・「ソダノ枢機卿」に見る性的虐待スキャンダルとバチカンの「説明責任」の深層(CRUX)

解説(2018.8.12 Crux Editor John L. Allen Jr.)

 ローマ発 – カトリック教会の性的虐待スキャンダルが終息せず、説明責任に対する議論が高まりを見せる中で、払うべき関心が払われないことの多い一つの疑問は、性的虐待スキャンダルについてどのような対応が制裁に値するか、について人々に対する説明責任が果たされるべきか、措置が取られる前に、どのような説明が権威者に求められるか、である。

 これについて検証を始めるにあたって、「zero tolerance(どのような 違反も一切許容されないルール)」が明確に意味するのは、性的虐待に関する直接的な権限委任には迅速で厳格な規律が必要だ、ということであり、我々が知っているのは、このルールが、前枢機卿のセオドール・マカリックの例でみるように最高位の聖職者-枢機卿-をも拘束する、ということだ。

 我々はまた、少なくとも理論上は、他者が性的虐待を隠ぺいすることもzero toleranceを侵害し、たとえ、隠ぺいの立証がしばしば、極めて困難だとしても、制裁措置を招くと考えられる、ということも知っている。

 厳格さが増しているところでは、告発が犯罪、ないしは隠ぺいに対してなされない場合、少なくとも直接的にではなく、単に過去の経緯の誤った側にいたという-そのような貧弱な判断、失音楽症、無神経さを見せ、性的虐待が引き起こしている危機の甚大さ、深刻さを無視するような振る舞いによって、教会の対応をさらに弱く、説得力をさらに欠くことになる。

 仮に、カトリック教会にそのような過失に対する説明責任が存在するなら、枢機卿団の現在の長による裁判にそれを告げることはしないだろう。

 アイルランドの日刊紙 Irish Timesが今週、報じたところによると、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の下で国務長官を務めたイタリア人のアンジェロ・ソダノ枢機卿が、次のような取り決めについて話し合う、という考えを示した-それは、2003年11月に行われた当時のアイルランド大統領、マリー・マカレーズ氏の政府公聴会の議事録を教会の資料保管庫で補完しない、というものだった。ソダノ枢機卿はその二年後に、当時の同国のダ-モット・アハーン外相に、性的虐待に関するアイルランドでの裁判の結果、バチカンが被るいかなる損失も、同国政府として補償するよう求めた。

 バチカンは、この報道について論評を加えることはせず、ソダノ枢機卿の対処法について我々が知っていることについて首尾一貫した姿勢をとった。

 枢機卿はまた2005年2月、当時の米国務長官、コンドリーザ・ライス氏に、ケンタッキー州ルイスビルの地方裁判所で起こされようとしていた集団訴訟を差し止める方向で介入するよう求めた。訴訟の内容は、幼児性的虐待に対するバチカンの財政面での責任を問うものだったが、ライス氏は「米国の法制度では、行政府にはそのようなことをする権限は認められず、(集団訴訟に不服であれば)外国政府は米国の裁判所で自身の責任免除を申し立てねばならない」と、わざわざ説明せねばならなかった。(結果的に、バチカンは、彼女の言に従って申し立てを行い、訴訟は裁判所の判断で退けられたが・・)

 注意したいのは、アイルランドと米国に対する枢機卿の要求はともに、2002年から2003年にかけて米国で性的虐待スキャンダルが大問題になった後だ。したがって、性的虐待がもたらす危機がどれほど深刻か、性的虐待の被害者が「バチカンで最大の権限を振るう人物の最大の関心事が、教会の資産を守ることなのだ」と知ることが彼らの心をどれほど傷つけるか-について「枢機卿が理解していなかった」とは言うことはできない。

 zero toleranceの意味について枢機卿の見方に関するこれまでの本人の言動に対する疑問符は、これだけではない。ウイーン大司教のクリストフ・シェーンボルン枢機卿は、ハンス・ヘルマン・グローエル枢機卿に対するバチカンの捜査を差し止めた、として、ソダノ枢機卿を糾弾した。グローエル枢機卿は様々な形の性的虐待と誤った行為について訴えを受けており、1998年に枢機卿として職務と権限をはく奪されている。シェーンボルン枢機卿によれば、後に教皇ベネディクト16世となる当時のヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿はグローエル枢機卿を教会法に基づいて裁判にかけることを希望したが、ソダノ枢機卿がこれを潰した。

 シェーンボルン枢機卿は後に、ソダノ枢機卿とベネディクト教皇との関係修復のためにバチカン訪問を強要されたが、糾弾の実質的な内容を引っ込めることはしなかった。

 そして、ソダノ枢機卿がある年の復活祭ミサの説教で、聖職者による性的虐待の被害者のついてのマスコミ報道に関して「くだらないゴシップ」という言葉を使って、多くの被害者に彼の無神経さを痛感させた、とシェーンボルン枢機卿は語っている。

さらに、ソダノ枢機卿のマルシャル・マルシエル・デゴラド神父に対する長期にわたる強力な支援の問題がある。神父は Legion of Christの創設者だが、2006年に。当時のラッツィンガー教理省長官と同省の聖職者性的虐待問題を担当するチームに有罪と判断され、終生を祈りと償いに捧げることを義務付ける判決が下されていた。ソダノ枢機卿は最後の最後まで神父を支援し、ラッツィンガー長官のチームが神父の捜査をしているにもかかわらず、神父に対する「教会法上の手続き」は存在しない、とする声明をバチカンのためにお膳立てした-その主張は、法的には正しかった。なぜなら、この案件の扱いは非公式に神父の年齢と健康状態を勘案してなされたからだったが、この声明は、バチカンがソダノ枢機卿の路線に乗っている、というより大きな真実を覆い隠すものだった。

 ソダノ枢機卿は、2006年の判決についての生命の発表にさえ、声明がすでに神父本人によって受理され、バチカン内部で出回った後だったにもかかわらず、「神父を動揺から救う」という理由で、強く反対した。

 それでは、我々はどう考えればいいのだろうか?

 確かに、ソダノ枢機卿自身が誰かに性的虐待をしたことを示すものは全くないし、神父の事件を「隠ぺい」したとして糾弾されることさえも、”拡大解釈”だろう-ソダノ枢機卿が神父の犯罪について直接の情報を持っていた、というよりも、あり得る筋書きは、ソダノ枢機卿はただ、知りたくなかっただけ、というものだ。彼は神父のもつ正統的な信仰、若者たちの教育への熱意と成功を高く評価し-その募金集めの能力には触れず-1997年以来出回っていた神父に対する訴えを、妬みや政治的な反発を受けたことによるものとしたい、いう気持ちがあった。

 その一方で、ソダノ枢機卿の経歴のもつ累積的な重さが、聖職者による性的虐待の危機の本質を俎上に載せることを、バチカン官僚たちにためらわせる、あるいはできなくするように影響を与えたことは、そして、教会改革に大胆な関与という点で、彼が確信を奮い立たせたことがないということは、ほとんど疑問の余地がない。

 ソダノ枢機卿は今、90歳だが、それでもまだ、枢機卿団の長にとどまっている。そして、仮に、教皇フランシスコが明日、亡くなることがあれば、彼が、後継教皇が選出されるまで、枢機卿による日々の会議を主宰することになる。さらに、彼はその年齢にもかかわらず活動的で、ローマでは、とくに古巣のバチカン国務省に、友人と後輩たちの幅広い人脈を通して、裏で大きな影響力を行使し続けている、とローマの関係者の間で見られている。

 教皇フランシスコが性的虐待スキャンダルについての“accountability( 説明責任)”について考えを深めるにしたがって、早晩、ソダノ枢機卿のような人物を「罪を犯した、あるいは隠ぺいしたが有罪とされないバチカン官僚」とみなさざるを得なくなろう。だが、ソダノ枢機卿が行った判断と声明は、多くの外部の関係者、とくに性的虐待を受けた生存者に、このバチカンの制度が本当にzero toleranceについてどれだけ真剣に取り組んでいるのか、疑問を抱かせたままにするだろう。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

2018年8月13日

・ハプニングも、でも姉妹たちに助けられ=Sr.岡のローマ・ポーランド出張記

  • 7月4日(水)長崎-東京

 長崎空港で飛行機を待っていたら、「シスター」と声をかけられる。振り向くと、髙見大司教さま。定例司教会議に出かけるそうで、いつものように軽装。神学校の話し、スルピス会のことなど立ち話。

  • 7月5日(木)東京-ローマ(ミュンヘン経由)

 羽田空港でチェックインの時、カウンターのお姉さんが、「カトリックですか?」と。「カトリックをご存知ですか?」と尋ねると、「聖公会の大学に行っていました。立教大学です」と。

 ミュンヘン到着後、ローマ行きの飛行機への乗り換え手続きは順調だった。過去に一度、ドイツのどこかの空港での乗り継ぎで、パスポート・コントロールの場所にたどり着く前に長蛇の列で、乗換便にぎりぎりセーフで間に合った、という経験があった。あれは、ミュンヘンではなかったのか、それとも、あの日がたまたま混んでいたのか、いまだに不明。

 ローマ行きの便が出発するゲートに行くまではスムーズだったが、出発が一時間半遅れると掲示される。その他の飛行機にも遅れが出ている。別に、天気が悪いわけでもないのに(???)。

 飛行機が遅れ、ローマのフミチノ空港で、預けた荷物が出て来るのに時間がかかり(いつものことだが…)、宿泊先のフランシスコ会の修道院に着いたのは、夜の11時近く(予定では、9時半ごろ着くはずだった)。ステファノ神父にメールで、今着いたと連絡をして、門を開けてもらう。

 ステファノ神父が、夕食を取っておいてくれた。夜遅かったが、お腹がすいていたので野菜とパスタを少しいただく。遅くなってごめんなさい、とわたしが言うと、ステファノ神父は、インターネットでわたしの便が遅れていることは把握していたし、いつも寝るのは夜中の1時過ぎだから問題ない、と。

 ステファノ神父によると、最近、ヨーロッパ圏内の飛行機の運航が乱れているそうだ。エア・フランスの経営が思わしくなく、突然欠航になることがあり、それに他の航空会社の便が影響することも、その要因の一つとか。

 ステファノ神父と最近の情報交換をしながら食事をして、部屋に入ったのは0時近く。とにかく暑い。安全のため窓は開けられないので、暑い空気を扇風機でとにかく動かす。時差ボケにプラスして、暑さのために、何度も目が覚める。

  • 7月6日(金)ローマ

 朝、アジアとオセアニアのマリアン・アカデミー[MAAO]責任者のデニス神父(インド)が、教皇庁立国際マリアン・アカデミー[PAMI]事務所に来ることになっているので、7時前に起きて、洗濯などをし、修道院の「朝食のための食堂」に行く。空気が乾燥しているので、部屋に干した洗濯物がすぐに乾くのでありがたい(海外出張の最大の関心事の一つは、洗濯物が乾くか乾かないか、ということだ)。

 デニス神父は8時半頃、PAMIに到着。PAMI長官のステファノ神父を交えて三人で、まず、濃いイタリアン・コーヒーを飲み、話し合い。マリア論・マリア的文化のみならず、カトリック教会の世界的現状から、アジアとオセアニアの現状まで、幅広い話が次々と。実際、国際的に、アカデミックな世界で活動をしている二人の話は興味深い。また、MAAOについて、各々異なる考え方を説明し、表現し、共有できることは、とてもありがたい。これから電車でフィレンツェでの会議に行くというデニス神父と、11時半に別れる。わたしはその後、エアコンが効いているPAMI事務所で仕事をさせてもらうが、ステファノ神父とマリア論に関して話をしているうちに、昼食の時間となる。

 12時半、修道院の大食堂で昼食。食事の時、ステファノ神父が、そこにいる兄弟たちの国籍を教えてくれる。「彼はメキシコ、その隣はブラジル、エジプト、次はベトナム、インドネシア、インド…」。まさに「国際神学校」である。

 また、今後のMAAOの活動の協力者として、韓国のルッチョ神父と、シンガポールの(???)神父(名前が難しい)を紹介してくれる。ルッチョ神父は、韓国人としては大柄で、現在、グレゴリオ大学で聖書学を勉強している。テクノロジーにも詳しく、「優秀で信頼できる兄弟だ」、とステファノ神父。

 14時過ぎに、日本で頼まれていた本のコピーのために、アントニアヌム大学の図書館へ。捜していた本は見つかったが、1915年以前の本はコピー機ではコピーできない、写真を撮るならよい、と言われ、携帯で写真を撮る。慣れていないので、光の加減や、ページを平らに開くなど、結構、難しいことが分かる。「暑くて有名な」アントニアヌム大学の図書館(エアコンがない)を、実体験する。汗びっしょりになり、部屋に帰って着替えてからPAMI事務所に。会議室を貸してもらって作業の続き。時差ボケもあって、頭がポワ~ンとしている。

 アントニアヌム大学の建物の一部にある、聖アントニオ聖堂の18時のミサに預かる。聖堂へは、修道院の中から、ザクリスチアを通って行くことが出来る。

 20時夕食なので、部屋に帰ると21時過ぎになる。とにかく眠いので、シャワーを浴びて早く休む。

  • 7月7日(土)ローマ

 昨日、早く寝たので、5時頃起きる。朝は涼しいので、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂まで散歩がてらに歩く。大聖堂はまだ閉まっている。ライフル銃

をもって警備をしている軍隊のお兄さんたちに、「まだ閉まっているのですか?」と聞くと、「シー(そうだ)」と。普通、ここで、「〇〇時に開きます」という会話になると(わ

たしは)思うのだが、そこで終わりなので、「何時に開くのですか?」

と聞く。「7時」という答え。別に、ぶっきらぼうなわけではない。これがイタリアだ。

 まだ6時頃だったので、聖アントニオ聖堂での7時のミサに預かることにして、またぶらぶらと歩いて帰る。帰る途中、観光客向けではなく、「庶民の」という感じの「バールBar」に寄って、カプチーノとコルネット(クロワッサン)で朝食をする。「ボンジョルノ、ソレッラ(シスター、おはよう)」と、店のお兄さん、お姉さんが気軽に声をかけてくる。近所の人々の朝のたまり場という感じで、親近感がわく。このように、ローマで、気取らない「普通の人々」の雰囲気の中にいることが、わたしは好きだ。

 聖アントニオ聖堂は、外の入り口が開くのは6時45分。まだ閉まっていたので、修道院に入って、ザクリスチアから聖堂へ。7時のミサは、フランシスコ会の数人の神父による共同司式。ミサの後、しばらく一人で祈ってから、部屋に帰り、昨日、PAMI事務所から借りた「創世記」に関する本を読む。

 9時頃、PAMI事務所に行くために下に降ると、ちょうどステファノ神父が廊下を歩いている。「コーヒー飲む?」と、修道院のカフェテリアで、コーヒーを入れてくれる。コーヒー・メーカーの機械があって、誰でも使ってよいのだけれど、わたしはいくら教えてもらっても、上手に出来ない(力が必要)。その後、PAMI事務所で、またひとしきりステファノ神父と「マリア論談議」をした後、仕事。少し出かけたステファノ神父が、外はとても暑い、と。やはり涼しいのは早朝だけのようだ。

 そのうち、ステファノ神父は、事務所の奥の「台所」(ステファノ神父が台所にした)で、何やら料理を始めている。小豆とニンニク、ズッキーニなどを使った、アジア系の「自然食品」。料理をするとリラックスするそうだ。二品作り、それをタッパーに入れて昼食に持っていく。

 昼食では、リッチョ神父も、タッパーに入れた韓国料理を持って来る。「これ、作りました。どうぞ、召し上がってください」と日本語で(彼は、言語に長けている。日本語は、別に勉強したわけではないそうだ)。野菜とコチュジャンを使ったもの。ステファノ神父の料理も、リッチョ神父の料理も、おいしかった。また、ブラジルの神父が作った料理も食卓に並んでいた。ここのフラテルたちは、料理が好きらしい。

 午後は15時くらいからPAMI事務所の会議室で、「教会の母」の典礼記念日についての、サルバトーレ神父の小論文を読む。寒くなってきたのでエアコン設定を見たら、18度。22度まで上げる。

 夕食は、ステファノ神父、メキシコのフラテル、リッチョ神父と一緒に、韓国料理の店に。大柄のリッチョ神父は、どんどん歩き、ついていくのに大変。結構歩く。リッチョ神父曰く、半地下のその店は、「神父割引」(一割)をしてくれるそうで、時々来るそうだ。もう一つの韓国料理店は、司教と一緒じゃないと割引してくれないんだよ、と。

 初めて韓国料理を食べたというメキシコのフラテルも、おいしかっ

た、と言っている。わたしには辛すぎる唐辛子を、おいしい、おいしい、と食べている。メキシコ料理も負けないくらい辛いからだろう。 

  • 7月8日(日)ローマ:『マリアヌム』神学院訪問

 聖母への感謝と執り成しを願いながら、朝は、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のミサに。8時「開門」前、あちらこちらから、いろいろな修道服を着たシスターたちが集まってくる。軍のお兄さんたちの監視の中を通るが、この時間は警備はれほど厳しくなく、荷物チェックもせずに、「バイ、バイ(どんどん行って!)」と、いかにもイタリア風。

 8時のミサは、Salus populi romani(ローマ市民の救い[保護者の意味])のビザンチン・イコンがある小聖堂。ミサの後、出口では、軍のお兄さんたちが、警備そっちのけで、大声でサッカーのワールド・カップの話をしている。これもひじょうに「イタリア風」。

 修道院の中庭の花壇が、去年に比べて、とてもきれいになっている。土がならされ、ヒマワリやバラの花が咲き、オリーブの木も生き生きとしている。

 そういえば、昨日、韓国レストランらか帰る道で、メキシコのフラテルが話してくれた。今年、大学の哲学の教授で、植物にとても詳しいフラテルが異動してきて、彼が庭の世話をしているそうだ。毎日、午後になるとふらーっと降りて来て、急がず、静かに、淡々と、二時間くらい手入れをする。それを毎日続けているうちに、このようにきれいになった、と。ある日、メキシコのフラテルに、バラの花が咲き終わったら、二番目の花のところを剪定するんだ、そうすると、二、三日後にまた花が咲くよ、と言ったそうだ。フラテルが二日後に行ってみると、ほんとうにバラの花が咲いていた、驚いたよ、彼はすごい、一つ一つの植物のことをほんとうによく知っている、とフラテルは言っていた。

 PAMIの事務所で少し作業をしてから、サルバトーレ・ペレッラ神父に合うために、教皇庁立『マリアヌム』神学院へ。PAMIからマリアヌムまでは、トラム(路面電車)があるので便利だ。特に日曜日は、バスはあまり当てにならない(いつ来るか分からない)が、トラムは結構、来る。3番のトラムに乗り、文部省の建物の前で降りる。そこからマリアヌムまで、バスに乗って行くことも出来るが、日曜日だったし(たぶん、バスはあまり来ない)、昨日ほど暑くなかったので、歩くことにする。200段近くの階段を上り、坂を上り…、11時前にマリアヌムに着く。ちょっと息切れ。

 日曜日なので受付のお兄さんがいなかったが、若いフラテルがサルバトーレ神父を部屋に呼びに行ってくれる。

 サルバトーレ神父と再会。神父と会うのは、いつも、やっぱり、うれしい。彼はわたしにとって、恩師中の恩師だ。

 何か飲む?食べる?…と、いつものように気遣いもせっかち。水が欲しい、というと、冷蔵庫から冷たい水を出してきてくれる。食堂で水を飲みながら、日本でのマリア論への奉仕について報告や、相談をする。サルバトーレ神父は、マリア論の「辞書」のような存在なので、話は尽きない。

 それから、「おいで、おいで」と、サルバトーレ神父が学長だったときに落成した、新しい図書館に行く。

クーラーが効いていて、静かだ(わたしたちが学生時代の古い図書館は、夏は、暑さと蚊との戦いだった)。昔のように(?)、図書館の机の一角に「サルバトーレ神父のコーナー」があり、さまざまな本、資料…が拡げられていて、それに埋もれてパソコンが。これが、現在の彼の「作業場」である。

 サルバトーレ神父は、昨年よりずっと元気そうだ。今は学長職を退き、「マリア論だけに全力を注ぐ」と宣言。何について研究しているかを説明してくれる。また、イタリアのサン・パウロ社から、マリア論のマニュアルのようなものを連載で出版することを頼まれていて、それも準備しているそうだ。また、「この本、読んでないだろう。君のために準備しておいた。読みなさい」と、マリア論の本を三冊くださる。ステファノ神父やサルバトーレ神父に会うと、わたしはまだまだ、マリア論に対して熱意が足りない、と反省し、刺激される。

 サルバトーレ神父の著作は、どれも、文献、引用がひじょうに豊富で、それ一冊で、さまざまなテーマを深めるためにどの文献を参照したらよいのかが分かる。まさに「辞書」である。ナポリ人で、性格が激しく、口も悪いので(単刀直入過ぎる)、彼の献身的な奉仕が、ふさわしく理解されていないのは、残念だ。神父は、彼から恩恵を受けた、わたしや、先輩のステファノ神父にとっては、現代マリア論になくてはならない存在である。そのような人に出会えたことを、今でもわたしは、心から感謝している。

 昼食は、マリアヌムの教授たちの共同体の食堂で。セッラ神父、マッジャーニ神父、ペレット神父など、わたしの恩師たちと再会。感謝。マリア論の勉強を続けるための刺激と力をいただいて、サルバトーレ神父と別れる。

 修道院の部屋に帰って、明日、早朝出発のため、荷物を片付け、再びPAMIの事務所へ。福岡の神学生から聖母の出現についての質問メールが届いたので、それに関する短い資料をステファノ神父にもらって訳す。イタリア語・日本語の電子辞書の電池が切れ、もってきた替えの電池の一つが電池漏れで使用不可能。インターネットの辞書(イタリア語をイタリア語で説明している辞書)を使いながら訳す。結構、時間がかかる。

 ステファノ神父と名残惜しく、いろいろなことを話す。明日は早朝出発なので、夕食後、さよならを言う。

  • 7月9日(月)ローマ-ジェシェフ(ミュンヘン経由)、ストラホチナ修道院(ポーランド)

 5時半に修道院を出て、ローマ・フミチノ空港へ。車はほとんどなく、30分くらいで空港に着く。ミュンヘン行は第3ターミナル。チェックインもスムーズ。今回初めて、携帯コードでのチェックイン(というより、自分の修道院ではないので、コードをプリントすることが出来なかった)。機械が読み取らないので、係りのお兄さんに聞くと、明るさのモードを上げてください、と。一番明るいモードにすると、すぐに感知する。出発ゲートが、D5からD3に変わるが、すぐにルフトハンザから「ゲート変更」の知らせが英語で届く。すべてデジタル化の世の中!

