・「皆さんに直接お話しできるのは大きな喜び」-聖ヨハネ23世の日本向けラジオ放送から60年

(2019.2.15 バチカン放送)

 バチカン市国から日本への初めてのラジオメッセージが、教皇聖ヨハネ23世によって届けられてから、17日で60年を迎える。日本時間1959年2月17日早朝(現地時間16日深夜)、教皇聖ヨハネ23世(在位1958-1963)がバチカンから日本に向けて初めてのメッセージをラジオを通して送られ、この言葉をもって、バチカン放送の日本に向けた定期的な放送が開始された。

 バチカン放送のマイクを通して述べられた聖ヨハネ23世のラテン語メッセージは、次のような内容だった。

「日本の皆さん、『わたしたちは皆さんに率直に語りかけ、わたしたちの心は広く開きました』(参照:コリントの信徒への手紙2・6章11節)この喜ばしい日に、大海をへだて、遠く離れた日本の司教様方をはじめ、司祭、修道者、すべての信者たちに、初めてバチカンからラジオを通して直接にお話しすることができるのは、わたしにとって大きな喜びです。祝福と、平和、希望、そして聖霊の喜びが、常に皆さんと共にありますように。

 イエス・キリストの証人であり、すべての国々の希望である皆さんのキリストへの信仰は、言葉と行いによって輝き渡っており、また、あなたたちの良き評判は、すべての人々に知れ渡っています。『すべての気高いこと、…すべての聖なること、すべての愛すべきこと、すべての誉れあること、すべての徳、すべての賞賛に値すること、これらのことを心に留め、…学んだことを、実行しなさい』(参照:フィリピの信徒への手紙4章8節)

 日本民族は、昔からその勇敢さ、忍耐強さ、優れた芸術によって、高く評価されています。父としての心をこめて、神の御母、聖母マリアにそのご加護を祈ります。永遠の輝き、正義の太陽である神よ、あなたの光で日本の人々を照らしてください。その恵みによって、キリストの福音を抱き締めることができるよう助け、すべての悪から守り、豊かな恵みを注ぎ、今もいつも幸せをお与えくださいますように。アーメン」

 聖ヨハネ23世は、このメッセージを述べた後、同じくラテン語により、荘厳な教皇祝福を与えられた。

 日本への初放送の模様を、当時の「オッセルバトーレ・ロマーノ紙」は、次のように伝えている。「昨日、月曜日(1959年2月16日)23:30、教皇ヨハネ23世は、特別なメッセージを通し、ラジオ・バチカンの日本語による定期放送の開始を祝われた。日本語の放送は、今後、月曜日、水曜日、金曜日の同時間に放送される。教皇はラテン語で話され、日本の司教、司祭、信徒らのために、また、気高く偉大な日本国民すべてのために、特別な言葉をもって神の恵みを祈られた。教皇は、公邸の聖ヨハネの間で、マイクに向けてお話になった…」。

 バチカン放送そのものの放送開始は、1931年2月11日。ローマ教皇庁とイタリア王国の間にバチカンの独立と主権を認める「ラテラノ条約」が締結された1929年2月11日から2年後に、無線電信の開発者、グリエルモ・マルコーニ(1874-1937)を技術責任者とし、当時の教皇、ピオ11世(アキーレ・ラッティ 在位1922-1939)の第一声をもって始まった。マルコーニのイタリア語による導入の挨拶と、教皇のラテン語のメッセージから始まったバチカン放送は、次第に放送言語数を増し、1958年末の試験放送を経て、1959年に日本語放送が始まることになった。

 バチカン放送の日本語放送開始時の責任者は、東門陽一郎神父であった。週3日の放送からスタートした日本語番組は、その後、毎日、朝晩2回の放送に成長し、司祭、修道者、信徒らの協力のもとに、42年間にわたり続けられたが、2001年3月25日、多くのリスナーに惜しまれながら終了した。日本語放送終了とほぼ同時に、バチカン放送局のインターネットサイトに、日本語によるニュース記事の掲載が始まった。2017年から18年にかけて、バチカン放送局のホームページは、徐々にポータルサイトVATICAN NEWSに移行。 2018年7月より、VATICAN NEWSサイトを通し、日本語のニュースが配信されている。

(編集「カトリック・あい」)

バチカン放送の誕生

(「カトリック・あい」の連載コラム「Sr.石野のバチカン放送今昔」②より)

  「神の至高のお望みにより、使徒および神のご命令によって、教会の教えをすべての人、およびすべての被造物に説く使命を帯びる者として、まず、すべてのもの、すべての人に今、そしてこれからも・・・、聖書のことばをそのまま引用して、『天よ聞け、大地よ聞け・・・すべての人々よ、聞け』と申しましょう・・・」

 無線電信の先駆者、グリエルモ・マルコーニ設立のマルコーニ社製マイクの前に立った教皇ピオ11世は、マルコーニに促され、感動に震える声で、世界の人々に呼びかけられた。それはラテン語だった。

  1931年2月12日、時の教皇の第一声を電波に乗せて、世界に伝えた・・・バチカン放送の誕生である。 

 当初は「バチカン放送局」というよりは、世界に散在するカトリック信者と教皇が直接コミュニケーションをする手段として作られたので、「教皇のプライベートなコミュニケーション手段」という性格が強かった。このため、マイクの前に立つことができたのは教皇だけで、枢機卿さえ立つことができなかった。

 バチカン放送を教皇のプライベートなコミュニケーションの手段から大きく形を変えさせたのは、第二次世界大戦だった。戦中から戦後にかけて、ヨーロッパ各地で戦っている兵士と家族を電波で結んだり、戦地に行ったままで消息を絶っている兵士の情報を内地に向けて提供したり、反対に家族の様子を戦地に伝えるなど、双方のコミュニケーションに目覚しく貢献した。

 電波がもつ威力を知った教皇庁は、徐々にラジオ放送の働きの輪を広げていった。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2019年2月16日

・「若者シノドス」の最終文書・骨子と全文(翻訳中・2月16日更新)

*「若者シノドス」最終文書骨子

 *「若者シノドス」最終文書は、約一か月にわたる協議をもとに、起草委員会が原案をまとめ、364か所の修正、追加を経て、全体会議に提出され、詳細に、建設的に検討されたうえ、採択に必要な出席司教たちの3分の2の支持を得て、正式文書となった。会議閉幕直後にシノドス事務局が発表した最終文書の骨子は以下の通り。(バチカン放送)

第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

 最終文書の第1部では、若い人々の生活の具体的な諸側面を考察している。

 学校と小教区の重要性を強調し、多くの司祭と司教がオーバーワークとなっていることから、一般信徒が若者に寄り添う訓練を受ける必要があることを確認した。またカトリックの教育機関のかけがえのない役割にも言及。また、課題として、効果的でなく、生き生きとしていないことが多い召命への取り組み、とくに要理教育に関して、小教区の役割を再考する必要が指摘された。

 移民、性的虐待、”使い捨て文化”に関する若者の現実に関する記述も盛り込まれた。とくに、性的虐待に関しては次のように呼びかけた-「そうした虐待が繰り返されることのない、厳格な予防策の実施を固く約束する。まず、指導と教育の役割を担う人物の選定と編成から始める」。

 第1部では、このほか、芸術、音楽、スポーツについても、司牧の手段としての観点から言及されている。

第2部「”彼ら”の目は開かれた」

 第2部ではまず、若者たちを、主が自らを現わされる「聖書に基礎を置いた(神学的な)場」である、というシノドスの認識を示したうえ、若者たちのおかげで、教会は「鈍重さと対応の遅さ」を振り払い、自らを刷新することができる、としている。

 さらに、「(宣教の)使命」は、確実な、持続する幸せをもたらす賜物であるがゆえに、若者たちにとっての「確かな羅針盤」であること、「使命」の概念は「召命」と密接につながっており、洗礼による召命は聖性への呼びかけであること、を指摘している。

 また、別の二つの側面-「使命」の発展における助けと若者たちの召命は、寄り添いと識別の二つの側面をもっていることにも触れている。

第3部「”彼ら”は遅滞なく、発つ」

 シノドスの司教たちが示した人物は、復活したイエスに最初に出会ったマグダラのマリア。すべての若者たちは、様々に異なる人生の展望を持つ者も含めて、神の心の内にある、とした。

 「共に歩む」ことは、司教たちが第3部で強調した教会会議の推進力だ。司教たちは、世界各国・各地域の司教協議会に対して、具体的に司牧面での課題解決を進める目的を持って、識別の手順を踏み続けるように促した。 “Synodality”の定義として示されたのは、(宣教の)使命を果たすための一つのスタイル-「私」から「私たち」に進むように、そして私たちの顔、感受性、素性、文化の多様性を考えるように、私たちを強く促すことだ。

 会議で繰り返された要望として、司教区と小教区の指導者たちが若者たちと若者たちのためにする訓練と実行を適切なものとするのを助ける各国レベルの「召命の要点についての若者司牧の指針」の取りまとめ、があったことも示された。

 また、若者たちが性の賜物を見出すために、彼らと歩みをともにする、家庭とキリスト教共同体の重要性も指摘され、現在の文化的な状況の中で「性に関するキリスト教的洞察のすばらしさ」を彼らに伝えることの難しさも、同時に示された。そして、「新たな人格形成の道の開発に具体的につながるような適切な方法」を見出すことが緊急の課題だ、としている。

 最後に、最終文書は、このシノドスで出された様々な課題は召命の推進力、聖性への招きとなったとし、「召命の様々な相違は、聖性への唯一の、普遍的な招きに集合される」と述べた。迫害に遭っても、福音への信仰を守るために命を捨てることもいとわない若者たちの聖性を通して、教会はその霊的熱情と使徒的活力を新たにすることができる、と強調している。

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*「若者シノドス」最終文書全文 翻訳中

・・・2月16日現在、翻訳済みは1項-45項、77項-80項、114項―140項です・・・

final document of the synod of bishops

 「若者、信仰、そして召命の識別」に関するシノドス最終文書

*目次

・はじめに

・序文

・第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

  第1章 声を聴く教会

  第2章 三つの重要な要素

  第3章 アイデンティティーと諸関係

  第4章 今日、若者であること

・第2部「”彼ら”の目は開かれた」

  第1章 若さの賜物 

  第2章 召命の神秘

  第3章 寄り添う福音宣教

  第4章 識別の技法

・第3部「”彼ら”はすぐさま、発つ」

  第1章 教会の共に歩む宣教 

  第2章 日々の生活の中で共に歩む 

  第3章 新たにされた宣教の活力 

  第4章 欠かせない人格形成

・おわりに

・・聖書の引用か所の日本語訳は「聖書 聖書協会共同訳」(2018年12月刊行)を原則として使用します。

*本文

・はじめに

  私たちが今回のシノドスで経験したことは

1.「私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る(使徒言行録2章17節、ヨエル書3章1節)」。これは私たちが、今回のシノドスで経験したことです-共に歩き、聖霊の声に耳を傾けました。聖霊はその賜物の豊かさをもって、私たちを驚かせました。世界に希望をもたらすその勇気と力強さで、私たちを満たされました。

 私たちは聖ペトロの後継者と共に旅をし、彼は私たちを信仰において力づけ、福音宣教への新鮮な活力と熱意をくれました。私たちは、文化と教会用語で広く異なる背景をもって集まってきたにもかかわらず、自分たちを結び付けている霊的な絆を、対話と真の共感への熱意を、最初から知っていました。私たちは共に働き、自分たちの強い関心事項を分かち合い、懸念を伝え、負っている重荷を隠すことはしませんでした。協議の間にされた意見発表は私たちを深く感動させ、福音宣教の共感を目覚めさせましたーともに苦しみ、喜ぶ、一つの身体であることを感じました。私たちはどの人とも、自分が経験した恵みを分かち合いたい、福音の喜びを私たちの教会、そして全世界に、伝えたいと思います。

  若者たちの参加は新たな出発でした。彼らを通して、若者世代全体の声が、このシノドスで、大きく、はっきりと聞こえました。聖ペトロの墓への巡礼者として、彼らとともに歩み、このように共に歩むことが、どのようにして教会が対話の場となり、活力に満ちた友愛を証しするものとなる条件を育てるのかを、私たちは経験しました。この経験のもつ強さは、全ての疲れ、弱さを克服します。主は私たちに、何度も何度も言い続けられますー「恐れるな。私はあなたと共にいる」と。

  準備から始まった会議のプロセス

2.私たちは、司教たちの貢献から、小教区の司祭、修道者、一般信徒、専門家、教員その他多くの方々から、大きな恩恵をいただきました。会議の準備に、若者たちが初めから参加しました-オンラインでの質問、数多くの個人的な貢献、そして何よりも、シノドス準備会合は、そのことを雄弁に物語りました。若者たちの貢献は欠かすことができないもので、まさに、聖書にあるパンと魚の奇跡の話にあるものでした-イエスは、持っていたパンと魚を全部差し出した少年の価値のある振る舞いのおかげで、奇跡を行うことができたのです(ヨハネ福音書6章8‐11節)。

 すべてのこれらの貢献は、シノドス準備書面にまとめられています。同書面は、何週間もの会議を通しての議論にしっかりとした基盤を提供してくれました。今、最終文書は、準備を含めて会議が行った結果をまとめ、未来に向けて送り出します-シノドスに参加した司教たちが、神の言葉に照らして、認識し、解釈し、選択したものを示します。

  シノドスの最終文書は

3. 準備書面と最終文書の関係を明確にすることは重要です。前者は、2年にわたる聴き取りの作業で浮かび上がった包括的で統合的な、議論のための骨格であり、後者は、それを受けて開かれたシノドスの成果であり、シノドスに参加した司教たちが特別に力と熱意を込めて集中的に行った重要な論点をテーマ別にまとめたものです。 このようにして、これら二つの文書の 相違と相互補完性を知ることができます。

 最終文書は今回のシノドスの成果として、教皇に、そして全教会に提示されます(エピスコパリス・ コムニオ」=注:教皇フランシスコが昨年9月に発表したシノドスに関する使徒憲章=18項など参照)。今回のシノドスのプロセスはまだ終わっておらず、実施段階はこれから(同19‐21項参照)であり、最終文書は、教会に求められている次の段階の行程表となるものです。

*この最終文書で使用する「シノドス」は、シノドス全体のプロセスを指す、ないしは2018年10月3日から28日まで開かれた全体会議を指すこととします。

・序文

イエスはエマオに向かう弟子たちと旅をされた

4.   私たちは、若い世代に対する教会の福音宣教を理解するためにぴったりの聖書の箇所として、エマオへの旅を思い浮かべます(ルカ福音書24章13‐35節)。この箇所は、今回のシノドスで私たちが経験したこと、若者たちとの関係で経験することができるようにするために、私たちの教会がどうあるべきか、をよく示しています。

 イエスは、ご自身に起きた事の意味を理解できない2人の弟子、仲間の出来たちがいるエルサレムを離れた彼らと歩みを共にします。彼らの仲間のようにして、共に歩かれます。イエスは彼らに問いかけ、彼らなりの出来事の顛末を辛抱強くお聴きになり、彼らが経験していることをはっきりと分かるように、助けようとします。そして、彼らに、愛情と力を込めて御言葉を示し、聖書の光の下で、自分たちが経験した出来事を理解するように導きます。

 夕方になって、イエスは、一緒に宿に泊まるようにとの彼らの申し出を受けます-彼らの闇に入られます。イエスの話を聴く時、彼らの心は燃え、はっきりと理解しました-イエスがパンを割かれた時、彼らの目は開かれました。彼らは、すぐさま、これまでとは反対の方向に、旅を再開する選択をします。仲間の弟子たちのところに戻って、復活された主に出会った経験を分かち合います。

 準備書面に続く形で、この最終文書はこの福音書の箇所の諸段階に対応して3部構成になっています。第1部は”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」(ルカ福音書24章15節)で、若者たちが自分自身を見出すという文脈について、シノドスに参加した司教たちが何を認識したか、を明らかにし、その力強さと課題に光を当てます。第2部「”彼ら”の目は開かれた」(同24章31節)は説明的な部分で、今回のシノドスのテーマを理解する基本的な手段を提供します。そして、第3部「”彼ら”はすぐさま、発つ」(同24章31節)は、霊的、司牧と福音宣教の転換のための選択肢を提示します。

・第1部「”彼”は”彼ら”とともに歩んだ」

5.「この日、2人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた」(ルカ福音書24章13‐15節)。

 この箇所で、ルカは、彼らが体験した出来事の意味を求める2人の旅人に必要なもの、を伝えています。特に、彼らの旅に加わられたイエスの振る舞いに焦点を当てています。復活された主はすべての若者たちと共に歩み、彼らが期待していることを、それがまだ実現していなくても、お聴きになり、彼らの望みを、それが採るに足らないものであっても、お聴きになります。イエスは歩き、聴き、分かち合われるのです。

 第1章 声を聴く教会

  共感をもって聴き、よく見る

   聴くことの価値

6.聴くことは、自由な出会いです。それには、謙遜、忍耐、理解するための用意、そして、新たなやり方で答えを考え出す決意が求められます。聴くことは、特に、それが内的な調和の性向と聖霊に対する従順さをもってなされた時に、聴く人の心を変えます。聴くことは、単に情報を集めることでも、目的を達成するための方策でもありません。神ご自身が民と関係を持つ仕方なのです。神は民の苦しみをつぶさにご覧になり、叫ぶ声を聴かれて、深く心を動かされ、彼らを救い出されます(出エジプト記3章7‐8節)。教会は、聴くことを通して、御子において一人ひとりの人間に近づかれる神のなさることに共鳴するのです。

(注:英語原文のlistenは「聞く」とも「聴く」とも訳せますが、日本語では、大辞林(小学館刊)にもあるように、「聞く」は「音や声を耳に受ける、感じ取る」場合、「聴く」は「注意して耳にとめる、耳を傾ける」場合に使います。この最終文書の場合は、後者の訳の方が適切と判断し、「聴く」で統一します。)

  若者たちは聞いてもらうことを希望している

7.若者たちは自分たちの人生に方向を与える選択を絶えず続けるように求められています-彼らは聞いてもらえ、認識してもらえ、行動を共にしてもらえるような強い希望を言葉で表現します。多くの人は、彼らの声が社会と教会の輪の中で興味を引いたり、有益だったりすると考えられない、と感じています。ある場面では、彼らの叫び、とくに貧しく、搾取された人の叫びは、少しの注意も払われませんーわずかな年配者だけが彼らの叫びを進んで聴くことができるのです。

  教会で聴くこと

8.カトリック教会には、受け入れ、聴き、聞いてもらえる経験を若者たちに与えることのできる、沢山のイニシアチブとしっかりとした経験があります。今シノドスは、教会共同体が、エマオで弟子たちの目を開かせる前、彼らと歩きながら「やり取りしているその話は何のことですか」(ルカによる福音書24章17節)と尋ねた時のイエスの振る舞いを伝えることに、必ずしもいつも成功するとは限らないことを知っています。時として、若者たちの質問で新鮮さが出てくるようにせず、彼らが示す課題と取り組むことをせずに、前もって作られた答え、出来合いの解決策を提供する傾向がある可能性がある。

 聴くことは、他者の気持ちを理解するという文脈において、贈り物の交換を可能にします。若者たちに共同体に貢献することを認め、新たな感受性を身に着け、新たな問いを考えるのを助けます。同時に、正確に、豊かに心に真に触れることのできる福音の宣言のための条件を整えます。

  司牧者と資格を持った信徒が実践する行為としての聴くこと

9.聴くことは司牧者、何よりも司教たちの職務の大事な要素です-司教たちは頻繁に多くの任務を負わされ、このような必要な奉仕に十分な時間をとろうと苦闘していますが。多くの人は、付き添うことに専念する資格を持った人の不足を指摘しています。聴くことが持つ神学的、司牧的な価値を信じることは、普通に行われている司牧のやり方を考え直し、刷新する必要があること、優先順位を再検討する必要があることを意味します。それ以上に、このシノドスは、若い者たちに付き添う資格を持った司祭職と一般の信徒、男性と女性を準備することの必要性を認識しています。共同体社会の中で聖霊が呼び起こす『神から与えられた聴くことの特別な能力』は、教会の奉仕の一つの形として認知されるでしょう。

 

  状況と文化の多様性

   複合的な世界

10. このシノドスの構成そのものが、世界の多くの異なる地域の存在と貢献をもたらし、普遍教会であることの素晴らしさを際立てました。地球の一体化が進んでいるにもかかわらず、シノドスに参加した司教たちは、一つの国の中にさえも地域によって状況や文化に多くの相違があることを認識する必要がある、としました。若者たちの世界は全く一様ではなく、国によっては、複合性の中で「若者」という言葉を使う傾向があります。それ以上に、シノドスが「若者」としている年齢層(16歳から29歳)の人々は、同質ではなく、それぞれの人生経験をもつ異なるグループで構成されているのです。

 このような相違の全ては若者たちの具体的な経験に強い影響を与えます-成長の異なった段階、宗教的体験の形、家族構成、そして信仰伝達のための重要性、世代間の関係-例えば、年配者の手本と彼らに対する敬意-社会生活への参加の仕方、将来に向けた姿勢、教会一致と宗教間の問いかけ。このシノドスは文化の多様性の持つ豊かさを認識し、受容し、聖霊の交わりの礼拝においてそれを加えます。

   進む変化

11.特に重要なものとして、国による人口動態の違いがあります。出産率が高く、若者たちが総人口に占めるウエートが大きく、しかも増加している国がある一方で、若者たちの影響力が減退している国が存在します。さらなる違いをもたらす要素は、歴史の結果です-伝統的なキリスト教の伝統のある国々と大陸があり、その文化は容易に見過ごすことのできない記憶によって影響を受けている一方で、他の宗教的な伝統の影響を受ける国々と大陸があり、そこではキリスト教は少数派で、しばしば新参者です。また、他の地域では、キリスト教の共同体と若者たちが迫害を受けています。

   排除と周辺化

12.さらに、国と国の間、として国の中での違いがあります-それは社会構造と経済的な力によって引き起こされ、グローバリゼーションによって増大する機会を利用できる者と、社会の周辺部や田舎に住む者、排除されたり、捨てられたと感じる者を、時として劇的な形で引き離しています。多くの事象が、教会が勇気を奮って後者の側に立ち、排除と周辺化を取り除き、受け入れ、寄り添い、一体化する体制を強化するような選択肢を作るのを助ける必要があることを示しています。このことは、多くのキリスト教徒にも影響を与えている無関心について知り、信仰の社会的な側面を深めることによって無関心を克服する必要性を際立たせます。

   男性と女性

13.男性と女性の違いも見過ごしてはなりません-それは、特徴のある賜物、感受性と人生の経験を伴います。この違いは、支配、排除、差別の元となり得ます-教会も含めてすべての社会は、それから解放される必要があります。

 聖書は、男女を、神の前で対等な者(創世記5章2節参照)しています-性別を基礎にした全ての支配、差別は、人間の尊厳を害するものです。聖書はまた、性による違いを人間の構成の神秘とし、陳腐な類型的なものに矮小化すべきではありません。男女の関係は、助け合い、対話をし、交わりと豊かさの中で共に生きる使命の見地から理解されます(創世記1章27⁻29節、2章21⁻25節参照)-夫婦としての人生、仕事、教育など、人間のあらゆる経験の領域で。神はこの地球を人間の契約に委ねたのです。

   文化的植民地化

14.非西欧の地域からシノドスに参加した司教たちの多くは、「自分たちの国では、グローバリゼーションは文化的植民地化を伴っている-若者たちを彼らの文化と宗教的な土壌から引き抜いている」と指摘しています。教会は、グローバリゼーションの進展の中で若者たちのアイデンティティーの最も価値のある特長を見失わないように、しっかりと彼らを導く必要があります。

 世俗化の進展について、対照的な解釈があります。ある人々がそれを「単なる慣習や民族的、国家的アイデンティティーに基礎を置く信心深さを浄化する、歓迎すべき機会」と見る一方で、「信仰を伝える障害」と見る人々もいます。世俗的な社会において、私たちはまた、神と聖性の再発見を目の当たりにします。教会にとって、このことは、信仰、告白、司牧的随伴の活力の重要さを再発見を刺激する役割を果たすに違いありません。

  今日の教会を概観する

   教会の教育との関わり

15.若者たちが教会を「キリスト教を信じないあるいは他の宗教に所属する同世代の人々にとっても、重要な意味を持つ、活発で関わる力」として見ている地域が多くあります。教会の教育機関は、彼らの信仰、文化的背景、個人・家庭・社会的な環境に関係なく、すべての若者を進んで受け入れる姿勢を希求しています。そうして、教会はこの世界の多くの異なった場所で若者に対する欠かすことのできない教育に貢献しているのです。

 このことは、すべての形、規模の学校-専門的な教育センター、単科大学、総合大学だけでなく、若者のセンター、祈祷会も-における教育を通して、なされています。このような貢献はまた、難民の人々の受け入れをはじめ極めて多様な形の社会活動を通してもなされています。これら全てにおいて、教会は福音の証しと言明を教育活動と人間性を高める活動に結び付けています。文化間、宗教間の対話によって刺激を受けて、教会の教育分野での活動は、人間性を高める真の形として、キリスト教徒以外の人々からも評価されるのです。

   若者の召命教育における活動

16.シノドスの議論の中で明確になってきたのは、若者の召命教育には専門的な傾向が必要とされること、そして、専門的な司牧ケアが全ての若者たちに必要である、ということでした。そして、若者がキリスト教の共同体社会に自分の場を見つけるのを助け、幼少期から大人の生活までの全期間に対応する必要が、司牧のプログラムにあることが強調されました。また、極めて多くの小教区のグループ、活動、若者の集まりがすでに、若者の信仰生活の中で彼らに随伴し、育成する効果的な取り組みをしていることも、指摘されました。

 世界青年の日(WTD)ー三千年期において若者たちを評価の基準に置いた、聖ヨハネ・パウロ二世の預言的な洞察が生んだ行事-は、国レベル、教区レベルの行事と相まって、多くの若者の人生に重要な役割を演じることになりました-彼らが人生の大きな課題に取り組み、社会と教会の中で彼らの役割を責任をもって引き受けるのを助ける「信仰と交わりの生きた経験」を提供したからです。これらの集まりは、福音の受容を深め、人生の選択に生かされるべき個々の共同体社会の通常の司牧的な随伴に力を与えていきます。

   教会の管理運営の重荷

17. 多くの司教が指摘したのは、管理運営の任務の重荷が多くの司牧者のエネルギーをあまりにも殺ぎ落し、時として司牧の道を閉ざしかねなくなっている、ということでした-これは若者たちと出会い、随伴することが難しくなる原因の一つです。司牧的、霊的な任務を優先させるために、司教たちは、教会の管理運営の具体的なやり方を考え直す必要がある、と主張しています。

   小教区の現状

18.小教区は、現在も、個々の地域で、教会の第一の、重要なあり方であり続ける一方、いくつかの地域で小教区が若者たちと関わることに苦闘し、司牧の在り方を見直す必要が出てきたいます。小教区活動の都市部での低調さ、活力の不足は、時間的、空間的なライフスタイルの変化と相まって、刷新を強く求める声になっているのです。革新の様々な試みがされているとしても、若者の生活の川の流れはしばしば、(注:その試みとは)交わることなく、共同体社会の縁にそって流れます。

  キリスト教への入門

19.多くの参加者はキリスト教入門のプログラムは、子供たち、青年たち、そして若い大人たちに信仰の体験の素晴らしさをもたらすことに、いつも成功するとは限らない、と指摘しています。共同体社会が、交わりの場で神の子供たちの真の家庭である時、信仰を伝える創造的な力が発現します-しかし、代表の論理が幅を利かし、官僚的な組織が支配するところでは、キリスト教入門は堅信の秘跡で終わる宗教的な教習課程だと誤解されてしまいます。ですから、私たちが緊急に必要としているのは、教理講座の方法と家庭と共同体社会における信仰の伝達の繋がりを、深く考え直し、個人的な寄り添いの課程を作ることなのです。

  神学生と奉献者の育成

20.神学校と育成の家は、司祭職と奉献生活に呼ばれた若者たちが、自分たちの召命の選択を深め、使徒職を育てていくことを可能にする最も重要な場です。しかし、時として、その環境は、”候補生”たちのこれまでの経験を十分に考慮に入れず、その重要性を過小評価することがあります。そして、これは、その人の成長を妨げ、神の賜物と心の深い転向の成長よりも、形式的な態度を選ぶ元になります。

第2章 三つの重要な要素

 デジタル環境の新しさ

  浸透する現実

21.デジタル環境は現代世界を特徴づけています。人間の活動の広範な部分が、日常的に、連続的な形で、その環境の中に浸されています。それは、もはや、通信機器を単に「使う」ことではなく、「高度にデジタル化された文化の中で生活する」ことであり、それは、時間と空間に関する考え方、自己理解、他者と世界への理解、意思疎通を図り、学び、自分自身に活気を与え、他者との関係を結ぶ方法に、重大な影響を及ぼしています。 聴くこと、読むことよりもイメージを優先させる現実への近づき方が、人々の学習の仕方、物事を批判的に見る能力の成長に影響を与えています。次のことがすでにはっきりしていますー「デジタル環境は、類似的、あるいは純粋に仮想現実の世界ではなく、多くの人、特に若者たちの日常的な環境の一部をなしている」(ベネディクト16世「第47回世界ソーシャル・コミュニケーションの日へのメッセージ)のです。

  さまざまな機会を提供するネットワーク

22.インターネットとソーシャル・ネットワークは若者が多くの時間を費やし、容易に他の人と会う”広場”になっています-たとえ、すべての人が、特に世界のある地域で、同等にアクセスできないにしても。そして、情報や知識の入手とともに、人々の間の対話、出会い、交換に特別の機会を提供します。それ以上に、デジタルの世界は、社会・政治的な繋がりと能動的な市民の権利の一つであり、最も傷つきやすい人々のために、権利の侵犯を公けにするなど、効果のある権利保護するような自主的な情報の流通を促進することが可能です。多くの国で、インターネットとソーシャル・ネットワークはすでに、若者たちを巻き込んだ、しっかりと確立した対話の場に、とくに司牧的な運動と活動に参加しています。、

  インターネットの暗部

23.デジタル環境はまた、(注:アクセスするために特定のソフトウェア、設定、認証が必要な)”ダークウェブ(Dark web)”の極端なケースを含め、孤独、操作、搾取と暴力の一つにもなっています。デジタル・メディアは、人々を、自主性喪失、孤立、具体的な現実との結びつきを徐々に無くす危険にさらし、真の人間同士の関係の発展を阻害する可能性があります。暴力の新たな形は、”サイバーいじめ”で代表されるように、ソーシャル・メディアを通して広がっています-インターネットはまた、ポルノの氾濫、性的な目的あるいは賭博を通しての搾取のルートの一つでもあります。

24.最後に触れねばならないのは、デジタルの世界では巨大な経済的な打算が働いている、ということです。それは、徐々に浸透していく、見分けのつきにくい管理、良心と民主的な手続きを操作するメカニズム、を作り出すのを可能としています。多くのインターネット・プラットホームの機能は同じような考え方の人同士の出会いを優先し、議論をさせないようにします。このような閉鎖された回路は、偽ニュースと誤った情報の拡散を促進し、偏見と嫌悪を煽ります。偽ニュースによる汚染は、真実を求めようとする感覚を失わせ、特定の利益に合うように事実を捻じ曲げる”文化”です。オンラインでなされる短絡的な判定を通して、個人の評判は危険にさらされます。教会とその司牧者も、そうした現象から逃れることはありません。

 我々の時代の典型的問題としての移民

   多面的な現象

25.世界的に受け止められている移民は構造的な現象であり、一時的な緊急事態ではありません。移民は、一つの国の中、あるいは異なる国の間で起きるようです。教会の関心は、特に、戦争や暴力、あるいは宗教的迫害、気候変動が原因のものも含む自然災害、極度の貧困から逃れようとする人たち-その多くは若者たち-に焦点が絞られます。一般的に、彼らは自分たち自身と家族のための好い機会を求めています。より良い未来を切望し、それを手に入れる条件を作りたいと考えています。今回のシノドスに参加した多くの司教たちは、移民の人々は、私たちの時代に、特に若者たちの置かれている状況に光をあてることのできる”典型”の一つであり、私たちに信仰のもととなる条件、「よそ者であり、国を追われた者」(ヘブライ人への手紙11章13節)であることについて、思い起こさせてくれます。

