(解説)教皇庁改革、枢機卿の新任、問題国への司牧訪問-2020年は教皇在位中の最重要年に(LaCroix)

 バチカン改革、新任の枢機卿たち、そして予想外の地への司牧訪問が今年の教皇を形作ることに

(2020.1. LaCroix Robert Mickens, Rome Vatican City)

(Photo: Evandro Inetti/ZUMA Wire/MaxPPP)

*2020年を展望する

 教皇フランシスコの回顧が書かれる時が来たら、西暦2020年が在位中の最も重要な年として記録される可能性が十分にある。それが彼にとって最後の重要な年となるかどうか疑問を持つ者もいるだろうが。

 教皇は先に、15年にわたって主席枢機卿のポストに就き続けたイタリア人有力者アンジェロ・ソダノ師を同ポストから「引退」させ、フィリピンのルイス・アントニオ・タグレ枢機卿を最も強力なバチカンの役所である福音宣教省の長官に任命した。この二つの決定は、自身の後継者を選ぶ教皇選挙のに着手したもの、と関係者の間で理解されている。

 先に83歳となったイエズス会出身の教皇は2020年に、2つの主要な文準備書を含むいくつかの文書を公布する発行する予定だ。また、世界各地への司牧訪問を続け、おそらく前任者が訪問を希望しながら入国を拒まれた地域にも赴くことになろう。

 そして、先日の任命に続く、次の教皇候補となる新枢機卿たちを任命するのは、間違いない。

 このような内容を頭に入れて新しい年を展望すれば、それが極めて重要な年になることが分かるだろう。

*近く発表予定の二つの重要文書は

 教皇は2020年の初めの何週間かの間に、少なくとも2つの非常に重要な文書を公表することになるだろう。

 まず、昨年10月のアマゾン地域シノドス(代表司教会議)を受けた使徒的勧告。この会議で参加者たちが提案した司牧慣行の変更のいくつかについては、それを支持する(勧告に載せる)ことを教皇は示唆している。

 変更の一つは、既に終身助祭となっている既婚男性の司祭叙階、もう一つは、女性の助祭や司牧上の役割について可能性を検討する委員会の設置。そして、三つ目に、アマゾン地域の先住民特有の文化的要素を取り入れた新しい典礼の検討だ。こうした使徒的勧告の内容は、司牧に関係する他の改革の道を開くことになる可能性があり、その重要性を過小評価すべきではない。

 以前述べたように、バチカンでアマゾン地域シノドスは、第二バチカン公会議(1962〜65年)の教えと理想の完全な実現への障害であり続ける”トリエント公会議(特に聖職者主義)の残滓”から抜け出すのに苦労している中で、真にグローバルな教会の勃興の転機となった。観測筋は、この使徒的勧告は1月中旬から下旬に公表される可能性がある、とみている。

Praedicate Evangelium(福音宣教の基礎)ー教皇庁改革-の発出

 公表が見込まれる二つ目の重要文書は、教皇庁の改革や教会における信徒の役割強化などをテーマとする使徒憲章「Praedicate Evangelium」だ。最終草案は現在、司教協議会など教会指導者、神学者たちから出された提案をもとに取りまとめ中だが、教皇の枢機卿顧問会議がバチカンの幹部と協議してまとめた内容以外も含まれる可能性がある。

 教皇庁の改革が教皇フランシスコにとっての主要課題の一つだということは、衆目の一致するところだ。これまで教皇はゆっくりと忍耐強く改革の手順を踏んできた。そして、クリスマスの直前の重要な演説で、バチカンの幹部たちに次のように言明した。

 「(教皇ヨハネ・パウロ2世の)使徒憲章depositum fideiと教会の伝統を踏まえた変更を議論する中で、今日、私は教皇庁の改革の実施についてもう一度、皆さんにお話しし、この改革が、あたかもそれに勝るものはないかのように差し出がましく行われるものでないことを確認したいと思います」。 

 「実際、教皇庁の複雑な経歴に由来する優れた点をさらに良いものにする努力がされました… 堅固なルーツをもち、実りを証明できる未来を築くためには、歴史に敬意を払う必要があります」。

 「記憶に訴えることは、自己保存にとどまること同義ではなく、進行中のプロセスの生気と活力を呼び起こすことです… 記憶は静的ではなく、動的です。その性質から、動きを意味します」。

 「伝統も静的ではありません。偉大な人物、グスタフ・マーラー(19世紀から20世紀初頭にかけ、主にオーストリアウィーンで活躍した作曲家指揮者交響曲歌曲の大家)-ジャン・レオン・ジョレス(19世紀から20世紀初頭フランス社会主義者政治家修正主義を主張し、教条主義派とは対立。圧倒的な大衆の人気を誇る雄弁家として知られ、第一次世界大戦に反対したが、狂信的な国家主義者に暗殺された)が使った暗喩を取り入れたーが、よく言っていたように、伝統は未来の保証であり、”灰落とし”ではないのです」。

 バチカンウォッチャーの中には、使徒憲章「Praedicate Evangelium」が2月22日の聖ペトロの使徒座の祝日に公表されるとの見方もあが、いつ公表されようと、教皇庁のこの新しい”憲法”は、これまでで最も重要な統治に関する法となるだろう。

 

*教皇庁と世界の教会に新たな指導者を任命

 この使徒憲章は、最終的には、教皇庁の日常業務に関する新しい法規と合わせて公表されることになる。そして、最も顕著なのは、それが、指導権の大規模かつ広範な変革によって特徴付けられることだろう。

 現在、教皇庁の主要部署を率いる枢機卿のうち9人は、すでに75歳の通常の定年を超えており、現行ポストに就いて5年を経過した枢機卿の10人に1人は今年7月に定年を迎える。彼らは、使徒憲章が出てほどなく交替させられるだろう。

 退任が見込まれる枢機卿たちは-マルク・ウエレット(司教省長官)、ジュゼッペ・ベルサルディ(教育省長官)、ベニアミノ・ステラ(聖職者省長官)、ルイス・ラダリア(教理省長官)、レオナルド・サンドリ(東方教会省長官)、マウロ・ピアチェンツィア(内赦院長)、ジャンフランコ・ララバージ(文化評議会議長)、アンジェロ・コマストリ(聖ペトロ大聖堂司教)、ジュゼッペ・ベルトロ(バチカン市国知事)、ロバート・サラ(典礼秘跡省長官)だ。

 教皇はまた、世界の主要な教区のいくつかで新たな教区長を任命する。例えば、マニラ(フィリピン)、アトランタ(アメリカ)、カラカス(ベネズエラ)の大司教は現在空席であり、埋める必要がある。

 そして、他の重要な役職を務め、すでに定年を過ぎている人々-うち18人は枢機卿ーの後任。また数週間後には、ウィーン大司教のクリストフ・シェーンボルン枢機卿に始まり、今年中にさらに9人の枢機卿が定年を迎える。このうち何人かにはさらに一年程度の勤続を求めるとみられるが、それ以外は交替が見込まれ、彼らの誕生日の機会をとらえてなされよう。

*新枢機卿たちと次の教皇選挙のルールを定める

 現在、80歳未満の枢機卿は124人おり、次の教皇選挙への参加資格がある。この人数は、パウロ6世が定めた120人の上限よりも4人多く、前教皇ベネディクト16世によって確認されている。彼らの中から亡くなる人が出ない限り、前ワシントン大司教のドナルド・ウェール枢機卿が80歳の誕生日を迎える11月12日まで、選挙人が120人に戻ることは無い。

 2021年3月まで、他の枢機卿が80歳を迎えることは無いという事実(その後、5人は2021年11月までに80歳となる)は、2020年中は枢機卿会議が開かれないことを意味する。しかし、実際には、そうだと断言できるものではない。

 教皇はまだ、聖座が空席となった場合に、新たなローマ司教(教皇)を選出する際に適用する法規を定めていない。教皇辞任の際の規範や手続きについての定めがないことから、それを定める使徒憲章の更新は緊急の課題だ。

 加えて、教皇庁の組織と機能について今後予定されているいくつかの変更も、新たな憲章に含める必要がある。

 その一つは、聖座が空席の際の管理・執行者であるカメルレンゴに関するものだ。教皇にはカメルレンゴ(現在はケビン・ファレル枢機卿)を自由する権限があるが、使徒憲章「Praedicate Evangelium」の草案では、カメルレンゴは「財務評議会の議長である枢機卿が担当する役職」である、とされている。現在その役職に就いているのは、ミュンヘン大司教で教皇の枢機卿顧問会議(6人で構成)メンバーのラインハルト・マルクス枢機卿だ。

 教皇はまた、選挙権を持つ枢機卿の人数を変更する権限をもつ。他の教皇が何世紀にもわたって行ったように、枢機卿団は純粋に人が作ったものであるからだ。問題は、教皇フランシスコが、実際にそうするかどうかだ。だが、たとえ彼がそうしなかったとしても、ヨハネ・パウロ2世が他のいくつかの機会にしたように、彼が再度、選挙人数の上限を超え障害となるものは何もない。

*中国、ロシアへの訪問が実現する年になるか

 前々教皇のヨハネ・パウロ2世は”世界を飛び回る教皇”として知られ、27年近くの治世の間に約129か国に100回を超える司牧訪問を実施した。これに対して、教皇フランシスコはこれまでに32回の海外への司牧訪問をしており、教皇の座に就いて約7年間にほぼ50か国を訪れている。

 フランシスコは 2015年に中央アフリカ共和国を訪れ、紛争中の国に入った最初の教皇となり、2019年にアラブ首長国連邦を訪れ、近代史上、アラビア半島に入った初の教皇となった。

 教皇が訪問を希望し、まだ実現していない国は2つある。そのいずれもヨハネ・パウロ2世は訪問を避けていた-中国とロシアだ。2020年は、おそらく、切望していたこれらの国への訪問が実現する年になることだろう。

*重要な年が始まった

 教皇フランシスコは、彼にまとわりついた女性の手を払うという忍耐を失った行為を謝罪することから、この年を始めた。それはおそらく縁起の良い兆候だ。

 なぜなら、まず第一に、教皇が自らの過ちを公に認め、「ごめんなさい」と謝る謙虚さがあることを示したからだ。だが、第二に、それは一見、無防備とも思われる苛立ちの裏に、彼の切羽詰まった思いと落ち着きのなさがあることも示している。

 これは、教皇がカトリック教会に非常に効果的に持ち込んだ思考と精神の変化と一致した具体的な構造改革への希望を強く抱いている人々にとって、素晴らしい朗報かもしれない。