 空港内のDuty Free Shop(免税店)を眺めていたら、レジのお兄さん、お姉さんたちは、大声でサッカーのワールド

・カップ談議、その「ついでに」仕事をしているという感じ。日本では信じられないけれど、良くも悪くも、実にイタリアらしい。

 わたしのイタリア人の友人のPaolaは、「わたしたち(イタリア人)は、とてもpersona amabile(愛すべき、人好きのする人たち)よ」と、自分で言っているが、一たび、誠実な友人であることが分かれば、利益なしで、何をおいても大切にしてくれる。

 12年以上前、わたしがローマで勉強していたころ、ローマ空港に早朝や、夜遅く出発、到着する便を使う時、タクシーが思うように見つからない、という問題があった。ラジオ・タクシーなので、早朝でも前日から予約することは出来ず、当日に電話しても出なかったり、車がないと言われたり(?)。そんな時、アメリカ人の友人が、アメリカ人のビジネスマンがローマに来る時に頼む、信頼できる運転手がいる、と言って、クラウディオを紹介してくれた。それからずっと、ローマ出張の際には、メールでクラウディオに、日付、便名、到着時刻…を連絡するようになった。飛行機がどんなに遅れても、インターネットで追跡できるので、ちゃんと待っていてくれる(当たり前といえばそうだけど)。

 クラウディオは数年前に引退、今は、甥のマルコと、奥さんのパウラが引き継いでいる。マルコとパウラは、わたしにとって友人とも言えるだろう。もちろん、サービスに対して料金は払う(割引してくれるが)。でも、それ以上の信頼関係を、わたしたちは長年かけて培ってきた、と言える。

 マルコも「ルカ・マリアは、僕たちにとって、最も古くて、大切な顧客だよ」と言い、「ルカ・マリアのサービスは、いつも最優先だよ。ローマに来たときは、僕たちがいる。心配しないで」と言ってくれる。一度、飛行機のトラブルでローマに宿泊しなければならないかもしれない、という状況になった時も(結局は、飛行機に乗れたが)、「安くて、一人でも安心して泊まれる、こぎれいなホテルがある、必要なら予約してあげよう。送迎は僕たちがするから」と言ってくれた。

 今回、5時半、修道院の門のところには、マルコとパウラが二人とも来てくれた。マルコは、昨夜(今朝!)午前3時まで仕事をしていて、「ルカ・マリアを空港に送り届けたら、休む」と言っている。二人とも、休みなく働いている。

 ローマからミュンヘン乗り換えでジェシェフへ。ミュンヘン空港での乗換時間は一時間弱で短いが、ヨーロッパ圏内なので同じ第二ターミナルで、ゲートも同じ(到着がG18、出発はG65)。ちょっと早めに歩き、G65ゲートに着くと、ジェシェフ行きはすでに搭乗を開始していた。

 今回、飛行機に関していろいろハプニングがあったが、今度は何もなかったな、と思っていたら、ミュンヘンで預けた荷物がジェシェフの空港に届いていない。しかも、わたしだけでなく、十人くらいの人々の荷物が。「失くしたもの」カウンターに列を作って並ぶ。最初に並んでいたポーランドの家族のお母さんが、何やら叫んで、嘆いている。どうすればいいのよ~という感じだ(言葉は分からないが)。幸い、空港に迎えに来てくれていたSr.ジュリアとのメールのやり取りで、(遅くなっている)事情を説明することが出来た。

 やっとわたしの番が来る。こういう状況には慣れて(?)いるのか、スタッフたちは実に事務的。日本だったら、申し訳ありません、とか、少なくとも、大変でしたね、くらいの前置きがあると思うけれど、いきなり、いろいろなスーツケースなどの写真が載っている表を見せられて、「どんな形?色は?材質は?」。「えっ?ああ、布ではない、グレーのスーツケースです」と言うと、「住所、電話、名前は?」と。並んでいる時に、住所などを聞かれていることが分かったので、メールでSr.Jに、ストラホチナの住所と電話番号を尋ねていたので、すぐ対応できる。

 それから、わたしのスーツケースに関する情報が書かれているA4の紙(印刷が薄く、今にも消えそう、大丈夫かな~という感じ)を渡されて、「あなたの荷物は、あなたの滞在場所に着く予定、何かあったらこの電話番号に連絡してください」。それで、「さよなら」。わたしがさらに、「だいたい、いつごろ着くのですか?」と尋ねると、「調べますから、待ってください。…今日か明日ですね」と。

 やっと外に出ると、Sr.ユスチナとSr.Jが待っていてくれる。わたしの前に出てきたおじさんが、「シスターはまだ並んでいたよ」と教えてくれた、とSr.Jが言っていた。Sr.ユスチナが、荷物が届かなかったことを、わたし以上に心配してくれる。大丈夫、何とかなる、と言いながら車に乗る。

 わたしが、電子辞書のための替えの電池を買いたい、と言うと、Sr.ユスチナが、ジェシェフの方が大きな町だから、ここで探しましょう、と、スーパーに寄ってくれる。四つ入りの単四の電池がある。Sr.ユスチナはわたしに「いくつ要りますか?」と聞く。わたしが「二つ」と言うと、半分に破って、二本だけ買ってくれる(そういうこと、出来るのか??)。

 ジェシャフ・ミュンヘン間の飛行機は、小さな飛行機だ。前回の経験で、殆ど荷物を持ち込めないことを知っていたので、今回は、文字通り、全部、預ける荷物に入れていた。持ち込みの小さな荷物に入れていたのは、パソコンと充電のコードくらい。だから、着替えも歯ブラシもない。修道院に着くと、院長のSr.ベルナデッタが、下着からパジャマまで、すべて揃えてくださる。また、ポーランドは紺のハビト(修道服)なので、Sr.Jが、自分のもう一つのハビトを貸してくれる。ひじょうに長く、裾が床につく。ポーランド滞在中、ハビトの裾が長いことをたびたび忘れ、裾を踏んで転びそうになった。

 ストラホチナの修道院に着くと、Sr.ユスチナが昼食を温めてくださる。

 夕方5時、院長のSr.B、Sr.Jと一緒に、ニジニック神父に挨拶に。司祭館でお茶をいただく。叙任神父が休暇中なので、N神父が一人でミサを捧げている。

 この日は、ストラホチナの教会でアドラチオ(聖体顕示)がある。5時55分からロザリオ、ミサ。

 夕食時に、シスターたちみなと再会。昨年も来ているので、より親しく感じる。夕食の片づけ。8時半に寝る前の祈り。一日に感謝。

  • 7月10日(火)ストラホチナ

 6時起床、祈り。日中は暑いが、朝晩は涼しい。特に夜は、暑くて眠れないほどだったローマに比べて、ずっと涼しく、感謝。荷物はまだ着かない。本当に今日着くかどうか、当てにならないので、朝から洗濯をする。地下の洗濯場で洗濯をし、脱水をかけ、より乾燥している屋根裏部屋に干す。

 Sr.Bが、日本の写真が見たい(レクレーションの時間に)と言うので、朝食後、PCの中の写真の整理をする。

 10時頃、食堂でコンポート(果物を煮たもの)を飲んで外に出る。Sr.カミラが、近所の女の子たちとバレーボールをしている。Sr.ユスチナと志願者たちは、畑で豆を収穫中。その後、Sr.Jと、アンドレア・ボボラの巡礼地と墓地へ。

 Sr.Jが、わたしの荷物が午後2時頃届くと連絡があった、と伝えてくれる。考えてみれば、出発前に、わたし自身、フランシスコ会なのだから、あれこれ持たずに、最小限で旅するべきなのに、いつも荷物が多くなるね…と言っていたのを思い出した。今回の「紛失」は、摂理的な出来事のように感じた。必要なものはそんなに多くないよ、と言われたような。荷物は本当に、2時に着く。よかった。

 今回、ポーランドに派遣されて約一年のSr.Jと、一緒に散歩したり、食事をしたり、車に乗ったりしたときに、いろいろ話が出来たことに感謝する。若い感性で感じた、ポーランドの文化のこと、教会のこと、姉妹たちとの共同生活のことを、率直に話してくれて、学ぶことが多かった。Sr.Jは、もともと深く考えることが出来る能力をいただいているので、上滑りのことではなく、より深いところにあることに触れているのだろう。時に、苦しむこともあるだろうけれど(それはどこにいても同じだし)、ポーランドの人たち、とくに姉妹たちの信仰を学びながら、謙虚に奉仕していくだろう。がんばれ!

 修練院横のリンゴの木を見ていたら、Sr.カミラが、「これは、落ちたばかりだからきれい、美味しいですよ」と、わたしたちに一つずつ、リンゴを拾ってくれる。ちょっと酸っぱくて、「リンゴらしい」味。おいしい。

 11時55分から教会の祈り、ロザリオ。その後、昼食。

 午後3時、修道院の聖堂で、「コロンカ(いつくしみのコンタツ)」から始まり、一時間の祈り。その後の、おやつの時、一時間くらい、日本の姉妹たちの写真を中心にして、プロジェクターを使って見せる。シスターたちはとても素直に喜んでいる。

 昨日のように、教会で5時55分からロザリオ、ミサ。

 今日は、ミサの最中、ひじょうに眠くなる。時差ボケの眠さは、まさに抵抗できない深みに引きずられるような「暗黒」という感じ。主がアダムやアブラハムに陥らせた眠りや、ゲッセマニの園で三人の弟子たちを襲った眠りなどを、ボ~っとする頭の中で考える。本当に、「何も考えられない」空白の時間。神さまの御手の中に、頭を空にしてすべてを託す、ってこういうことかな、などと、この「空白」の中で考えている。ミサの後、「具合が悪い?」と心配される。「いや…ただ眠くて…」と答える。

 しかしその後、夕食を食べたら目がぱっちりと覚める。そんなものか…。夕食後、食器洗い。8時半から寝る前の祈り。とにかく、祈りの時間が多いので、その間を縫って、忘れないうちに「独り言」を書いている。

  • 7月11日(水)ニジニック神父と出かける

 昨日の夕食のとき、Sr.Bが、「明日は、Sr.ルカとSr.Jは、ニジニック神父と出かけます」と発表。ああ、そうなんだ、と(毎日、次の日、どういう予定になるか分からない)。

 6時起床、祈り、朝食。聖堂は涼しく、厚めのカーディガンを着ている姉妹もいる。昨日は、朝8時半出発と言っていたけれど、8時15分に変更(こちらの「突然の変更」には慣れるしかない!)。

 途中、N神父のお父さまのお墓詣りのために、花とろうそくを買う。

 お墓詣り[写真]の後、N神父の「友だちの神父」がいる、ひじょうに古いバシリカ(聖堂)訪問。その名も、「聖墳墓」聖堂Bazylika Przeworsk(エルサレムの聖墳墓教会を真似ている)。1393年に建てられたものらしい。普段は閉まっているようだが、N神父の友だちの神父が鍵を開けて、中を案内してくださる。「扉が開いていたから」と、ポーランド人の巡礼グループも加わる。

 その後、N神父の家に、お母さまを訪問。近くに住んでいる弟さんも来ている。お茶をいただく。N神父とお母さまは、顔だちがよく似ている。二人とも、楽しそうに話している。昼食のために、コシナの修道院に行く予定だったため、「もう行ってしまうの?」と言うお母さまに挨拶して、出発。コシナ修道院には12時半頃着く。院長のSr.マキシミリアナが迎えに出て来てくれる。今日から、コシナの修道院の手伝いのために、一か月間、ストラホチナから派遣された、Sr.ゾフィアとSr.ジェンマも加えて、皆で昼食。

 N神父は、午後、黙想の家にいる若者たちへの講話があるため、車を飛ばして(だいぶ慣れたけれど)帰る。午後は、いつものように、3時から始まって祈りが続く。

  • 7月12日(木)Sandomierz(サンドミエシュ)バス旅行

お墓詣り。修練院聖堂で祈り。。  

 ストラホチナの「黙想の家」で、一週間ほどサマーキャンプのようなことをしている若者たちのバス旅行(古都サンドミエシュへ)に参加。

 ストラホチナ修道院では(もしかしたらポーランド一般?)、いつもそうだが、明日、何があるか分からない。

 前日の夕方、明日は、Sr.ガブリエラ、Sr.ジュリア、Sr.ルカは、バス旅行に行きます。7時出発です。起床は6時。朝、カナプキ(サンドイッチ)の材料を用意するので、好きなものを作ってください、と「発表」がある。Sr.Gが、青作業着で行っていいですか?と聞く。Sr.Bは、「町に行くので、紺のハビトを着てください」と。「暑い」一日になりそうだ。その後、カナプキは、若者たちの分も全部準備するので、個人では用意しなくてよい、と言われる。

 当日は、「やっぱり5時半起床にしよう」ということになったそうで、鐘が5時半に鳴る。朝食を食べて行くことにした、ということで、食堂に行く。半分曇り、少し雨の中、7時ごろ出発。カナプキ二個と、甘いパンを一個、チョコバーのようなものを四個、「何とかベリー」(ベリー類が多くて、名前が覚えきれない!)のジュースと水をいただき、出発。カナプキなどは、「適当な時に」それぞれ自由に食べるそうだ(ポーランドでは、「第二の朝食」とか、三時のおやつとか、けっこう「きちんと」食べる)。

 途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩。トイレは二つあるが、一つは故障中。こういうことは、よくあるそうだ。

 サンドミエシュには11時前に着く。土地のガイドのお姉さんが案内をしてくれるが、とにかくよくしゃべる。息継ぎの間もなく、ず~っと話している。若者たちの引率の一人に、英語の先生がいて、話の内容を要約してくださる。歴史の話から、自然の話まで、かなり幅広い説明をしているようだ。それでも若者たちは騒がずに聞いている。カテドラルは工事中で、内陣は遠くからしか見えなかった。

 ガイドさんの案内が終わったのが2時半ころ。それまで、何も食べていない(イタリア人だったら、昼食はいつ~?と騒ぐだろうけれど)。ポーランドの人たちは、ここぞというときに底力があるとか(食べなくても、頑張れる)。それから4時まで自由時間。皆、散らばって昼食へ。SR.Gに、何が食べたいですかと聞かれ、スープ(ズッパ)がいい、と答える。温かいトマトスープ(中にパスタが入っている)をいただいた。おいしかった。

 その後、アイスクリームを食べよう!と、イタリア式アイスクリーム屋へ。わたしはシャーベット系が好きなので、レモンと何かの果物を注文する。広場の日陰に座って食べる。

 3時になり、「コロンカ(あわれみのコンタツ)」の祈りのため、教会へ。聖体顕示もしている。一時間くらい祈る。寝ていたわけではない(と思う)が、何となくボ~っとしているうちに時間が発つ。歩いて、集合場所の中央広場へ。若者たちのグループは、ほとんど集まっている。駐車場まで歩いてバスにのり、出発。

 途中で、引率のおばさんが、運転手さんに、ストラホチナまであと一時間で着くか?と質問している。ミサの時間を心配しているらしい。ストラホチナのミサに間に合わないことが分かったので、5時半過ぎに通った、途中の教会に入る。新しい教会。内陣には大きな聖母子像。聖体顕示が行われている[次頁写真]。6時少し前に、ご聖体の祝福があり、その後、再びバスへ。若者たちは、だんだん元気になり、歌を歌い始める。ポーランドの伝統的な歌らしい。Sr.Jも口ずさんでいる。ポーランドの人たちは、とにかく歌うことが好きだ。Sr.Jによると、大学で、建国記念日のイベントに参加したら、約三時間、ただただ歌い続け、びっくりした、と。

 ストラホチナに着いたのは、夜8時半頃。それでもまだ薄明るい(冬は、3時頃にはもう暗くなるそうだ)。食堂でスープをいただく。Sr.ビクトリアが休暇から帰ってきて、お母さんが作ったパンをたくさんもってくる。リンゴをシナモンで煮たものが中に入っているパン。おいしい。Sr.Gは、食事の後、犬にご飯をあげにいく、と。Sr.テレサたちは、遅く帰ってきた若者たちのための夕食作り。ストラホチナのシスターたちは、とにかく、よく働く。

 院長のSr.Bが、わたしの咳を心配して(ずいぶん良くなったと自分では思っているのだが)、咳止めシロップと、ドロップをくださる。また、明日は、N神父が、司祭館でアイスクリームを食べましょう、と言っている、と(いつものことだが、時間は未定)。ポーランドの人は、冬でもアイスクリームを食べる。 

  • 7月13日(金)

  朝はいつもの通り。午前中は、洗濯をした後、部屋でPCでの仕事。Sr.Jは、明日がSr.カミラの霊名日なので、ケーキ作りを手伝ったそうだ。ケーキは三つ、作るとか。

  11時55分、教会の祈り、ロザリオ。昼食。今日は金曜日なので、スープのみ。昼食後、アン

ドレア・ボボラの丘とお墓に散歩。午後3時、コロンカ、教会の祈り。金曜日なので「十字架の道行」の祈り(毎週金曜日にするそうだ)。その後は、いつもの通り、教会で、5時55分からロザリオ、ミサ。

  今日あたりから、急に、頭の中の「霧」が晴れてきた感じ-スイッチが入った、と言ったらいいのか、「考える」ことが出来るようになる-。

 明日のSr.カミラの霊名日のため、夕食の後、シスターたちは一斉にケーキ作りを始める(Sr.カミラ自身も)。作っているのは、N神父が唯一食べられるケーキだそうだ。Sr.Bは鍋でチョコレートなどを温めながらミキサーで混ぜ、Sr.カミラは、それを入れる型にウエハースのようなものを切って敷いている。ポーランドの姉妹たちは、とにかくお菓子作りが好きだ。それぞれ、あちらこちらでケーキを作り、持ち寄ると、かなりの量になるとか。濃厚なケーキが多いので、Sr.Jによると、降誕祭や復活祭の後はダイエットが必要だ、と。

  • 7月14日(土)

 雨が降ったりやんだり。涼しい。

 6時起床、祈り。Sr.カミラの霊名日。朝食の時、歌を歌いながら、一人ひとり、Sr.カミラにメッセージを伝える。わたしは英語で、「喜びと優しさをありがとう」と伝えた。

 7時半頃から、教会でゴジンキGodzinki(聖母への賛美。土曜日だから)。8時ミサ。ミサの後、ずっと黙想の家でキャンプ(?)をしていた若者たちのM.I.(聖母の騎士会)入会式がある。N神父が、突然、「ショーストロ・ルキ(シスタールカ)」とわたしの名前を呼ぶ。祭壇上に来なさい、と。中世の騎士のように、一人ひとりの左肩に剣(もちろん本物ではない)を載せて行く役目をしなさい、と。

 N神父が、まず、何かを言いながら、端っこの若者の方の上に、荘厳に剣を置く。それから剣を渡されたわたしは、とっさに出た日本語、「神さまの祝福がありますように」を繰り返しながら、ずらっと並んだ若者たちに、この儀式を行う。入会式が終わった後、N神父は若者たちに、「日本人のシスターに儀式をしてもらったことを覚えていてください」と言ったそうだ。全部終わったのは9時20分

 シスターの霊名日には、N神父が修道院で一緒に食事をするそうだが、今日は、Sr.テレサ、志願者の二人が、昼頃、チェンストホワにバスで行くことになっているので(つまり、昼食には全員そろわないので)、急きょ、ミサの後、司祭館で「カヴァ(コーヒー)」を飲むことに。シスターたちを全員呼び、手作りケーキと、コーヒーや紅茶を飲みながら談笑。お茶を終えて食器を洗っていると、Sr.Bが、洗濯物があったら、一緒に洗濯機で洗いましょう、と言ってくださる。明日は日曜日で洗濯が出来ないので(労働禁止!)、助かる。

