or collaborative ministry are concerned.

 

A style for mission

Missionary communion

125.        The synodal life of the Church is essentially oriented towards mission: it is “the sign and instrument of intimate union with God and of unity for the whole human race” (Lumen Gentium, 1), until the day when God will be “all in all” (1 Cor15:28).  The young, open to the Spirit, can help the Church to make the paschal transition of going out “from ‘I’ understood in a self-centred way to the ecclesial ‘we’, where every ‘I’, clothed in Christ (cf. Gal 3:27), lives and journeys with his or her brothers and sisters as a responsible and active agent of the one mission of the People of God” (International Theological Commission, Synodality in the life and mission of the Church, 2 March 2018, 107).  Under the impulse of the Spirit and the guidance of the bishops, the same transition must take place for the Christian community, called to move away from the self-referentiality of the ‘I’ of self-preservation towards serving the building of a ‘we’ that is inclusive vis-à-vis the whole human family and the whole of creation.

 

A mission in dialogue

126.        This fundamental dynamic has precise consequences for the way the mission is conducted jointly with young people, which requires us to engage, frankly and without compromise, in a dialogue with all men and women of good will.  As St Paul VI stated: “The Church … has something to say, a message to give, a communication to make” (Ecclesiam Suam, 65). In a world marked by diversity of peoples and variety of cultures, “walking together” is fundamental if the initiatives of solidarity, integration and promotion of justice are to be credible and effective, and to show what is meant by a culture of encounter and gratuitousness.

It is the young who live day by day in contact with their peers from other Christian confessions, religions, convictions and cultures, who stimulate the entire Christian community to practise ecumenism and interreligious dialogue.  This calls for the courage of the parresia in speaking and the courage of humility in listening, taking up the asceticism – and sometimes the martyrdom – that this implies.

 

Towards the peripheries of the world

127.        The practice of dialogue and the search for shared solutions represent a clear priority at a time when democratic systems are challenged by low levels of participation and by a disproportionate influence of small interest groups who do not enjoy wide support in the population, with the danger of reductionistic, technocratic and authoritarian consequences.  Faithfulness to the Gospel will direct this dialogue towards a search for how to reply to the twofold cry of the poor and of the earth (cf. Francis, Laudato si’, 49), to which the young show particular sensitivity, ensuring that social processes are inspired by the principles of social teaching: the dignity of the person, the universal destination of goods, the preferential option for the poor, the primacy of solidarity, attention to subsidiarity, care of our common home.  No vocation within the Church can place itself outside this communitarian dynamism of going out and dialoguing;  hence every effort of accompaniment is called to measure itself against this horizon, giving privileged attention to the poorest and most vulnerable.

 Chapter II Walking together in daily life

From structures to relationships

From delegation to involvement

128.        Missionary synodality does not merely apply to the universal dimension of the Church.  The demand to journey together, bearing a real witness of fraternity in a renewed and more visible community, applies above all to individual communities.  It is therefore necessary to reawaken in every local reality the awareness that we are the people of God, responsible for incarnating the Gospel in our different contexts and in all daily situations.  This involves stepping outside the logic of delegation, which so greatly conditions pastoral action.

We may refer, for example, to catechetical courses in preparation for sacraments, a task that many families delegate entirely to the parish.  This mentality has the result that children risk seeing the faith not as a reality that illumines their daily life, but as a collection of ideas and rules belonging to a separate sphere of their existence.  Instead the two must journey together:  the parish needs the family to help the young to experience the daily realism of the faith; the family conversely needs the ministry of catechists and of the parish structure to offer the children a more organic vision of Christianity, so as to introduce them into the community and open them to broader horizons.  So it is not enough to have structures, if authentic relationships are not developed within them; it is actually the quality of these relationships that evangelizes.

 

The renewal of the parish

129.        The parish has to be involved in this process, as it seeks to become a more generative community, an environment which spearheads the mission towards the lowliest.  There are signs that the parish does not always succeed in meeting the spiritual needs of the people of our day, largely because of certain factors which have profoundly changed people’s lifestyles.  We now live in a culture “without boundaries”, marked by new spatio-temporal relationships – partly because of digital communication – and by constant mobility.  In this context, an understanding of the parish defined solely by territorial borders and incapable of engaging the faithful with a wide range of initiatives, especially the young, would imprison the parish in unacceptable stagnation and in worryingly repetitive pastoral cycles.  So the parish needs to be rethought pastorally, in terms of ecclesial co-responsibility and missionary vigour, exploring new synergies within its territory.  Only then will it become a significant environment in which to engage the lives of the young.

 

Open and decipherable structures

130.        In the same line of greater openness and sharing, it is important that individual communities ask themselves whether their lifestyles and use of structures offer the young a recognizable testimony of the Gospel.  No doubt the personal lives of many priests, sisters, religious, and bishops are marked by simplicity and commitment to the people; but this is almost invisible to most, especially to the young.  Many of them find that our ecclesial world is hard to read; they are kept at a distance by the roles we carry out and by the stereotypes that accompany these.  Let us aim to make our day-to-day life, in all its expressions, more accessible.  Effective closeness, the sharing of spaces and activities, create the conditions for authentic communication, free from prejudices.  This is how Jesus proclaimed the Kingdom and his Spirit urges us to follow the same path today.

 

The life of the community

A mosaic of faces

131.        A synodal and missionary Church is manifested through local communities with a variety of faces.  The Church has never been rigidly monochrome, but she has developed as a polyhedron of persons with varying sensitivities, origins and cultures.  In this way she has carried in the earthenware vases of human frailty the incomparable treasure of Trinitarian life.  The harmony that the Spirit gives does not abolish differences, but it makes them resonate together, generating a symphonic richness.  This encounter between different persons in the one faith is the fundamental condition for pastoral renewal of our communities.  This has a bearing on proclamation, on celebration and on service, that is, on the fundamental spheres of normal pastoral activity.  Popular wisdom says that “it takes a village to rear a child”: this principle applies to all spheres of pastoral activity today.

 

The community in the territory

132.        The effective realization of a community with many faces also has a bearing on its relationship with the local area, on its openness to the social fabric and on its dealings with civil authorities.  Only a united and diversified community is able to present itself in an open way and to shine the light of the Gospel onto the concerns of society that challenge us today:  ecological questions, work, support for the family, marginalization, renewal of politics, cultural and religious pluralism, the quest for justice and peace, the digital environment.  This is already happening in ecclesial associations and movements.  The young ask us not to face these challenges alone but to dialogue with all, not so as to cut back a slice of power, but so as to contribute to the common good.

Kerygma and catechesis

133.        The proclamation of Jesus Christ, dead and risen, who has revealed the Father and imparted the Spirit, is the fundamental vocation of the Christian community.  Part of this proclamation is the invitation to the young to recognize in their lives the signs of God’s love and to discover the community as a place of encounter with Christ.  This proclamation, ever new, is the very foundation of the catechesis of young people and gives it a kerygmatic quality (cf. Francis, Evangelii Gaudium, 164).  We must keep alive our commitment to offer ongoing, holistic pathways that are able to integrate: living knowledge of Jesus Christ and his Gospel, the capacity to read personal experience and historical events in the light of faith, accompaniment for prayer and for the celebration of the liturgy, an introduction to Lectio Divina and support for the witness of charity and the promotion of justice.  In this way, we put forward an authentic spirituality for the young.

Catechetical courses need to illustrate the intimate connection of faith with the concrete experience of every day, with the world of sentiments and attachments, with the joys and disappointments that we meet in study and in work;  they should include the Church’s social teaching; they should be open to the languages of beauty, music and different artistic expressions, and to the forms of digital communication.  The dimensions of bodiliness, affectivity and sexuality should be taken very much into account, as there is a profound link between education in faith and education in love.  Faith, after all, should be understood as praxis, or as a way of living in the world.

In catechesis of the young, it is urgent to continue seeking out the right types of language and methodology, without ever losing sight of the essential, namely the encounter with Christ, who is the heart of catechesis.  YouCat, DoCat and similar instruments are appreciated, though this is not to undervalue the catechisms produced by the various Episcopal Conferences.  There is also a need for renewed commitment to catechists, who are often young and serving other young people, virtually their contemporaries.  It is important to take sufficient care over their formation and to see that their ministry is more widely recognized by the community.

 

The centrality of the liturgy

134.        The eucharistic celebration generates the life of the community and the synodality of the Church.  It is a place of transmission of the faith and formation for mission, in which it becomes evident that the community lives by grace and not by the work of our hands.  In the words of the eastern tradition, we can say that the liturgy is an encounter with the Divine Servant who binds our wounds and prepares the paschal banquet for us, sending us out to do the same for our brothers and sisters.  So let us reiterate that the commitment to celebrate with noble simplicity, involving various lay ministries, is an essential element of the Church’s missionary conversion.  The young have shown that they appreciate and wish to engage deeply with authentic celebrations in which the beauty of signs and the care taken over preaching and community involvement truly speak of God.  It is therefore necessary to promote their active participation, while keeping alive a sense of awe before the Mystery;  to acknowledge their musical and artistic sensitivities, but also to help them understand that the liturgy is not purely self-expression but an action of Christ and the Church.  It is equally important to help the young discover the value of eucharistic adoration as a prolongation of the celebration, in which to live contemplation and silent prayer.

 

135.        Great importance in faith journeys attaches also to the practice of the sacrament of Reconciliation.  The young need to feel loved, forgiven and reconciled and they have a secret longing for the merciful embrace of the Father.  For this it is essential that priests generously make themselves available to celebrate this sacrament.  Communal penitential services help the young to approach individual confession and they make the ecclesial dimension of the sacrament more explicit.

 

136.        In many contexts, popular piety plays an important role in bringing the young to the life of faith in a practical, sensitive and immediate way.  Valuing body language and affective participation, popular piety brings with it the desire to enter into contact with the God who saves, often through the mediation of the Mother of God and of the saints.

Pilgrimage, for the young, is an experience of journeying that becomes a metaphor for life and the Church: contemplating the beauty of creation and art, living fraternally and uniting oneself to the Lord in prayer are once again proposed as the best conditions for discernment.

 

The generosity of diakonia

137.        The young can help renew the style of parish communities and build a fraternal community that is close to the poor.  The poor, the young who are cast aside, those who are suffering most, can become the principle of community renewal.  They should be recognized as subjects of evangelization and they help us free ourselves from spiritual worldliness.  Often the young are sensitive to the dimension of diakonia.  Many are actively committed in voluntary work and they find in service the way to encounter the Lord.  Dedication to the lowliest thus becomes a practice of faith, in which one discovers the love “in loss” that is at the heart of the Gospel and the foundation of the whole Christian life.  The poor, the lowly, the sick, the elderly, are the suffering body of Christ: hence to place oneself at their service is a way of meeting the Lord and a privileged space for discernment of one’s vocation.  A particular openness is required, in different contexts, towards migrants and refugees.  With them it is necessary to work for acceptance, protection, promotion and integration.  Social inclusion of the poor makes the Church the house of charity.

 

 Youth pastoral ministry from a vocational perspective

The Church, a home for the young

138.        Only a pastoral approach capable of renewal on the basis of care for relationships and the quality of the Christian community will be significant and attractive for the young.  The Church will thus be able to present herself to them as a welcoming home, characterized by a family atmosphere built on trust and confidence.  The longing for fraternity, which emerged so many times as the Synod listened to the young, asks the Church to be “a home for many peoples, a mother for all peoples” (Francis, Evangelii Gaudium, 288): pastoral ministry has the task of realizing in history the Church’s universal maternity through concrete and prophetic gestures of joyful, daily welcome that make her a home for the young.

 

Vocational animation of pastoral ministry

139.        Vocation is the hinge around which all dimensions of the person are integrated.  This principle concerns not only the individual believer, but also pastoral ministry as a whole.  So it is very important to clarify that only in the vocational dimension does all pastoral ministry find a unifying principle, because here it finds its origin and its fulfilment.  With regard to the journeys of pastoral conversion that are under way, no one is therefore asking to strengthen vocational ministry as a separate and independent sector, but rather to animate the entire pastoral approach of the Church, presenting effectively the geat variety of vocations.  The goal of pastoral ministry is to help everyone, through a journey of discernment, to attain to “the measure of the stature of the fulness of Christ” (Eph 4:13).

 

A pastoral vocational ministry for the young

140.        From the beginning of the synodal process, it became very clear that youth ministry needs a vocational slant.  In this way, the two essential characteristics of a pastoral approach to young generations emerge:  it is “for youth”, because it is aimed at those in the singular and unrepeatable stage in life which is youth; it is “vocational”, because youth is the privileged season for life choices and for responding to God’s call.  The “vocationality” of youth ministry should not be understood in an exclusive sense, but an intensive sense.  God calls at every age in life – from the mother’s womb to old age – but youth is the privileged moment for listening, for availability and for accepting God’s will.

The Synod put forward the proposal that at the level of National Episcopal Conferences a “Directory of Youth Ministry” be prepared from a vocational perspective, so as to help diocesan leaders and local workers to offer good formation and action with and for the young.

 

From fragmentation to integration

141.        While recognizing that planning for pastoral activities is necessary, in order to avoid improvisation, on several occasions the Synod Fathers voiced their disquiet over a certain fragmentation of the Church’s pastoral approach.  In particular, they spoke of the multiplicity of pastoral approaches to the young:  youth ministry, family or vocational ministry, school and university chaplaincy, social, cultural, charitable, free time activities, etc.  The multiplication of offices that are highly specialized, but sometimes working independently of one another, does not make the Christian message any more accessible.  In a fragmented world, the young need to be helped to unify life, interpreting their daily experiences and discerning deeply.  If this is the priority, it is necessary to develop greater coordination and integration between the different spheres, passing from a work for “offices” to a work for “projects”.

 

The fruitful relationship between events and daily life

142.        During the Synod, there was frequent reference to World Youth Day and the many related events that take place on a continental, national and diocesan level, together with those organized by associations, movements, religious congregations and other ecclesial entities.  These moments of encounter and sharing are widely appreciated, because they offer the possibility of journeying together as if on pilgrimage, of experiencing fraternity with all, of sharing the faith joyfully and growing closer to the Church.  For many young people these moments have been an experience of transformation, in which they have experienced the beauty of the face of the Lord and have made important life choices.  The best fruits of these experiences are gathered in daily life.  It therefore becomes important to plan and to experience these gatherings as significant stages of a larger virtuous process.

 

Youth Centres

143.        Specific places dedicated to the young by the Christian community, such as oratories, youth centres and other similar structures, manifest the Church’s passion for education.  They can take many forms, but they remain privileged spaces in which the Church becomes a welcoming home for adolescents and young adults, who discover their talents and offer them for service.  They transmit a very rich educational patrimony, to be shared on a large scale, to support families and civil society itself.

In the context of a Church that looks outwards, though, a creative and flexible renewal of these realities is needed, moving away from the idea of static centres, to which the young can come, towards the idea of pastoral subjects moving with and towards the young, capable, that is, of meeting them in their ordinary places of life – school and the digital environment, existential peripheries, the rural world, the world of work, musical and artistic expression, etc. – generating a new type of apostolate that is more dynamic and active.

 

Chapter III Renewed Missionary Vigour

Some urgent challenges

144.        Synodality is the method by which the Church can address ancient and new challenges, gathering and bringing into dialogue the gifts of all her members, starting with the young.  Building on the work of the Synod, the First Part of this Document outlined some areas in which it is urgent to launch or renew the Church’s vigour in realizing the mission that Christ assigned her, which we here seek to address in a more concrete manner.

 

Mission in the digital environment

145.        The digital environment presents a challenge to the Church on various levels;  it is essential, therefore, to deepen knowledge of its dynamics and its range of possibilities from the anthropological and ethical point of view.  This requires not only entering into it and promoting its communicative potential with a view to the Christian proclamation, but also giving a Gospel flavour to its culture and its dynamics.  Some initiatives along these lines are already under way and should be encouraged, deepened and shared.  The priority that many give to the image as a communicative vehicle cannot fail to raise questions about ways of transmitting a faith that is based on hearing God’s Word and reading the Sacred Scripture.  Young Christians, who like their contemporaries are digital natives, find here an authentic mission, in which some are already engaged.  What is more, they are the same young people who ask to be accompanied in a discernment on mature life-patterns in today’s highly digitalized environment, to help them seize the opportunities while avoiding the risks.

 

146.        The Synod would like to see dedicated Offices for digital culture and evangelization set up in the Church at appropriate levels, so as to promote ecclesial action and reflection in this environment, making good use of the essential contribution of the young.  Among their functions, besides favouring the exchange and dissemination of good practice at individual and community level, and developing appropriate instruments of digital formation and evangelization, they could also manage systems of certification for Catholic sites, to combat the spread of “fake news” about the Church, and they could seek ways of persuading public authorities to promote ever more stringent policies and instruments for the protection of minors on the web.

 

Migrants: knocking down walls and building bridges

147.        Many migrants are young.  The universality of the Church offers them an excellent opportunity to foster dialogue between their communities of origin and those to which they migrate, helping to overcome fears and hesitations and strengthening the bonds that migrations risk breaking.  “Welcome, protect, promote and integrate”, the four verbs with which Pope Francis synthesizes the action needed to support migrants, are synodal verbs.  Implementing them requires the Church’s action at all levels and it involves all the members of Christian communities.  For their part, migrants, appropriately accompanied, can offer spiritual, pastoral and missionary resources to the host communities.  Of particular importance is cultural and political engagement, involving appropriate structures, to fight against the spread of xenophobia, racism and rejection of migrants.  The resources of the Catholic Church are a vital element in the fight against human trafficking, as is clearly seen in the work of many religious sisters.  The role of the Santa Marta group, which brings together religious leaders and those responsible for law and order, is crucial and represents a good practice from which to draw inspiration.  Nor must we overlook the commitment to guarantee the effective right to remain in the country of origin for those who do not wish to migrate but are forced to do so, and to provide support for Christian communities that are at risk of depopulation through migration.

 

Women in a synodal Church

148.        A Church that seeks to live a synodal style cannot fail to reflect on the condition and role of women within it, and consequently in society more generally.  Young men and women ask this question forcefully.  The fruits of such reflection need to be implemented through a courageous change of culture and through change in daily pastoral practice.  A sphere of particular importance in this regard is the female presence in ecclesial bodies at all levels, including positions of responsibility, as well as female participation in ecclesial decision-making processes, respecting the role of the ordained minister.  This is a duty of justice, which draws inspiration both from the way Jesus related to men and women of his day, and from the importance of the role of certain female figures in the Bible, in the history of salvation and in the life of the Church.

 

Sexuality: a clear, free, authentic word

149.        In the current cultural context, the Church struggles to communicate the beauty of the Christian vision of bodiliness and sexuality, as it emerges from Sacred Scripture, from Tradition and from the Magisterium of recent Popes.  It therefore seems urgent to search for better ways, that can be translated concretely into new formation pathways.  We must propose to the young an anthropology of affectivity and sexuality that is also able to give the right value to chastity, showing with pedagogical wisdom its most authentic meaning for the growth of the person, in all states of life.  It is about emphasizing empathetic listening, accompaniment and discernment, along the lines indicated by the recent Magisterium.  For this is it necessary to devote care to the formation of pastoral workers who have credibility, beginning with the maturing of their own affective and sexual dimensions.

150.        There are questions about the body, affectivity and sexuality that require deeper anthropological, theological and pastoral study, in whatever forms and at whatever level seems most appropriate, from local to universal.  Among the questions that emerge are those regarding the difference and harmony between male and female identity and sexual inclinations.  In this regard, the Synod stresses that God loves every person and the Church does the same, renewing her commitment against all discrimination and violence on sexual grounds.  Equally, she reiterates the key anthropological relevance of the difference and reciprocity between men and women and believes it to be reductionist to define personal identity on the sole basis of the person’s “sexual orientation” (Congregation for the Doctrine of the Faith, Letter to the Bishops of the Catholic Church on the pastoral care of homosexual persons, 1 October 1986, 16).

Many Christian communities already offer journeys of accompaniment in faith for homosexual persons:  the Synod recommends that such initiatives be supported.  In these journeys, people are helped to read their own history; to adhere with freedom and responsibility to their baptismal calling; to recognize the desire to belong and contribute to the life of the community; to discern the best ways of realizing this.  Thus, all young people, without exception, are helped to integrate the sexual dimension of their personality more and more fully, as they grow in the quality of their relationships and move towards the gift of self.

 

Ecomonics, politics, work, common home

151.        The Church is committed to the promotion of social, economic and political life marked by justice, solidarity and peace, which is something the young ask for insistently.  This requires the courage to be a voice for the voiceless in addressing world leaders, by denouncing corruption, wars, the arms trade, drug trafficking and exploitation of natural resources, and by calling those responsible for it to conversion.  As part of the larger picture, this cannot be separated from the commitment to include those who are weakest, building pathways that allow them not only to find an answer to their own needs, but also to make their contribution to bulding up society.