 誰も未来を読むことはできない。だが、私たちの2020年は、カトリック教会の近年の歴史の中で、決定的に重要な年となるように思われるのだ。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LaCroix  internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2020年1月3日

・菊地・東京教大司教の新年メッセージー新しい宣教司牧方針とまとめへ

謹賀新年(2020.1.1)

Shinnen2002

新年明けましておめでとうございます。

 2020年が皆様にとって神の祝福に満たされた、素晴らしい日々に満たされた一年となるようにお祈りいたします。

 新年1月1日は、恒例ですが、年が明けた午前零時、すなわち12月31日の深夜に、新年の一番最初のミサを捧げました。夜に入って北風の強まった寒い東京でしたが、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、通常の座席はほぼ満席でした。新しい年の初めを、祈りのうちに過ごすために集まってくださった皆さん、ありがとうございます。

 2019年は、日本の教会にとって大きな出来事、すなわち教皇様の38年ぶりの訪日という出来事がありました。今年は、そこで語られた教皇様の様々な言葉を大切にし、深め、生かしていく一年にしたいと思います。

 東京教区にあっては、皆さんの意見を集約しながら作業を続けている教区の宣教司牧方針の策定の最終段階に入ります。まもなく、意見や提言をとりまとめた文書を、公開するための準備を進めております。

 寄せられたご意見や提言をそのまますべて網羅すると、まとまりのない膨大な文書になってしまいますので、わたしが中心になって複数で検討作業を重ね、テーマごとにとりまとめた文書にいたしました。これに基づいて、今一度意見を集約し、さらには3月に再開する新しい教区の宣教司牧評議会において、それぞれの宣教協力体の意見をとりまとめ、最終的な宣教司牧方針へつなげていく予定です。

 現在、宣教司牧評議会の評議員選定を、宣教協力体にお願いしておりますが、これまでとは異なり、評議員の方々には、宣教司牧評議会と宣教協力体のパイプ役になっていただくことをお願いしております。

 以前にも記しましたが、プロセスは、エマオへの弟子と歩みをともにしたイエスに倣った、ともに歩みながら交わりを深め、よりふさわしい道を見いだしていくプロセスです。できる限り現実を反映した、教区にとってより良い方向性を見いだすことができるように努めたいと思います。

 少子高齢化は、今や日本の社会の代名詞になっていますが、教会もその影響を強く受けています。小教区の共同体の高齢化はもとより、司祭団の高齢化も見逃せません。教区の司祭団には、80歳を遙かに過ぎても、小教区での責任を担ってくださる司祭がおられます。もちろんそれには感謝しかないのですが、同時にこれからのことも考えていかなくてはなりません。現状でも教区内には、いくつか複数の既存共同体に、定住する司祭を派遣できていないところがあります。

 神学生がひとり誕生したとしても、現在のシステムでは、司祭叙階まで、最短で7年の時間が必要です。つまり、仮に2020年にひとり入学したとして、司祭になるのはどんなに早くても2026年。そして2020年に、東京教区から新しい神学生の入学はありません。

 これまでも修道会などに司祭のお手伝いをお願いしていますが、修道会にあっても、司祭会員の高齢化は激しく進んでおり、これまでのように、自由にお手伝いいただける司祭が豊富に存在することは見込めません。

 他の教区にあっては、ひとりの司祭が二つは言うに及ばず三つの教会を担当することも珍しくなく、すべての日曜日にミサを捧げることが、現実的に不可能な教会共同体も多く存在します。

 もちろん司祭の任命にあってできる限りのことはいたしますし、安易な選択はしないつもりですが、現実的にみて、養成された信徒の司会者による集会祭儀の実施も、いくつかの地域では今後不可避になってくるかと思います。そういったことも含め、今後、教区の宣教司牧評議会などで検討を深めていきたいと考えています。

Shinnen2004

 あらためて申し上げますが、教皇ベネディクト16世が、『神は愛』の中に記しているように、教会には、福音を告げること、礼拝をすること、愛の業を行うことの三つの要素が不可欠であり、それぞれが互いを前提として成り立っていることを、常に心にとめておきたいと思います。

 社会の現実が厳しさを増し、神の賜物である命が危機に直面するような事態が深刻化する中で、教会共同体は、愛の業を行うことをこれまで以上に強めつつ、その前提である福音を告げしらせることも忘れないでおきたいと思います。愛の業は、あかしによる福音宣教となり得ますが、それは自動的にそうなるのではなく、福音を告げしらせると言うことを自らがしっかりと深め自覚するときに、初めて愛の業は福音のあかしとなり得ます。

 また愛の業も、福音のあかしも、祈りと典礼に支えられていなければ、やはり意味がありません。ただ単に典礼の美しさだけを追い求めるのではなく、それを背後で支える霊性を深め、典礼についての学びを深め、教会の祈りの伝統に触れてその霊性を現代に生かす努力をしなければ、やはり全体はむなしいことになりかねません。

 ひとりですべてを完璧にこなすことはできませんが、だからこそ教会は共同体として存在しているのだという、教会共同体の意味をあらためて考えていただければと思います。教会共同体は、仲良くするところではなく(もちろん仲が良いに越したことはありませんが)、互いの違いを受け入れて、それぞれができることを、自分のためではなく、教会共同体の業の一部として行うことで、全体として、上に掲げた三つの教会の要素が十全に実現される。そういう場であると思います。

 2020年は、東京を中心にオリンピックとパラリンピックが予定されており、世界中から多くの方が訪れることでしょう。またその中には多くの信徒の方もおられるでしょう。教会がそういった方々にどのように対応するか、検討と準備をすすめます。

良い一年となりますように。

Shinnen2001

以下、新年最初のミサの説教の原稿です。

 お集まりの皆さん、新年明けましておめでとうございます。

 主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念する私たちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

 闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画は、聖母マリアの「お言葉通りにこの身になりますように」という、神の前でのへりくだりの言葉がなければ実現しませんでした。そしてその言葉こそは、人生をかけた決断であり、神の意志への信頼の表れでもありました。

 神に完全に従うことを決意した聖母マリアの人生は、救い主であるイエスとともに歩んだ人生でありました。その人生は、シメオンによって預言されたように、「剣で心を刺し貫かれ」た苦しみ、すなわちイエスの十字架での受難に至る、イエスとともに苦しみを耐え忍ぶ人生でもありました。

 教皇パウロ6世は、使徒的勧告「マリアーリス・クルトウス」で、十字架の傍らに立って、御子イエスととともに、激しく苦しんだ聖母マリアは、「母の心をもって自分自身を御子のいけにえに一致させ、彼女自身が生み、永遠の御父にささげたこのいけにえが屠られることに、愛を持って同意した」と指摘します。

 その生涯の全てを神に捧げたマリアは、自らの最愛の子と苦しみをともにすることで、いのちを生きること自体が神への礼拝となることをあかしし、その礼拝に徹底的に生きる道の模範を示しておられます。

 神の計画が実現することは、簡単なことではありません。神の救いの計画の中心には十字架の苦しみが存在しています。

 イエスが背負われた十字架、イエスがその命をささげられた十字架、それは、私たち人類が、神からの愛に背いて犯し続ける数限りない罪の結果です。私たちは、まるで主の十字架における苦しみと自己犠牲が、2000年前のあの日に終わってしまい、すべてが許されたかのような傲慢さで、今日もまた罪を犯し続けています。

 十字架の上で私たちの罪を背負い、その傍らで苦しみをともにしながら立ち尽くす聖母とともに、教会は、現代社会の直中にあって、人類が犯し続ける数々の罪を悲しみのうちに見つめながら、立ち尽くしています。

 人類の犯し続ける罪とは、神の定められた完全な世界の状態、神の秩序への挑戦であります。ですから教会は、黙して立ち続けるのではなく、定められた神の秩序へ立ち返るようにと呼びかけ続けています。

 神が最初にこの世界を創造されたときの秩序は、当然ですが、完全な秩序でありました。それを平和と呼びます。しかし人間の罪は、最初の段階からこの神の完全な秩序を破壊し始めます。私たちは、戦争や紛争がなければ、それで世界は平和だと思ってしまいますが、実はそれでは足りないのです。神の秩序があらためて確立されたとき、初めて神の平和が確立されるのです。ですから、どうみても今の世界は、神の望まれる平和な世界ではない。

 戦争や紛争の状態に直接巻き込まれてはいないものの、現代を生きる私たちの国において、いのちが危機に瀕している状況は、神が望まれない秩序の破壊の最たるものであると、改めて強調したいと思います。

 神の平和を実現することは、単にきれいな言葉を並べ立てるだけでは足りない。そこには必ずや困難や苦しみが伴います。イエスの背負われる十字架の重さを、聖母とともにわたしたちも背負わない限り、神の秩序は完成に至ることがないからです。

 教皇パウロ6世は、「平和の女王を通じて」、平和を神に祈り求める日として、この日を世界平和の日とも定められています。

 世界平和の日は、今年で53回目を迎えます。53年にわたって教会は平和を訴えてきたのですが、いのちの危機は去ることなく、神の秩序の実現にはほど遠いのが現実です。

 今年の世界平和の日に当たり、教皇フランシスコは「希望の道である平和」と題するメッセージを発表され、先日の日本訪問で力強く語られた、核兵器の廃絶への呼びかけを繰り返しておられます。

 同時に教皇は、平和の確立には困難が伴うけれども、人類が平和への望みを持ち続けるからこそ、その困難な状況にあっても、「わたしたちはそれを生き、受け入れることができます」と指摘されています。
その上で、教皇は、現代社会における相互不信が様々なレベルでの孤立を生み出し、暴力的な社会を生み出しているとして、こう指摘されます。

 「脅威にさらされた状況はことごとく、不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向けます。不信と恐れは、決して平和的な関係に結びつかない悪循環で、関係性をもろくし暴力の危険を増大させます。」

 そして、平和を求める道にあって困難に直面しても、くじけることのないようにと、こう述べます。
「平和の歩みは、時間がかかる骨の折れることなのです。それは、真理と正義を求め、犠牲者の記憶を尊重し、報復よりもはるかに強い共通の希望に向けて一歩ずつ切り開いていくという、忍耐力を要する作業です」

Shinnen2003

 今日の福音において、マリアは、起こった出来事の不思議さに驚く羊飼いたちの興奮から距離を置き、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。それは、ご自分と御子のともに歩む人生の道程が、自分の思いを主張する人生ではなく、他者のために捧げられ、他者のために様々な困難を乗り越え、耐え忍ぶ人生であることを、すでに理解していたからではないでしょうか。

 教会は聖母マリアの模範に倣い、社会の現実の喧噪に踊らされることなく、心の静寂のうちに、神の救いの計画に与る道を見極め続けたいと思います。そして困難に直面しても、静かに耐え忍びながら、希望を失うことなく、見極めた道を歩むことをあきらめずに、一歩ずつ前進を続けたいと思います。

 東北の大震災の被災者へのメッセージで、教皇フランシスコはこう呼びかけられました。

 「何もしなければ結果はゼロですが、一歩踏み出せば一歩前に進みます。・・・だれかのため、皆さんのため、皆さんの子どもや孫のため、そしてこれから生まれてくる次の世代のためです」

 誕生したイエスが聖母マリアとともに歩まれた人生は、十字架へ至る苦しみと困難の連続であったことを思うとき、わたしたちも、困難や苦しみを避ける道を選ぶのではなく、その直中にあって、聖母に倣い、忍耐力を持って神の計画の完成に至る道、神の平和の実現への道を、歩みを続けたいと思います。

2020年1月2日

・写真で見る教皇フランシスコの2019年(Crux)

(2019.12.30 Crux Senior Correspondent Elise Harris)

Pope Francis in 2019: A year in pictures

 (ローマのスペイン階段そばの聖母マリア像の前で、ローマのクリスマス休暇入りの開始を告げる毎年恒例の儀式で祈りの前に) (Credit: AP Photo/Gregorio Borgia.)