 その後、部屋に帰って、PCで、12月のMAAOミーティングについての文書を作る。今回、わたしにいただいた部屋は、パソコン室に近く、部屋でもWiFiが入るので便利。

 いつものように、11時55分から教会の祈り、ロザリオ、昼食。

 土曜日なので、午後3時のコロンカの後、聖堂で「マリアの時間」。マリアに関する本を読んだり、歌を歌ったり。

 若者たちのグループが昼食後に帰り、シスターたちがホッとしていたら、昼食後に、「巡礼に来たい」と電話があった、とSr.Jが教えてくれた。(いつものように?)何人来るのか、食事は要るのか、泊まりたいのか分からない、と。ポーランドには、職員がいる大きな巡礼宿があって、そこに来る感覚で、突然、ふらっと来る巡礼者たちがいるらしい。プラス、今、「ボボルスカ(聖アンドレア・ボボラの巡礼地)」について、N神父が、熱心に、テレビやカトリックの雑誌を通して知らせていることで、この地が有名になってきたそうだ。

 Sr.Jによると、ある時は、週末、教会の前に予告なしに大型バスが二台止まり、巡礼宿に泊まりたい、巡礼地を案内してほしい、ということもあったそうだ。巡礼者の多い6月から8月にかけて、シスターたちは食事作り、食器洗い、巡礼者たちへの話し…で大忙し(すべて無償。巡礼宿は寄付で成り立っている)。こういう感覚は、とにかく巡礼が好きなポーランドならではなのかも。

 ちなみに、現在、地区長のSr.アガタと、Sr.イザベラは、チェンストホワの聖母巡礼地への11日間の巡礼(歩いて)に参加している。日曜日の夜、帰ってくる予定。

 15時から、聖堂でコロンカ、教会の祈り。

 シスターたちが忙しそうにしているので、「何か手伝うことはありますか?」と、Sr.Jを通して聞いてもらう。Sr.Bは、「大丈夫ですよ、どうぞ、荷造りでも、散歩でもしていてください」、と。日本のシスターたちのことを思いながら、ボボルスカとお墓への散歩に出かける。夕方、5時55分から、教会でゴジンキ、ミサ。夕食、寝る前の祈り。

 シスターたちが参加している、チェンストホワの聖母巡礼地での夜9時からの祈りを、司祭館のテレビで見る。たくさんの人々。

  • 7月15日(日)

 今日も涼しい。6時半から聖堂で祈り。その後、教会でゴジンキ、ミサ。[写真:ストラホチナの教会]

 朝食後、Sr.Jと一緒に、Sr.ツェリナのお母さんとおばさんに会う。9月に日本に来る、と嬉しそう。それから荷造り。

 11時55分、教会の祈り、ロザリオ。昼食。わたしがズッパ(スープ)が好きなので、ショーストロ(シスター)、スープがあるよ、とSr.ガブリエラ。ポーランド料理の定番、ビートのスープ。おいしい。

 昼食を食べ過ぎて(じゃがいもか?)、お腹ばかりか、「体」が重たい、という感じ。荷造りのために体重計に乗ったら、一週間で一キロ太った。Sr.Jは、それくらいならいいよ、と言う。彼女によると、ポーランド料理は「太る材料」を多く使うし、しかも甘いものを良く食べる。ポテトチップも塩味が少ない、せんべいなどの塩味が欲しくなる、と。わたしは、「第二の朝食」の時も、「おやつ」の時も、甘いものはほとんど食べていないけれど…。それでも、庭で出来た小さなリンゴ(甘酸っぱく、リンゴらしい味)がおいしく、けっこう食べたっけ。

 午後は荷造り。前回、ジェシェフ空港発の小さな飛行機の荷物制限が厳しく、重量オーバー分を出して、ストラホチナに持って帰ってもらったり、たいへんだったので、今回は重さを測りながら準備。ちなみに、預ける荷物は1個で23キロまで。持ち込みの荷物は1個で8キロまで。昨年は、修道院の体重計で23キロの荷物を準備したが、空港では24キロ。一キロオーバーで荷物を広げて調整。持ち込む荷物も重さも計ります、と言われ、これまたちょっとオーバー。でも、そちらは、面倒くさかったのか、まあ、いいでしょう、ということになったと思う。

 今回も、「日本のシスターたちのために」と、大量のチョコバーなどを買ってくださっていたが、殆ど入らない。N神父のお土産や、ローマで教授からもらった本もあったし。荷物に入らなかった分は、また郵送していただくことに。

 荷物を造っている間、Sr.Jと話す。

 今回、日本人としてポーランドに派遣されたSr.Jの感覚を通して、ポーランドの姉妹たちのこと、人々のこと、自然、食べ物…を少し深く知ることが出来て、感謝している。異なる文化に触れながら、Sr.Jも学び、またSr.Jの存在を通して、ポーランドの姉妹たち、人々も学んでいくのだろう。Sr.Jの謙虚さと素直さに感謝。ポーランドの聖母に守られながら、いろいろと闘いながら、主に従う道も深まっていくのだろう。

 毎月15日は「創立者の日」。今日は、夕方5時半から、ノビシア(修練院)の聖堂に集まり、創立者神父の言葉を聞いたり、歌を歌ったりする[写真]。

 ポーランドの姉妹たちの共同の祈りに、歌は欠かせない。とにかくよく歌う。

 また、祈りも、おやつも、リラックスタイムも、「共同」ですることが多い。全般的に、話し好き。姉妹たちが集まると、感心するほど、話題に尽きない。Sr.Jが訳してくれることを聞いている限り、話がどんどん飛んで、話題がくるくる変わる。昨日、司祭館で「カヴァ(コーヒー)」を飲んだ時、Sr.Bの服に大きな虫がいた、と言うと、それに反応して、姉妹たちみんなが大笑い。二人の天使の絵をみて、これって、Sr.ゾフィアとSr.ジェンマ(終生誓願前の第三修練期の姉妹)に似てるよね~と誰かが言い、その絵を見て、また皆が大笑い。

 Sr.J曰く、「笑いの沸点」の感覚が違うんだよね、彼女たちは、本当に純粋だと思う、と。

 また、姉妹たちは、どんなに疲れていても、「今日は何をしたの?あれはどうだった?」と話しかけ、関心をもって聞いてくれる。Sr.Jが、まだちょっとたどたどしいポーランド語で話すのを、「うん、うん、それから?」という感じで、目をキラキラさせて聞いている。お母さんのような、何というか、心が温かいのだな~と感じる。次に何が起こるのか分からない、予定していたことも土壇場で変わる、でも、彼女たちが一番大事にしているのは、人との触れ合い。多少、時間が遅れても、立ち止まって人の話を聞く。そちらの方が大切、という感覚かな?

 今日は、夕食の後「フリー」。こんなことは珍しい、とSr.J。だいたい、フリーと言っても、一緒にレクレーションをしましょう、ということが多いらしい。今日は、夏休み中で助任神父不在のこともあり、いつもは四回くらいある主日のミサが、三回で、夕方のミサがなかったので夕食が早く終わる。ストラホチナに来て初めて、こんなに長い「フリータイム」に、ちょっと戸惑う(!)。

 夜8時過ぎ、「ショーストロ・ルーコ!(ルカ)」と、誰かが部屋をノック。出てみると、チェンストホワへの巡礼から帰ってきた、地区長のSr.アガタ[写真]。抱き合って再会を喜ぶ。「お茶を飲みましょう」と、食堂へ。シスターたちも集まってくる。11日間、350km歩いたそうで、顔も腕も、日焼けしている。さっそく分かち合い。インターネットで「ラジオ・ファラ」(シスターたちが手伝っているカトリック放送)の巡礼関係のユーチューブも見る。

 チェンストホワの聖母巡礼は、さまざまなグループで、一年に何回か行われているらしく、今回は、十のグループが参加し、Sr.アガタとSr.イザベラが参加したのは「アンドレア・ボボラ」のグループ。10人の司祭、他の修道会のシスターを加えて3人のシスターを含め、全部で163人のグループだったそうだ。祈り、コンフェレンツァ(講話)、ミサがあり、祈り、歌いながら歩いた、と。一番の高齢者は85歳だったとか(!)。Sr.Jも、一日、一区間、参加したそうだ。信徒の家に泊まり、ある時は、二階を「修道院」のように、シスターたちだけのために用意してくれたとか。少しして、休暇を取っていたSr.ヨゼファも帰ってくる。

  • 7月16日(月)ストラホチナ出発

 出発の日。5時半起床。カルメル山の聖母の祝日なので、教会でゴジンキ、ミサ。昨日、やはり巡礼から帰ってきた助任神父が司式。

 朝食時に、N神父が食堂に来る[写真下]。巡礼から帰ってきたSr.アガタ、Sr.イザベラのため、そして、今日、日本に帰るわたしのため。感謝。

 Sr.Jに聞くと、昨日の夜、10時頃、巡礼者が一人来て(昨日の夕食後に電話があったらしい)、Sr.ガブリエラGが夕食を作って出したとか。今日は、午後から、ウクライナの大司教(ポーランド人)がボボルスカに巡礼に来るそうで、姉妹たちはその準備で大忙し。

 わたしは、10時、Sr.イザベラの運転で、Sr.アガタとSr.Jと一緒にジェシェフ空港へ。

 ジェシェフ空港には1時間半くらいで着く。夏休みということもあって、空港は混んでいる。前回は冬で、ガラガラだったが。人が多かったこともあり、持ち込む荷物の重さをはかることもなく、荷物に関しては問題なし。ただ、ミュンヘンでの、東京への乗り換えの切符の手続きが出来ない、ミュンヘンで時間があるから、一旦出て、荷物を受け取って、再度チェックインをしてください、と言われる。いや、もう、インターネットでチェックインはしてある、これがそうだ(と、アイフォンの搭乗コードを見せる)、と言うと、再度、なにやら調べてくれて、最終的に、無事、発券。荷物は東京まで行くんですね、本当に、と、ちょっとしつこく聞いて(ジェシェフに荷物が届かなかった経験から)確認する。

 二階のカフェテリアのようなところで、Sr.アガタが、わたしのためにヘルバータ(お茶)を注文してくれる。しかし、昼食時。大勢のお客さんに、スタッフは、若い女の子が一人。なかなかわたしたちの順番が来ないので、別のカフェテリアへ。たまたま空いたテーブルに四人で座り、何か注文したのは(ヘルバータ)わたしだけで、後は、修道院で準備してくれたカナプキ(サンドイッチ)、トマト、果物…を食べる(つまり、持ち込み)。いいのかな~と思いながら。しかしこれが、ポーランド流なのだろう。

 わたしが乗るミュンヘン行の便は、30分遅れ、とルフトハンザ社からメールが来る。ニューヨーク行きの便は2時間遅れらしい。搭乗口のところで、声をかけられ、振り向くと、愛野教会の、ポーランド人のタデオ神父!シスターたちもびっくり。休暇で帰っているらしい。シスターたちと名残を惜しんで、搭乗口に入る。

 13時10分発のところが、飛行機に乗り始めたのが14時。ミュンヘンには、最終的には二時間くらい遅れて、16時40分着。ルフトハンザのカウンターに長蛇の列が出来ている。全体的に飛行機が遅れているので、乗継が間に合わなかった人たちが、別の便に変えるためだ。ローマでステファノ神父が言っていたように、現在、いつも以上に飛行機の遅延が多いようだ。乗換には十分時間を取ったほうがよさそうだ。わたしの場合、ミュンヘンでは、かなり時間があったので、二時間遅れても十分大丈夫だった。東京行の便は、定刻に出発する。

  • 後日…

 今回の旅の「ハプニング」。(1)ローマ着の飛行機が遅れて、宿泊先の修道院に着いのが夜中近くになった。(2)ポーランドのジェシェフ空港に、預けた荷物が着かず-翌日の午後に届く-。(3)あと1回くらい、何かハプニングがあるかな〜と思っていた。無事に-定刻前に-日本に着いてホッとしていたら、羽田空港で長崎行きの便にチェックインするところで、3番目のハプニング。手荷物預かりのカウンターで、わたしの航空券のバーコードを認識しない。

 カウンターのお兄さんが航空券を良く見てくれたら、わたしが、予約を一カ月間違えていたことが判明!7月18日なのに、8月18日になっていた(これは、まったく、わたしの間違え)。お兄さんが、航空券購入のカウンターにまで連れて行ってくれて、ここで航空券変更の手続きをしてください、と。特割航空券を買っていたので、通常の航空券への変更で、差額が出たり…で、手続きには結構時間がかかる。ようやく新しい航空券を手にして、再び手荷物を預けるための行列に並ぶ。わたしの番が来てカウンターに行くと、さっきの同じお兄さん!先ほどはお世話になりました、などと言いながら、今度はスムーズに手続きが済む。

 ***[帰国後に書いたメール]

 Sr.Jさま、メッセージありがとう。ポーランドの姉妹たちの、み摂理の中での単純、素直、かつ強い生き方に、多くを学びました。SrJの目を通して見るポーランドも、新鮮でした。お互い、託された使命を、淡々と、信頼して、日々果たしていきましょうね。感謝と共に祈りつつ。

​ ***

 Sr.M・Tさま、メール、ありがとうございます。昨日、無事に東京に着きました。インターネットのニュースでは見ていたけれど、実際に日本に着いたら、ほんとうに暑いですね!

 ポーランドでは、時に薄いジャンバーを着るほど、涼しい日々が続いていたので、体全体が、感覚的にびっくりしているような感じです。

 ストラホチナの共同体は、巡礼者の受け入れと、「絶え間ない」(という感じの)共同の祈り、ミサ…で、ほとんど個人の時間がない、という感じでしたが、院長のSr.Bの心遣いで、Sr.Jとゆっくり話をしたり、散歩をしたりする時間があり、感謝しています。

 また、Sr.Jの感性を通して、ポーランドのこと、姉妹たちのことを、より豊かに学ぶことができました。

 ポーランドの姉妹たちは、とても日本のことを知りたがり、Sr.Bは、忙しい中で、日本の姉妹たちの写真を見る時間を取ってくださいました。姉妹たちは、とても喜んでいました。日本の姉妹たち一人ひとりに、よろしく!と。

 また、昨年のように、今回も、「日本のシスターたちに」と、お土産をいっぱいいただき、荷物に入りきれず(重量がオーバーして)、後で郵送することになりました。

 帰る前日には、Sr.ツェリナのお母さんとおばさんがストラホチナを訪れ(お土産をいっぱいいただき!…これも、後から郵送です)、Sr.Jの通訳でいろいろと話をすることが出来ました。喜びいっぱいのお母さんでした。

 姉妹たちに会えるのを楽しみにしています。お祈りで支えてくださって、心から感謝しています。祈りつつ

 ***

 今回の出張、不思議と、ずっと太陽が付き添ってくれた。雨が降ることがあっても、それは、わたしが家の中に入った後だったり、外へ出る前だったり…。わたしが外にいる間は、いつも太陽がいっしょだった。

 出張前、いろいろ、むずかしい問題があった。「ここであきらめてはだめだ、前に進もう」。と自分に言い聞かせて出かけた。「♪~わたしの望みではなく、あなたの望みどおりに、あなたの願いどおりに、この身になるように~♪」と、たびたび自然に口ずさんでいた。

 太陽の「寄り添い」、わたしには、「真の太陽」であるイエスさまが、「大丈夫、わたしはあなたと共にいる、安心して、信頼して、歩き続けなさい」、と、言っているように思えた。

 出会った人々、友人、兄弟姉妹たちすべてに感謝。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年8月11日

・平和旬間15日まで-排除、無関心が支配する世界に真の平和はあり得ない(菊地大司教)

平和を実現する人は幸い@東京教区

8月6日から15日までのカトリック平和旬間の間、各地の教区で様々な行事が行われます。東京教区では、教区の平和旬間委員会の企画と、宣教協力体ごとの企画や小教区の独自企画などが行われています。

Heiwa1802 教区の行事は8月11日土曜日。午後2時からイグナチオ教会のヨセフホールを会場に、講演会が行われました。今年のテーマは「難民と共に生きる、日本社会の未来」と題して、弁護士で白百合女子大学の非常勤講師も務める駒井知会さんにお話をお願いしました。駒井弁護士は、難民認定を求める方々の法的支援に積極的に関わっておられる方で、法律家としての立場から、日本にやってきた難民申請者が、多くの場合、どう見ても人道的とはいえない扱いを受けている現実に対して、その救済のために取り組んでいる体験を、熱く熱く、分かち合ってくださいました。

Heiwa1805 今回このお話をお願いしたのは、まずもってカリタスジャパンと難民移住移動者委員会が、国際カリタスの呼びかける国際的キャンペーン「Share the Journey」に「排除ゼロキャンペーン」と題して取り組んでいることから、これを今年のテーマとしようと提案させていただいたからです。

 確かに偽装難民と思われる例もあることはあるが、しかし全体としては、たまたま最初に取得できたのが日本の観光ビザであり、その意味で必死に助けを求めてやってきた大多数の人たちを、杓子定規の規則で取り扱うことには問題があるとの指摘は、もう何年にもわたって変わりなく、その通りです。

 かつては日本の入管難民法に60日ルールがあり、入国してから60日以内に申請をしなければ申請自体ができなくなったものですが、今はさすがにそこは改正されたものの、難民認定のハードルが非常に高いことは、よく知られているところです。加えて、そういった申請者を、あたかも犯罪者のように施設に収容することは、用語としては優しく響くものの、実態は刑務所のような場所に閉じ込めてしまうのですから、その状況に遭遇する人たちの驚きと恐怖と失望はいかばかりかと思います。

Heiwa1806 人間はそう簡単に母国を捨てて旅には出ません.それは自分自身の立場から想像すれば、少しはわかることかと思います。母国を出て未知の国へ先のわからない旅に出ることには、それなりの大きな決断が伴うことだと思います。その旅路が、どれほど不安に満ちた心細いものであることか。

 それが、到着をした全く言葉のわからない国で、わからない言葉でまくし立てられて、支援者に会うことも適わず閉鎖施設に入れられることは、自分の身で想像すれば、かなり恐ろしいことではないでしょうか。多少なりとも想像力を働かせて、自分の身にそういうことが仮に起こったとして、と考えれば、どうでしょう。

 以下は、拙著「カリタスジャパンと世界」から、難民の定義の項です。

「現在、国際社会において『難民』を定義しているのは、1951年に採択された『難民の地位に関する条約(難民条約)』と、これに付随する1996年の議定書です。この条約では、次のような人たちが『難民』と呼ばれています。

『人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいるものであって、その国籍国の保護を受けることが出来ないものまたはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないものおよび常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有している国に帰ることが出来ないものまたはそのような恐怖を有するために当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの(難民条約第一条A2項)』。

すなわち『難民』となるためには、次の条件を総て同時に満たしていなければなりません。まず第一に、国籍国または常居所の外にいること、つまり国境を越えている必要があります。そして第二に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖があり、第三にその迫害が特定の理由によるものであり、さらに第四として、国籍国等の保護が受けられないか受けることを望まず、帰還することも希望していないということです。

客観的に見れば、この定義はかなり曖昧だと言わざるを得ません。そもそも『恐怖』というのは多分に主観的概念であって、人によって同じ状況に直面してもそれを恐怖と感じるかどうかは一様ではありません。しかし基本的人権の保護という立場に立つならば、この曖昧さこそが、迫害を受けている多くの人の命を救う鍵とも言えるのです」

 残念ながら現在の日本の入管行政は、この幅の広い難民の定義を、限りなく狭く厳密に解釈されているように思えます。

 この日は、今年の高温の天候を考慮して、距離の長い、麹町から関口までの巡礼ウォークは中止としました。目白駅や豊島教会、本郷教会からは多くの方が歩かれました。

Heiwa1808 夕方6時からカテドラルで、平和を願うミサを捧げました。聖堂一杯の多くの方が参加して祈りをともにしました。以下、ミサの説教の原稿です。

 福音の光に照らされながら平和を語り求める教会は、教皇フランシスコの言葉に励まされながら、この世界に忘れられて構わない人はだれ一人いない、排除されて良い人は誰ひとりいないと、あらためて強調します。それは私たちが、すべての人の命は例外なく、神の似姿として創造された尊厳ある存在であると、信仰のうちに信じているからに他なりません。

 私たちが希求する平和の根本には、人の命はその始めから終わりまで、尊厳を保ちながら守られなければならないという、ヨハネパウロ二世の言われる「命の文化」が横たわっています。

 世界各地で議論を巻き起こしている話題ではありますが、教皇フランシスコの裁可を持って教理省は先日、カテキズムの項目の改訂を通じて、国家の刑罰としての死刑を認めない姿勢を明確にされました。犯罪を罰しないという意味ではなく、人間のいのちの尊厳は、たとえ刑罰であっても奪うことが許されないと強調することで、教会はあらためて人間のいのちの尊厳こそが、すべての根本にあるのだと主張しています。