   暴力と脆弱さ

26.また他の移民たちは、西欧文化に惹かれ、時には、大きな失望をもたらすような非現実的な期待を抱きます。悪質な人身売買業者-しばしば、麻薬カルテルや武器カルテルと結びついた者たち-移民たちの弱みにつけこんで利益を上げます。移民たちは,移動の過程でひんばんに暴力を振るわれ、売買され、心理的、物理的に虐待され、言葉にできないような苦しみを味わいます。私たちは特に、移民たちの脆弱さ-寄る辺のない小さな人たち、あるいは難民キャンプで何年も過ごすことを強いられ、途中の国で長期間囚われ続け、教育も受けられず、才能を発揮することのできないでいる人々を、見過ごしてはなりません。移民を受け入れている国では、移民が地元民から恐れや警戒心を抱かれ、扇動され、政治的目的で利用されていることもあり、人々が閉鎖的になり、外国人恐怖症に繋がる可能性もあります。こうした問題には、断固として対処する必要があります。

   別離と出会いの物語

27.若い移民者たちは生まれ故郷を離れ、しばしば文化的、宗教的なルーツを絶たれることを経験します。彼らが離れことで共同体社会は、一番壮健で、活力のある部分を失い、打ち壊されたように感じます-特に片親、両親が子供たちを置いて故郷を出てしまう時、残された家族も、そのように感じます。別れ別れになった家族の一員である若者の拠り所として、教会には重要な役割があります。

 ただ、移民の物語は人々と諸文化の出会いの物語でもあります-彼らは、移民先の共同体、社会にとって、全ての人の豊かさと、人間的な発展の機会をもたらします。教会が関わる彼らを歓迎する取り組みは、このような視点から重要な務めであり、移民を受け入れることのできる共同体社会に新たな命をもたらすことができるのです。

   教会の預言的な役割

28.このシノドスに参加した司教たちの多様な背景を考えると、移民という題目には、特に移民が出た国と着いた国の間で、沢山の異なる側面が合わさっていることが、分かります。そして、それ以上に、諸教会から警報が聞こえます-信徒たちは戦争と迫害から逃れることを強制され、そのように強制された移動を自分たちの生存を脅かすものと見なします。教会が徒ような見方を包含するという、まさにその事が、移民問題に向かい合う教会に預言的な役割を与えます。

  あらゆる形の虐待を認め、対応する

   真実を明確にし、赦しを願う

29. ある司教たち、司祭たち、修道者たち、そして一般信徒が犯した様々な形の虐待が犠牲者を生み、その多くが若者たちであり、生涯続きかねない、いかなる痛悔もいやすことのできない苦しみをもたらしています。このような現象は社会に広がり、教会にも影響を与え、教会の使命を果たすうえで大きな障害となっています。今回のシノドスは、いかなる虐待も起こさない厳格な措置をとることを、はっきりと確約します-責任ある取り組みと教育を任す人物の選定と編成から始めます。

   原点に立ち返る

30.虐待には様々な形-権力の乱用、良心をないがしろにする行為、性的な虐待、金銭的な脅しーがあります。当然ながら、これら全てを可能にする権力の行使は撲滅すべきであり、極めて多くのケースにおける責任感の欠如、透明性の欠落には異議を申し立てねばなりません。支配への欲求、対話と透明性の欠如、二重生活、霊的な空虚は、心理的な脆弱さとともに、腐敗を起こす元になります。

 聖職者主義は、特に、「召命についてのエリート主義者、排他主義者の見方-聖職者は自由で心の広い奉仕をするよりも、執行されるべき力を与えられている、と解釈する見方-から生まれます。この見方は、自分たちは全ての答えを持ち、何も聴いたり、学んだりする必要のない、ないしは、聞くふりをする集団に属しているのだ、と信じるように私たちを仕向けるのです」(2018年10月3日の第15回通常シノドス第一回全体会議での教皇フランシスコの挨拶)。

   感謝、そして激励

31.今回のシノドスは、自らが苦しめられた罪悪を勇気をもって糾弾した方々に感謝を表明します-この方々は、実際に起きたこと、決然と対応すべきことを教会が知るのを、助けてくれました。また、日々、若者たちのために誠実さと献身の心をもって自らを捧げた、数えきれないほどの男女の一般信徒、司祭、男女の聖職者、そして司教たちを讃え、激励します。彼らの仕事は、静かに成長する森のようです。今回のシノドスに参加した若者たちの多くもまた、彼らとともに居てくれた人々に感謝し、判断の様式の必要性を強調しました。

 主キリスト-ご自分の教会を決して捨てない方-は教会に、新たな道に踏み出す力と手段をくださいます。「時宜を得た行動と制裁の白線を確認することが強く求められ」(2018年8月20日の教皇フランシスコの「神の民への手紙」)ており、今回のシノドスは、慈しみが正義を求めていることを知り、虐待の問題にあらゆる面において、若者たちの価値ある助けを欠くことのなく対処することは、画期的な重要さをもつ改革のための機会になることができるのです。

 

第3章 アイデンティティーと諸関係

 家庭と世代間の関係

  特別な判断基準としての家庭

32. 家庭は若い人々にとって重要な判断基準であり続けています。子供たちは、両親の愛と世話をありがたく思い、家族の結びつきを大切にし、自分たちも同じような家庭を作ることを希望します。そうした中で、別居、離婚、再婚、そして片親家庭の増加は、間違いなく、若い人々の間に大きな苦しみとアイデンティティーの危機を引き起こします。彼らは、時によって、年齢に不相応な責任を負わされ、通常よりも早く大人になることを強制されます。そうした彼らに、祖父母は世代間の関係の中で決定的なつながりを作る知恵をもって、愛情と宗教教育の面で決定的な貢献を果たすことが、しばしばあります。

  母性と父性の重要さ

33.母と父は、はっきりと異なる役割を持っていますが、子供たちを育て、信仰を伝えていくという点からみれば、共に等しく重要です。母親の存在は、若者たちが自分の成長のために不可欠と考える役割を持ち続けます-たとえそれが、文化的、政治的に十分に認められず、仕事だとされても、です。多くの父親は熱心に自らの役割を果たしますが、場合によって、父親が不在か、かすかな存在であったり、抑圧的、あるいは権威主義的な存在であったりする、という事実を隠せません。このような両義性はまた、霊的の父性の行使にも反映されます。

  世代間の関係

34. 今回のシノドスは、文化的な文脈の難しさにもかかわらず、価値を伝えることに深く関わる多くの両親と教師たちの献身的な活動を、認識します。年配者の役割と祖先の人々への崇敬が教育の重要な要素であり、個人的なアイデンティティの形成に大きく貢献している地域もあります。近親者を含む「拡大家族」-異なる文化を持つ地域では、それが実際の「家庭」を意味しますが-もまた、重要な役割を果たしています。

 しかしながら、若者の中には、家庭の伝統を抑圧的なものと感じ、身元保証を欠いたままグローバル化された文化の刺激を受けて家庭の伝統から離れる動きもあります。その一方で、世界の他の地域では、若者たちと年配者たちに世代間摩擦がない代わりに、互いに疎遠になっている例も見られます。時として、年配者は人生の基本的な価値を伝えようとしなかったり、伝えることに成功しなかったりし、その代わりに”若々しい”生活のスタイルを取り入れ、世代間の関係を逆にするケースもあります。

 こうして、若者たちと年配者たちの関係は、教育や文化の側面に触れることがないまま、情緒的なレベルにとどまるというリスクを冒しているのです。

  若者たちと文化的なルーツ

35.若者たちは未来に注意を集中し、実行力と活力をもって人生と向き合います。しかしまた、彼らは、現在を楽しむことに熱中する誘惑を受け、時として、自分がこれまで辿って来た過去の記憶、中でも、両親や祖父母から伝えられた沢山の資質、自分が暮らしてきた社会から受けた”文化的な荷物”に、少しの注意も払わない傾向があります。過去のもつ生き生きとした豊かさを見出し、過去の記憶を大切にし、自分自身の選択と機会に生かすように、若者たちを助けることは、成長と必要な選択のために彼らに向けられる、正真正銘の愛の行為なのです。

   仲間同士の友情と結びつき

36.世代間の結びつきとともに、同世代の人々の結びつきも看過できません。そうした結びつきは、交流と生まれた時からの家庭の場からの巣立ちの基礎的な体験を象徴するものです。友情と論争-多かれ少なかれ組織的な集団の中で起こるものですが-は、重視されも裁かれもしない環境の中で、他者と交わり、関係を持つ腕を磨く機会となります。集団の体験はまた、信仰を分かち合い、証しの中で互いに助け合うための、素晴らしい資源となります。若者たちは、他の仲間を導き、彼らの間で正真正銘の信徒使徒職を果たすことができるのです。

  身体と情動性

   変化が起きている

37.身体と性的関心は、若者たちの生活と独自性の成長のために、どれほど重要か。それを欠いては、友情と情動性のある人生を歩めないからです。現代社会で、彼らはそれでも、これらに関して、急速な変革の中で起こる現象に出会います。

 何よりも、科学とバイオテクノロジーの分野での進歩は、身体についての知覚に強力な影響を及ぼし、際限のない変容が可能だ、という考え方をもたらします。遺伝子操作の技術進歩、身体の器官に人工的な要素を挿入する(サイボーグ=身体の機能を電子機器をはじめとした人工物に代替させること)の可能性と、神経科学の進歩は、素晴らしい力を作り出しますが、それと同時に、人類学的、倫理的な問題を引き起こします。

 身体に対する専門技術的な取り組みを無批判に受け入れることは、賜物としての命についての認識と被造物としての限界についての感覚を弱くします-人は、経済的、政治的な力によって欺かれ、あるいは搾取される可能性があるのです(教皇フランシスコの回勅「ラウダ―ト・シ」106項参照)。

 さらに注意しなければならないのは、若者たちの集団の中に、自己探求の道具としてリスクのある行動をとることの、強い感情の高ぶりを求め、認知を得ることの、魅力に取りつかれる、という現象が見られることです。性的な早熟な振る舞い、乱交、買春ツアー、身体を誇張した崇拝など、従来からの現象が続いているのに加えて、今日では、デジタル・ポルノとオンラインを使って人の体を見せる、という行為の氾濫が起きています。若者世代に見せつけられているこのような現象は、曇りのない穏やかな発育にとっての障害となります。若者たちを、全く新しい、個人の選択と経験に影響を与える、イデオロギー的な植民地化に類するものにとっての「肥えた土地」にしてしまう、社会的な力に向かっているのです。

   教会の道徳的教えの受容

38.これは、キリスト教徒の家庭と教会共同体が、神の神秘によって内在した素晴らしい賜物としての性を若者たちが見つけるのを助けようとしている、そうすることで、福音の論理に従った関係をもって生きることを望んでいる、という前提を置いての話ですが、こうした熱望を、時折ではなく、愛情のこもった性教育に注ぐことに、常に成功するわけではありません。性教育が純粋に選択肢として採用されるところでは、若者たちが、イエスキリストへの信奉、情緒のある生き方、そして人格のつながりを持った関係のつながりを把握するのを助ける、という前向きの効果があります。このような結果は、この分野で教会の活力への大きな投資を引き込み、増進するのです。

   若者の問題

39.教会は、この分野で教えを作り、進めて来た、豊かな伝統をもっています。聖ヨハネ・パウロ二世が作られた組織による神学としての「カトリック教会のカテキズム」、ベネディクト16世による回勅「神は愛」、教皇フランシスコの使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」が、その実例です。しかし、若者たちは、こうした教えを知り、それをもとに生活している人々も含めて、教会から「はっきりとした、人間的で共感を呼ぶような言葉を聞きたい」と希望する声が上がっています。そうした声にもかかわらず、性道徳は、教会が裁きと断罪の場として受け止められる限り、無理解と距離を置く原因となっているのです。

 社会の変化と情緒のある新しい生き方、そして倫理的な見方の多様性に直面して、若者たちは真正と献身の価値に敏感になっていますが、進むべき道が分からなくなることがしばしばあります。彼らは、男らしさと女らしさの違い、男女の相互の関係、そして同性愛に関して議論することに、従来よりも、もっとはっきりと熱意を示しています。

   傷つきやすさの諸形態

    仕事の世界

40.仕事の世界は、若者たちが自分の創造性と革新を起こす能力を表現する場であり続けています。それと同時に、彼らはそこで排除と軽視を経験します。一番に、そして最も深刻なのは、失業です。世界の国の中には失業水準が異常に高くなっているところもあります。彼らを貧しくさせるのに加えて、働く場がないことは、夢と希望を抱く若い能力を損ない、社会の発展に貢献する可能性を奪います。

 多くの国で、このような状況は、若者世代の中に-恐らく、教育、訓練制度の欠陥から-十分な専門技能を持たない人々がいることから起きています。若者たちを苦しめる雇用における問題は、労働を搾取する経済的利益と関係しています。

   暴力と迫害

41.多くの若者たちは紛争地域に住んでおり、数限りない異なる形の暴力-拉致、強奪、組織犯罪、人身売買、奴隷、そして性的搾取、戦時強姦、など-を経験しています。さもなければ、自身の信仰ゆえに、社会の中で自分の場を見つけるのに苦闘し、死に至ることもある様々な迫害に遭います。数多くの若者たちが、強制や選択肢の欠如を通して、犯罪と暴力行為-少年兵、武装強盗、犯罪集団、麻薬取引、テロなど-を働きます。このような暴力は多くの若者たちの人生を破壊します。虐待と依存は、暴力と異常な行為と同じように、少数民族と社会的集団で多い、若者たちを刑務所に入れる原因になっています。このような現状全てが教会に問題として示されています。

   軽視と社会的な不快感

42.世界でさらに頻繁に見られるのは、宗教的、民族的、経済的理由から軽視され、社会的に排除される形で苦しんでいる若者たちです。思い起こしましょう-青年期にある人々が置かれている困難な状況、妊娠と堕胎の苦しみ、HIVの広がり、薬物、博打、ポルノなど様々な厄害への依存、そして、家もなく、家族もなく、経済的な支援もないストリート・チルドレン-特に、若い受刑者たちに注意を払う必要があります。教会は、勇気をもって彼らの側に立ち、彼らに寄り添い、彼らが自身の尊厳と共通善を作る役割を取り戻せるようにすべきなのです。

   苦しみの経験

43.広く言われている決まり文句とは反対に、若者たちの世界は、傷つきやすさ、身体的障害、疾病、そして苦痛を味わった経験に深く汚されています。多くの国で、特に若者たちの間で深刻化しているのは、心理的苦痛、抑圧、精神的病い、そして摂食障害ですーそれは、ひどい不幸や社会の中に自信の場を見つけることができないことと関連しています-自殺という悲劇的な現象も忘れてはなりません。

 このような様々な試練を経験する若者たちは、彼らの家族と共に、キリスト教共同体の支援を頼りにしていますが、そうした共同体が常に彼らを歓迎する態勢が整っているとは限らないのです。

  傷つきやすさの原因

44.これらの状況の多くは”捨てる文化”によって、もたらされます-若者たちはその第一の犠牲者です。にもかかわらず、この”文化”はまた、若者たちを堕落させます。キリスト教共同体とその指導者たちは、私たちの世界を苦しめる人間的、社会的、環境的な退廃の一因になります。

 教会がとるべき対応は、困難な状況にあって自身の姿を示し、転向、連帯、そして刷新された教育的な活動を訴えることです。困難な状況の中で生きる若者たちは、教会共同体と共有する貴重な資源を持っており、私たちに、制約に対抗する自分自身を評価するように教え、人間性を育てるように助けてくれます。創造力に終わりはありませんー創造力をもって、福音の喜びによって動かされる共同体は、沈滞と困難な状況に対する選択肢を提示することができます。そうした方法で、「家を建てる者の捨てた石が、隅の石」(詩編118章22節、ルカ福音書20章17節、使徒言行録4章11節、ペトロの手紙1・2章4節参照)となることができるのです。

 

第4章 今、若者であること

  現代の若者文化の諸側面

   独創性と特異性

45. 若者の世代の現実への接し方には、いくつかの特徴があります。若者たちは、自分たちの独自性が受け入れられ、尊重されることを求めます。若者文化の最もはっきりした特徴は、意思疎通の他の形に加えて、イメージを好み、現実との接し方で、感性と感情を重視し、論理的な分析よりも具体的で、実際になされていることを優先することです。仲間の集まりに属し、ソーシャルメディアで固まるように、友達関係を作ることがとても重要です。若者たちは一般的に自発的で、多様性に対して開放的で、それが彼らを、平和、包括、そして文化と宗教の対話に対して、注意深くさせています。若者たちが、平和的な共存の視点から、どのようにして文化間、宗教間の出会いと対話の開拓者となるかを知っている、ということを裏付ける事実は、世界の多くの地域で、数多く存在します。

 

(ここまで南條俊二訳)

(以下、翻訳中)

Commitment and social engagement

46.   Albeit in a different way from earlier generations, social commitment is a specific feature of today’s young people.  Alongside some who are indifferent, there are many others who are ready to commit themselves to initiatives of voluntary work, active citizenship and social solidarity, and they need to be accompanied and encouraged, so as to bring out their talents, skills and creativity and to provide incentives for them to assume responsibility.  Social commitment and direct contact with the poor remain a fundamental opportunity for discovery or deepening of faith and discernment of vocation.  There is strong and widespread sensitivity to ecological themes and sustainability, that the encyclical Laudato si’ has galvanized.  It has also been pointed out that the young are ready to engage in the political field so as to build the common good, something that the Church has not always been able to accompany by providing opportunities for formation and spaces for discernment.  With regard to the promotion of justice, the young ask the Church to show decisive and consistent engagement, stamping out any complicity with a worldly mentality.

Art, music and sport

47.   The Synod recognizes and appreciates the importance that the young give to artistic expression in all its forms: there are many young people who use their God-given talents in this field, promoting beauty, truth and goodness, growing in humanity and in their relationship with God.  For many, artistic expression is also an authentic professional vocation.  We must not forget that for centuries the “way of beauty” has been one of the privileged ways of expressing faith and evangelization.

Music is particularly important, representing as it does a real environment in which the young are constantly immersed, as well as a culture and a language capable of arousing emotion and shaping identity.  Musical language also represents a pastoral resource with a particular bearing on the liturgy and its renewal.  The standardization of tastes through commercial interests sometimes risks compromising the link with traditional forms of musical and liturgical expression.

Equally significant is the emphasis that young people place on sporting activity, whose potential for education and formation the Church must not underestimate, maintaining a solid presence there.  The world of sport needs to be helped to overcome the ambiguities by which it is afflicted, such as the idolization of champions, subservience to commercial interests and the ideology of success at any cost.  One way forward is to underline the value of accompaniment and support for the disabled in sporting activity.

Spirituality and religiosity

The different religious contexts

48.   The religious experience of the young is strongly influenced by the social and cultural context in which they live.  In some countries the Christian faith is a strong and lively community experience, in which the young participate with joy.  In other areas of ancient Christian tradition, the majority of the Catholic population does not experience a real sense of belonging to the Church;  yet there is no shortage of creative minorities and experiences that point to a revival of religious interest as a reaction against a reductive and suffocating vision.  In other places still, Catholics along with other Christian denominations form a minority that sometimes experiences discrimination or even persecution.  Finally there are places where sects or forms of alternative religiosity are on the rise;  their followers frequently become disillusioned and averse to any form of religion.  If in some regions the young have no opportunity to express their faith publicly or find their religious freedom is not recognized, in others they feel the weight of historic choices – including political ones – that have undermined the Church’s credibility.  It is not possible to speak of the religiosity of the young without taking all these differences into account.

The religious quest

49.   In general the young say they are searching for the meaning of life and they show interest in spirituality.  This attention, though, can sometimes take the form of a search for psychological well-being rather than openness to encounter with the Mystery of the living God.  Particularly in some cultures, many see religion as a private matter and they choose from a variety of spiritual traditions those elements in which they find their own convictions mirrored.  There thus spreads a certain syncretism, which develops on the relativistic assumption that all religions are equal.  Adherence to a community of faith is not seen by everyone as a privileged way to access the meaning of life, and it is accompanied and sometimes replaced by ideologies or by the cult of success in professional and economic terms, with a view to material self-fulfilment.  Certain practices inherited from tradition remain alive, though, such as pilgrimages to shrines, which at times involve large numbers of young people, and expressions of popular piety, often linked to devotion to Mary and the Saints, which preserve the faith experience of a people.

The encounter with Jesus

50.   The same variety is found in the relationship of the young with the figure of Jesus.  Many recognize him as Saviour and Son of God and they often feel close to him through Mary, his mother, and they commit themselves to a journey of faith.  Others have no personal relationship with him, but consider him a good man and an ethical point of reference.  Others again encounter him through a powerful experience of the Spirit.  For others, though, he is a figure from the past who is very remote from human experience and has no relevance for their lives.

Even though to many young people God, religion and the Church seem empty words, they are sensitive to the figure of Jesus when he is presented in an attractive and effective way.  In many ways, the young people of today are saying to us:  “We wish to see Jesus” (Jn 12:21), thus manifesting the healthy restlessness that characterizes the heart of every human being:  “the restlessness of spiritual seeking, the restlessness of the encounter with God, the restlessness of love” (Francis, Mass for the Beginning of the General Chapter of the Order of Saint Augustine, 28 August 2013).

The desire for living liturgy

51.   In many settings, young Catholics ask for prayer opportunities and sacramental celebrations capable of impacting upon their daily lives through a fresh, authentic and joyful liturgy.  In some parts of the world liturgical experience is the principal resource for Christian identity and there is a good level of participation, with conviction.  The young see the liturgy as a privileged moment of experience of God and of the ecclesial community and a point of departure for the mission.  Elsewhere, though, we are witnessing a certain abandonment of the sacraments and of the Sunday Eucharist, perceived more as a moral precept than as a joyful encounter with the Risen Lord and the community.  In general it seems that even where sacramental catechesis is offered, there is little by way of educative accompaniment for living the celebration profoundly, for entering into the mysterious riches of its symbols and its rites.

Participation and active involvement

The young want active involvement

52.   In the face of society’s contradictions, many young people wish to offer the fruits of their talents, skills and creativity and they are ready to assume responsibility.  Among the themes they hold most dear are social and environmental sustainability, discrimination and racism.  The involvement of the young often follows entirely new paths, and this includes harnessing the potential of digital communication in terms of mobilization and political pressure:  spread of lifestyles and critical models of consumption and investment, in solidarity and attentive to the environment;  new forms of commitment and participation in society and in politics;  new forms of welfare in aid of the weakest.

Reasons for a distance

53.   The Synod is aware that a substantial number of young people, for all sorts of reasons, do not ask the Church for anything because they do not see it as significant for their lives.  Some, on the contrary, expressly ask to be left alone, as they find the presence of the Church a nuisance, even an irritant.  This request does not always stem from uncritical or impulsive contempt, but may also be based on serious and respectable reasons:  sexual and economic scandals;  the fact that the clergy are ill prepared to engage effectively with the sensitivities of the young; lack of care over homily preparation and the presentation of the Word of God; the passive role given to the young within the Christian community;  the Church’s difficulty in explaining its doctrinal and ethical positions in the face of contemporary society.

Young people in the Church

54.   Young Catholics are not merely on the receiving end of pastoral activity: they are living members of the one ecclesial body, baptized persons in whom the Spirit of the Lord is alive and active.  They help to enrich what the Church is and not only what she does.  They are her present and not only her future.  The young are protagonists in many Church activities in which they offer their services generously, particularly through leading catechesis and liturgy, caring for the weak, voluntary work with the poor.  Movements, associations and religious congregations also offer young people opportunities for commitment and co-responsibility.  Sometimes the availability of the young meets with a certain authoritarianism and mistrust from older people and pastors, who do not sufficiently recognize their creativity and who struggle to share responsibility.

Women in the Church

55.   The young also clamour for greater recognition and greater valuing of women in society and in the Church.  Many women play an essential part in Christian communities, but often it is hard to involve them in decision-making processes, even when these do not require specific ministerial responsibilities.  The absence of the feminine voice and perspective impoverishes debate and the Church’s journey, depriving discernment of a precious contribution.  The Synod recommends that everyone be made more aware of the urgency of an inevitable change, not least on the basis of anthropological and theological reflection on the reciprocity between men and women.

The mission of the young towards their peers

56.   In various contexts there are groups of young people, often from ecclesial movements and associations, who are actively involved in the evangelization of their peers through a transparent life witness, accessible language and the capacity to establish authentic bonds of friendship.  This apostolate makes it possible to bring the Gospel to people who might not otherwise be reached by ordinary youth ministry and it helps to mature the faith of those who engage in it.  So it deserves to be appreciated, supported, wisely accompanied and integrated into the lives of communities.

Desire for a more authentic and fraternal ecclesial community

57.   The young ask the Church to offer a shining example of authenticity, exemplariness, competence, co-responsibility and cultural solidity.  At times this request can seem like a criticism, but often it assumes the positive form of personal commitment to a fraternal, welcoming, joyful and committed community, prophetically combatting social injustice.  Among the expectations of the young, one that stands out particularly is the desire for the Church to adopt a less paternalistic and more candid style of dialogue.

Part II  “Their eyes were opened”

58.   And beginning with Moses and all the prophets, he interpreted to them in all the Scriptures the things concerning himself.  So they drew near to the village to which they were going.  He appeared to be going further, but they constrained him, saying ‘Stay with us, for it is towards evening and the day is now far spent.’  So he went in to stay with them.  When he was at table with them, he took the bread and blessed, and broke it, and gave it to them.  And their eyes were opened and they recognized him; and he vanished out of their sight” (Lk 24:27-31).

After listening to them, the Lord addresses an incisive and decisive, authoritative and transforming “word” to the two wayfarers.  In this way, gently but firmly, the Lord enters their dwelling, he stays with them and he shares the bread of life:  he is the eucharistic sign that permits the two disciples finally to open their eyes.

A new Pentecost

The action of the Holy Spirit

59.   The Holy Spirit inflames the heart, opens the eyes and awakens the faith of the two wayfarers.  He is at work from the beginning of the creation of the world so that the Father’s plan to recapitulate all things in Christ may reach fulfilment.  He acts in every time and in every place, in the variety of contexts and cultures, calling forth even in the midst of difficulties and sufferings the commitment to justice, the search for truth, the courage of hope.  Hence Saint Paul states that “the whole creation has been groaning in travail together until now” (Rom 8:22).  The desire for life in love and the healthy restlessness that is found in the hearts of young people form part of the great longing of all creation for the fullness of joy.  In each of them, including those who do not know Christ, the Creator Spirit acts so as to lead them to beauty, goodness and truth.

The Spirit rejuvenates the Church

60.   Youth is an original and stimulating stage in life, which Jesus himself experienced, thereby sanctifying it.  The Message to Young People of the Second Vatican Council (7 December 1965) presented the Church as the “real youth of the world”, which possesses “the ability to rejoice with what is beginning, to give oneself unreservedly, to renew oneself and to set out again for new conquests”.  With their freshness and their faith, young people help to show this face of the Church, in which we see a reflection of “the great Living One, the Christ who is eternally young”.  It is not about creating a new Church for the young, but rather rediscovering with them the youth of the Church, opening ourselves to the grace of a new Pentecost.

The Spirit in the life of the believer

61.   The Christian’s vocation is to follow Christ, passing through the waters of Baptism, receiving the seal of Confirmation and becoming part of his Body through the Eucharist.  “So the Holy Spirit comes, fire after water, and you are baked into the bread which is the body of Christ”  (Saint Augustine, Sermon 227).  In the journey of Christian initiation, it is above all Confirmation that allows believers to relive the Pentecostal experience of a new outpouring of the Spirit for growth and mission.  It is important to rediscover the richness of this sacrament, to grasp its link with the personal vocation of every baptized person and with the theology of charisms, to take greater care over the way it is presented pastorally, so that it does not become a formal and insignificant moment.  Every vocational journey has the Holy Spirit as protagonist:  He is the “interior teacher” whose lead it behoves us to follow.

An authentic experience of God

62.   The first condition for vocational discernment in the Spirit is an authentic experience of faith in Christ, dead and risen, remembering that faith “is not a light which scatters all our darkness, but a lamp which guides our steps in the night and suffices for the journey”  (Francis, Lumen Fidei, 57).  In Christian communities we sometimes risk proposing, even without intending it, an ethical and therapeutic theism, which responds to the human need for security and comfort, rather than a living encounter with God in the light of the Gospel and in the strength of the Spirit.  If it is true that life is awakened solely through life, it becomes clear that young people need to encounter Christian communities that are truly rooted in friendship with Christ, who leads us to the Father in the communion of the Holy Spirit.

 Chapter I The gift of Youth

Jesus as a young man among the young

The youth of Jesus

63.    “A youth for youths, becoming an example to the young, and thus sanctifying them for the Lord” (Irenaeus, Adversus Haereses, II, 22, 4), Christ sanctified the stage of youth by the very fact that he lived it.  The biblical narrative presents only one episode from Jesus’ youth (cf. Lk 2:41-52), which was spent without fuss, in simplicity and in the working environment of Nazareth, so much so that he was known as “the carpenter” (Mk 6:3) and “the carpenter’s son” (Mt 13:55).

Contemplating his life is the best way to grasp the blessing of youth: Jesus had an unconditional trust in the Father, he maintained friendship with his disciples and even in moments of crisis he remained faithful to them.  He showed a profound compassion for the weakest, especially the poor, the sick, sinners and the excluded.  He had the courage to confront the religious and political authorities of his time;  he had the experience of feeling misunderstood and rejected;  he experienced the fear of suffering and he knew the fragility of the Passion;  he turned his gaze towards the future, entrusting himself into the Father’s safe hands in the strength of the Spirit.  In Jesus, all the young can see themselves, with their fears and their hopes, their uncertainties and their dreams and they can entrust themselves to him.  For them it will be a source of inspiration to contemplate Jesus’ encounters with the young.

With the Lord’s gaze

64.   Listening to Christ and communion with him help pastors and educators to cultivate a wise interpretation of this stage in life.  The Synod tried to look at the young with the attitude of Jesus, to discern in their lives the signs of the Spirit’s activity.  We believe that even today God speaks to the Church and to the world through the young, their creativity and their commitment, as well as their sufferings and their pleas for help.  With them we can read our era more prophetically and recognize the signs of the times;  hence the young are one of the “theological arenas” in which the Lord tells us some of his expectations and challenges for building tomorrow.

Characteristics of youth

65.   Youth, as a phase in the development of the personality, is marked by dreams which gather momentum, by relationships which acquire more and more consistency and balance, by trials and experiments, and by choices which gradually build a life project.  At this stage in life, the young are called to move forward without cutting themselves off from their roots, to build autonomy, but not in solitude.  The social, economic, cultural context does not always offer favourable conditions.  Many young saints have allowed the features of youth to shine forth in all their beauty and in their day they have been real prophets of change.  Their example shows what the young are capable of when they open themselves up to encounter with Christ.

Young people with disabilities or marked by illness can also offer a valuable contribution.  The Synod invites communities to make room for initiatives that recognize and permit them to be protagonists, for example through the use of sign language for the deaf, suitably tailored catechetical programmes, social experiences and work experience.

The healthy restlessness of the young

66.   The young experience a restlessness that above all is to be accepted, respected and accompanied, with utter confidence in their freedom and responsibility.  The Church knows from experience that their contribution is fundamental for renewal.  Young people, in some respects, can be a step ahead of their pastors.  On Easter morning the young Beloved Disciple arrived first at the tomb, before Peter, who was weighed down by age and by betrayal (cf. Jn 20:1-10);  in the same way in the Christian community youthful dynamism is a renewing energy for the Church, because it helps her to shake off anything weighing her down or holding her back, so as to open up to the Risen Lord.  At the same time, the attitude of the Beloved Disciple indicates that it is important to remain in touch with the experience of the elderly, to recognize the role of pastors and not to go forward alone.  Hence the symphony of voices that is the fruit of the Spirit.