 ローマ発ー写真は一千語の価値がある、と言われる。だとすれば、2019年の教皇フランシスコとカトリック教会に関するこれらの写真は、この一年の最も目立った、重要な瞬間について、言葉以上に明確に語っている、と言えるだろう。 2019年の1月から12月にかけてのこれらの写真は、教皇のこの一年の主な仕事ー世界各地への司牧訪問、聖職者による未成年性的虐待問題への取り組み、宗教間対話の推進、あるいは、彼が常としている論争の巻き起こしーを記録している。
【1月】

(パナマの非行少年収容所で入所者の告解を聴く=2019.1.25=Credit: AP Photo/Alessandra Tarantino.)

 1月22日から27日まで、教皇フランシスコはパナマに滞在され、バチカンが主催するワールド・ユースデイに出席。参加した世界の若者たちに、他者との人間的なつながりをテクノロジーで代替することのないように、環境を大切にするための役割を果たすように、つよく求めた。【2月】 教皇は2月3日から5日にかけてアラブ首長国連邦・アブダビを訪問、カトリックとイスラム教の宗教間対話に臨まれた。 訪問中に、アラブ首長国連邦のシェイクk・ナヒアン・ビン・ムバラク・アル・ナヒアン大臣と会見、また、エジプトのアル・アザール大学の指導者、アーメド・エル・タイエブ師と人間的な友愛促進の共同宣言に署名した。

(アブダビの創立者記念館での宗教間対話集会の後、エジプトのアル・アザール大学の指導者と「人間的な友愛」の共同宣言を交換=2019. 2.5=Credit: AP Photo/Andrew Medichini.)

 また2月は21日から24日にかけ、バチカンで児童保護のための全世界司教協議会会長会議を招集し、聖職者による未成年性的虐待は西欧だけの問題でないことを認識するよう求め、被害者の声を真摯に聴く必要を強調。いくつかの具体的対応策が決められた。

(聖職者による未成年性的虐待問題への対処を話し合う全世界司教協議会会長会議で、告解式に参加する教皇フランシスコ。会議を招集された教皇の狙いは世界の司教たちに対して、「この問題は世界的な問題であり、隠ぺいも問題になっている」と強調された=2019.2.23=Credit: Vincenzo Pinto/Pool Photo Via AP.)

【3月】

(モロッコのラバト・サーレ空港で国王・モハメド6世の歓迎を受ける=2,019.3.30=Credit: Fadel Senna/Pool Photo via AP.)

 3月30、31の両日、モロッコを訪れた教皇は、カトリックとイスラム教の関係強化を改めて表明、また同国の少数派であるカトリック信徒たちを励まし、テロと移民・難民に対する無関心を批判した。 【4月】(南スーダンのサルバ・キール大統領の足元で絨毯に接吻する教皇。バチカンで行われた同国の政治指導者たちのための2日間の黙想終了時に。教皇は彼らに和平への機会をもたらすように願った=2,019.4.11=CNS photo/Vatican Media via Reuters.) 4月初め、教皇フランシスコと英国国教会の長、ジャスティン・ウエルビー大司教は、南スーダンの政治指導者と宗教指導者を招いて、”信教一致の黙想”の機会を持った。その集いの終わりに、教皇は指導者たちの足元にひざまずき、指導者それぞれの前で絨毯に接吻し、平和実現へ彼らの努力を願って、彼らを驚かせた。

(スリランカ・ネゴンボでの埋葬ミサで泣き崩れる女性。イースターに国内の教会、ホテルが自爆テロの標的となり、多くの犠牲者を出した=2,019.4.23=Credit:Reuters via CNS.)

 4月はまた、復活の主日にスリランカのミサ中の教会、高級ホテルが自爆テロに襲われ、300人以上が犠牲になるという大きな悲劇が起きた。
【5月】(ブルガリア・ソフィアの難民キャンプで子供たちの描いた絵をおくられる教皇=2019.5.6=Credit: Vatican Media/pool photo.) 5月5,6両日、マケドニアとブルガリアを訪問した教皇は、移民・難民を守る姿勢を改めて強調する一方、東方教会との関係強化に努めた。マケドニアでは、2016年に列聖したカルカッタの聖マザー・テレサ誕生の地に敬意を表した。【6月】

(「聖アンドレアスのイコンをルーマニア正教会のダニエル総主教から贈られる教皇。ブカレストで=2019.5.31=Credit: AP Photo/Andreaa Alexandru.)

 5月31日から6月2日には、ルーマニアを訪問。ルーマニアの共産党独裁政権の下で信仰を捨てることを拒否した7人の司教たちを列福し、”ジプシー”と軽蔑して呼ばれるロマ族の共同体に対する差別を批判。またルーマニア正教会との関係強化の努力を続けた。
【7月】

(バチカンでプーチン大統領と私的謁見=2019.7.4=Credit: Alexei Druzhinin, Sputnik, Kremlin Pool Photo via AP.)

 多くの人が夏休みに入る7月も教皇フランシスコは精力的に活動を続けられた。教皇就任以来3度目となるロシアのプーチン大統領との会見、さらに翌日のはウクライナのギリシャ正教会の指導者たちと会った。同教会の指導者たちは二日間にわたってバチカンの高位聖職者たちと話し合いを持った。

 

メルボルンの地方裁判所前でペル枢機卿を待ち受ける枢機卿糾弾のグループ=2019.2.27⁼Credit: AP Photo/Andy Brownbill.)

【8月】

 8月21日、オーストラリアの裁判所が、未成年性的虐待で有罪判決を受けたジョージ・ペル枢機卿の控訴を棄却した。昨年12月にペル枢機卿は1990年代に、聖歌隊の少年二人に性的虐待を働いたとして有罪判決受けていた。バチカンの最高位の聖職者が未成年性的虐待で有罪判決を受けたのは初めて。 ペル枢機卿の弁護団は8月の控訴棄却を受けて、高等裁判所へ上訴の手続きをとり、11月に受理された。聴聞は2020年2月に予定されている。

【9月】

 教皇は9月4日から10日まで、アフリカのモザンビーク、マダガスカル、モーリシャスの3か国を訪問。マダガスカルでは宣教者たちが作った貧困家庭のための定住施設を訪れ、貧しい人々との連帯を行動で示した。また、一連の訪問で、移民・難民の権利を守り、環境を保護することを改めて訴え、アフリカで進む森林破壊、資源収奪の動きを強く批判した。

(マダガスカルのアンタナビロでのミサ会場のに到着した教皇=2019.9.8=Credit: AP photo/Alessandra Tarantino.)

【10月】

(聖ペトロ大聖堂で行われた枢機卿会議でミカエル・ツェルニー新枢機卿。教皇は新枢機卿として、自身と思いを共にする13人を選んだ=2019.10.5=Credit: AP Photo/Andrew Medichini.)

 10月は2019年で最も話題(多い月となった。13人の新枢機卿を任命し、多くの課題を抱えたアマゾン地域シノドス(代表司教会議)を招集した。 新枢機卿の選任は、宣教活動、宗教間対話、移民・難民対策を最優先する教皇の思いの表明、と多くの関係者が解釈した。

 アマゾン地域シノドスで大きな議論になったのは、既婚司祭をこの地域限定で認めることの是非だったが、それだけでない。

 “Pachamama”という名で知られるようになったカヌーに乗った半裸の女性の画像-アンデスとアマゾンの一部地域に住む人々が崇める「母なる大地」を象徴する姿-も注目を浴びた。 教皇支持派はこの会議を、原住民の共同体社会を支持し、現地の文化と同化した信仰を受け入れる試みとして擁護したが、批判派は、司祭の独身制に制限をかけ、異教の偶像を崇めるのを肯定することで異端との融和を図るものだ、と批判した。

(アマゾン地域シノドスの開催中に展示されたトラスポンティナの聖マリア教会に掲げられた妊婦の像の写真。この像のいくつかのコピーが教会から盗まれ、ティベル川に投げ捨てられた=2019.10.18=Credit: CNS photo/Paul Haring.)

 

(辞任したバチカン情報管理局長のレーネ・ブリュハルト氏=Credit: CNS.)

【11月】

 11月半ばには、バチカンで関係者を驚かせる人事があった。前教皇ベネディクト16世のもとで2012年に創設された資金洗浄防止チームのリーダーを務めてきたスイス人弁護士、レーネ・ブリュハルト氏が辞任-バチカン国務省による不明朗な不動産取引の捜査の一環として事情説明なしにチームの事務局が捜索された直後だった-したのだ。多くの観測筋は、彼の辞任は教皇が進めるバチカン財政・金融改革の努力に大きな打撃となるだろう、と評した。

 11月19日から26日にかけて、教皇は、タイとともに、長年の夢だった日本を訪問した。訪問では、宗教間対話の推進を強く主張するとともに、核兵器廃絶を強く呼びかけた。

(教皇は広島の平和記念公園での式典で原爆被災者たちと会われた=2019.11.24=Credit: AP Photo/Gregorio Borgia.)