 教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮も、命の尊厳に基づいて強調されています。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されている人たちが世界に多く存在します。教皇フランシスコは、危機に直面する命の現実を前にして、法律的議論はさておいて、人間のいのちをいかにして護るのかを最優先にするよう呼びかけています。

 教皇就任直後に、教皇はイタリアのランペドゥーザ島を司牧訪問されました。
この島は、イタリアと言っても限りなくアフリカ大陸に近い島です。2000年頃から、アフリカからの移民船が漂着するようになり、亡くなる人も多く出て、社会問題化していました。

 難破した船のさまざまな部品を組み立てたような祭壇や朗読台。この象徴的な朗読台の前に立ち、教皇はこの日の説教で、その後何度も繰り返すことになる「無関心のグローバル化」という事実を指摘しました。その説教の一部です。

 「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

 母国を離れようとする人には、他人が推し量ることなどできない様々な事情と決断があったことでしょう。それがいかなる理由であったにしろ、危機に直面する命にいったい誰が手を差し伸べたのか。その境遇に、その死に、誰が涙を流したのか。誰が一緒になって彼らと苦しんだのか。教皇は力強くそう問いかけました。

 無関心のグローバル化を打ち破るためには、互いをよく知ろうと努力することが不可欠です。私たちは、未知の存在と対峙するとき、どうしても警戒感を持ってしまうからです。対話がない限り互いの理解はなく、理解のないところに支えあいはあり得ません。

 教会は、移住者の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳を優先しなければならないと、長年にわたり主張してきました。一九九六年世界移住の日のメッセージで、教皇ヨハネパウロ二世もこう指摘しています。

 「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません。・・・違法状態にある移住者が滞在許可を得ることができるように、手続きに必要な書類をそろえるために協力することはとても大切なことです。・・・特に、長年その国に滞在し地域社会に深く根をおろして、出身国への帰還が逆の意味で移住の形になるような人々のために、この種の努力をしなければなりません」

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」

 先ほど朗読されたマタイ福音書には、そのように記されていました。
そもそも私たちのキリスト者が語る『平和』とは、どういう状況を指しているのでしょうか。

 しばしば繰り返し強調されてきたことですが、教会が語っている『平和』というのは、単に戦争がないことや、または『抑止力』と呼ばれる戦う能力の均衡によってもたらされる緊張感の内にあるバランス状態のことではありません。さらには、世界の人がとりあえず仲良く生きているというような状態でもありません。

 教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を持ち出すまでもなく、教会が語っている『平和』とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の完全な状態が達成されている世界を意味しています。

 そのためには、神ご自身が賜物として与えてくださった命が、例外なく尊重され護られることではないでしょうか。賜物である命がないところに、世界はあり得ないからです。

 残念なことに、この数年の間、私たちの周囲では、役に立たない命は存在する価値がないなどと言う主張が聞かれたり、犯罪行為に走る人まで現れています。しかもそういった考えは、いまや一部の人の特別な考えかたではなく、少しずつ多くの人の心に入り込みつつある価値観であるようにも感じます。命の尊厳を人間が左右できると考えるところに、神の秩序の実現はあり得ず、従って平和が達成されることもありません。私たちはそういった命の尊厳を脅かす価値観を受け入れることはできません。

 この価値観の行き着く先は、利己的な目的のために他者を犠牲にしても構わないという生き方に他なりません。命の尊厳を軽視するところに、真の平和はあり得ません。排除のあるところに、真の平和はあり得ません。無関心が支配する世界に、真の平和はあり得ません。

 互いに尊重し、助け合い、それぞれの命が例外なく大切にされる社会を目指してまいりましょう。

 (菊地功・東京大司教 2018.8.13記)(「司教の日記」よりご本人の了解を得て転載)

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 平和旬間を始めるに当たり、広島の祈りの日の前日5日に、広島教区の平和行事が行われましたので、広島まで出かけてきました。午後には幟町教会を中心に講演会や分科会が行われ、夕方5時から平和公園の原爆供養塔前で聖公会と共催の祈りの集い。全国各地から、主に青年を中心に参加者があり、東京教区からも数名が参加。広島教区と姉妹関係にある釜山教区からも青年たちがおそろいのTシャツで参加。

祈りと、聖公会主教、前田枢機卿、白浜司教による献水に続いて、カテドラルまでの平和行進となりました。今年は、基本的には歌を歌うなどせず、祈りのうちに静かに歩みを進める祈りの行進が企画されました。もっとも黙って商店街のアーケードを歩み続けるのも困難で、途中からは聖歌も聴かれました。でも、祈りのうちに歩み続ける行進にも、意味があると感じます。沈黙の祈りと、聖歌が組み合わさるような企画になればと思いました。

 幟町の世界平和記念聖堂は改修工事中のため、今年の平和祈願ミサは、お隣のエリザベト音楽大学のホールで。司式と説教は岡田大司教。教皇大使や前田枢機卿はじめ、全国の多くの司教司祭が共同司式でした。

 核兵器廃絶は、教皇ヨハネ23世の「地上の平和」から始まって今に至るまで、歴代教皇が強調する優先課題の一つであり、国連などの外交の場でも、繰り返し聖座が主張してきたことです。例えば、2017年の5月2日から、ウィーンで開催された「2020年核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議第1回準備委員会」では、参加した聖座代表は次のように述べて、聖座(バチカン)の立場を明らかにしています。

 「この準備委員会への聖座の参加は『核兵器から解放された世界をめざし、核不拡散条約の文字通りでその精神をくみ取った完全な履行によって、これらの兵器の完全な禁止という目標に向かって働く』その努力に、倫理的権威から協力しようとするものです」(私訳)

 その上で、核抑止力についてこう述べています。

 「核兵器は、間違った安全保障の感覚をもたらします。また、力のバランスによって、後ろ向きな平和(a negative peace)をもたらそうとします。国家は、自らの安全保障を保持する権利と義務がありますが、それは集団安全保障や、共通善や、平和と強く関係しています。この観点から、平和の前向きな理念が必要です。平和は、正義と、総合的人間開発と、基本的人権の尊重と、被造物の保護と、公共へのすべての人の参加と、人々の間の信頼と、平和構築に献身する諸機関の支援と、対話と連帯に基づいて構築されなければなりません」(私訳)

 また2017年9月20日には、聖座は核兵器禁止条約に署名批准し、その際に総会において、バチカン国務省のギャラガー大司教は演説でこう述べています。

 「皆が兵器拡散の重大な影響を非難する一方で、実際の世界では大きな変化は見られません。なぜならば、教皇フランシスコが指摘するように「私たちは『戦争反対』と声を上げるものの、同時に兵器を生産し、紛争当事者に売りつけているからです」

 「二年前の今日、教皇フランシスコは国連総会で演説し『核拡散防止条約(NPT))の文字通りの適用を通じて、核兵器の完全な禁止を目指しながら、核兵器のない世界の実現のために働く緊急の必要性』を強調されました」

 「聖座は、核兵器禁止条約に署名しすでに批准もいたしました。なぜならば、核兵器の完全な拡散防止と軍縮のために、核拡散防止条約の署名国にとって、早い時期に核軍拡競争をやめるため、また核軍縮のための交渉に誠実

09E36255-F46A-4A52-977E-F09C1D6ACE9Dにあたるための取り組みを実現させる大きな前進であり、厳密で効果的な国際的監視下での完全な軍縮交渉に向けての一歩として、全体としては大きな貢献であると信じるからです」(私訳)

 教皇様ご自身は、その後、「戦争がもたらすもの」という言葉を入れた、いわゆる「焼き場に立つ少年」の写真を広く配布したりしたことで、核兵器の廃絶を強く求める立場を明確にしています。

 もちろん、多くの人が、「核兵器のない世界」の方が、「核兵器におびえる世界」よりも望ましいと言うこと自体には賛成していることでしょう。同時に、国際政治の力関係や実際の軍事バランスを考えて、同じ目的地であっても、採用する道筋は異なることも確かです。加えて残念なことに、核兵器を保有している国同士の相互不信は根本で払拭されそうもありません。

 当然、核兵器の廃絶が一朝一夕で達成されるなどと、夢のようなことを考えているわけではありません。しかし同時に、現実は、立場の異なる当事者が、それぞれの採用した道筋こそが正統であり、正しいのだ、と主張するばかりで、目的地の山頂はガスの中に隠れてしまっているような状態です。

 だからこそ、教皇様のあの写真なのです。書類の上の文字ではなく、外交交渉の言葉ではなく、ののしり合いではなく、実際に肌と心で感じる悲しみ、苦しみ、喪失感、嘆き。その具体的な感覚を、具体的な心の叫びを忘れてしまっては、頂上が見えなくなるのです。

具体的な心の叫びをあらためて主張し、見失われそうになった頂上を、あえて見せつけ思いを呼び覚まそうとすることは、祈りとともに、理想を掲げ続ける宗教者の務めの一つであろうと思います。

戦争は想像の産物ではなく、「人間のしわざ」だからです。

(2018.8.11記)(菊地功・東京大司教)(「司教の日記」より転載)

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2018年8月11日

・連載・回勅「フマネ・ビテ」50周年③拒絶するアングロ・サクソン系米国人とイタリア人の違い(Crux)

 (2018.7.31 Crux Editor John L. Allen Jr.

 思ったほどのファンファーレは鳴らなかったが、これまでの回勅で一番論争の嵐を巻き起こし、議論され、悪く言われ、最も熱心な支持者からは、今までに出された教皇回勅の中で「最も誤解され、正しく評価されていない」と言われる、福者教皇パウロ6世の回勅-「受胎調節に関して」と副題をつけられた「フマネ・ ビテ」-が、50周年記念日を迎えた。

 経口避妊薬に「ノー」と言うことで、教皇パウロ6世は、自らの諮問委員会の大多数の期待を拒んだだけでなく、西欧諸国の台頭しつつあった世俗的な、自由志向の文化に背を向けたように見えた。この教皇の決定はカトリックの内部に、現実に決して終わることのない騒動を巻き起こした。

 ある意味で、「フマネ・ビテ前」の時代と「フマネ・ビテ後」の時代が明確になった。私たちが生きている「フマネ・ビテ」後の時代は、より騒がしく、めちゃくちゃで、混乱している。この時代は何事も当然のことと思われることがなく、教皇が「跳びなさい」と言われても、世界中のカトリック信徒が「どこまで高く飛べばいいでしょうか?」と口をそろえて問うことなど、あり得ない。

 今日、「フマネ・ビテ」を「まったくの死文だ」と言うカトリック信者がいる一方で、その意味のより広い先見性と人間の性行動の目的を回復させ、実践しようと決意した力強い少数派もいる。

 これらの異なった反応は、主に異なる見解や意見によるものだが、この回勅についてかなり客観的に言える点は、「明確にカトリックとしての法の理解を十分にさせるやり方だった」、あるいは「少なくとも理解させねばならなかった」にもかかわらず、そうならなかった、ということだ。

 それは、米国を含めたアングロサクソン文化の中でしばしば誤解される点だ。米国のメインストリートとローマの間には、よく知られた精神の「文化的相違」が、様々にある。

 最近の世論調査によると、西欧のカトリック信者の大多数が「フマネ・ビテ」の教えを拒絶している。たとえば、Pew Research Forumによる2016年の調査によると、毎週ミサに行く米国のカトリック信者で「避妊は道徳的に悪いことだ」と思っているのは、13パーセントにすぎない。司牧レベルでも、ほとんどの司祭たちが「一般のカトリック信者たちは、とうの昔に避妊とは折り合いをつけており、わざわざそのことで告解したりしない」と言うだろう。

 多くのアングロサクソン系米国人にとって、それは、ただの行動と法の間の耐えがたい分断にすぎない。なぜなら、我々は法とは「世俗社会の最少共通項」と考える習慣があるからだ。つまり、法は守られなければならないが、守られないときは二つの可能性しかない。厳重に取り締まるか、法が変えるかだ。

 法が法律書に記載されているにもかかわらず、実際には守られておらず、大々的に無視されているなら、米国の文化は我々に「それは組織全体の信用性を弱める」と考えるよう教える。しかし、カトリック信仰のるつぼである地中海文化圏、とりわけイタリアでは、単純に「法がどう理解されているか」ではないのだ。

 イタリアのユーモア作家のベッペ・セベルニーニ氏は彼の著作「La BellaFigura:A Field Guide to the Italian Mind(イタリア人の物の考え方の案内書)」の中で、イタリア人の考え方を完璧に捉えている。

 あの赤信号が見えますか?世界中のどこにでもある赤信号と同じものに見えますが、実はイタリアの発明なんです。あなたが単純に思うような、命令ではないのです。見た目で思わせるような警告でもない。実際よく考えてみるのに、よい機会だろう。それを考えてみることは、馬鹿げたことではない。無意味かもしれない。たぶん。 でも馬鹿げたことではない。

 多くのイタリア人は、赤信号を見ると、彼らの頭脳は禁止された(赤だ!止まれ!通り過ぎるな!)とは知覚しません。代わりに、刺激を感じます。それじゃあ、オーケーだ。何の赤だ?歩行者信号の赤?朝の7時だ。こんなに早い時間に歩行者はいない。つまり、通行可能な赤だ。「完全な赤」と言うわけじゃない。だから、行ってもいい。交差点の赤?どんな交差点だ?見通しのいいところで、道路にはなにもない。だから、赤ではない。「ほとんど赤」か「どちらかといって赤」だ。どうしようか?ちょっと考えて、それから行こう。

 そして、もしすごいスピードで車が行き来する交通の多い危険な交差点の赤だったら?-何の疑問の余地もない。私たちはもちろん止まって、青信号を待つ。フィレンツェにはこういう表現がある。「完全な赤」-「赤」は「官僚的に決まった言葉」、そして「完全な」は「個人的コメント」だ。

 こういう決め方が軽々しくされているのではないことに、注目してもらいたい。それらはほとんどいつも、後で正しかったと分かる、筋道の通ったプロセスを経た結果なのだ。筋道の立て方に失敗したら、そのときは救急車を呼ぶことになる。これが、交通規則であれ、法律であれ、税金であれ、個人的な行動であれ、どんな種類のものであれ、イタリア的な規則の捉え方なのだ。

 もしこれを「ご都合主義」というなら、自尊心から生まれたご都合主義であって、利己主義からではない。彫刻家のベンベヌート・チェリーニは、「自分は芸術家だから、規則を超越している」と思っていた。ほとんどのイタリア人はそこまでは思わないが、「自分たちで規則を解釈する権利はある」と思っている。
私たちは、「禁止は禁止」「赤信号は赤信号」という考えは受け入れない。私たちのやり方は、「それについて話し合いましょう」というものだ。つまり、法というと、「それについて話し合いましょう」と言うのが、いつも、カトリック的本能だったのだ。バチカンは永遠に無差別的で厳格で融通の利かないように思える教令を出す。

 しかし、それは「空間」(地球の隅々まで広く異なる文化圏に広がる1憶3千万の人間のいる教会)と「時間」(2千年を超えて続く伝統)を超越する法律を公布しようとするからなのだ。

 具体的状況にその法をどう適用するかについては、いつも「司祭が穏当な判断をするだろう」という常識的理解が法令には暗号化されている。それは、「不服従」ではなく、むしろ「良い司牧的やり方」とみなされる。

 ある意味で、それが教皇フランシスコの回勅「愛の喜び」が米国のカトリック信者たちの大部分に理解されなくしていた理由のひとつだった。同時に、特定の状況に応じて異なる適用の仕方をするよう用心深く扉を開きながらも、教皇が「法は変えていない」と主張したとき、米国人は矛盾を感じたのだ。

 その一方で、イタリア人は、いつものように「それが仕事」と思った。もちろん、これは、イタリア人の物の考え方を説明しただけで、それを必ずしも擁護しているわけではない。アングロサクソン人の典型が厳正さに向かうのに対し、イタリア人の物の見方に生来組み込まれた悪徳は、無統制だ。それは、内側が腐っていようと、外見をきれいに維持して満足している「bella figura(好印象の) 宗教」についても言えることだ。

 たとえば、ほかの車が2列にも3列にも止まっているローマの通りで車を駐車しようとしたことのある人なら誰でも、きっと、「もう少し交通規則にゆとりがあったって、この国が損するわけではなりだろうに」と言うだろう。

 結論がどうあれ、大事なことは、「カトリックを理解するためには、違いがあることを知っていなければならない」ということだ。おそらく、我々は「フマネ・ビテ」が発布された50年前に、その教訓を学んでいなければならなかったのだ、だが今日、この回勅は、どこから見ても、全く妥当性を失ってはいない」。

(翻訳「カトリック・あい」岡山康子)

・躍動する女性たち(1) 紛争続くタイ深南部に和平を(笹川平和財団)

*笹川平和財団の活動で以下のような興味深い報告が寄せられました。アジアの平和を考えるうえで大いに学ぶところがあると考え、転載させていただきます。(「カトリック・あい」)

(2018.8.3 笹川平和財団ニュース)【Faces of SPF】躍動する女性たち(1)紛争続くタイ深南部に和平を

 女性の社会進出と地位向上、エンパワーメントが叫ばれて久しい。笹川平和財団の職員は約110人。このうち女性が5割以上を占め、財団が展開するさまざまな事業などを牽引している。そこには苦労もあれば、喜びもある。躍動する女性たちにスポットを当て、事業とともにシリーズで紹介する。

 もう何度この地に足を踏み入れたことだろう―。2018年5月中旬、ひとりの日本人女性の姿が、マレーシアとの国境に近いタイの「深南部」と呼ばれる地域にあった。堀場明子。笹川平和財団の「アジアの平和と安定化事業グループ」に身を置き、主任研究員として奔走する平和構築の専門家である。
タイの首都バンコクから南へ1千キロ以上、マレー半島の中部に位置する深南部とは、ナラティワート、ヤラー、パッタニーの3県と、ソンクラー県のうちの4郡(テーパー、チャナ、サバーヨーイ、ナッタウィー)を指す。仏教徒が全人口(約6900万人)のおよそ95%を占め、イスラム教徒は4%ほどにすぎない仏教国のタイにあって、深南部では約200万人の住民の8割が、マレー系イスラム教徒である。
 彼らはこの地域を「パタニ」と呼ぶ。もともと深南部と、マレーシアのクランタン、トレンガヌ両州を含めた地域は、14世紀後半に成立した「パタニ王国」であった。自らを「パタニ・マレー」と自負し、「タイ人」というアイデンティティはもち合わせていない。言葉も、訛りのあるパタニ方言のマレー語を話す。文字は、マレー語をアラビア文字で表記する「ジャウィ」だ。タイにあって極めて異質な土地柄なのだ。
 この地では、「パタニ」の分離・独立を求めるマレー系武装組織と、タイ政府・軍との紛争が長年にわたり続いている。堀場がタイから日本へ帰国した直後の5月20日も、20カ所以上で、武装組織が仕掛けた爆弾が同時多発的に爆発し、タイ軍兵士の詰め所が銃撃された。こうした事件は、武力抗争が激化した2004年以降だけで、1万6千件を超え、7千人以上の死者を出している。深南部一帯には恒常的に戒厳令が敷かれ、軍兵士や民兵などが、1887カ所にものぼる検問所で、不審な車両や人物などに目を光らせている。
タイ深南部の幹線道路には、いたる所に検問所が設けられている

タイ深南部の幹線道路には、いたる所に検問所が設けられている

 だが、紛争の内実は、より複雑怪奇である。数ある事件の中には、軍の「自作自演」のものもあるという。軍や警察に情報を漏らしたり、民兵として雇われたりしたパタニの若者らは、武装組織に「裏切り者」として殺害される。住民の間の傷は深い。
 タイ深南部は、政治的な解決がないまま泥沼に陥っているのである。
 そこになぜ、堀場が頻繁に足を運んでいるのか。笹川平和財団の事業として、タイ政府・軍と武装組織の双方に足場を置き、人的ネットワークを築きながら、両者の和平対話を仲裁、調停するという、決して一筋縄ではいかないミッションを自らに課しているのである。
 堀場はナラティワートとヤラーにある、とある2つの村をそれぞれ訪れた。武装組織のメンバーは村人に紛れている。勢い、軍は村に押し入り、とりわけ若い男たちを連行しては拘留する。村人が口を開いた。
 「この村では、すべての若い男たちが連れていかれたことがあります。1カ月前には100人ほどの兵士が来て、指紋や、DNAの試料を採取された」
 別の村の住民は「拷問を受け告白を強要されました。裸にされて水を浴びせられ、何度も殴られた」と打ち明ける。
 釈放される者もいれば、起訴される者もいる。連行や拘留を恐れ、隣のマレーシアへ逃げ込む者は後を絶たない。
イスラム教徒の村で、女性の住民から話を聞く堀場明子(写真左上)

イスラム教徒の村で、女性の住民から話を聞く堀場明子(写真左上)

 治安維持と人権は、真正面から衝突するのが常である。だが、拷問のような人権侵害が許されていいはずはない。人権侵害から住民らを守り、起訴された彼らを法廷で弁護する法律家集団の非政府組織(NGO)に、「ムスリム弁護士センター」(MAC)がある。関係者は「裁判になっても、証拠がなく自分達が勝訴する場合が多い」と言う。