152.        Aware that “work is a fundamental dimension of man’s existence on earth” (St John Paul II, Laborem Exercens, 4) and that the lack of work is humiliating for many young people, the Synod recommends that local Churches help and accompany young people as they take their place in this world, perhaps through the support of young business initiatives.  Experiences of this kind are found in many local Churches and should be supported and strengthened.

 

153.        The promotion of justice also affects the management of the Church’s goods.  The young feel at home in a Church where economics and finance are lived transparently and consistently.  Courageous choices are needed in the area of sustainability, as indicated by the encyclical Laudato si’, inasmuch as a lack of respect for the environment generates new forms of poverty, of which the young are the first victims.  Systems are changing, and this shows us that a different way of living the economic and financial dimension is possible.  The young urge the Church to be prophetic in this field, through her words but above all through choices which show that financial management can be both person-friendly and environmentally friendly.  Together with them we can do it.

154.        As far as ecological matters are concerned, it is important to offer guidelines for concrete implementation of Laudato si’ in church praxis.  Several interventions underlined the importance of offering young people formation in socio-political engagement and the resource that the Church’s social teaching represents in this regard.  Young people who take part in politics should be supported and encouraged to work for a real change of unjust social structures.

 

In intercultural and interreligious contexts

155.        Cultural and religious pluralism is a growing reality in the social life of the young.  Young Christians offer a beautiful witness of the Gospel when their faith has a transforming effect on their lives and their daily actions.  They are called to open themselves to the young of other religious and spiritual traditions, and to maintain with them authentic relationships that favour mutual knowledge and bring healing from prejudices and stereotypes.  They are thus pioneers of a new form of interreligious and intercultural dialogue, which helps to liberate our societies from exclusion, extremism, fundamentalism and also from the manipulation of religion for sectarian or populist ends.  Witnesses of the Gospel, these young people, along with their peers, become promoters of a citizenship that includes diversity and socially responsible religious commitment for building up social bonding and peace.

 

Recently, at the suggestion of the young, initiatives have been launched which bring people of different religions and cultures to experience living alongside one another, so that in a climate of conviviality and respect for each other’s religions, all may actively promote a common shared commitment in society.

 

The young for ecumenical dialogue

156.        As for the journey of reconciliation among all Christians, the Synod is grateful for the desire of many young people to foster unity among the separated Christian communities.  Committing themselves to this line, very often the young deepen the roots of their own faith and experience a real opening towards what others can give.  They know intuitively that Christ already unites us, even if certain differences remain.  As Pope Francis stated on the occasion of the visit to Patriarch Bartholomew in 2014, it is the young “who urge us today to take steps forward towards full communion.  And this is not because they do not know the significance of the differences that still keep us apart, but because they are able to see beyond, they are capable of grasping the essentials that unite us already” (Francis, Address at the Divine Liturgy, Patriarchal Church of Saint George, Istanbul, 30 November 2014).

 

 Chapter IV Integral Formation

Concreteness, complexity and integration

157.        The present day is marked by growing complexity of social phenomena and individual experience.  In daily life, the changes that are taking place have an impact on one another and cannot be addressed selectively.  In real life, everything is interconnected:  family life and professional engagement, the use of technologies and the way of experiencing community, defence of the embryo and defence of the migrant.  Concreteness presents us with an anthropological vision of the person as a whole and a way of knowing that does not separate but grasps connections, learns from experience, re-reads it in the light of the Word, and draws inspiration from exemplary testimonies rather than from abstract models.  This requires a new type of formation which aims to integrate perspectives, makes them capable of grasping the interconnectedness of problems and knows how to unify the various dimensions of the person.  This approach is in profound harmony with the Christian vision which contemplates, in the incarnation of the Son, the inseparable encounter between the divine and the human, between earth and heaven.

 

Education, school and university

158.        During the Synod there was a particular insistence on the decisive and essential task of professional formation in schools and universities, not least because these are places where most young people spend much of their time.  In some parts of the world basic education is the first and most important question that the young put to the Church.  For the Christian community it is important therefore to maintain a significant presence in these fields with good teachers, flourishing chaplaincies and serious cultural engagement.

Catholic educational institutions should be the subject of particular reflection.  They express the Church’s solicitude for the integral formation of the young.  These are precious arenas for encounters between the Gospel and the culture of a people and for the development of research.  They are called to propose a model of formation that can bring faith into dialogue with the questions of the contemporary world, with different anthropological perspectives, with the challenges of science and technology, with changes in social customs and with the commitment to justice.

Special attention should be given in these settings to the promotion of young people’s creativity in the fields of science and art, poetry and literature, music and sport, the digital world and the media, etc.  In this way the young will be able to discover their talents and put them at the disposal of society for the good of all.

 

Preparing new formators

159.        The recent Apostolic Constitution Veritatis Gaudium on ecclesiastical faculties and universities put forward some fundamental criteria for formation capable of addressing the challenges of the present day:  spiritual, intellectual and existential contemplation of the kerygma, holistic dialogue, multi-disciplinary work carried out with wisdom and creativity and the urgent need for “networking” (cf. Veritatis Gaudium, 4d).  These principles can inspire all educative and formative spheres;  their adoption will be particularly beneficial for forming new educators, helping them to open themselves to a vision capable of integrating experience and truth.  At global level the Pontifical Universities play a key part and so too, at a continental and national level, do Catholic universities and centres of study.  Periodic review, aiming for the highest standards and the constant renewal of these institutions, is a great strategic investment for the good of the young and of the whole Church.

 

Forming missionary disciples

160.        The Synodal journey underlined the growing desire to give a higher profile to the active involvement of the young.  Clearly the apostolate of the young towards other young people cannot be improvised, but must be the fruit of a serious and thorough formative journey: how to accompany this process?  How to offer the best instruments to the young, so that they can be authentic witnesses of the Gospel?  This question also reflects the desire of many young people to know their faith better: to discover its biblical roots, to grasp the historical development of doctrine, the meaning of dogmas, the richness of the liturgy.  This makes it possible for the young to reflect on current issues in which the faith is tested, so as to know how to give a reason for the hope that is in them (cf. 1 Pet 3:15).

Hence the Synod proposes that experiences of mission for the young be enhanced by setting up centres of formation for evangelization, aimed at the young and at young couples and by an integral experience that will conclude with sending them on mission.  There are already initiatives of this kind in various territories, but every Episcopal Conference is asked to study how it can be achieved in the particular setting.

 

A time for accompanying discernment

161.        Frequently in the Synod Hall there were heartfelt pleas to invest generously, for the young, educational passion, extended periods of time and also economic resources.  Gathering together various contributions and wishes that emerged during the synodal exchanges, and listening to experiences already under way, the Synod proposes with conviction to all the particular Churches, to the religious congregations, to the movements, to associations and to other ecclesial bodies that they offer the young an experience of accompaniment with a view to discernment.  This experience – whose duration should be determined according to contexts and opportunities – can be described as a time destined for the maturation of adult Christian life.  It should involve prolonged detachment from habitual environments and relationships, and it should be built around at least three indispensable elements: an experience of fraternal life shared with older formators that is essential, simple and respectful of the common home; an apostolic proposal that is strong and significant, to be lived together; an offer of spirituality rooted in prayer and sacramental life.  In this way all the necessary ingredients are in place for the Church to be able to offer the young who wish it a profound experience of vocational discernment.

 

Accompaniment for marriage

162.        It is important to accompany couples in their preparation for marriage, remembering that there are different legitimate ways of organizing such itineraries.  As we read in Amoris Laetitia, 207: “They do not need to be taught the entire Catechism or overwhelmed with too much information    …   marriage preparation should be a kind of ‘initiation’ to the sacrament of matrimony, providing couples with the help they need to receive the sacrament worthily and to make a solid beginning of life as a family.”  It is important to accompany young families, above all in the first years of marriage, and this includes helping them to play an active part in the Christian community.

 

The formation of seminarians and of consecrated men and women

163.        The specific task of integral formation of candidates for the ordained ministry and for male or female consecrated life remains an important challenge for the Church.  We note also the importance of a solid cultural and theological formation for consecrated women and men.  As far as seminaries are concerned, the first task is obviously the assumption and putting into practice of the new Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalis.  During the Synod, some important emphases emerged, which are worth mentioning.

In the first place, the choice of formation staff: it is not enough for them to be well qualified; they need to be capable of fraternal relationships, listening with empathy, profound inner freedom.  In the second place, what is necessary in accompanying seminarians adequately is serious and competent work in differentiated educative teams, which include women. The make-up of these formation teams, where different vocations interact, is a small but precious form of synodality, which can have an impact on the minds of young people in their initial formation.  In the third place, formation must focus on developing in future pastors and consecrated men and women their ability to carry out their role as guides in an authoritative, but not authoritarian, way, educating young candidates to give themselves for the community. Special attention needs to be given to some criteria of formation, such as: overcoming tendencies towards clericalism, the ability to work in a team, sensitivity towards the poor, transparency of life-style, the willingness to allow themselves to be accompanied.  In the fourth place, serious initial discernment is crucial, because too often young people who offer themselves to seminaries or houses of formation are admitted without their past history being known sufficiently well or studied in depth. This question becomes particularly delicate in the case of “wandering seminarians”: relational and affective instability, and the lack of ecclesial roots, are danger signals. Ignoring ecclesial norms on these matters is irresponsible behaviour, which can have serious consequences for the Christian community.  A fifth point concerns the size of formation communities: those that are too big run the risk of de-personalization and inadequate knowledge of the young people on their journey, while those that are too small can be suffocating and suffer from a logic of dependency; in these cases it is better to found inter-diocesan seminaries or houses of formation shared by several religious provinces, with clear formation projects and well-defined responsibilities.

 

164. The Synod has formulated three proposals to encourage renewal.

The first concerns joint formation of lay people, religious and priests. It is important to keep young men and women in formation in touch with the daily life of families and communities, paying special attention to the presence of women and Christian couples, such that formation is grounded in the reality of life and marked by relationships that can be integrated into the social and cultural context.

The second proposal concerns including in the curriculum of preparation for ordained ministry or consecrated life specific courses on pastoral care of young people, through well-planned programmes and experiences of pastoral work and evangelization.

The third proposal asks for consideration – within the authentic discernment of people and situations according to the vision and spirit of the Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalis – of the possibility of backing up the formation journey in terms of experience and in a community context. This is particularly the case in the final stage of that journey, which envisages candidates being introduced gradually to pastoral responsibility. The ways this is explained and put into practice can be indicated by the Bishops’ Conference of each country, in accordance with their own versions of the Ratio Fundamentalis.

 

Conclusion

Called to become saints

165.        All the different vocations come together in the one universal call to holiness, which can only be the fulfilment of the appeal to the joy of love that resounds in the heart of every young person.  Only on the basis of the one call to holiness can the different forms of life be articulated, knowing that God “wants us to be saints and not to settle for a bland and mediocre existence” (Francis, Gaudete et Exsultate, 1).  Holiness finds its inexhaustible source in the Father, who through his Spirit sends us Jesus, “the holy one of God” (Mk 1:24), who came among us to make us holy through friendship with Him, who brings joy and peace into our lives.  To recover in all the ordinary pastoral work of the Church living contact with the happy existence of Jesus is the fundamental condition for all renewal.

 

Reawakening the world with holiness

166.        We must be saints so that we can invite the young to be saints.  The young are crying out for an authentic, radiant, transparent, joyful Church: only a Church of saints can measure up to such requests!  Many of the young have left because they have not found holiness in the Church, but rather mediocrity, presumption, division and corruption.  Unfortunately the world is outraged by the abuses of some people in the Church rather than being invigorated by the holiness of her members:  hence the Church in her entirety must embrace a decisive, immediate and radical change of perspective!  The young need saints who can form other saints, thus showing that “holiness is the most attractive face of the Church” (Francis, Gaudete et Exsultate, 9).  There is a language that all men and women of every age, place and culture can understand, because it is immediate and radiant:  it is the language of holiness.

 

Dragged by the holiness of the young

167.        It has been clear from the beginning of the synodal journey that the young form an essential part of the Church.  So too, therefore, does their holiness, which in recent decades has flourished in many different ways all over the world: contemplating and meditating during the Synod upon the courage of so many young people who sacrificed their lives for remaining faithful to the Gospel has been deeply moving for us;  listening to the testimonies of the young people present at the Synod, who amid persecutions chose to share the passion of the Lord Jesus, has been life-giving.  Through the holiness of the young, the Church can renew her spiritual ardour and her apostolic vigour.  The balsam of holiness generated by the good lives of so many young people can heal the wounds of the Church and of the world, bringing us back to that fullness of love to which we have always been called:  the young saints inspire us to return to our first love (cf. Rev 2:4).

[1] International Theological Commission, Synodality in the life and mission of the Church, 2 March 2018, §9.  The document illustrates, moreover, the nature of synodality in these terms:  “It is possible to go deeper into the theology of synodality on the basis of the doctrine of the sensus fidei of the People of God and the sacramental collegiality of the episcopate in hierarchical communion with the Bishop of Rome.  This ecclesiological vision invites us to articulate synodal communion in terms of ‘all’, ‘some’ and ‘one’. On different levels and in different forms, as local Churches, regional groupings of local Churches and the universal Church, synodality involves the exercise of the sensus fidei of the universitas fidelium (all), the ministry of leadership of the College of Bishops, each one with his presbyterium (some), and the ministry of unity of the Bishop of Rome (one). The dynamic of synodality thus joins the communitarian aspect which includes the whole People of God, the collegial dimension that is part of the exercise of episcopal ministry, and the primatial ministry of the Bishop of Rome.  This correlation promotes that singularis conspiratio between the faithful and their Pastors, which is an icon of the eternal conspiratio that is lived within the Trinity” (§64).

 

2019年1月18日

・教皇の2018年-衝撃波、移民・難民、死刑、そしてさらに(Crux)

(2018.12.27 Crux Rome bureau chief Inés San Martín

 「私が教皇職にある期間は短いでしょう」と言った人の割に、教皇フランシスコは、ペトロの後継者として7年目の今年の初めから、テンポを落とす兆しを見せていない。

2018年12月28日

・教皇の 2018年-”性的虐待”から”資金”まで、改革に手を付けた(Crux)

 2013年3月に教皇に選出された時、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿はご自分が「改革」という使命のために選ばれたことをご存じだった。だが、教皇フランシスコにとって、「改革」が何を意味するのか、明確ではなかった-カトリック教会の一般的なイメージの再活性化か、聖職者による性的虐待が引き起こした危機への対応のか、バチカンそのものの改革か、それとも、世界中のカトリック教徒を”回心”に導くことか…。過去12か月の間、フランシスコは多様な分野で改革に対応することを否応なく求められ、異なったやり方で試された。

*性的虐待問題

 世界の主要メディアでその年を代表する人物として選ばれたのは、”遠い昔”のこと。教皇フランシスコは2013年に就任以来、毎年恒例のノーベル平和賞の受賞者決定が近づく中で、今年初めて、その名がうわさされることがなかった。その理由としてまず挙げられるのは、今年の世界のメディアで、カトリック教会が沢山の不幸な出来事をにぎわせたことがある。

 その多くは、聖職者の性的虐待がもたらした危機、その代表的なものが、ペンシルバニア州の大陪審報告、セオド-ル・マカリック前枢機卿が何十人もの神学生に加え、少なくとも3人の少年に性的虐待を働いたとして訴えられた事件、チリの司教全員が性的虐待問題の責任を取って辞表を提出したこと、そして、教皇の枢機卿顧問団の1人だったオーストラリアのジョージ・ペル枢機卿が長期にわたる性的虐待に関係して二つの裁判にかけられたことだ。

 これらのスキャンダルは、教皇が就任以来4年の間に積み重ねてきた”資産”の多くを台無しにしたことを意味する。移民・難民を守ろう、環境を保護しよう、といった教皇の世界への訴えは、ほとんど聞き入れられることがなかった。

 このことは、教皇がアイルランドを訪問された時によく見て取ることができた。メディアの関心が、多くの人が考える性的虐待問題への教皇の対応の遅さに集中したのだ。訪問最終日に、前駐米バチカン大使のカルロ・マリア・ビガーノ大司教が「2013年にマカリック枢機卿(当時)の性的虐待行為を報告したにもかかわらず、教皇は何も対応しないどころか、前教皇がマカリックにとっていた制裁を解除した」と訴えたのが明らかになったことも、真偽はともかく、火に油を注いだ。

 今年のカトリック教会の主要な諸行事は互いに関係をもってなされたが、チリの教会のこと(注:司教全員が辞表を出したこと)以外には、教皇の教会改革を前進させる内容は出てこなかった。

 チリの教会について、教皇は、性的虐待隠ぺいで訴えられていたチリの司教たちを3年にわたって支持してきたが、今年1月にチリを訪れ、これまで”罪人”呼ばわりされてきた虐待被害者に被害の訴えを出すように求めたのを機に、姿勢を一変させ、悪名高い元司祭、フェルナンド・カラディマから性的虐待を受けた人々の側に立った。そして、司教たちをローマに召喚し、性的虐待、隠蔽、証拠とその他の過ちの記録を破棄したとして告発した。

 チリの司教たちは5月にローマで3日間の協議をした後、38人全員が教皇に辞表を提出した。教皇はこれまでに、このうち7人の辞表を受理したが、さらに隠蔽の罪で地方検事から訴追されている首都サンチャゴの大司教、リカルド・エザッティ枢機卿を含む数人を止めおきにしている。

 チリは、性的虐待危機に対する教皇の視野を広め、いかにそれが世界的な問題になっているかを知らしめる先導役になり、全世界的なレベルでの性的虐待への対応が、優先課題となった。それが、2019年の2月21日から24日まで全世界の司教協議会長を教皇が招集した理由だ。その準備のため、高位聖職者に世界各地を巡って性的虐待の被害者から話を聴くよう指示した。

 また教皇は21日のバチカンの幹部、職員に対する年末講話で、「カトリック教会がこうした犯罪を二度と隠ぺいしないことを誓い、加害者たちに、人と神の正義と向き合う用意をするよう警告している。教皇の講話の内容は、性的虐待の被害者たちの間に、さまざまな反響を呼んでいる一方で、こうした犯罪を明るみに出すのを助ける記者たちへの教皇の賛辞は、危機を作り出したとして記者を批判し、メディアを訴える幾人かの高位聖職者の評価と、とても対照的だ。

*バチカン改革への取り組みは

 2013年に教皇に選ばれた時、フランシスコは自身が支持された要因の一つが「バチカン官僚たちの機能不全と対応の遅さ」、そして「布教の現場経験の少ない人々が、どれほど心理状態が内向きになっているか」とを肌身で知っていることだ、と認識していた。

 それで、教皇着任早々、バチカン改革について自身を助けさせるために、枢機卿8名による顧問会議を作った。顧問団が2018年年中に、ヨハネ・パウロ二世の代に決まったものに代わる”新しい”憲法”の第一次草案をまとめた-とされていた。だが、幾人かの関係筋はCruxの取材に「24回以上の会合を重ねたものの、”まとまった文書”というよりは、つぎはぎに留まっている、と語っている。

 教皇顧問団による作業のほかに、教皇はまた、バチカンに数人の幹部を新たに迎えたが、その多数がイタリア人で、任命者の幾人かがスキャンダルに見舞われた。バチカンの部局の中で、最も大きく変わったのは、2015年に設置された広報部門だった。広報評議会、米人のグレッグ・バーク師をトップとする報道局、バチカン・インターネット・サービス、バチカン・ニュース、バチカン・テレビ・センター、そしてバチカン機関紙のL’Osservatore Romanoを含む、聖座とバチカン市国の広報関係部署を束ねる機能を持つように改められた。

 広報部門の改革は、フランシスコの神学に関する著書の収集に関するベネディクト16世の書簡の恥ずべき編纂問題の最中に、ダリオ・エドアルド・ビガーノ長官の更迭から始まった。後任には、バチカンの部局の長官としては初の一般信徒出身となるイタリア人のパオロ・ルッフィーニ氏が選ばれた。

 年末の12月18日、フランシスコはこの部署の幹部としてイタリア人二名を選任した。これまで長年にわたってバチカンを取材してきたアンドレア・トルニエリ氏をL’Osservatore Romanoの編集局長に、アンドレア・モンダ氏を部長のポストに就けた。

*司牧の分野での路線変更とぶれない二つの軸、そして中国との暫定合意

 2018年は、このようにフランシスコにとって激変続きの12か月だったが、二つのことでは軸がぶれなかった-イタリア内外での教皇の現地訪問、それに、平和の手段としての若者たちとの対話と宗教間対話だ。

 教皇が「若者シノドス」の開催を宣言して以来、若者たちへの関心は明白だった。世界中の300名を超える高位聖職者がローマに参集し、カトリック教会がいかにして、若い人々に接し、召命の識別に力を貸すことができるか、について話し合った。