【12月】

(聖職者による性的虐待の被害者で、同被害の絶滅運動を進めるホアン・カルロス・クルスがニューヨークでこの問題対策で先頭に立つチャールス・シクルーナ、マルタ大司教と会見した=2018.2.17=Credit: AP Photo/Andres Kudacki.)

 教皇フランシスコは17日、教会関係者による未成年者への性的虐待等に関して、調査や裁判への協力をより可能にするため、「教皇レベルの機密」を廃止することを決定、同時に未成年者ポルノ画像に関する法令の一部を改正した。この措置は、聖職者による性的虐待の被害者や専門家から、児童保護のための教皇の取り組みの大きな一歩と評価する声が出ている。

 

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2019年12月31日

・使徒的勧告「Christus vivit(キリストは生きておられる)」若者参加のビデオ版⑱

(2019.12.24 Vatican News)

 

One year after the Synod on young people, Catholic youth from around the world engage with “Christus vivit”, Pope Francis’ Apostolic Exhortation. Jennifer, originally from Ghana, is someone that can be defined as a “committed young person”. She works in her parish, living every day the experience that the Pope describes in the document: “I want to encourage all of you in this effort, because I know that your young hearts want to build a better world

Young and committed

168. At times, seeing a world so full of violence and selfishness, young people can be tempted to withdraw into small groups, shunning the challenges and issues posed by life in society and in the larger world. They may feel that they are experiencing fraternity and love, but their small group may in fact become nothing other than an extension of their own ego. This is even more serious if they think of the lay vocation simply as a form of service inside the Church: serving as lectors, acolytes, catechists, and so forth. They forget that the lay vocation is directed above all to charity within the family and to social and political charity. It is a concrete and faith-based commitment to the building of a new society. It involves living in the midst of society and the world in order to bring the Gospel everywhere, to work for the growth of peace, harmony, justice, human rights and mercy, and thus for the extension of God’s kingdom in this world.

169. I ask young people to go beyond their small groups and to build “social friendship, where everyone works for the common good. Social enmity, on the other hand, is destructive. Families are destroyed by enmity. Countries are destroyed by enmity. The world is destroyed by enmity. And the greatest enmity of all is war. Today we see that the world is destroying itself by war… So find ways of building social friendship”. It is not easy, it always means having to give something up and to negotiate, but if we do it for the sake of helping others, we can have the magnificent experience of setting our differences aside and working together for something greater. If, as a result of our own simple and at times costly efforts, we can find points of agreement amid conflict, build bridges and make peace for the benefit of all, then we will experience the miracle of the culture of encounter. This is something which young people can dare to pursue with passion.

170. The Synod recognized that “albeit in a different way from earlier generations, social commitment is a specific feature of today’s young people. Alongside some who are indifferent, there are many others who are ready to commit themselves to initiatives of volunteer work, active citizenship and social solidarity. They need to be accompanied and encouraged to use their talents and skills creatively, and to be encouraged to take up their responsibilities. Social engagement and direct contact with the poor remain fundamental ways of finding or deepening one’s faith and the discernment of one’s vocation… It was also noted that the young are prepared to enter political life so as to build the common good”.

171. Today, thank God, many young people in parishes, schools, movements and university groups often go out to spend time with the elderly and the infirm, or to visit poor neighbourhoods, or to meet people’s needs through “nights of charity”. Very often, they come to realize that there they receive much more than what they give. We grow in wisdom and maturity when we take the time to touch the suffering of others. The poor have a hidden wisdom and, with a few simple words, they can help us discover unexpected values.

172. Other young people take part in social programmes that build houses for the homeless, or reclaim contaminated areas or offer various kinds of assistance to the needy. It would be helpful if this shared energy could be channelled and organized in a more stable way and with clear goals, so as to be even more effective. University students can apply their knowledge in an interdisciplinary way, together with young people of other churches or religions, in order to propose solutions to social problems.

173. As in the miracle of Jesus, the bread and the fish provided by young people can multiply (cf. Jn 6:4-13). As in the parable, the small seeds sown by young people can yield a rich harvest (cf. Mt 13:23.31-32). All of this has its living source in the Eucharist, in which our bread and our wine are transformed to grant us eternal life. Young people face immense and difficult challenges. With faith in the risen Lord, they can confront them with creativity and hope, ever ready to be of service, like the servants at the wedding feast, who unknowingly cooperated in Jesus’ first miracle. They did nothing more than follow the order of his Mother: “Do whatever he tells you” (Jn 2:5). Mercy, creativity and hope make life grow.

174. I want to encourage all of you in this effort, because I know that “your young hearts want to build a better world. I have been following news reports of the many young people throughout the world who have taken to the streets to express the desire for a more just and fraternal society. Young people taking to the streets! The young want to be protagonists of change. Please, do not leave it to others to be protagonists of change. You are the ones who hold the future! Through you, the future enters into the world. I ask you also to be protagonists of this transformation. You are the ones who hold the key to the future! Continue to fight apathy and to offer a Christian response to the social and political troubles emerging in different parts of the world. I ask you to build the future, to work for a better world. Dear young people, please, do not be bystanders in life. Get involved! Jesus was not a bystander. He got involved. Don’t stand aloof, but immerse yourselves in the reality of life, as Jesus did”. Above all, in one way or another, fight for the common good, serve the poor, be protagonists of the revolution of charity and service, capable of resisting the pathologies of consumerism and superficial individualism.

Courageous missionaries

175. Filled with the love of Christ, young people are called to be witnesses of the Gospel wherever they find themselves, by the way they live. Saint Alberto Hurtado once said that “being an apostle does not mean wearing a lapel pin; it is not about speaking about the truth but living it, embodying it, being transformed in Christ. Being an apostle does not mean carrying a torch in hand, possessing the light, but being that light… The Gospel, more than a lesson, is an example. A message that becomes a life fully lived”.

176. The importance of witness does not mean that we should be silent about the word. Why should we not speak of Jesus, why should we not tell others that he gives us strength in life, that we enjoy talking with him, that we benefit from meditating on his words? Young people, do not let the world draw you only into things that are wrong and superficial. Learn to swim against the tide, learn how to share Jesus and the faith he has given you. May you be moved by that same irresistible impulse that led Saint Paul to say: “Woe to me if I do not proclaim the Gospel” (1 Cor 9:16)!

177. “Where does Jesus send us? There are no borders, no limits: he sends us everywhere. The Gospel is for everyone, not just for some. It is not only for those who seem closer to us, more receptive, more welcoming. It is for everyone. Do not be afraid to go and bring Christ into every area of life, to the fringes of society, even to those who seem farthest away and most indifferent. The Lord seeks all; he wants everyone to feel the warmth of his mercy and his love”. He invites us to be fearless missionaries wherever we are and in whatever company we find ourselves: in our neighbourhoods, in school or sports or social life, in volunteer service or in the workplace. Wherever we are, we always have an opportunity to share the joy of the Gospel. That is how the Lord goes out to meet everyone. He loves you, dear young people, for you are the means by which he can spread his light and hope. He is counting on your courage, your boldness and your enthusiasm.

178. Don’t think that this mission is soft and easy. Some young people have given their lives for the sake of missionary outreach. As the Korean bishops put it: “we hope that we can be grains of wheat and instruments for the salvation of humanity, following upon the example of the martyrs. Though our faith is as small as a mustard seed, God will give it growth and use it as an instrument for his work of salvation”. Young friends, don’t wait until tomorrow to contribute your energy, your audacity and your creativity to changing our world. Your youth is not an “in-between time”. You are the now of God, and he wants you to bear fruit. For “it is in giving that we receive”. The best way to prepare a bright future is to experience the present as best we can, with commitment and generosity.

 

2019年12月24日

カトリック東京教区の2019年クリスマスと新年のミサ 

                                                  2019年12月10日 カトリック東京教区事務局

 貧しい人として馬小屋でお生まれになったイエスは、すべての人々に光をお与えになりました。イエスは「私はこの世の中の光である。私に従う者は、決して闇の中を歩むことはない」、とおっしゃいました。光の中を歩む人は、いつも、勇気と永遠の生命への希望、そして、愛をもって天の国を目指して歩んでいるのです。祈りの雰囲気の中で、クリスマスの真の意味を味わうために、どうぞ、教会にいらしてください。降臨された幼子イエスを見つめ、そこから命、希望、愛を汲み取ってください。

 恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。
(ルカ福音書 2章10 – 14節)