 堀場はMACをはじめ26のNGOを支援し、密接に連携している。個別に活動していた異なるNGOを束ね、ひとつのネットワークとして機能させもした。

 「一緒に活動した方がいいと考え、皆に呼びかけてまとめた」と、堀場は話す。

 堀場はヤラーでイスラム教のイマーム(指導者)と会い、ナラティワートでは仏教寺院に高僧を訪ねた。イマームも高僧も「この紛争は宗教紛争ではない。和平対話を進め平和的に解決することが重要だ」と、口をそろえた。「今度、イスラム教徒の人たちと、この仏教徒コミュニティーを訪れたい」。堀場は高僧に申し出た。

 パッタニーのホテルでは、仏教徒の集会が開かれていた。堀場を通じ笹川平和財団が支援するNGOが主催したものだ。45人が集まり、いくつかのグループに分かれて和平の在り方などについて議論している。「暴力では問題は解決しない」「対話はテーブルの上にあるだけで、生活は何も変わらない」。和平を希求するが、果たして実現するのだろうか…。参加者のそんな思いがうかがわれた。

「小さき民」の抵抗運動

 紛争の根源と本質を理解するために、歴史を駆け足で紐解かねばなるまい。

 「パタニ王国」はかつて、海洋交易の要衝として栄え、東南アジアにおけるイスラム教育の要所でもあった。パタニから日本の長崎に入港した貿易船の記録も残っているという。この王国を交易拠点とするアユタヤ朝(シャム=タイ)はやがて、朝貢国としてパタニを支配し、何度も反乱を抑え込んだ。

 堀場の共著「中東・イスラーム世界の歴史・宗教・政治」(明石書店)などによると、19世紀に入りパタニは、シャムの中央政府の直轄統治下に置かれる。1902年にはスルタン制も廃止された。そして1909年、マレー半島を植民地として支配していた英国と、タイとの間で、現在のタイとマレーシアの国境が画定される。この国境により、旧パタニ王国の地域は割譲され、末裔たちはタイの深南部と、マレーシアのクランタン州などに分かれて生きることになった。

 深南部ではタイ政府による統合・同化政策が進められ、パタニの人々の反発を引き起こしていく。例えば、マレー語やアラビア語の名前を名乗ることは禁じられ、教育や行政機関での公用語には、タイ語の使用が義務付けられた。
1947年には、カリスマ的なウラマー(イスラム教の指導者)であったハジ・スロンが、タイ政府に対し、公用語としてタイ語とマレー語を併用することなど、7項目の要求を突きつける。彼をタイ当局が投獄したことから、ナラティワートでは暴動が起こった。ハジ・スロンは7年後に釈放されたものの、行方不明となった。

「パタニ」の人々から、今も英雄と仰がれているハジ・スロンの肖像画

「パタニ」の人々から、今も英雄と仰がれているハジ・スロンの肖像画

 この事件の後、政府は統合・同化政策をいっそう強化していく。これに反発を強めるマレー系イスラム教徒は、1960年代から70年代にかけて、パタニ解放戦線(BRN)など多くの武装組織を結成し、武力闘争化していった。
 とりわけタクシン政権下の2004年1月には、ナラティワートにある軍施設への攻撃へと発展し、100人を超える武装集団によって大量の武器が略奪され、4人の兵士が殺害された。この年の4月には、武装集団が「クルセ・モスク」に立てこもり、軍兵士はモスクを襲撃し31人全員を射殺した。さらに、10月には国境の町タクバイで、デモに参加したイスラム教徒がタイ軍兵士に逮捕され、軍施設へ移送される途中に78人が窒息死する事件も起こった。この2つの事件にイスラム教徒は激怒し、反政府攻撃が急増する。
武装したイスラム教徒が立てこもり、射殺されたクルセ・モスク。 多数の弾痕が残っている

武装したイスラム教徒が立てこもり、射殺されたクルセ・モスク。 多数の弾痕が残っている

 堀場は指摘する。「深南部紛争の要因は、政府の同化政策による『パタニ・マレー』というアイデンティティの喪失に対する懸念であり、政府の対応は不正義だという不信感だ」

 タイのある歴史家は「パタニの紛争は、小さき民の抵抗だ」と書いた。武装組織は犯行声明を出すでもない。ゲリラ戦による抵抗運動だという見方もされている。

コミュニティメディアで情報発信

 笹川平和財団の活動の軌跡を概観するとき、息の長い地道な取り組みの連続であることが分かる。
話は8年前の2010年に遡る。笹川平和財団はこの年、深南部での事業を初めてスタートさせた。事業を立ち上げたのは、「アジアの平和と安定化事業グループ」の現グループ長、中山万帆である。この事業の「開拓者」とでもいうべき存在だ。

深南部事業について語る中山万帆

 東京大学教養学部で比較文化を学んだ後、ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院で社会人類学を専攻した。その後、国際交流基金に入り、2001年から2005年まではインドネシアの首都ジャカルタに駐在した。「地元のラジオでJpopを流したり、日本映画をテレビで放映したり、芥川賞作家を呼んでのトークイベント開催や、人身売買調査…。いろいろな国際交流プロジェクトを担当させてもらいました」
 この時期、バリ島での爆弾テロ事件(2002年)があり、中部スラウェシ州ポソでは、イスラム教徒とキリスト教徒との抗争が激化していた。スマトラ島北部アチェ州では、分離・独立を目指す武装組織「自由アチェ運動」(GAM)と、インドネシア軍との戦闘が続いていた。この紛争を終焉へと導いたものは、皮肉なことに、アチェ州に壊滅的な被害をもたらしたスマトラ沖地震と津波(2004年12月)であった。
 中山は2005年8月に和平協定が結ばれたことを契機に、「アチェの紛争地の和解」をテーマに事業を企画する。「紛争の中でもアチェが相当深刻で、アチェから逃げてきた友人の活動家もおり、ひどい状況だと聞いていた。何かやりたいと思った」
 そこで「アチェの中でもGAMの勢力下にあった地域と、インドネシア軍に協力していた地域があり、両方の地域の村から10人ずつ子供を連れてきて、演劇ワークショップを企画した。自分自身が企画したのは1回目のみだ。同僚が取り組みを継続してくれた。3回目のワークショップで参加者に、自分達がどんなに大変だったか、体験を地図にして描いてもらった。ここの林で銃撃戦があったとか、あそこでおじさんが亡くなったとか。書いているうちに、ひとりの男の子が泣き始め、それを見て、紛争下で敵対していた村から来た子供たちが『お前のところも大変だったんだな』と。成長した子供たちとは、今もフェイスブックなどでつながっています」
 中山が笹川平和財団へ主任研究員(当時)として移ったのは、2008年9月のことだ。
 タイの深南部では、クルセ・モスクとタクバイでの事件から4年ほどが経過していた。中山は財団の新たな事業を選定するにあたり、タイ深南部やアチェ、東ティモール、フィリピン南部ミンダナオ島、スリランカの紛争地に赴き調査した。地元の住民、有識者、研究者、ジャーナリストをはじめ、インタビューした相手は160人にのぼる。その結果、新事業はタイ深南部と決まった。
 「聞き取り調査をした時点では、深南部には国際支援がほとんど入っていなかった。宗教紛争ではなく民族紛争という歴史的経緯もあり、バンコクの団体が『パタニ』ヘ入って行っても、地元の人々の信頼を勝ち得ることは難しい状況だった。情報が少なく、わからないことも多い。何かできるのではないか、事業の可能性があると思った」
 ただ、中山は「最初は和平を成立させようと思って始めたわけではなかった。日本の財団による国際的な支援が入ることで、この紛争をもっと国際社会に知らしめたり、現地の人々のエンパワーメントにつながったりすることができないか、と考えた」と振り返る。
 そこで目を付けたのが、「ディープ・サウス・ウォッチ」というNGOと、これが運営するウエブメディアだった。当時はまだ、ディープ・サウス・ウォッチ以外にNGOらしいNGOはなかった。オフィスはプリンス・オブ・ソンクラー大学パタニ

2009年12月、コミュニティメディアの関係者を集め、 「ピース・メディア・ネットワーク」をめぐり議論した

校の構内にあり、トップの所長は仏教徒、編集長はイスラム教徒。このNGOと組み、現地の情報を発信するとともに、コミュニティメディアを支援していく。
 「タイ語やジャウィ語、それにマレー語の新聞もなかった。ただ、コミュニティーラジオは発達していた。マレー語やタイ語でラジオ放送をしているところはたくさんあったので、コミュニティメディアを入り口にできないかと思い、ディープ・サウス・ウォッチをパートナーに支援を始めた」
 コミュニティメディアの約30団体を集め、「ピース・メディア・ネットワーク」を形成し、紛争解決に向けた戦略づくりなども後押しした。

2009年12月、コミュニティメディアの関係者を集め、 「ピース・メディア・ネットワーク」をめぐり議論した

 また、ジャーナリスト育成の目的で講座を開講した。「週1回、10人ほどの若者が参加して記事を実際に書く。プロのジャーナリストにトレーニングをしてもらった」
 ディープ・サウス・ウォッチを通じ、タイ語と英語で、紛争と人権侵害の状況などに関する情報を発信した。「シナラン」(光)というジャウィ語の新聞も発行した。ディープ・サウス・ウォッチとの6年間にわたる取り組みにより、将来目指すべき統治のあり方などをめぐり、地元の有識者やコミュニティメディアの関係者が対話を行う場がパタニに形成され、NGO活動も活性化していった。

2010年10月、笹川平和財団の支援でディープ・サウス・ ウォッチがパッタニーで開催した、政府首脳と住民との対話集会

2010年10月、笹川平和財団の支援でディープ・サウス・ ウォッチがパッタニーで開催した、政府首脳と住民との対話集会

 もうひとつの主要な事業は、パタニの若者を、紛争地であるフィリピンのミンダナオ島に派遣し、平和構築やNGOの活動などについて学ぶ「インターンシップ・プログラム」である。

  「ミンダナオのNGOと協力し、若者たちに約3カ月間、平和構築の実践例を、実際に見てもらった。ミンダナオにはたくさんのNGOがあり、セーフティゾーン(安全地帯)の画定と監視を含むさまざまな平和構築の取り組みを行っている。それでミンダナオを選んだ」

 中山はしかし、時がたつにつれて、こうした活動の限界を感じ始める。「紛争の当事者に近い人たち、爆弾を置いている人たちを対象に訴求しないと、意味がないのではないか」と。

二人三脚の始まり

 その頃、堀場はまだ笹川平和財団の職員ではなく、インドネシアの紛争地での調査を終え、日本に帰国したところであった。その後、民主党衆議院議員の政策担当秘書となり、その傍ら、笹川平和財団から業務委託を受け、タイ深南部の事業に関わり始めていた。
 堀場は北海道札幌市に生まれ、京都で育つ。子供のころは「メチャメチャ活発な子」だった。小学校から高校までミッションスクールに通った。「学校では紛争のビデオを見たり、貧しい人たちの支援をしたりしていた」という。高校生のとき、ユーゴスラビア紛争があった。この紛争こそが、思春期の堀場に「仲裁」という意識を芽生えさせる。
 「日本人は中立的なので、仲介に向いていると思い、どうすればそういう仕事ができるのかと考えた。最初は、国連かなと思っていた」
多民族国家である旧ユーゴスラビアにおける紛争の本質は、「民族浄化」という言葉に象徴されるように、民族紛争であった。一方で、国際社会には宗教対立を火種とする紛争も多い。
  堀場は「宗教を知らなければいけない」と思い、上智大学神学部へ進学する。キリスト教を学んだ。3年生のとき、名門のバチカン市国教皇庁立グレゴリアン大学に2年間、留学した。キリスト論や聖書学、旧約・新約聖書などの授業を受けた。ただ、堀場が特定の宗教を信仰しているわけではない。
 上智大学を卒業後、今度は米国の現ボストンカレッジで、実践神学の修士号を取る。
 「実践神学というのは、単に頭の中で考えるだけではなく、神学的な思考や教えを実践し生かすというものです。私は和平を仲介したいと思っていたので、宗教と社会正義、和平がどうかかわっているのか、勉強しました」。そこで確信したこ

マレーシアとの国境の町スンガイコロク。 堀場明子は国境の川にたたずんでいた

とは「政治が宗教を利用し、紛争を生んでいる。宗教が紛争の原因ではない」ということだった。
 日本に帰国後、母校である上智大学の大学院で地域研究を専攻し、平和構築の造詣を深める。この頃、インドネシア東部マルク州アンボン島では、キリスト教徒とイスラム教徒の住民が対立する宗教紛争が冷めやらず、散発的に爆弾の炸裂音がとどろいていた。堀場は博士号の取得へ向け、調査研究のために2005年から、アンボンに住み始める。
 「イスラム教徒とキリスト教徒の両方の地区でホームステイしました。インフラがズタズタで、電気も水もこない。教会とモスクは焼かれていた」。マレーシアとの国境の町スンガイコロク。 堀場明子は国境の川にたたずんでいた
 マラリアにも2回、感染した。インドネシア中部スラウェシ州ポソなども調査した。そして、東南アジアのマレー系の連帯意識について調べるために訪れたのが、タイ深南部である。インドネシアで活動していたスイスのNGOの現地調査員としても働き、堀場のインドネシアでの生活は5年におよぶ。
帰国した堀場に、ある日、声がかかる。 「ちょっとだけ手伝ってくれませんか」
タイ深南部事業を立ち上げたばかりの中山であった。堀場が深南部を訪れたことがあり、関心をもっていると、人づてに聞いていたのだった。中山と堀場との出会いである。
 「衆議院議員はだいたい金曜日から地元へ帰っていないので、金曜日から月曜日までタイへ行き、火曜日に永田町に戻り、そのまま政策秘書の仕事をする。それを数カ月に一度繰り返していた」

和平対話の仲裁へ

 中山が内心感じていた事業への限界感と、堀場との出会い―。それが相まって、タイ深南部事業を和平対話の仲裁、平和構築の方向へと大きく舵を切らせることになる。
2011年7月、中山と堀場は京都の吉田山荘に、タイとパタニ双方の有識者らを招く。東伏見宮家の別邸として1932年に建てられ戦後、料理旅館となった吉田山荘での3泊4日の会議では、和平について話し合われた。笹川平和財団が初めて間に入り、仲裁を強く意識したこの「京都リトリート」には、タイ議会のシンクタンク、タイ深南部に広く影響力を有する政治家グループ「ワタ派」、ディープ・サウス・ウォッチ、バンコクの公共放送の関係者がそれぞれ顔をそろえた。歴史家と仏教研究者も加わった。いずれも和平に関心をもつ面々である。
2011年7月に開かれた京都リトリート会議

2011年7月に開かれた京都リトリート会議

 中山は振り返る。
「堀場さんと一緒に、『何ができるか』と考えたときに、紛争の政治的な解決を視野に入れ、和平につながる人脈も広げようということになった。専門が仲裁や和平構築の堀場さんに会うまでは、和平まで目指そうとは思っていなかった」

京都リトリート会議の舞台となった吉田山荘

 その後の中山と堀場にとり、タイ側のキーマンとなっていくのが、京都リトリートに出席したシンクタンクの関係者である。この人物との協力関係を深め、それを足場に、国家安全保障会議(NSC)や法務省を含む政府・軍との信頼関係を築いていく。

 この関係者は、武装組織側と水面下で接触していた。そしてある日、堀場と中山に唐突にこう切り出す。
「ある武装組織の幹部と会ってみないか」
武装組織との話し合いに、行き詰まりを感じていたようだ。根底には、双方の根深い不信感がある。

 2012年秋、中山と堀場は会いに行く。2人はインドネシア語に堪能だ。インドネシア語とマレー語は、起源を同じくするいわば「兄弟言語」であり、極めて似通っている。最初、タイ語で話しかけても、幹部からは何の反応もない。それが、マレー語で喋ると、堰を切ったようにパタニの苦境を語り始めた。

 この面会を端緒に、堀場は地道に、そして着実に、数ある武装組織とのパイプを築き、奥深く食い込んでいく。そして、政府・軍と武装組織との非公式な会合を取りもった。深南部の問題には唯一、マレーシアが介在しているが、タイ政府側にも武装組織側にも、日本の民間である笹川平和財団という、利害関係をまったくもたない完全な第三者の存在は、渡りに船だったといえよう。

「おじいちゃん」と「アキコ」

 堀場と中山の熱意と努力は、2013年に入り新たな展開を迎える。2月、インラック首相(当時)が公式対話を開始することを発表したのだ。これを受け、マレーシアの首都クアラルンプールで3月以降、計3回にわたり、政府と、武装組織のひとつであるBRNが交渉のテーブルに着いた。歴史的な出来事だといっていい。
 協議されたのは、①BRNは分離・独立ではなく、パタニ民族の解放を目指す組織であると認める②マレーシアを調停者とする③タイ治安部隊を撤退させ、パタニのマレー系住民の統治権を認める④和平対話を東南アジア諸国連合(ASEAN)、イスラム協力機構(OIC)、NGOなどの立会いの下で行う⑤治安事件で拘留されているすべての容疑者を釈放する―ことである。だが、交渉は進展せず、具体的な成果は得られなかった。
武装組織による爆弾事件の現場。壁の破片の跡が生々しい。和平はいつ…(2012年6月)

武装組織による爆弾事件の現場。壁の破片の跡が生々しい。和平はいつ…(2012年6月)

 それ以上に、タイは、インラック氏の兄で、汚職防止法違反の罪に問われ亡命中のタクシン元首相を支持する勢力と、反タクシン派による激しい政争の渦に飲み込まれた。深南部をめぐる和平対話どころではなくなったのである。タクシン氏の帰国に道を開く恩赦法案を議会に提出した、インラック政権に対する「打倒」の叫び声は2014年5月、タイの「お家芸」ともいえるクーデターによってかき消される。
 実は、この間も堀場は、笹川平和財団による活動と支援をあきらめることなく、仲裁の労を取り続けた。
「和平対話は宙ぶらりんになり、頓挫したと誰もが思っていた。でも和平対話のタイ側の中核メンバーらとBRNの人たちに、複数の第三国で会ってもらっていた。ですから水面下で交渉は続いていたのです」
 陸軍司令官として、クーデターによりインラック政権を崩壊させたプラユット首相は、全権掌握から約7カ月後の12月、マレーシアのナジブ首相(当時)との会談で、和平対話を行う用意があると表明する。そして、アクサラー・グートポン将軍をトップとする新たな和平対話チームが発足した。一方、それまではBRNだけが交渉に臨んでいた武装組織側にも、大きな変化があった。BRNを含む6つの武装組織が束ねられ、共に交渉に参加する連合組織ともいうべき「パタニ諮問評議会」(MARA Patani)が、2015年5月に結成されたのだ。
 大きな変化があった。BRNを含む6つの武装組織が束ねられ、共に交渉に参加する連合組織ともいうべき「パタニ諮問評議会」(MARA Patani)が、2015年5月に結成されたのだ。
 主な武装組織にはBRNのほか、「パタニ統一解放機構」(PULO)、「パタニイスラム解放戦線」(BIPP)、「パタニ・イスラム・ムジャヒディン運動」(GMIP)がある。PULOが内部対立から3グループに分裂しているなど、武装組織は一枚岩ではない。政府との対話と交渉が、もっぱらBRNとの間だけで行われていることに、他の組織は極めて批判的な視線を注いでいた。
 こうした状況を憂慮し、MARA Pataniの結成に奔走したのが、ほかならぬ堀場であった。
2014年9月、堀場はスウェーデンとドイツへ飛ぶ。亡命しているPLOやBRNなどの元指導者らに会うためである。堀場が彼らを「おじいちゃん」と呼べば、元指導者たちは彼女を「アキコ」と呼ぶ。
 「みんな孫がいたりして、おじいちゃんですよ。おじいちゃんと思っていますから。おじいちゃんと話している感じで喋り、思ったことをそのまま口に出す。『爆弾を置くことは国際社会から見ても良くない。そう思いませんか』といった具合です」
 堀場は快活で気さくだ。相手の目を見ながらモノを言い、話を聞き、自然体で接する。物おじすることもない。武装組織と政府の強者たちを相手に信頼関係を築き、「仲裁者

深南部にある学校では、イスラム教徒と仏教徒の子供たちが仲良く勉強していた (2012年6月)

」として受け入れられているのは、彼女のキャラクターに負うところもあろう。
 堀場は「おじいちゃん」たちを説得した。「声をひとつにしないと、バラバラでは交渉できないですよ」
 武装組織側をまとめないと交渉は進まない—。そうした強い思いが、堀場を動かした。

深南部にある学校では、イスラム教徒と仏教徒の子供たちが仲良く勉強していた (2012年6月)