 7月には、フランシスコがカトリック教会とギリシャ教会の通用門であるイタリア南部のバーリー市を訪れ、シリアにある主要なキリスト教共同体の指導者たちを招いて会議を主宰し、平和をともに祈り、過去8年にわたって戦乱に見舞われているこの国の平和回復に宗教がどのように力になることができるか協議した。

 しかし、最大の事件は、政治的に大きな意味合いをもつバチカンの基本的立場の転換となる中国との”暫定合意”-同国内での新司教任命と中国政府が一方的に”叙階”していた司教たちの承認-だった。

 この合意については、共産党政府の意図にフランシスコが譲歩したもの、と多くの批評家が批判するなど、議論を呼ぶことは避けられなかったが、教皇にとって、これはカトリック教会が一億人以上に上る中国の信徒たちの司牧が自由にされるための”入り口”なのだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

 

2018年12月27日

・【評論】「主の祈り」も適切な言葉にー典礼や日々の祈りに速やかに生かしたい

(2018.12.22 カトリック・あい)

 「聖書協会共同訳 聖書」は、カトリック、プロテスタントの共同作業による新たな成果だ。キリストを信じる人々が、祈りと典礼を深めるために活用することが期待される。

 日本聖書協会の解説小冊子では触れられていないが、注目されることの一つは、教皇フランシスコも”誤訳”を指摘した「主の祈り」が、教皇の意向に結果として対応する形で、以下のように改訳されていることだ。

 「天におられる私たちの父よ 御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように 天におけるように地の上にも。私たちの日ごとの糧を今日お与えください。私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」。

 教皇フランシスコは昨年、カトリック教会の祈りの中で最も重要な「主の祈り」にある「non ci indurre in tentazione」 (英語公式訳はこの直訳の『lead us not into temptation』 、日本語公式訳は『わたしたちを誘惑におちいらせず」)は「もっとよい表現」にすべきだ、との考えを明らかにしている。

 イタリアのテレビ放送TV2000のインタビューに答えたもので、「この翻訳の言葉はよくありません」と指摘され、その理由を「人々を誘惑に❝lead”(導く、おちいらせる)のは、神ではなく、サタンであるからです…この表現は変えるべきです」と改訂の必要を強調された。そして「(誘惑に)陥るのは私です。私を誘惑に陥らせるのは彼(神)ではありません。父親は自分の子供にそのようなことをしない。すぐさま立ち直るように助けてくれます…私たちを誘惑に導くのはサタン。それがサタンの役回りなのです」と語られていた。

 この箇所をどのように改めるべきかについては、より正確にこうした神学的な見方に従って「don’t let me fall into temptation」とするのが適当、とし、フランスの司教団がこのほど仏語訳の主の祈りを見直し、英訳にすると「“Do not submit us to temptation(私たちを誘惑に陥らせないように)」を「Do not let us into temptation(私たちが誘惑に引き込まれないように)」と改めたのを妥当との判断を示している。

 現在の主の祈りの言葉は、ギリシャ語訳をラテン語に翻訳したものをもとにしており、ギリシャ訳のもとは、イエスが実際に語られていたアラム語(ヘブライ語の古語)から来ている。教皇庁立グレゴリアン大学のマッシモ・グリリ教授は「ギリシャ語のこの箇所は『eisenenkês』で、文字通り訳すと『don’t take us inside』となるとし、そのように訳し直すべきだ、としている。

 教皇フランシスコの先輩のイエズス会員、ミラノ大司教で高名な聖書学者でもあったカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿(2012年没)は著書「イエスの教えてくれた祈り―『主の祈り』を現代的視点から」(教友社刊・篠崎栄訳)の中で、この部分を「私たちが誘惑に負けることのないようにしてください」としている。

 現在の日本語訳は表現があいまいで、しかも、私たちが神に対して「誘惑しないで」と求めているように読めてしまう。日本の司教団は現在、典礼文などの見直しを進めているというが、「主の祈り」も、今回発刊された聖書協会共同訳を基礎に、フランスの司教団の仏語訳の改訂、故マルティーニ枢機卿の提案などを参考に見直す必要がある。

 ・・・・・・・・・

 聖書協会共同訳は、一人ひとりの信徒はもちろん、キリスト教に関心のある方々が手に取って、お読みいただくことが望ましいが、比較的高額であることもあり、とくに中高齢の年金生活世代や子弟の養育費の負担が重い現役世代にとって、容易でないことも考えられる。

 そうしたなかで、カトリック、プロテスタントの共同作業によるこの新たな成果を生かすために、司教団が速やかに、この新共同訳の普及を図る努力をはじめ、各教会に常備し、ミサ典礼や「主の祈り」などの言葉に反映することで、普及に努めることが求められる。

 言葉は生きている。聖書協会が小冊子で述べているように、これで翻訳を完結せず、さらに改良を加えていることが望ましい。その場合、生きた言葉、現代の社会で理解される言葉を使うことに日々、奮闘しているジャーナリストを、その作業に加えることも必要だろう。

 (「カトリック・あい」南條俊二)

 

2018年12月22日

・「日々の祈りや典礼にふさわしい美しい日本語に」-日本聖書協会が新共同訳聖書を発刊!

(2018.12.20 カトリック・あい)

 日本聖書協会は今月、カトリック、プロテスタントの高位聖職者、聖書学者、一般信徒の言語学者や詩人などの協力で、31年ぶりの新しい共同訳聖書となる「聖書 聖書協会共同訳」を発刊した。(詳細は日本聖書協会ホームページにhttps://www.bible.or.jp/online/sio43first.html)

  今回の共同訳は、「変わらない言葉を変わりゆく世界に‐31年ぶり、原文からの翻訳」と銘打ち、「口語訳や新共同訳など、これまでの過去の翻訳聖書の歴史と業績」も踏まえて、「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳」を心掛けた、としており、最新の聖書学の成果とともに、実際の翻訳内容に、そうした理念、意図が相当程度反映されているようだ。

 教皇フランシスコは昨年9月に「典礼書の翻訳に関する権限のバチカンから現地の司教協議会への重要な移行」を明確に意味する自発教令を出し、教会法の部分改正を実施、各国語の典礼文の表現について、バチカンから現地の司教団に権限の比重を移す決定をされた。

 今回の共同訳は、そうした教皇の「現地化」の意図を受けた形となっており、日本の司教団のリーダー格数人も作業に関わっている。はっきり言って日本語としても不完全で、一部に正確さにも欠ける現行の典礼文、聖書朗読文を、この共同訳を反映した「美しく、現代口語に合った典礼文」「ミサにおける聖書朗読文」に改める作業を司教団として、急ぐ必要があろう。

・・・・・・・・・・

 日本聖書協会が事前に発行した小冊子によると、今回の共同訳作成については、カトリック教会を含む18の諸教派、団体の代表で構成する共同訳推進計画諮問会議が2009年10月に「翻訳方針前文」を採択。「過去の聖書翻訳の歴史には、意訳か、直訳が、という対立があったが、今回の翻訳では、読者対象と目的(礼拝で朗読される聖書)に合わせて翻訳する」との基本方針をもとに、2010年から、カトリック、プロテスタントの違いを超えた初の共通の聖書となった「聖書 新共同訳」(1987年刊行)の次世代版として、カトリック、プロテスタントが力を合わせて、翻訳に着手していた。

 翻訳に当たっては、底本として旧約はBHS¹、新約がネストレ・アーラント²最新の28版に基づくBS第5版、続編がゲッティンゲン版七十人訳聖書を使用している。

¹ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア=Biblia Hebraica Stuttgartensia=の略称。レニングラード写本に保存されたヘブライ語聖書マソラ写本の版であり、ヘブライ語聖書の正確な版として、キリスト教徒やユダヤ人から広く受け入れられ、聖書学者間で最も広く使われている。

²現代の聖書学の最高水準を示すギリシア語新約聖書テキスト。ドイツの聖書学者エベルハルト・ネストレが校訂し、クルト・アーラントが再校訂したため、一般的に「ネストレ・アーラント」と呼ばれる。1913年に初版が発行されて以来、ギリシア語テキストの研究の進展にあわせて改訂が繰り返されており、現代日本語訳のほとんどの翻訳元となっている。

 また、この小冊子は「聖書協会共同訳の言語担当の翻訳者や編集委員は日本の聖書学を担っている方々」であり、最新の聖書学の成果が随所に表されている、としている。

 以上のような基本理念と特長が反映された翻訳の内容の一部を例示し、これまで新共同訳などの表現を改めた理由を説明しているが、その中でも重要と思われるものを抜粋して紹介する。(「カトリック・あい」南條俊二)

 

◎新しい聖書学の成果を生かした

 *旧約聖書

 ・【私はいる】(出エジプト記3章14節)  :この箇所の「わたしはある」という神の名は「神が永遠の存在であることを示すもの」として大切にされてきた。この訳は使徒たちや初代教会が親しんできた七十人訳ギリシャ語旧約聖書の「エゴ―・エイミ」という言葉に基づく。今回の訳では、ヘブライ語の「エヘイェ」と、その前後関係に注目し、「私はいる」とした。ヘブライ語聖書ですぐ前の文脈を見ると、「エヘイェ・インマク」(私はいる・あなたと共に)(3章12節)と言う神の言葉がある。モーセに現れた神は、アブラハム、イサク、ヤコブに現れて契約を結んだ神であり、その契約に従ってイスラエル人と共にいて、エジプトから導き出す神。そのような文脈とヘブライ語の「エヘイェ」に注目し、従来の翻訳とは異なる「私はいる」とした。

 ・【相続】(申命記15章4節)  :新共同訳の旧約聖書では、「嗣業(ナハラ)」と訳されていた。新約ではナハラにあたるのが「クレーロノミア」で、訳語として「相続」「受け継ぐ」が使われている。今回の訳では、「嗣業」ではなく、新約で使われている訳語を使い、「あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、主は必ずあなたを祝福される」とした。旧約では、イスラエルの民が約束の地を相続したが、それはイエスを信じる新しい神の民が正解を相続することを指し示していた(「世界の相続人になるという約束が、アブラハムやその子孫に対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるのです」=ローマの信徒への手紙4章13節)。旧、新約の訳語を統一したことで、旧、新約を貫く救いの計画がより明らかした。

 ・【空】(コヘレトの言葉11章1-10節)  :1970年代までは、著者コヘレトは「世をはかなむ厭世主義者で、懐疑主義者」と見なされていた。そのため、この箇所でも、7節の明るい表現が懐疑的な文脈に埋没し、「分かったものではない」(2節)、「蒔けない」「できない」(4節)、「分からない」「分かるわけはない」(5節)「分からないのだから」(6節)という懐疑的表現で訳されてきた。新共同訳は、8節までと10節も区切りと見る。それはいずれの段落も「空しい」で終わるためだ。また、「コヘレトの言葉」全体が格言の羅列でしかない、という考えがあったために、小見出しも付けられない、と判断されたと思われる。

 だが、現在では、「コヘレトの言葉」は一貫した思想的論調の書として解釈されるようになっていることから、今回の訳では、文節を1-6節、7-8節、9-10節と分け、7節の「光」「太陽」は12章2節と対応して囲い込み(インクルージオ)を形成しているため、11章7節から12章2節までを一つの段落と見なすこととした。11章7節から段落が変わるため、「作り主を心に刻め」と小見出しを付けた。

 以上の理由から、今回の訳では、1-6節の否定的表現について、ヘブライ語の接続詞キーに着目し、「からである」とした。また「知らない」(2節、6節)はコヘレトの否定的な結論ではなく、むしろ理由や根拠を示している、と判断した。コヘレトの結論は「あなたの受ける分を七つか八つに分けよ」(2節)、「朝に種を蒔き/夕べに手を休めるな」(6節)という命令である。「地に災いが起きるかもしれないからこそ、受ける分(神から与えられているもの)を皆で分け合いなさい」「どの種が実を結ぶか分からないこそ、朝から晩まで手を抜かずに種を蒔きなさい」という意味になる。

 そしてコヘレトは「すべてが空しい」と考える厭世主義者ではないので、ヘブライ語の「ㇸベル」は新共同訳のように「空しい」と訳されるよりも、口語訳のように「空」と訳される方が適切と考えた。これまでの翻訳聖書よりも、原点に即して、「コヘレトの言葉」の重要なニュアンスを生かし、そこから意味を汲み取ることができるような翻訳となった。

 ・【人生を見つめよ】(コヘレトの言葉9章9節)  :新共同訳の「愛する妻と共に楽しく生きるがよい」という箇所は、コヘレトが厭世主義者でないことを示し、他の邦訳も基本的に「楽しむがよい」(新改訳2017)「共に楽しく暮らすがよい」(口語訳)と同様な訳となっている。だが、「楽しむ」「楽しく」と訳された「ラア」は「見る」という言葉で、「楽しむ」という意味はない。「楽しむ」というのは、「コヘレトの言葉」全体から、また直接の文脈から意味を取って訳したためだが、今回の訳では、言語の意味をそのまま生かし、「…愛する妻と共に人生を見つめよ…」とした。従来の常識にとらわれず、言語に近づく努力をした結果、今までと異なり、味わいのある訳になった。

 ・【誇る】(箴言31章30節)  :伝統的に、主を畏れる女性が「たたえられる」と訳されてきた。「主を畏れる女こそ、たたえられる」(新共同訳)など。だが、ヘブライ語の「ハラル」のヒトパエル(注:再帰動詞?)形は「誇る」という意味で、他の箇所ではそのように訳されており、「たたえられる」と訳されているのはこの箇所だけだ。おそらく、主を畏れる女性が誇るのはふさわしくない、と考え、訳を工夫したと思われる。

 だが、「心のまっすぐな人は皆、誇ることができます」(詩編64章11節)とあるように、主を畏れる人は、主にあって誇ることができる。このような理由から、今回の訳では、「…主を畏れる彼女こそ、誇ることができる」とした。伝統にとらわれず、言語に近づく努力をした結果、これまでと違ったメッセージが伝わるようになった。

 *新約聖書

 ・【慕う】(ヨハネ福音書21章17節)  :ヨハネ福音書の最後の章で、イエスはペトロに「私を愛しているか」と三度尋ねられる。最初の二回の動詞は「アガパオ―」、三回目は「フィレオ―」と違っているが、これまでの訳の多くは、その違いを訳出していない。

 今回の訳では、「フィレオ―」を「慕う」として、違いを出した。「三度目にイエスは言われた。『…私を慕っているか』…ペトロは悲しくなった…そして言った。『主よ… 私があなたをお慕いしていることを、あなたは知っておられます」と。

 ・【キリストの真実】(ローマの信徒への手紙3章22節)  :この節はこれまで、「…イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(新共同訳)と「信じる」と訳されてきた。だが、「ピスティス・クリストゥ」は両義的で、「キリストへの信仰」あるいは「キリストの真実」という二通りの意味があり、文脈によって訳し分ける必要があることが明らかになってきた。

 ローマの信徒への手紙3章21⁻26節は「神の義」がテーマとなっているので、後者を採り、「神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現わされたのです」とした。これにより、救いが神の業であり、神がアブラハムへの約束を守る正しい方であることが、浮き彫りになる。

 3章27節以降は、信仰義認が主題となるので「信仰」と訳す。またギリシャ語ではこれまで22節で「与えられる」と訳された箇所には動詞が無い。動詞を補って訳出する場合は、21節の「現わされる」を補うべきなので、そのように改訂した。

 ・【恥を受けることがない】(ローマの信徒への手紙10章11節)  :これまで「主を信じる者は、だれも失望することがない」(新共同訳)のように訳されてきた。この節は、旧約聖書イザヤ書28章16節からの引用で、「失望する」と訳された「カタイスキュノー」の第一の意味は「恥を受ける」だ。「主に信頼する者は、恥を受けることがない」は、詩編119章116節など、旧約聖書にたびたび語られている。

 今回は、ギリシャ語本来の意味と、旧約からの引用という性質を考え、「主を信じる者は、恥を受けることがない」とした。

 ・【霊が妬みに燃える】ヤコブの手紙4章5‐6節)   :この箇所は、解釈の難しさで有名。5節の「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ』」という部分が1‐4節の文脈と合わず、理解が難しい。しかも5‐6節が引用している聖書の箇所は他のどこにも見当たらない。

 そこで、今回の訳では、その箇所に関わる別の写本を採用し、次のように理解しやすくした。「それともあなたがたは、聖書が空しい言葉を語っていると思うのですか。私たちの内に宿った霊が、妬みに燃えるのです。しかし神は、それにまさる恵みを与えてくださいます。そこで聖霊はこう語るのです。『神は高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる』。

 つまり、次のような意味になるーあなたがたの間で争いがあるのは、心の中に争う欲望があり、自分の霊が妬みに燃えているからだ。だが、聖書にあるように「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる」のだ。こうして、これまで難解だった箇所が理解できるようになった。

 

◎簡潔で引き締まった日本語に努めた

 今回の訳では、歌人、詩人、文学者、日本語学者などの日本語担当者が、最初から翻訳担当者とペアを組んで、自然で簡潔な日本語になるよう努力している。簡潔さという点では、単語レベルでは次のような変化がある。

 ・詩編7章10節  :口語訳は「どうか悪しきもの(ラシャ)の悪を断ち、正しき者(ツァディク)を堅く立たせてください」、新共同訳は、意味をより分かりやすくするように「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし あなたに従う者を固く立たせてください」としていた。

 今回は、簡潔で締まった訳文を目指し、多くの論議の末、口語訳の訳語を復活させることとし、「悪しき者の悪を絶ち、正しき者を堅く立たせてください」とした。

 同じ理由から、「恵みの御業」(ツェデカ)は「義」あるいは「正義」とし、「主の慈しみに生きる者」(ハスィド)は「主に忠実な者」とした。その他、文章全体も、自然さ、簡潔さを目指した。

 

◎日本語の変化に対応した

 以前は一般的でなかった言葉を、新共同訳発刊から30年経ち、多くの人が使うようになっている。そうした日本語の変化に対応した。

 ・【薄荷、いのんど、茴香(ういきょう)】(マタイ福音書23章23節)   :これまでは、「薄荷、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが…」(新共同訳)などとされてきたが、いのんど、茴香(ういきょう)を理解する人は今では少ない。そこで「あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが…」と、広く知られ、料理に使われている呼び名にした。

 

◎差別的表現、包括言語なども改める努力

 深いと思われる言葉遣いを減らすように努めた。

 ・【お前】(エレミヤ書3章12節)  :新共同訳は「お前」という言葉を、自然な日本語を目指したことから、多用した。「主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない」と。だが、今回は、神やイエスが語られる言葉には「お前」を使わないことにした。「主の仰せ。私は怒りの顔をあなたがたに向けない」と。ただし、対象が人でない場合は、物や町などは、例外とした。

 ・【はしため】   :これまでの邦訳聖書では「はしため」が使われてきた-「ハンナは『はしためが御好意を得ますように』と言ってそこを離れた」(サムエル記上1章18節・新共同訳)「そこで、マリアは言った。『…身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです」(ルカ福音書1章46⁻48節・同)。

 今回の訳では、「はしため」は差別的だとして、「仕え女(め)」とした。

 「ハンナは言った。『あなたの仕え女が恵にあずかれますように』」「そこで、マリアは言った。『…この卑しい仕え女に 目を留めてくださったからです』」。

 ・【もてなす】(マタイ福音書8章15節)  :「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」(新共同訳)となっていた。

 だが、「もてなした」と訳されていた「ディアコネオー」は、「仕える」、食事の文脈では「給仕する」と訳される言葉だ。癒されたしゅうとめがイエスにしたことは、給仕だけとは限らないことから、今回の訳では「仕えた」とした。

 「イエスが手に触れられると、熱は引き、姑は起き上がってイエスに仕えた」。

 

◎最新の聖書考古学、植物学、動物学の成果を生かした

 これまで不明だった聖書の地の動植物や宝石、人が作った物などが明確になってきたことから、より正確な訳語を目指した。

 ・【ラピスラズリ】(出エジプト記28章18節)  :これまでの訳では「第二列 ざくろ石、サファイア、ジャスパー」(新共同訳)などとなっていた。だが、これまで「サファイア」とされていた「サピール」は、最新の研究では「ラピスラズリ」だとされたため、以下のように改めた。

 「第二列はクジャク石、ラピスラズリ、縞めのう…」。その他の宝石にも多くが改められている。

 ・【麦の酒】(レビ記10章9節)  :「シェカル」「スィケラ」は、これまで「強い酒」と訳されてきた(「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな」(新共同訳)。

 だが、「シェカル」「スィケラ」は、古代エジプトやメソポタミアなどの穀倉地帯で作られていた「ビール」を指すことが分かってきている。当時は、アルコール度の高い蒸留酒はなかった。

 これを踏まえて、より正確な表現を使い「会見の幕屋に入る時には、あなたもあなたの子らも、ぶどう酒や麦の酒を飲んではならない」とした。

 ・【箕(農業用フォーク)】(マタイ福音書3章12節)   :「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにした」(新共同訳)としていたが、古代の中近東では、竹で編んだ箕を、麦をふるうためには使っていなかった。当時使用していた「ミズレ」「プトゥオン」は現在の農業用フォークに相当する。

 このため、「その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め(脚注に「農業用フォーク」)」と改めた。

 ・【ばった】(出エジプト記10章4節)(マタイ福音書3章4節)  :「いなご」は旧約聖書で、エジプト全土の作物を食べつくした昆虫、新約聖書では、洗礼者ヨハネの食べ物として出てくる。

 だが、昔は「いなご」に「ばった」を含む広い意味があったが、最近は厳密な使われ方をしている。「『いなご』は日本特有の種を指すので、誤訳になる」との指摘があり、言語の「アルベ」は、「いなご」の倍近い大きさの「サバクトビバッタ」を指すことが分かってきたことから、「ばった」に改めた。

 ・【コブラ】【毒蛇】(マタイ福音書3章7節)  :「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(新共同訳)という有名な箇所があるが、「マムシ(蝮)」は日本特有の種で、中近東には生息していない。新約聖書の「エドキナ」は「毒蛇」とし、「クサリヘビ」と注を付けた。その他にも動植物の名称でいくつかの改訂を行った。

 以上

 

 

 

2018年12月21日

・2月の「児童性的虐待サミット」への現実的な期待(Crux解説)

(2018.12.9 Crux Editor John L. Allen Jr.)