クリスマスと新年のミサの時間

  車でお越しの方は、駐車場の有無を必ずをご確認くさい。

※12月24日・25日と1月1日のミサについて、スマートフォンで下の表をご覧の際は、表を左右にスクロールして詳細を見ることができます。

☆★☆東京都☆★☆

教会名 12月24日 12月25日 1月1日 住所 電話
赤堤 19:00 10:00 10:00 156-0044
世田谷区赤堤3-20-1
03-3321-0019
赤羽 17:00 19:00 7:00 9:00 0:00 10:00 115-0045
北区赤羽2-1-12
03-3901-2902
秋津 19:30 10:00 11:00 204-0024
清瀬市梅園3-14-18
042-491-2781
あきる野 19:00 8:30 8:30 190-0142
あきる野市伊奈1
042-596-1261
浅草 19:00 10:00 0:00 12:00 111-0053
台東区浅草橋5-20-5
03-3851-4009
麻布 19:00 21:30 9:30 9:30 106-0031
港区西麻布3-21-6
03-3408-1500
足立 20:00 9:00 11:00 123-0872
足立区江北3-40-27
03-3897-8356
板橋 18:30(聖劇~19:00ミサ) 10:00 10:00 173-0034
板橋区幸町8-6
03-3955-5470
上野 20:00(19:30クリスマスキャロル~キャンドルサービス、上野教会・中国センター合同ミサ) 10:00 12:00(中国センター) 12/29 10:00 13:30(中国センター)
1/1 10:00 13:30(中国センター)
110-0004
台東区下谷1-5-9
03-3844-4477
梅田 20:00(日・英) 11:00 12/31 20:00(英)
1/1 11:00
123-0851
足立区梅田7-19-22
03-3880-4718
青梅 21:00 11:00 11:00 198-0041
青梅市勝沼1-197
0428-84-2258
大島 18:00 ・・・・・・ ・・・・・・ 100-0101
大島町元町馬の背251
03-3943-2301
大森 18:00 20:00 9:30 9:30 143-0016
大田区大森北2-5-11
03-3761-5047
荻窪 19:00(18:30キャンドルサービス) 10:00 11:00 168-0072
杉並区高井戸東4-18-13
03-3334-8216
葛西 19:00 10:00 16:00(英) 10:00 16:00(英) 134-0083
江戸川区中葛西1-10-15
03-3689-0014
蒲田 19:00 10:00 10:00 144-0054
大田区新蒲田1-13-12
03-3738-0844
上野毛 17:00 20:00 0:00 7:00 10:30 18:00 0:00 7:00 10:30 18:00 158-0093
世田谷区上野毛2-14-25
03-3704-2171
亀有 19:00 9:30 10:30 120-0003
足立区東和4-3-20
03-3606-1757
神田 18:00 20:30 10:00 0:00 12:00 101-0065
千代田区西神田1-1-12
03-3291-0861
北町 19:00 9:30 9:30 179-0081
練馬区北町3-16-1
03-3933-5057
吉祥寺 18:00(子どもと共に) 20:00  22:00 10:30 16:00(英) 19:00 0:00 10:30 12:00 180-0005
武蔵野市御殿山1-7-8
0422-44-0181
清瀬 19:30 10:00 11:00 204-0022
清瀬市松山1-21-12
042-491-0104
小岩 16:30 19:30 10:00 11:00 133-0057
江戸川区西小岩4-4-1
03-3657-0656
高円寺 18:00 21:00 10:00 11:00 166-0003
高円寺南2-33-32
03-3314-5688
麹町 15:00 17:00 19:00(キャンドルサービスあり) 21:00(フォークミサ) 22:30(英) 7:00 8:30 10:00(手話通訳付き) 12:00(英) 13:30(スペイン)
18:00
0:00 7:00 8:30 10:00 18:00 102-0083
千代田区麹町6-5-1
03-3263-4584
小金井 18:00 20:00 6:30 14:00 7:00 11:00 184-0005
小金井市桜町1-2-20
042-384-5793
小平 18:30(クリスマスキャロル~19:00ミサ) 10:00 10:00 187-0001
小平市大沼町2-32-10
042-343-9981
三軒茶屋 18:30(聖劇~19:00子どもと家族のミサ) 21:00 6:30 10:30 0:00 11:00 154-0024
世田谷区三軒茶屋2-51-32
03-3421-1605
潮見 19:00 10:00 10:00 135-0052
江東区潮見2-10-5
03-3644-8189
渋谷 18:00(家族ミサ) 21:00 10:00 11:00 150-0036
渋谷区南平台町18-13
03-3463-5881
志村 19:00 10:00 12:00 174-0043
板橋区坂下1-38-22
03-3960-3566
下井草 19:00 22:00 10:00 0:00 10:00 167-0021
杉並区井草2-31-25
03-3396-0305
成城 12/22 14:00(地域とスカウトのクリスマスミサ)
12/24 16:00 18:00 20:00 22:00
10:00 0:00 11:00 157-0066
世田谷区成城2-21-16
03-3417-5211
関口 17:00 19:00 22:00 0:00 10:00 0:00 10:00 112-0014
文京区関口3-16-15
03-3945-0126
関町 19:00 10:00 12:00 177-0051
練馬区関町北2-11-7
03-3920-2211
瀬田 17:00(子どものミサ) 21:00 6:20(早朝のミサ) 10:00 0:00 10:00 158-0095
世田谷区瀬田4-16-1
03-3708-0222
世田谷 20:30 12:00 12:00 155-0031
世田谷区北沢1-45-12
03-3467-0974
洗足 18:00 21:00 10:00 11:00 145-0064
大田区上池台4-7-5
03-3726-7108
高輪 16:00(子どもと共にささげるミサ)  18:30 21:00 10:00 0:00 11:00 108-0074
港区高輪4-7-1
03-3441-5556
高幡 19:00 10:00 11:00 191-0042
日野市程久保4-7-14
042-592-2463
立川 18:00(子どもと共に) 21:00 10:00 11:00 190-0022
立川市錦町2-8-10
042-522-4265
多摩 17:00 21:00 10:00 11:00 206-0022
多摩市聖ヶ丘1-30-2
042-374-8668
調布 17:00 20:00 0:00 8:00 10:30 0:00 8:00 10:30 182-0033
調布市富士見町3-21-12
042-482-3937
築地 19:00 10:00 10:00 104-0044
中央区明石町5-26
03-3541-8185
田園調布 15:00(園児と共に) 17:00(子どもと共に) 20:00 23:00 7:00 10:00 0:00 7:00 10:00 145-0071
大田区田園調布3-43-1
03-3721-7271
東京韓人 ・・・・・・ 19:00(ハングル) ・・・・・・ 112-0014
文京区関口3-16-15
03-3941-0929
徳田 19:30(キャンドルサービスあり) 10:00 12/31 18:00(神の母聖マリア前晩のミサ)
1/1 10:00
176-0013
練馬区豊玉中1-39-1
03-3991-2101
豊島 19:00 22:00 9:30 12:00(英) 11:00 171-0051
豊島区長崎1-28-22
03-3957-2540
豊田 20:00 10:00 10:00 191-0062
日野市多摩平3-12-10
042-581-8352
八王子 17:00 20:00 10:00 0:00 11:00 192-0066
八王子市本町16-3
042-622-1642
初台 17:00 20:00 10:30 0:00 10:30 151-0053
渋谷区代々木5-16-3
03-3466-0361
碑文谷 16:00 19:00 22:00 0:00 7:00 10:30 7:00 10:30 152-0003
目黒区碑文谷1-26-24
03-3713-7624
府中 16:30 20:00 11:00 11:00 183-0055
府中市府中町1-40-11
042-361-9888
本郷 19:00 10:00 10:00 113-0021
文京区本駒込5-4-3
03-3941-5916
本所 19:00 10:00 17:00(子どもと共に) 0:00 10:00 130-0011
墨田区石原4-37-2
03-3623-6753
町田 17:00 19:30 22:00 11:00 10:00 194-0021
町田市中町3-2-1
042-722-4504
町屋 19:00 10:00 11:00 116-0001
荒川区町屋4-7-9
03-3809-0414
松原 17:00 20:00 11:00 0:30 11:00 156-0043
世田谷区松原2-28-5
03-3321-0941
三河島 19:00(キャンドルサービスあり) 7:00 10:00 11:00 116-0002
荒川区荒川3-11-1
03-3891-3033
目黒 17:00 19:00 22:00(英) 0:00 7:30 10:00 19:00(英) 12/31 19:00
1/1 0:00(英) 11:00
141-0021
品川区上大崎4-6-22
03-3491-5461
六本木 7:00 16:30(英) 18:00 20:15(クリスマスキャロル)  21:00(英) 7:00  8:00(英) 10:15(英) 12:00(英) 19:00(英) 7:00 8:00(英) 10:15(英) 12:00(英) 18:00(英) 106-0032
港区六本木4-2-37
03-3401-2141

☆★☆千葉県☆★☆

教会名 12月24日 12月25日 1月1日 住所 電話
市川 18:00(17:45クリスマスキャロル) 20:30(20:15クリスマスキャロル) 10:30 10:30 272-0021
市川市八幡3-13-15
047-322-5488
鴨川 ・・・・・・ 14:00 14:00 296-0001
鴨川市横渚1727-1
04-7092-0432
木更津 19:00 10:00 10:00 292-0831
木更津市富士見3-1-13
0438-22-3873
五井 19:00(国際ミサ) 10:00 10:00 290-0081
市原市五井中央西1-33-10
0436-21-3830
佐原 16:00 20:00 11:00(海上寮) 11:00 287-0003
香取市佐原イ417
0478-52-4079
館山 ・・・・・・ 14:00 14:00 294-0045
館山市北条1901-7
0470-22-0780
千葉寺 19:00 10:00 10:00 260-0844
千葉市中央区千葉寺町70
043-261-2920
銚子 12/22 10:15 ・・・・・・ 12:00 288-0812
銚子市栄町1-1448
0479-22-2795
東金 19:30 9:30 9:30 283-0802
東金市東金251-2
0475-52-2357
豊四季 18:00 21:00 10:00 ※お問い合わせください。 270-0134
流山市長崎2-444-1
04-7145-9933
習志野 17:00 20:00 10:00 11:00 262-0044
千葉市花見川区長作町1385-2
043-216-0035
成田 ※お問い合わせください。 ※お問い合わせください。 ※お問い合わせください。 286-0048
成田市公津の杜2-2-1
0476-26-4926
西千葉 17:00 20:00 10:00 10:00 260-0034
千葉市中央区汐見丘町11-14
043-241-4812
松戸 17:30(聖劇~18:00キャンドルサービス・子どもの奉仕するミサ)
20:10(クリスマスキャロル~キャンドルサービス~国際ミサ)
8:00 10:30 10:30 14:00 271-0092
松戸市松戸1126
047-362-3516
茂原 ※お問い合わせください。 ※お問い合わせください。 ※お問い合わせください。 297-0029
茂原市高師992
0475-22-2420
2019年12月18日

・(解説)協働性と聖職者による性的虐待の危機: 教会はまだトレント公会議に”執着”(LaCroix)

(2019.12.10 LaCroix  Massimo Faggioli)

 8日の日曜日は、第一バチカン公会議(1869年12月8日から1870年10月20日まで4期にわたって開催)が始まって150周年だった。教皇ピオ9世が、後に教皇の首位性と不可謬性の宣言で知られることになる公会議を招集した。この公会議は、リベラルな近代化の動きを押し戻そうとするカトリック教会の象徴となった。

 そしてカトリックの宣教学者、ロバート・シュライターは、第一公会議は、教会内に「確信の期間」への道を開いたもの、として、以下のように語る。

 (シュライター師は1970年生まれ。米国の聖アウグスチノ会経営のビラノバ大学で神学と宗教学の担当教授、米国のカトリック評論誌 Commonweal への寄稿者でもある。オーストラリアの神学教育研究所Broken Bay Instituteの非常勤教授も務めている)

*確信の期間から、感覚がマヒするような確信の無さへ

 だが、聖職者による未成年性的虐待が引き起こした危機は、その「確信」をひっくり返し、打ち砕いた。カトリックの信徒たちは今、過去の教会の業績ー第一(1869-70)と第二(1962-65)の二つの公会議の意義と成果を含めてーに、疑問を抱いている。

 公会議の教えを含むカトリックの教義は、どうやって、私たちが性的虐待による危機ー明らかに(第二バチカン公会議が行われた)1960年代に始まったのではない現象-について学んできたことと、共存することができるのだろうか? カトリック教会は今、「確信の期間」というよりは、感覚がマヒしてしまうような確信の無さ-第二バチカン公会議直後の何年かを特徴づけた「確信の無さからの解放」とは大きく異なることーを体験しているのだ。