Wounded young people

67.   The young, like everyone else, also carry wounds.  There are the wounds of the defeats they have suffered, frustrated desires, experiences of discrimination and injustice, of not feeling loved or recognized.  There are physical and psychological wounds.  Christ, who consented to endure his passion and death, comes close, through his cross, to all suffering young people.  Then there are moral wounds, the weight of one’s errors, the sense of guilt for having made mistakes.  Today more than ever, to be reconciled with one’s wounds is a necessary condition for a good life.  The Church is called to support all the young in their trials and to promote whatever pastoral action may be needed.

Becoming adult

The age of choices

68.   Youth is a time of life which has to come to an end, to make way for adult life.  This transition does not take place automatically, but it implies a journey of maturation, not always helped by the environment in which young people live.  In many regions there is a widespread culture of the provisional which favours an indefinite prolongation of adolescence and postponement of decisions;  fear of the definitive thus generates a kind of paralysis of decision-making.  Yet youth cannot remain on hold.  It is the age of choices and herein lies its fascination and its greatest responsibility.  Young people take decisions in professional, social and political fields and in other more radical ways that determine the shape of their lives.  It is because of choices of this kind that one can speak more precisely of “life choices”:  a young person’s life, in its unrepeatable uniqueness, is given a definitive orientation.

Life under the sign of mission

69.   Pope Francis invites young people to view their lives within the horizon of mission: “So often in life, we waste time asking ourselves: ‘Who am I?’  You can keep asking, ‘Who am I?’ for the rest of your lives.  But the real question is: ‘For whom am I?’” (Address during the Prayer Vigil in preparation for World Youth Day, Basilica of Santa Maria Maggiore, 8 April 2017).  This statement sheds a profound light on life choices, because it invites us to make them within the liberating horizon of self-giving.  This is the only way to arrive at an authentic and lasting happiness!  Effectively “My mission of being in the heart of the people is not just a part of my life or a badge I can take off; it is not an ‘extra’ or just another moment in life. Instead, it is something I cannot uproot from my being without destroying my very self. I am a mission on this earth; that is the reason why I am here in this world” (Francis, Evangelii Gaudium, 273).

A pedagogy capable of dialogue

70.   Mission is a sure target for life’s journey, but not a “satellite navigation system” which lays out the whole route in advance.  Freedom always entails a dimension of risk which needs to be evaluated with courage and accompanied wisely, according to the “law of graduality”.  Many pages in the Gospel portray Jesus inviting us to be daring, to put out into the deep, to pass from the logic of following commandments to that of generous and unconditional gift, without concealing the requirement to take up one’s cross (cf. Mt 16:24).  He is radical: “He gives all and he asks all: he gives a love that is total and asks for an undivided heart” (Francis, Homily, 14 October 2018).  Without misleading the young through minimalist proposals or overwhelming them with a corpus of rules that give Christianity a reductive and moralistic image, we are called to invest in their fearlessness and to educate them to take on responsibilities, in the sure knowledge that error, failure and crisis are experiences that can strengthen their humanity.

The true sense of authority

71.   In order to undertake a true journey of maturation, the young need authoritative adults.  In its etymological meaning, auctoritas indicates the capacity to cause to grow;  it does not express the idea of a directive power, but of a real generative force.  When Jesus encountered the young, in whatever state and condition they might find themselves, even if they were dead, in one way or another he said to them: “Arise!  Grow!”  And his word brought about what he was saying (cf. Mk 5:41;  Lk 7:14).  In the episode of the healing of the possessed epileptic (cf. Mk 9:14-29), which evokes so many of the forms of alienation experienced by young people today, it seems clear that Jesus stretches out his hand not to take away freedom but to activate it, to liberate it.  Jesus fully exercises his authority: he wants nothing other than the growth of the young person, without a trace of possessiveness, manipulation or seduction.

Family bonds

72.   The family is the first faith community where, for all its limitations and incompleteness, the young person experiences God’s love and begins to discern a vocation.  The last two Synods and the Apostolic Exhortation Amoris Laetitia which came out of them, repeatedly emphasized that the task of the family, as a domestic Church, is to live the joy of the Gospel in daily life and to bring all its members to do so, according to their circumstances, remaining open to the dimension of vocation and mission.

Yet families do not always teach their children to consider the future through the lens of vocation.  Sometimes the desire for social prestige and personal success, the ambition of parents or a tendency to determine the choices of their children leave little room for discernment and condition the decisions that are made.  The Synod recognizes the need to help families arrive at a clearer understanding of life as a vocation.  The Gospel account of the adolescent Jesus (cf. Lk 2:41-52), subject to his parents but able to detach himself from them so as to concern himself with his Father’s affairs, can shed valuable light on how to interpret family relationships from a Gospel perspective.

Called to Freedom

The Gospel of freedom

73.   Freedom is the essential condition for every authentic life choice.  Yet there is a risk of it being misunderstood, not least because it is often inadequately presented.  The Church herself comes across to many young people as an institution that imposes rules, prohibitions and obligations.  Yet Christ “has set us free for freedom” (Gal 5:1), leading us from the regime of the Law to that of the Spirit.  In the light of the Gospel, it is helpful today to acknowledge more clearly that freedom is essentially relational and to show that passions and emotions matter in so far as they guide us towards authentic encounter with others.  This perspective clearly shows that true freedom is intelligible and possible only in relation to truth (cf. Jn 8:31-32) and above all to charity (cf. 1 Cor 13:1-13; Gal 5:13): freedom is being oneself in the heart of another.

A responsorial freedom

74.   Through lived experience of fraternity and solidarity, especially with the lowliest, young people learn that authentic freedom comes from feeling accepted, and the more we make space for others, the more it grows.  They have a similar experience when they make a commitment to simplicity of life or respect for the environment.  When they experience mutual recognition and shared commitment, they discover within their hearts a silent appeal to love that comes from God.  This makes it easier to recognize the transcendent dimension that lies at the heart of freedom and that comes alive through contact with the most intense life experiences – birth and death, friendship and love, guilt and forgiveness.  These are the experiences that help us to see that the nature of freedom is radically responsorial.

Freedom and faith

75.   More than 50 years ago, Saint Paul VI introduced the expression “dialogue of salvation” and he interpreted the mission of the Son in the world as an expression of an “appeal of love”.  He added, though, that we are “free to respond to it or to reject it” (cf. Ecclesiam Suam, 75).   From this perspective, the act of personal faith appears both free and liberating:  it will be the point of departure for a gradual appropriation of the contents of the faith.  So faith is not an element added to freedom as if from outside, but it fulfils the desire of conscience for truth, goodness and beauty, rediscovering them fully in Jesus.  The witness of so many young martyrs past and present, echoed powerfully at the Synod, is the most convincing proof that faith makes us free in the face of the powers of this world, in the face of its injustices and even in the face of death.

Freedom that is wounded and redeemed

76.   Human freedom is scarred by wounds from personal sin and from concupiscence.  But when, by experiencing forgiveness and mercy, people become aware of the obstacles that imprison them, they grow in maturity and can commit themselves with greater transparency in definitive life choices.  From an educative perspective, it is important to help young people not to feel discouraged in the face of errors and failures, even humiliating ones, because these form an integral part of the journey towards a more mature freedom, aware of its greatness and its weakness.

But evil does not have the last word : “For God so loved the world that he gave his only Son” (Jn 3:16).  He loved us to the end and thus he ransomed our freedom.  Dying for us on the cross, he poured out the Spirit, and “where the Spirit of the Lord is, there is freedom” (2 Cor 3:17 : a new freedom, a paschal freedom, which is fulfilled in the daily gift of self.

(以下、翻訳・岡山康子)

第2章 召命の神秘

  召命の探求

   召命、旅、そして発見

77.サムエル記(同3章1-21節参照)を読むと、識別するための基本的な要素が何であるかがわかります。神が導かれることをよく聞き、認識する、個人的な経験、理解を徐々に深め忍耐強く、丁寧に、神秘を伴って、共同体への使命、であることがはっきりしてくるのです。サムエルは召命を引き受けねばならない運命を決して負わされたのではなく、日々の相互信頼の中での愛の提案、宣教への派遣です。

 若いサムエル同様、男女問わずすべての人間にとって、召命には、特に選別された、という瞬間がある一方、長い旅路が求められます。主の言葉は理解し、解釈するのに時間がかかります。託された使命は、徐々に明らかになるのです。若者は次第に自己を発見していく冒険に魅了され、様々な活動や、出会いや、人との関係から意欲的に学び、日々の生活の中で自分を試していくのです。

 ですが、いろいろな体験をつなぎ合わせ、軌道からそれる危険を克服し、神が示されるサインを認識しながら、信仰の観点から読み取るためには、助けが必要です。召命は、一度には明確になりません。それは、「信仰は旅する範囲でしか、神の言葉によって開かれた地平の向こうに行くことを選んだ範囲でしか、見えない」(教皇フランシスコ回勅「 Lumen Fidei(信仰の光)」9項)からです。

  召命、恵みと自由

78.何世紀もの間、召命の神秘の神学的理解の力点は、そのテーマが作り出された時点の社会、宣教の文脈によって、異なってきました。どの様な場合にも、「召命」という言葉の類似的な性格は、その時々の現実の様々な局面と同様に、認める必要があります。

 これは、時として、全体像の持つ複雑さに常に適切に対応するとは限らないやり方で、個人的な側面を強調してきました。ですから、究極の源が神にある「召命の神秘」を深く取り込むためには、想像力と宗教的言語を純化し、聖書の物語の豊かさと調和を再発見せねばなりません。

 特に、神の選択と人間の自由の相互作用について、あらゆる決定論、あらゆる外在論と切り離して、よく考えることが必要です。召命は、人間がただ復唱するだけの、前もって書かれた台本でもなければ、台本なしのアドリブでもありません。神は私たちを「友」と呼ばれ、「僕」ではない(ヨハネ福音書15章13節参照)のですから、私たちの選択は、神の愛の計画の歴史的な展開に真に貢献するのです。

 一方、救済は、私たちを無限に超えた神秘-ですから、主のなさることに耳を傾けることによってのみ、救済において私たちが果たすように呼ばれている役割を知るのです。この見地から分かることは、召命は真の恩寵の賜物であり、契約の賜物―「私たちの自由」という、最も美しく最も貴重な秘密の宝-なのです。

  創造と召命

79.聖書は「万物は御子によって、御子のために造られた」(コロサイの信徒への手紙1章16節)と言明し、「召命の神秘」を神の創造そのものに満ちた現実として読み取るよう、私たちに指示しています。

 神は言葉によって創造されたー言葉は存在を呼び寄せ、命を呼び寄せ-そして、闇と混沌の中から、様々な特徴づけを行い、秩序の美と多様性の中の調和を宇宙に刻み込まれました。

 聖パウロ6世教皇は「すべての命は召命である」(回勅「Populorum Progressio(人類の進歩)15項)と言われ、ベネディクト16世教皇は「人間は対話する存在として創造された」と付け加えられました-創造の御言葉は、私たち一人ひとりを個人的に呼ばれ、生命そのものが神からの召命だ、ということ示された」(使徒的勧告「Verbum Domini(主のことば)」77項)と。

  召命としての文化に向かって

80.召命という言葉で人生について語ることは、私たちに、若者の成長にとって大変重要な要素に光を当てることを可能にします-それは、「召命は、運命で決められたり、偶然の産物だったりするものだ」という見方を排除し、そうではなく、自らの意思で苦労して求めるべき「私的財」だ、ということを意味します。

 第一のケースで、存在することの価値のある目的が分からないために、召命がないなら、第二のケースで「根無し」と考えられる人間は、「召命を持たない」ということになります。これが、信徒たちの洗礼の自覚を基礎に作られた全てのカトリック共同体社会が「真の召命の文化と召命のために常に祈る責任を育てることができるようにする環境」を作り上げることが重要だ、という理由です。

 The vocation to follow Jesus

The attractiveness of Jesus

81.   Many young people are fascinated by the figure of Jesus.  To them his life appears good and beautiful, because it is poor and simple, built on sincere and profound friendships, given for his brethren with generosity, never closed towards anyone, but always open to gift.  Still today the life of Jesus is profoundly attractive and inspiring; for all young people it is a provocation which challenges them.  The Church knows that this is due to the fact that Jesus has a deep bond with every human being because “Christ, the new Adam, by the revelation of the mystery of the Father and His love, fully reveals man to himself and makes his supreme calling clear” (cf. Gaudium et Spes, 22).

Faith, vocation and discipleship

82.   Indeed Jesus not only fascinated people with his life – he also issued an explicit call to faith.  He encountered men and women who recognized in his words and actions the right way to speak of God and to relate to him, pointing them towards the faith that leads to salvation:  “Daughter, your faith has made you well.  Go in peace!” (Lk 8:48).  Others who met him were called to become his disciples and witnesses.  He did not conceal from those who wanted to be disciples the need to take up the cross every day and follow him on a paschal journey of death and resurrection.   Faith as witness lives on in the Church, the sign and instrument of salvation for all peoples. There have always been various forms of discipleship within the community of Jesus.  Most of the disciples lived the faith in the ordinary circumstances of daily life;  others, though, including some women, shared the itinerant and prophetic existence of the Master (cf. Lk 8:1-3);  from the outset the apostles had a particular role in the community and they were associated by him with his ministry of guiding and preaching.

The Virgin Mary

83.   Among all the biblical figures who illustrate the mystery of vocation, we should contemplate in a particular way the figure of Mary.  This young woman, with her “yes”, made the Incarnation possible, thereby creating the conditions for every other ecclesial vocation.  She remains the first disciple of Jesus and the model of all discipleship.  In her pilgrimage of faith, Mary followed her Son to the foot of the Cross and after the Resurrection she accompanied the nascent Church to Pentecost.  As mother and merciful teacher she continues to accompany the Church and to implore the Spirit who gives life to every vocation.  Clearly, then, the “Marian principle” has an eminent role and illuminates the whole life of the Church in its various manifestations.  Alongside the Virgin, the figure of Joseph her spouse constitutes another exemplary model of vocational response.

  Vocation and vocations

Vocation and mission of the Church

84.   It is not possible to understand the significance of the baptismal vocation in its fulness unless we remember that for everyone, without exception, it is a call to holiness.  This call necessarily implies an invitation to share in the Church’s mission, which has as its fundamental goal communion with God and communion among all people.  Ecclesial vocations are multiple and articulated expressions through which the Church realizes her call to be a real sign of the Gospel received in a fraternal community.  The different ways of following Christ express, each in its own way, the mission to bear witness to the event of Jesus, in which every man and every woman finds salvation.

The variety of charisms

85.   Saint Paul returns many times in his letters to this theme, recalling the image of the Church as a body made up of various members and emphasizing that each member is necessary and at the same time a part of the whole, since only the unity of all makes the body alive and harmonious.  The origin of this communion Saint Paul locates in the very mystery of the Most Holy Trinity: “There are varieties of gifts, but the same Spirit;  and there are varieties of service, but the same Lord; and there are varieties of working, but it is the same God who inspires them all in every one” (1 Cor 12:4-6).  The Second Vatican Council and the subsequent Magisterium offer valuable indications for elaborating a correct theology of charisms and ministries in the Church, in such a way as to receive with recognition and to value with wisdom the gifts of grace that the Spirit continually calls forth in the Church to rejuvenate her.

Profession and vocation

86.   Many young people live their professional lives within a vocational horizon.  They often reject attractive work proposals that are not in line with Christian values and they make their choice of career by asking how best to bring their personal talents to bear fruit in the service of the Kingdom of God.  Work is seen by many as an opportunity to recognize and value the gifts they have received:  in this way men and women participate actively in the Trinitarian mystery of creation, redemption and sanctification.

The family

87.   The two recent Synodal Assemblies on the family, followed by the Apostolic Exhortation Amoris Laetitia, offered a rich contribution on the vocation of the family in the Church and the essential contribution that families are called to make in witness to the Gospel through mutual love and through the procreation and education of children.  Speaking of the riches contained in the recent documents reminds us how important it is to take up their message again so as to rediscover and help today’s young people to understand the beauty of the vocation to marriage.

Consecrated life

88.   The gift of consecrated life, both contemplative and apostolic, which the Spirit calls forth in the Church, has a particular prophetic value inasmuch as it is a joyful witness of the gratuitousness of love.  When religious communities and new foundations live their fraternity authentically, they become schools of communion, centres of prayer and contemplation, places of witness of intergenerational and intercultural dialogue and arenas for evangelization and charity.  The mission of many consecrated men and women who take care of the lowliest on the world’s peripheries manifests concretely the dedication of an outward-looking Church.  If in some regions it is experiencing reduction in numbers and the fatigue of ageing, consecrated life continues to be fruitful and creative, not least through co-responsibility with many lay people who share the spirit and the mission of the various charisms.  The Church and the world cannot be without this vocational gift, which is a great resource for our time.

The ordained ministry

89.   The Church has always taken particular care of vocations to the ordained ministry, in the knowledge that holy order is a constitutive element of the Church’s identity and is necessary for Christian life.  Hence she has always devoted special attention to the formation and accompaniment of candidates for the priesthood.  The concern of many churches for their numerical decline demands a renewed reflection on the vocation to the ordained ministry and on the pastoral care of vocations so as to convey the fascination of the person of Jesus and of his call to become pastors of his flock.  Likewise the vocation to the permanent diaconate calls for greater attention, because the full potential of this resource has yet to be tapped.

The condition of “singles”

90.   The Synod reflected on the situation of people who live as “singles”, recognizing that this term can indicate a great variety of circumstances.  The single state can have many causes, voluntary or involuntary, and can depend on cultural, religious and social factors.  It can therefore express a very broad range of life choices.  The Church recognizes that this state, lived in a spirit of faith and gift, can be one of the many roads by which the grace of baptism is realized and a person advances towards the holiness to which are all called.

 Chapter III The mission to accompany

The Church that accompanies

Faced with choices

91.   In the modern world, marked by an ever more evident pluralism and by an ever wider range of possible options, the theme of choices arises with particular force at a variety of levels, especially in the face of life journeys that are less and less linear and marked by great precariousness.  Often the young oscillate between approaches as extreme as they are ingenuous: from considering themselves in thrall to a predetermined and inexorable destiny, to finding themselves overwhelmed by an abstract ideal of excellence, within a framework of unregulated and violent competition.

Accompaniment for the sake of valid, stable and well-founded choices, is therefore a service that is widely needed.  Being present, supporting and accompanying the journey towards authentic choices is one way for the Church to exercise her maternal function, giving birth to the freedom of the children of God.  Service of this kind is simply the continuation of the way in which the God of Jesus Christ acts towards his people:  through constant and heartfelt presence, dedicated and loving closeness and tenderness without limits.

Breaking bread together

92.   As the account of the Emmaus disciples shows us, accompanying requires availability to walk a stretch of road together, establishing a significant relationship.  The origin of the term “accompany” points to bread broken and shared (cum pane), with all the symbolic human and sacramental richness of this reference.  It is therefore the community as a whole that is the prime subject of accompaniment, precisely because in its heart it develops that drama of relationships that can support the person on his journey and furnish him with points of reference and orientation.  Accompaniment in human and Christian growth towards adult life is one of the ways in which the community demonstrates that it is capable of renewal and of renewing the world.

The Eucharist is the living memorial of the paschal event, a privileged place of evangelization and transmission of the faith for the sake of mission.  In the assembly gathered for the eucharistic celebration, the experience of being personally touched, instructed and healed by Jesus accompanies each person on his or her journey of personal growth.

Environments and roles

93.   As well as family members, those called to exercise a role of accompaniment include all the significant persons in the various spheres of young people’s lives, such as teachers, animators, trainers, and other figures of reference, including professional ones.  Priests, men and women religious, while they do not have a monopoly of accompaniment, have a specific task which arises from their vocation and which they must rediscover, as they were asked to do by the young people present in the Synodal Assembly, in the name of so many others.  The experience of some Churches exalts the role of catechists as accompaniers of the Christian communities and of their members.

Accompanying the entry into society

94.   Accompaniment cannot limit itself to the path of spiritual growth and to the practices of the Christian life.  Equally fruitful is accompaniment along the path of gradual assumption of responsibilities within society, for example in the professional sphere or in socio-political engagement.  In this sense, the Synodal Assembly points to the importance of the Church’s social teaching.  In society and in ecclesial communities that are ever more intercultural and multireligious, there is need for accompaniment that focuses specifically on relationship with diversity, that sees it as a mutual enrichment and as a possibility for fraternal communion, against the twofold temptation of retreating within one’s own identity and relativism.

Community accompaniment, of groups and individuals

A fruitful tension

95.   There is an inherent complementarity between personal accompaniment and community accompaniment, which every spirituality or ecclesial sensibility is called to articulate in its own way.  In particularly delicate moments, such as the phase of discernment over fundamental life choices or the negotiation of critical periods, direct personal accompaniment will prove particularly fruitful.  Yet it also remains important in daily life as a way of deepening one’s relationship with the Lord.

Then one must underline the urgency of personally accompanying seminarians and young priests, religious in formation, as well as couples preparing for marriage and in the early stages after the celebration of the sacrament, drawing inspiration from the catechumenate.

Community accompaniment and group accompaniment

96.   Jesus accompanied his group of disciples, sharing his daily life with them.  Community experience highlights the qualities and the limits of every person and helps us to recognize humbly that unless we share the gifts we have received for the common good, it is not possible to follow the Lord.

This practice continues in the Church today, as the young join groups, movements and associations of various kinds, where they experience a warm and welcoming environment and the intensity of relationships that they desire.  Joining organizations of this kind is particularly important once the journey of Christian initiation has been completed, because it offers the young an opportunity to bring their Christian vocation to maturity.  Pastors should maintain a presence in these environments, so as to guarantee suitable accompaniment.

In these groups, the formators and animators represent a point of reference in terms of accompaniment, while the friendships that develop within them prepare the ground for peer accompaniment.

Personal spiritual accompaniment

97.   Spiritual accompaniment is intended to help people integrate step by step the various dimensions of their lives so as to follow the Lord Jesus.  In this process three elements can be identified:  listening of life, encounter with Jesus and mysterious dialogue between God’s freedom and that of the individual.  Those who accompany should be welcoming and patient, they elicit pertinent questions and recognize the signs of the Spirit in the replies of the young.

In personal spiritual accompaniment one learns to recognize, interpret and choose from the perspective of faith, listening to the Spirit’s promptings within the life of every day (cf. Francis, Evangelii Gaudium, 169-173).  The charism of spiritual accompaniment is not necessarily linked to ordained ministry, nor was it in the past.  Never has there been so great a need as there is today for spiritual guides, fathers and mothers with profound experience of faith and humanity, over and above their intellectual preparation.  In this area, the Synod devoutly hopes for a rediscovery of the immensely fruitful resource of consecrated life, especially its female form, and of well-formed laypersons, young and old.

Accompaniment and the sacrament of Reconciliation

98.   The sacrament of reconciliation plays an essential part in helping us move forward in the life of faith, marked as it is not only by limits and frailties, but also by sin.  The ministry of reconciliation and spiritual accompaniment must be clearly distinguished from one another, because they take different forms and have different objectives.  A healthy and wise graduality of penitential paths is needed pastorally, involving of a range of educative figures, who can help young people to read their moral lives, to develop a correct sense of sin and above all to open themselves to the liberating joy of mercy.

Integral accompaniment

99.   The Synod recognizes the need to promote an integral accompaniment, in which the spiritual aspects are well integrated with the human and the social.  As Pope Francis explains, “spiritual discernment does not exclude existential, psychological, sociological or moral insights drawn from the human sciences.  At the same time, it transcends them” (Gaudete et Exsultate, 170).  It is a question of absorbing all these elements dynamically, respecting different spiritualities and cultures, without exclusion and without confusion.

Psychological or psychotherapeutic accompaniment, as long as it is open to transcendence, can prove fundamental for a journey of integration of the personality, and it can reopen to the possibility of vocational growth certain aspects of the personality that are closed or blocked.  Young people live all the richness and fragility of being an “open book”.  Psychological assistance could not only help them patiently to relive their personal history, but also to reopen questions so as to help them arrive at a more stable affective equilibrium.

Accompaniment during formation for the ordained ministry and consecrated life

100.        When young people are admitted to houses of formation or seminaries, it is important to establish whether they are sufficiently rooted in a community, and whether they show stability in relations of friendship with peers, in commitment to study or work, and in contact with poverty and suffering.  In spiritual accompaniment, it is crucial to begin with prayer and the interior world, learning discernment above all in their own lives, not least though forms of renunciation and asceticism.  Celibacy for the Kingdom (cf. Mt 19:12) should be understood as a gift to be recognized and verified in freedom, joy, gratuitousness and humility, before admission to candidacy or first profession.  The contribution of psychology is to be understood as an aid to affective maturation and integration of the personality, to be used in formation according to professional ethics and with respect for the effective freedom of those in formation.  The figure of the rector or whoever is responsible for formation becomes ever more important for unifying the journey of formation, for arriving at a realistic discernment, consulting all those involved in formation, and for deciding whether or not to interrupt the journey of formation, guiding individuals onto a different vocational path.

Once the initial phase of formation is concluded, there is a need for ongoing formation and accompaniment of priests and consecrated men and women, especially younger ones, who often have to face challenges and responsibilities that are quite out of proportion.  The task of accompanying them falls not only upon those duly delegated, but must be personally exercised by bishops and superiors.

Quality accompaniers

Called to accompany

101.        In many ways, the young ask us to describe the qualities needed in an accompanier.  The service of accompaniment is a genuine mission, which requires apostolic availability on the part of those who provide it.  Like the deacon Philip, the accompanier is called to obey the call of the Spirit, going outwards and leaving behind the safe area enclosed by the walls of Jerusalem, a figure of the Christian community, so as to set out towards an inhospitable desert place, perhaps a dangerous one, in which he makes the effort to pursue a chariot.  Having reached it, he must find a way of entering into a relationship with the foreign traveller, so as to elicit a question that perhaps would never have been formulated spontaneously (cf. Acts8:26-40).  In brief, to accompany requires placing oneself at the disposal of the Spirit of the Lord and of the one accompanied, with all his or her qualities and capacities, and then having the courage to step aside with humility.

The profile of the accompanier

102.        A good accompanier is a person who is balanced, a listener, a person of faith and prayer, who has the measure of his own weaknesses and frailties.  Hence he knows how to be accepting of the young people he accompanies, without moralizing and without false indulgence.  When necessary he also knows how to offer a word of fraternal correction.

The awareness that accompanying is a mission that requires a profound spiritual rootedness will help him to remain free in his dealings with the young people he accompanies: he will respect the outcome of their journey, supporting them with prayer and rejoicing in the fruits that the Spirit produces in those who open their hearts to him, without seeking to impose his own will and his own preferences.  Equally he will be capable of placing himself at their service, not taking centre stage or adopting possessive and manipulative attitudes that create dependence rather than freedom in others.  This profound respect will also be the best guarantee against any risk of domination or abuse of any kind.

The importance of formation

103.        In order to perform this service, the accompanier will need to cultivate his own spiritual life, nourishing the relationship that links him to the One who assigned this mission to him.  At the same time he needs to feel the support of the ecclesial community to which he belongs.  It is important that he receive a specific formation for this particular ministry and that he can benefit in his turn from accompaniment and supervision.

It is worth noting, finally, that among the characteristics of our “being Church” that the young particularly appreciate are a readiness and a capacity for working collaboratively: in this way the formation of the young can be more significant, effective and incisive.  The skill required for working collaboratively involves cultivating specific relational virtues: the discipline of listening and the capacity to give the other person space, readiness to forgive and willingness to “put oneself on the line”, according to a genuine spirituality of communion.

Chapter IV The Art of Discernment

The Church, an environment for discernment

A constellation of meanings in the variety of spiritual traditions

104.        Vocational accompaniment is a key dimension of a process of discernment on the part of the person who is called to choose.  The term “discernment” is used in a variety of ways, albeit interrelated.  In a more general sense, discernment indicates the process by which important decisions are taken;  in a second sense, more typical of the Christian tradition and more relevant for our purposes, it corresponds to the spiritual dynamic by which a person, a group or a community seek to recognize and to follow the will of God in their particular situation:  “test everything;  hold fast to what is good” (1 Thess5:21).  In so far as it involves seeking to recognize the Spirit’s voice and to accept the Spirit’s call, discernment is an essential dimension of Jesus’ manner of life, a fundamental attitude rather than a particular action.

Throughout Church history, different spiritualities have addressed the topic of discernment with different emphases, and in relation to different charismatic sensitivities and historical epochs.  During the Synod we recognized some common elements, which do not take away from differences of language:  the presence of God in the life and the history of every person;  the possibility of recognizing God’s action; the role of prayer, of sacramental life and of asceticism;  continual engagement with the demands of the Word of God;  freedom with regard to acquired certainties; constant evaluation in the light of everyday life; the importance of adequate accompaniment.

At the heart of the Word and of the Church

105.        In so far as it is an “interior attitude rooted in an act of faith” (Francis, Address to the 1st General Congregation of the XV Ordinary General Assembly of the Synod of Bishops, 3 October 2018), discernment lies at the heart of the Church, whose mission is to bring every man and every woman to meet the Lord who is already at work in their lives and in their hearts.

The ecclesial context favours a climate of trust and freedom as individuals search for their vocation in an environment of recollection and prayer;  it offers concrete opportunities for rereading one’s history and for the discovery of one’s gifts and vulnerabilities in the light of God’s Word;  it permits engagement with witnesses who act out a variety of life choices.  And encounter with the poor rapidly deepens what is essential in life, while the sacraments – especially the Eucharist and Reconciliation – nourish and sustain those who set out on the path of discovery of God’s will.

The horizon of community is always implied in every discernment, which can never be reduced to the merely individual dimension.  At the same time every personal discernment puts a question to the community, inviting it to listen to what the Spirit is saying through the spiritual experience of its members:  like every believer, the Church too is always in discernment.

Conscience in discernment

God speaks to the heart

106.        Discernment focuses attention on what is actually happening in the heart of every man and every woman.  In the Bible, the term “heart” is used to indicate the central point of interiority of the person, where listening to the Word that God is constantly addressing to us becomes a criterion for evaluating our life and our choices (cf. Ps 139).  The Bible considers the personal dimension, but at the same time underlines the community dimension.  Moreover, the “new heart” promised by the prophets is not an individual gift, but concerns the whole of Israel, within whose tradition and salvation history the believer takes his place (cf. Ezek 36:26-27).  The Gospels follow the same line: Jesus insists on the importance of interiority and he locates the centre of the moral life in the heart (cf. (Mt 15:18-20).

The Christian idea of conscience

107.        Saint Paul amplifies what the biblical tradition had to say about the heart, placing it in relation to the term “conscience”, which he takes from the culture of his time.  In the conscience we gather the fruit of encounter and communion with Christ: a salvific transformation and acceptance of a new freedom.  The Christian tradition insists on the conscience as the privileged place for special intimacy with God and encounter with Him, where his voice is heard:  “Conscience is the most secret core and sanctuary of a man. There he is alone with God, Whose voice echoes in his depths” (Gaudium et Spes, 16).  This conscience is not about immediate and superficial sentiment, nor about “self-consciousness”:  it testifies to a transcendent presence, which each person discovers in his own interiority, but which he does not control.

The formation of conscience

108.        Forming our conscience is the work of a lifetime, in which we learn to cultivate the very sentiments of Jesus Christ, adopting the criteria behind his choices and the intentions behind his actions (cf. Phil 2:5).  To reach the deepest dimension of conscience, according to the Christian vision, it is important to cultivate the interiority that thrives on periods of silence, on prayerful, listening contemplation of the Word, on the sustenance gained from the sacraments and from Church teaching.  Moreover we need to develop the habit of doing good, which we review in our examination of conscience: an exercise which is not just about identifying sins, but includes recognizing God’s work in our daily lives, in the events of our history and our cultures, in the witness of so many other men and women who went before us or who accompany us with their wisdom.  All this helps us to grow in the virtue of prudence, giving an overall direction to our life through concrete choices, in the serene awareness of our gifts and limitations.  The young Solomon asked for this gift more than any other (cf. 1 Kings 3:9).