 堀場は「好きじゃないとできない。あちらこちら飛び回って話をし、そうしたことが形になったとき喜びを感じる」と、顔をほころばせる。

 プラユット政権下では今日に至るまで、和平対話は継続されている。傍らには堀場が寄り添い、中山と二人三脚で並走し続けている。

民間だからできることがある

 タイ深南部の紛争は、国際社会からは「取り残された紛争」と揶揄されることさえある。国際社会と海外メディアの関心も極めて低い。その要因はさまざまだが、タイ政府が内政問題だとして、「内政干渉」を盾に関与を頑なに拒絶していることが大きい。また、紛争はタイ全土に広がるでもなく深南部に限定されており、東南アジア地域や国際社会への影響は乏しい。イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)などの国際テロ組織が、流入している形跡も見当たらない。
 堀場は、日本政府が将来的に深南部問題にかかわることへの期待を込めつつ、民間の役割をこう強調する。
 「和平対話を促進する活動に、日本政府が最終的に入るべきだと思っている。その前に民間ができることがもっとあり、先に笹川平和財団という民間が下地を作り、ある程度できた段階で日本政府に入ってもらえばいい。政府はもっと民間と組まなければならない。まず民間がやり、政府が入ってくるというモデルを、深南部事業によってつくりたいと思っています」
 笹川平和財団が深南部事業を始めてから、2020年で10年となる。
 「とりあえずあと2年で、限定的な停戦などを成功させることが、目下の目標です。和平対話にはさまざまな段階があり、完全な自治というものを付与しない限り和平はあり得ませんが、とりあえず武器を置き、パタニの人々も自治について勉強する必要がある。その方向へシフトさせていこうというのが、私の今後の戦略です」
 フィリピンのミンダナオ島での紛争は、終結するまでに40年以上、コロンビア内戦は50年以上を要した。「地道にやるしかない」。堀場の自らに言い聞かせるような言葉からは、強い意志と決意がうかがわれる。
 中山は今後の課題について、次のように語る。
 「タイ側の政治家や上層階級にどれだけ譲歩してもらえるか、そのためのロビー活動が次のフェーズです。また、パタニの人々も暴力ではなく、政治的な要求によって問題を解決していく運動へと洗練されていかなければならない。そこも課題です」
=敬称略(特任調査役 青木伸行)

2018年8月4日

・連載・回勅「フマネ・ビテ」50周年②「フマネ・ビテ」に沿った議論はできるが、「妥当性の是非を論じる」のは駄目

 回勅公布50周年に当たって、回勅の支持者たちは、「フマネ・ビテ」に沿った議論はできるが、妥当性の是非を論じるのは認められない、と言う。50年前に、「フマネ・ビテ」が発表された時、経口避妊薬を「ノー」とするパウロ6世の衝撃的なこの回勅を、批判者たちは「的外れで世間の常識とかけ離れたもの」として排除した。当時のお調子者たちは、回勅を嘲笑し、ビートルズが前年に発表した「Fool on the Hill丘の上の愚か者」の曲、とくに「雲の中にある彼の頭…誰も彼のことを聞きたくない」と反復する箇所を歌ったものだった。

 それから半世紀、回勅の支持者たちは、この回勅が何であろうとも「的外れ」ではない、と言う。例えば、イタリアのギルフレド・マレンゴ師は「フマネ・ビテ」発表当時、「この回勅は、時のしるしをよく読んでいる」と語っていた。

 彼は「『フマネ・ビテ」が公表された時、世界の多くの地域で非植民地化が終わろうとしていた」とし、「多くの国際機関に指示された受胎調節の政策-コンドームの配布と堕胎の合法化のような政策は、多くの国々、とくに発展途上の国々の政策に影響を与えることを、多くの人々が支持するしるしとして懸念されました」。そして、「これらの政策はイデオロギーの植民地化と理解することが出来ます」と。(このような言い方は、教皇フランシスコの言い方に倣ったものだ。教皇は、多くの機会に、「西欧の国々とNGOが貧しい国や地域に対して人道援助の代わりに進歩的な性道徳を押し付けている」ことを「イデオロギーの植民地化」として批判してきた)

 昨年、教皇フランシスコは、この回勅がどのようになって来たかを調べる委員会を設けた。ローマの聖ヨハネ・パウロ2世研究所で神学的人類学を教えているマレンゴ師は、委員会のリーダーで、最近、「 The Birth of an Encyclical: Humanae Vitae in the Light of the Vatican Archives」を出版したが、現在のところ、同書はイタリア語版のみだ。1960年代末には「豊かな西側諸国に広がっていた『反出生』の考え方を、まだ貧しかった新興国に植え付けようとする意志が存在しました」と、彼はemailを通してCruxに語っている。

 バチカンの生命アカデミーの委員を長く務めているインド人医師、パスコール・カバロは、Cruxに対して、「カトリック教会が受胎調節を絶対に支持しないとする一方で、人々はしばしば教皇パウロ6世の「責任ある親の務め」に対する開かれた姿勢を見過ごしてきました」と指摘した。

 教皇フランシスコは2015年の飛行中の機内での会見で、前任の教皇に倣って、一人ひとりが司祭とともに「『責任ある親の務め』をどの様に果たしていくべきか」を追求していく必要性を説き、「ウサギを育てるようにして、良いカトリック信者とするために、という言い訳として、そのように考える人がいますが、そうではありません」と語っている。

 カバロによれば、いくつかの国際機関を駆り立てている課題は、何十年も前と同じように、今日も強力だ。「途上国に対する援助の中には、女性の性と妊娠に関するプログラムに避妊と堕胎の促進とつながるもの」があり、「フマネ・ビテ」のおかげで、そうした問題があり、他に多くの選択肢があることが広く知られるようになっている、と指摘する。

 そして、今、回勅の幅広いビジョンを実現するために、教会はあらゆる場面で積極的にならねばならない、と考えている-妊娠したが出産が難しい状況にある人を助け、養育に困難を感じている家庭を幅広い支援で支え、健康に育ち、社会に貢献する市民となるための教育とその他の手段を提供する、などでだ。

 一方で、マレンゴ師は、家庭生活の中で「教会の内外で、『フマネ・ビテ』の主張と指針が遠い存在とみられたり、まったく知られなくなったりしている」ことも認めている。原因は、回勅が出された当時の議論がもっぱら避妊薬の是非をめぐる意見対立に終始し、その結果、人間的な愛と「責任ある親の務め」となる意義について「フマネ・ビテ」が示した積極的で先見性のある側面を受け入れるようにする方策をイメージするのが、もっと難しくなったためだ、と見ている。

 米国の神学者でカリフォルニアのオレンジ教区の事務局長とケビン・バン司教の神学顧問を兼ねるピア・デ・ソレンニ女史は、「フマネ・ビテ」が今も極めて適切な文書であり続けているとみる1人だ。

 彼女はCruxに対して、「回勅は真の愛についての文書です」としたうえで、現在起きているマカリック枢機卿や他の教会指導者たちが関係する性的虐待について数多くの訴えが出ていることは「暮らしの中で貞節を守っていない時に何が起きるかを、はっきりと示しています」「そして、回勅の教えが無視されると何が起きるかを、とても良く示しているのです」と強調。

 さらに、教皇フランシスコが繰り返し指摘する「使い捨て文化」の考え方に同調する形で、「私たちは愛を軽視し、人々を利用しているのです」と述べ、「避妊しなければ、堕胎の必要もない。私たちが、まだ生まれていない人の命を、重荷であり存在すべきでないもの、とみる避妊の心理に取り込まれることで、堕胎は存在するのです」と断言した。

 アメリカ・カトリック大学の学生で神学と哲学を専攻するジャンヌ・マリー・ハサウエイも、教皇の回勅で書かれた女権拡張運動への訓戒は、その当時、「女性の権利の否定を意味するもの」と広く受け止められていた、と見ている。「結局のところ、避妊と堕胎は、社会が、女性の扱いで重大な改善をしないようにする”バンド・エイド”です」「教会は、人間の尊厳のレンズを通してすべての問題を見るようにする文化への移行を提唱し、避妊と堕胎を否定したのです」。生殖能力啓発(Fertility Awareness)を基礎にした家族計画の手法は、女性に彼らの体の中に異なる道を提示している-それは、男性に、命の複雑さを認識し、敬意を払うように求めるものだ、という。

 「堕胎や避妊(あるいは両方)は、人類の繁栄-もっと言えば、女性の繁栄-のために必要、とする考え方は、人生は、私たちが望むことと実際に起きることの間の均衡をとる行為、とする壊れた世界観からくるもの」「性は『私たちが望むもの』で、生まれてくる子供たちは『私たちに起きること』という考え方です」。これに対して教会は「より深い現実への強力な声です-人生はそれほどきちんと整ったものではない」、そして「これは特に性の領域で真実です。そこでは、二つの命が三つと一つになるように、共に力を合わせるのです」としている。

 生物倫理を教える倫理神学者のスペイン人司祭、ホセ・ラミロ・ガルシア師は、「フマネ・ビテ」が、すべてのキリスト教の教会の基本的に共通の教えとして使われることで教会一致の運動にも意味をもつ、と主張する。それは常にはっきりとは見えないが、当時の教会内部の反応によって影響されている、と言う。

 さらに、「当時、司教たちの中に、回勅に反対する人がいたことは、回勅の実施に、とても否定的な影響を与えました」とし、具体的に、全世界で、四つの司教会議が、回勅公布後に司牧書簡を出し、バチカンの指針に拘束されない旨を表明した事を挙げた。その一つがカナダの司教協議会で、司教団として、「ウイニペグ声明」として知られることになった、回勅に反対する立場を示す書簡を出した。

 ただし、カナダ司教協議会は今年になって、その改訂版として「結婚の愛の喜び」と題する声明を出し、前の生命よりも回勅に前向きな姿勢を明らかにしている。「多くの人が、回勅を、避妊を否定するメッセージに矮小化し、誤解していましたが、回勅の本当のメッセージが、イエス・キリストが私たちに約束された命の豊かさへの力強い”イエス”だということを、今、再確認しているのです」とガルシア師は語った。

 そのカナダのクリスチャン・レピーネ、モントリオール大司教は、カナダ司教団の態度の変化は時の流れるに一因がある、と見ている。「回勅が公布された時、もっぱらの関心は避妊にありました」とCruxの電話インタビューに語った。「しかし、時とともに、避妊が人々の生活にいきわたると同じように、視野が広がり、回勅が示す他の側面すべてとその基礎を知るようになったのです」と。

 さらに、「回勅が出た1968年は今とは違っていた」とし、この回勅とその教えを前向きに捉えなおすために、なお多くのことをする必要があるが、「その基礎」は、回勅を補強するヨハネ・パウロ2世の神学とともにある、と説明。「このtheology of the body(身体の神学)の中に、愛することの使命、他に対する使命、互いが互いのためにあるという賜物、を見る人が時を追って増えています。夫婦の霊的交わりと愛の豊さとともに、です」と語っている。

 (「theology of the body」はヨハネ・パウロ2世が教皇となって初めの何年かに、129回行ったサンピエトロ広場での毎週水曜の一般謁見のテーマだった)

 Pew Research Center(ワシントンに本部を置く独立系の社会研究所)が2016年に行った世論調査によると、毎週教会のミサに出ている米国のカトリック信者の中で「避妊が道徳的に誤った行為である」と考えている人は、わずかに13パーセントだった。

 学生のハサウエイにとって問題なのは、一般の信徒が教会の教えを拒んでいることではなく、そもそも、教えを理解していないことだ。「私たちは教会の教えを一行か二行にしてしまっています-『避妊は悪いことだ、だからできない』と言うようなものです」。そして、こう言う。「私たちの社会は、こう言います-避妊は人間の命において大きな部分をつなぐ欠かすことのできない小さな部分だ、生粋の、恋愛に適した関係、自由と冒険、充足と安定だ、と」。

 だが、彼女にとって、そうした見方は「疲労困憊で嫌気のさる生き方」につながる。ばらばらになった部品は全体で一つになる、という現実を見損なっている。回勅は、全体についての『青写真』-「人類は神と関係を持つために創造され、家庭は関係を学ぶ学校、家庭の基礎は男性と女性の友情にあることを、基本に置いているのです」。そして彼女は言う。「パウロ6世は、避妊をばらばらになった部分としてとらえていました。それは人間生活の接着剤ではない、と」。

 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・国民の3割以上が「民主主義は機能していない」-言論NPO日本の政治・民主主義に関する 世論調査

1.日本の将来をどのように見ているか

日本の将来に6割が悲観的、8割が高齢化と人口減少に有効な対策がないと回答

 日本人の6割近くが、日本の将来を悲観視しており、その割合は昨年から10ポイント近く増加している。その理由として8割を超す人が、「急速に進む高齢化と人口減少に対して有効な対策がない」を選んでいる。「安心できる社会保障制度や年金制度がない」も6割を超え、昨年から20ポイント以上増加している。「政治家や政党自身に課題解決の能力を期待できない」も5割を超え、同じく昨年よりも20ポイント増えている。

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2017年の選択肢 ※1「経済成長が停滞しており、今後の立て直しの道筋が見えないから」、※2「安心できる健康保険制度、社会保障制度が整っていないから」、※3「政治はポピュリズムに傾き、政治リーダーや政党自体に課題解決のための能力がないから」、※4「メディア報道をはじめ、ジャーナリズムや言論の力が後退しているから」、※5「中国の台頭や朝鮮半島の問題など安全保障面での課題が多いから」、※6「国際テロや難民の増加など、解決が難しい世界の課題があるから」

2.日本の民主主義は機能しているか

3割以上が「機能していない」と回答。現在の政党、首相、国会の在り方を問う声が多い

 日本の民主主義が「機能している」と考えている人は4割程度にすぎない。これに対して「機能していない」は3割以上存在している。民主主義が「機能していない」と考える理由で多いのは、「首相の姿勢」や「政党の機能不全」、「国会の議論の形骸化」など、現在の政治のあり方を問うものが多い。ただ、「選挙の低投票率」、「有権者の無関心さ」など、有権者側の姿勢を問うものも3割前後見られる。

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3.政党に課題解決を期待できるか

6割が、日本の政党に日本が直面する課題の解決を期待していない

 日本が直面している課題の解決を、政党に「期待できる」という人は2割に満たず、「期待できない」と考える人は6割近く存在する。その理由では、政治家は選挙に勝つことが自己目的化し、政党も選挙に勝つための野合に過ぎず、選挙公約も形骸化し、国民に向かい合う政治が実現していない、と判断している人がそれぞれ3割以上存在する。大部分の人は、政党や政治家の能力以前に、日本の政治は、直面する課題解決に真剣に取り組んでいないと見ている。

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4.民主主義を機能させるために、改革が必要な部分

「国会」と「政党」、そして「行政」の改革を合わせて半数以上が求めている

 日本の民主主義を機能させるために、改革や立て直しが必要な部分としては、「国会」が最も多く、次いで、「政党」、「行政」の順となっている。ただ、「わからない」と判断できていない人も2割いる。

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5.民主主義体制を支えるどの機関を信頼しているのか

「政党」「国会」「政府」に対する国民の信頼は1割から2割台、逆に7割程度が「自衛隊」と「警察」を信頼している

 6割から7割の日本人が、「信頼している」のは、「自衛隊」や「警察」といった実力組織と「司法・裁判所」である。逆に、5割から7割近くの日本人が「信頼していない」のは、選挙に基づく「国会」やそこから選出される「首相」、議会制民主主義を支える不可欠の要素である「政党」、さらには健全な世論形成において大きな役割を期待される「メディア」などである。しかも、それらを「信頼できない」割合はそれぞれ前年から増加し、特に「政党」は今年7割を超えた。もっとも、同じように選挙で選出された首長や議員によって構成される身近な「地方自治体」に対しては、「信頼している」が半数を超えている。

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6.義務投票制の是非

 日本人の6割は義務投票制を「望ましい」と捉えている。

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7.民主主義は望ましい政治形態なのか

半数近くは民主主義を好ましい政治体制と考えるが、確信を持てない層も半数存在する

 日本人の47.1%と半数近くが、民主主義はどんな他の政治形態よりも「好ましい」と答え、依然として日本では、民主主義に対する信頼は厚い。しかし、「一部で非民主的な形態が存在しても構わない」や「どんな政治形態でも構わない」が2割程度存在し、これに「わからない」と加えると、民主主義に対して確信を持つことができていない人が半数を超えている。

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8.世界の民主主義の状況をどう見ているか

民主主義の世界の動向を楽観視する人は4割存在するが、同じく4割は判断しかねている

 世界の民主主義の動向を「世界の民主主義は盤石」、「民主主義自体を否定する大きな問題ではない」など楽観視する見方は4割を超えている。ただ、悲観的な見方は2割に満たないものの、「わからない」と判断しかねている人も4割近い。

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9.民主主義の今後

半数が問題を抱える民主主義の将来を楽観視しているが、3割は今後を判断しかねている

 世界の中で、民主主義に対する問題は頻出しているが、民主主義自体を否定する動きにはならないと見る人が3割を超え、今後も中心的な制度として民主主義が機能すると判断する人を加えると、半数が民主主義の今後を楽観視している。民主主義の衰退・滅亡を予測する見方は1割に満たない。ただ、判断しかねている人も3割いる。

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10.強靭な民主主義をつくり出すために、必要なこと

4割が、市民の主権者たる姿勢の回復が強靭な民主主義を作り出す、と考えている

 4割近くの日本人は、強靭な民主主義をつくり出すためには、エリート層ではなく、まず市民自身の姿勢を問い直すべきだと考えている。「強靭な民主主義を作り出すことは難しい」は6%にすぎず、日本人は自らの努力によって民主主義を強靭なものとすることは十分に可能であると考えている。

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調査の概要

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2018年8月2日

・連載・パウロ6世の回勅「フマネ・ビテ」50周年①当時も今も、避妊問題で賛否の論争続く(CRUX)


 

Then and now, teaching of ‘Humanae Vitae’ triggers earthquakes

Pope Paul VI is pictured in a June 29, 1968, photo at the Vatican. (Credit: CNS.)

[Crux編集者より:この論考は、パウロ6世の回勅「フマネ・ビテ」公布50周年を迎えてのシリーズ第一回です]

(2018.7.26 Crux Vatican Correspondent   Inés San Martín

 教皇パウロ6世の回勅「フマネ・ビテ」が公布されて29日で50周年を迎える。この回勅は、パウロ6世が出された7番目で、かつ最後のものだったが、恐らく近代の教会の歴史の中で最も議論を呼び、今もなお議論を呼んでいる教皇文書だ。性の革命が起きている時代に、避妊についての教会の教えを堂々と支持することで、激しい賛否両論を巻き起こした。

 英語の“On the regulation of birth”よりも、ラテン語のタイトル“ Humanae Vitae”で世界的に良く知られたこの回勅は、1960年代末期の世界に大きな衝撃を与えた。パウロ6世は広範な批判的な反応に心を痛められ、これ以降、教皇の残された10年の任期中に新たな回勅を出すことはなかった。

 回勅が引き起こした教会内外での揺れは、今に至っても感じられる。今でも、教会の外においてでさえも、この回勅による教えを捨て去るように、現教皇に迫る、強力な政治的、社会的な勢力が存在する。二週間前にも、英国の国際開発担当相がバチカンを訪れ、若い女性たちがもっと避妊をしやすくするようにと、バチカンの高官たちに要請している。

 こうした一方で、教会内部にも、異議を唱える声が多い-司教、司祭、一般信徒が一緒になって、教会のこの問題についての教えを変えるように、あるいは告解の時に、この問題をあからさまに無視する(罪に問わない)ように、との要求だ。2014年に実施されたUnivisionの世論調査では、回答したカトリック教徒の79%が人工的な避妊についての教会の教えを拒否している。

 だが、このようなことは今に始まったことではない。この教えに反対する声は、回勅が公布された年に、世界の7つ司教協議会が回勅の内容に批判的な姿勢をとった時から始まっているのだ。

動揺―当時、そして現在

 批判的な動きの指導的役割を演じたのはカナダの司教団だった。司教団は、回勅が公布されて二か月後の1968年9月に「ウイニペグ声明」として知られる文書を発表したが、そこには「ある程度の人数のカトリック教徒が、教会のこの問題に関する教義のすべての点を守ることは極めて困難、ないしは不可能と感じている」と書かれており、これが、広範なカトリック教徒の間に「受胎調節が認められた」と感じるような”抜け穴”を提供するもの、との認識を持たせることになった。

 この声明では、この問題の議論の中心は、良心の個人的信教の自由の役割と重要性にある、と指摘したが、批判的な立場を明確にしたのは、カナダの司教団だけではなかった。ベルギーの司教団も、公表した文書の中で、避妊について「十分な裏付けのある判断」をもとに回勅が提示した内容と異なる結論に達した場合、その人が誰であっても「劣ったカトリック教徒とみなされるべきではない」と言明していた。

 回勅公布から25周年を迎えても、教会内部での賛否両論の噴出は続いた。1992年5月、イタリアの月刊誌 Jesusが掲載した当時のバチカン教理省長官、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(前教皇ベネディクト16世)との対論で、ウイーン大司教、フランツ・キューニク枢機卿は、パウロ6世のこの回勅を「人工的な避妊と自然の避妊を腹立たしく差別するもの」という、後に有名になった言葉を述べた。そして「この問題について、私たちは、何よりもこの差別ゆえに、行き詰ってしまう。まるで、道徳的な視点から見ても、重要なのは『自然をだます策略]でもあるかのようにです」と書いている。