 性的虐待の危機の継続的な影響は、第二バチカン公会議の重要な要素の、教会の受容、そして、あるいは、拒絶を実際に条件づけている。この危機は、この公会議の受容と適用の歴史において、”術前”と”術後”を分けるものとなるかも知れない。私たちは聖職者による性的虐待がもたらしている危機と第二バチカン公会議の関係を理解するように努めねばならない。

 粛厳たる事実は、こおぞましい犯罪に、第二バチカン公会議後の期間が対処できなかった、ということは別に新しことではない、ということだ。トレント公会議(1545-1563)を振り返れば「教会改革についての教えと、教会の実際の活動への適用のされ方が結びついていなかった」ことが分かる。

*トレント公会議後の時代の教会の教訓

 トレント公会議後の時代の教会に関する研究によれば、犯罪行為(特に性的犯罪)で訴えられた司祭、修道士が、教会裁判所であれ、国の裁判所であれ、裁かれるのは稀だった、ということだ。歴史学者は、”交渉ごとの正義”という言葉を使う-聖職者を守るために多くの要素と異なる関係者が関与したのだ。

 トレント公会議後の時代は、教皇の強められた”外交手腕”が、犯罪者である聖職者を保護するうえで重要な役割を果たした。教皇庁と外交使節団の代表たちは、そうした聖職者たちを国の裁判所に出廷させないように守り、あるいは現地の司教たちが聖職者の法務官のところに連れて行かないように守った。

 その典型的なものは「異なる司法組織の分断」だ-犯罪と訴追するのに関心を持つ国の裁判制度、そして、カトリック司祭が裁判権を持つ、これとは別の制度(いわゆるprivilegium fori)になっている。

 教会内部にも分断化があった。現地の司教の権力、修道会の権力(司教の管轄権が及ばない)、そして、バチカンの権力-司教たち、修道会、そして国との良好な関係を維持することに関心があるーだ。教皇庁の最大の関心事は「国家の権力を寄せ付けず、教会の事柄についてあらゆる世俗的な干渉を避けること」だった。

 このようなトレント公会議後の歴史は、現在の教会が性的虐待の危機にどのように対面しているかを、裁判権の分断だけでなく、教会の信徒たちを含む一般市民へのそうした危機の伝え方という観点から、よりよく理解する助けになる。

 16世紀と17世紀には、今日と同じように「聖職者が職務を離脱する理由が明らかにされない」という大きな問題があった。そのような”秘密主義”は、聖職者の犯罪、特に性的犯罪を扱う際の、教会の司法的伝統の一部である。この伝統の下で、聖職者には判決に際して、特別待遇が与えられた-有罪とされた聖職者に、刑務所への収監(あるいは拷問)以外の幅広い措置が取られた。判決は極めて象徴的なものとされる傾向があり、同様の罪を犯した一般信徒に課せられるような厳しいものではなかった。

 トレント公会議後の時代と現在には類似点もある-正統派的慣行の最も柔軟性に欠ける執行者だったピオ5世(1566年から72年の教皇)でさえも、教会裁判所から聖職者を保護する必要が出た時に、聖職者の特権を進んで放棄しようとはしなった。

 さらに、トレント公会議後、何世紀にもわたって、「罪人である聖職者に対するよりも、異教徒との闘いが重要だ」とみなされてきた。同様に、現代のカトリック教徒の中には「1960年代から1970年代にかけて沸き起こった社会、文化的現象の産物」として、性的虐待をとらえている者がいるのだ。

*訓話

トレント公会議後の16世紀と17世紀の教会が、性犯罪を含む犯罪者である聖職者との戦いに失敗したのは、教皇とその外交官たち、司教たち、修道者たち、そして一般信徒のエリートたちの間の覇権をめぐる闘争の為だった。18世紀に至るまで、教会が犯罪人の聖職者に対処できなかったことから、当局がこの問題に、より積極的に介入するようになった。

 これは訓話である。今から 3世紀前にトレント公会議の失敗が世俗国家の攻撃的な「管轄主義」につながったように、神の民についての第二バチカン公会議の教会学を、現在の教会が実行できないことが、教会の事柄に対する国家介入の新たな波につながる可能性がある。

 これまで見てきたことは、始まりに過ぎない。

 近代国家にとって、「宗教施設における子どもたちや脆弱な人々の安全」の重要性は、「教会の権力に対する伝統的な服従」をはるかに圧倒している。それは公衆衛生と安全の問題になっている。オーストラリアのカトリック教会に対して、王立委員会が出した勧告の一覧表が、その良い例だ。

 

*教会のシステムがいまだに第二バチカン公会議を反映していない

 制度的には、カトリック教会は今日、第二バチカン公会議で想定されたものではなく、450年以上前のトレント公会議とそれを受けた教会のシステムに似たものであり続けている。

 それにもかかわらず、重要な変化はあった。 1つは歴史的な変化、教会と国家の関係に関するものだ。それ以前の時代には、聖職者の犯罪の訴追は、教会と国家の権力闘争と比べれば軽微な問題として、双方に認識されていた。もう一つの変化は、以前は、聖職者の性的犯罪が地域の共同体と一般信徒たちから抗議を引き起こすことはほとんどなかった。抗議しようとしても、司祭が人々に「聖なるもの」へのアクセスを提供していなかったからだ。

 司祭が果たす「聖なる」役割への期待と、実際に司祭が過ごしている私生活の間に大きな乖離が存在している。今、私たちは、カトリック信者と全世界が、教会の指導者に対して、単なる福音の宣言者ではなく、証人になることを期待する時代に生きている。私生活と公生活の区別はほとんどなくなっているのだ。

*神の民の教会学を求めて

 しかし、トレント公会議から今日に至る最大の変化は、教会学に関するものだ。カトリック教徒は、エリートや階層にもはや支配されなくなった教会-というよりも、神の民との交わりにある教会-についての神学的な考えを手にしている。これは、教会での性的虐待や権力の濫用との戦いで重要な役割を果たすことができる教会学の変化だ。

 歴史は私たちに語っている-性的虐待について聖職者だけをとがめたてるのは誤りだ、と。聖職者が罪に問われないのは、「司祭は世俗的な法律を超えたことろにいる」という考えの結果だった。しかし、それはまた、2つの階層-1つは聖職者、もう1つは世俗の人々-が政治的、社会的、経済的な腐敗で共謀したためなのだ。

*協働が、性的虐待が引き起こした危機の克服に欠かせない

 それが、教皇フランシスコが協働性を強調する理由だ。教皇庁から教区および教区制度に至るまで、第二バチカン公会議後の教会の組織の仕組みは、依然として相当部分が「トレント公会議様式」だが、第二バチカン公会議のカトリックの教会学はそうではない。

 教皇フランシスコが2015年10月の「基調演説」で述べたように、協働性は、性的虐待による危機を克服するのに欠かせない。なぜなら、それが「小さいが強力な集団を掌握することに、全ての人の運命を委ねる」という悪に対処するあり方だからだ。このような教皇の協働性に関する演説は、第二バチカン公会議の受容の歴史における重要な瞬間だった。教会が虐待危機にどのように対面すべきかについての通過点でもあった。

 今日のグローバルなカトリックの最良の例は、教区レベルや国レベルで協働性への取り組みを始めた教会から生まれている。さまざまな方法で、さまざまな名称で、性的虐待の悲劇に対処するための特定の政策の明確な表現を全て含んでいる。

 それに代わるのは、新たな循環があちこちの聖職者の下劣な行為が吹聴され、大陪審や司法長官による最新の破滅的な報告書が発行されるのを、恥辱と嫌悪の中で、消極的に立ち止まったままでいることである。

 聖職者による性的虐待のスキャンダルに対応する適切な教会法の手段がない中で、それに関して新たに起こる問題を知ることが、共同体としての教会に対する信頼のさらなる喪失につながる、ということだ。このままいけば、最終的には、大量の信徒が離れていくだろう。

 協働性を、虐待の危機に対する教会の対応の重要なカギとなるものとして考えるのを拒むことは、教会の想像力の破綻だ。それはまた、神の民への背信でもある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

(参考「カトリック・あい」)

①トレント公会議は、宗教改革の混乱を収束させ、カトリック教会の体制の立て直しを図るために教皇パウロ3世が1545年に召集した公会議。1563年まで断続的に開かれ、①救済の原理は聖書だけではなく聖人の伝承(聖伝)の中にも存在する。伝統に基づいた教会が唯一の聖書解釈者である⇒ルターの聖書主義への反論②信仰はすべての義認の基礎であるが、その義認には神の恩寵だけでなく人間の自由意志による行為(洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、結婚の7つの秘蹟)によって有効となる⇒ルターの信仰義認説への反論③秘蹟(上記7つの儀式)の効果は「なすものの業」ではなく「なされた業」によって有効となるーことを確認。また、教会改革として、①司教の監督権を強化すると共に、定住義務の厳守、複数司教区兼任の禁止②聖職売買と贖宥状販売の禁止、聖職者の独身制など③ローマに宗教裁判所によるカトリック教会批判の取り締まり強化ーを決めた。

②第1バチカン公会議は1868年6月29日ピオ9世が召集。トリエント公会議以来300年ぶりの公会議で、関係者の期待も高かったが、教会論などさまざまなテーマについて広く扱う予定だったにもかかわらず、時間的制約によって討議されたのは①近代思想における誤謬を排斥することと②教皇首位説、教皇不可謬説に関する問題のみ。公会議において、 2つの憲章 「デイ・フィリウス」(”Dei Filius” )「パストル・エテルヌス」(”Pastor Aeternus” )が採決されたにとどまった。

 

2019年12月14日

・菊地大司教の「教皇さまが語った言葉から」①②③

教皇様が語った言葉から・その1(2019年12月 3日)

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 日本滞在中に、教皇フランシスコは様々な「言葉」を語りました。様々な人と出会う中で、いくつものスピーチを行い、その中で、多くの課題について触れられました。時間が限られていると同時に、宗教指導者であり、同時に国家元首でもあるという立場を考慮して、聖座(バチカン)によってスピーチは、用意周到に準備されていました。(写真は、東京カテドラルにて。©CBCJ)