Ecclesial conscience

109.        At the most personal level, the conscience of every believer is always related to the ecclesial conscience.  It is only through the mediation of the Church and its tradition of faith that we can access the real face of God revealed in Jesus Christ.  Spiritual discernment is therefore seen as a sincere work of conscience, in our duty to know the good that is possible, on the basis of which to make responsible decisions as to the right exercise of practical reason, within and in the light of our personal relationship with the Lord Jesus.

The practice of discernment

Familiarity with the Lord

110.        As an encounter with the Lord that takes place deep within the heart, discernment can be understood as an authentic form of prayer.  Hence it requires sufficient periods of recollection, both in the context of daily life and at privileged moments, like retreats, courses of spiritual exercises, pilgrimages, etc.  Serious discernment is helped by all those occasions when we encounter the Lord and deepen our familiarity with Him, in the various forms in which he makes himself present:  the Sacraments, and especially the Eucharist and Reconciliation;  listening and meditating on the Word of God, Lectio Divina in the community, the fraternal experience of common life, and encounter with the poor – with whom the Lord Jesus identifies.

The attitudes of the heart

111.        Opening ourselves to listen to the Spirit’s voice requires particular interior dispositions: the first is the attention of the heart, favoured by silence and by a self-emptying that demands asceticism.  Equally fundamental are self-awareness, self-acceptance and repentance, combined with a willingness to put one’s life in order, abandoning whatever might emerge as an obstacle and regaining the interior freedom necessary to make choices that are guided only by the Holy Spirit.  Good discernment also requires attention to the movements of the heart, as we grow in the capacity to recognize and name them.  Finally, discernment requires the courage to engage in spiritual combat, as there will be no shortage of temptations and obstacles that the Evil One places in our path.

The dialogue of accompaniment

112.        The various spiritual traditions all agree that good discernment requires regular interaction with a spiritual guide.  Putting our lived experience into words authentically and personally helps us to see it more clearly.  At the same time, the accompanier provides us with an essential element of accountability, becoming a mediator of the maternal presence of the Church.  This delicate function was considered in the previous chapter.

Decision and confirmation

113.        Discernment as a dimension of the manner of life of Jesus and his disciples makes possible the concrete processes that carry us beyond uncertainty, to the point where we can assume responsibility for decisions.  Hence processes of discernment cannot last indefinitely, either in our personal lives, or in the lives of communities and institutions.  Decision-making is followed by an equally fundamental phase of implementation and verification in daily life.  It is therefore essential to proceed via attentive listening to interior promptings so as to hear the voice of the Spirit.  Engagement with daily reality takes on special importance in this phase.  Various spiritual traditions point out the value of fraternal life and service to the poor as a test for decisions that have been taken and as a setting in which the person fully reveals himself.

(ここから田中典子訳)

第3部 「”彼ら”はすぐさま、発つ」

114.「二人は互いに言った。『道々、聖書を説き明かしながら、お話くださったとき、私たちの心は燃えていたではないか』。すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(ルカ福音書24章32-35節)。  私たちは、このみ言葉を聞いて、出会いの喜びを感じます-出会いの喜びは、心を満たし、人生に意味を与え、新たな活力を注ぎ込みます。顔は輝き、人生の旅は新たな活力を得ます。召命の反応の光と力は、共同体社会と全世界に対する宣教となります。遅滞なく、恐れもなく、二人の弟子はエルサレムに戻り、仲間に会って、復活されたイエスとの出会いを知らせようとします。  若い教会    復活の象徴

115.  エマオでの弟子たちの(注:イエスの十字架上の死と復活の)過越しの霊感とつながる形で、マグダラのマリアの身に起きた出来事(ヨハネ福音書20章1⁻18節)は、このシノドスの成果として、カトリック教会が若者たちとともに、若者たちのために希求する道-信仰の宣言と宣教につながる復活の道-に光を当てます。主への深い熱望を抱き、夜の闇も恐れず、マグダラのマリアはペトロと他の弟子たちのところに走って行きます-彼女の振る舞いは弟子たちを動かし、その女性らしい献身的な態度は弟子たちの進路を先取りし、彼らのために道を開きます。

 週の初めの日の夜明けに、彼女は驚きの出会いを体験します-イエスを愛していたので、イエスを墓に捜しに行き、愛されていたので、イエスを見つけます。復活されたイエスは、彼女の名を呼ぶことで、彼女にご自身であることを知らせます。そして、ご自分の身体に触れないように、と言います。それは、復活した体は地上にとどめておくべき宝ではなく、分かち合うべき神秘だからです。このようにして、彼女は最初の宣教する弟子、使徒の中の使徒となるのです。自身の傷を癒され(ルカ福音書8章2節)、主の復活の証人となった彼女は、私たちが理想とする若い教会の姿なのです。

   若者たちと歩む

116. 真理を求める情熱、主の素晴らしさへの驚き、分かち合う能力、信仰を宣言する喜びは、教会の活動的な一員となっている多くの若者たちに、今も生きています。これは、単に「若者ために」何かをすることについてだけではなく、「若者との」交わりの中で生き、福音を理解し福音を生き、その証人となる確実な道を探求する中で、共に成長することに関してです。

 教会生活において若者たちの責任ある参加は、選ぶものではなく、洗礼を受けた人生が求められるもの、全ての共同体社会の不可欠な要素なのです。若者たちが受ける試練と彼らの弱さは、私たちの向上を助けてくれます。彼らの問いかけは私たちの意欲をかきたて、彼らの疑いは、私たちが自分の信仰の質を省みるきっかけとなります。彼らの批判もまた、私たちに取って必要です。それは、批判を通して、回心と組織の刷新とお求めになる主の声を、私たちが聴くからです。

  すべての若者に近づこうとする熱望

117. シノドスで、私たちは常に、若者たちー教会に所属し、積極的に活動する若者だけではなく、他の人生観をもち、他の宗教に所属し、あるいは宗教から距離を置く、全ての若者たち-について、自分自身に問いかけてきました。全ての若者は、例外なく、神の心の中に存在するだけでなく、教会の心の中にも存在します。

 しかし、「口で言っていることが、必ずしも、司牧活動の中に実際に表されているとは限らない」ということを、私たちは率直に認めます-しばしば、私たちは、若者の声が届かなかい、自分たちの殻に閉じこもったり、あまりきつくない、楽な活動に多くの時間を費やしたりし、安全と思われる所から抜け出すように強く求める「健全な司牧上の焦燥感を」抑え込みます。しかし、福音は、私たちに大胆であることを求めており、私たちは、仮定や変節をすることなく、大胆に、主の愛を証しし、自分の手を世界の全ての若者に差し伸べたいと思っています。

  霊的、司牧的な、そして宣教の転換

118. 教皇フランシスコが私たちにしばしば思い起こさせるのは、真剣な転換の歩みなしには、このことが不可能だ、ということです。私たちは知っています-これが、単なる新しい活動を始めることに関する問いかけでも、「敗軍の将がするように、注意深く立案された拡張主義的な使徒職計画」(教皇フランシスコ使徒的勧告「福音の喜び」96項)を私たちが書きたいのでもないことを。私たちは、信頼できる者となるために教会の改革を実践せねばならない、ということを知っています-それは心を浄化し、生き方を変えることを意味します。

 教会は真にEucharist(聖体)の形を帯びるものでなければならず、聖体を教会活動の源であり頂点にあるものとして祝いますー多くの穀物から作られ、また世界の人々の命のために割かれるパンの形をとっています。このシノドスの成果-聴くことと識別することを通して、聖霊が私たちに奮い起こさせた選択-は、若者とともに歩み、誰のところにも出かけ、神の愛を証しする、ということです。

 宣教のためのsynodality(シノドス様式)あるいは宣教のsynodality(シノドス様式)について語ることで、以上のようなプロセスを説明することもできるでしょうー「シノドス的な教会を現実のものとすることは、神の民すべてを含む新しい宣教のエネルギーのための不可欠な前提条件です」(2018年3月の国際神学委員会文書「教会の活動と宣教におけるsynodality」9章)。

 ここで第二バチカン公会議の預言について言及したいと思います。私たちは今なおこの公会議のあらゆる奥深さ取り入れ、日常的な意味合いの中で発展させる必要がありますー教皇フランシスコが「三千年期の教会に神が期待されるのは、まさにこのシノドス的な道なのです」(シノドス創立50周年記念講演2015年10月7日)と語られる時、私たちにそれを思い起こさせるように。

 シノドスの祈りと討議の成果であるこうした選択が、神の恵みによって、教会が「youth of the world(世界の青年)」となり、さらにそれが明確になるのを可能にすると、私たちは確信しています。

(「カトリック・あい」参考:「書面の文書を作成することを第一の目的としないのが『シノドス様式』です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」=教皇フランシスコのシノドス閉幕に当たっての言葉=)

 

 第1章 教会の共に歩む宣教

  構造的なダイナミズム

   若者たちは、私たちが共に歩むよう求めている

119.  教会は全体として、今回のシノドスを通して若者に関わるという、極めて明白な選択をしました-教会はこの任務を、新時代を画するような重要性をもつ司牧の優先事項、時間、エネルギー、資源を投資すべきもの、と考えています。若者たちは、シノドスの準備を始める段階から、シノドスに関わること、正当に評価されること、教会の活動の使命について自分たちも共同の主役であると感じること-に強い希望を表明してきました。

 このシノドスで、私たちは、若いキリスト教徒たちと共同責任を担うことが、司教たちにとって、どれほど深い喜びの元となるのか-を体験しました。この体験の中で、聖霊の働きをはっきりと知りますー聖霊は絶えず教会を新しくし、synodalityの実践-年齢、生活の状況、召命によって、存在し、行動し、全ての受洗者と善意の人々の参加を促すこと-を呼びかけます。

  (注:ここで言うsynodalityとは、(宣教の)使命を果たすための一つのスタイル-「私」から「私たち」に進むように、私たちの顔、感受性、素性、文化の多様性を考えるように強く促すこと-を意味している=「カトリック・あい」)

 また、このシノドスにおいて、私たちは、神の民への思いにおいて司教たちをcum Petro et sub Petro(ペトロと共に、ペトロの下に)結びつけるcollegiality(協働性)が、あらゆるレベルの synodalityの実践を通して、それ自身を表明し、それ自身と豊かにすることが、いかに求められているのかを体験しました。

       シノドスの取り組みは続く

120. 今回のシノドスの会議終了とその成果をまとめた最終文書は、シノドスによる取り組みを閉じるものではなく、一つの段階を構成するものです。若者たちの置かれた具体的な状況、実際に可能なこと、緊急に求められることは、それぞれの国、大陸によって、そして一つの信仰で共通している場合でさえも、大きく異なりますーそれゆえ、私たちは、司教協議会と特定の教会に対して、このシノドスで始まった取り組み継続し、共同の識別の手続きを踏み、このシノドスがしたように、司教でない人たちも議論に参加させるように、お勧めします。

 このような教会における手順を踏む場合、特に、存在が軽視された若者たち、教会共同体との結びつきが希薄な若者たちに配慮した司牧計画を立てることを視野に入れ、兄弟姉妹に対するように聴き、世代間の対話をする必要があります。家族、宗教施設、協会、運動体、そして若者たち自身が、これらの取り組みに参加することを願いましょう。そうすることで、このシノドスの日々に体験した「炎」が広がるように。

      教会のSynodal form(シノドス的な形)

121. シノドスの参加者たちは、共有した体験によって、信仰を宣べ、伝えるために教会がsynodal form(シノドス的な形)を取ることの重要性に気づきました。若者たちの参加は、synodalityに再度、目覚めさせるように促しました-synodalityは「教会の構成要素であり..聖ヨアンネス・クリュソストモス(「カトリック・あい」注:4世紀のギリシャの神学者、コンスタンチノープル主教)が言われたように『教会とシノドスは同義語』なのです-それは、教会というものが、主キリストとの出会いを目指す遍歴の道をたどる神の羊の群れの『共にする旅』に他ならないからです」(教皇フランシスコのシノドス創設50周年の記念講演 2015年10月17日)

 Synodalityは教会の活動と使命の両方を特長づけています-教会は、「それぞれの文化と視野を持つ若者と高齢者、男性と女性によって構成された神の民」、そして「片隅に追いやられ、踏みつけにされた人々をはじめとする私たちが互いに構成メンバーであるキリストの体」なのです。意見の交換や信仰を証しする過程で、このシノドスはsynodal styleの確かな基本的特性を蘇らせました-これが私たちに求められている転換の目標なのです。

122.信仰を順に伝えていくことは、関係-共同体社会でのキリスト、他の人々との関係-においてです。宣教の使命を果たすためにも、教会は人との関わりを重視する顔を持つように求められています-参加する人たちの生活を変える過程で、聴くこと、歓迎すること、対話すること、そして共に識別すること-に重きを置く顔です。

  「synodal(シノドス的な)教会とは、聴き、『単に聞きながす以上』によく聴くことをはっきりと理解する-教会です。学ぶべきものを持っている人たちが耳を傾け合う教会です。信仰のある人たち、司教団、ローマ司教(注:教皇)ー聖霊が「諸教会に告げる」(ヨハネの黙示録2章7節)ことを知るために、皆が互いに耳を傾け合い、皆が聖霊-『真理の霊』(ヨハネ福音書14章17節)に耳をすまします」(教皇フランシスコのシノドス創設50周年の記念講演 2015年10月17日)。

 このようにして教会は「契約の箱が置かれた『出会いの幕屋』(出エジプト記25章参照)」として姿を現します-活動を続ける躍動する教会、多くの賜物と聖職者たちによって強められた、旅する、寄り添う教会です。このようにして神はこの世にご自分の姿を示されるのです。

  参加し、共同で責任をもつ教会

123. 参加型の共同責任をもつ教会特有の特徴は、共同責任を原動力に、教会員のそれぞれの召命や役割に従って、聖霊がくださる賜物を高く評価することです。この賜物を十分に活かすために、心の転換が、互いに耳を傾け合う用意とともに必要です。それが効力のある共通の意識を作ります。

 このような心的態度に活気づけられて、私たちは「参加し、共同で責任をもつ教会」に向かって進むことができます。教会のもつ多様な豊かさを大切にし、若者を含む一般信徒、男女の修道者、そして集団、協会、活動体の貢献を、進んで受け入れることができます。誰も隅に追いやられたり、自分自身を隅に追いやったりすべきではありません。 これが、多くの教会員を教会活動の決定過程から排除する「聖職権主義」と、この世の宣教に献身させる代わりに檻に閉じ込める「clericalization of the laity(一般信徒の聖職権主義化)」を回避する道です。

 今回のシノドスは、特定の教会と、司教協議会と普遍教会の組織における共同責任の場において、若者たちの積極的な参加が、効果的で、通常なものとなるように、要請します。また、教皇庁の「信徒・家庭・いのちの部署」の若者を担当する局の活動が強化されるように、特に国際的なレベルで若者の声を代表する組織を通してなされるように、要請します。

  識別の共同のプロセス

124.神の民として「共に歩く」という体験は、私たちが、奉仕としての権限の認識をより深めるのを助けます。社会の片隅に住む人々を始めとして共同体の全員とともに、証しと宣教の協働を増進し、それによって信仰の光と聖霊の導きのもとに「時のしるし」を解釈する能力が、司祭たちに求められます。これらの能力とともに、教会指導者は、synodalityへ特別な取り組みが必要となります。この点で、若い一般信徒、若い修道者と神学生のために、共同での取り組みの教育課程を工夫することが、特に権限や共同司牧の遂行のような分野で、極めて望ましいように思われます。

  宣教の形

   宣教の交わり

125. 教会のシノドス的な活動は、本質的に宣教を目指していますー神が「すべてにおいてすべてとなられる」(コリントの信徒への手紙➀15章28節)日まで、教会は「神との親密な交わりと全人類の一致のしるし、道具」(第二バチカン公会議・ 教会憲章1項)です。聖霊に心を開く若者は、教会が「『私』が理解するという自己中心の道から、『私たち』という教会的な道へと司牧的な移行を可能にするために役に立ちます。そこでは、キリストを着た(ガラテヤの信徒への手紙3章27節参照)『私』の一人ひとりが「責任のある、神の民全体の宣教の代理人として、責任にもって行動し、兄弟姉妹とともに暮らしと旅を続けます」(国際神学委員会2018年3月2日発表の「教会の活動と宣教におけるSynodality」107項)。聖霊の励ましと司教たちの導きのもとに、同様の変化がキリスト者の共同体にも起こらなければならず、「私」自身、あるいは「私」の属するものに向かう性向から、全ての人間家族、全ての被造物を含む「私たち」の構築に尽くす方向に進むことが求められています。

   対話による宣教 dynamic

126. その生き生きした動きは、若者とともに行う宣教の方法に的確な結果をもたらします。それは、率直に、妥協することなく、善意の人々すべてと対話することを、私たちに求めます。聖パウロ6世が表明されていますー「教会には…言うべき事、伝えるべきメッセージ、なすべき伝達、があります」(教皇パウロ6世回勅Ecclesiam Suam(自分の教会)65項)と。

 人々と文化の多様性で特徴づけられた世界で、正義に関する連帯、統合、促進という取り組みが、信頼でき、効果的で、「出会いと無償の文化」の意味を示すものであるなら、「共に歩む」ことが欠かせません。キリスト教の他の宗派や様々な宗教の信仰、信念、文化をもつ仲間と日々連絡をとりつつ生活しているのは若者であり、教会一致運動と宗教間対話を実施するように全てのキリスト教共同体を刺激するのも、若者です。このことは、包み隠さず話す勇気、謙虚に耳を傾ける勇気、時には殉教に至ることもある禁欲に努める勇気を、必要とします。

   社会の外周部に向かって

127. 民主主義的なシステムが、参加者の不足と、広範な支持のない小さな利益集団の分不相応な影響力によって、還元主義的、技術主義的、権威主義的な結果がもたらす危険にさらされる場合、対話の実践と共同の解決策の探求が明確な優先事項になります。

 福音への忠実さが、対話を「貧しい人々と大地の二重の叫びへの対応の探求」へと導き(教皇フランシスコ 回勅「ラウダート・シ」49項参照)、若者たちが特に感受性を示す、社会教説の原則-人間の尊厳、財の普遍的な宛先、貧しい人々に望ましい選択、連帯の優位性、下位にある者への配慮、私たちの”共通の家”(注:地球)へのいたわりーによって、社会的なプロセスの促進を確かなものにする方向へと導きます。

 教会の内にある召命は、表に出て対話する共同体の力強い動きの圏外に留まれません。それゆえ、最も貧しく最も弱い人々に優先して注意を向け、その視野の優劣をチェックするために、共に歩む一つ一つの努力が求められているのです。

 

第2章 日々の生活の中で共に歩む

  組織から関係へ

   代表派遣から関与へ

128. シノドス的な宣教(ともに歩くこと)は、例外なく教会に適用されるだけではありません。共に旅をすること-刷新され、透明性を高めた共同体で実際に兄弟愛を証しすることーが、個々の共同体に何よりも求められます。社会的背景が日常生活が違っていても、それぞれの地域で、「私たちは神の民であり、福音を具体的に生きる責任がある」ことを認識し、自覚する必要があります。これは「代表派遣」という論理から踏み出すことを含み、司牧的活動を大きく条件付けます。

 秘蹟の準備のためにカテキスタのコースを例にとると、多くの家庭がそれを全面的に小教区に委ねます。そうした考え方は、子供たちが、信仰を「日常生活を照らす現実」としてではなく、「自分たちが存在する別の分野の考えや規則の収集物」と見なす危険を冒す結果を招きます。そのようにならないために、「二人(注:小教区と家庭)は一緒に旅に出る」ことが必要です。小教区は、家庭が「信仰という日常の現実を若者たちが体験」するの助けることを必要とし、家庭は、小教区に「カテキスタなどを通して、子供たちにキリスト教のより本質的なビジョンを示す」ことを求めています。若者や子供たちを共同体に招き入れ、彼らにより広い視野を開きたいからです。本物の関係が彼らの中で発展しないなら、そのような組織は十分ではありません。福音化は、実はこれらの関係のもつ質の高さなのです。

   小教区の刷新

129.  小教区は、より生産的な共同体になろうとしており、その過程で最も弱い人々に対する宣教の陣頭指揮をとらなければなりません。小教区が、必ずしも人々の霊的な要望に応えることに成功しているとは限らない、というしるしが見られます。それは主として、人々のライフスタイルが大きく変えられた、いくつかの要素のためです。私たちは、新しい時間と空間の関係―部分的にはデジタルコミュにケーションがもたらすーと、絶えざる移動を特徴とする「国境のない」文化の中で生きています。

 このような文脈の中で、「小教区は、地理的な境界線で決められ、多岐にわたる対応で信徒、特に若者と関わることはできない」という考えを持つことは、「受け入れがたい停滞、不安がつきまとう司牧サイクル」の中に、小教区を閉じ込めることになります。「教会の共同責任と宣教の意欲」という観点から小教区を考え直すべきです。この観点に基づいて、新しい相乗効果を開拓することです。そのようにして初めて、小教区は、若者の人生に関わることのできる重要な場になるでしょう。

   開かれた、判読可能な組織

130 .さらに、明確な透明性と共有性という同じ線上で、個々の共同体は「若者が彼らのライフスタイルと組織の中に福音の証しを認識できるかどうか」を自問することが重要です。多くの司祭、修道女、宗教者、司教の個人的生活が人々に対する簡潔さと献身によって特徴づけられているのは、疑いのないところですが、大部分の人たち、特に若者にとって、それはほとんど目に見えません。多くの人々から、私たちの教会の世界は理解しにくい、と見られています-私たちの果たしている役割と、それに対する既成概念が、彼らが距離を置く原因になってのです。

 あらゆる形で、日々の生活を人々にもっと近づきやすいようにしましょう。親しみを込めて振る舞い、共に過ごし、活動することが、偏見から解放し、本物のコミュニケーションに必要な状況を作り出でせるのです。イエスは神の国を宣言されました。イエスと同じ道を歩むよう、聖霊は私たちに今日も勧めています。

   教会共同体の生活

    様々な顔からなるモザイク

131.シノドス様式(ともに歩む)に従った宣教する教会の姿は、様々な顔を持つ各地の共同体の中に示されます。教会は決して硬直したモノクロ(単色)としてではなく、様々な、感性、出自、文化をもつ人々の多面体として発展してきました。このようにして教会は人間という脆弱な土器の中に比類ない宝である三位一体の命を伝えてきたのです。聖霊が導く調和は、違いを根絶するのではなく、ともに共鳴させて、交響楽のように調和のある豊かさをもたらします。

 同じ信仰をもつ異なる人々との出会いは、共同体の司牧的刷新を図るための基本条件となります。そのような出会いは、信仰宣言、ミサ、すなわち、正常な司牧活動の基本的領域に関係します。誰もがよく知る知恵は「子供を育てるのは村全体の役割」と言っていますーこの教えは、今日の司牧活動のあらゆる領域に当てはまります。

   地域社会の中の教会共同体

132. 様々な顔をもつ教会共同体を効果的に実現するには、地域と関係を持ち、自らを社会に開放し、そして、市民の様々な機関と関係を持つ姿勢が必要です。外の社会と手をつなぎ、多様性を持つ教会のみが、開かれた方法でその存在をアピールし、現代の課題となっている様々な社会問題ー生態系の危機、雇用問題、家族への支援、社会の片隅に追いやられる人の問題、政治改革、文化と宗教の多元的な共存、正義と平和の追求、デジタル環境問題などーに福音の光をあてることができます。

 このことはすでに教会の集会や活動で実行されています。私たち司教が、これらの挑戦すべき関心事のみに正面から向かうのではなく、権限の一部を縮小しないですむように、すべての人々との対話し、共通善に貢献すること、を若者は要請しています。

   ケリュグマ(最初の福音の告知)とカテケージス(信仰教育)

133.  死から蘇り、御父を明らかにし、聖霊を伝えるイエス・キリストの告知は、キリスト者の共同体にとって本質的な召命です。この告知の一部は、若者に、彼らの命の中に神の愛があることを認識するように、また、共同体をキリストに出会う場として発見するようにと招いています。どんなときでも常に新しい、最も重要なこの告知は、若者に対するカテケージスのまさに基本であり、カテケージスにケリュグマの特質を付与するのです(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」164項参照)。

 私たちは、統合可能なあらゆる手段を提供し、活発に関わり続けねばなりませんーイエス・キリストと福音についての生きた知識、信仰の光に照らされた個人的な体験や歴史的な出来事を読み解く力、祈りとミサに寄り添うこと、レクティオディビナの導入、慈善行為による証しや正義を前進させるための支援と言った手段です。

 カテケージスのコースは、信仰が、日常生活の具体的な体験、感情と愛情といった感情の世界、勉学や仕事で出会う喜びと失望、に密接につながっていることを例証する必要がありますーコースには、教会の社会的な教えも入れるべきです。美、音楽、その他の異なる芸術的な表現に関する言葉やデジタルコミュニケーションの手段にも開かれるべきです。肉体、情動性、性的関心の重要性について十分に考慮されるべきです。なぜなら信仰教育と愛の教育には深いつながりがあるからです。結局、信仰は実践すべきもの、あるいは現実社会の生きる手段として理解されるべきです。

 若者のカテケージスにおいて、本質、即ち、カテケージスの核心であるキリストとの出会いを見失うことがないように、適切な言語と手段を探し続けることが急務です。YouCat(注:カトリック教会の若者向けカテキズム)、DoCat(注:カトリック教会の社会教説の若者向け版)といったような材料がお勧めですが、だからといって、様々な司教協議会の作ったカテケージスを過小評価するわけではありません。同様に、しばしば若者もいますが、実質的に若者の世代である人たちに奉仕するカテキスタとの関わりも刷新する必要があります。カテキスタの構成に十分に配慮すること、また、カテキスタの司牧が共同体によってさらに広く認識されることが重要です。

   典礼の中心

134. ミサは、共同体の生活と教会のsynodalityをもたらします。ミサは信仰を伝え、宣教する場であり、そこで共同体が私たちの働きではなく、神の恵みによって生かされていること が明らかになります。東方教会の伝統的な言葉を借りれば「典礼は神の僕であるキリストとの出会い」であり、キリストは私たちの傷と結ばれて、私たちのために過越の宴を準備し、兄弟姉妹のためにも同じことをするように派遣します。一般信徒の様々な祭壇奉仕も含めて、崇高な簡素さをもって典礼に関わることは、宣教のための回心に重要な要素であることを、何度も繰り返し言いましょう。

 若者は、ミサに感謝し、深く関わりたいと言ってきましたーミサでは説教や共同体も含めて所作の美しさや配慮が、まさに神について語っています。それ故に、彼らに積極的にミサに参加するように勧めること、彼らがミサという神秘の前で畏敬の念をもって生き生きとしていることが必要ですー若者の音楽と芸術的な感受性を認めることが必要ですが、典礼が純粋に自己表現ではなく、キリストと教会の行動であることを理解できるように彼らを手助けすることも必要です。ミサが長時間にわたる場合、聖体を賛美する価値を見出すことができるよう、若者を助けることも、同じように重要なことです。聖体賛美では黙想と沈黙の祈りを十分に味わうことができます。

135. 信仰の旅で極めて重要なのは、和解の秘跡に実際に与ることです。若者は「愛されたい、赦されたい、和解して欲しい」と願い、慈しみに満ちた御父に抱きしめられることを切望しています。若者がミサに参加し、司祭に近づきやすいようにするために、寛大な心で彼らを受け入れることが必要です。共同体による赦しの秘跡は、若者を告解に近づけ、秘跡の持つ側面をさらに分かりやすいものにします。

136. さまざまな文脈において、民衆信心は、実際に役に立ち、感覚に訴え、素早い仕方で、若者を信仰生活に呼び寄せるのに、重要な役割を果たします。ボディランゲージや情緒的な関わりを大切にし、それをもって、しばしば聖母マリアや諸聖人の瞑想を通して、救いの神に触れようとする熱意をもたらします。

 巡礼は、若者にとって、人生と教会を象徴する旅の体験ですー森羅万象と人の作った物の美を熟視し、兄弟姉妹のように生き、祈りをもって主と繋がることが、識別の最善の条件として改めて示されるのです。

  diakonia(奉仕、援助)の寛大さ

137 若者は、小教区共同体のあり方を刷新し、貧しい人々に身近な、兄弟姉妹的な共同体を作るのを助けることができます。貧しい人々、脇に追いやられている若者たち、一番辛い目に遭っている者たちが、共同体の刷新の主役になれます。彼らは『福音宣教の(注:神の)臣民』と見なされるべきであり、私たちの俗念からの解放を助けてくれます。若者はしばしばdiakonia(奉仕、援助)の重要性に敏感です。

 多くの人々が、積極的にボランティア活動に関わり、奉仕の中に主に出会う道を見つけます。最底辺の人々への奉仕は信仰の実践となります。そこで福音の核心、全てのキリスト教徒の生活の基礎にある(失われている)愛を発見します。貧しい人々、身分の低い人々、病気の人々、高齢者は、苦しむキリストの体ですーですから、彼らへの奉仕は、主と出会う道であり、自身の召命の識別に特別に与えられた場なのです。

 異なった文脈から、移民、難民の人々に対して、特に寛容さが求められます。受容、保護、奨励、共生のために、彼らとともに働く必要があります。貧しい人々を社会的に受け入れることは、教会を慈しみの家にします。

  召命の観点から見た若者に対する司牧の職務

   教会、若者にとっての家

138 キリスト者共同体の関係と質への配慮を基本に、刷新することのできる司牧的アプローチによってこそ、教会は若者たちにとって意味のある、魅力的なものとなるでしょう。そうすることで、教会は「歓迎する家」-信頼と自信の上に建つ家族的な雰囲気で特徴づけられた家-として、彼らに顔を向けることができます。

 このシノドスで若者たちの話を聴いた際に、何度も何度も明らかにされたのは「兄弟姉妹愛への切望」-教会が「多くの人々にとっての家となり、すべての人々にとっての母」(教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」 288項)となることを求める声-でした。司牧の職務とは、「教会が若者たちにとっての家となるような、笑顔でいつも歓迎する、具体的で、預言者のような振る舞いを通して、歴史の中で、教会の普遍的な母性を実現する」という仕事なのです。

   司牧的職務における召命の活性化

139. 召命はその人のあらゆる側面をつなぐ蝶番のようなものです。この原理は、個々の信徒だけではなく、司牧的な職務全体にも関係します。それで、すべての司牧的職務が、召命という面だけに、統一された原理を経験する、ということを明確にするのが重要です。なぜなら、すべての司牧的職務が、召命の由来とその実現を経験するからです。進行中の司牧的な転向の旅について、分離、独立した分野として司牧的職務を強化することは、誰も求めていません。教会の全ての司牧的アプローチの活性化を求めているのです。そうすることで、召命のすばらしい多様性を効果的に示すことができるからです。司牧的職務の目標は、識別の旅を通して、誰もが「キリストの満ち溢れる成熟した年齢」に達する(エフェソへの信徒の手紙4章13節)ことができるように助けることです。

   若者に対する司牧的な召命に関する職務

140 今回のシノドスの準備段階から、「若者に対する司牧的職務について召命からの観点が必要だ」ということが、非常に明確になりました。そうして、若い世代に対する司牧的アプローチの二つの重要な特徴が明らかになっています。一つは「若者のため」-若い時、という貴重で、繰り返すことのできない時期にある人々を対象とするから。もう一つは「召命」ー若い時は、人生の選択のため、神の呼びかけに応えるための特に恵まれた時期だからです。

 若者司牧の「召命感」は、排他的な感覚ではなく、集約的な感覚で理解される必要があります。神は人生のどの時点の人-母の胎内にある人から年老いた人-にも、呼びかけておられますが、若い時は「神の意思に耳を傾け、有意義に用い、受け入れる、特別な恵みの時」です。

 今回のシノドスは、各国の司教協議会が、召命の観点から「Directory of Youth Ministry若者のための司牧的職務要覧」を準備することを提案しました。教区の指導者や地元の協力者が、若者とともに、若者のために、十分な態勢と行動を提供できるようにするためです。

From fragmentation to integration

141.        While recognizing that planning for pastoral activities is necessary, in order to avoid improvisation, on several occasions the Synod Fathers voiced their disquiet over a certain fragmentation of the Church’s pastoral approach.  In particular, they spoke of the multiplicity of pastoral approaches to the young:  youth ministry, family or vocational ministry, school and university chaplaincy, social, cultural, charitable, free time activities, etc.  The multiplication of offices that are highly specialized, but sometimes working independently of one another, does not make the Christian message any more accessible.  In a fragmented world, the young need to be helped to unify life, interpreting their daily experiences and discerning deeply.  If this is the priority, it is necessary to develop greater coordination and integration between the different spheres, passing from a work for “offices” to a work for “projects”.