 だが、1968年以来の回勅に対する批判的な言動に対して、回勅を支持する声も出されてきた。現在のインターネットでは見ることはできないが、今なお代表的な回勅支持の言明とされているのは、1968年10月にスコットランドの司教団が発表した文書だ。文書は冒頭で、回勅への批判が引き起こした「驚きと混乱」と、信徒たちの間に生まれた反対の動きについて述べ、「教皇は、(この回勅で)キリストの代理として、卓越した牧者、教師としての職務において、語られている…したがって、彼の教えは、受け入れることを求めるものである」としている。さらに、司教団は、良心が果たす役割と、人々が「従う権利と義務」を持っていることを確認した、としつつ、「人はそれ自身が法ではない。彼の良心は完全に自立してはいない。良心の果たす役割は、我々の行動が道徳的に良いものか悪いものかを判断することだ。だが、そうした判断は、正しいか誤っているかについての健全な規律を基礎に置いていなければならない」と言明した。

 そして、論争はさらに続いている。

 ワシントン大司教のドナルド・ワール枢機卿とロサンゼルスのホセ・ゴメス大司教に代表される米国の高位聖職者たちは最近、回勅を擁護する姿勢を打ち出した-ゴメス大司教は、ツイッターに投稿し、この回勅は「予言」かつ「約束」として読まれるべきだ、と述べた。一連の投稿で、大司教は、過去を振り返ることで、回勅が出された1968年に、どのように世の中が受け入れる用意ができでいなかったのかが分かる-当時は「人間の自由と愛についての新しい考え、伝統と権威に対する新しい姿勢が台頭する時代だった」と説明。さらに、パウロ6世が50年前に警告した事の多くがその後に起きている、とし、具体的に「離婚、不倫、ポルノの氾濫から、試験管ベビー、堕胎の蔓延まで、『人口動態の冬』、そして、性差、性欲、今日の社会で目にする人格についての全面的な混乱状態」を挙げている。

 そのうえで、ゴメス大司教は、この回勅がどれほど必要とされていたか、そして、今、かつて以上にどれほど必要とされているかを、世界は知らなかった、と批判。最後に、この回勅は「幸せと愛についての書簡。福者・教皇パウロは『神の愛のデザイン』について書いている-彼が私たちの前に示したのは、幸せに導く道。結婚による愛は、その計画の一部だ」と締めくくった。

 ワール枢機卿は、回勅公布の29日に先立ち、回勅が署名されて50周年の25日にブログに投稿して、「性的行為がしばしば娯楽とみなされ、その結果を考えることのない現代において、回勅のメッセージは世界に対する反駁のしるしであり、挑戦である」と述べるとともに、「それはまた、神の計画における人類、男性と女性の尊厳と役割、補完と平等についての基本的な理解に立ち戻るもの」とし、「さらに、私たちには真実の霊の約束があり、教会が建てられているペトロの岩の教えに、道徳的確信をもって信仰を置き、歩むことができる」と語っている。そして、パウロ6世の直近の後継者からベネディクト16世に至る回勅の支持者の発言を調べ上げた。

 今日では、回勅をあからさまに批判する枢機卿や大司教の発言を聞くことは稀になっているが、高位聖職者たちの間で批判する動きが無くなった訳ではない、とイエズス会士のトム・リース師が最近、 Religion News Serviceに書いている。

 彼はその中で、今日、多くの人が、この回勅は「避妊が性を生殖・出産と分離させ、不貞、女性の蔑視、性差の混乱、同性婚につながる」ことを確信したことで予言的だった、としたうえで、論争は回勅全体についてされたことは一度もなく、「人工的な避妊のどれも」を禁ずる内容についてだけ、なされてきた」と主張した。そして、避妊が「問題」のすべてを引き起こした、との見方を暗に示しつつ、(だからと言って、人工的な避妊をすべて否定することは)「道理に反し、人生におけるある時点で避妊具を使ったことのある良い人々すべてに対する侮辱だ」と強調した。彼によれば、「避妊が誤っていると単純に判断することは、教会にとって、おそらく不可能だ。教会はそのことに得意ではない」が、堕胎は「はるかに重い悪。堕胎するよりも(妊娠を回避する)受胎調節を選ぶべきだ」と言明している。

 教皇フランシスコは2014年10月のパウロ6世の列福式で、回勅「フマネ・ビテ」に関して直接言及するのを避けた。だが多くの関係者は、その時の彼の説教の「世俗的で敵対的な社会の台頭に直面して、(福者パウロは)先見性と叡智をもって、いつも一人で、使徒ペトロの船の舵をしっかりと操られた」という言葉から明確なメッセージを受け取った。さらに2015年に訪問先のフィリピンで地方の競技場で何百組の家族を前にして、次のような、もっと直接的な言及をしている。

 「人口増加の問題が起きた時、(パウロ6世は)家族の生命への寛大さを堅持する勇気をお持ちでした… どの家族にも困難があることをご存じでしたから、ご自分の回勅で、特定のケースに対して慈悲深さを示し、告解を聴く司祭たちに、特定のケースの人々に深い慈しみと理解をもって対応するように求めました… また、教皇は、幅広い視野をもっておられました-この地上の人々を見つめ、子供たちがいないことで壊される家庭の恐ろしさを知っていました。パウロ6世は勇敢な方でした-良き牧者であり、ご自分の羊たちに狼が迫ってくるのを警告されました」と。

 教皇フランシスコは、この回勅の内容を承認する踏み込んだ意思表示と受け取られるかもしれない中で、10月の「若者シノドス」の開催期間中に、パウロ6世を列聖する予定だ。

 *パウロ6世の回勅「フマネ・ビテ」の英語原文からの翻訳全文はノボトニー・ジェローム神父( OMIオブレード修道会士)編集のページでご覧になれます         ⇒http://japan-lifeissues.net/writers/doc/hv/hv_01humanaevitae-ja1.html

2018年7月26日

・性的虐待による信用失墜から教会を立て直すために、教皇は何ができるか(CRUX)

(2018.7.25 Crux Managing Editor  Charles Collins

 聖職者から性的虐待を受けた被害者とその支援者たちにとって、先週の一連の出来事で、教会がまだ「浄化」からほど遠いところにあることを、改めて強く思い知らされた。

 米国の前ワシントン大司教のセオドール・マカリック枢機卿が性的虐待問題でさらなる追求を受けただけでなく、9人の枢機卿による教皇顧問団の1人を補佐するホンジュラスのホアン・ホセ・ピネダ・ファスケレ司教が神学生に対して性的行為を働いたとの訴えを受けた後、辞任したのだ。教皇顧問団の枢機卿では、フランシスコ・ザビエル・エラズリス枢機卿もチリで聖職者による児童性的虐待を隠ぺいしたとして訴えられている。

 南北アメリカだけではない。インドではフランコ・ムラッカル司教が性的暴行を受けたとして修道女から訴えられた-彼女は司教の上司である東方典礼カトリック教会の代表、ジョージ・アレンチェリー枢機卿にこの件を申し立てたが無視されていた、という。そして、バチカンの財務事務局長官で、出身国のオーストラリアで公判中のジョージ・ペル枢機卿は20年前の児童性的虐待容疑で再度、出廷した。

(以上の枢機卿、司教たち全員は、容疑を否認していることも指摘しておく必要があるだろう。)

 そして、バチカン自身の改革努力もまた暗雲に包まれ始めた。

 米有力紙ワシントン・ポストは23日付けの記事で、ボストン大司教で米国の性的虐待問題対策委員会の代表であるショーン・オマリー枢機卿が、マカリック枢機卿の被害者とされる1人から手紙を受け取った、と報じた。これに対して、オマリー枢機卿の補佐官は「対策委員会は、現地の司法当局の手にある個々の問題を扱わない」とし、「教会と神の民のためを、あなた方が思い、気にしてくださっているのを感謝します」と語っている。(24日に発表された声明では、オマリー枢機卿は、問題の手紙を個人的に受け取っていない、と主張していた。)そのような言葉は、多くの被害者の心に、共感と彼らが約束した協力を示すものとして響くことはないだろう。

 全体として、この問題は、同じパターンが繰り返されている-ある国が大きな性的虐待スキャンダルに見舞われ(例えば、2000年代に米国ではボストン大司教区、アイルランドではフェルンズ・レポートがきっかけに全国に広がり、2010年代には、チリのフェルナンド・カラディマ神父問題から、オーストラリアの幼児性的虐待に関する王立調査委員会の調査から、全国に広がった)、続いて、隠されていた性的虐待事件の洪水が起きる。バチカンで会議が開かれ、改革が始められ、「二度と繰り返さない」という宣言が出される―そして、また別の国で、危機が噴出する、という具合だ。

 教皇フランシスコがこのような好ましからざる現象から距離を置くのは、日増しに難しくなっている。自身の顧問団の9人のうち3割が一連の性的虐待スキャンダルに汚染されている。ペル、マラディア、そしてエラズリスの3人は全員が75歳の定年を超えており、辞表は教皇のデスクに置かれているが、受理されていない。

 司教のピネダ・ファスケレも”一か月前”に辞任を教皇に申し出たが、20日まで職務を続けた。マカリック枢機卿は引退はしたが、教皇の腹心の友であり、米国の教会に関しては教皇の”耳”であり続けている。

 司教は罰せられる場合でさえも、ピネダ・ファスケレのように、ほとんどいつも、理由も明らかにしないまま、辞任することが認められている。実際、グアムのアンソニー・アプロン大司教は、複数の児童に痴漢行為を働いたと訴えられ、3月にバチカン裁判所で有罪とされた時、声明で、”いくつかの違反行為”で有罪のなった、とされただけで、具体的な”違反行為”の内容は明らかにされなかった。

 マカリックの問題が噴出して以来、多くの問題が話されてきた-特権と秘密主義に基礎を置いた聖職者文化、現代の聖職で同性愛が演じる役割への認識の誤り、長老たちの多くが持つ好ましくない性的な気質に対して司教や他の高位聖職者の目を閉じさせるスキャンダル露見への恐れ、そして、”友人たち”を守り、昇進さえさせるネットワークなどの問題だ。

 問題はとても複雑で、大きく、幅広いため、教会特有の”風土病”と言ってもいいくらいだ。そして、病が”風土病”になった時、それに立ち向かう一人ひとりの一歩は常に、不十分であり、結局は無駄なように見え、恐らくは教皇の問題、ということになる。しかし、踏み出すことのできるもっとも第一歩が存在しない、とは言えない。もしも、教会の児童保護の指導的な専門家を見回せば、次のようなことに近い、いくつかの方策を聞けるだろう。

 

1.ルールと基準を公表し、利用しやすくすること

 教皇フランシスコは聖職者による性的虐待について、使徒憲章を出すことができるだろう。それによって、枢機卿、司教たちを含めてすべての聖職者を対象とする形で、現在の関係法令すべてをまとめ、いくつもの法令が輻輳し、勝手な解釈がなされないようにすることだ。一般信徒の運動と組織の無秩序な群立も避けるようにすることも必要だ。

 憲章を作成にあたっては、透明性を確保し、一般信徒の専門家も加える必要がある。また、幼児ポルノ、職業的な反倫理的行為(神学生や教区の職員を性的に誘惑するなど)、そして性的虐待行為の隠蔽を含む関連の犯罪も対象とすべきだ。教皇は、教会のすべての成員-被害者、加害者、そして信徒全員-が明確で理解可能なプロセスに参加する資格があるという声明の形で文書を提示することが考えられる。

 確かに、一つでどんなケースにも通用するような解決法というものは、さまざまな異なる場所、文化の中で起きる状況の複雑さから考えて、機能しないだろう。それでも、教理上の定型と典礼上の慣行のような、重要な問題に対処する基準に類似したものを課するようにすべきだ。そうしなければ、多くの人々にとって、なぜ児童保護が深刻さにおいて同じレベルに評価されないのかを理解するのはむつかしいだろう。

 

2.正義は法廷で判断するもの、”行政官庁”で、ではない

 現在のところ、聖職者による性的虐待の所管は、バチカンの教理省にある。その大半の理由は、聖ヨハネ・パウロ2世教皇の下で、後にベネディクト16世となる当時の教理省長官、ラッツィンガー枢機卿がこの問題を扱う、と決められたためだ。今、教皇フランシスコは、性的虐待だけを扱い、捜査と起訴を担当する専門家を集めた司法機関をバチカンに設ける必要があるだろう。そこで行われる一連の過程は、透明でなければならず、判決結果も公表される必要がある。

 バチカンはすでにいくつかの経験をしている-バチカン市国の裁判所は最近、いくつかの裁判に報道関係者の参加を認めている-”バチカン内部の機密漏洩”に関する裁判に弁護側証人として報道関係者が出廷し、幼児ポルノの所持と配布でバチカンの外交官が有罪判決を受けるにあたっても、報道関係者が大きな役割を果たした。

 だが、注意すべきは、バチカン市国の裁判所が教会ではなく一国の裁判所であり、その裁判は-米国の法制度と異なる欧州共通のローマ法制度の下にあり-法廷で行われる。これに対して、教会の裁判は、文書業務に近いものだ-証言は離れた場所から文書で送られ、それらの文書をまとめたホルダーが回し読みされる。結果として、その”透明性”の中身は、人気の米国のテレビドラマ「Law & Order」の話ほどドラマチックにはなり得ない。

 

3.”腐ったリンゴ”を追い出すために、さらなる努力が必要

 教皇は、教会の高い地位に就ける候補者を適切に調査・選別するために、新たな手続きを定める必要がある。たとえ、それが、反対意見があれば表明できる時間を認める公けの

 「指名手続き」と意味することになってもだ。現在、教会で起きている危機は、調査・選別をこれまでよりももっと厳しく行う必要があることを示している。将来の高官ポストの指名には、対象となる人物のこれまでの人間関係、財務面での記録、そして、業務執行に問題がある過去の経歴など、徹底した審査が必要になる。

 重ねて言うが、この分野について知識のある一般信徒の専門家が審査に関与すれば、結果は信頼性の高いものになるだろう。

 

4.火事があったら、燃えさしの一つも残らないように消し去ること

 PRの権威者が今、カトリック教会に言うとしたら、それは、現在起きているスキャンダルを収束させるために、関係のある高位聖職者を排除することが必要だ、と決めてかかることではない。神学生たちに色目を使う司教は共犯者を誘い込んだかもしれない-タイで休暇を過ごすことを好む幼児痴漢常習者は一人で旅行に出かけることはしない。

 この種の退廃した行為の捜査にはまた、特別の専門技能と専門的な経験をもつ捜査担当者が必要だ。教会は、国際刑事警察機構(INTERPOL )その他の捜査機関(米国の連邦検事局(FBI)、英国のロンドン警視庁(スコットランドヤード)は、複雑な犯罪捜査で他国を助けることが多い)と連携する意思を表明すべきだろう。

5.司教退任の規定を最新のものに

 教会法401条は、司教が退任できる理由を挙げているのは、「75歳に達した」ことと、「体調不良、ないしは他の重大な理由」の二つしかない。この条項には、新たに”羊飼い”たちが酷い不正を働いたら退任を求められることを人々が知る権利があると認識したうえで、「不正行為」を退任理由として加える必要がある。同様に、体調不良や他の正当な理由で辞めようとする司教たちは、悪行の嫌疑をかけられない権利をもつ、ということも。これらの改革が教会での性的虐待問題を終結させるとしても、恥ずべき司祭たちによって被害者たちにもたらされた身体的、心理的、精神的な損傷が癒されることはないことに、誰も異論を唱えることはないだろう。だが、恐らく間違いなく、被害者たちは、真の改革への一連の長期にわたる検問所が出来たことを、少なくとも認識するのではないだろうか。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

 

2018年7月26日

・ピタウ先生とともに-長崎巡礼回想記・・連載中

先人の苦しみ、殉教の上に、私達の信仰があることを考えよう

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ヨゼフ・ピタウ先生略歴: 1928年イタリア生まれ。カトリック教会大司教。52年来日。上智大学教授などを経て学長(1968-1981年)。1981年ヨハネ・パウロ二世の要請によりローマへ。法王庁立グレゴリアン大学学長、法王庁科学アカデミー事務総長などを歴任。2004年再来日、2014年12月26日イエズス会ロヨラハウスで帰天。

 

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 2009年7月下旬、3泊4日で五島列島の教会群を巡礼しました。上智大学のピタウ先生のお誘いで実現した忘れられない旅でした。長崎・天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産に登録される9年前のこと。ピタウ先生がお元気だったころの旅が、今も、昨日のように鮮やかに蘇ります。

(筆者・枝川葉子=えだがわ・ようこ=ピタウ先生を語る会代表)

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 初日は浦上天主堂など長崎市内を巡って、福江島へ

 長崎に着いた初日は、浦上天主堂で長崎巡礼の機会に恵まれたことを感謝し、また旅の無事を祈りました。長崎大波止港からフェリーで、福江島へ。船内にもシスターや神学生らしいかたの姿があり、ピタウ先生を見ると皆さまがご挨拶に集まっていらっしゃいます。長崎が日本での第二のふる里とおっしゃるピタウ先生ですが、こんなに長崎の方に親しまれているのに感激しました。

「私達は、生き方で周りのひとに信仰を伝えなければならない。愛の証し人となるのです」

                            

 福江島は堂崎教会から水の浦教会でミサ、井持浦教会へ

 巡礼初日のこの日は、堂崎教会、水の浦教会でのミサの後に、楠原教会へまいりました。この教会は、信徒達の労働奉仕によって赤レンガを積み上げて建てられた教会です。レンガ一つ一つに込められた信徒たちの労苦の汗と喜びが感じられました。お昼は「遣唐使ふるさと館」にていただきました。

 そして午後は、まず井持浦教会です。

井持浦教会
「井持浦教会」

  この教会は日本で最初のルルドの泉として有名で、ルルド出現の聖母に捧げられています。入り江を見下ろす小高い丘の上に建てられていて、腕を広げた白いキリスト像が「いらっしゃい」と私達を迎えてくれました。五島の信徒たちが島のあちこちからゴツゴツした岩を持ち寄ってフランス西部のルルドの洞窟に似せて作りました。

「井持教会ルルド」
「井持教会ルルド」

 聖母像は現地から取り寄せて据えたもので、ルルドの水を求めて巡礼者が全国から来るそうです。私達もまずは喉を潤し、それぞれ水筒やペットボトルにルルドの水をいただいて持ち帰りました。
私達を乗せたバスは山道を登って大瀬崎断崖園地に到着しました。

 天気予報では台風が近づいているそうですが、見渡すかぎり真っ青な空と海に突き出た大瀬崎灯台の美しい姿がくっきり見えます。大瀬崎に立つ灯台がまるで海を守るキリスト像にも見えました。海からの風が気持ちよく、お天気に恵まれていることにも感謝感激でした。ここからは福江港に向けてひたすら下っていきます。

 福江港からはチャーターしたモーターボートに乗り移りました。静かな港から五輪港を目指します。海上は波穏やかでトビウオになった気分で五輪港に到着しました。旧五輪教会は補修の為、聖堂に入ることができませんでしたが、入口から見学いたしました。

旧五輪教会
「旧五輪教会」

 外観は海辺の民家にしか見えなかったのですが、中は素朴な作りながら見事な聖堂で信徒たちが大切に大切に守ってきた祈りの神聖な場所であることがそのたたずまいから感じられます。

キリシタン洞窟に入る

  ピタウ先生とご一緒の五島列島巡礼ツアーが始まったその日のうちに、禁教令を逃れた信者たちの祈りの場を訪れて信心の奥深さを体感することになりました。

 そして午後遅く、五輪港からボートでキリシタン洞窟に向いました。

  遠くから眺めてもキリシタン洞窟の岩場に大きな波飛沫が上がるのが見えます。はたして船を岩場に横付けして洞窟を見学できるかどうか。洞窟近くの岩場にうまく船を着けることはできたのですが、波に揺れて岩場に乗り移るのがひと苦労です。

キリシタン洞窟入口
「キリシタン洞窟の入口」

 最初に強者数名が岩場に飛び移り、腕をとりサポートして他のメンバーと三輪先生ご夫妻、ピタウ先生までも岩場へ移ることができました。

 しかし平らなところは全くない大きな岩、岩、岩です。三輪先生ご夫妻とピタウ先生はその場に留まってお休みいただき、いざ洞窟へ。洞窟へ入るまでは、まるで探検の気分。

 ガイドさんの話によると、キリシタンたちは陸伝いでは行けない、このような島の突端の洞窟へ追い詰められ、潜んで生活していたそうです。

 洞窟に入ると、ひんやりして外とは空気が違っています。大きな天井岩の見上げる位置に楕円形に削ったところがあり、その中に誰かが浮き彫りにされています。

キリシタン洞窟の上部に円形の頭部が彫られていたのはマリアさまか。
キリシタン洞窟の上部に円形の頭部が彫られていたのはマリアさまか。

 そうしたら、誰ともなく天使祝詞を唱え始めたのです。しかも古い天使祝詞でした。

 「めでたし、聖寵みちみてるマリア、主は御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内の御子イエズスも祝せられたもう。天主の御母聖マリア、罪人なる我らの為に、今も臨終のときも祈りたまえ。アーメン」

 天使祝詞を唱えながら涙が溢れました。

 この洞窟で密かに生活を始めたキリシタン達でしたが、船で巡回して見張っていた役人に、朝餉の支度で岩の間から煙が立ち上るのを発見されて捕らわれたと聞きました。胸が痛む悲しい話でした。