 ローマ発-その時点で世界で何が起ころうとも、聖職者の性的虐待問題についての全世界の司教協議会会長による来年2月のサミットは、大きなニュースとなるだろう。

 性的虐待について説明責任に関する新たな規則の導入を決めようとした米国司教団に対して、バチカンが、決定を2月のサミット以降まで待つように求めて後、米国の評論家たちが2月のサミットを「ルーズベルト米大統領とスターリン・ソ連首相のヤルタ会談」、つまり、いちかばちかの、歴史的な会合になる、と見なすことが運命づけられた。

サミットへの期待が様々に乱れ飛ぶ前に、このように声を大きくして言うことが重要だ-あらゆる種類の理由ゆえに、サミットは性的虐待問題に関する”ヤルタ会談”にはなりそうもなく、そのような期待をするのは愚の骨頂だ、と。

 では、そのように言う理由、そして、何をもって成功と言えるのか、を説明しよう。

 まず、ヤルタ会談は1945年の2月4日から11日まで1週間かけて行われたが、今回の会議は2月の21日から24日まで実質たった3日しかなく、しかも多くの時間が、巨人たちが腰かけて議論を戦わせるよりも、専門家たちの発表を聴くことに費やされる。ハイレベルの交渉というよりも、”週末出勤”に近い。

 第二に、そしておそらく理由の説明としてもっと適切なのは、この会議が、虐待のもたらす危機に関する同じページ上にある-共通のアプローチの委細を決める必要に迫られているー”均質”な司教たちによる集まりではない、ということだ。

 メディアの批判、法廷訴訟、法外な金銭的解決、刑事訴追、支援・弁護団の批判などの”危機”に遭っている司教たち、反虐待の戦いで最も良い結果をもたらすとされるものを採用するために教会にとって必要なことを直観的に感じ取っている司教たちは、世界中の司教たちの、およそ3分の1なのである。

 世界の司教たちの3分の2は、多くが南半球の途上国におり、これまでに述べたような意味での”危機”に遭っていない。自分たちの文化は、危機に遭っている国々のような程度にまで問題が起きることはない、と確信し、虐待スキャンダルについての西側の司教たちの議論が自分たちの関心や優先事項に影響を与えていることを、不快に感じている。そして、地政学的に、文化的に限定された現象として考えられるものを、自分たちの国も優先することに、疑問を抱いている。

 さらに、そうした司教たちの中には、虐待スキャンダルに対して世界共通の対応を求めようという動き-他の文化的な文脈に当てはめた場合にも意味があるのか、ということを考えずに、欧米のやり方を一律に当てはめようとする動き-は即、西欧植民地主義の新たな一章ではないか、といぶかる声もある。

 そのような動きとされる例として、虐待による危機が始まって以来、カトリック教会の中の改革派と虐待被害者を支援する団体の間にでている、世界の教会に”強制的申告者”政策-司教たちが受けた児童性的虐待の訴えをすべて警察と当局に報告することを義務化する政策-を実施するよう、教皇に求める声がある。

 それは、警察の誠実さに信用が置かれている欧米の人々にとっては、当たり前のことのように思われるが、警察権力が反教会的な姿勢を示す中国やインド、中東諸国のような地域の聖職者たちにとっては、そのようなことをすれば、教会活動を破壊する新たな手段を敵に与えるようなもの、罪のない聖職者たちを狼の餌食にするのに結び付くようなことは、言わないでくれ、ということになるのだ。

 このような亀裂は、10月の「若者シノドス(全世界代表司教会議)」で起きた。世界中から参加した約260人の司教たちが、性的虐待について一切の妥協を許さない”zero tolerance”政策で合意の瀬戸際まで行きながら、最後の最後に、途上国、とくにアフリカとアジアの司教たちの反対が主な原因となって見送りとなったのだ。

 このようなことを考えれば、2月のサミットに世界共通の大胆な指針の決定を期待するのは、おそらく現実的ではないだろう。会議の参加者と主催者が「この会議は始まりに過ぎない」と言うなら、それは誇張ではない。

 そうだとすれば、予想される結果はどのようなものか?まず言えることは、この会議が、聖職者による性的虐待は世界共通の問題であり、問題解決には教会のあらゆるレベルの人々の参加は必要だ、という明確なメッセージを示す機会を、教皇フランシスコに提供する、ということだ。

 教皇フランシスコはまた、性的虐待の犯罪だけでなく、その隠蔽についての説明責任を果たす強力な制度構築の具体的な方法を告げることで、実例を示すことになるだろう。自分たちの仕事を失う可能性のある新たなやり方では、どこでも、司教たちの注意をひくことはない。

 最後に言えることは、教皇フランシスコはまた、世界の司教協議会会長全員に、帰国後、虐待の被害者たちと必ず会うことを求めるだろう。性的虐待問題に何年も関わって来た人々が皆、言うように、子供の時に聖職者に虐待された恐怖について語ることで被害者たちと時を過ごすことに代わる対応はないのだ。ローマで、会議に参加する司教たちは被害者たちから話を聴くだろうが、そうした行為は、自分自身の場所で被害者たちを会うことには及ばない。

 要すれば、当然、米国の人々は2月の会議の不十分な結果と思われるものに不満を抱く可能性が強い。事の成否は、この会議後に、米国の司教たちが会議が示す方向に沿って、いかに速やかに具体的な行動計画を立てるかにかかることになる。

 カトリック教会が全地球的なものであるとすれば、1人が現実的に期待するものが、全てについてであり、残念なことは、ただ1人が本当の前進を体現するであろう、ということだ。

2018年12月10日

・ 言論NPO設立17周年記念フォーラム 「代表制民主主義は信頼を回復できるのか」

(2018.11.22 言論NPO)

  言論NPO設立17周年記念フォーラム「代表制民主主義は信頼を回復できるのか」

 オープニングフォーラム 報告

IMG_0166.jpg

11月21日、言論NPOが設立17周年を迎えるにあたり、記念フォーラム(「東京会議」プレ企画)「代議制民主主義は信頼を回復できるか」が開催されました。
panelist4.png

冒頭、言論NPO代表の工藤泰志は、この3年間、民主主義に関して世界の400人近くの論者と議論を行い、その結果、日本や欧米が抱える最も大きな問題は「代表制民主主義が信頼を失った」ことにある強調。そうした中で、「世界の民主主義が信頼を取り戻し、より強靭なものにするために改革が必要な局面にある。私たち言論NPOもそのための作業を始めることを考えていて、今日がそのスタートだ」と語り、今回のフォーラムの開催の意義を語り、開会のあいさつを行いました。

日本・EUの世論調査結果から明らかになったのは、国民の民主主義への信頼低下

続いて、2018年9月に実施した「日本の民主主義に関する世論・有識者調査結果」から(11月21日公表)、工藤は、日本には民主主義に対し強い信頼がまだ残っている一方、政党に問題解決を期待できないという人が59%いるなど、政治に対する期待が低下していることを指摘。さらに、「国会」、「政府」、「メディア」には信頼を寄せておらず、自衛隊や警察、司法を信頼しているという結果に触れ、「私たちが選挙で参加し、政治家に課題解決を託しているという代表制民主主義の仕組みが、軒並み信頼を失っている」と分析しました。

こうした調査結果も踏まえながら工藤は、「市民が政治から退出しており、世界の民主主義は危機に直面していると判断した。ぜひ、みなさんにも一緒にこの問題を考えていただきたい」と呼びかけ、開会の挨拶を行いました。

工藤の発言を受け、ドミニック・レニエ氏(仏政治刷新新研究基金代表、パリ政治学院教授)が、ヨーロッパで実施した世論調査の結果の説明を行います。レニエ氏は、工藤の発言に賛同するとともに、EUにおける世論の政党への信頼が18%しかないことを紹介。さらに日本の調査結果と同様に、EUでも「軍」や「警察」への信頼が高く、議会への信頼があまりないこと、さらに伝統的メディアへの信頼も危機的で、「25カ国のうちの4カ国でしか、メディアに対する信頼が50%を超えていない」との現状を説明しました。

加えて、国民の大部分は、政治家が腐敗していると考えていること、独裁者によって国を率いてほしいと考える国民が一定数存在することに言及し、「ヨーロッパの民主主義国家はかなり深い問題を抱えている」と断じました。また、こうした問題は調査結果からだけではなく、イギリスのブレグジットでの国民投票や選挙の投票結果でも現れているとし、問題が様々な場面で表面化していることを強調しました。

国会や政党と国民の間にある溝を、どのように埋めればいいのか

レニエ氏の発言を受け工藤は、世論調査の中で、「日本に強い政治リーダーを求めるか」という設問で、国民の20.4%が「自国の経済や社会がより発展するのであれば、多少非民主的でも強いリーダーシップを持っても構わない」と回答したことに言及し、国内でもリーダーシップをより求めていることは、民主主義を考えていく上での重要な課題だと補足しました。

さらに工藤は、政党と国民の代表であるべき国会が市民の支持を得ていないことについてどのように考えればよいのか、と問いかけました。

遅れて登壇した衆議院議員の石破茂氏は、「政党が信頼されていない」という調査分析結果に同調。世論調査の設問について、「政治家が有権者を信頼しているか」という逆の問いも有り得るのではないかと指摘。政治家の中でも、「どうせ難しいことを言っても国民は理解してくれないのだから、この程度の国民に対してこの程度の政治家でよいだろう、というのは絶対に言ってはならない。国民は忙しいのだから、わかりやすく様々なことを表現することが仕事だ」と、政治家の持つ説明責任の重要性を訴えました。

他方、国民にも自らが為政者という自覚がなければ主権国家とはならないと、国民に対しても当事者意識を持つことの必要性を説きました。さらに石破氏は、自衛隊への信頼が高まっている現状についても「極めて信頼が高いことはよいが、これまで自衛隊に対する文民統制の議論が突き詰められたことはない。民主主義と実力組織の関係はよく考えないと、もう一度(第二次世界大戦と)同じことが起こる可能性がある」と、手放しの自衛隊への信頼への問題点も指摘しました。

ギデオン・ラックマン氏(フィナンシャル・タイムズ・チーフ・フォーリン・コメンテーター)も、ジャーナリストの立場から政党への信頼の失墜について話します。「西洋やアジアの民主主義国をみると、伝統的な政治家ではない人々やアウトサイダーに訴えかける人に票がいくことが多くなった。政党はやはりそれなりの規律の中で動かなければならず、そうした規律に縛られて動いていることが国民からみると不誠実に見られることがあるのではないか」と、フランスのマクロン大統領やアメリカのトランプ大統領を例示しながら語りました。

ここまでの議論を受けて、工藤は「今回の日欧の世論調査に共通する傾向は、市民と政党に乖離があることだ。つまり政党が市民のために動いていないとなると、そもそも政党の存在意義は何なのか」と代表制民主主義をとる上での根本的な問いを提示。さらに、政党が極端な民意を利用して地位を得る傾向が、日本のみならずヨーロッパにも見られると分析。このような現状を立て直すことは難しいのか、パネリスト諸氏に問いかけました。

「難問だ」と応答したのはレニエ氏です。「全ての政党が危機にあるということは正しい認識ではない。もっともヨーロッパを見ると、明らかにポピュリストは台頭していることは事実であり、一般国民と政治家との乖離は、今に始まったことではない」と、ヨーロッパに関する自らの見解を主張。また、政府としては一般国民と理性的な議論をすることが難しい時代になったと指摘。このような時代では、共通の利益がどこにあるのかを見定めることは難しいのではないかと分析しました。

工藤は、石破氏が所属する自民党について、様々な人々から支持を受けているのか、それとも棄権する人々が多いために相対的に支持基盤を獲得できているにすぎないのかを問いかけました。

石破氏は「国政選挙の投票率は50%程度しかない。そして50%の得票率で当選できるということは、25%の積極的支持で、70%以上の議席を獲得してしまっている。したがって、当然民意との乖離は生じてしまう」と、選挙制度の構造的な部分に原因があることを指摘しました。

また、日本の両院制は両院が同様の権限をもってしまっていることにも触れ、「同じようなものが二つあって意味があるのか」と、少数意見を尊重できない現行の両院システムに異議を唱えました。また、自らの自民党総裁選出馬経験を踏まえ、本来であれば総裁選に勝利した安倍総理が、石破氏を支持した45%の議員の意見を取り入れなければ次回の選挙では辛酸を舐めることになる可能性が高いが、野党がバラバラである現状では負けることはないだろうと、日本の政治構造そのものにも疑問を投げかけました。

議会は行政の追認機関にすぎなくなってしまったのか

ここで工藤は、日本にあるような与党審査制度がヨーロッパ諸国にも存在するのか問いました。ラックマン氏は、「一般的にはそのようなことに基づいている」と回答。さらに、国民が政党に対して信頼をしていないのはなぜかという問いに関して、「フランスの国民戦線やトランプ大統領の出現に代表される社会の分断の中で、政党は社会を代表できていないと考えられているのかもしれない。亀裂を代表できている党が現れれば、人々は国会や政党に信頼を寄せるのではないか」と語りました。

工藤は、国会の信頼度が低いことに関してどう捉えるのか。また、「日本には与党審査という制度があり、その中で揉まれている問題に国民はあまり触れられない」と、与党審査の抱える問題についても問題提起すると、石破氏が答えます。「与党審査があるのだから、与党は政府を持ち上げるような質問はしなくてもよいのではないか。また、野党もバラバラに質問するのではなく、どこに国民の興味があるのかを把握し、本質的な議論をする必要がある」と指摘。また、小泉政権時代の有事法制についての長期間の野党との議論と調整の末、二党を除いて合意を結べた経験を振り返りながら、「よりよい議論の一致を見出すのが議会の役割。国会は追認機関なのであれば意味がない」と力強く主張しました。

石破氏の発言を受け、工藤は「党議拘束と与党審査をやめるのは無理なのか」と問うと、「与党が運営する政府で与党審査をやめたら意味がない」とは石破氏。また、党議拘束については、全てに党議拘束をかけるわけではないと指摘。実際に過去にも、脳死など死生観に関わる事柄については党議拘束を外したことがあると語る石破氏でした。

 

正確な情報を提供し、政府批判を恐れないことがメディアにとって重要な役割

次に工藤は、「メディアはインフラとしての機能を果たせていないのではないか」という問題意識を提示。ラックマン氏は、トランプ大統領の登場に懸念を示します。「彼は、メディア攻撃、不信感醸成を正当化している。アメリカでは報道の自由が確立されているので多分メディアは生き残るが、世界中のメディア叩きを助長しているのは事実だ。その結果、世界で投獄されている記者数は記録的だ」と語りました。また、報道に対して過剰に批判的になることにも問題意識を示し、「民主主義の抱える問題にはメディアへの攻撃も含まれているからだ」と語るラックマン氏でした。

「メディアに対する攻撃がある」という点について理解を示しつつ、工藤は最後に、一方でフェイクニュースの問題に世界の既存のメディアがどのように取り組めばよいのか、と問いかけました。

「諸外国と日本だと状況は違うと思うが」と前置きしつつも、「日本だとメディアと権力が癒着すると社会が滅びるということは間違いない」と断言するのは石破氏です。「(第二次世界大戦)当時は大政翼賛会しかメディアがなく正確な情報がないために、実に都合がよいストーリーしかなかった。いかにして正確な情報を提供し、政府の批判を恐れないかということが重要だ」と、戦時中を振り返りつつメディアの持つ役割の重要性を提示しました。

また、近年のメディアについて、各々の論調がはっきりしていると指摘。「ただ、市民は普通一種類の新聞しか読まない。それでは一つの論調に市民の意見が固まってしまいよくない。メディアは自分とは違う立場についても紹介すべきだが、商業ジャーナリズムの下では困難だ」と、現代メディアが抱える役割とそれを果たす困難についても言及しました。

今回の議論を振り返った工藤は、「当初の期待よりも何十倍も高いレベルの議論ができた。この議論を後のセッションへ引き継ぎたい」と議論の満足感を示し、オープニングフォーラムは終了しました。

第1セッション「代議制民主主義の危機をどう見るか」報告

YKAA1561.jpg

1.jpg

スピードと効率性に欠ける民主主義

「代議制民主主義の危機をどう見るか」をテーマに行われた第一セッションには、欧州から元国会議員二人を含む4人とアジアから2人が参加しました。

司会を務めた工藤は、最初から出席者に単刀直入に聞きました。「なぜ、代議制民主主義は信頼を失っているのか、何が問題なのか」。これに、イタリアのゴジ氏は、「伝統的政治が、国民の新たなニーズに答えられていないのが最大の問題だ」と語ります。「伝統的議論の規範には、理性や統計が必要だが、それが機能しておらず、逆に人々の感情や心に訴えるようになっている」と大衆迎合になりがちな政治の状況を説明しました。さらに、「各地で台頭しているポピュリズムを捉えきれなかったメディアも危機を迎えている。さらに、ソーシャルメディアの管理の仕方も理解されておらず、イタリアの”五つ星運動”はソーシャルネットでできた要素が高い」と分析しました。

さらにゴジ氏は、今の自由民主主義を、プロセスにおいて①意思決定のスピードが足りず、②効率性が悪いのに満足できないために、非自由な強いリーダーを選んでしまうと説明。民主主義を回復するためには、この2点を解消しなければならないが、そのメッセージを伝えるシステムができていないと、民主主義の弱点を指摘しました。この見方を補足するように、イギリスのEU離脱を”BREXIT”と命名したことで知られる元下院議員のマクシェーン氏は、「代議士は5分、有権者に接触しないと民主主義は失われると言うが、民主主義は今、”赤ん坊の時代”なのかもしれない。議論する場で直接、顔を合わせてきちんと議論し、選挙区に帰っても議論しなければいけない」と、民主主義のあり方の初歩を議員が忘れているから、国民感情を受け入れることができない、と話します。

民主主義の危機が言われるようになって、それと反比例するようにポピュリズムが台頭してきました。しかし、フランスの政治学者、レニエ氏は、「ポピュリズムを短く定義すれば、人々の求めに応えることで、今のそれは、ポピュリズムではない。移民など新しい問題が出てきて、文化の衝突や統合の問題などが重なり、移民はイヤだ、となって、そこにポピュリズムが入り込んできた。新聞など民主主義のツール(道具)も、今では役に立たなくなっている」と説明。

イギリスメディアで活躍するラックマン氏は、「トランプ大統領は、人々が求めるものを与えようとしている。この姿勢は、いつか問題となって、彼自身に跳ね返ってくるだろう」とトランプ大統領の将来を予測しました。

有権者の気持ちを代弁しているか ――政治家の約束と結果

課題解決が仕事のはずの政治家が信頼を失えば、国民はどこへ行けばいいのか。フィリピンのマルコス独裁体制を批判して暗殺されたベニグノ・アキノ氏を叔父に持つバム・アキノ氏は、「その前の政権がやるべきことをやってこなかったから、独裁者と呼ばれるドゥテルテ大統領が選ばれたのだ。彼は、約束したことをやらなければいけない。人々は結果を見たいのだ」と、政治家の”約束”と”結果”の大事さを強調。ドゥテルテ氏は”約束”を果たすべき、より強いリーダーシップが求められて大統領になったのであり、独裁者とは違う、との見方を示しました。

そしてアキノ氏は、「代議制民主主義とは、私たちの気持ちを代弁してくれるもの。私たちの求めるものを反映するべく選ばれた人たちであって、少数派の利益ではなく、過半数の利益になることをすべきだ」と、上院議員として、地元で貧困問題に取り組んでいる政治家らしく述べるのでした。さらにアキノ氏は、「政治家が約束を果たしていれば問題はないが、代議制民主主義の危機の背後にあるのは、誰がどこを代表しているのか」と指摘。