 

The fruitful relationship between events and daily life

142.        During the Synod, there was frequent reference to World Youth Day and the many related events that take place on a continental, national and diocesan level, together with those organized by associations, movements, religious congregations and other ecclesial entities.  These moments of encounter and sharing are widely appreciated, because they offer the possibility of journeying together as if on pilgrimage, of experiencing fraternity with all, of sharing the faith joyfully and growing closer to the Church.  For many young people these moments have been an experience of transformation, in which they have experienced the beauty of the face of the Lord and have made important life choices.  The best fruits of these experiences are gathered in daily life.  It therefore becomes important to plan and to experience these gatherings as significant stages of a larger virtuous process.

 

Youth Centres

143.        Specific places dedicated to the young by the Christian community, such as oratories, youth centres and other similar structures, manifest the Church’s passion for education.  They can take many forms, but they remain privileged spaces in which the Church becomes a welcoming home for adolescents and young adults, who discover their talents and offer them for service.  They transmit a very rich educational patrimony, to be shared on a large scale, to support families and civil society itself.

In the context of a Church that looks outwards, though, a creative and flexible renewal of these realities is needed, moving away from the idea of static centres, to which the young can come, towards the idea of pastoral subjects moving with and towards the young, capable, that is, of meeting them in their ordinary places of life – school and the digital environment, existential peripheries, the rural world, the world of work, musical and artistic expression, etc. – generating a new type of apostolate that is more dynamic and active.

 

Chapter III Renewed Missionary Vigour

Some urgent challenges

144.        Synodality is the method by which the Church can address ancient and new challenges, gathering and bringing into dialogue the gifts of all her members, starting with the young.  Building on the work of the Synod, the First Part of this Document outlined some areas in which it is urgent to launch or renew the Church’s vigour in realizing the mission that Christ assigned her, which we here seek to address in a more concrete manner.

 

Mission in the digital environment

145.        The digital environment presents a challenge to the Church on various levels;  it is essential, therefore, to deepen knowledge of its dynamics and its range of possibilities from the anthropological and ethical point of view.  This requires not only entering into it and promoting its communicative potential with a view to the Christian proclamation, but also giving a Gospel flavour to its culture and its dynamics.  Some initiatives along these lines are already under way and should be encouraged, deepened and shared.  The priority that many give to the image as a communicative vehicle cannot fail to raise questions about ways of transmitting a faith that is based on hearing God’s Word and reading the Sacred Scripture.  Young Christians, who like their contemporaries are digital natives, find here an authentic mission, in which some are already engaged.  What is more, they are the same young people who ask to be accompanied in a discernment on mature life-patterns in today’s highly digitalized environment, to help them seize the opportunities while avoiding the risks.

 

146.        The Synod would like to see dedicated Offices for digital culture and evangelization set up in the Church at appropriate levels, so as to promote ecclesial action and reflection in this environment, making good use of the essential contribution of the young.  Among their functions, besides favouring the exchange and dissemination of good practice at individual and community level, and developing appropriate instruments of digital formation and evangelization, they could also manage systems of certification for Catholic sites, to combat the spread of “fake news” about the Church, and they could seek ways of persuading public authorities to promote ever more stringent policies and instruments for the protection of minors on the web.

 

Migrants: knocking down walls and building bridges

147.        Many migrants are young.  The universality of the Church offers them an excellent opportunity to foster dialogue between their communities of origin and those to which they migrate, helping to overcome fears and hesitations and strengthening the bonds that migrations risk breaking.  “Welcome, protect, promote and integrate”, the four verbs with which Pope Francis synthesizes the action needed to support migrants, are synodal verbs.  Implementing them requires the Church’s action at all levels and it involves all the members of Christian communities.  For their part, migrants, appropriately accompanied, can offer spiritual, pastoral and missionary resources to the host communities.  Of particular importance is cultural and political engagement, involving appropriate structures, to fight against the spread of xenophobia, racism and rejection of migrants.  The resources of the Catholic Church are a vital element in the fight against human trafficking, as is clearly seen in the work of many religious sisters.  The role of the Santa Marta group, which brings together religious leaders and those responsible for law and order, is crucial and represents a good practice from which to draw inspiration.  Nor must we overlook the commitment to guarantee the effective right to remain in the country of origin for those who do not wish to migrate but are forced to do so, and to provide support for Christian communities that are at risk of depopulation through migration.

 

Women in a synodal Church

148.        A Church that seeks to live a synodal style cannot fail to reflect on the condition and role of women within it, and consequently in society more generally.  Young men and women ask this question forcefully.  The fruits of such reflection need to be implemented through a courageous change of culture and through change in daily pastoral practice.  A sphere of particular importance in this regard is the female presence in ecclesial bodies at all levels, including positions of responsibility, as well as female participation in ecclesial decision-making processes, respecting the role of the ordained minister.  This is a duty of justice, which draws inspiration both from the way Jesus related to men and women of his day, and from the importance of the role of certain female figures in the Bible, in the history of salvation and in the life of the Church.

 

Sexuality: a clear, free, authentic word

149.        In the current cultural context, the Church struggles to communicate the beauty of the Christian vision of bodiliness and sexuality, as it emerges from Sacred Scripture, from Tradition and from the Magisterium of recent Popes.  It therefore seems urgent to search for better ways, that can be translated concretely into new formation pathways.  We must propose to the young an anthropology of affectivity and sexuality that is also able to give the right value to chastity, showing with pedagogical wisdom its most authentic meaning for the growth of the person, in all states of life.  It is about emphasizing empathetic listening, accompaniment and discernment, along the lines indicated by the recent Magisterium.  For this is it necessary to devote care to the formation of pastoral workers who have credibility, beginning with the maturing of their own affective and sexual dimensions.

150.        There are questions about the body, affectivity and sexuality that require deeper anthropological, theological and pastoral study, in whatever forms and at whatever level seems most appropriate, from local to universal.  Among the questions that emerge are those regarding the difference and harmony between male and female identity and sexual inclinations.  In this regard, the Synod stresses that God loves every person and the Church does the same, renewing her commitment against all discrimination and violence on sexual grounds.  Equally, she reiterates the key anthropological relevance of the difference and reciprocity between men and women and believes it to be reductionist to define personal identity on the sole basis of the person’s “sexual orientation” (Congregation for the Doctrine of the Faith, Letter to the Bishops of the Catholic Church on the pastoral care of homosexual persons, 1 October 1986, 16).

Many Christian communities already offer journeys of accompaniment in faith for homosexual persons:  the Synod recommends that such initiatives be supported.  In these journeys, people are helped to read their own history; to adhere with freedom and responsibility to their baptismal calling; to recognize the desire to belong and contribute to the life of the community; to discern the best ways of realizing this.  Thus, all young people, without exception, are helped to integrate the sexual dimension of their personality more and more fully, as they grow in the quality of their relationships and move towards the gift of self.

 

Ecomonics, politics, work, common home

151.        The Church is committed to the promotion of social, economic and political life marked by justice, solidarity and peace, which is something the young ask for insistently.  This requires the courage to be a voice for the voiceless in addressing world leaders, by denouncing corruption, wars, the arms trade, drug trafficking and exploitation of natural resources, and by calling those responsible for it to conversion.  As part of the larger picture, this cannot be separated from the commitment to include those who are weakest, building pathways that allow them not only to find an answer to their own needs, but also to make their contribution to bulding up society.

152.        Aware that “work is a fundamental dimension of man’s existence on earth” (St John Paul II, Laborem Exercens, 4) and that the lack of work is humiliating for many young people, the Synod recommends that local Churches help and accompany young people as they take their place in this world, perhaps through the support of young business initiatives.  Experiences of this kind are found in many local Churches and should be supported and strengthened.

 

153.        The promotion of justice also affects the management of the Church’s goods.  The young feel at home in a Church where economics and finance are lived transparently and consistently.  Courageous choices are needed in the area of sustainability, as indicated by the encyclical Laudato si’, inasmuch as a lack of respect for the environment generates new forms of poverty, of which the young are the first victims.  Systems are changing, and this shows us that a different way of living the economic and financial dimension is possible.  The young urge the Church to be prophetic in this field, through her words but above all through choices which show that financial management can be both person-friendly and environmentally friendly.  Together with them we can do it.

154.        As far as ecological matters are concerned, it is important to offer guidelines for concrete implementation of Laudato si’ in church praxis.  Several interventions underlined the importance of offering young people formation in socio-political engagement and the resource that the Church’s social teaching represents in this regard.  Young people who take part in politics should be supported and encouraged to work for a real change of unjust social structures.

 

In intercultural and interreligious contexts

155.        Cultural and religious pluralism is a growing reality in the social life of the young.  Young Christians offer a beautiful witness of the Gospel when their faith has a transforming effect on their lives and their daily actions.  They are called to open themselves to the young of other religious and spiritual traditions, and to maintain with them authentic relationships that favour mutual knowledge and bring healing from prejudices and stereotypes.  They are thus pioneers of a new form of interreligious and intercultural dialogue, which helps to liberate our societies from exclusion, extremism, fundamentalism and also from the manipulation of religion for sectarian or populist ends.  Witnesses of the Gospel, these young people, along with their peers, become promoters of a citizenship that includes diversity and socially responsible religious commitment for building up social bonding and peace.

 

Recently, at the suggestion of the young, initiatives have been launched which bring people of different religions and cultures to experience living alongside one another, so that in a climate of conviviality and respect for each other’s religions, all may actively promote a common shared commitment in society.

 

The young for ecumenical dialogue

156.        As for the journey of reconciliation among all Christians, the Synod is grateful for the desire of many young people to foster unity among the separated Christian communities.  Committing themselves to this line, very often the young deepen the roots of their own faith and experience a real opening towards what others can give.  They know intuitively that Christ already unites us, even if certain differences remain.  As Pope Francis stated on the occasion of the visit to Patriarch Bartholomew in 2014, it is the young “who urge us today to take steps forward towards full communion.  And this is not because they do not know the significance of the differences that still keep us apart, but because they are able to see beyond, they are capable of grasping the essentials that unite us already” (Francis, Address at the Divine Liturgy, Patriarchal Church of Saint George, Istanbul, 30 November 2014).

 

 Chapter IV Integral Formation

Concreteness, complexity and integration

157.        The present day is marked by growing complexity of social phenomena and individual experience.  In daily life, the changes that are taking place have an impact on one another and cannot be addressed selectively.  In real life, everything is interconnected:  family life and professional engagement, the use of technologies and the way of experiencing community, defence of the embryo and defence of the migrant.  Concreteness presents us with an anthropological vision of the person as a whole and a way of knowing that does not separate but grasps connections, learns from experience, re-reads it in the light of the Word, and draws inspiration from exemplary testimonies rather than from abstract models.  This requires a new type of formation which aims to integrate perspectives, makes them capable of grasping the interconnectedness of problems and knows how to unify the various dimensions of the person.  This approach is in profound harmony with the Christian vision which contemplates, in the incarnation of the Son, the inseparable encounter between the divine and the human, between earth and heaven.

 

Education, school and university

158.        During the Synod there was a particular insistence on the decisive and essential task of professional formation in schools and universities, not least because these are places where most young people spend much of their time.  In some parts of the world basic education is the first and most important question that the young put to the Church.  For the Christian community it is important therefore to maintain a significant presence in these fields with good teachers, flourishing chaplaincies and serious cultural engagement.

Catholic educational institutions should be the subject of particular reflection.  They express the Church’s solicitude for the integral formation of the young.  These are precious arenas for encounters between the Gospel and the culture of a people and for the development of research.  They are called to propose a model of formation that can bring faith into dialogue with the questions of the contemporary world, with different anthropological perspectives, with the challenges of science and technology, with changes in social customs and with the commitment to justice.

Special attention should be given in these settings to the promotion of young people’s creativity in the fields of science and art, poetry and literature, music and sport, the digital world and the media, etc.  In this way the young will be able to discover their talents and put them at the disposal of society for the good of all.

 

Preparing new formators

159.        The recent Apostolic Constitution Veritatis Gaudium on ecclesiastical faculties and universities put forward some fundamental criteria for formation capable of addressing the challenges of the present day:  spiritual, intellectual and existential contemplation of the kerygma, holistic dialogue, multi-disciplinary work carried out with wisdom and creativity and the urgent need for “networking” (cf. Veritatis Gaudium, 4d).  These principles can inspire all educative and formative spheres;  their adoption will be particularly beneficial for forming new educators, helping them to open themselves to a vision capable of integrating experience and truth.  At global level the Pontifical Universities play a key part and so too, at a continental and national level, do Catholic universities and centres of study.  Periodic review, aiming for the highest standards and the constant renewal of these institutions, is a great strategic investment for the good of the young and of the whole Church.

 

Forming missionary disciples

160.        The Synodal journey underlined the growing desire to give a higher profile to the active involvement of the young.  Clearly the apostolate of the young towards other young people cannot be improvised, but must be the fruit of a serious and thorough formative journey: how to accompany this process?  How to offer the best instruments to the young, so that they can be authentic witnesses of the Gospel?  This question also reflects the desire of many young people to know their faith better: to discover its biblical roots, to grasp the historical development of doctrine, the meaning of dogmas, the richness of the liturgy.  This makes it possible for the young to reflect on current issues in which the faith is tested, so as to know how to give a reason for the hope that is in them (cf. 1 Pet 3:15).

Hence the Synod proposes that experiences of mission for the young be enhanced by setting up centres of formation for evangelization, aimed at the young and at young couples and by an integral experience that will conclude with sending them on mission.  There are already initiatives of this kind in various territories, but every Episcopal Conference is asked to study how it can be achieved in the particular setting.

 

A time for accompanying discernment

161.        Frequently in the Synod Hall there were heartfelt pleas to invest generously, for the young, educational passion, extended periods of time and also economic resources.  Gathering together various contributions and wishes that emerged during the synodal exchanges, and listening to experiences already under way, the Synod proposes with conviction to all the particular Churches, to the religious congregations, to the movements, to associations and to other ecclesial bodies that they offer the young an experience of accompaniment with a view to discernment.  This experience – whose duration should be determined according to contexts and opportunities – can be described as a time destined for the maturation of adult Christian life.  It should involve prolonged detachment from habitual environments and relationships, and it should be built around at least three indispensable elements: an experience of fraternal life shared with older formators that is essential, simple and respectful of the common home; an apostolic proposal that is strong and significant, to be lived together; an offer of spirituality rooted in prayer and sacramental life.  In this way all the necessary ingredients are in place for the Church to be able to offer the young who wish it a profound experience of vocational discernment.

 

Accompaniment for marriage

162.        It is important to accompany couples in their preparation for marriage, remembering that there are different legitimate ways of organizing such itineraries.  As we read in Amoris Laetitia, 207: “They do not need to be taught the entire Catechism or overwhelmed with too much information    …   marriage preparation should be a kind of ‘initiation’ to the sacrament of matrimony, providing couples with the help they need to receive the sacrament worthily and to make a solid beginning of life as a family.”  It is important to accompany young families, above all in the first years of marriage, and this includes helping them to play an active part in the Christian community.

 

The formation of seminarians and of consecrated men and women

163.        The specific task of integral formation of candidates for the ordained ministry and for male or female consecrated life remains an important challenge for the Church.  We note also the importance of a solid cultural and theological formation for consecrated women and men.  As far as seminaries are concerned, the first task is obviously the assumption and putting into practice of the new Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalis.  During the Synod, some important emphases emerged, which are worth mentioning.

In the first place, the choice of formation staff: it is not enough for them to be well qualified; they need to be capable of fraternal relationships, listening with empathy, profound inner freedom.  In the second place, what is necessary in accompanying seminarians adequately is serious and competent work in differentiated educative teams, which include women. The make-up of these formation teams, where different vocations interact, is a small but precious form of synodality, which can have an impact on the minds of young people in their initial formation.  In the third place, formation must focus on developing in future pastors and consecrated men and women their ability to carry out their role as guides in an authoritative, but not authoritarian, way, educating young candidates to give themselves for the community. Special attention needs to be given to some criteria of formation, such as: overcoming tendencies towards clericalism, the ability to work in a team, sensitivity towards the poor, transparency of life-style, the willingness to allow themselves to be accompanied.  In the fourth place, serious initial discernment is crucial, because too often young people who offer themselves to seminaries or houses of formation are admitted without their past history being known sufficiently well or studied in depth. This question becomes particularly delicate in the case of “wandering seminarians”: relational and affective instability, and the lack of ecclesial roots, are danger signals. Ignoring ecclesial norms on these matters is irresponsible behaviour, which can have serious consequences for the Christian community.  A fifth point concerns the size of formation communities: those that are too big run the risk of de-personalization and inadequate knowledge of the young people on their journey, while those that are too small can be suffocating and suffer from a logic of dependency; in these cases it is better to found inter-diocesan seminaries or houses of formation shared by several religious provinces, with clear formation projects and well-defined responsibilities.

 

164. The Synod has formulated three proposals to encourage renewal.

The first concerns joint formation of lay people, religious and priests. It is important to keep young men and women in formation in touch with the daily life of families and communities, paying special attention to the presence of women and Christian couples, such that formation is grounded in the reality of life and marked by relationships that can be integrated into the social and cultural context.

The second proposal concerns including in the curriculum of preparation for ordained ministry or consecrated life specific courses on pastoral care of young people, through well-planned programmes and experiences of pastoral work and evangelization.

The third proposal asks for consideration – within the authentic discernment of people and situations according to the vision and spirit of the Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalis – of the possibility of backing up the formation journey in terms of experience and in a community context. This is particularly the case in the final stage of that journey, which envisages candidates being introduced gradually to pastoral responsibility. The ways this is explained and put into practice can be indicated by the Bishops’ Conference of each country, in accordance with their own versions of the Ratio Fundamentalis.

 

Conclusion

Called to become saints

165.        All the different vocations come together in the one universal call to holiness, which can only be the fulfilment of the appeal to the joy of love that resounds in the heart of every young person.  Only on the basis of the one call to holiness can the different forms of life be articulated, knowing that God “wants us to be saints and not to settle for a bland and mediocre existence” (Francis, Gaudete et Exsultate, 1).  Holiness finds its inexhaustible source in the Father, who through his Spirit sends us Jesus, “the holy one of God” (Mk 1:24), who came among us to make us holy through friendship with Him, who brings joy and peace into our lives.  To recover in all the ordinary pastoral work of the Church living contact with the happy existence of Jesus is the fundamental condition for all renewal.

 

Reawakening the world with holiness

166.        We must be saints so that we can invite the young to be saints.  The young are crying out for an authentic, radiant, transparent, joyful Church: only a Church of saints can measure up to such requests!  Many of the young have left because they have not found holiness in the Church, but rather mediocrity, presumption, division and corruption.  Unfortunately the world is outraged by the abuses of some people in the Church rather than being invigorated by the holiness of her members:  hence the Church in her entirety must embrace a decisive, immediate and radical change of perspective!  The young need saints who can form other saints, thus showing that “holiness is the most attractive face of the Church” (Francis, Gaudete et Exsultate, 9).  There is a language that all men and women of every age, place and culture can understand, because it is immediate and radiant:  it is the language of holiness.

 

Dragged by the holiness of the young

167.        It has been clear from the beginning of the synodal journey that the young form an essential part of the Church.  So too, therefore, does their holiness, which in recent decades has flourished in many different ways all over the world: contemplating and meditating during the Synod upon the courage of so many young people who sacrificed their lives for remaining faithful to the Gospel has been deeply moving for us;  listening to the testimonies of the young people present at the Synod, who amid persecutions chose to share the passion of the Lord Jesus, has been life-giving.  Through the holiness of the young, the Church can renew her spiritual ardour and her apostolic vigour.  The balsam of holiness generated by the good lives of so many young people can heal the wounds of the Church and of the world, bringing us back to that fullness of love to which we have always been called:  the young saints inspire us to return to our first love (cf. Rev 2:4).

[1] International Theological Commission, Synodality in the life and mission of the Church, 2 March 2018, §9.  The document illustrates, moreover, the nature of synodality in these terms:  “It is possible to go deeper into the theology of synodality on the basis of the doctrine of the sensus fidei of the People of God and the sacramental collegiality of the episcopate in hierarchical communion with the Bishop of Rome.  This ecclesiological vision invites us to articulate synodal communion in terms of ‘all’, ‘some’ and ‘one’. On different levels and in different forms, as local Churches, regional groupings of local Churches and the universal Church, synodality involves the exercise of the sensus fidei of the universitas fidelium (all), the ministry of leadership of the College of Bishops, each one with his presbyterium (some), and the ministry of unity of the Bishop of Rome (one). The dynamic of synodality thus joins the communitarian aspect which includes the whole People of God, the collegial dimension that is part of the exercise of episcopal ministry, and the primatial ministry of the Bishop of Rome.  This correlation promotes that singularis conspiratio between the faithful and their Pastors, which is an icon of the eternal conspiratio that is lived within the Trinity” (§64).

 

2019年1月18日

・教皇の2018年-衝撃波、移民・難民、死刑、そしてさらに(Crux)

(2018.12.27 Crux Rome bureau chief Inés San Martín

 「私が教皇職にある期間は短いでしょう」と言った人の割に、教皇フランシスコは、ペトロの後継者として7年目の今年の初めから、テンポを落とす兆しを見せていない。

2018年12月28日

・教皇の 2018年-”性的虐待”から”資金”まで、改革に手を付けた(Crux)

 2013年3月に教皇に選出された時、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿はご自分が「改革」という使命のために選ばれたことをご存じだった。だが、教皇フランシスコにとって、「改革」が何を意味するのか、明確ではなかった-カトリック教会の一般的なイメージの再活性化か、聖職者による性的虐待が引き起こした危機への対応のか、バチカンそのものの改革か、それとも、世界中のカトリック教徒を”回心”に導くことか…。過去12か月の間、フランシスコは多様な分野で改革に対応することを否応なく求められ、異なったやり方で試された。

*性的虐待問題

 世界の主要メディアでその年を代表する人物として選ばれたのは、”遠い昔”のこと。教皇フランシスコは2013年に就任以来、毎年恒例のノーベル平和賞の受賞者決定が近づく中で、今年初めて、その名がうわさされることがなかった。その理由としてまず挙げられるのは、今年の世界のメディアで、カトリック教会が沢山の不幸な出来事をにぎわせたことがある。

 その多くは、聖職者の性的虐待がもたらした危機、その代表的なものが、ペンシルバニア州の大陪審報告、セオド-ル・マカリック前枢機卿が何十人もの神学生に加え、少なくとも3人の少年に性的虐待を働いたとして訴えられた事件、チリの司教全員が性的虐待問題の責任を取って辞表を提出したこと、そして、教皇の枢機卿顧問団の1人だったオーストラリアのジョージ・ペル枢機卿が長期にわたる性的虐待に関係して二つの裁判にかけられたことだ。

 これらのスキャンダルは、教皇が就任以来4年の間に積み重ねてきた”資産”の多くを台無しにしたことを意味する。移民・難民を守ろう、環境を保護しよう、といった教皇の世界への訴えは、ほとんど聞き入れられることがなかった。

 このことは、教皇がアイルランドを訪問された時によく見て取ることができた。メディアの関心が、多くの人が考える性的虐待問題への教皇の対応の遅さに集中したのだ。訪問最終日に、前駐米バチカン大使のカルロ・マリア・ビガーノ大司教が「2013年にマカリック枢機卿(当時)の性的虐待行為を報告したにもかかわらず、教皇は何も対応しないどころか、前教皇がマカリックにとっていた制裁を解除した」と訴えたのが明らかになったことも、真偽はともかく、火に油を注いだ。

 今年のカトリック教会の主要な諸行事は互いに関係をもってなされたが、チリの教会のこと(注:司教全員が辞表を出したこと)以外には、教皇の教会改革を前進させる内容は出てこなかった。

 チリの教会について、教皇は、性的虐待隠ぺいで訴えられていたチリの司教たちを3年にわたって支持してきたが、今年1月にチリを訪れ、これまで”罪人”呼ばわりされてきた虐待被害者に被害の訴えを出すように求めたのを機に、姿勢を一変させ、悪名高い元司祭、フェルナンド・カラディマから性的虐待を受けた人々の側に立った。そして、司教たちをローマに召喚し、性的虐待、隠蔽、証拠とその他の過ちの記録を破棄したとして告発した。

 チリの司教たちは5月にローマで3日間の協議をした後、38人全員が教皇に辞表を提出した。教皇はこれまでに、このうち7人の辞表を受理したが、さらに隠蔽の罪で地方検事から訴追されている首都サンチャゴの大司教、リカルド・エザッティ枢機卿を含む数人を止めおきにしている。

 チリは、性的虐待危機に対する教皇の視野を広め、いかにそれが世界的な問題になっているかを知らしめる先導役になり、全世界的なレベルでの性的虐待への対応が、優先課題となった。それが、2019年の2月21日から24日まで全世界の司教協議会長を教皇が招集した理由だ。その準備のため、高位聖職者に世界各地を巡って性的虐待の被害者から話を聴くよう指示した。

 また教皇は21日のバチカンの幹部、職員に対する年末講話で、「カトリック教会がこうした犯罪を二度と隠ぺいしないことを誓い、加害者たちに、人と神の正義と向き合う用意をするよう警告している。教皇の講話の内容は、性的虐待の被害者たちの間に、さまざまな反響を呼んでいる一方で、こうした犯罪を明るみに出すのを助ける記者たちへの教皇の賛辞は、危機を作り出したとして記者を批判し、メディアを訴える幾人かの高位聖職者の評価と、とても対照的だ。

*バチカン改革への取り組みは

 2013年に教皇に選ばれた時、フランシスコは自身が支持された要因の一つが「バチカン官僚たちの機能不全と対応の遅さ」、そして「布教の現場経験の少ない人々が、どれほど心理状態が内向きになっているか」とを肌身で知っていることだ、と認識していた。

 それで、教皇着任早々、バチカン改革について自身を助けさせるために、枢機卿8名による顧問会議を作った。顧問団が2018年年中に、ヨハネ・パウロ二世の代に決まったものに代わる”新しい”憲法”の第一次草案をまとめた-とされていた。だが、幾人かの関係筋はCruxの取材に「24回以上の会合を重ねたものの、”まとまった文書”というよりは、つぎはぎに留まっている、と語っている。

 教皇顧問団による作業のほかに、教皇はまた、バチカンに数人の幹部を新たに迎えたが、その多数がイタリア人で、任命者の幾人かがスキャンダルに見舞われた。バチカンの部局の中で、最も大きく変わったのは、2015年に設置された広報部門だった。広報評議会、米人のグレッグ・バーク師をトップとする報道局、バチカン・インターネット・サービス、バチカン・ニュース、バチカン・テレビ・センター、そしてバチカン機関紙のL’Osservatore Romanoを含む、聖座とバチカン市国の広報関係部署を束ねる機能を持つように改められた。

 広報部門の改革は、フランシスコの神学に関する著書の収集に関するベネディクト16世の書簡の恥ずべき編纂問題の最中に、ダリオ・エドアルド・ビガーノ長官の更迭から始まった。後任には、バチカンの部局の長官としては初の一般信徒出身となるイタリア人のパオロ・ルッフィーニ氏が選ばれた。

 年末の12月18日、フランシスコはこの部署の幹部としてイタリア人二名を選任した。これまで長年にわたってバチカンを取材してきたアンドレア・トルニエリ氏をL’Osservatore Romanoの編集局長に、アンドレア・モンダ氏を部長のポストに就けた。

*司牧の分野での路線変更とぶれない二つの軸、そして中国との暫定合意

 2018年は、このようにフランシスコにとって激変続きの12か月だったが、二つのことでは軸がぶれなかった-イタリア内外での教皇の現地訪問、それに、平和の手段としての若者たちとの対話と宗教間対話だ。

 教皇が「若者シノドス」の開催を宣言して以来、若者たちへの関心は明白だった。世界中の300名を超える高位聖職者がローマに参集し、カトリック教会がいかにして、若い人々に接し、召命の識別に力を貸すことができるか、について話し合った。

 7月には、フランシスコがカトリック教会とギリシャ教会の通用門であるイタリア南部のバーリー市を訪れ、シリアにある主要なキリスト教共同体の指導者たちを招いて会議を主宰し、平和をともに祈り、過去8年にわたって戦乱に見舞われているこの国の平和回復に宗教がどのように力になることができるか協議した。

 しかし、最大の事件は、政治的に大きな意味合いをもつバチカンの基本的立場の転換となる中国との”暫定合意”-同国内での新司教任命と中国政府が一方的に”叙階”していた司教たちの承認-だった。

 この合意については、共産党政府の意図にフランシスコが譲歩したもの、と多くの批評家が批判するなど、議論を呼ぶことは避けられなかったが、教皇にとって、これはカトリック教会が一億人以上に上る中国の信徒たちの司牧が自由にされるための”入り口”なのだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

 

2018年12月27日

・【評論】「主の祈り」も適切な言葉にー典礼や日々の祈りに速やかに生かしたい

(2018.12.22 カトリック・あい)

 「聖書協会共同訳 聖書」は、カトリック、プロテスタントの共同作業による新たな成果だ。キリストを信じる人々が、祈りと典礼を深めるために活用することが期待される。

 日本聖書協会の解説小冊子では触れられていないが、注目されることの一つは、教皇フランシスコも”誤訳”を指摘した「主の祈り」が、教皇の意向に結果として対応する形で、以下のように改訳されていることだ。

 「天におられる私たちの父よ 御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように 天におけるように地の上にも。私たちの日ごとの糧を今日お与えください。私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」。

 教皇フランシスコは昨年、カトリック教会の祈りの中で最も重要な「主の祈り」にある「non ci indurre in tentazione」 (英語公式訳はこの直訳の『lead us not into temptation』 、日本語公式訳は『わたしたちを誘惑におちいらせず」)は「もっとよい表現」にすべきだ、との考えを明らかにしている。

 イタリアのテレビ放送TV2000のインタビューに答えたもので、「この翻訳の言葉はよくありません」と指摘され、その理由を「人々を誘惑に❝lead”(導く、おちいらせる)のは、神ではなく、サタンであるからです…この表現は変えるべきです」と改訂の必要を強調された。そして「(誘惑に)陥るのは私です。私を誘惑に陥らせるのは彼(神)ではありません。父親は自分の子供にそのようなことをしない。すぐさま立ち直るように助けてくれます…私たちを誘惑に導くのはサタン。それがサタンの役回りなのです」と語られていた。

 この箇所をどのように改めるべきかについては、より正確にこうした神学的な見方に従って「don’t let me fall into temptation」とするのが適当、とし、フランスの司教団がこのほど仏語訳の主の祈りを見直し、英訳にすると「“Do not submit us to temptation(私たちを誘惑に陥らせないように)」を「Do not let us into temptation(私たちが誘惑に引き込まれないように)」と改めたのを妥当との判断を示している。

 現在の主の祈りの言葉は、ギリシャ語訳をラテン語に翻訳したものをもとにしており、ギリシャ訳のもとは、イエスが実際に語られていたアラム語(ヘブライ語の古語)から来ている。教皇庁立グレゴリアン大学のマッシモ・グリリ教授は「ギリシャ語のこの箇所は『eisenenkês』で、文字通り訳すと『don’t take us inside』となるとし、そのように訳し直すべきだ、としている。

 教皇フランシスコの先輩のイエズス会員、ミラノ大司教で高名な聖書学者でもあったカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿(2012年没)は著書「イエスの教えてくれた祈り―『主の祈り』を現代的視点から」(教友社刊・篠崎栄訳)の中で、この部分を「私たちが誘惑に負けることのないようにしてください」としている。

 現在の日本語訳は表現があいまいで、しかも、私たちが神に対して「誘惑しないで」と求めているように読めてしまう。日本の司教団は現在、典礼文などの見直しを進めているというが、「主の祈り」も、今回発刊された聖書協会共同訳を基礎に、フランスの司教団の仏語訳の改訂、故マルティーニ枢機卿の提案などを参考に見直す必要がある。

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 聖書協会共同訳は、一人ひとりの信徒はもちろん、キリスト教に関心のある方々が手に取って、お読みいただくことが望ましいが、比較的高額であることもあり、とくに中高齢の年金生活世代や子弟の養育費の負担が重い現役世代にとって、容易でないことも考えられる。

 そうしたなかで、カトリック、プロテスタントの共同作業によるこの新たな成果を生かすために、司教団が速やかに、この新共同訳の普及を図る努力をはじめ、各教会に常備し、ミサ典礼や「主の祈り」などの言葉に反映することで、普及に努めることが求められる。

 言葉は生きている。聖書協会が小冊子で述べているように、これで翻訳を完結せず、さらに改良を加えていることが望ましい。その場合、生きた言葉、現代の社会で理解される言葉を使うことに日々、奮闘しているジャーナリストを、その作業に加えることも必要だろう。

 (「カトリック・あい」南條俊二)

 

2018年12月22日

・「日々の祈りや典礼にふさわしい美しい日本語に」-日本聖書協会が新しい共同訳聖書を発刊!