 しかし全体のテーマは、「すべてのいのちを守るために」で貫かれています。人間のいのちは、神からの賜物であり、神の似姿として創造されているところに人間の尊厳の根源があるのだという、信仰の根幹に根ざしたいのちへの理解にしっかりと足場を置いて、様々な課題について発言されていたのだと感じました。

 人間のいのちは、その始まりから終わりまで、すべからく護られなくてはならないという信念が、人間のいのちを危機に陥らせている社会の様々な課題に対する教皇様の懸念を、力強いメッセージとして発信させたのだと思います。

 たくさんのことを語られたので、すべてを通して読むことは大変かも知れません。かといって、そのほんの一部を切り出したのでは、本当に伝えたいことは理解できません。教皇様のスピーチの中からいくつかのフレーズを、少しばかりまとまった単位で順番に取り上げて、紹介していきたいと思います。

 まず東京教区での行事から。11月25日の東京カテドラルにおける青年との集いでの教皇様のスピーチから。まず一つ目。

 「皆さんを見ると、今日の日本に生きる若者は、文化的および宗教的に多様なことが分かります。それこそが、皆さんの世代が未来にも手渡せる美しさです。皆さんの間にある友情と、この場にいる一人ひとりの存在が、未来はモノトーンではなく、各人による多種多様な貢献によって実現するものだということを、すべての人に思い起こさせてくれます。私たち人類家族にとって、皆が同じようになるのではなく、調和と平和のうちに共存すべきだと学ぶことが、どれほど必要でしょうか。私たちは、工場の大量生産で作られたのではないのです。誰もが、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、異なるのです。誰もが、分かち合うべき、自分の物語を持っているのです」

 カテドラルには900人を超える青年たちが集まっていました。その中には、日本出身の人もいれば、諸外国出身の青年もおり、また多文化のルーツを持つ青年も、様々な混乱を逃れて避難生活を送る人もおられ、多様性の坩堝のような集まりでした。社会の全体の姿を象徴するとともに、今の、そしてこれからの日本のカトリック教会の現実をも象徴するような、多様性のある集まりでした。

 その多様性を個々人がどのように生き、「人類家族」として、分裂ではなくて、「調和と平和」のうちに共存する道を探ることが大切だという呼びかけで、教皇様のメッセージは始まりました。メッセージの紹介は次に続きます。

(今回の訪問で分かったこと)

 これは今回の体験からの個人的な推測に過ぎませんが、聖座はこういった教皇様の海外訪問において、教皇様が公式に発言することに非常に大きな注意を払って準備をしていると感じました。もちろん訪問先の国の教会からは様々な情報が寄せられます。今回も、聖座の担当部局から、日時を決められて情報提供をするように、との指示があり、司教協議会の諸委員会はそれぞれの分野での情報を提出しました。

 実際にできあがったスピーチは、現地からの情報を確かに参照してはいるものの、やはり聖座の独自の考えを見事に反映した内容となっていました。なにか、現地の教会がこれを教皇様に言ってほしいとか、例えば私が個人として教皇様にこう言ってほしいとか、そんなリクエストができるようなシステムにはなっていませんでした。

 事前にいろいろな方から、教皇様にはこういうことを言ってほしいのでぜひ伝えてほしいというリクエストをいくつかいただきましたが、それはそもそも無理な話でありました。

 教皇様の語った言葉から・その2(2019年12月7日)

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 東京カテドラルでの青年の集いでは、3名の方々が日本における青年たちの生きている現実を話し、同時に教皇様へ問いかけ、それに対して教皇様が回答する形でスピーチをされました。(写真は東京カテドラルでの教皇様。©CBCJ)

 一人目は、新潟出身で、現在は日本のカトリック青年たちのリーダーの一人として活躍する女性。二人目は諸宗教の青年として、仏教の女性。三人目が、フィリピン出身のご両親のもと、日本で育った青年。

 教皇様が語られた言葉から、その一節です。まず、最初に発言した小林さんの呈した疑問に答えながら、教皇様はこう言います。

 「未希さんが語ったことです。彼女は、競争力、生産性ばかりが注目される慌ただしい社会で、若者がどのように神のために時間を割くことができるかを尋ねました。人間や共同体、あるいは社会全体でさえ、外的に高度に発展しても、内的生活は貧しく委縮し、熱意も活力も失っていることがよくあります。中身のない、お人形さんのようになるのです。すべてに退屈しています。夢を見ない若者がいます。夢を見ない若者は悲惨です。夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして、豊かな人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人がいます。なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです」

 日本のマスコミの報道でも注目された「ゾンビ」発言です。いったい何を大切にして生きているのか、疑問を投げかけ、その根底には「他者との人生を喜べない」と、自分にだけ感心を注ぎ、他者に心の目を向けることのない、人間関係の欠如を指摘されます。そして教皇様は、次のように続けられました。

 「世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人のなんと多いことでしょう。私は、繁栄した、しかし顔のない社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。貧しい人々の中でも、もっとも貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。「孤独と、愛されていない、という思いこそが、最も恐ろしい貧困です」。心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとっていちばんの貧しさは何だろうか」。正直に気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、愛されていない、と感じることです」

 昨年12月、前田枢機卿、高見大司教、アベイヤ司教と一緒にローマで教皇様とお会いしたとき、日本訪問への様々な思いを教皇様は語られました。教皇様はそこで、ご自分が心を痛めておられる様々な日本の抱える社会の問題を指摘されたのですが、そのうちに一つが、「孤独と孤立」でした。

 被災者の集いにおいても、教皇様は「孤独と孤立」の問題を指摘されました。物質的な反映だけで人間は幸福にはならない。互いに支え合い、愛されていると感じる人間関係が不可欠だと呼びかけられます。

 教皇様が2013年の就任からしばしば語られる「無関心のグローバル化」。むなしいシャボン玉の中に籠もって、そのかりそめの安住の地から、外への関心を持たない人々への警鐘。教皇様の一貫した主張です。

 

教皇の語った言葉から・その3(2019年12月14日)

 教皇様が日本で語られた言葉は、すべてがインパクトのあるものであったと言って差し支えないと思いますが、特にいくつかの言葉が、教会だけではなく広く一般の注目を浴びました。

 もちろんその一つは、核兵器廃絶に関する発言であり、またもう一つは、帰国の飛行機の中で、『私的な考え』と断った上で語った原子力発電についての考え方でした。もう一つ、あらゆる意味で注目を浴びたのは、『日本も難民を受け入れるべき』と語ったと言われている発言です。

 これは教皇滞日中にすでにメディアに流れ、それに対して、滞在中からすでに、「バチカンがまず難民を受け入れるべきだ」というリアクションがありました。そのリアクションについては後で触れるとして、いったいどこで教皇様は難民について語ったでしょう。

 教皇様の語ったたくさんの言葉を探していくと、一カ所だけ。それも文章にして4センテンス。ほんの短い言及がありました。東京カテドラルでの青年との集いの中での、以下の発言です。

 「さて、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民のかたが、ここでわたしたちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、あかしになります。なぜなら多くの人にとってはよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです」

 確かに当日、東京カテドラルには数名の難民の青年が来ていました。一番前の列にいたことと、後で触れるロゴ入りのTシャツを着ていたことから教皇様もその存在に気がつかれ、握手をして祝福してくださいました。

 この短い言及が、あれだけのリアクションを招くのですから、教皇の語られた言葉の持つ力と影響力には驚かされます。

 教皇フランシスコは2013年の就任直後に地中海のランペドゥーザ島を訪れて、アフリカから逃れてきた人々と出会い、そこで記憶に残る説教をされました。

 「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

 それ以来、誰ひとり排除されない社会の実現は教皇フランシスコにとっての優先課題であり、特に助けを必要としている人たちのいのちを守るために行動することが、今の世界のためにも、そして将来の世代のためにも必要なのだと強調されてこられました。

 カトリック教会はあのバチカンのテリトリーにとどまる存在ではありませんし、東京カテドラルで教皇は国家元首としてではなく、世界13億人の信徒のリーダーである宗教者として発言されています。

 そのリーダーである教皇様の意図を具体化するために、バチカンには様々な機構が設けられていますが、特に慈善活動や助けを求めている人に手を差し伸べる活動を世界的に展開するために設けられているのが、国際カリタスです。教皇パウロ6世によって設立された、国際NGOです。

 世界各地、カトリック教会があるところにはすべてカリタスが存在しており、日本にもカリタスジャパンがあります。カリタスジャパンは、例えば東北の大震災直後から今に至るまで、現地の教会と協力して、被害を受けた地域にとどまりながら復興支援活動を続けています。

 また1970年代後半からインドシナ難民を日本で受け入れたときには、外務省や国連難民高等弁務官事務所と連携して、全国数カ所に拠点を設けて、難民受け入れ事業を行いました。

 世界各地で、今現在も、カリタスは、教皇フランシスコの意を受けて、難民支援事業を展開しています。わたし自身も1995年頃に国際カリタスの行うルワンダ難民支援プログラムに参加して、3ヶ月ほど旧ザイールのキャンプで働きましたが、同様に難民を受け入れ保護する活動を、カトリック教会は長年にわたって実施してきました。

 またこの2年ほどは、『Share the Journey』と名付けたキャンペーンを世界的に展開し(日本では『排除ゼロキャンペーン』)、安全を求めて旅を続ける人たちとともに歩む道を探り続けています。(キャンペーンについてはこちらのリンク

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 このキャンペーンの先頭に立っていたのは、もちろん教皇フランシスコですが、もう一人、国際カリタス総裁のタグレ枢機卿は自ら世界各地の現場を訪れて、現場からの発信を続けています。そのタグレ枢機卿が、カトリック教会の世界宣教の責任者である福音宣教省長官に教皇フランシスコから任命されたのですから、いまや教皇様が目指しておられる教会の方向性は明確です。(写真上、向かって左がタグレ枢機卿)

 

(菊地東京大司教「司教の日記」より)

 

 

 

 

2019年12月10日

・中国の携帯電話利用者は一言一言が監視対象、「くまのプーさん」は禁句(BW)

 中国最大の国有通信事業者子会社の元社員がBitter Winterに、中国政府がどのようにして国民の有線電話や携帯電話でのやり取りを監視しているのか、その実態を明らかにした。

 米国のペンス副大統領が10月24日のワシントンでのスピーチで「今日、中国共産党は世界がこれまで見たことのない監視体制を構築している」と警告したが、中国国内では数百万台の監視カメラが、視界のきく、あらゆる地点から人々の動きを見ている。少数民族に対しては、公安警察が恣意的に設けたチェックポイントで、血液サンプルと指紋を採られ、音声を録音され、様々な角度から顔写真を撮られ、眼球の虹彩スキャンまでされる。