フィリピンは過去7年、経済成長してきたものの、貧困率は下がっておらず、経済格差が大きくなっている。こうした状況下で、「政治家が信頼を失っているのは、一握りの人たちだけが繁栄して、自分たちはダメだ、と思わせるから。人々が独裁者を好むようになるのは、この格差に問題があるからだ」と力を込めて語るアキノ氏でした。

アジアからもう一人、イェニー・ワヒド氏は、インドネシアのワヒド元大統領の次女で、ダボス会議を主催する世界経済フォーラムからヤング・グローバル・リーダーの一人に選出されたこともあります。「男性は、女性のニーズを理解できるのだろうか。女性の代議員がもっと増え、女性のニーズを推し進めてほしい。それだけでなく、地域や民族のグループの声を反映させていけば、その存在を代表し、それが全体としての代表になっていくのだ」と、多民族国家であり、成熟した欧州民主主義国とは違う、まだまだ若い新興民主主義国家の一員として、また女性の立場から発言します。

社会の分断への対処は

一方、アメリカの中間選挙では、社会の分断が指摘され、トランプ大統領はそれを選挙で利用していたとも言われました。工藤が問います。「ポピュリズム、ナショナリズム、排外主義などが飛び出し、第二のトランプと呼ばれる人も出てきた。こうしたストロング・マンが民主主義の枠組みを攻撃している。こうした分断をどうやったら解消できるのか」。

ゴジ氏は、「国益とネオ・ナショナリズム(右派ポピュリズム、反グローバリゼーションなど)は別だ。決して同等ではなく、ネオナショナリズムは外の敵を必要とするが、ネオナショナリズムが国益を促進することはない」と一国主義、保護主義に警鐘を鳴らします。さらに、「民主主義とグローバリゼーションは一つのジレンマでもあり、その間には新しいバランスが必要だ」と、今後の議論の課題を指摘します。この言葉にアキノ氏は、「ポピュリストたちは約束を守れないだろう。約束したことが、あまりにも大きすぎるからだ」と付け加えました。

マクシェーン氏は、「マレーシアでは、マハティール氏が93歳で首相に返り咲いた。人材不足かもしれないが、民主主義に代わるものはない。民主主義を放棄したら何もなくなる。これからはチェック・アンド・バランスが必要で、民主主義の危機とは言わないでほしい」と、世界の民主主義の現状に望みをつなぎ、民主主義の未来を信じるようでした。

答えが見えそうな議論

「司会者の発言が少ないのは、いい議論が続いた証拠」と言う工藤は、活発な意見交換を終えて、「適切な論点が多くあった。代議員は必要なのか、彼らは課題解決に取り組んでいるのか、公正であるのか。また、民主主義の意思決定のプロセスとスピードが問題になったが、これらを解決するには、議会だけではダメなのではないか。どうしたら政治や議会は、国民の信頼を回復できるのか、私は答えが出そうな予感がしてる」と、様々な意見が飛び出したことに満足そうに話し、第二セッションに移りました。

第2セッション「民主主義への信頼をどう取り戻すのか」報告

YKAA1910.jpg

続く第2セッションでは、言論NPO理事を務める近藤誠一氏(近藤文化・外交研究所代表)に司会を交代し、「民主主義への信頼をどう取り戻すのか」をテーマに議論を行いました。

mainimg_181108_3_panelist_2.jpg

この第2セッションでは、第1セッションから引き続きの参加となるマクシェーン氏とゴジ氏に加え、アジアの民主主義国からハッサン・ウィラユダ氏(元インドネシア外務大臣)が参加。日本からは、大橋光夫氏(昭和電工株式会社最高顧問)、藤崎一郎氏(日米協会会長、元駐米大使)の2人の言論NPOアドバイザリーボードメンバーが参加しました。

まず、司会の近藤氏が「第1セッションで浮き彫りとなった代表制民主主義の危機を乗り越えるため、今何をすべきなのか」と問題提起。各氏にその処方箋を求めました。

民主主義を機能させるため、一人ひとりが考えるべき

これに対しマクシェーン氏は、代表制民主主義によって全ての人が満足できるような結論を出すことは不可能であるとした上で、それでも代表制民主主義によって出された結論に意味があるのは、代表者たる議員たちが「議論を尽くした末に下した結論」だからこそであると指摘。住民投票のような直接民主主義は、スイスのような成功例はあるとしつつも、往々にして「YesかNoかのボタンを押すだけで愚かな結論を下すことになりがち」と警鐘を鳴らしながら、暗にイギリスのEU離脱の是非を問う国民投票を批判。代表制民主主義に対する人々の不満に対しては、「結局、文句を言わずに民主主義が機能するように自分たちで組み立てていくしかない」と説きました。

さらに、選挙制度のあり方についても同様の視点から、「虹の向こうにいる誰かが完全な制度をプレゼントしてくれるわけではない」とし、自ら模索してい くべきだと語りました。

 

新たな課題から生まれる新たな運動を民主主義の活性化につなげていく

ゴジ氏は、国民の政治運動や政党の活性化の必要性に言及。現代の多くの国々で見られる現象として、旧来的な「右」と「左」の分断ではなく、「都市と地方」や「高齢者と若者」など様々な領域での分断が進んでいるとしつつも、そうした新しい課題から新しい運動が生まれると指摘。また、水の確保や気候変動などの新たな課題も新しい運動の端緒になるとし、こうしたことに活性化の好機を見出していくべきと主張しました。

一方で、そうした政治運動や政党は「人々の感情に寄り添い、希望を高めるような成果を出すことにこだわるべき」とも語り、そのためにはしばしば民主主義の欠点と指摘される効率性とスピードを意識することも重要であると留保を付けました。

選挙過程だけでなく、行政も不断の見直しが必要

ウィラユダ氏は、「選挙を通じて自らを改善させることができる点が民主主義の強みだ」とした上で、民主主義は”最終形態”に向けての進化の最中にあるのだから、多少の問題が起きても動揺せず、辛抱強く改善に取り組んでいくべきと訴えました。

一方で、民主主義が機能していないと思われることの要因としては、民主主義によって選ばれた政治部門が国民に福利をもたらすことができていないことがあると指摘。それは議会だけの問題ではなく、行政にも問題があるとし、一例としてインドネシアでは汚職を捜査・起訴し、政府を監視することなどを任務とする「汚職撲滅委員会」が国民の中で最も信頼度が高い機関となっていることを紹介。選挙過程だけでなく行政過程の透明化も民主主義に対する信頼回復のためには不可欠であるとの視点を提示しました。

「3つのC」

藤崎氏は、EU離脱に関する国民投票とそれに伴う混乱を踏まえ、選挙で選ばれた代表が長期的な視野に立って討議し、決定することの重要性を再確認したとしつつ、日本の選挙をめぐる問題点を提示。立候補の自由はあるものの、実際には世襲議員や官僚出身者などの候補者が多く、「地盤」、「看板」、「鞄」がない人はなかなか選挙に出馬できない現状を指摘した上で、こうした現状をchangeし、challenge しようとする人にchanceを与えるべきとする「3つのC」を提唱。そのためには、現行小選挙区制の見直しや、イギリス型の落下傘候補の一般化などが検討に値するとしました。

さらに藤崎氏は、そうして選挙をくぐり抜けた政治家の意識の問題にも言及。「ゴルフの時ですら議員バッジをつけているような人がいる」とし、こうした見え隠れする特権意識をどう考えるかという視点も提示しました。

 

まず、教育から問い直すべき

大橋氏は、民主主義に関する制度の問題ではなく、人間教育の観点から問題提起。まず、日本社会の特質として「宗教や人種に対して比較的寛容であること」や「調和を重んじること」を挙げ、こうした姿勢が民主主義に不可欠であると論及。また、イギリスの政治学者A.D.リンゼイが民主主義を維持していくためには、自らの意見と不一致な意見も真摯に傾聴すべきと述べていたことや、天才物理学者アインシュタインの「人間にとって最も大切な努力は、自分の行動の中に道徳を追求していくこと」などの格言を紹介。民主主義の不完全さを補うことができるのは人間の理性だけであるとし、その理性を身に付けるためには教育が重要であると主張。

「相手の話をきちんと聞くという習慣を身に付けなければ寛容も身に付かない」、「憎悪によって分断を生まないような自己抑制をできるようにすべき」などとしつつ、こうした姿勢を小学校教育の段階から意識して習得するような教育改革を提言しました。

この寛容の精神の重要性については、ゴジ氏も社会が多様化していく中での不寛容の拡大が、分断につながっているとし、今後の民主主義を考えていく上では「寛容が重要なキーワードになると」と指摘。

ウィラユダ氏も多元的な社会で構成されるインドネシアでは、寛容とそのための対話が不可欠であると説明。さらに、世界各地でのポピュリズム勃興の背景には、エリート層に対する大衆の反発があるとし、この両者が対話することの必要性について語りました。

その後、会場からの質疑応答を経て、言論NPO設立17周年記念フォーラムのセッションは終了。議論は明日の「第4回アジア言論人会議」に続きます。

第4回アジア言論人会議 非公開会議 報告

IMG_0823.jpg

11月22日午前、ホテルオークラ東京にて、第4回アジア言論人会議「アジアや日本はどのような民主主義を目指すのか」の非公開会議が開催されました。冒頭には、午後の会議に向けて、アジアでの民主主義の現状について、本音の議論や問題意識の共有が展開されました。

構造的な格差とグローバリゼーションに伴う格差

まず、言論NPO代表の工藤泰志は、非公開会議の前の協議で取り上げられた貧富の格差の問題に着目。まず、「貧富の格差」には欧米でしばしば議論となっている構造的な問題とグローバリゼーションに伴う問題の二つがあり、後者が前者の問題を拡大していると指摘。日本では貧富の格差がアメリカほどは大きくはなく、政権も若者や女性に分配を進めようとしているが、それでもなお富の独占が起こっている現状を真剣に考えなければならないという問題意識を提示しました。また、国内における格差と世界全体が抱える構造的な格差を区別する必要があると、論点の整理を呼びかけました。

マレーシアから来日したパネリストは、2018年のマレーシアでの政権交代について、国民の経済への不満が反映していると分析。これまでの一党支配が国民と政治の乖離を促進したことから、新政権に国民のニーズに応えることが重要だと、新政権への期待を示します。もっとも経済活動の促進のためには、政府は国民以外にも企業からのニーズに応えなければならないという実態があるが、企業の要求に応えようとすると、国民の低賃金が前提の議論となってしまい、国民の要求に応えられなくなるという二律背反が課題だと語ります。

また、フィリピンのドゥテルテ大統領を例に挙げ、強権的であっても、貧富の格差という、構造的で短期的には解決が難しい問題を早急に解決するという要求を無視できない、と語るパネリストもいました。仮に国民からの要求に応えられず強権的政権が崩壊したとしても、国民からの要求に応えられるかが選挙での争点となると論じました。

フィリピンのパネリストは、即効性のある改革に向けた強権化のために自国が改憲によって大統領の任期延長を行おうとしていることに言及。しかし国民は経済構造の改革を求めており、政治が国民からの要求に相反していることを改革している事例として上げました。

マレーシアの別のパネリストは、経済格差はこれからも進むだろうと断言。その中で、「弱い国はその分だけ失うものが多い」として、マレーシアが食料自給率向上のために穀物の生産に向けて努力したが、食料品の輸入が止まらず頓挫した結果、一部の貧困層が一貫して残存し政府の対応が追いついていない現状を指摘。これからの政権は、農業や製造業などの衰退してしまった様々な産業や産業間格差に取り組まなければならないと主張しました。

続いて、インドネシアのパネリストはインドネシアの民主化について語りました。「基本的に順調」な民主化の下にも、所得格差は他国同様に存在すると分析。所得格差はグローバル化に基づく効率性向上の要求に関連しており、それによる犠牲者は政府にしか救えないと、政府の責任について言及。しかし、インドネシアは「一緒に貧困であればよい」という思想や、寡占による特権の悪用という根深い問題を抱えており、これらの問題の解決の必要性を強調しました。

さらに、別のインドネシアのパネリストは、インドネシアの民主主義と経済成長の関連について、政権の柱と選挙での争点がGDP成長率や貧困率の削減、通貨下落対策に置かれるなど、経済政策が世論を満足させるために利用されされている点を指摘。加えて、「ジョコ・ウィドド大統領に対しての支持率には世代差がある。ミレニアム世代をどう説得していくかが現政権の課題だ」と、政権支持に関する世代間格差についても言及しました。

民主主義を機能させる上でのメディアやインターネットの功罪

フィリピンのパネリストから、現代社会の持つ問題点について指摘がありました。「インターネットやSNSは誤解を生みやすい。民主主義を機能させるためには、顔を合わせて話をするという基本に立ち返る必要がある」と提案。

また、「アジアは多くの宗教の発祥地でもあり、平和やお互いを尊重するという価値観を培ってきた。この価値観を広げていくことが、ナショナリズムへの対抗になる」と、アジアならではの価値観の重要性を語りました。この見解に同意したフィリピンのパネリストからは、「民主主義とグローバル化のどちらかを選択するという二者択一ではなく、連立方程式を見出す必要があるが、これはアジアの私たち自身が作っていくものだ」とした上で、「強権政治からの離脱は今後様々な国で起きてくるだろう。その時に、公約を実現するという民主主義の価値観に応えなければならない」と、政治家が民主主義において公約を実現するという成果を出すことの重要性を強く訴えました。

ここで、工藤から「ナショナリズムは自国以外を批判して自分たちの支持を集めるパターンだったが、最近のアメリカでは、分断された世論を利用して、自分と異なる立場を攻撃し、支持を集めるという現象が出てきている。アジアにおける国内分断の問題は、考えなくても良いのだろうか」と、新たな論点が投げかけられました。

すると、フィリピンのパネリストから、国内における論争そのものが欠けているとの意見が出ました。その原因は、メディアにあると指摘。「SNSでは短い言葉で単純な発言が多く、反応も単純で、思考力が退廃している。また、最近のマスコミは、政策の掘り下げた分析はあまりせず、汚職問題ばかり報道する」と語りました。そして、この問題の解決のためには、国民も政治家も批判的な思考力を高める必要があるのではないかと提案しました。

加えて、他のフィリピンのパネリストが、SNSは武器のように使われていると指摘がなされ、さらに、フィリピンにおいては、資金力の高い政治家がTVCMを流し、メディア露出度の高い政治家が当選しやすいという現状があると分析し、メディアやインターネットを利用した功罪についても触れられました。

民主主義を確立するときに突き当たる障壁

一方、マレーシアのパネリストは、「国内においては単なるナショナリズムだけではなく、宗教の過激主義が問題になっている」と、宗教に関する問題を紹介。すると、「マレーシアでは、人種と宗教が絡み合って、差別が激化している」と、国内の現状を憂える声が出ました。その原因として、「これまでは、政府が宗教や民族に関する議論を抑えつけてきたが、民主主義や平等を打ち立てたら、議論の基礎がないという問題が生じた。また、政府が主流のメディアを通じて、きちんと政策の説明をしてこなかった」という問題点が挙げられました。その上で、「マレーシア政府は5年後には約束した成果を出さなければならない。少なくともマニフェストの8割は果たせないと国民の支持を失うだろう」と、国民との約束を果たす必要があるという、民主主義国家での政治家の責任が強調されました。

 

続いて、インドネシアのパネリストが、安全保障と表現の自由のどちらを取るかは大きな問題であるとの疑問が提起されました。これについては、各国によってバランスの取り方は違い、欧米の人権団体からやり方を批判されているが、欧米は移民問題もあり二重基準だろうとの指摘がなされ、「各国の状況に合った調整が大事だ」との意見が出されました。また、ナショナリズムとポピュリズムを区別する必要があるとの指摘に対しては、「ポピュリズムを防ぐためには普遍的な価値観を導入するしかないが、今のところそのような価値観がない。ポピュリズムの是正の解決策はまだないが、少なくとも、対話によって解決策を模索しないといけない。国境を超えた課題であれば多くの国が結集する共通の基盤が生まれるので、共通の利害を見出せるかが今後の課題だ」と、国境を超えた対話を形成することの必要性が提示されました。

これにインドネシアのパネリストから賛意が示された上で、「ナショナリズムが国を愛するという意味ならば肯定するべきものだろう。それに対して、ポピュリズムは一時的な押し戻し、エリート層に対する抗議である」と、両者を区別する際の定義を改めることが必要だと提案がなされました。

最後に、代表の工藤が、「今日は、民主主義の構造と新しい変化の問題など、本質的な問題についてかなり議論が深まった。こうした議論が普通にアジアのリーダー間で議論される環境ができればいいと思う」と、今日の議論に満足感を示すとともに、これからの議論のプラットフォーム作りに意欲を見せました。

一方で、イスラム過激派に拘束された日本人ジャーナリストを例に挙げながら、最近国境を超えた課題解決に携わっている人が肩身の狭い思いをする傾向が日本にあるという現状を憂えました。そのような現状の中でも、「民主主義が人々の権利や幸せに貢献していることを証明し続け、市民の支持を得て、競争力を増していくことが必要」であり、そのような大きな流れを作っていきたいとの決意を語りました。そして最後に、「皆さんがアジアの民主主義をけん引してほしい」と集ったアジア各国のリーダーたちに大きな期待を寄せ、非公開会議を締めくくりました。

セッション1「アジアの民主主義は信頼を取り戻せるのか」

IMG_1827.jpg

panerist_22_1.jpg

「アジアや日本はどのような民主主義を目指すのか」をテーマに言論NPOによる「第4回アジア言論人会議」は22日、都内のホテルで開催され、日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアからの国会議員などが熱のこもった議論を展開しました。

言論NPOの日本の民主主義に関する世論調査では、3割を超える人が日本の将来を「今よりも悪くなる」と見ており、約6割の人が「政党」、「国会」、「政府」を信頼していないことが明らかになりました。また、強権的な指導者が人気を集めるポピュリズムが広まりつつあり、民主主義自体への懐疑的な見方が高まっている現状を政治の現場にいるパネリストはどう見ているのか、そしてアジアの民主主義が直面する課題を明らかにしようとするものです。

アジアの民主主義の発展で連携を

議論の前に、言論NPO代表の工藤泰志が挨拶に立ちました。「昨日の言論NPO設立17周年記念フォーラムで、私たちは、”民主主義は信頼を回復できるのか”と問題を提起し、世界の有識者と議論を重ねてきた。代表制民主主義が信頼を失い始めているのは、欧米でも共通した現象が見られ、民主主義は民意を代表しているのかと非難され、効率性を欠いている、とも言われている。さらに、スマートメディアの普及で、社会の断層は進んでいる、との声もある」との認識を示したうえで、今回のフォーラムで、アジアの民主主義の未来のために、人権や平等といった価値を守り、社会を発展させるには連携するしていくスタートにしたいと語りました。

次に元国連事務次長の明石康氏が挨拶を行いました。明石氏は、カンボジア内戦を経て、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の国連事務総長特別代表として1993年5月に国民議会選挙を実施し、同国再建の基礎を築いたその人です。明石氏は、「当時、カンボジア人によって国連が去った後に(選挙を)しなければと思っていたのだが、それだと何百年も掛かるかもしれないということで、UNTACが実施した」と当時を振り返りつつ、民主主義の重要性と共に、民主主義の導入の仕方についても、慎重に見極める必要性を強調しました。
そして、アジアと世界の変革が急速に進む中で、テーマを絞った議論、効果の高い議論が必要であり、今回の議論が、アジアの中でもこうした議論がなされるようなスタートになることへの期待を示し、挨拶に代えました。

当初、会議に出席予定だったマレーシアの下院議員、ヌルル・アンワール氏のビデオメッセージでは、「一党支配や権威主義傾向がある中で、アジアの人たちは勤勉であり、よりよい解決策を見出している。創造力のある市民の声を抑えてはいけない。アジアの国々は東からも西からも良いところを学び、多元的な見方ができるのが強みだ。日本からはインスピレーションをもらい、人と人との対話で、より強いアジアができる」と、言論NPOが始めたアジア言論人会議への期待を寄せました。

 

自国の民主主義を問われて ――行き過ぎた雑音が心配とも

第一セッションのテーマは「アジアの民主主義は信頼を取り戻せるのか」です。司会を務めた工藤はまず、日本、フィリピン、マレーシア、インドネシア各国の国会議員らに、「自分の国の民主主義に満足しているか、危機感を持っているか」と単刀直入に尋ねました。

インドネシアの元外相、ウィラユダ氏は、「生き生きとした活力ある民主主義でハッピーだ」と顔を綻ばせました。「32年間続き、発言の自由もなかったスハルト体制から脱却し、1998年に改革を決断。権威主義はもはやなく、人権擁護も改革の柱の一つだ。民主化は短期間で行われ、人口から見れば、インド、米国に次ぐ第三の民主大国ともてはやされた」と語りました。さらに、投票率は70~80%で、5%以上の経済成長率は更に成長が見込まれ、アメリカの投票率が下がっていることもあり、インドに次ぐ第二の民主大国になるかもしれない、と笑顔のウィラユダ氏。「自治権を与えられた地方の活力もある」と余裕を見せるのでした。

同国のワヒド元大統領の次女、イェニ―・ワヒド氏は、「インドネシアの人たちは、最も楽観的な人間」としながらも、「言論の自由が行き過ぎると、安定した権威主義的な時代がよかった、という人もいる」など、新たな民主主義がもたらすノイズが懸念を指摘します。しかし、全体的に見れば、「民主主義は最もいい仕組みで、かつ国内で穏健派が主流になってきたこともあり、イスラムの寛容の精神という価値観を守りつつ、今の軌道を楽観主義で歩んでいけば、将来、実を結ぶことになるだろう」と楽観的な見方を示しました。

強権的人物が選ばれたのは

工藤が次に指名したのは民主主義の中の強権的政治家、ストロングマンがいるフィリピンです。マルコス独裁体制を批判して暗殺されたベニグノ・アキノ氏を叔父に持つ上院議員のバム・アキノ氏は、「民主主義への信頼性は変わらず存在している」と語ります。ただ、民主主義にとって重要であるメディアについては、ソーシャルメディアの発展や、現在の国民の風潮から、既存メディアが国民の望むものを提供できず、メディア自身が危機に陥ってしまった結果、国民が強権的な人物を選んだのかもしれないと指摘。こうした状況を生み出さないためにも、「国民が努力して民主主義を守らなければいけない」と語ります。そして、「これまで公約も実現できていないのが、私たちが学んだ教訓であり、人間の尊厳を真ん中に置いた政権が必要となってくるだろう」と、次を見据えるかのようなアキノ氏でした。

ヴィラリン氏はフィリピンの野党の下院議員で、労働者の権利向上などに力を入れていることで知られています。「フィリピンの民主主義はワナにはまって、ドゥテルテ大統領に利用されているのではないか」と語り、民主主義の制度を使って制度を攻撃しているとの見解を示します。一方で、6.8%の経済成長があり繁栄する中でも、経済格差は拡大中で、大統領はこれに対応できていないと、野党議員らしい視点で語ります。さらに、「マルコス時代は終わり、自由競争の時代になったが、雇用とか正義とか課題はずっと無視されたままだ。金がある者の民主主義で、もっと市民の声を取り戻すべきだ」と、不満を口にするヴィラリン氏です。

マハティール首相は権威主義的?