(2018.12.20 カトリック・あい)

 日本聖書協会は今月、カトリック、プロテスタントの高位聖職者、聖書学者、一般信徒の言語学者や詩人などの協力で、31年ぶりの新しい共同訳聖書となる「聖書 聖書協会共同訳」を発刊した。(詳細は日本聖書協会ホームページにhttps://www.bible.or.jp/online/sio43first.html)

  今回の共同訳は、「変わらない言葉を変わりゆく世界に‐31年ぶり、原文からの翻訳」と銘打ち、「口語訳や新共同訳など、これまでの過去の翻訳聖書の歴史と業績」も踏まえて、「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳」を心掛けた、としており、最新の聖書学の成果とともに、実際の翻訳内容に、そうした理念、意図が相当程度反映されているようだ。

 教皇フランシスコは昨年9月に「典礼書の翻訳に関する権限のバチカンから現地の司教協議会への重要な移行」を明確に意味する自発教令を出し、教会法の部分改正を実施、各国語の典礼文の表現について、バチカンから現地の司教団に権限の比重を移す決定をされた。

 今回の共同訳は、そうした教皇の「現地化」の意図を受けた形となっており、日本の司教団のリーダー格数人も作業に関わっている。はっきり言って日本語としても不完全で、一部に正確さにも欠ける現行の典礼文、聖書朗読文を、この共同訳を反映した「美しく、現代口語に合った典礼文」「ミサにおける聖書朗読文」に改める作業を司教団として、急ぐ必要があろう。

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 日本聖書協会が事前に発行した小冊子によると、今回の共同訳作成については、カトリック教会を含む18の諸教派、団体の代表で構成する共同訳推進計画諮問会議が2009年10月に「翻訳方針前文」を採択。「過去の聖書翻訳の歴史には、意訳か、直訳が、という対立があったが、今回の翻訳では、読者対象と目的(礼拝で朗読される聖書)に合わせて翻訳する」との基本方針をもとに、2010年から、カトリック、プロテスタントの違いを超えた初の共通の聖書となった「聖書 新共同訳」(1987年刊行)の次世代版として、カトリック、プロテスタントが力を合わせて、翻訳に着手していた。

 翻訳に当たっては、底本として旧約はBHS¹、新約がネストレ・アーラント²最新の28版に基づくBS第5版、続編がゲッティンゲン版七十人訳聖書を使用している。

¹ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア=Biblia Hebraica Stuttgartensia=の略称。レニングラード写本に保存されたヘブライ語聖書マソラ写本の版であり、ヘブライ語聖書の正確な版として、キリスト教徒やユダヤ人から広く受け入れられ、聖書学者間で最も広く使われている。

²現代の聖書学の最高水準を示すギリシア語新約聖書テキスト。ドイツの聖書学者エベルハルト・ネストレが校訂し、クルト・アーラントが再校訂したため、一般的に「ネストレ・アーラント」と呼ばれる。1913年に初版が発行されて以来、ギリシア語テキストの研究の進展にあわせて改訂が繰り返されており、現代日本語訳のほとんどの翻訳元となっている。

 また、この小冊子は「聖書協会共同訳の言語担当の翻訳者や編集委員は日本の聖書学を担っている方々」であり、最新の聖書学の成果が随所に表されている、としている。

 以上のような基本理念と特長が反映された翻訳の内容の一部を例示し、これまで新共同訳などの表現を改めた理由を説明しているが、その中でも重要と思われるものを、日本聖書協会発行の「礼拝にふさわしい聖書を-『聖書 聖書協会共同訳』特徴と実例」から、抜粋して紹介する。(「カトリック・あい」南條俊二)

 

◎新しい聖書学の成果を生かした

 *旧約聖書

 ・【私はいる】(出エジプト記3章14節)  :この箇所の「わたしはある」という神の名は「神が永遠の存在であることを示すもの」として大切にされてきた。この訳は使徒たちや初代教会が親しんできた七十人訳ギリシャ語旧約聖書の「エゴ―・エイミ」という言葉に基づく。今回の訳では、ヘブライ語の「エヘイェ」と、その前後関係に注目し、「私はいる」とした。ヘブライ語聖書ですぐ前の文脈を見ると、「エヘイェ・インマク」(私はいる・あなたと共に)(3章12節)と言う神の言葉がある。モーセに現れた神は、アブラハム、イサク、ヤコブに現れて契約を結んだ神であり、その契約に従ってイスラエル人と共にいて、エジプトから導き出す神。そのような文脈とヘブライ語の「エヘイェ」に注目し、従来の翻訳とは異なる「私はいる」とした。

 ・【相続】(申命記15章4節)  :新共同訳の旧約聖書では、「嗣業(ナハラ)」と訳されていた。新約ではナハラにあたるのが「クレーロノミア」で、訳語として「相続」「受け継ぐ」が使われている。今回の訳では、「嗣業」ではなく、新約で使われている訳語を使い、「あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、主は必ずあなたを祝福される」とした。旧約では、イスラエルの民が約束の地を相続したが、それはイエスを信じる新しい神の民が正解を相続することを指し示していた(「世界の相続人になるという約束が、アブラハムやその子孫に対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるのです」=ローマの信徒への手紙4章13節)。旧、新約の訳語を統一したことで、旧、新約を貫く救いの計画がより明らかした。

 ・【空】(コヘレトの言葉11章1-10節)  :1970年代までは、著者コヘレトは「世をはかなむ厭世主義者で、懐疑主義者」と見なされていた。そのため、この箇所でも、7節の明るい表現が懐疑的な文脈に埋没し、「分かったものではない」(2節)、「蒔けない」「できない」(4節)、「分からない」「分かるわけはない」(5節)「分からないのだから」(6節)という懐疑的表現で訳されてきた。新共同訳は、8節までと10節も区切りと見る。それはいずれの段落も「空しい」で終わるためだ。また、「コヘレトの言葉」全体が格言の羅列でしかない、という考えがあったために、小見出しも付けられない、と判断されたと思われる。

 だが、現在では、「コヘレトの言葉」は一貫した思想的論調の書として解釈されるようになっていることから、今回の訳では、文節を1-6節、7-8節、9-10節と分け、7節の「光」「太陽」は12章2節と対応して囲い込み(インクルージオ)を形成しているため、11章7節から12章2節までを一つの段落と見なすこととした。11章7節から段落が変わるため、「作り主を心に刻め」と小見出しを付けた。

 以上の理由から、今回の訳では、1-6節の否定的表現について、ヘブライ語の接続詞キーに着目し、「からである」とした。また「知らない」(2節、6節)はコヘレトの否定的な結論ではなく、むしろ理由や根拠を示している、と判断した。コヘレトの結論は「あなたの受ける分を七つか八つに分けよ」(2節)、「朝に種を蒔き/夕べに手を休めるな」(6節)という命令である。「地に災いが起きるかもしれないからこそ、受ける分(神から与えられているもの)を皆で分け合いなさい」「どの種が実を結ぶか分からないこそ、朝から晩まで手を抜かずに種を蒔きなさい」という意味になる。

 そしてコヘレトは「すべてが空しい」と考える厭世主義者ではないので、ヘブライ語の「ㇸベル」は新共同訳のように「空しい」と訳されるよりも、口語訳のように「空」と訳される方が適切と考えた。これまでの翻訳聖書よりも、原点に即して、「コヘレトの言葉」の重要なニュアンスを生かし、そこから意味を汲み取ることができるような翻訳となった。

 ・【人生を見つめよ】(コヘレトの言葉9章9節)  :新共同訳の「愛する妻と共に楽しく生きるがよい」という箇所は、コヘレトが厭世主義者でないことを示し、他の邦訳も基本的に「楽しむがよい」(新改訳2017)「共に楽しく暮らすがよい」(口語訳)と同様な訳となっている。だが、「楽しむ」「楽しく」と訳された「ラア」は「見る」という言葉で、「楽しむ」という意味はない。「楽しむ」というのは、「コヘレトの言葉」全体から、また直接の文脈から意味を取って訳したためだが、今回の訳では、言語の意味をそのまま生かし、「…愛する妻と共に人生を見つめよ…」とした。従来の常識にとらわれず、言語に近づく努力をした結果、今までと異なり、味わいのある訳になった。

 ・【誇る】(箴言31章30節)  :伝統的に、主を畏れる女性が「たたえられる」と訳されてきた。「主を畏れる女こそ、たたえられる」(新共同訳)など。だが、ヘブライ語の「ハラル」のヒトパエル(注:再帰動詞?)形は「誇る」という意味で、他の箇所ではそのように訳されており、「たたえられる」と訳されているのはこの箇所だけだ。おそらく、主を畏れる女性が誇るのはふさわしくない、と考え、訳を工夫したと思われる。

 だが、「心のまっすぐな人は皆、誇ることができます」(詩編64章11節)とあるように、主を畏れる人は、主にあって誇ることができる。このような理由から、今回の訳では、「…主を畏れる彼女こそ、誇ることができる」とした。伝統にとらわれず、言語に近づく努力をした結果、これまでと違ったメッセージが伝わるようになった。

 *新約聖書

  ・【キリストの真実】(ローマの信徒への手紙3章22節)  :この節はこれまで、「…イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(新共同訳)と「信じる」と訳されてきた。だが、「ピスティス・クリストゥ」は両義的で、「キリストへの信仰」あるいは「キリストの真実」という二通りの意味があり、文脈によって訳し分ける必要があることが明らかになってきた。

 ローマの信徒への手紙3章21⁻26節は「神の義」がテーマとなっているので、後者を採り、「神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現わされたのです」とした。これにより、救いが神の業であり、神がアブラハムへの約束を守る正しい方であることが、浮き彫りになる。

 3章27節以降は、信仰義認が主題となるので「信仰」と訳す。またギリシャ語ではこれまで22節で「与えられる」と訳された箇所には動詞が無い。動詞を補って訳出する場合は、21節の「現わされる」を補うべきなので、そのように改訂した。

 ・【恥を受けることがない】(ローマの信徒への手紙10章11節)  :これまで「主を信じる者は、だれも失望することがない」(新共同訳)のように訳されてきた。この節は、旧約聖書イザヤ書28章16節からの引用で、「失望する」と訳された「カタイスキュノー」の第一の意味は「恥を受ける」だ。「主に信頼する者は、恥を受けることがない」は、詩編119章116節など、旧約聖書にたびたび語られている。

 今回は、ギリシャ語本来の意味と、旧約からの引用という性質を考え、「主を信じる者は、恥を受けることがない」とした。

 ・【霊が妬みに燃える】ヤコブの手紙4章5‐6節)   :この箇所は、解釈の難しさで有名。5節の「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ』」という部分が1‐4節の文脈と合わず、理解が難しい。しかも5‐6節が引用している聖書の箇所は他のどこにも見当たらない。

 そこで、今回の訳では、その箇所に関わる別の写本を採用し、次のように理解しやすくした。「それともあなたがたは、聖書が空しい言葉を語っていると思うのですか。私たちの内に宿った霊が、妬みに燃えるのです。しかし神は、それにまさる恵みを与えてくださいます。そこで聖霊はこう語るのです。『神は高ぶる者を退け/へりくだる者に恵みをお与えになる』。

 つまり、次のような意味になるーあなたがたの間で争いがあるのは、心の中に争う欲望があり、自分の霊が妬みに燃えているからだ。だが、聖書にあるように「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる」のだ。こうして、これまで難解だった箇所が理解できるようになった。

 

◎簡潔で引き締まった日本語に努めた

 今回の訳では、歌人、詩人、文学者、日本語学者などの日本語担当者が、最初から翻訳担当者とペアを組んで、自然で簡潔な日本語になるよう努力している。簡潔さという点では、単語レベルでは次のような変化がある。

 ・詩編7章10節  :口語訳は「どうか悪しきもの(ラシャ)の悪を断ち、正しき者(ツァディク)を堅く立たせてください」、新共同訳は、意味をより分かりやすくするように「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし あなたに従う者を固く立たせてください」としていた。

 今回は、簡潔で締まった訳文を目指し、多くの論議の末、口語訳の訳語を復活させることとし、「悪しき者の悪を絶ち、正しき者を堅く立たせてください」とした。

 同じ理由から、「恵みの御業」(ツェデカ)は「義」あるいは「正義」とし、「主の慈しみに生きる者」(ハスィド)は「主に忠実な者」とした。その他、文章全体も、自然さ、簡潔さを目指した。

 

◎日本語の変化に対応した

 以前は一般的でなかった言葉を、新共同訳発刊から30年経ち、多くの人が使うようになっている。そうした日本語の変化に対応した。

 ・【薄荷、いのんど、茴香(ういきょう)】(マタイ福音書23章23節)   :これまでは、「薄荷、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが…」(新共同訳)などとされてきたが、いのんど、茴香(ういきょう)を理解する人は今では少ない。そこで「あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが…」と、広く知られ、料理に使われている呼び名にした。

 

◎差別的表現、包括言語なども改める努力

 深いと思われる言葉遣いを減らすように努めた。

 ・【お前】(エレミヤ書3章12節)  :新共同訳は「お前」という言葉を、自然な日本語を目指したことから、多用した。「主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない」と。だが、今回は、神やイエスが語られる言葉には「お前」を使わないことにした。「主の仰せ。私は怒りの顔をあなたがたに向けない」と。ただし、対象が人でない場合は、物や町などは、例外とした。

 ・【はしため】   :これまでの邦訳聖書では「はしため」が使われてきた-「ハンナは『はしためが御好意を得ますように』と言ってそこを離れた」(サムエル記上1章18節・新共同訳)「そこで、マリアは言った。『…身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです」(ルカ福音書1章46⁻48節・同)。

 今回の訳では、「はしため」は差別的だとして、「仕え女(め)」とした。

 「ハンナは言った。『あなたの仕え女が恵にあずかれますように』」「そこで、マリアは言った。『…この卑しい仕え女に 目を留めてくださったからです』」。

 ・【もてなす】(マタイ福音書8章15節)  :「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」(新共同訳)となっていた。

 だが、「もてなした」と訳されていた「ディアコネオー」は、「仕える」、食事の文脈では「給仕する」と訳される言葉だ。癒されたしゅうとめがイエスにしたことは、給仕だけとは限らないことから、今回の訳では「仕えた」とした。

 「イエスが手に触れられると、熱は引き、姑は起き上がってイエスに仕えた」。

 

◎最新の聖書考古学、植物学、動物学の成果を生かした

 これまで不明だった聖書の地の動植物や宝石、人が作った物などが明確になってきたことから、より正確な訳語を目指した。

 ・【ラピスラズリ】(出エジプト記28章18節)  :これまでの訳では「第二列 ざくろ石、サファイア、ジャスパー」(新共同訳)などとなっていた。だが、これまで「サファイア」とされていた「サピール」は、最新の研究では「ラピスラズリ」だとされたため、以下のように改めた。

 「第二列はクジャク石、ラピスラズリ、縞めのう…」。その他の宝石にも多くが改められている。

 ・【麦の酒】(レビ記10章9節)  :「シェカル」「スィケラ」は、これまで「強い酒」と訳されてきた(「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな」(新共同訳)。

 だが、「シェカル」「スィケラ」は、古代エジプトやメソポタミアなどの穀倉地帯で作られていた「ビール」を指すことが分かってきている。当時は、アルコール度の高い蒸留酒はなかった。

 これを踏まえて、より正確な表現を使い「会見の幕屋に入る時には、あなたもあなたの子らも、ぶどう酒や麦の酒を飲んではならない」とした。

 ・【箕(農業用フォーク)】(マタイ福音書3章12節)   :「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにした」(新共同訳)としていたが、古代の中近東では、竹で編んだ箕を、麦をふるうためには使っていなかった。当時使用していた「ミズレ」「プトゥオン」は現在の農業用フォークに相当する。

 このため、「その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め(脚注に「農業用フォーク」)」と改めた。

 ・【ばった】(出エジプト記10章4節)(マタイ福音書3章4節)  :「いなご」は旧約聖書で、エジプト全土の作物を食べつくした昆虫、新約聖書では、洗礼者ヨハネの食べ物として出てくる。

 だが、昔は「いなご」に「ばった」を含む広い意味があったが、最近は厳密な使われ方をしている。「『いなご』は日本特有の種を指すので、誤訳になる」との指摘があり、言語の「アルベ」は、「いなご」の倍近い大きさの「サバクトビバッタ」を指すことが分かってきたことから、「ばった」に改めた。

 ・【コブラ】【毒蛇】(マタイ福音書3章7節)  :「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(新共同訳)という有名な箇所があるが、「マムシ(蝮)」は日本特有の種で、中近東には生息していない。新約聖書の「エドキナ」は「毒蛇」とし、「クサリヘビ」と注を付けた。その他にも動植物の名称でいくつかの改訂を行った。

 以上

 

 

 

2018年12月21日

・2月の「児童性的虐待サミット」への現実的な期待(Crux解説)

(2018.12.9 Crux Editor John L. Allen Jr.)

 ローマ発-その時点で世界で何が起ころうとも、聖職者の性的虐待問題についての全世界の司教協議会会長による来年2月のサミットは、大きなニュースとなるだろう。

 性的虐待について説明責任に関する新たな規則の導入を決めようとした米国司教団に対して、バチカンが、決定を2月のサミット以降まで待つように求めて後、米国の評論家たちが2月のサミットを「ルーズベルト米大統領とスターリン・ソ連首相のヤルタ会談」、つまり、いちかばちかの、歴史的な会合になる、と見なすことが運命づけられた。

サミットへの期待が様々に乱れ飛ぶ前に、このように声を大きくして言うことが重要だ-あらゆる種類の理由ゆえに、サミットは性的虐待問題に関する”ヤルタ会談”にはなりそうもなく、そのような期待をするのは愚の骨頂だ、と。

 では、そのように言う理由、そして、何をもって成功と言えるのか、を説明しよう。

 まず、ヤルタ会談は1945年の2月4日から11日まで1週間かけて行われたが、今回の会議は2月の21日から24日まで実質たった3日しかなく、しかも多くの時間が、巨人たちが腰かけて議論を戦わせるよりも、専門家たちの発表を聴くことに費やされる。ハイレベルの交渉というよりも、”週末出勤”に近い。

 第二に、そしておそらく理由の説明としてもっと適切なのは、この会議が、虐待のもたらす危機に関する同じページ上にある-共通のアプローチの委細を決める必要に迫られているー”均質”な司教たちによる集まりではない、ということだ。

 メディアの批判、法廷訴訟、法外な金銭的解決、刑事訴追、支援・弁護団の批判などの”危機”に遭っている司教たち、反虐待の戦いで最も良い結果をもたらすとされるものを採用するために教会にとって必要なことを直観的に感じ取っている司教たちは、世界中の司教たちの、およそ3分の1なのである。

 世界の司教たちの3分の2は、多くが南半球の途上国におり、これまでに述べたような意味での”危機”に遭っていない。自分たちの文化は、危機に遭っている国々のような程度にまで問題が起きることはない、と確信し、虐待スキャンダルについての西側の司教たちの議論が自分たちの関心や優先事項に影響を与えていることを、不快に感じている。そして、地政学的に、文化的に限定された現象として考えられるものを、自分たちの国も優先することに、疑問を抱いている。

 さらに、そうした司教たちの中には、虐待スキャンダルに対して世界共通の対応を求めようという動き-他の文化的な文脈に当てはめた場合にも意味があるのか、ということを考えずに、欧米のやり方を一律に当てはめようとする動き-は即、西欧植民地主義の新たな一章ではないか、といぶかる声もある。

 そのような動きとされる例として、虐待による危機が始まって以来、カトリック教会の中の改革派と虐待被害者を支援する団体の間にでている、世界の教会に”強制的申告者”政策-司教たちが受けた児童性的虐待の訴えをすべて警察と当局に報告することを義務化する政策-を実施するよう、教皇に求める声がある。

 それは、警察の誠実さに信用が置かれている欧米の人々にとっては、当たり前のことのように思われるが、警察権力が反教会的な姿勢を示す中国やインド、中東諸国のような地域の聖職者たちにとっては、そのようなことをすれば、教会活動を破壊する新たな手段を敵に与えるようなもの、罪のない聖職者たちを狼の餌食にするのに結び付くようなことは、言わないでくれ、ということになるのだ。

 このような亀裂は、10月の「若者シノドス(全世界代表司教会議)」で起きた。世界中から参加した約260人の司教たちが、性的虐待について一切の妥協を許さない”zero tolerance”政策で合意の瀬戸際まで行きながら、最後の最後に、途上国、とくにアフリカとアジアの司教たちの反対が主な原因となって見送りとなったのだ。

 このようなことを考えれば、2月のサミットに世界共通の大胆な指針の決定を期待するのは、おそらく現実的ではないだろう。会議の参加者と主催者が「この会議は始まりに過ぎない」と言うなら、それは誇張ではない。

 そうだとすれば、予想される結果はどのようなものか?まず言えることは、この会議が、聖職者による性的虐待は世界共通の問題であり、問題解決には教会のあらゆるレベルの人々の参加は必要だ、という明確なメッセージを示す機会を、教皇フランシスコに提供する、ということだ。

 教皇フランシスコはまた、性的虐待の犯罪だけでなく、その隠蔽についての説明責任を果たす強力な制度構築の具体的な方法を告げることで、実例を示すことになるだろう。自分たちの仕事を失う可能性のある新たなやり方では、どこでも、司教たちの注意をひくことはない。

 最後に言えることは、教皇フランシスコはまた、世界の司教協議会会長全員に、帰国後、虐待の被害者たちと必ず会うことを求めるだろう。性的虐待問題に何年も関わって来た人々が皆、言うように、子供の時に聖職者に虐待された恐怖について語ることで被害者たちと時を過ごすことに代わる対応はないのだ。ローマで、会議に参加する司教たちは被害者たちから話を聴くだろうが、そうした行為は、自分自身の場所で被害者たちを会うことには及ばない。

 要すれば、当然、米国の人々は2月の会議の不十分な結果と思われるものに不満を抱く可能性が強い。事の成否は、この会議後に、米国の司教たちが会議が示す方向に沿って、いかに速やかに具体的な行動計画を立てるかにかかることになる。

 カトリック教会が全地球的なものであるとすれば、1人が現実的に期待するものが、全てについてであり、残念なことは、ただ1人が本当の前進を体現するであろう、ということだ。

2018年12月10日

・ 言論NPO設立17周年記念フォーラム 「代表制民主主義は信頼を回復できるのか」

(2018.11.22 言論NPO)

  言論NPO設立17周年記念フォーラム「代表制民主主義は信頼を回復できるのか」

 オープニングフォーラム 報告

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11月21日、言論NPOが設立17周年を迎えるにあたり、記念フォーラム(「東京会議」プレ企画)「代議制民主主義は信頼を回復できるか」が開催されました。
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冒頭、言論NPO代表の工藤泰志は、この3年間、民主主義に関して世界の400人近くの論者と議論を行い、その結果、日本や欧米が抱える最も大きな問題は「代表制民主主義が信頼を失った」ことにある強調。そうした中で、「世界の民主主義が信頼を取り戻し、より強靭なものにするために改革が必要な局面にある。私たち言論NPOもそのための作業を始めることを考えていて、今日がそのスタートだ」と語り、今回のフォーラムの開催の意義を語り、開会のあいさつを行いました。

日本・EUの世論調査結果から明らかになったのは、国民の民主主義への信頼低下

続いて、2018年9月に実施した「日本の民主主義に関する世論・有識者調査結果」から(11月21日公表)、工藤は、日本には民主主義に対し強い信頼がまだ残っている一方、政党に問題解決を期待できないという人が59%いるなど、政治に対する期待が低下していることを指摘。さらに、「国会」、「政府」、「メディア」には信頼を寄せておらず、自衛隊や警察、司法を信頼しているという結果に触れ、「私たちが選挙で参加し、政治家に課題解決を託しているという代表制民主主義の仕組みが、軒並み信頼を失っている」と分析しました。

こうした調査結果も踏まえながら工藤は、「市民が政治から退出しており、世界の民主主義は危機に直面していると判断した。ぜひ、みなさんにも一緒にこの問題を考えていただきたい」と呼びかけ、開会の挨拶を行いました。

工藤の発言を受け、ドミニック・レニエ氏(仏政治刷新新研究基金代表、パリ政治学院教授)が、ヨーロッパで実施した世論調査の結果の説明を行います。レニエ氏は、工藤の発言に賛同するとともに、EUにおける世論の政党への信頼が18%しかないことを紹介。さらに日本の調査結果と同様に、EUでも「軍」や「警察」への信頼が高く、議会への信頼があまりないこと、さらに伝統的メディアへの信頼も危機的で、「25カ国のうちの4カ国でしか、メディアに対する信頼が50%を超えていない」との現状を説明しました。

加えて、国民の大部分は、政治家が腐敗していると考えていること、独裁者によって国を率いてほしいと考える国民が一定数存在することに言及し、「ヨーロッパの民主主義国家はかなり深い問題を抱えている」と断じました。また、こうした問題は調査結果からだけではなく、イギリスのブレグジットでの国民投票や選挙の投票結果でも現れているとし、問題が様々な場面で表面化していることを強調しました。

国会や政党と国民の間にある溝を、どのように埋めればいいのか

レニエ氏の発言を受け工藤は、世論調査の中で、「日本に強い政治リーダーを求めるか」という設問で、国民の20.4%が「自国の経済や社会がより発展するのであれば、多少非民主的でも強いリーダーシップを持っても構わない」と回答したことに言及し、国内でもリーダーシップをより求めていることは、民主主義を考えていく上での重要な課題だと補足しました。

さらに工藤は、政党と国民の代表であるべき国会が市民の支持を得ていないことについてどのように考えればよいのか、と問いかけました。

遅れて登壇した衆議院議員の石破茂氏は、「政党が信頼されていない」という調査分析結果に同調。世論調査の設問について、「政治家が有権者を信頼しているか」という逆の問いも有り得るのではないかと指摘。政治家の中でも、「どうせ難しいことを言っても国民は理解してくれないのだから、この程度の国民に対してこの程度の政治家でよいだろう、というのは絶対に言ってはならない。国民は忙しいのだから、わかりやすく様々なことを表現することが仕事だ」と、政治家の持つ説明責任の重要性を訴えました。

他方、国民にも自らが為政者という自覚がなければ主権国家とはならないと、国民に対しても当事者意識を持つことの必要性を説きました。さらに石破氏は、自衛隊への信頼が高まっている現状についても「極めて信頼が高いことはよいが、これまで自衛隊に対する文民統制の議論が突き詰められたことはない。民主主義と実力組織の関係はよく考えないと、もう一度(第二次世界大戦と)同じことが起こる可能性がある」と、手放しの自衛隊への信頼への問題点も指摘しました。

ギデオン・ラックマン氏(フィナンシャル・タイムズ・チーフ・フォーリン・コメンテーター)も、ジャーナリストの立場から政党への信頼の失墜について話します。「西洋やアジアの民主主義国をみると、伝統的な政治家ではない人々やアウトサイダーに訴えかける人に票がいくことが多くなった。政党はやはりそれなりの規律の中で動かなければならず、そうした規律に縛られて動いていることが国民からみると不誠実に見られることがあるのではないか」と、フランスのマクロン大統領やアメリカのトランプ大統領を例示しながら語りました。

ここまでの議論を受けて、工藤は「今回の日欧の世論調査に共通する傾向は、市民と政党に乖離があることだ。つまり政党が市民のために動いていないとなると、そもそも政党の存在意義は何なのか」と代表制民主主義をとる上での根本的な問いを提示。さらに、政党が極端な民意を利用して地位を得る傾向が、日本のみならずヨーロッパにも見られると分析。このような現状を立て直すことは難しいのか、パネリスト諸氏に問いかけました。

「難問だ」と応答したのはレニエ氏です。「全ての政党が危機にあるということは正しい認識ではない。もっともヨーロッパを見ると、明らかにポピュリストは台頭していることは事実であり、一般国民と政治家との乖離は、今に始まったことではない」と、ヨーロッパに関する自らの見解を主張。また、政府としては一般国民と理性的な議論をすることが難しい時代になったと指摘。このような時代では、共通の利益がどこにあるのかを見定めることは難しいのではないかと分析しました。

工藤は、石破氏が所属する自民党について、様々な人々から支持を受けているのか、それとも棄権する人々が多いために相対的に支持基盤を獲得できているにすぎないのかを問いかけました。

石破氏は「国政選挙の投票率は50%程度しかない。そして50%の得票率で当選できるということは、25%の積極的支持で、70%以上の議席を獲得してしまっている。したがって、当然民意との乖離は生じてしまう」と、選挙制度の構造的な部分に原因があることを指摘しました。

また、日本の両院制は両院が同様の権限をもってしまっていることにも触れ、「同じようなものが二つあって意味があるのか」と、少数意見を尊重できない現行の両院システムに異議を唱えました。また、自らの自民党総裁選出馬経験を踏まえ、本来であれば総裁選に勝利した安倍総理が、石破氏を支持した45%の議員の意見を取り入れなければ次回の選挙では辛酸を舐めることになる可能性が高いが、野党がバラバラである現状では負けることはないだろうと、日本の政治構造そのものにも疑問を投げかけました。

議会は行政の追認機関にすぎなくなってしまったのか

ここで工藤は、日本にあるような与党審査制度がヨーロッパ諸国にも存在するのか問いました。ラックマン氏は、「一般的にはそのようなことに基づいている」と回答。さらに、国民が政党に対して信頼をしていないのはなぜかという問いに関して、「フランスの国民戦線やトランプ大統領の出現に代表される社会の分断の中で、政党は社会を代表できていないと考えられているのかもしれない。亀裂を代表できている党が現れれば、人々は国会や政党に信頼を寄せるのではないか」と語りました。

工藤は、国会の信頼度が低いことに関してどう捉えるのか。また、「日本には与党審査という制度があり、その中で揉まれている問題に国民はあまり触れられない」と、与党審査の抱える問題についても問題提起すると、石破氏が答えます。「与党審査があるのだから、与党は政府を持ち上げるような質問はしなくてもよいのではないか。また、野党もバラバラに質問するのではなく、どこに国民の興味があるのかを把握し、本質的な議論をする必要がある」と指摘。また、小泉政権時代の有事法制についての長期間の野党との議論と調整の末、二党を除いて合意を結べた経験を振り返りながら、「よりよい議論の一致を見出すのが議会の役割。国会は追認機関なのであれば意味がない」と力強く主張しました。