 五輪港からボートで向かったのが冒頭の、キリシタン洞窟でした。再び揺れているモーターボートに一人ずつ乗り移り、今度は上五島の郷の首港へ向かいます。 上五島町に到着し、巡礼1日目が無事に終わりました。感謝。

 

2日目・・・まず堂崎天主堂から―五島キリシタン受難と勝利のシンボル

 2日目は、まず福江島の堂崎天主堂からスタートしました。聖堂に入る前にピタウ先生のお話しがありました。「私たちの先輩達が信仰を守るためにどれだけ自分たちの命を捧げて生きていたか。その先輩達の苦しみ、殉教の上に、私達の信仰があることを考えましょう。私達は、生き方で周りのひとに信仰を伝えなければならない。愛の証し人となるのです」

 この教会は長く厳しい弾圧を耐え抜いた五島キリシタン受難と勝利のシンボルだそうです。聖堂の中に入ると、ピタウ先生は一番前のベンチへ進み静かに祈られました。私達も五島キリシタンの殉教者と信者たちが力を合わせて材料を集めて立てたことを思いながら祈りました。

堂崎天主堂

マリア像
堂崎教会と、その横の緑の中にたたずむ白いマリア像

 2009年7月22日 堂崎天主堂の次に廻ったのは、水の浦教会で、こちらでごミサを捧げました。この教会は、日本二十六聖人に捧げられた教会で、1880年パリ外国宣教会ザルモン師によって創建され、その後1938年現在の聖堂が建設されました。

                           「水の浦教会」 水の浦教会

 ミサの前に、ピタウ先生は、ようやく信仰の自由が認められて信徒たちは喜びのうちに貧しい生活の中から労働奉仕、材木を売ったお金やレンガを寄付して建てられた歴史を話されました。

 大工の棟梁、鉄川与助についても、彼自身は亡くなるまで仏教徒で通したが、明治40年に手がけた木造の冷水教会が最初で、30ほどの教会建設に関わったとのこと。自然と共同体と日本の伝統を大切にし、それに調和した教会建築を心掛けたというその精神を学びました。

 「この地域の信徒たちが力を合わせて建てた教会で、キリシタンたちの思いとメッセージに心を傾けましょう。この教会と共同体の為にミサを捧げて、もう一度私たちは、日本での布教のことを考えましょう。私が日本に来た頃は、まだ第二バチカン公会議の前でしたから、キリスト教の話をするときに、あまり日本の文化や伝統を重んじてはいなかったのですが、第二バチカン公会議後からは、Inculturation、その国の文化を深く学び、それを尊重して、どのようにしてキリスト教との接点を見出すか、そのような研究、そして愛と努力を持って宣教するように教わりました。今日のミサで、その恵みにも感謝してお祈りいたしましょう」。

水の浦教会で、自殺者を想い、苦しむ子供たちのために祈る

 ピタウ先生は、1981年秋にヨハネ・パウロ二世の要請でローマで要職につかれ2004年に再び日本へ戻られました。そして一番ショックを受け悲しかったのは、この11年間に年間3万人以上の若者が自殺しているニュースでした。

 「日本に戻ってきて一番の苦しみは、毎年3万人以上の自殺者のいることです。これは戦争と同じです。日本人ほど平和を愛する国民はいないはずです。子供と話す、信頼し合う、深い関係を築く、物を与えるのが愛ではありません。お母さまの愛、お父さまとの信頼関係があれば決して自殺はしないはずです。今日はこの素晴らしい水の浦教会で、苦しんでいる子供たちのため、その家族の為に祈りましょう」。

 ピタウ先生は、水の浦教会で宣教師たちがいなくなった後、信仰を命がけで守ってきたキリシタンへの思いで、お話にも気持ちが入りたくさん語られました。

腕を大きく広げたキリストが迎えてくれた 

 上五島での巡礼は、大曽教会からスタートしました。バスから降りて、階段を登って教会に着くや、「わぁー」、「あぁー」と感嘆の声が聞こえてきます。

大曽教会
大曽教会

  小さい素朴なレンガ造りの教会の前に、腕を大きく広げた白いキリスト像が迎えてくれました。十字架は腕を広げたキリストの象徴でもあり、その腕でいつでも私たちを受け入れて守ってくださっていると、以前、ピタウ先生が語られたことを思い出しました。
聖堂内は、可憐な花のモチーフのステンドグラスを通して明るく光が降り注いでいます。
最初にこの教会が完成した時の信徒たちの喜びは如何ばかりだったでしょうか。

大曽教会聖堂
大曽教会聖堂

絵本の世界のような上五島の教会

 次に訪れたのが、冷水教会です。バスを降りて、さらに長く急な階段を登りつめると、白い六角の塔ととんがり屋根がありました。まるで絵本の世界です。

冷水教会
冷水教会

 聖堂に入ると赤い椿が並んだステンドグラスが印象的です。この教会の信徒の殆どが外海から迫害を逃れて移住してきたそうです。お庭には、アーチの中に手を広げた白いマリア像が立っています。海からも見える白い教会とマリア像は、多くが漁民という信徒たちの心をしっかりと支えていることでしょう。

 3カ所目は、冷水教会の奈摩湾を挟んで対岸にある青砂ヶ浦教会です。
ここの信徒達もやはり外海からの移住者の子孫だそうです。先祖のたどった厳しい歴史を背負い、特に信仰篤い地域で、この教会から多くの聖職者が育っているとバスガイドさんから聞きました。最初に紹介した、潜伏キリシタンの末裔の方です。彼女の迫害やキリシタンの生活についての話は、真に迫っていて心に訴えます。

青砂ヶ浦教会
青砂ヶ浦教会

  この教会はレンガ造りですが、内部は木造で、教会外面は足場が組まれ、聖堂正面部分も修理中の為、大部分がブルーシートで覆われていました。ピタウ先生はここでも全く変わらず一番前のベンチでひざまずいて祈ります。

島のセミに負けじと声をそろえて聖歌を歌う

  午前中の最後に訪れたのは、鯛ノ浦教会でした。聖家族に捧げられた教会で、正面に聖家族像が優しいほほえみで私達を迎えてくれました。奥に建つ旧聖堂はレンガ造りですが、その鐘楼の一部に、被爆レンガと言われる原爆で崩壊した浦上天主堂の被爆したレンガが使われています。

鯛ノ浦教会旧聖堂

鯛ノ浦教会でミサ、蝉時雨の中でピタウ師の力こもる説教

                                                        鯛ノ浦教会旧聖堂

 昭和50年代になって建てられたモダンな聖堂で、ミサが捧げられました。こちらでは「お告げのマリア修道院」のシスターがオルガンで聖歌の伴奏を弾いて下さいましたので、外のうるさいほどの蝉の声に負けないで、声を揃えて聖歌を歌うことができました。

鯛ノ浦教会
鯛ノ浦教会

 ミサでのピタウ先生のお説教も力が入っていました。

「イエズス様は弟子たちに『祈るときはこのように祈りなさい』と教えて下さいました-天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり 地にも行われますように。私たちの日ごとの糧を 今日もお与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します。私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」。

 ピタウ先生のお言葉が続きます。

「主の祈りの一語一語を噛みしめて祈ろう」

 「今日、私たちは、イエズス様が『主の祈り』を教えてくださった時の言葉を中心に、長崎の長い十字架の道、長崎の守った信仰を、長崎が正に自分たちの努力で建てた教会のことを考えながら、改めてじっくり味わうことにいたしましょう。

 イエズス様は、この長崎の経験してきた歴史を実際に見て学ぶなかで、そこに生きた信徒達が、どのような心を抱いて、どのような心の動きを感じて、そしてどのような決定をしたのかを感じる力を私達に導いてくださいます。ごミサの中で、主の祈りの言葉を一語一語かみしめて祈る中でより深く導いてくださるのです。

 ラテン語の主の祈りは、「パテール、パテール」(父よ、父よ)と言う言葉ではじまります。私たちは神様にたいして、子供のように、「お父さん」「父よ」と呼ぶのです。まず第一に生命を父である神から受けたのです。そしてすべての恵みの始まりは、全ての感謝の心は、生命が与えられたことです。本当に神様が私たちに与えた最高の恵みは生命です。そして私たちに命ばかりでなく、「心の生命」とも言うべき信仰を与えてくださいました。私たちは二つの意味で神様を御父、お父様と呼ぶことができるのです」

 私たちが祈る時に、本当に心を打ち明けて愛するお父様と話しているかどうか。子供は、何か危険を感じると、お父さん!とすぐに助けを求めます。その信頼。私たちは、毎日信頼できるお恵みを神様からいただいています。さらに大きな恵みとして洗礼の恵みを受け、私たちは心の生命、新しい生命をいただいたのです。また祈りの中には教育の要素も入っています。教育も神様からいただいたお恵みです。神様は私たちに、教育の精神を残してくださいました。

 日本では、旧約聖書、新約聖書と言いますが、欧米では第一契約、第二契約と言っています。キリストが生まれて、第一契約を完成させるために第二契約があった訳です。神様は、私たちに第一契約と第二契約によって生き方の模範を示して下さったのです。

「私たちが『父よ』と呼び掛ける時、全世界の兄弟、姉妹とつながる」

 私たちは神様への絶対的な信頼と、神様は私たちの父であり、全世界の人々のお父様ですから、すべての人はみな兄弟姉妹なのです。その気持ちを子供たちに日常の会話の中で伝えていくことが大切です。日々の生活の中で、私たちが「父よ」と呼ぶとき、そしてその父の子どもであるとき、全ての人間が兄弟であり姉妹であることを教えている訳です。私たちの毎日の祈りの中で全世界の人と繋がります。

 そしてそこから、今、苦しんでいる人たちのことに心向けられます。私の兄弟は、本当に苦しんでいる、飢えている、お互い殺し合っている、自分の国から逃げ出さざるを得ない、しかし住むところがない・・・。そのような兄弟のことを自分の兄弟のこととして感じているでしょうか。主の祈りを唱える時、そのような心で苦しんでいる人のことを兄弟姉妹として思いを至らせなければ祈る意味がありません。

 私たち一人一人が出来ることはほんの小さなことかもしれませんが、みんなで協力すれば困っている人、苦しんでいる人を助けることができるのです。何かできることがあるでしょう。「天におられる私たちの父よ」と主の祈りを唱える時に、このような気持ちを持ってお祈りしましょう」

「日本語の『人間』は『主の祈り』と精神で一致する、もっと助け合わねば」

 日本は戦後、憲法で戦争をしないと定めましたし、戦争で一人も人を殺してはいません。本当に日本の最高の誇りだと思います。しかし、そのことを神に感謝すると共に、昨日のミサで申し上げたこと、自殺者のこと―どうしてこんなに経済的にも発展し、文化も高く、平和を愛する国なのに、11年間毎年3万人以上の自殺者を出しているのか。どうしてでしょう。私には分かりません。

 これはまず第一に家

庭の責任です。しかし周りの人々の責任もあるのです。どうして誰も知恵を出して苦しんでいる人達を助けないのか分かりません。どうして誰も、家族、学校の友だち、先生方、近所に住んでいる方々はどうして何も知らない、あるいは知りながら知らん顔をしているのか。主の祈りを唱える時、そのことも考えなければならない。皆、神様の子どもです。そして私たちの兄弟姉妹です。

 その意味でも主の祈

りの言葉の意味を考えましょう。平和のこと。私たちはミサの中で、何度も何度も平和を祈ります。平和―その

ミサの後もピタウ先生は静かに祈ります

平和とは、戦争の反対語の平和だけではありません。戦争しない平和も勿論あります。しかし日常生活の中で、お互いに助け合う、心を通わせる、そのような周りとの平和なつながりの関係―その平和的な繋がりとは、私たちの周りの一人一人を大切にすることなのです。

 私は、1952年に日本に来て日本語学校ではじめて「人間」と言う言葉を習った時に、日本語の尊さに感激いたしました。「人間」と言う言葉は、人間一人を意味しますか? お互いに助け合って、人と人との間の関係を人間と言うのです。日本人は余り意識していないかもしれませんが。

「苦しむ人に手を差し伸べよう」

 私たちは人間として、苦しんでいる人を見たら、手を差し伸べて助けなければなりません。一緒に寄り添って歩まなければなりません。「人間」という言葉は、「主の祈り」とその精神で一致しているのです。日本の伝統の中で、このようにお互いに助け合って、寄り添って歩んで、やっと「人間」になるのです。

 私たちの家庭、共同体、私たちの周りの社会で、誰かが苦しんでいるのです。その人に、人間として兄弟姉妹として手を差し伸べるのです。あなたのことを気にしていますよ、と目と笑顔を向けるのです。この優しい心をもって、毎日のミサの中で主の祈りを唱えましょう。今回の五島列島の教会巡りのお土産として、皆さまに差し上げましょう。

 隣の人々、家庭、自分の周りの人々、世界中の人々はみな兄弟姉妹です。みな神の子です。私たちは周りの一人一人を大切にして、祈りで世界とつながることができます」

ミサの後もピタウ先生は静かに祈ります

 ミンミンミーンと蝉の元気な声が続いている中で、ピタウ先生の上智の精神にも通じるお話しが胸を打ちます。ミサの後、シスターが修道院で採れるミカンを絞ったジュースを振る舞ってくださいました。一口飲むや、ぱぁっと笑顔が広がっていきました。

7月23日・・頭ヶ島教会から・・土井ノ浦教会

 7月23日の午後は、まず頭ヶ島教会を訪ねました。山の中腹に建つこの教会は、頭ヶ島産の石材で建てられた総石造りです。鯛ノ浦の信徒たちが、幕末まで無人島だった頭

頭ヶ島教会

ヶ島へ迫害を逃れて住み始め、その中心人物がドミンゴ松次郎でした。
1867年に伝道士養成所を建て、1887年に最初の木造の教会、そして1919年に現在のロマネスク

頭ヶ島教会

様式の教会が7年の年月をかけて建てられました。教会の敷地内では、ドミンゴ松次郎の像やキリシタン拷問五六石之塔、プレール師信徒同伴殉教の碑などが見学できます。

頭ヶ島教会

 次に訪ねたのは、中ノ浦教会です。入り江の水際に建つかわいい教会で、静かな入り江の水面が鏡のように教会を写しています。聖マリアに捧げられたこの教会は、聖堂に真っ赤な椿のモチーフが描かれて、きっと椿もマリア様に捧げられているのでしょう。

中ノ浦教会
中ノ浦教会

 中ノ浦教会の次に桐教会を訪れました。丘の上に建つ赤い屋根と白壁の大きな教会が遠くからも眩しく見えました。今まで見てきた教会とはスケールが違います。若松の瀬戸の守り神のように建っています。

桐教会
桐教会

桐教会
桐教会 

この教会の礎は、外海から移住した信徒たちにより築かれました。1897年に最初の教会が建てられ、現在の聖堂は1958年に改築されたものです。こちらの聖堂でも一番前のベンチで静かに祈るピタウ先生の姿は印象的でした。教会の敷地内には、ガスパル与作親子らの顕彰碑が建てられています。

五島列島の最後に訪問したのは、土井ノ浦教会です。位置的にはキリシタン洞窟からもっとも近くにあり、屋根が緑色の六角塔とモダンな印象の教会ですが、聖堂内は、伝統的な様式が美しく、五島列島巡礼の最後の教会です。鯛ノ浦教会でのピタウ先生のお話しを胸に祈り、感謝いたしました。

土井ノ浦教会
土井ノ浦教会

土井ノ浦教会 五島列島最後の夜は、若松島の民宿に泊まり、翌朝、奈良尾港からジェットフォイルで長崎大波止港へ向かいました。その奈良尾港の待合室でのこと、ピタウ先生にお一人の神父様がご挨拶にいらっしゃいました。それは長崎教区の古巣馨神父様でした。お互い懐かしそうに握手して満面の笑顔です。この時は、古巣神父様と私達「ピタウ先生を語る会」メンバーが特別なご縁で繋がるとは全く予想もいたしませんでした。

古巣馨神父様と
古巣馨神父様と

  古巣神父様は、2015年の信徒発見150周年を記念して「劇団さばと座」の信徒発見の劇「そしてサンタ・マリアがいた」の脚本を書かれ監督されました。そのDVDを2016年秋に「ヨハネ二十三世」DVD上映会の為に長崎を訪れた折に、元浦上教会主任司祭の小島栄神父様からプレゼントされました。
そのDVDを鑑賞し感動した仲間達で、是非海外に紹介したいと英語版DVDの製作を企画したのが、「カロル日本語字幕版DVD製作委員会」(ピタウ先生を語る会の活動グループ)のメンバーです。

  ピタウ先生が繋げてくださったご縁や導きは本当に計り知れません。しかもその時には気がつかないのです。ピタウ先生のお導きで、DVD「そしてサンタ・マリアがいた」英語版DVDの完成にむけて最終段階にはいり、力を合わせて頑張っているところです。

 

 長崎へ戻る・大浦天主堂・そして巡礼の旅の終わりに

大浦天主堂

 

大浦天主堂

 長先に戻って、まず国宝の大浦天主堂へ向かいました。日本二十六聖人に捧げられ、殉教の地、西坂の方角を向いて立っています。坂道を上り教会への階段を上ると、天主堂の正面の「日本之聖母像」に迎えられました。

大浦天主堂のマリア像

 この像は、信徒発見の奇跡を記念してフランスから送られたもので、「日本之聖母」という命名はプチジャン神父だそうです。まずは巡礼の無事と心豊かに学ばせていただいたお恵みに感謝し、信徒発見のサンタ・マリアにご挨拶いたしました。このサンタ・マリアこそ1864年長崎居留地に最初に建てられたフランス寺と呼ばれていた大浦天主堂での1865年の信徒発見の証人です。敷地内には、「信徒発見の記念碑」も立てられています。

大浦天主堂
信徒発見の記念碑

  1865年、奇跡の信徒発見のニュースは世界中を感動させ、地元でも記念行事が行われましたが、その後、浦上の四番崩れの悲劇が起こります。

 1549年フランシスコ・ザビエルの来日から始まるキリスト教布教、1612年の禁教、250年の潜伏、そして1865年の信徒発見とその後の迫害の歴史は、世界に類を見ないドラマですし、その後も1945年の原爆の被爆というこれも世界に類を見ない悲劇がありました。

 その困難な状況のなかで信仰を貫いて生きてきたキリシタンが、その後禁教令が解かれた後、自分たちの手で教会を建てようと力を合わせて築き上げた教会群を巡り、キリシタンの信仰、家族の絆、人への思いやり、命の大切さ、平和の尊さを考えてきました。

 現代に生きる私達は、全くの信教の自由が守られ、経済的にも環境的にも不自由の無い生活をする中で、少しでも長崎キリシタンの信仰に倣うことができるでしょうか。周りの方々へ心を通わせる努力をしているでしょうか。平和について自分と子供や孫たちに直接かかわる問題として真剣に考えているでしょうか。ピタウ先生のお話になった言葉を自分の生活の中の柱として、これからの信仰生活の糧にしたい、と思いました。

  その後、二聖フィリッポ西坂教会

十六聖人記念館でレンゾ神父様に館内を案内していただきました。そして、西坂公園の向いにある聖フィリッポ西坂教会を訪ねました。今回の長崎最後の教会です。

聖フィリッポ西坂教会

西坂教会 聖堂 ピタウ先生の締めくくりのお話

 ピタウ先生が今回の旅の締めくくりにお話しをされました。

「この西坂の教会は、メキシコの信者達からの援助で建てられました。二十六聖人の一人、メキシコ人の聖フィリッポへのメキシコの信者たちの尊敬と信仰の結晶です。
今日、大浦天主堂、二十六聖人記念館と西坂の教会を巡ってきましたが、「信者」という意味は何でしょうか。「証し人」です。神の愛をまわりのみんなに知らせる、証しする。私達は、その使命がある神の子です。
私達は、長崎のキリシタンが禁教を解かれ再出発した教会群を巡ってきましたが、単なる教会巡りではありません。私達の信仰のルーツを巡礼してきました。250年の間、日本の信徒達は一人も司祭がいない状況で、自分達の信仰、カトリック暦を正しく守るために命がけで親から子へ、子から孫へと語り繋いできました。
それが出来たのは、日本人の素質もあるでしょうが、最も大きな要素は、各家庭がしっかりしていて、家庭の教育があったからこそ受け継がれてこられたのです。家庭の大切さをこの3日間お話ししてきましたが、ご自宅に戻られてあらためて家族との愛、信頼関係を確めてください。そして現代的な問題、自殺の問題、拝金主義的な社会で生きるカトリック信者として、私達はしっかりした心構えが必要です。
皆さま、お家に帰って素晴らしい家庭を育て続けてください。教会の土台は家庭です。そして良い家庭がなければ、良い信徒と良い司祭は生まれてきません。家庭ばかりではありません。仕事の場でも、どこで働いても、神様の国のために働くことができるのです」

 この後、ピタウ先生は、私達全員に祝福を与えてくださいました。何か大きな勇気を与えられた気がいたしました。

(続く)

2018年7月20日