今年5月の総選挙で下院議員に当選したマレーシアのチェン氏は、市民団体のリーダーとしてクリーンで公平な選挙を求めて活動を続けてきました。それが選挙で実を結んだ形になったチェン氏は、「今度は公約を果たさなければならない。新政権誕生前は、連合政権を作って汚職撲滅などを掲げ、貧困層のため経済を立て直そうと訴えてきたが、なかなか実現は難しそうだ」と、現実の厳しさを話します。

そうした中でも「ゆっくり手をつけながら、少しでも経済を変えていくために予算配分を考えつつ、財政の立て直しが大事だ」と、公約にじっくり取り組んでいく姿勢を示していました。これに補足するように発言したのはマレーシアの政府・政党関係者を手助けしてきたスフィアン氏で、「強権主義的な傾向を持ったマハティール首相が返り咲いたが、権威主義的な文化を改められるか、民主主義下のノイズに、どう対処していくか。時間がかかるかもしれないが、国民に背を向けられないようにしたい」と慎重に語りました。

日本が問われる、民主主義をいかに機能させるか

次は日本の国会議員の番です。まず、国民民主党代表の玉木雄一郎氏。「日本は完全な民主主義国で、それをどう機能させるか、どうアップデートさせるかが問われている」と現状を語ります。その上で、「政治家が誰を代表しているのかが重要で、日本の高齢化が進む中で、次の世代にいかに負担を残さないようにするか。

与野党談合して、現役世代で解決できるよう選挙で訴えていく必要がある」と意気込みを語ります。一方で、国民の代表が集まる国会については、国会での与野党のやり取りが、初めから終わりまでゲームのようなもので国民はシラけており、将来の問題を解決する機能を果たしているとは言えない。国会が機能するために国会をどうように変えていくのかが課題だと指摘しました。

一方、自民党の衆議院議員・小泉進次郎氏。「トランプ大統領のお陰で、民主主義の観点から言えば、今はチャンスだ。アメリカが統率力を失いつつある中で、法の支配や民主主義の価値を図るスタートが今、始まった」と語ります。

そして、「ポスト平成の民主主義をどう語るか。自由民主党というのはいい名前で、自由と民主という言葉は、前向きな響きがあるが、よく考えると個人の自由と多数の民主は、時々、衝突する。衝突を理解しながら、そこをうまく調和させてバランスを取って、国民の声を聞いて反映させる。民主主義とは何か、それを語るチャンスがきたのではないか」と指摘。

選挙制度が中選挙区から小選挙区になったことで、小選挙区では一対一で対決姿勢を見せなければならないが、日本が直面する課題については、「党派を超えた超党派で取り組まなければいけない。その難しさとジレンマを特に感じている」と自分に言い聞かせるような小泉氏でした。

人々の声を”聞く”プロジェクト

パネリスト全員の発言を踏まえて工藤は、「欧州では社会に断層ができて、民意と政党の乖離が出てきているが、政党は民意の代表になっているのか」と、問い掛けました。「私は、”聞く”というプロジェクトを始めた。人々に寄り添い、人々にとって何が重要なのか、一般市民に政党に入ってもらう仕組みを作った。ポピュリストが、人気があるのは、人々の問題を見つけるのがうまいからだ」と、明解に話すのはアキノ氏でした。

これに対しワヒド氏は、アジア特有の視点を持ち出しました。「多くの人は、欧米の民主主義をアジアに適用しようとするが、欧米とアジアでは政治の文化が違う。アジアではむしろ、コンセンサスを調和することで守るメカニズムが存在している。アジア独自の民主主義を形成する必要があり。それを社会に適応させていく必要がある」と語りました。

 

国会改革で与野党は一生、握手できない?

この意見に小泉氏は、「アジアのコンセンサス作りがすごく難しいのは、価値観が多様化しているからだ。一つのグループ内でも多様化していて、身動きできないこともある」と話しました。一方で、「民主的価値が弱体化していくのを目にして、野党がいるのも民主主義だ。野党がいることの価値を、もう一度、語る必要があるのではないか」と語ります。

 さらに、「今の国会の仕組みを続けていくと、与野党のやり取りはずっとショーになっていく。国会改革で何が難しいかというと、与野党が握手できないこと」と指摘。根本的改革を成し遂げるためには、成功体験を作ることで、山の頂に上るには、まず一歩を進めなければいけない、と与野党が課題解決に向けて協力する必要性を説きます。 こうした小泉氏の見解に対して、共に国会改革に力を入れている玉木氏は、「ペーパーレス化、一つできなかったら先に進めない。時々、政権交代できること、それが実のある改革につながる」と指摘。その上で、「まず野党の私たちが力をつけなければいけない。今後の党運営では、国民の声を聞くメカニズムが大切で、多様な民意をくみ上げる仕組みの再構築の能力が問われる」と話すのでした。

 

最後に工藤から、日本が直面する課題を解決していく中で、政治や政党の役割はどうなっていくのか、と投げかけれた小泉氏は、有権者と話をする中で、「きっと政治は何とかしてくれる」と思って、政治を頼ってくれる有権者が大勢いることを紹介。

その上で、「政治が国民を信じなければ、国民は政治を信じない。さらに、メディアを含めたいわゆる政治コミュニティが変わっていくことが大切ではないか」と語り、政治コミュニティの住人一人ひとりが、もう一度、民主主義や政治を考えていく必要性を指摘しました。

こうした議論を受けて工藤は、民主主義を考えていく上で、我々、有権者自身が問われている局面であるということを実感したと同時に、世界で始まっている民主主義を考えるという舞台を、きちんと日本にもつくっていく必要性を感じた。そのために、言論NPOは汗をかいてきたいと思う、と決意を表明し、第一セッションを締めくくりました。

セッション2 「アジアの民主主義の目指すべき姿とは」

YKAA3707.jpg

panerist_22_2.jpg

続く第2セッションでは、「アジアの民主主義の目指すべき姿とは」をテーマに議論を行いました。

この第2セッションでは、アジア各国のパネリストは第1セッションから引き続きの参加となり、日本からは小泉、玉木両議員に代わり、近藤誠一氏(近藤・文化外交研究所代表、元文化庁長官)と本名純氏(立命館大学国際関係学部教授)が新たに議論に加わりました。

第1セッションの議論で浮き彫りとなった民主主義の危機的状況を踏まえ、工藤は「民主主義の未来を守るため、我々民主主義国家は何をすべきか。そして、どのように連携すべきか」と各氏に問いかけました。

今こそ民主主義の優位性を証明する必要がある

ウィラユダ氏はまず、「非民主的な中国の国家運営が人々の生活水準を一気に引き上げたため、これを手本とする国が出始めている」とし、現在の民主主義国家は中国を中心とした権威主義国家との競争に直面していると指摘。そうした状況の中では、民主主義の高尚な理念をひたすら説いたところで逆に反発を生むだけであるため、「権威主義よりも民主主義の方が人々の生活をより良くすることができる」ということを証明することが大事だと主張しました。

各国の連携のあり方についても、民主主義に基づく生活改善の成功例・失敗例を共有すべきであるとし、自身が2008年に立ち上げた「バリ民主主義フォーラム」もそうした場になっていると説明。さらに、この「アジア言論人会議」も、各国が経験を持ち寄る場として最適であると高く評価しました。

その上でウィラユダ氏は、「バリ民主主義フォーラム」が「アジアにおける民主主義の普及」を目的として掲げていたにもかかわらず、むしろアジアの民主化が後退している現状を踏まえ、「民主主義は一歩進んで二歩下がるもの。大事なのは常に地域共通のアジェンダとし、連携を深め続けていくことだ」と現状を嘆かずに粘り強く取り組んでいくことの重要性を説きました。

 

「アジア型民主主義」に向けた連携を

アキノ氏はまず、民主主義を「振り子のように揺れ動くもの」と表現。政府に権限を集中しすぎたために汚職が頻発し、その対策として三権分立を進めたフィリピンの経験を振り返りつつ、このように「揺れ動く中で改善し続けるしかない」と語りました。

一方、自国の強権的なロドリゴ・ドゥテルテ大統領への向き合い方に関しては、政治家任せではなく国民各自が「自分がガバナンスの中心にいる」という自覚が必要であるとすると同時に、各国のネットワークを強め、その助けによって民主主義の基盤を固める必要があるとし、連携の必要性を強調しました。

もっとも、ここでいう民主主義とは欧米のモデルそのものではなく、「アジアに合うようにカスタマイズすべき」とも主張。例えば、欧米の裁判では弁護士の果たす役割は大きいが、フィリピンの貧困層ではなかなか弁護士に依頼できない現状を挙げ、基本的な枠組みは残しつつも、「民主主義にアジア独自の修正を加えるべき」との見解を述べ、そのためにもやはり各国の連携が必要と語りました。

 

求められるのは尊厳ある政治

これを受けて本名氏も、欧米型民主主義の限界が見える中、アジアの新しい民主主義モデルが登場し、「民主主義のサバイバルが始まる」と予測。ただ、そうした中でも不可欠なのは「dignity(尊厳)ある政治」や「寛容」であるとし、これをメインストリームとしていくためのネットワークをアジアで張りめぐらせる必要があると強調。それができなければ、ポピュリズムの言説に既存の政治が抵抗できず、やがて個人、とりわけマイノリティの尊厳が侵される悲劇を引き起こすと警鐘を鳴らしました。

その上で本名氏は、今回の「アジア言論人会議」に参加した日本・インドネシア・マレーシア・フィリピンの4カ国がいずれも島国ないし半島国家であり、アジア大陸、とりわけ中国との地理的距離感があることに着目。こうした共通の状況を有する4カ国が独自のネットワークを形成することの意義を提示しました。

ヴィラリン氏も、世界各地で人々の不安につけ込み、憎悪をかき立てるような政治が横行する状況の中では、人々の本当のニーズにきちんと共感した、尊厳ある政治が求められていると主張。

一方で、権威主義の特徴として男尊女卑が著しいことなど個人の尊厳を軽視することを指摘。その上で、今月のアメリカ中間選挙では女性当選者が過去最多となったり、全米初のLGBT(性的少数者)の州知事が誕生したことなどから、「人間の尊厳を侵す政治に対する反発は必ず起こる」とし、ここに民主主義の逆襲の目はあるとの認識を示しました。

そして、アジアではすでに各国議員で構成される人権擁護に関するネットワークがあることを紹介。こうしたネットワークを市民社会レベルでも構築していくべきと語りました。

 

「相互尊重」と「寛容」をいかに守るか

スフィアン氏は、マレー系、中華系、インド系などから構成される典型的な多民族国家であるマレーシアの経験を踏まえ、「相互尊重」と「寛容」を民主主義における重要理念として提示。そして、こうした価値を破壊しようとするポピュリストの言説にいかに対抗していくかが今後重要な課題となると語りつつ、そのためには法の支配を徹底することや、単なる多数派支配ではなく、少数派にも配慮した立憲民主主義の原点に立ち返ることの必要性を指摘。これは各国共通の課題である以上、やはり連携は不可欠であると述べました。

SNSに起因するリスクにどう対応すべきか

ワヒド氏は、「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)大国」であるインドネシアの視点から問題提起。SNSは閉じられた世界の中で、「自分の見たいものしか見ない」傾向を助長すると解説しつつ、それは政治的な意見に対しても同様であると指摘。自分とは異なる意見、特に対立する政党の意見に対しては目を向けようとしなくなるため、これが社会の分断や非寛容を生む要因になっていると分析。こうした問題は今後ますます民主主義にとって大きなリスクになっていくと予測しつつ、各国共通の課題であると語りました。

日本が果たすべき役割

次に工藤は、民主主義を守るため、日本は何をすべきか、アジア各国は日本にどのような期待をしているのかを尋ねました。

近藤氏はまず、民主主義を車、国民を運転手に喩え、「国民が適切に民主主義を運転できなければ事故を起こしてしまう」とし、国民の意識改革や教育の重要性について論究。その上で、日本の民主主義の状況について、欧米のような深刻な危機には至っていないとの認識を示しつつ、アキノ氏が言うところの「振り子」が振れすぎないように専心する必要があると指摘。民主主義の高尚な理念を上から目線で説くことよりも、安定的に民主主義を「運転」している姿を、アジアの若い民主主義国家に見せていくことこそが日本の役割であると語りました。

ワヒド氏は、混乱の最中にある国にとっては手本となる国が必要であり、アジア各国にとってはそれがまさに日本であるとし、ウィラユダ氏もこれまでアジア各国の民主主義国家は連携に消極的であったが、現下の危機にあたっては「民主主義のベテラン」である日本の果たす役割は大きいと期待を寄せました。

スフィアン氏は、海上安全保障や気候変動など、日本がすでに様々な分野で進めている「能力構築支援(キャパシティ・ビルディング)」に言及し、これを民主主義分野でも進めていくことに期待を寄せました。すでに欧米の財団などから様々な支援はあると紹介しつつも、「欧米のアドバイスよりは、同じアジアの国である日本のアドバイスの方が受け入れやすい」とアジアという枠内での協力関係構築の意義を強調しました。

議論を受けて最後に工藤は、「民主主義の価値を守るためこれからも汗をかいていきたい」と今後に向けた抱負を述べつつ、前日の「言論NPO設立17周年記念フォーラム」と合わせて2日間にわたる民主主義対話を締めくくりました。

2018年11月23日

・将来への不安・民主主義は機能しているか・改革の方向は-言論NPO世論調査結果

 2018年11月21日、設立17周年を迎えた特定非営利活動法人・ 言論NPOは、2018年9月に実施した日本や世界の民主主義に関する世論調査結果と、先日実施しました有識者調査の結果も併せて公開いたしました。
今回の調査結果から、日本の社会では民主主義自体に根強い信頼があることが明らかになる一方で、代議制民主主義にとって必要な「国会」や「政党」、「メディア」への信頼が低下していることが明らかになりました。

 調査結果の詳細は以下の通り。

1.日本の将来をどのように見ているか

まず、日本の近い将来を予測してもらったところ、「今と変わらない」(34.2%)との回答が最多となるが、「今よりも悪くなる」との回答も32.8%にのぼり、両方の回答が3割を超えて拮抗している。「今よりもよくなる」は10.3%と1割にすぎない。

一方、有識者では、「今よりも悪くなる」との回答が45.3%で最多となり、「今と変わらない」(34.9%)で続いている。「今よりよくなる」は14.0%にとどまっている。

1.png

2.不安の要因

次に、11の課題を提示した上で、どれに対して不安を感じているかを回答してもらった。

その結果、「不安(「とても」と「ある程度」の合計、以後同様)」という回答が最も多かったのは、「年金・医療などの社会保障」の91.6%だった。これに「急速な高齢化と人口減少」の89.5%が並びかけている。以下、「犯罪」(81%)、「財政破綻」(73.1%)、「政治のあり方」(72.9%)、「経済危機」(72.4%)、「経済的不平等」(71.1%)までが7割を超えている。「不安」という回答が最も少なかったのは、「メディア報道の質」だったが、それでも54%と半数を超えている。

有識者の中では、「急速な高齢化と人口減少」との回答が91.9%で最多となったものの、「地方の将来」との回答が91.3%と拮抗している。これに「年金・医療などの社会保険」(88.9%)、「政治のあり方」(88.3%)が続いている。

一方、世論調査で「不安」が最も少なかった「メディア報道の質」との回答は、有識者では84.3%となっており、異なる傾向が出ている。

2.png

3.自国の民主主義は機能しているか

日本の民主主義が「機能している(「どちらかといえば」を含む、以後同様)」と考えている日本国民は、59.9%と6割近い。今年の5月から6月に行われた調査では、「機能している」は43.2%だったが、約3カ月で17ポイント増加したことになる。

有識者調査では、日本の民主主義が機能しているのか、その満足度について尋ねたところ、「満足していない(「あまり」「全く」の合計)」との回答が54.7%と5割を超えた一方、「満足している(「ある程度」を含む)」との回答は42.5%にとどまった。

3.png

4.民主主義体制を支えるどの機関を信頼しているのか

民主主義体制下においては、それを支える役割を果たす様々な機関や組織が存在する。そこで、その中でどのような機関、組織を信頼しているのかを質問した。

その結果、日本国民が最も「信頼している(「とても」と「ある程度」の合計、以後同様)」機関は、「自衛隊」であり、83.9%の人が信頼を寄せている。5~6月調査の72.8%からも11ポイント増加している。これに「警察」(73.2%、5~6月:67.1%)、「司法・裁判所」(71.1%、5~6月:65.7%)が続く構図はこれまでの調査と同様である。

逆に、日本国民が最も「信頼していない(「全く」と「あまり」の合計)」機関は、「宗教団体・組織」(70.6%、5~6月:66.9%)である。これに「政党」(66.3%、5~6月:71.2%)、「国会」(61.9%、5~6月:67.4%)、「政府」(56.8%、5~6月:61.2%)、「メディア」(53.3%、5~6月:55.5%)、「首相」(52.5%、5~6月:57.4%)までが5割を超えている。

有識者調査も世論調査と同様に、「信頼している」との回答が最も高いのは、「自衛隊」(73.2%)で、「警察」(69.2%)、「司法・裁判所」(68.0%)が続いている。
逆に、最も「信頼していない」機関は「宗教団体・組織」(77.3%)で、「政党」(71.5%)、「国会」(69.2%)、「労働組合」(65.7%)、「メディア」(62.8%)までが6割を超えている。

4_1.png

4_2.png

5.政党に課題解決を期待できるか

9月調査ではこれに関する設問を盛り込んでいないため、5~6月調査の結果を再掲する。日本が直面している課題の解決を、政党に「期待できない(「どちらかといえば」を含む、以後同様)」という日本人は59%(昨年58.7%)と6割近く存在している。有識者調査でも「期待できない」(65.1%)との回答が6割を超えた。

「期待できる(「どちらかといえば」を含む)」は18.1%にすぎず、しかも昨年の22.5%から減少している。一方、有識者の3割を超える人が「期待できる」(33.0%)と回答しており、世論調査よりも割合としては高い。

それでは、なぜ「期待できない」のか、その理由を尋ねたところ、「選挙に勝つことが自己目的化し、政治家が課題解決に真剣に向かい合っていない」(38%)と、「政党が政策を軸にして集まっておらず、選挙に勝つための野合に過ぎない」(37.1%)の2つが並んでおり、当選すること自体を目的化している政党と政治家の姿勢に対して厳しい目が向けられている。また、「政党の選挙公約が形骸化し、国民に向かい合う政治が実現していない」も30.8%と3割を超えている。