石破氏の発言を受け、工藤は「党議拘束と与党審査をやめるのは無理なのか」と問うと、「与党が運営する政府で与党審査をやめたら意味がない」とは石破氏。また、党議拘束については、全てに党議拘束をかけるわけではないと指摘。実際に過去にも、脳死など死生観に関わる事柄については党議拘束を外したことがあると語る石破氏でした。

 

正確な情報を提供し、政府批判を恐れないことがメディアにとって重要な役割

次に工藤は、「メディアはインフラとしての機能を果たせていないのではないか」という問題意識を提示。ラックマン氏は、トランプ大統領の登場に懸念を示します。「彼は、メディア攻撃、不信感醸成を正当化している。アメリカでは報道の自由が確立されているので多分メディアは生き残るが、世界中のメディア叩きを助長しているのは事実だ。その結果、世界で投獄されている記者数は記録的だ」と語りました。また、報道に対して過剰に批判的になることにも問題意識を示し、「民主主義の抱える問題にはメディアへの攻撃も含まれているからだ」と語るラックマン氏でした。

「メディアに対する攻撃がある」という点について理解を示しつつ、工藤は最後に、一方でフェイクニュースの問題に世界の既存のメディアがどのように取り組めばよいのか、と問いかけました。

「諸外国と日本だと状況は違うと思うが」と前置きしつつも、「日本だとメディアと権力が癒着すると社会が滅びるということは間違いない」と断言するのは石破氏です。「(第二次世界大戦)当時は大政翼賛会しかメディアがなく正確な情報がないために、実に都合がよいストーリーしかなかった。いかにして正確な情報を提供し、政府の批判を恐れないかということが重要だ」と、戦時中を振り返りつつメディアの持つ役割の重要性を提示しました。

また、近年のメディアについて、各々の論調がはっきりしていると指摘。「ただ、市民は普通一種類の新聞しか読まない。それでは一つの論調に市民の意見が固まってしまいよくない。メディアは自分とは違う立場についても紹介すべきだが、商業ジャーナリズムの下では困難だ」と、現代メディアが抱える役割とそれを果たす困難についても言及しました。

今回の議論を振り返った工藤は、「当初の期待よりも何十倍も高いレベルの議論ができた。この議論を後のセッションへ引き継ぎたい」と議論の満足感を示し、オープニングフォーラムは終了しました。

第1セッション「代議制民主主義の危機をどう見るか」報告

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スピードと効率性に欠ける民主主義

「代議制民主主義の危機をどう見るか」をテーマに行われた第一セッションには、欧州から元国会議員二人を含む4人とアジアから2人が参加しました。

司会を務めた工藤は、最初から出席者に単刀直入に聞きました。「なぜ、代議制民主主義は信頼を失っているのか、何が問題なのか」。これに、イタリアのゴジ氏は、「伝統的政治が、国民の新たなニーズに答えられていないのが最大の問題だ」と語ります。「伝統的議論の規範には、理性や統計が必要だが、それが機能しておらず、逆に人々の感情や心に訴えるようになっている」と大衆迎合になりがちな政治の状況を説明しました。さらに、「各地で台頭しているポピュリズムを捉えきれなかったメディアも危機を迎えている。さらに、ソーシャルメディアの管理の仕方も理解されておらず、イタリアの”五つ星運動”はソーシャルネットでできた要素が高い」と分析しました。

さらにゴジ氏は、今の自由民主主義を、プロセスにおいて①意思決定のスピードが足りず、②効率性が悪いのに満足できないために、非自由な強いリーダーを選んでしまうと説明。民主主義を回復するためには、この2点を解消しなければならないが、そのメッセージを伝えるシステムができていないと、民主主義の弱点を指摘しました。この見方を補足するように、イギリスのEU離脱を”BREXIT”と命名したことで知られる元下院議員のマクシェーン氏は、「代議士は5分、有権者に接触しないと民主主義は失われると言うが、民主主義は今、”赤ん坊の時代”なのかもしれない。議論する場で直接、顔を合わせてきちんと議論し、選挙区に帰っても議論しなければいけない」と、民主主義のあり方の初歩を議員が忘れているから、国民感情を受け入れることができない、と話します。

民主主義の危機が言われるようになって、それと反比例するようにポピュリズムが台頭してきました。しかし、フランスの政治学者、レニエ氏は、「ポピュリズムを短く定義すれば、人々の求めに応えることで、今のそれは、ポピュリズムではない。移民など新しい問題が出てきて、文化の衝突や統合の問題などが重なり、移民はイヤだ、となって、そこにポピュリズムが入り込んできた。新聞など民主主義のツール(道具)も、今では役に立たなくなっている」と説明。

イギリスメディアで活躍するラックマン氏は、「トランプ大統領は、人々が求めるものを与えようとしている。この姿勢は、いつか問題となって、彼自身に跳ね返ってくるだろう」とトランプ大統領の将来を予測しました。

有権者の気持ちを代弁しているか ――政治家の約束と結果

課題解決が仕事のはずの政治家が信頼を失えば、国民はどこへ行けばいいのか。フィリピンのマルコス独裁体制を批判して暗殺されたベニグノ・アキノ氏を叔父に持つバム・アキノ氏は、「その前の政権がやるべきことをやってこなかったから、独裁者と呼ばれるドゥテルテ大統領が選ばれたのだ。彼は、約束したことをやらなければいけない。人々は結果を見たいのだ」と、政治家の”約束”と”結果”の大事さを強調。ドゥテルテ氏は”約束”を果たすべき、より強いリーダーシップが求められて大統領になったのであり、独裁者とは違う、との見方を示しました。

そしてアキノ氏は、「代議制民主主義とは、私たちの気持ちを代弁してくれるもの。私たちの求めるものを反映するべく選ばれた人たちであって、少数派の利益ではなく、過半数の利益になることをすべきだ」と、上院議員として、地元で貧困問題に取り組んでいる政治家らしく述べるのでした。さらにアキノ氏は、「政治家が約束を果たしていれば問題はないが、代議制民主主義の危機の背後にあるのは、誰がどこを代表しているのか」と指摘。

フィリピンは過去7年、経済成長してきたものの、貧困率は下がっておらず、経済格差が大きくなっている。こうした状況下で、「政治家が信頼を失っているのは、一握りの人たちだけが繁栄して、自分たちはダメだ、と思わせるから。人々が独裁者を好むようになるのは、この格差に問題があるからだ」と力を込めて語るアキノ氏でした。

アジアからもう一人、イェニー・ワヒド氏は、インドネシアのワヒド元大統領の次女で、ダボス会議を主催する世界経済フォーラムからヤング・グローバル・リーダーの一人に選出されたこともあります。「男性は、女性のニーズを理解できるのだろうか。女性の代議員がもっと増え、女性のニーズを推し進めてほしい。それだけでなく、地域や民族のグループの声を反映させていけば、その存在を代表し、それが全体としての代表になっていくのだ」と、多民族国家であり、成熟した欧州民主主義国とは違う、まだまだ若い新興民主主義国家の一員として、また女性の立場から発言します。

社会の分断への対処は

一方、アメリカの中間選挙では、社会の分断が指摘され、トランプ大統領はそれを選挙で利用していたとも言われました。工藤が問います。「ポピュリズム、ナショナリズム、排外主義などが飛び出し、第二のトランプと呼ばれる人も出てきた。こうしたストロング・マンが民主主義の枠組みを攻撃している。こうした分断をどうやったら解消できるのか」。

ゴジ氏は、「国益とネオ・ナショナリズム(右派ポピュリズム、反グローバリゼーションなど)は別だ。決して同等ではなく、ネオナショナリズムは外の敵を必要とするが、ネオナショナリズムが国益を促進することはない」と一国主義、保護主義に警鐘を鳴らします。さらに、「民主主義とグローバリゼーションは一つのジレンマでもあり、その間には新しいバランスが必要だ」と、今後の議論の課題を指摘します。この言葉にアキノ氏は、「ポピュリストたちは約束を守れないだろう。約束したことが、あまりにも大きすぎるからだ」と付け加えました。

マクシェーン氏は、「マレーシアでは、マハティール氏が93歳で首相に返り咲いた。人材不足かもしれないが、民主主義に代わるものはない。民主主義を放棄したら何もなくなる。これからはチェック・アンド・バランスが必要で、民主主義の危機とは言わないでほしい」と、世界の民主主義の現状に望みをつなぎ、民主主義の未来を信じるようでした。

答えが見えそうな議論

「司会者の発言が少ないのは、いい議論が続いた証拠」と言う工藤は、活発な意見交換を終えて、「適切な論点が多くあった。代議員は必要なのか、彼らは課題解決に取り組んでいるのか、公正であるのか。また、民主主義の意思決定のプロセスとスピードが問題になったが、これらを解決するには、議会だけではダメなのではないか。どうしたら政治や議会は、国民の信頼を回復できるのか、私は答えが出そうな予感がしてる」と、様々な意見が飛び出したことに満足そうに話し、第二セッションに移りました。

第2セッション「民主主義への信頼をどう取り戻すのか」報告

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続く第2セッションでは、言論NPO理事を務める近藤誠一氏(近藤文化・外交研究所代表)に司会を交代し、「民主主義への信頼をどう取り戻すのか」をテーマに議論を行いました。

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この第2セッションでは、第1セッションから引き続きの参加となるマクシェーン氏とゴジ氏に加え、アジアの民主主義国からハッサン・ウィラユダ氏(元インドネシア外務大臣)が参加。日本からは、大橋光夫氏(昭和電工株式会社最高顧問)、藤崎一郎氏(日米協会会長、元駐米大使)の2人の言論NPOアドバイザリーボードメンバーが参加しました。

まず、司会の近藤氏が「第1セッションで浮き彫りとなった代表制民主主義の危機を乗り越えるため、今何をすべきなのか」と問題提起。各氏にその処方箋を求めました。

民主主義を機能させるため、一人ひとりが考えるべき

これに対しマクシェーン氏は、代表制民主主義によって全ての人が満足できるような結論を出すことは不可能であるとした上で、それでも代表制民主主義によって出された結論に意味があるのは、代表者たる議員たちが「議論を尽くした末に下した結論」だからこそであると指摘。住民投票のような直接民主主義は、スイスのような成功例はあるとしつつも、往々にして「YesかNoかのボタンを押すだけで愚かな結論を下すことになりがち」と警鐘を鳴らしながら、暗にイギリスのEU離脱の是非を問う国民投票を批判。代表制民主主義に対する人々の不満に対しては、「結局、文句を言わずに民主主義が機能するように自分たちで組み立てていくしかない」と説きました。

さらに、選挙制度のあり方についても同様の視点から、「虹の向こうにいる誰かが完全な制度をプレゼントしてくれるわけではない」とし、自ら模索してい くべきだと語りました。

 

新たな課題から生まれる新たな運動を民主主義の活性化につなげていく

ゴジ氏は、国民の政治運動や政党の活性化の必要性に言及。現代の多くの国々で見られる現象として、旧来的な「右」と「左」の分断ではなく、「都市と地方」や「高齢者と若者」など様々な領域での分断が進んでいるとしつつも、そうした新しい課題から新しい運動が生まれると指摘。また、水の確保や気候変動などの新たな課題も新しい運動の端緒になるとし、こうしたことに活性化の好機を見出していくべきと主張しました。

一方で、そうした政治運動や政党は「人々の感情に寄り添い、希望を高めるような成果を出すことにこだわるべき」とも語り、そのためにはしばしば民主主義の欠点と指摘される効率性とスピードを意識することも重要であると留保を付けました。

選挙過程だけでなく、行政も不断の見直しが必要

ウィラユダ氏は、「選挙を通じて自らを改善させることができる点が民主主義の強みだ」とした上で、民主主義は”最終形態”に向けての進化の最中にあるのだから、多少の問題が起きても動揺せず、辛抱強く改善に取り組んでいくべきと訴えました。

一方で、民主主義が機能していないと思われることの要因としては、民主主義によって選ばれた政治部門が国民に福利をもたらすことができていないことがあると指摘。それは議会だけの問題ではなく、行政にも問題があるとし、一例としてインドネシアでは汚職を捜査・起訴し、政府を監視することなどを任務とする「汚職撲滅委員会」が国民の中で最も信頼度が高い機関となっていることを紹介。選挙過程だけでなく行政過程の透明化も民主主義に対する信頼回復のためには不可欠であるとの視点を提示しました。

「3つのC」

藤崎氏は、EU離脱に関する国民投票とそれに伴う混乱を踏まえ、選挙で選ばれた代表が長期的な視野に立って討議し、決定することの重要性を再確認したとしつつ、日本の選挙をめぐる問題点を提示。立候補の自由はあるものの、実際には世襲議員や官僚出身者などの候補者が多く、「地盤」、「看板」、「鞄」がない人はなかなか選挙に出馬できない現状を指摘した上で、こうした現状をchangeし、challenge しようとする人にchanceを与えるべきとする「3つのC」を提唱。そのためには、現行小選挙区制の見直しや、イギリス型の落下傘候補の一般化などが検討に値するとしました。

さらに藤崎氏は、そうして選挙をくぐり抜けた政治家の意識の問題にも言及。「ゴルフの時ですら議員バッジをつけているような人がいる」とし、こうした見え隠れする特権意識をどう考えるかという視点も提示しました。

 

まず、教育から問い直すべき

大橋氏は、民主主義に関する制度の問題ではなく、人間教育の観点から問題提起。まず、日本社会の特質として「宗教や人種に対して比較的寛容であること」や「調和を重んじること」を挙げ、こうした姿勢が民主主義に不可欠であると論及。また、イギリスの政治学者A.D.リンゼイが民主主義を維持していくためには、自らの意見と不一致な意見も真摯に傾聴すべきと述べていたことや、天才物理学者アインシュタインの「人間にとって最も大切な努力は、自分の行動の中に道徳を追求していくこと」などの格言を紹介。民主主義の不完全さを補うことができるのは人間の理性だけであるとし、その理性を身に付けるためには教育が重要であると主張。

「相手の話をきちんと聞くという習慣を身に付けなければ寛容も身に付かない」、「憎悪によって分断を生まないような自己抑制をできるようにすべき」などとしつつ、こうした姿勢を小学校教育の段階から意識して習得するような教育改革を提言しました。

この寛容の精神の重要性については、ゴジ氏も社会が多様化していく中での不寛容の拡大が、分断につながっているとし、今後の民主主義を考えていく上では「寛容が重要なキーワードになると」と指摘。

ウィラユダ氏も多元的な社会で構成されるインドネシアでは、寛容とそのための対話が不可欠であると説明。さらに、世界各地でのポピュリズム勃興の背景には、エリート層に対する大衆の反発があるとし、この両者が対話することの必要性について語りました。

その後、会場からの質疑応答を経て、言論NPO設立17周年記念フォーラムのセッションは終了。議論は明日の「第4回アジア言論人会議」に続きます。

第4回アジア言論人会議 非公開会議 報告

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11月22日午前、ホテルオークラ東京にて、第4回アジア言論人会議「アジアや日本はどのような民主主義を目指すのか」の非公開会議が開催されました。冒頭には、午後の会議に向けて、アジアでの民主主義の現状について、本音の議論や問題意識の共有が展開されました。

構造的な格差とグローバリゼーションに伴う格差

まず、言論NPO代表の工藤泰志は、非公開会議の前の協議で取り上げられた貧富の格差の問題に着目。まず、「貧富の格差」には欧米でしばしば議論となっている構造的な問題とグローバリゼーションに伴う問題の二つがあり、後者が前者の問題を拡大していると指摘。日本では貧富の格差がアメリカほどは大きくはなく、政権も若者や女性に分配を進めようとしているが、それでもなお富の独占が起こっている現状を真剣に考えなければならないという問題意識を提示しました。また、国内における格差と世界全体が抱える構造的な格差を区別する必要があると、論点の整理を呼びかけました。

マレーシアから来日したパネリストは、2018年のマレーシアでの政権交代について、国民の経済への不満が反映していると分析。これまでの一党支配が国民と政治の乖離を促進したことから、新政権に国民のニーズに応えることが重要だと、新政権への期待を示します。もっとも経済活動の促進のためには、政府は国民以外にも企業からのニーズに応えなければならないという実態があるが、企業の要求に応えようとすると、国民の低賃金が前提の議論となってしまい、国民の要求に応えられなくなるという二律背反が課題だと語ります。

また、フィリピンのドゥテルテ大統領を例に挙げ、強権的であっても、貧富の格差という、構造的で短期的には解決が難しい問題を早急に解決するという要求を無視できない、と語るパネリストもいました。仮に国民からの要求に応えられず強権的政権が崩壊したとしても、国民からの要求に応えられるかが選挙での争点となると論じました。

フィリピンのパネリストは、即効性のある改革に向けた強権化のために自国が改憲によって大統領の任期延長を行おうとしていることに言及。しかし国民は経済構造の改革を求めており、政治が国民からの要求に相反していることを改革している事例として上げました。

マレーシアの別のパネリストは、経済格差はこれからも進むだろうと断言。その中で、「弱い国はその分だけ失うものが多い」として、マレーシアが食料自給率向上のために穀物の生産に向けて努力したが、食料品の輸入が止まらず頓挫した結果、一部の貧困層が一貫して残存し政府の対応が追いついていない現状を指摘。これからの政権は、農業や製造業などの衰退してしまった様々な産業や産業間格差に取り組まなければならないと主張しました。

続いて、インドネシアのパネリストはインドネシアの民主化について語りました。「基本的に順調」な民主化の下にも、所得格差は他国同様に存在すると分析。所得格差はグローバル化に基づく効率性向上の要求に関連しており、それによる犠牲者は政府にしか救えないと、政府の責任について言及。しかし、インドネシアは「一緒に貧困であればよい」という思想や、寡占による特権の悪用という根深い問題を抱えており、これらの問題の解決の必要性を強調しました。

さらに、別のインドネシアのパネリストは、インドネシアの民主主義と経済成長の関連について、政権の柱と選挙での争点がGDP成長率や貧困率の削減、通貨下落対策に置かれるなど、経済政策が世論を満足させるために利用されされている点を指摘。加えて、「ジョコ・ウィドド大統領に対しての支持率には世代差がある。ミレニアム世代をどう説得していくかが現政権の課題だ」と、政権支持に関する世代間格差についても言及しました。

民主主義を機能させる上でのメディアやインターネットの功罪

フィリピンのパネリストから、現代社会の持つ問題点について指摘がありました。「インターネットやSNSは誤解を生みやすい。民主主義を機能させるためには、顔を合わせて話をするという基本に立ち返る必要がある」と提案。

また、「アジアは多くの宗教の発祥地でもあり、平和やお互いを尊重するという価値観を培ってきた。この価値観を広げていくことが、ナショナリズムへの対抗になる」と、アジアならではの価値観の重要性を語りました。この見解に同意したフィリピンのパネリストからは、「民主主義とグローバル化のどちらかを選択するという二者択一ではなく、連立方程式を見出す必要があるが、これはアジアの私たち自身が作っていくものだ」とした上で、「強権政治からの離脱は今後様々な国で起きてくるだろう。その時に、公約を実現するという民主主義の価値観に応えなければならない」と、政治家が民主主義において公約を実現するという成果を出すことの重要性を強く訴えました。

ここで、工藤から「ナショナリズムは自国以外を批判して自分たちの支持を集めるパターンだったが、最近のアメリカでは、分断された世論を利用して、自分と異なる立場を攻撃し、支持を集めるという現象が出てきている。アジアにおける国内分断の問題は、考えなくても良いのだろうか」と、新たな論点が投げかけられました。

すると、フィリピンのパネリストから、国内における論争そのものが欠けているとの意見が出ました。その原因は、メディアにあると指摘。「SNSでは短い言葉で単純な発言が多く、反応も単純で、思考力が退廃している。また、最近のマスコミは、政策の掘り下げた分析はあまりせず、汚職問題ばかり報道する」と語りました。そして、この問題の解決のためには、国民も政治家も批判的な思考力を高める必要があるのではないかと提案しました。

加えて、他のフィリピンのパネリストが、SNSは武器のように使われていると指摘がなされ、さらに、フィリピンにおいては、資金力の高い政治家がTVCMを流し、メディア露出度の高い政治家が当選しやすいという現状があると分析し、メディアやインターネットを利用した功罪についても触れられました。

民主主義を確立するときに突き当たる障壁

一方、マレーシアのパネリストは、「国内においては単なるナショナリズムだけではなく、宗教の過激主義が問題になっている」と、宗教に関する問題を紹介。すると、「マレーシアでは、人種と宗教が絡み合って、差別が激化している」と、国内の現状を憂える声が出ました。その原因として、「これまでは、政府が宗教や民族に関する議論を抑えつけてきたが、民主主義や平等を打ち立てたら、議論の基礎がないという問題が生じた。また、政府が主流のメディアを通じて、きちんと政策の説明をしてこなかった」という問題点が挙げられました。その上で、「マレーシア政府は5年後には約束した成果を出さなければならない。少なくともマニフェストの8割は果たせないと国民の支持を失うだろう」と、国民との約束を果たす必要があるという、民主主義国家での政治家の責任が強調されました。

 

続いて、インドネシアのパネリストが、安全保障と表現の自由のどちらを取るかは大きな問題であるとの疑問が提起されました。これについては、各国によってバランスの取り方は違い、欧米の人権団体からやり方を批判されているが、欧米は移民問題もあり二重基準だろうとの指摘がなされ、「各国の状況に合った調整が大事だ」との意見が出されました。また、ナショナリズムとポピュリズムを区別する必要があるとの指摘に対しては、「ポピュリズムを防ぐためには普遍的な価値観を導入するしかないが、今のところそのような価値観がない。ポピュリズムの是正の解決策はまだないが、少なくとも、対話によって解決策を模索しないといけない。国境を超えた課題であれば多くの国が結集する共通の基盤が生まれるので、共通の利害を見出せるかが今後の課題だ」と、国境を超えた対話を形成することの必要性が提示されました。

これにインドネシアのパネリストから賛意が示された上で、「ナショナリズムが国を愛するという意味ならば肯定するべきものだろう。それに対して、ポピュリズムは一時的な押し戻し、エリート層に対する抗議である」と、両者を区別する際の定義を改めることが必要だと提案がなされました。

最後に、代表の工藤が、「今日は、民主主義の構造と新しい変化の問題など、本質的な問題についてかなり議論が深まった。こうした議論が普通にアジアのリーダー間で議論される環境ができればいいと思う」と、今日の議論に満足感を示すとともに、これからの議論のプラットフォーム作りに意欲を見せました。

一方で、イスラム過激派に拘束された日本人ジャーナリストを例に挙げながら、最近国境を超えた課題解決に携わっている人が肩身の狭い思いをする傾向が日本にあるという現状を憂えました。そのような現状の中でも、「民主主義が人々の権利や幸せに貢献していることを証明し続け、市民の支持を得て、競争力を増していくことが必要」であり、そのような大きな流れを作っていきたいとの決意を語りました。そして最後に、「皆さんがアジアの民主主義をけん引してほしい」と集ったアジア各国のリーダーたちに大きな期待を寄せ、非公開会議を締めくくりました。

セッション1「アジアの民主主義は信頼を取り戻せるのか」

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「アジアや日本はどのような民主主義を目指すのか」をテーマに言論NPOによる「第4回アジア言論人会議」は22日、都内のホテルで開催され、日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアからの国会議員などが熱のこもった議論を展開しました。

言論NPOの日本の民主主義に関する世論調査では、3割を超える人が日本の将来を「今よりも悪くなる」と見ており、約6割の人が「政党」、「国会」、「政府」を信頼していないことが明らかになりました。また、強権的な指導者が人気を集めるポピュリズムが広まりつつあり、民主主義自体への懐疑的な見方が高まっている現状を政治の現場にいるパネリストはどう見ているのか、そしてアジアの民主主義が直面する課題を明らかにしようとするものです。

アジアの民主主義の発展で連携を

議論の前に、言論NPO代表の工藤泰志が挨拶に立ちました。「昨日の言論NPO設立17周年記念フォーラムで、私たちは、”民主主義は信頼を回復できるのか”と問題を提起し、世界の有識者と議論を重ねてきた。代表制民主主義が信頼を失い始めているのは、欧米でも共通した現象が見られ、民主主義は民意を代表しているのかと非難され、効率性を欠いている、とも言われている。さらに、スマートメディアの普及で、社会の断層は進んでいる、との声もある」との認識を示したうえで、今回のフォーラムで、アジアの民主主義の未来のために、人権や平等といった価値を守り、社会を発展させるには連携するしていくスタートにしたいと語りました。

次に元国連事務次長の明石康氏が挨拶を行いました。明石氏は、カンボジア内戦を経て、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の国連事務総長特別代表として1993年5月に国民議会選挙を実施し、同国再建の基礎を築いたその人です。明石氏は、「当時、カンボジア人によって国連が去った後に(選挙を)しなければと思っていたのだが、それだと何百年も掛かるかもしれないということで、UNTACが実施した」と当時を振り返りつつ、民主主義の重要性と共に、民主主義の導入の仕方についても、慎重に見極める必要性を強調しました。
そして、アジアと世界の変革が急速に進む中で、テーマを絞った議論、効果の高い議論が必要であり、今回の議論が、アジアの中でもこうした議論がなされるようなスタートになることへの期待を示し、挨拶に代えました。

当初、会議に出席予定だったマレーシアの下院議員、ヌルル・アンワール氏のビデオメッセージでは、「一党支配や権威主義傾向がある中で、アジアの人たちは勤勉であり、よりよい解決策を見出している。創造力のある市民の声を抑えてはいけない。アジアの国々は東からも西からも良いところを学び、多元的な見方ができるのが強みだ。日本からはインスピレーションをもらい、人と人との対話で、より強いアジアができる」と、言論NPOが始めたアジア言論人会議への期待を寄せました。

 

自国の民主主義を問われて ――行き過ぎた雑音が心配とも

第一セッションのテーマは「アジアの民主主義は信頼を取り戻せるのか」です。司会を務めた工藤はまず、日本、フィリピン、マレーシア、インドネシア各国の国会議員らに、「自分の国の民主主義に満足しているか、危機感を持っているか」と単刀直入に尋ねました。

インドネシアの元外相、ウィラユダ氏は、「生き生きとした活力ある民主主義でハッピーだ」と顔を綻ばせました。「32年間続き、発言の自由もなかったスハルト体制から脱却し、1998年に改革を決断。権威主義はもはやなく、人権擁護も改革の柱の一つだ。民主化は短期間で行われ、人口から見れば、インド、米国に次ぐ第三の民主大国ともてはやされた」と語りました。さらに、投票率は70~80%で、5%以上の経済成長率は更に成長が見込まれ、アメリカの投票率が下がっていることもあり、インドに次ぐ第二の民主大国になるかもしれない、と笑顔のウィラユダ氏。「自治権を与えられた地方の活力もある」と余裕を見せるのでした。

同国のワヒド元大統領の次女、イェニ―・ワヒド氏は、「インドネシアの人たちは、最も楽観的な人間」としながらも、「言論の自由が行き過ぎると、安定した権威主義的な時代がよかった、という人もいる」など、新たな民主主義がもたらすノイズが懸念を指摘します。しかし、全体的に見れば、「民主主義は最もいい仕組みで、かつ国内で穏健派が主流になってきたこともあり、イスラムの寛容の精神という価値観を守りつつ、今の軌道を楽観主義で歩んでいけば、将来、実を結ぶことになるだろう」と楽観的な見方を示しました。

強権的人物が選ばれたのは

工藤が次に指名したのは民主主義の中の強権的政治家、ストロングマンがいるフィリピンです。マルコス独裁体制を批判して暗殺されたベニグノ・アキノ氏を叔父に持つ上院議員のバム・アキノ氏は、「民主主義への信頼性は変わらず存在している」と語ります。ただ、民主主義にとって重要であるメディアについては、ソーシャルメディアの発展や、現在の国民の風潮から、既存メディアが国民の望むものを提供できず、メディア自身が危機に陥ってしまった結果、国民が強権的な人物を選んだのかもしれないと指摘。こうした状況を生み出さないためにも、「国民が努力して民主主義を守らなければいけない」と語ります。そして、「これまで公約も実現できていないのが、私たちが学んだ教訓であり、人間の尊厳を真ん中に置いた政権が必要となってくるだろう」と、次を見据えるかのようなアキノ氏でした。

ヴィラリン氏はフィリピンの野党の下院議員で、労働者の権利向上などに力を入れていることで知られています。「フィリピンの民主主義はワナにはまって、ドゥテルテ大統領に利用されているのではないか」と語り、民主主義の制度を使って制度を攻撃しているとの見解を示します。一方で、6.8%の経済成長があり繁栄する中でも、経済格差は拡大中で、大統領はこれに対応できていないと、野党議員らしい視点で語ります。さらに、「マルコス時代は終わり、自由競争の時代になったが、雇用とか正義とか課題はずっと無視されたままだ。金がある者の民主主義で、もっと市民の声を取り戻すべきだ」と、不満を口にするヴィラリン氏です。

マハティール首相は権威主義的?

今年5月の総選挙で下院議員に当選したマレーシアのチェン氏は、市民団体のリーダーとしてクリーンで公平な選挙を求めて活動を続けてきました。それが選挙で実を結んだ形になったチェン氏は、「今度は公約を果たさなければならない。新政権誕生前は、連合政権を作って汚職撲滅などを掲げ、貧困層のため経済を立て直そうと訴えてきたが、なかなか実現は難しそうだ」と、現実の厳しさを話します。

そうした中でも「ゆっくり手をつけながら、少しでも経済を変えていくために予算配分を考えつつ、財政の立て直しが大事だ」と、公約にじっくり取り組んでいく姿勢を示していました。これに補足するように発言したのはマレーシアの政府・政党関係者を手助けしてきたスフィアン氏で、「強権主義的な傾向を持ったマハティール首相が返り咲いたが、権威主義的な文化を改められるか、民主主義下のノイズに、どう対処していくか。時間がかかるかもしれないが、国民に背を向けられないようにしたい」と慎重に語りました。

日本が問われる、民主主義をいかに機能させるか

次は日本の国会議員の番です。まず、国民民主党代表の玉木雄一郎氏。「日本は完全な民主主義国で、それをどう機能させるか、どうアップデートさせるかが問われている」と現状を語ります。その上で、「政治家が誰を代表しているのかが重要で、日本の高齢化が進む中で、次の世代にいかに負担を残さないようにするか。

与野党談合して、現役世代で解決できるよう選挙で訴えていく必要がある」と意気込みを語ります。一方で、国民の代表が集まる国会については、国会での与野党のやり取りが、初めから終わりまでゲームのようなもので国民はシラけており、将来の問題を解決する機能を果たしているとは言えない。国会が機能するために国会をどうように変えていくのかが課題だと指摘しました。

一方、自民党の衆議院議員・小泉進次郎氏。「トランプ大統領のお陰で、民主主義の観点から言えば、今はチャンスだ。アメリカが統率力を失いつつある中で、法の支配や民主主義の価値を図るスタートが今、始まった」と語ります。

そして、「ポスト平成の民主主義をどう語るか。自由民主党というのはいい名前で、自由と民主という言葉は、前向きな響きがあるが、よく考えると個人の自由と多数の民主は、時々、衝突する。衝突を理解しながら、そこをうまく調和させてバランスを取って、国民の声を聞いて反映させる。民主主義とは何か、それを語るチャンスがきたのではないか」と指摘。

選挙制度が中選挙区から小選挙区になったことで、小選挙区では一対一で対決姿勢を見せなければならないが、日本が直面する課題については、「党派を超えた超党派で取り組まなければいけない。その難しさとジレンマを特に感じている」と自分に言い聞かせるような小泉氏でした。

人々の声を”聞く”プロジェクト

パネリスト全員の発言を踏まえて工藤は、「欧州では社会に断層ができて、民意と政党の乖離が出てきているが、政党は民意の代表になっているのか」と、問い掛けました。「私は、”聞く”というプロジェクトを始めた。人々に寄り添い、人々にとって何が重要なのか、一般市民に政党に入ってもらう仕組みを作った。ポピュリストが、人気があるのは、人々の問題を見つけるのがうまいからだ」と、明解に話すのはアキノ氏でした。

これに対しワヒド氏は、アジア特有の視点を持ち出しました。「多くの人は、欧米の民主主義をアジアに適用しようとするが、欧米とアジアでは政治の文化が違う。アジアではむしろ、コンセンサスを調和することで守るメカニズムが存在している。アジア独自の民主主義を形成する必要があり。それを社会に適応させていく必要がある」と語りました。

 

国会改革で与野党は一生、握手できない?