5.png

6.民主主義を発展させるために重要視すべき価値

日本の民主主義を発展させるために最も重要視すべき価値を3つ選択してもらったところ、最も回答が多かったのは、「基本的人権の保障」(34.9%)である。これに「公正・公平な社会・政治制度」(33.4%)、「経済発展、経済的豊かさ」(30.3%)、「社会、秩序の安定」(29.9%)、「経済的平等」(27.2%)が3割前後で続いている。

なお昨年調査では、「民主主義を構成する要素で何が最も重要か」という設問において、単数回答で選択してもらったところ、「公正・公平な社会・政治制度」(19.8%)、「基本的人権の保障」(17.1%)の順であった。

6.png

7.民主主義を機能させるために、改革が必要な部分

次に、日本の民主主義をより機能させるために、どの部分の改革や立て直しが必要となるのかを尋ねた。その結果、「議会/国会」が63.3%で最も多く、これが突出している。次いで、「行政」(41.3%)、「政党」(32%)、の順となっている。

これに対して、有識者の最も多くの人が「議会/国会」(59.9%)の改革や立て直しが必要だと回答しているのは世論調査と同じだが、これに続くのが「政党」(54.7%)、「メディア」(51.7%)で5割を越え、「選挙制度」(42.4%)、「市民社会」(40.7%)が4割を超えるなど、世論調査に比べて、分散傾向にある。

7.png

8.自由・平等か、国や社会の安定か

民主主義の価値は、個人の自由と政治的平等が保障されることである。一方で、自由や政治的平等よりも国や社会の安定を重視する声もある。そこで、今回の調査ではどちらを重視するかを尋ねた。 その結果、「国や社会の安定」が42%で、「個人の自由と政治的平等」(31.4%)を上回っている。

一方、有識者では「国や社会の安定」は29.7%にとどまり、「個人の自由と政治的平等」(63.4%)との回答が6割を超え、世論調査とは異なる傾向を見せている。

8.png5_2.png

9.世界の民主主義の状況をどう見ているか

現在の世界の民主主義の状況をどのように見ているか尋ねたところ、「民主主義における問題は頻出しているが民主主義の価値自体が否定されたわけではない」との見方が30.5%(5~6月:33.2%)で最も多い。これと「一部の国・地域を除いて、世界の民主主義は盤石である」の7.9%(5~6月:10.1%)を合計すると4割近くが楽観的に見ていることになる。有識者調査でも最多の回答は「民主主義における問題は頻出しているが民主主義の価値自体が否定されたわけではない」となったが、その割合は51.2%と半数を超えた。

これに対して悲観的な見方は、「ポピュリズムの傾向や権威主義が台頭し、民主主義は明らかに後退局面を迎えている」(7.2%、5~6月:6%)、「民主主義は多くの国で十分に機能しておらず、民主主義に懐疑的な見方が高まっている」(15.1%、5~6月:10.2%)の2つを合計しても22.3%と2割程度である。ただ、その割合は3カ月前から増加している。さらに、「わからない」という人も39.2%(5~6月:39.8%)存在している。

一方、有識者では、30.8%が「ポピュリズムの傾向や権威主義が台頭し、民主主義は明らかに後退局面を迎えている」と回答し、「民主主義は多くの国で十分に機能しておらず、民主主義に懐疑的な見方が高まっている」(14.0%)を加えると、悲観的な意見も4割を超えている。

9.png

10.民主主義の今後

民主主義の今後について予測してもらったところ、「わからない」と判断しかねている人が39.2%(5~6月:34.7%)おり、これが最も多い。

ただ、「民主主義は様々な問題に直面しているが、人権や政治的な平等など民主主義を支える中心的な価値自体を否定する大きな流れにはならない」も39%(5~6月:35.9%)と4割近く、これと「民主主義に代わる仕組みはなく、民主主義は今後も世界の中心的な制度として機能する」という見方の13.8%(5~6月:17.7%)を合計すると、民主主義という政治システムが今後も存在し続けると考えている人は52.8%と半数を超える。

これに対し、「ポピュリズムが一般化し、民主主義は信頼を失い、後退していく」(3.1%、5~6月:3.1%)、「民主主義はすでに魅力的な仕組みではなく、権威主義の台頭など民主主義とは異なる統治制度が増える」(4%、5~6月:2.6%)という民主主義の衰退・滅亡を予測する見方はそれぞれ1割に満たない。

有識者では、「民主主義は様々な問題に直面しているが、人権や政治的な平等など民主主義を支える中心的な価値自体を否定する大きな流れにはならない」(55.8%)との回答が半数を越え、「民主主義に代わる仕組みはなく、民主主義は今後も世界の中心的な制度として機能する」(15.1%)が続いている。

10.png

11.民主主義は好ましい政治形態なのか

民主主義は好ましい政治形態といえるのか、その評価を尋ねたところ、「民主主義は望ましい政治形態ではない」という回答は3.7%にすぎなかった。

ただ、「国民が満足する統治のあり方こそが重要であり、民主主義かどうかはどうでもいい」が32.2%で、「民主主義はほかのどんな政治形態より好ましい」の32%を上回っている。さらに、「わからない」の31.8%も合わせると、非民主的体制を容認したり、民主主義に対して確信を持つことができていない人の割合は6割を超えることになる。

有識者調査では、「民主主義はほかのどんな政治形態より好ましい」との回答が7割を超え突出しており、「民主主義は望ましい政治形態ではない」との回答は0.6%にすぎない。

11.png

12.強い政治リーダーは必要か

現在、国際秩序の不安定化の中で、強い政治リーダーを国民が求める傾向にある。そこで、日本の政治指導者のリーダーシップのあり方について質問した。

その結果、「あくまでも民主的なプロセスを重視し、その中でリーダーシップを発揮すべき」という回答が46%で最も多いが、昨年の56.1%からは10ポイント減少している。逆に、昨年から10ポイント増加したのは「わからない」(29.2%、昨年:19.6%)で、政治リーダーのあり方を判断できていない日本国民が増加している。

もっとも、「自国の経済や社会がより発展するのであれば、多少非民主的でも強いリーダーシップを持っても構わない」という回答は20.4%であり、昨年(21%)から変化は見られない。

一方、有識者の7割を超える人が「あくまでも民主的なプロセスを重視し、その中でリーダーシップを発揮すべき」(72.1%)との回答が突出しており、「自国の経済や社会がより発展するのであれば、多少非民主的でも強いリーダーシップを持っても構わない」(15.7%)、「強いリーダーシップこそが重要であり、民主的であるかどうかは重要ではない」(1.2%)は合わせても2割に満たない。

12.png

13.アジアの民主主義国家はどこか

最後に、アジアの中で民主主義国家だと思う国を選択してもらった。

その結果、最も多いのは自国「日本」の64.3%で、これが突出している。ただ、これに次ぐのは、事実上一党独裁体制を敷き、建国の指導者一族が支配し、報道・言論の自由などが広範に制限されている「シンガポール」の21.4%であり、「韓国」(19.6%)よりも多かった。

有識者も最多となったのは「日本」で82.6%で8割を超えた。これに続く形で、「韓国」(48.3%)、「マレーシア」(47.7%)、「インド」(46.5%)が4割を越え、「シンガポール」(37.2%)、「フィリピン」(36.6%)、「インドネシア」(34.3%)が3割を超えて続いている。

13.png

調査の概要

0.png

 

2018年11月21日

・2018年聖書週間(11月18日から25日まで)のテーマは「聖性への招き」

 今年の聖書週間は11月18日から25日まで。テーマは「聖性への招き」です。

 ⇒をクリックしていただくと、教皇フランシスコが今春発表された、すべての信徒への聖性の招きに関する以下の使徒的勧告全文などをお読みになれます。もちろん無料です。ご参考になさってください。(「カトリック・あい)

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」(喜びなさい、大いに喜びなさい)⇒発表

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」全文日本語試訳⇒全文

・(解説)使徒的勧告の5つの要点(America-The Jesuit Review)⇒特集・解説

・(解説)教皇は「今の時が求める『新たな聖性』」を全信徒に求めている(Tablet)⇒特集

・(解説)「聖性は、過ちと失敗の中で必死に前に進む人の中に」(La Civilita Cattolica)⇒特集

・・・・・・・・・・・

◎カトリック中央協議会「聖書に親しむ」

*巻頭言「聖性への小さな一歩」(カトリック大阪大司教区補佐司教・パウロ酒井俊弘)

 あるときシスターに「プロ野球選手の名前を知っていますか?」と尋ねたら、「イチローと大谷選手ぐらいは知っています」という答えが返ってきました。ニュースに登場するほどの選手なら当然知っているわけです。

 大谷選手のすごさは、投手と野手の二刀流で、ベーブルースを超えようかという結果を残しているところにあり、特別な選手といえます。

 ところで、「聖性を目指す」という目標は、特別な人たちだけのためではありません。

 「『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい』(マタイ 5・48)…信者は、おのおのがキリストから受けたたまものに応じてこの完徳を獲得するように努力し、キリストの足跡に従い、その姿に似たものとなり、万事において父のみ心を行いながら、神の栄光と隣人への奉仕に全精力を注がなければならない」(『教会憲章』40)。

 「完全」と聞くと「自分には無理…」と考えるのは当然ですが、請われているのは「努力し…全精力を注ぐ」ことです。高い目標を持つということは、「夢を持つ」ことです。大谷選手は、「投手と野手の両方をする」という夢を持って日々の努力を続けたからこそ、今のような選手になったのです。

 今年 4 月に教皇フランシスコが発表された現代における聖性をテーマにした使徒的勧告『喜びに喜べ-現代世界における聖性』には、私たちがどのように聖性への道を歩むべきかが、具体的に示されています。

 「主があなたを招かれているこの聖性は、小さな行動を通して成長します。たとえば ある女性が買い物中に近所の人と会い話出して、陰口になったとします。でもその人は心の中で言います。『いけない。人のことを悪くいわないようにしないと』。これが聖性の一歩です。今度は家で子どもが、空想の話を聞いてほしがると、とても疲れてはいたものの、傍らに座ってじっと優しく話を聞いてあげます。これもまた聖性をもたらすもう一つのものです。

 そして不安に押しつぶされそうなとき、おとめマリアの愛を思ってロザリオを手に取り、信頼を込めて祈ります。これもまた聖性のもう一つの道です。そして今度は通りに出て、貧しい人に気づくと、立ち止まって優しく話をする。これもまた別の一歩です」(同勧告 16)

 教皇フランシスコは、イエス様自身の模範も示してくださっています。「小さなことにも心を配るようにと、イエスが弟子たちにどれほど促したかを覚えておきましょう。…明け方、弟子を待ちながら炭火を起こし、その上に魚を載せておくという、些細なこと」(同 144)。

 これは、ヨハネ福音書に書かれている復活後のご出現の場面です。何度も読んだ箇所ですが、「そうか、あの炭火と焼いた魚はイエス様が手ずから弟子たちのために用意されたものなのだ」と初めて気づかされました。

 聖書の中のイエス様のようになることが私たちの夢です。その夢の実現のために、聖書を読み、何ができるのかを黙想し、示されたことを実行に移しましょう。それこそが聖性への一歩だと信じて。

*「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(マリア会司祭・青木勲)

 今年のテーマ「聖性への招き」に合わせて選ばれた聖書の箇所は、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ 4・4)です。現代社会に励ましと預言者的回心を呼びかける素晴らしい言葉です。

 励ましという意味は、今日の世相には政治・経済・国際関係、ひいては自然環境に至るまで不平不満をもらしたくなるような要素が多いからです。他方、預言者的回心への呼びかけは「主において」という言葉が持つ特異性にあります。

 それは世がもたらす喜びや幸せに迎合せず、真実と正義に基づく預言者的挑戦と、そこから生じる霊的喜びに根ざしているからです。神の似姿として創られた人間に託された聖性への招きは、すべての値打ちをキリストのうちに復元する「主における喜び」のメッセージだといえるでしょう。

 獄中書簡と呼ばれるフィリピ書は「喜びの書簡」とも呼ばれます。晩年のパウロは、信仰の遍歴を経て到達した霊的喜びの体験をフィリピの共同体と信徒に伝達しようとしています。イエスが世の罪を贖う「救い主」であり、復活したイエスこそがすべての人の「キリスト・主」(2・11)であると明示します。

 キリストのへりくだりの賛歌(2・6 〜 9)と主を知る知識と、その価値の故に「わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしている」(3・8)と言い、朽ちるものから朽ちないものへと昇華した喜びを聖霊の業として示しています。4 章では、差し迫るキリストの再臨と自らの復活を願う信仰の喜びと希望のうちに、毎日を生き抜くことを諭しています。「主」が頭となる時、すべてが一新され、主における喜びが完成するからです。

 「主において喜びなさい」について、ローマ書からも預言者的な示唆を受けることができます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません・・・」(ローマ 12・2)と。経験から推察して、物を所有したり、勝負に勝ったり、立身出世することに幸せを感じます。しかし「〜を持つ」「〜に勝つ」「〜になる」喜びを過大評価すると、他人を「物」に還元し、犯罪行為または反社会的行為に向かわせることになります。

 残念なことに、大企業や有名大学までがその渦中にあります。この世の価値観を絶対視する誘惑の結果です。

 神のみ旨の実現を第一義とする預言者的生き方、つまり世にあって、世のものではない生き方は、特別な人だけの特典なのでしょうか。教皇フランシスコは、聖性に向かう霊的回心は、すべての人に例外なく与えられていると強調しています。その理由は、神の似姿として創造された人間には存在の最初の瞬間から、神の聖性と神の生命の充満による喜びを享受するよう方向付けられているからです。人祖が罪を犯した結果、識別する能力は弱められましたが、神はご自分の愛の証しとして、独り子イエスを世に派遣し、十字架の死と復活を通して決定的な救済策を与えてくださいました。

 パウロは復活したキリストと出会うことによって目が開かれ、自己中心的な生き方から、キリストために生命を捧げるまでの回心の恵みを受けました。「主キリス・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ 8・39)という信仰の喜びをパウロは披歴しています。これはパウロの慢心から出た言葉ではなく、すべて人を招くs信仰告白です。

 聖母マリアも神の前に小さな者であることを自覚しつつ、飢えている人、弱い人への優しさと気配りに徹しました。他方、傲りと権力志向者に向かっては、たくましい預言者の姿でマニフィカトの賛歌において警告しています。聖母マリアは正義と平和と喜びの国のために挺身する人々と共にいつもおられるのです。
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

*みことばを深めるーみことばによって聖なる人に変えられる(大分教区司祭・ 山下敦)

 さまざまな場所で聖書について話す機会をいただきますが、聖書に初めて触れられた方々の感想をよく伺います。「聖書は難しい」という意見はいつもあるものの、「面白い」、「興味をひかれた」などの好印象を持たれる人の方が多いようです。

 聖書は、キリスト教の信仰を持たない人にも、実に多様な形、方法で強い影響を与えています。毎年、世界で一番売れている本は聖書です。まさに、聖書が神のみことばだということでしょう。

 どのように聖書を読めばいいのか、その学び方や研究方法は、聖書が旧約 46 書、新約 27 書を数える膨大なものであるがゆえ、さまざまです。聖書を読みたいと思ってはいても、それに困難さを感じている人や、アプローチの仕方で迷っている方々のために、以下を提案したいと思います。

 聖書全体の通読、つまり、旧約聖書の最初のページから読み進めていくことは、大きな意味があり、とてもよいことだと思いますが、難解な場所にくると続かなくなってしまうものです。事実、特に旧約には難しい部分があります。ですから、好きな場所から読み始めていくのは実践的方法の一つです。

 また、その重要性からいっても、福音書から読み始めるのが、聖書に少しでも触れようと思っている人がなさったらよいことだと思います。一般的に旧約よりもわかりやすい新約の通読を、一度だけではなく、最後までたどり着いたらまた最初からやり直し、数回繰り返せば、新約聖書の全体像がつかめてきます。好きな言葉や疑問点などが明確になってきたところで、聖書解釈には絶対的に必要な旧約の方に入っていくとか、または、講座や研究会などに出席することも、この頃には大きな可能性の一つになっているはずです。

 当たり前のことですが、とにかく読むということが大事です。聖書が本棚の飾り物になってしまわないように。

 教皇フランシスコは新しい使徒的勧告において、すべての人を聖性に招いておられます。「多くの優れた救いの手段に恵まれているすべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、各自自分の道において、父自身が完全にもっている聖性に達するよう主から招かれている」(『喜びに喜べー現代世界における聖性』10、第二バチカン公会議『教会憲章』11 引用)のです。

 すべての人に影響を与えることのできる聖書は、そのための絶対的手段の一つです。わたしたち人間にとって真の喜びは、お金や物、または夢や理想の実現によって得られるのではなく、神が望まれる聖なる人になることによって完成されていきます。わたしたちがみな、みことばによって神の聖なる人に変えられていきますように。

2018年11月11日

・大学紛争から半世紀-カトリックの精神が生きた!-上智大学に見る当時と教訓

 欧米、日本など先進国の大学が紛争の渦に巻き込まれたのは今から半世紀前だ。日本のカトリック大学を代表する上智大学も例外ではなかった。だが、他の多くの大学と決定的に異なっていたのは、外部の過激派勢力が紛争を事実上主導し、破壊的な動きに出たのに対して、大学そして学生の本来の使命を自覚する”良識派学生”たちとカトリック精神を体現する理事長、学長が力を合わせ、大学を荒廃から守ったことだった。

 世界中の政治、経済、社会、そして大学において、「人の劣化」が進む今、当時の大学紛争の高まりの中で大学と学生が「学内の公正な報道」を掲げて創刊した上智大学の大学新聞「上智新聞」創刊50年の2015年12月に発行された記念誌に記録された、半世紀前の上智大学紛争を巡る学生、大学当局の動きから、「あの時」を想起し、多くの方が、改めて教訓を引き出すことを期待したい。

(「カトリック・あい」高橋哲夫・南條俊二)

<半世紀前の大学紛争とは>

  1968年,フランスの学生による”5月革命”に代表される世界的な大学紛争の嵐は、日本にも及んだ。紛争の原因や様相は多様であり,学問,教育研究のあり方,大学の自治への問いかけから,社会体制の変革,国家権力の打倒を目指すなどさまざまだった。東京大学で始まった全共闘運動は1968年から燎原(りょうげん)の火のごとく全国に広がり、国公立大学私立大学の大半が、何らかの闘争状態・紛争状態となった。学生運動は、一部の浪人生や高校生などにも波及し、ピーク時には35都道府県176校に及んだ。

 しかし、過激派のセクト同士の暴力的な対立が激化、1970年代は全国の大学で暴力の恐怖が蔓延し、赤軍派に代表される爆弾や銃による武装のエスカレート、連合赤軍での12名のリンチ殺人事件などが発覚したことで、学生運動は急速にその支持を失っていく。さらに1972年の沖縄返還などにより日本人反米感情が薄れ、日本社会が豊かになるにつれ、学生たちは潮をひくように学生運動から遠のいていったが、多くの大学で学生たちと大学当局、教職員の信頼関係が失われ、優秀な教員が失望して大学を去るなど、荒廃は、校舎の破壊など物理的なものに留まらず、精神的な分野にも及び、後遺症が長く残った。

 そうした中で、物理的な傷を負いながらも、速やかな立ち直りを見せたのが、上智大学だった。

 以下に、上智新聞創刊50周年記念誌「ともに さらなる高みへ-大学紛争の中で生まれ上智発展を支えた半世紀の記録」から、上智大学紛争の発生からその後を、振り返ってみる。

 

<上智新聞に見る上智大学学園紛争の記録>

*1968年6月6日付け・初の号外(手書き)・・1968年11月の全共闘による校舎占拠につながった警察車構内立ち入り、学生負傷事件発生で、初の号外(手書き)を、事件発生の翌日に発行、学生、教職員に注意を促した。

*1968年6月13日付け・号外(手書き)第2号・・警察車立ち入り事件をきっかけに全共闘系学生が組織した「全学共闘会議」について学生会、体育会が認めず、学生内部で対立が明確となり、学内の情勢が緊迫化していることを伝えた。

*1968年11月9日付け・初のタブロイド版号外・・「全共闘1、2、4号館占拠」・・全共闘学生が学外の過激派学生集団と組んで進める大学紛争は、ついに圧倒的多数の上智の学生の反対の中で、”ゲバ棒”で、座り込み学生をけちらして3つの校舎を占拠、授業は不能に。「正当性のないバリケードを直ちに撤去」するよう呼びかけを行った。

*1968年11月14日付け・タブロイド版号外、学長辞任、学生会長選出を速報・・「大泉学長辞任、守屋新学長就任、学生会長選挙は和泉君が対立候補なし無投票で新会長に」全共闘の1、3、4号館封鎖という緊迫した中で、大泉孝学長が12日開かれた緊急理事で辞任、後任の学長として守屋美賀雄理工学部長が就任した・・守屋学長は、就任式で、学生、教職員2千名を前に「学生と教職員の相違を結集して、難局を切り抜けよう」と訴えたが、全共闘は、学長交代は問題解決にならない、と非難のデモを行った、などと伝えた。学内の緊迫した状況を速報で客観的に学生、教職員に伝え、正確な情報の共有に大きな役割を果たしている。