この意見に小泉氏は、「アジアのコンセンサス作りがすごく難しいのは、価値観が多様化しているからだ。一つのグループ内でも多様化していて、身動きできないこともある」と話しました。一方で、「民主的価値が弱体化していくのを目にして、野党がいるのも民主主義だ。野党がいることの価値を、もう一度、語る必要があるのではないか」と語ります。

 さらに、「今の国会の仕組みを続けていくと、与野党のやり取りはずっとショーになっていく。国会改革で何が難しいかというと、与野党が握手できないこと」と指摘。根本的改革を成し遂げるためには、成功体験を作ることで、山の頂に上るには、まず一歩を進めなければいけない、と与野党が課題解決に向けて協力する必要性を説きます。 こうした小泉氏の見解に対して、共に国会改革に力を入れている玉木氏は、「ペーパーレス化、一つできなかったら先に進めない。時々、政権交代できること、それが実のある改革につながる」と指摘。その上で、「まず野党の私たちが力をつけなければいけない。今後の党運営では、国民の声を聞くメカニズムが大切で、多様な民意をくみ上げる仕組みの再構築の能力が問われる」と話すのでした。

 

最後に工藤から、日本が直面する課題を解決していく中で、政治や政党の役割はどうなっていくのか、と投げかけれた小泉氏は、有権者と話をする中で、「きっと政治は何とかしてくれる」と思って、政治を頼ってくれる有権者が大勢いることを紹介。

その上で、「政治が国民を信じなければ、国民は政治を信じない。さらに、メディアを含めたいわゆる政治コミュニティが変わっていくことが大切ではないか」と語り、政治コミュニティの住人一人ひとりが、もう一度、民主主義や政治を考えていく必要性を指摘しました。

こうした議論を受けて工藤は、民主主義を考えていく上で、我々、有権者自身が問われている局面であるということを実感したと同時に、世界で始まっている民主主義を考えるという舞台を、きちんと日本にもつくっていく必要性を感じた。そのために、言論NPOは汗をかいてきたいと思う、と決意を表明し、第一セッションを締めくくりました。

セッション2 「アジアの民主主義の目指すべき姿とは」

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続く第2セッションでは、「アジアの民主主義の目指すべき姿とは」をテーマに議論を行いました。

この第2セッションでは、アジア各国のパネリストは第1セッションから引き続きの参加となり、日本からは小泉、玉木両議員に代わり、近藤誠一氏(近藤・文化外交研究所代表、元文化庁長官)と本名純氏(立命館大学国際関係学部教授)が新たに議論に加わりました。

第1セッションの議論で浮き彫りとなった民主主義の危機的状況を踏まえ、工藤は「民主主義の未来を守るため、我々民主主義国家は何をすべきか。そして、どのように連携すべきか」と各氏に問いかけました。

今こそ民主主義の優位性を証明する必要がある

ウィラユダ氏はまず、「非民主的な中国の国家運営が人々の生活水準を一気に引き上げたため、これを手本とする国が出始めている」とし、現在の民主主義国家は中国を中心とした権威主義国家との競争に直面していると指摘。そうした状況の中では、民主主義の高尚な理念をひたすら説いたところで逆に反発を生むだけであるため、「権威主義よりも民主主義の方が人々の生活をより良くすることができる」ということを証明することが大事だと主張しました。

各国の連携のあり方についても、民主主義に基づく生活改善の成功例・失敗例を共有すべきであるとし、自身が2008年に立ち上げた「バリ民主主義フォーラム」もそうした場になっていると説明。さらに、この「アジア言論人会議」も、各国が経験を持ち寄る場として最適であると高く評価しました。

その上でウィラユダ氏は、「バリ民主主義フォーラム」が「アジアにおける民主主義の普及」を目的として掲げていたにもかかわらず、むしろアジアの民主化が後退している現状を踏まえ、「民主主義は一歩進んで二歩下がるもの。大事なのは常に地域共通のアジェンダとし、連携を深め続けていくことだ」と現状を嘆かずに粘り強く取り組んでいくことの重要性を説きました。

 

「アジア型民主主義」に向けた連携を

アキノ氏はまず、民主主義を「振り子のように揺れ動くもの」と表現。政府に権限を集中しすぎたために汚職が頻発し、その対策として三権分立を進めたフィリピンの経験を振り返りつつ、このように「揺れ動く中で改善し続けるしかない」と語りました。

一方、自国の強権的なロドリゴ・ドゥテルテ大統領への向き合い方に関しては、政治家任せではなく国民各自が「自分がガバナンスの中心にいる」という自覚が必要であるとすると同時に、各国のネットワークを強め、その助けによって民主主義の基盤を固める必要があるとし、連携の必要性を強調しました。

もっとも、ここでいう民主主義とは欧米のモデルそのものではなく、「アジアに合うようにカスタマイズすべき」とも主張。例えば、欧米の裁判では弁護士の果たす役割は大きいが、フィリピンの貧困層ではなかなか弁護士に依頼できない現状を挙げ、基本的な枠組みは残しつつも、「民主主義にアジア独自の修正を加えるべき」との見解を述べ、そのためにもやはり各国の連携が必要と語りました。

 

求められるのは尊厳ある政治

これを受けて本名氏も、欧米型民主主義の限界が見える中、アジアの新しい民主主義モデルが登場し、「民主主義のサバイバルが始まる」と予測。ただ、そうした中でも不可欠なのは「dignity(尊厳)ある政治」や「寛容」であるとし、これをメインストリームとしていくためのネットワークをアジアで張りめぐらせる必要があると強調。それができなければ、ポピュリズムの言説に既存の政治が抵抗できず、やがて個人、とりわけマイノリティの尊厳が侵される悲劇を引き起こすと警鐘を鳴らしました。

その上で本名氏は、今回の「アジア言論人会議」に参加した日本・インドネシア・マレーシア・フィリピンの4カ国がいずれも島国ないし半島国家であり、アジア大陸、とりわけ中国との地理的距離感があることに着目。こうした共通の状況を有する4カ国が独自のネットワークを形成することの意義を提示しました。

ヴィラリン氏も、世界各地で人々の不安につけ込み、憎悪をかき立てるような政治が横行する状況の中では、人々の本当のニーズにきちんと共感した、尊厳ある政治が求められていると主張。

一方で、権威主義の特徴として男尊女卑が著しいことなど個人の尊厳を軽視することを指摘。その上で、今月のアメリカ中間選挙では女性当選者が過去最多となったり、全米初のLGBT(性的少数者)の州知事が誕生したことなどから、「人間の尊厳を侵す政治に対する反発は必ず起こる」とし、ここに民主主義の逆襲の目はあるとの認識を示しました。

そして、アジアではすでに各国議員で構成される人権擁護に関するネットワークがあることを紹介。こうしたネットワークを市民社会レベルでも構築していくべきと語りました。

 

「相互尊重」と「寛容」をいかに守るか

スフィアン氏は、マレー系、中華系、インド系などから構成される典型的な多民族国家であるマレーシアの経験を踏まえ、「相互尊重」と「寛容」を民主主義における重要理念として提示。そして、こうした価値を破壊しようとするポピュリストの言説にいかに対抗していくかが今後重要な課題となると語りつつ、そのためには法の支配を徹底することや、単なる多数派支配ではなく、少数派にも配慮した立憲民主主義の原点に立ち返ることの必要性を指摘。これは各国共通の課題である以上、やはり連携は不可欠であると述べました。

SNSに起因するリスクにどう対応すべきか

ワヒド氏は、「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)大国」であるインドネシアの視点から問題提起。SNSは閉じられた世界の中で、「自分の見たいものしか見ない」傾向を助長すると解説しつつ、それは政治的な意見に対しても同様であると指摘。自分とは異なる意見、特に対立する政党の意見に対しては目を向けようとしなくなるため、これが社会の分断や非寛容を生む要因になっていると分析。こうした問題は今後ますます民主主義にとって大きなリスクになっていくと予測しつつ、各国共通の課題であると語りました。

日本が果たすべき役割

次に工藤は、民主主義を守るため、日本は何をすべきか、アジア各国は日本にどのような期待をしているのかを尋ねました。

近藤氏はまず、民主主義を車、国民を運転手に喩え、「国民が適切に民主主義を運転できなければ事故を起こしてしまう」とし、国民の意識改革や教育の重要性について論究。その上で、日本の民主主義の状況について、欧米のような深刻な危機には至っていないとの認識を示しつつ、アキノ氏が言うところの「振り子」が振れすぎないように専心する必要があると指摘。民主主義の高尚な理念を上から目線で説くことよりも、安定的に民主主義を「運転」している姿を、アジアの若い民主主義国家に見せていくことこそが日本の役割であると語りました。

ワヒド氏は、混乱の最中にある国にとっては手本となる国が必要であり、アジア各国にとってはそれがまさに日本であるとし、ウィラユダ氏もこれまでアジア各国の民主主義国家は連携に消極的であったが、現下の危機にあたっては「民主主義のベテラン」である日本の果たす役割は大きいと期待を寄せました。

スフィアン氏は、海上安全保障や気候変動など、日本がすでに様々な分野で進めている「能力構築支援(キャパシティ・ビルディング)」に言及し、これを民主主義分野でも進めていくことに期待を寄せました。すでに欧米の財団などから様々な支援はあると紹介しつつも、「欧米のアドバイスよりは、同じアジアの国である日本のアドバイスの方が受け入れやすい」とアジアという枠内での協力関係構築の意義を強調しました。

議論を受けて最後に工藤は、「民主主義の価値を守るためこれからも汗をかいていきたい」と今後に向けた抱負を述べつつ、前日の「言論NPO設立17周年記念フォーラム」と合わせて2日間にわたる民主主義対話を締めくくりました。

2018年11月23日

・将来への不安・民主主義は機能しているか・改革の方向は-言論NPO世論調査結果

 2018年11月21日、設立17周年を迎えた特定非営利活動法人・ 言論NPOは、2018年9月に実施した日本や世界の民主主義に関する世論調査結果と、先日実施しました有識者調査の結果も併せて公開いたしました。
今回の調査結果から、日本の社会では民主主義自体に根強い信頼があることが明らかになる一方で、代議制民主主義にとって必要な「国会」や「政党」、「メディア」への信頼が低下していることが明らかになりました。

 調査結果の詳細は以下の通り。

1.日本の将来をどのように見ているか

まず、日本の近い将来を予測してもらったところ、「今と変わらない」(34.2%)との回答が最多となるが、「今よりも悪くなる」との回答も32.8%にのぼり、両方の回答が3割を超えて拮抗している。「今よりもよくなる」は10.3%と1割にすぎない。

一方、有識者では、「今よりも悪くなる」との回答が45.3%で最多となり、「今と変わらない」(34.9%)で続いている。「今よりよくなる」は14.0%にとどまっている。

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2.不安の要因

次に、11の課題を提示した上で、どれに対して不安を感じているかを回答してもらった。

その結果、「不安(「とても」と「ある程度」の合計、以後同様)」という回答が最も多かったのは、「年金・医療などの社会保障」の91.6%だった。これに「急速な高齢化と人口減少」の89.5%が並びかけている。以下、「犯罪」(81%)、「財政破綻」(73.1%)、「政治のあり方」(72.9%)、「経済危機」(72.4%)、「経済的不平等」(71.1%)までが7割を超えている。「不安」という回答が最も少なかったのは、「メディア報道の質」だったが、それでも54%と半数を超えている。

有識者の中では、「急速な高齢化と人口減少」との回答が91.9%で最多となったものの、「地方の将来」との回答が91.3%と拮抗している。これに「年金・医療などの社会保険」(88.9%)、「政治のあり方」(88.3%)が続いている。

一方、世論調査で「不安」が最も少なかった「メディア報道の質」との回答は、有識者では84.3%となっており、異なる傾向が出ている。

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3.自国の民主主義は機能しているか

日本の民主主義が「機能している(「どちらかといえば」を含む、以後同様)」と考えている日本国民は、59.9%と6割近い。今年の5月から6月に行われた調査では、「機能している」は43.2%だったが、約3カ月で17ポイント増加したことになる。

有識者調査では、日本の民主主義が機能しているのか、その満足度について尋ねたところ、「満足していない(「あまり」「全く」の合計)」との回答が54.7%と5割を超えた一方、「満足している(「ある程度」を含む)」との回答は42.5%にとどまった。

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4.民主主義体制を支えるどの機関を信頼しているのか

民主主義体制下においては、それを支える役割を果たす様々な機関や組織が存在する。そこで、その中でどのような機関、組織を信頼しているのかを質問した。

その結果、日本国民が最も「信頼している(「とても」と「ある程度」の合計、以後同様)」機関は、「自衛隊」であり、83.9%の人が信頼を寄せている。5~6月調査の72.8%からも11ポイント増加している。これに「警察」(73.2%、5~6月:67.1%)、「司法・裁判所」(71.1%、5~6月:65.7%)が続く構図はこれまでの調査と同様である。

逆に、日本国民が最も「信頼していない(「全く」と「あまり」の合計)」機関は、「宗教団体・組織」(70.6%、5~6月:66.9%)である。これに「政党」(66.3%、5~6月:71.2%)、「国会」(61.9%、5~6月:67.4%)、「政府」(56.8%、5~6月:61.2%)、「メディア」(53.3%、5~6月:55.5%)、「首相」(52.5%、5~6月:57.4%)までが5割を超えている。

有識者調査も世論調査と同様に、「信頼している」との回答が最も高いのは、「自衛隊」(73.2%)で、「警察」(69.2%)、「司法・裁判所」(68.0%)が続いている。
逆に、最も「信頼していない」機関は「宗教団体・組織」(77.3%)で、「政党」(71.5%)、「国会」(69.2%)、「労働組合」(65.7%)、「メディア」(62.8%)までが6割を超えている。

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5.政党に課題解決を期待できるか

9月調査ではこれに関する設問を盛り込んでいないため、5~6月調査の結果を再掲する。日本が直面している課題の解決を、政党に「期待できない(「どちらかといえば」を含む、以後同様)」という日本人は59%(昨年58.7%)と6割近く存在している。有識者調査でも「期待できない」(65.1%)との回答が6割を超えた。

「期待できる(「どちらかといえば」を含む)」は18.1%にすぎず、しかも昨年の22.5%から減少している。一方、有識者の3割を超える人が「期待できる」(33.0%)と回答しており、世論調査よりも割合としては高い。

それでは、なぜ「期待できない」のか、その理由を尋ねたところ、「選挙に勝つことが自己目的化し、政治家が課題解決に真剣に向かい合っていない」(38%)と、「政党が政策を軸にして集まっておらず、選挙に勝つための野合に過ぎない」(37.1%)の2つが並んでおり、当選すること自体を目的化している政党と政治家の姿勢に対して厳しい目が向けられている。また、「政党の選挙公約が形骸化し、国民に向かい合う政治が実現していない」も30.8%と3割を超えている。

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6.民主主義を発展させるために重要視すべき価値

日本の民主主義を発展させるために最も重要視すべき価値を3つ選択してもらったところ、最も回答が多かったのは、「基本的人権の保障」(34.9%)である。これに「公正・公平な社会・政治制度」(33.4%)、「経済発展、経済的豊かさ」(30.3%)、「社会、秩序の安定」(29.9%)、「経済的平等」(27.2%)が3割前後で続いている。

なお昨年調査では、「民主主義を構成する要素で何が最も重要か」という設問において、単数回答で選択してもらったところ、「公正・公平な社会・政治制度」(19.8%)、「基本的人権の保障」(17.1%)の順であった。

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7.民主主義を機能させるために、改革が必要な部分

次に、日本の民主主義をより機能させるために、どの部分の改革や立て直しが必要となるのかを尋ねた。その結果、「議会/国会」が63.3%で最も多く、これが突出している。次いで、「行政」(41.3%)、「政党」(32%)、の順となっている。

これに対して、有識者の最も多くの人が「議会/国会」(59.9%)の改革や立て直しが必要だと回答しているのは世論調査と同じだが、これに続くのが「政党」(54.7%)、「メディア」(51.7%)で5割を越え、「選挙制度」(42.4%)、「市民社会」(40.7%)が4割を超えるなど、世論調査に比べて、分散傾向にある。

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8.自由・平等か、国や社会の安定か

民主主義の価値は、個人の自由と政治的平等が保障されることである。一方で、自由や政治的平等よりも国や社会の安定を重視する声もある。そこで、今回の調査ではどちらを重視するかを尋ねた。 その結果、「国や社会の安定」が42%で、「個人の自由と政治的平等」(31.4%)を上回っている。

一方、有識者では「国や社会の安定」は29.7%にとどまり、「個人の自由と政治的平等」(63.4%)との回答が6割を超え、世論調査とは異なる傾向を見せている。

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9.世界の民主主義の状況をどう見ているか

現在の世界の民主主義の状況をどのように見ているか尋ねたところ、「民主主義における問題は頻出しているが民主主義の価値自体が否定されたわけではない」との見方が30.5%(5~6月:33.2%)で最も多い。これと「一部の国・地域を除いて、世界の民主主義は盤石である」の7.9%(5~6月:10.1%)を合計すると4割近くが楽観的に見ていることになる。有識者調査でも最多の回答は「民主主義における問題は頻出しているが民主主義の価値自体が否定されたわけではない」となったが、その割合は51.2%と半数を超えた。

これに対して悲観的な見方は、「ポピュリズムの傾向や権威主義が台頭し、民主主義は明らかに後退局面を迎えている」(7.2%、5~6月:6%)、「民主主義は多くの国で十分に機能しておらず、民主主義に懐疑的な見方が高まっている」(15.1%、5~6月:10.2%)の2つを合計しても22.3%と2割程度である。ただ、その割合は3カ月前から増加している。さらに、「わからない」という人も39.2%(5~6月:39.8%)存在している。

一方、有識者では、30.8%が「ポピュリズムの傾向や権威主義が台頭し、民主主義は明らかに後退局面を迎えている」と回答し、「民主主義は多くの国で十分に機能しておらず、民主主義に懐疑的な見方が高まっている」(14.0%)を加えると、悲観的な意見も4割を超えている。

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10.民主主義の今後

民主主義の今後について予測してもらったところ、「わからない」と判断しかねている人が39.2%(5~6月:34.7%)おり、これが最も多い。

ただ、「民主主義は様々な問題に直面しているが、人権や政治的な平等など民主主義を支える中心的な価値自体を否定する大きな流れにはならない」も39%(5~6月:35.9%)と4割近く、これと「民主主義に代わる仕組みはなく、民主主義は今後も世界の中心的な制度として機能する」という見方の13.8%(5~6月:17.7%)を合計すると、民主主義という政治システムが今後も存在し続けると考えている人は52.8%と半数を超える。

これに対し、「ポピュリズムが一般化し、民主主義は信頼を失い、後退していく」(3.1%、5~6月:3.1%)、「民主主義はすでに魅力的な仕組みではなく、権威主義の台頭など民主主義とは異なる統治制度が増える」(4%、5~6月:2.6%)という民主主義の衰退・滅亡を予測する見方はそれぞれ1割に満たない。

有識者では、「民主主義は様々な問題に直面しているが、人権や政治的な平等など民主主義を支える中心的な価値自体を否定する大きな流れにはならない」(55.8%)との回答が半数を越え、「民主主義に代わる仕組みはなく、民主主義は今後も世界の中心的な制度として機能する」(15.1%)が続いている。

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11.民主主義は好ましい政治形態なのか

民主主義は好ましい政治形態といえるのか、その評価を尋ねたところ、「民主主義は望ましい政治形態ではない」という回答は3.7%にすぎなかった。

ただ、「国民が満足する統治のあり方こそが重要であり、民主主義かどうかはどうでもいい」が32.2%で、「民主主義はほかのどんな政治形態より好ましい」の32%を上回っている。さらに、「わからない」の31.8%も合わせると、非民主的体制を容認したり、民主主義に対して確信を持つことができていない人の割合は6割を超えることになる。

有識者調査では、「民主主義はほかのどんな政治形態より好ましい」との回答が7割を超え突出しており、「民主主義は望ましい政治形態ではない」との回答は0.6%にすぎない。

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12.強い政治リーダーは必要か

現在、国際秩序の不安定化の中で、強い政治リーダーを国民が求める傾向にある。そこで、日本の政治指導者のリーダーシップのあり方について質問した。

その結果、「あくまでも民主的なプロセスを重視し、その中でリーダーシップを発揮すべき」という回答が46%で最も多いが、昨年の56.1%からは10ポイント減少している。逆に、昨年から10ポイント増加したのは「わからない」(29.2%、昨年:19.6%)で、政治リーダーのあり方を判断できていない日本国民が増加している。

もっとも、「自国の経済や社会がより発展するのであれば、多少非民主的でも強いリーダーシップを持っても構わない」という回答は20.4%であり、昨年(21%)から変化は見られない。

一方、有識者の7割を超える人が「あくまでも民主的なプロセスを重視し、その中でリーダーシップを発揮すべき」(72.1%)との回答が突出しており、「自国の経済や社会がより発展するのであれば、多少非民主的でも強いリーダーシップを持っても構わない」(15.7%)、「強いリーダーシップこそが重要であり、民主的であるかどうかは重要ではない」(1.2%)は合わせても2割に満たない。

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13.アジアの民主主義国家はどこか

最後に、アジアの中で民主主義国家だと思う国を選択してもらった。

その結果、最も多いのは自国「日本」の64.3%で、これが突出している。ただ、これに次ぐのは、事実上一党独裁体制を敷き、建国の指導者一族が支配し、報道・言論の自由などが広範に制限されている「シンガポール」の21.4%であり、「韓国」(19.6%)よりも多かった。

有識者も最多となったのは「日本」で82.6%で8割を超えた。これに続く形で、「韓国」(48.3%)、「マレーシア」(47.7%)、「インド」(46.5%)が4割を越え、「シンガポール」(37.2%)、「フィリピン」(36.6%)、「インドネシア」(34.3%)が3割を超えて続いている。

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調査の概要

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2018年11月21日

・2018年聖書週間(11月18日から25日まで)のテーマは「聖性への招き」

 今年の聖書週間は11月18日から25日まで。テーマは「聖性への招き」です。

 ⇒をクリックしていただくと、教皇フランシスコが今春発表された、すべての信徒への聖性の招きに関する以下の使徒的勧告全文などをお読みになれます。もちろん無料です。ご参考になさってください。(「カトリック・あい)

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」(喜びなさい、大いに喜びなさい)⇒発表

*使徒的勧告「GAUDETE ET EXSULTATE」全文日本語試訳⇒全文

・(解説)使徒的勧告の5つの要点(America-The Jesuit Review)⇒特集・解説

・(解説)教皇は「今の時が求める『新たな聖性』」を全信徒に求めている(Tablet)⇒特集

・(解説)「聖性は、過ちと失敗の中で必死に前に進む人の中に」(La Civilita Cattolica)⇒特集

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◎カトリック中央協議会「聖書に親しむ」

*巻頭言「聖性への小さな一歩」(カトリック大阪大司教区補佐司教・パウロ酒井俊弘)

 あるときシスターに「プロ野球選手の名前を知っていますか?」と尋ねたら、「イチローと大谷選手ぐらいは知っています」という答えが返ってきました。ニュースに登場するほどの選手なら当然知っているわけです。

 大谷選手のすごさは、投手と野手の二刀流で、ベーブルースを超えようかという結果を残しているところにあり、特別な選手といえます。

 ところで、「聖性を目指す」という目標は、特別な人たちだけのためではありません。

 「『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい』(マタイ 5・48)…信者は、おのおのがキリストから受けたたまものに応じてこの完徳を獲得するように努力し、キリストの足跡に従い、その姿に似たものとなり、万事において父のみ心を行いながら、神の栄光と隣人への奉仕に全精力を注がなければならない」(『教会憲章』40)。

 「完全」と聞くと「自分には無理…」と考えるのは当然ですが、請われているのは「努力し…全精力を注ぐ」ことです。高い目標を持つということは、「夢を持つ」ことです。大谷選手は、「投手と野手の両方をする」という夢を持って日々の努力を続けたからこそ、今のような選手になったのです。

 今年 4 月に教皇フランシスコが発表された現代における聖性をテーマにした使徒的勧告『喜びに喜べ-現代世界における聖性』には、私たちがどのように聖性への道を歩むべきかが、具体的に示されています。

 「主があなたを招かれているこの聖性は、小さな行動を通して成長します。たとえば ある女性が買い物中に近所の人と会い話出して、陰口になったとします。でもその人は心の中で言います。『いけない。人のことを悪くいわないようにしないと』。これが聖性の一歩です。今度は家で子どもが、空想の話を聞いてほしがると、とても疲れてはいたものの、傍らに座ってじっと優しく話を聞いてあげます。これもまた聖性をもたらすもう一つのものです。

 そして不安に押しつぶされそうなとき、おとめマリアの愛を思ってロザリオを手に取り、信頼を込めて祈ります。これもまた聖性のもう一つの道です。そして今度は通りに出て、貧しい人に気づくと、立ち止まって優しく話をする。これもまた別の一歩です」(同勧告 16)

 教皇フランシスコは、イエス様自身の模範も示してくださっています。「小さなことにも心を配るようにと、イエスが弟子たちにどれほど促したかを覚えておきましょう。…明け方、弟子を待ちながら炭火を起こし、その上に魚を載せておくという、些細なこと」(同 144)。

 これは、ヨハネ福音書に書かれている復活後のご出現の場面です。何度も読んだ箇所ですが、「そうか、あの炭火と焼いた魚はイエス様が手ずから弟子たちのために用意されたものなのだ」と初めて気づかされました。

 聖書の中のイエス様のようになることが私たちの夢です。その夢の実現のために、聖書を読み、何ができるのかを黙想し、示されたことを実行に移しましょう。それこそが聖性への一歩だと信じて。

*「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(マリア会司祭・青木勲)

 今年のテーマ「聖性への招き」に合わせて選ばれた聖書の箇所は、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ 4・4)です。現代社会に励ましと預言者的回心を呼びかける素晴らしい言葉です。

 励ましという意味は、今日の世相には政治・経済・国際関係、ひいては自然環境に至るまで不平不満をもらしたくなるような要素が多いからです。他方、預言者的回心への呼びかけは「主において」という言葉が持つ特異性にあります。

 それは世がもたらす喜びや幸せに迎合せず、真実と正義に基づく預言者的挑戦と、そこから生じる霊的喜びに根ざしているからです。神の似姿として創られた人間に託された聖性への招きは、すべての値打ちをキリストのうちに復元する「主における喜び」のメッセージだといえるでしょう。

 獄中書簡と呼ばれるフィリピ書は「喜びの書簡」とも呼ばれます。晩年のパウロは、信仰の遍歴を経て到達した霊的喜びの体験をフィリピの共同体と信徒に伝達しようとしています。イエスが世の罪を贖う「救い主」であり、復活したイエスこそがすべての人の「キリスト・主」(2・11)であると明示します。

 キリストのへりくだりの賛歌(2・6 〜 9)と主を知る知識と、その価値の故に「わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしている」(3・8)と言い、朽ちるものから朽ちないものへと昇華した喜びを聖霊の業として示しています。4 章では、差し迫るキリストの再臨と自らの復活を願う信仰の喜びと希望のうちに、毎日を生き抜くことを諭しています。「主」が頭となる時、すべてが一新され、主における喜びが完成するからです。

 「主において喜びなさい」について、ローマ書からも預言者的な示唆を受けることができます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません・・・」(ローマ 12・2)と。経験から推察して、物を所有したり、勝負に勝ったり、立身出世することに幸せを感じます。しかし「〜を持つ」「〜に勝つ」「〜になる」喜びを過大評価すると、他人を「物」に還元し、犯罪行為または反社会的行為に向かわせることになります。

 残念なことに、大企業や有名大学までがその渦中にあります。この世の価値観を絶対視する誘惑の結果です。

 神のみ旨の実現を第一義とする預言者的生き方、つまり世にあって、世のものではない生き方は、特別な人だけの特典なのでしょうか。教皇フランシスコは、聖性に向かう霊的回心は、すべての人に例外なく与えられていると強調しています。その理由は、神の似姿として創造された人間には存在の最初の瞬間から、神の聖性と神の生命の充満による喜びを享受するよう方向付けられているからです。人祖が罪を犯した結果、識別する能力は弱められましたが、神はご自分の愛の証しとして、独り子イエスを世に派遣し、十字架の死と復活を通して決定的な救済策を与えてくださいました。

 パウロは復活したキリストと出会うことによって目が開かれ、自己中心的な生き方から、キリストために生命を捧げるまでの回心の恵みを受けました。「主キリス・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ 8・39)という信仰の喜びをパウロは披歴しています。これはパウロの慢心から出た言葉ではなく、すべて人を招くs信仰告白です。

 聖母マリアも神の前に小さな者であることを自覚しつつ、飢えている人、弱い人への優しさと気配りに徹しました。他方、傲りと権力志向者に向かっては、たくましい預言者の姿でマニフィカトの賛歌において警告しています。聖母マリアは正義と平和と喜びの国のために挺身する人々と共にいつもおられるのです。
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

*みことばを深めるーみことばによって聖なる人に変えられる(大分教区司祭・ 山下敦)

 さまざまな場所で聖書について話す機会をいただきますが、聖書に初めて触れられた方々の感想をよく伺います。「聖書は難しい」という意見はいつもあるものの、「面白い」、「興味をひかれた」などの好印象を持たれる人の方が多いようです。

 聖書は、キリスト教の信仰を持たない人にも、実に多様な形、方法で強い影響を与えています。毎年、世界で一番売れている本は聖書です。まさに、聖書が神のみことばだということでしょう。

 どのように聖書を読めばいいのか、その学び方や研究方法は、聖書が旧約 46 書、新約 27 書を数える膨大なものであるがゆえ、さまざまです。聖書を読みたいと思ってはいても、それに困難さを感じている人や、アプローチの仕方で迷っている方々のために、以下を提案したいと思います。

 聖書全体の通読、つまり、旧約聖書の最初のページから読み進めていくことは、大きな意味があり、とてもよいことだと思いますが、難解な場所にくると続かなくなってしまうものです。事実、特に旧約には難しい部分があります。ですから、好きな場所から読み始めていくのは実践的方法の一つです。

 また、その重要性からいっても、福音書から読み始めるのが、聖書に少しでも触れようと思っている人がなさったらよいことだと思います。一般的に旧約よりもわかりやすい新約の通読を、一度だけではなく、最後までたどり着いたらまた最初からやり直し、数回繰り返せば、新約聖書の全体像がつかめてきます。好きな言葉や疑問点などが明確になってきたところで、聖書解釈には絶対的に必要な旧約の方に入っていくとか、または、講座や研究会などに出席することも、この頃には大きな可能性の一つになっているはずです。

 当たり前のことですが、とにかく読むということが大事です。聖書が本棚の飾り物になってしまわないように。

 教皇フランシスコは新しい使徒的勧告において、すべての人を聖性に招いておられます。「多くの優れた救いの手段に恵まれているすべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、各自自分の道において、父自身が完全にもっている聖性に達するよう主から招かれている」(『喜びに喜べー現代世界における聖性』10、第二バチカン公会議『教会憲章』11 引用)のです。

 すべての人に影響を与えることのできる聖書は、そのための絶対的手段の一つです。わたしたち人間にとって真の喜びは、お金や物、または夢や理想の実現によって得られるのではなく、神が望まれる聖なる人になることによって完成されていきます。わたしたちがみな、みことばによって神の聖なる人に変えられていきますように。

2018年11月11日