*1969年1月1日付け・全共闘の「少数の暴力」糾弾、バリケード排除を訴え・・1面トップが「代議員会 バリケード排除案、通過 学生会 14日の実力排除を訴え」1面準トップに「生活課健康管理室などを破壊 全共闘、深夜に暴れる」「全共闘 2号館にピケ、授業妨害」などを客観的にニュース報道する一方、

*1月1日付けでは、さらに1面に「論説」を掲載し、次のように上智大学の全学生、教職員に訴えた。

 「11月7日に共闘会議がバリケードを構築してから、すでに1か月以上、多くの学生の積極的な学園変革の努力、バリケード解除要求をよそに、彼らはかたくなに5項目要求大衆団交を主張し続けている。その姿は、彼らの誇りとする『大学の革命』ではもはやなく、少数の暴力をもってする『反革命』でしかない。我々は、共闘会議指導者諸君に、政治目標完遂のためにこの学園を利用し、我々に重大な犠牲を強要している事に強く抗議するとともに・・・彼らにとって真に革命的な運動を再構築していくよう訴える。

 ・・レーニンでさえも、『・・労働者の多数が、完全に革命の必要を知覚しており、そのためには生死を賭ける覚悟があること』を革命の条件として掲げている。現在の上智・・まず革命-暴力を使っての革命-の条件はないし、・・彼らが『誇り』とし、『道義性』『正当性』の唯一の拠り所たる『思想性』についても、実に見事な表現により、自らの手で否定し去っているのである。全共闘の一角をなす革マル系のパンフによれば『イデオロギー闘争の不在ともいえるこの(上智における)闘争内容の空洞化は・・思想的不毛性を端的に自己暴露したものといわねばならない』と述べているのだ。

 ・・このように、方法において、思想性において、全共闘のバリケード闘争は正当性を欠くわけだが、さらにそれを決定的にしているのは、学生要覧改正全学投票の3,366名、バリケード撤去の要求署名の2千有余名、数回にわたって行われた、撤去要求大デモンストレーションに参加した延べ6千名以上の学生の声(注:当時の上智大学の学生総数は7000人程度だった)であり、要覧改正の実現であり、和泉新学生会によって行われつつある・・具体的な着実な学園改革の運動である。

 ・・生活課、医務室、教授館玄関の暴力的破壊、11月7日の時点と全く変わる事のない硬直化したスローガンと『産学協調路線粉砕』の主張・・もはや学園変革運動など一かけらも残っていない・・学生、教職員個々の権利を侵す行為として存在しなくなったのである。バリケードを自らの手で解除し、自らの行為を全学に真摯に自己批判し、学園の民主的変革の運動に加わること、これが今、全共闘諸君に残された最良の道であろう。

 ・・バリケードが解除された時点で、事態をここまで悪化させたことに対し、全学生、教職員、大学当局の真摯な自己批判と、・・各人が学園変革の努力を着実に続けていくことを、はっきりと確認する必要がある、と訴えたい」(上智新聞・論説企画委員長 南條俊二)

<一般紙の報道から>

【上智大学で三校舎占拠】1968年11月8日付け 毎日新聞

 上智大学では7日夜から全学共闘会議の学生約150人が同大一号館、三号館、四号館の三校舎を占拠、バリケードを築いた。学生要覧(学則)にある政治活動禁止条項の撤廃を要求して7月におこなった闘争に対し、大学側が8月23日、学生13人を退・停学処分したことに抗議、大衆団交を要求していたが、7日午後、大学がこれを拒否したため学生側が封鎖に出た。学生会系の学生は8日午後、同大構内のメーンストリートでバリケード反対の集会を開いた。

【全学協議会つくる 学生参加の要求を承認】1968年11月22日付け 毎日新聞

 紛争の続く上智大学の守屋美賀雄学長、ビタワ理事長ほか各学部長は21日午後、約2千人の学生と全学集会を開き、学生側の作成した学生要覧(学則)の改正案を承認した。これにより大学側は全学協議機関の設立による学生の部分的運営参加、学生による課外活動の自主管理など解決の具体策を始めてはっきり打出し、紛争解決への意欲を見せた。

 この日、開会と同時に全学共闘会議の学生が「学生会不承認、ギマン的改正案反対」を叫んでつめかけ、反スト派の学生ともみあったため話合いは一時中断したが、守屋学長は再び演壇に登り「学生要覧は学生側の要求どおり改正を認める。全学協議機関の具体的内容は学生との話合いで決める。処分の白紙撤回はできないが、再調査のための機関をつくる」など大学側の立場を説明、全学共闘会議にも全学集会への参加を呼びかけた。

 しかし占拠を続ける全学共闘会議、この改正案を拒否、全学集会もボイコットしており、解決までにはまだ時間がかかりそうだ。学生会と大学当局との全学集会、そして大学側による学生会の学生要覧(学則)改正案の承認とバリケード解除に向けた動きが続くが、全共闘はバリケード封鎖を続ける。

【上智大 六百人衝突 バリケード排除めぐり】1968年12月14日付け 読売新聞

 上智大学で、14日正午すぎ、バリケードを実力で排除しようとする一般学生と全共闘の学生が構内広場で衝突、一般学生の一人が角材で頭を割られるなどケガ人数人が出た。この日、午前11時から同広場で一般学生約3千人が集会を開き、「正午までに封鎖を解除しなければ実力で排除する」と決議。

 全共闘へ通告したが応じなかったため、午後0時15分、ヘルメットを被った50人の学生を先頭に一般学生4,5百人が、角材で武装する全共闘約100人のピケへ突っ込み、こぜりあいを続けている。

【上智大 六か月の“閉鎖”発表 警官隊が出動 占拠排除 五十二人逮捕】1968年12月21日付け 読売新聞夕刊一面トップ

 この朝、警官隊立ち入りに対し、占拠している反帝学評派を中心とする全学共闘会議派80人は、1号館から激しい投石を浴びせて抵抗、機動隊も催涙ガス弾百発を撃ち込むなど、約30分間にわたって〝攻防戦〟が続けられたが、結局、同7時20分、抵抗した52人全員が建造物侵入、公務執行妨害現行犯で逮捕された。このさい機動隊員3人と学生1人がケガをした。同大学では、事後対策として、当日は休講、あす22日から冬季休暇にはいるほか、向こう6か月間大学を閉鎖することを決めた。

 同大学が、大学閉鎖という思い切った措置をとったのは、警官隊を導入して紛争が解決した大学はこれまで、国際基督教大学と佐賀大学の2例しかなく、事後対策を誤れば、たとえ授業を再開しても、再びスト派によって校舎が占拠され、東大のような事態を招き、入試などに影響が出るものと判断したためとみられている。・・上智大学が全国でも例のない6か月間閉鎖という強硬策をきめたのは、校舎が封鎖され、ヘルメット姿の学生が白昼でも学内で角材を持ち歩くなどの異常事態が続いているのに、一般学生が不自然を感じなくなったのを恐れたため。

【突入の機動隊に〝声援〟 上智大 一般学生、寮の窓から】1968年12月21日付け 読売新聞夕刊社会面トップ

 夜が白々と明けたばかりの午前6時半、守屋学長を先頭に教授陣がまず裏門から学内にはいり、『諸君、やむを得ず警官隊を導入します。直ちに退去してください』とメガホンで、校舎占拠中の学生に呼びかけた。ところが、校舎から飛び出してきた約20人の学生たちにたちまち取り囲まれ、有無をいう間もなく学外へ追いやられてしまった。学生たちはそのまま裏門にすわり込んでピケを張った。同学長は憤然としたおももちで、『そこをどきたまえ、退去したまえ』と声を張り上げる。『うるせー、引っこめ』という学生のば声。続いて機動隊がどっと学生を取り囲み、たちまち学外へ引きずり出した。

 裏門わきの学生寮は、眠りを破られた一般学生が、寮から顔を出し、成り行きを見守っていたが、機動隊が学内に突入するとどっと拍手が起きた。こんな現象はこれまでのあらゆる大学紛争ではみられない光景だった。『機動隊がんばれ』『スト派をやっちまえ』という一般学生〝声援〟を背に受けて、機動隊はスト派が占拠している1 3 4号館へ殺到。スト派学生は窓を破って投石の準備。たちまち石の雨。それに混じって硫酸らしい薬品のはいった茶色のビンも飛ぶ。表門からも機動隊と警備車が突入、校舎は包囲された。学生の投石が激しいため、午前7時半、各隊に催涙ガス弾発射が指令され、学生がたてこもる部屋はみる間に白煙に包まれて、投石も散発的になった。

 警官死亡事故にこりた警視庁の“宝刀”のガス攻めが、ここでも抜かれた。この間げきを縫って、機動隊が校舎に突入、学生を1号館の一室に追いつめ、つぎつぎ逮捕、約30分にわたる攻防戦が終わった。8時ごろになると、登校してきた学生が次第にふえはじめた。スト派シンパや民青系の学生約百人は「機動隊帰れ」のシュプレヒコールを繰り返したが、すぐ学外へ押し出された。大学当局が雇った作業員たちが、門を閉鎖したため、裏門付近はたちまち学生たちで埋まってしまった・・。

 機動隊の導入による占拠学生排除の報に、午前中からぞくぞくと学生が登校、グラウンドのあちらこちらで輪をつくった。機動隊導入反対のジグザグデモを続ける〝活動家〟たちを横目で見ながら、話題はどこも機動隊=閉鎖という解決方法の是非。「あらゆる手段をつくした上で、機動隊導入はやむを得ない」といい切る賛成論、「もう少しほかに手段はなかったか」と反対論。グラウンドの意見は二つにわかれて、真剣な討論が続いた…。

 

<当事者の証言>

[上智大学はカトリック精神の”上智方式”で紛争を乗り切った]紛争時の上智大学理事長・ヨゼフ・ピタウ大司教(故人)

 上智大学が、日本中、いや世界中で燃え始めた大学紛争に巻き込まれたのです。

 理事長に就任して間もない1968年初夏のことでした。学生の課外活動部室で盗難事件があり、構内に警察車が入って捜査したのに対して、多くの大学で反体制の闘争を繰り広げていた全学共闘会議(以下全共闘)系の学生が「官憲導入反対」を叫んで、構内でデモを繰り返し、講義棟を占拠し、上智でも大学紛争が始まったのです。彼らの掲げる標語は「日米安保粉砕」「ベトナム反戦」など、特定の政治団体の政策と連動するようになり、他大学の全共闘系学生も呼び込んで、政治化の様相を強めていきました。

*学長交代、全共闘系学生による講義棟占拠、そして機動隊の封鎖解除

 講義棟の占拠は秋学期に入っても続き、さらに大学の中心部にあたる建物へと占拠が拡大する中で、高齢で体調の優れない大泉孝・学長が辞表を出される事態になりました。突然のことで当惑しましたが、大学は危機的な状況にあり、ポストを空席にしておくわけにはいきません。理工学部長として大泉学長や学生部長に協力し、事態解決に努力を続けておられた守屋美賀雄先生に、学長就任をお願いし、奥さまともご相談の上、お受けいただきました。

 学長就任式は1968年11月13日、構内のメインストリートで、全共闘系の学生たちのデモと罵声が渦巻く異常な状況の中で行われましたが、守屋新学長は、多くの良識派学生たちに見守られながら、大学改革を学生、教職員とともに進めることで事態の根本的解決を図る決意を示されました。最後に「前進、前進」と力強く呼びかけられ、私たちに勇気と希望を与えてくださったのです。

 私と守屋学長の大学を守り、育てようとする努力、学生会長(他大学の自治会長に相当)や代議員会議長など学生の協力を得て、大学改革が進められ、大部分の学生が支持していない講義棟占拠を解くようにとの説得も学生会を中心に続けられました。

 しかし、いったんは自主解除の方向に傾いた占拠学生の内部で対立が深刻化し、さらに、学生会が全学生の8割を超える6千人以上の参加を得て実施した自主解除を求めるデモに、全共闘系学生が占拠中の建物の屋上から石やアンモニア水を投げつけ無防備の学生たちを傷つけるに至って自主解除を断念。12月21日、やむなく警視庁にお願いして、機動隊による封鎖解除に踏み切りました。

 機動隊の導入には、教員の中に難色を示す意見もありましたが、大学構内といえども暴力を放置することはできません。民主主義のルールによって警察に排除をお願いすることに何のためらいもありませんでした。このような判断に、ハーバード大学で政治学を学んだことも役に立ちました。

 ・・平和的な解決に努め、それが無理となった段階で、大学当局の要請で機動隊が出動し、学生も教職員も機動隊員も誰一人傷つくことなく、封鎖が解除され、大学に平和が戻った―。このような対応は、マスコミなどでも「上智方式」として好意的に受け止められ、その後の他大学の紛争への対応に少なからぬ影響を与えました。

*3か月半の閉鎖を経て講義再開

 封鎖が解除されてから3か月半の間、大学構内を全面閉鎖して臨時休業とし、破壊された講義棟などの修復、大学運営の立て直しの期間にしましたが、守屋学長は、休業中に多くの委員会を組織して改革案を検討し、学生の意見を入れることを確約しました。入学試験も卒業式も会場は通常どおりとはいきませんでしたが、無事行われ、閉鎖開始から108日たった1969年4月7日の入学式後、学生会の要請を受ける形で、閉鎖が解除されました。

 全共闘系学生による大学紛争は東京大学など都内の大学から、近畿圏はじめ全国に広がって行きましたが、上智大学での運動は徐々に消滅し、構内は平静さを取り戻していきました。全国規模に及んだ大学紛争で、多くの大学では、教員が学内の現状に失望して大学を去ったり、学生が中途退学したりするケースが続出しましたが、上智大学ではそのようなケースはほとんどなかった。

*荒廃避けられた裏に良識派学生の働き‥背景にカトリック精神が生きた

 上智大学が後に長く残るような打撃を受けず、速やかに立ち直り、順調な発展を続けることができたのは、「自分たちの愛する学問の府を特定の学生集団による破壊から守らねばならない」と決意し、大きな犠牲を払いながら活動を続けた、良識派の学生たちの存在があったからでした。

 彼らは、私や守屋学長がポストにつく以前から、学内に徐々に強まってきた反大学当局、反体制の政治的で破壊的な動きに危機感を持ち、全共闘系の学生の集団に対抗して、大学を学問の府として守り、育てることを目的としたグループを、私の教え子だった上智新聞編集長の南條君などが中心になって作っていったのです。

 そして、全学生の意思決定機関である代議員会に圧倒的多数を送り、さらに他大学では自治会と言われていた学生会の会長選挙で全学生のリーダーにふさわしい人物として、和泉法夫君(前ソフィア会会長)を候補に立てて戦い、勝利した。守屋学長や私たちと力を合わせ、紛争を乗り越え、新しい学問の府にふさわしい新生上智大学を実現していった。

 このような学生の主体的な動きは、ほかの大学にはほとんど見られない、日本全国で起きた大学紛争の中で特筆すべきものでした。そして、この動きの背景に、上智大学がカトリックの大学であり、イエズス会士で司祭である教員たちの多くが、日頃から学生たちに対して、ひとりの人間としての付き合いを心がけてきたこと、それによって教員と学生、学生同士の間で人間的な絆が育っていたことも、大きかったのではないでしょうか。

*「上智新聞」が果たした大学の歴史に残る役割

 もう一つ、他の大学との際立った違いは、大学新聞が、学生や教職員に適切な判断と対応を可能にするための公正な情報を提供し続けたことでした。私が上智大学に赴任した当時の学内新聞は「上智大学新聞」一紙でした。

 三菱商事の社長、会長を歴任し、同窓会であるソフィア会長を長くお勤めになった諸橋晋六さん(故人)たちが創刊し、当時20年以上の歴史をもつ学生新聞でしたが、全共闘系の学生たちの〝宣伝紙〟のようになっていて、反大学当局、反体制の動きをあおる一方的な記事ばかりが目立ちました。

 学内ではそれ以外に定期的に活字情報を提供する手段はなく、「このままでは学生や教職員が誤解と相互不信を掻き立てられ、バラバラになってしまう」。そのような懸念を抱いた元上智大学新聞編集長で当時上智大学職員だった赤羽孝久さんや先の南條君など有志学生、それに元理事長のクラウス・ルーメル教授が後ろ盾になって、1965年秋、学生、教職員など全上智人のための公正、客観を旨とする学内新聞「上智新聞」を創刊したのです。

 後で聞いた話では、創刊当初、全共闘系学生たちに新聞が奪われて燃やされたり、「大学当局の回し者」などと批判され、口には出せないような苦労を強いられたようです。そうした圧力に屈することなく、立派に公正な学内報道機関の役割を果たし続け、良識派学生や教職員を結集して紛争を乗り越え、大学を新たな発展につなげることに貢献してくれました。(2012年12月26日・上智大学出版発行「ヨゼフ・ピタウ自伝・イタリアの島から日本へ、そして世界へ」より引用)

[「上智方式」は大学当局と学生、教職員、上智新聞の努力の成果]大学紛争時の学生会会長・和泉法夫(元ソフィア会会長)

 上智大学紛争を知る教職員が他界していく中、当時学生会長として渦中にあった者として、紛争時の重要な出来事についてその背景を含めて、述べさせていただきます。

 それは、1968年12月上智大学紛争を終結させたピタウ理事長と守屋美賀雄学長(いずれも故人)による機動隊導入・ロックアウトの決断です。当時、警視庁警備部の警備第一課長だった佐々淳行氏は後に、「上智大学の機動隊導入の決断がその後の東大をはじめとした全国の大学の学園紛争を収束させた」と語り、このことから、「上智方式」が、弱腰だった全国の大学当局者の決断につながった、という見方になりました。

 しかし、実際には、機動隊導入決断に至る過程に、他大学とは「似て非なるもの」があったのです。それは、問題解決に最善を尽くそうとする学生、大学首脳、教員、職員の並々ならぬ努力でした。

 上智大学紛争は、当時の旧態依然とした大学の規則(学生要覧等)に対して学生の不満が蓄積し、全国の大学紛争の風潮と重なって、「全共闘」と称する一部過激派学生による校舎のバリケード封鎖につながっていきました。

 他大学と大きく違っていたのは、本学では一般学生(セクトや民青のような政治グループに属さない学生)の間に自治意識が高く、全学科の代議員で構成する代議員会が機能して活発な活動がされていたことです。全学生の直接投票による学生会長選挙が存在したことも一般学生の参画を促し、大学当局も学生会を学生の代表として認め、カリキュラム改革はじめ様々な改革を共同で進めることが可能となりました。

 大学の規則に対しては、学生が提起した学生要覧改正案を全学生投票の結果、圧倒的多数で可決し、大学当局がこれを受け入れるという成果もあげ、上智大学の学生と教職員の共同作業で大学改革は進んでいました。

 当時の上智新聞も、公正な報道で重要な役割を演じました。上智新聞が創刊される前には学生新聞として「上智大学新聞」が存在していましたが、セクトの広報紙に成り下がり、それが上智新聞創刊のきっかけになった。上智新聞は、一般学生にとって学内の動きや様々な主張を知ることができる唯一の公正なメディアとして学生の問題意識の醸成に大きく貢献したのです。

 代議員会では、非合法にバリケードを構築した全共闘に対して「バリケード封鎖は、大多数の学生の支持の無い、正当性を欠いたものであり、学生の活動に重大な損害を与えている」として、全共闘に対し、ただちに撤去を求める決議をし、さらに全共闘が決議を無視して占拠を続けたため、「学生の手によるバリケード排除」を決議して行動に移しました。

 しかし、撤去しようとした代議員や一般学生に対して、全共闘の学生たちが投石などで妨害して身の安全が確保できなくなり、代議員会で機動隊導入議案までも提起される事態に発展。全共闘と一般学生の間で一触即発の危機が深まる状況の下で、当時の守屋学長、ピタウ理事長が「学生同士の流血を避け、大学を本来の学問の府に戻す」ため、機動隊導入という苦渋の決断をされたのです。機動隊導入の朝、大学構内にあった学生寮の学生たちから機動隊員に大きな拍手が送られたのは、こうした経緯があったからでした。

 「似て非なるもの」と申し上げたのは、当時、私たちの大学では、他大学と違って、一般学生の大学自治への積極的参画とリーダーシップがあった。それが、ロックアウト解除、大学改革の推進、そして正常化に向かうことができた大きな要因だったのです。

 それは、上智大学が「キリスト教ヒューマニズムの精神に基づく教育」を建学の精神として掲げ、民主主義の大切さと「自ら学ぶ」という意識もった学生を育てようとする教職員の努力、学生会や代議員会、そして公正なメディアとしての上智新聞の、時としては身の危険も顧みない、誠実な対応の結果とも言えるでしょう。

以上

 

 

2018年11月5日