 そればかりか、政府は、国民のインターネットと携帯電話の使用状況をしっかりと把握し、それらによる会話を監視、成業することで世論を操作し、「国家にとって敏感」と思われるものを差し止めている。検閲対象はどんどん広がっており、12月1日からは、携帯電話サービスを新規登録する際、すべてのユーザーを識別し、オンラインで制御できるように、顔をスキャンすることが義務付けられる。

 中国の国営最大の通信サービスプロバイダーである「中国移動」の子会社の元従業員リー氏(仮名)は、 「中国にはプライバシーがまったくない。中国共産党にとって不利と思われることを話せば、すぐに処罰されます。 『嫌がらせを取り締まるため』という口実で、すべての人が監視および管理されている」と語った。

 リー氏は、会社で通信の検閲担当者の1人で、”有害”な情報”に対処する、という名目で、顧客の通話内容をモニターしていた。監視対象は、香港、マカオ、台湾を除く中国本土の31の省級行政区の携帯電話利用者。監視システムは、中国共産党に批判的で、国家指導者にとって好ましくない発言を含め、政治的、宗教的な信条に関する通話を自動的に検知するようにプログラムされ、そのような内容の通話が検知されたら、徹底的に調べ上げるよう指示されている。

 検閲担当者の数は、少なくとも500人にのぼり、非常にストレスを感じる職場だった。「誰かが十分な注意を払わず、問題の通話を聞き逃したら、月給と年末ボーナスがカットされます。通常、毎月1万件以上の情報を処理する必要があり、少なくとも年に1、2回の間違いを犯すことは避けられませんでした」と語る。

 検閲監視対象として、「全能の神」や「法輪功」などの宗教団体関係者のやりとりは要注意に特定されており、中国共産党にとって好ましくないと判断されるものはすべて「政治的」というラベルが貼られる。 「例えば、中国共産党による法輪功学習者の臓器摘出に言及するような会話が外部に漏れないように、特別な対応が取られている」という。

 「SMS (ショートメッセージサービス)やMMS (マルチメディアメッセージングサービス)、WeChatなどのソーシャルネットワーキングサイトでの利用者のやり取りで”当局にとっての”機密情報”が話されると、監視システムが自動的に情報を検知し、ユーザーへのサービスは即座に無効になる… ユーザーがサービスの無効を解除するには、IDカードを持って契約している『中国移動』のサービスセンターに出向き、”機密情報”を通話者の間で二度と共有しないことを約束する声明を書かなければなりません」。

 だが、”不適切な”言葉の使用でサービスを無効にするのは、軽度の”警告措置”だ。当局が、やり取りの内容に重大な問題があると判断すれば、処罰はそれだけで済まない。リー氏が示した実際に会ったケースは次のようなものだ。今年5月、福建省の南東部に住むある人が国境で逮捕され、国境警備隊にパスポートを破砕された。理由は、彼が(携帯電話でのやりとりで)中国共産党と国の指導者たちを批判した、それが”政府への侮辱”であり、”公共の秩序を乱した”からだ、と言われたという。「検閲の基準は近年、定期的に更新されており、年々厳格化し、抜け穴も少なくされています」。

 インターネットの監視・検閲を専門にするある会社の社員は、自分の会社が国の中央網絡安全和信息化委員會辦公室( Office of the Central Cyberspace Affairs Commission)と提携し、オンライン上の人々のやり取りの監視や制御を請け負っており、「政府・共産党が一般大衆にオンラインで見せたくない内容の特定を効果的にするため、社員は事前に、徹底的な訓練を受けねばならない」と説明した。

 そして、「政府と指導者たちについての冗談や風刺的な発言、ビデオも、好ましくないものとして、即座に削除される、小さな見過ごしも厳しく処罰されます… たとえば、『くまのプーさん』に言及することは、中国のソーシャルメディアプラットフォームでは禁止されており、テディベアに関する情報を共有することは、習近平国家主席と比べて論じられた2013年から違法と見なされています」としている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

*Bitter Winter(https://jp.bitterwinter.org )は、中国における信教の自由 と人権 について報道するオンライン・メディアとして2018年5月に創刊。イタリアのトリノを拠点とする新興宗教研究センター(CESNUR)が、毎日7言語でニュースを発信中。世界各国の研究者、ジャーナリスト、人権活動家が連携し、中国における、あらゆる宗教に対する迫害に関するニュース、公的文書、証言を公表し、弱者の声を伝えている。中国全土の数百人の記者ネットワークにより生の声を届け, 中国の現状や、宗教の状況を毎日報告しており、多くの場合、他では目にしないような写真や動画も送信している。中国で迫害を受けている宗教的マイノリティや宗教団体から直接報告を受けることもある。編集長のマッシモ・イントロヴィーニャ(Massimo Introvigne)は教皇庁立グレゴリアン大学で学んだ宗教研究で著名な学者。ー「カトリック・あい」はBitterWinterの承認を受けて記事を転載します。

 

 

 

2019年12月9日

更新・使徒的勧告「Christus vivit(キリストは生きておられる)」若者参加のビデオ版⑮⑯⑰

One year after the Synod on young people, Catholic youth from around the world engage with “Christus vivit”, Pope Francis’ Apostolic Exhortation. One passage reads, “Young people need to have their freedom respected, yet they also need to be accompanied. The family should be the first place of accompaniment”. Jeanine from Malta tells us about the importance of accompanying young people. She says that having a mentor can really help when life gets hard.

Accompaniment by adults

242. Young people need to have their freedom respected, yet they also need to be accompanied. The family should be the first place of accompaniment. Youth ministry can present the ideal of life in Christ as the process of building a house on rock (cf. Mt 7:24-25). For most young people, that house, their life, will be built on marriage and married love. That is why youth ministry and the pastoral care of families should be coordinated and integrated, with the aim of ensuring a continuous and suitable accompaniment of the vocational process.

243. The community has an important role in the accompaniment of young people; it should feel collectively responsible for accepting, motivating, encouraging and challenging them. All should regard young people with understanding, appreciation and affection, and avoid constantly judging them or demanding of them a perfection beyond their years.

244. At the Synod, “many pointed to the shortage of qualified people devoted to accompaniment. Belief in the theological and pastoral value of listening entails rethinking and renewing the ways that priestly ministry is ordinarily exercised, and reviewing its priorities. The Synod also recognized the need to train consecrated persons and laypeople, male and female, to accompany young people. The charism of listening that the Holy Spirit calls forth within the communities might also receive institutional recognition as a form of ecclesial service”.

245. There is also a special need to accompany young men and women showing leadership potential, so that they can receive training and the necessary qualifications. The young people who met before the Synod called for “programmes for the formation and continued development of young leaders. Some young women feel that there is a lack of leading female role models within the Church and they too wish to give their intellectual and professional gifts to the Church. We also believe that seminarians and religious should have an even greater ability to accompany young leaders”.

246. The same young people described to us the qualities they hope to find in a mentor, and they expressed this with much clarity. “The qualities of such a mentor include: being a faithful Christian who engages with the Church and the world; someone who constantly seeks holiness; someone who is a confidant without judging. Similarly, someone who actively listens to the needs of young people and responds in kind; someone deeply loving and self-aware; someone who recognizes his or her limits and knows the joys and sorrows of the spiritual journey. An especially important quality in mentors is the acknowledgement of their own humanity – the fact that they are human beings who make mistakes: not perfect people but forgiven sinners. Sometimes mentors are put on a pedestal, and when they fall, it may have a devastating impact on young people’s ability to continue to engage with the Church. Mentors should not lead young people as passive followers, but walk alongside them, allowing them to be active participants in the journey. They should respect the freedom that comes with a young person’s process of discernment and equip them with tools to do so well. A mentor should believe wholeheartedly in a young person’s ability to participate in the life of the Church. A mentor should therefore nurture the seeds of faith in young people, without expecting to immediately see the fruits of the work of the Holy Spirit. This role is not and cannot be limited to priests and consecrated life, but the laity should also be empowered to take on such a role. All such mentors should benefit from being well-formed, and engage in ongoing formation”.

247. The Church’s educational institutions are undoubtedly a communal setting for accompaniment; they can offer guidance to many young people, especially when they “seek to welcome all young people, regardless of their religious choices, cultural origins and personal, family or social situations. In this way, the Church makes a fundamental contribution to the integral education of the young in various parts of the world”. They would curtail this role unduly were they to lay down rigid criteria for students to enter and remain in them, since they would deprive many young people of an accompaniment that could help enrich their lives.

(2019.12.10 Vatican News)

 

Christus vivit,  ⑯faith does not ignore history

One year after the Synod on young people, Catholic youth from around the world engage with “Christus vivit”, Pope Francis’ Apostolic Exhortation. The documents says, “The world has never benefited … from a rupture between generations”, but the elderly and the young when united is like the roots guiding the future. And what more beautiful roots could there be than to be a Christian from the Holy Land? It is Meera’s hope, a young Palestinian, who says: “here, the Gospel is a ‘living stone’.

CHAPTER SIX

Young people with roots

179. I have sometimes seen young and beautiful trees, their branches reaching to the sky, pushing ever higher, and they seemed a song of hope. Later, following a storm, I would find them fallen and lifeless. They lacked deep roots. They spread their branches without being firmly planted, and so they fell as soon as nature unleashed her power. That is why it pains me to see young people sometimes being encouraged to build a future without roots, as if the world were just starting now. For “it is impossible for us to grow unless we have strong roots to support us and to keep us firmly grounded. It is easy to drift off, when there is nothing to clutch onto, to hold onto”.

Don’t allow yourselves to be uprooted

180. This is an important issue, and I want to spend a brief chapter discussing it. If we appreciate this issue, we can distinguish the joy of youth from a false cult of youth that can be used to seduce and manipulate young people.

181. Think about it: if someone tells young people to ignore their history, to reject the experiences of their elders, to look down on the past and to look forward to a future that he holds out, doesn’t it then become easy to draw them along so that they only do what he tells them? He needs the young to be shallow, uprooted and distrustful, so that they can trust only in his promises and act according to his plans. That is how various ideologies operate: they destroy (or deconstruct) all differences so that they can reign unopposed. To do so, however, they need young people who have no use for history, who spurn the spiritual and human riches inherited from past generations, and are ignorant of everything that came before them.

182. These masters of manipulation also use another tactic: the cult of youth, which dismisses all that is not young as contemptible and outmoded. The youthful body becomes the symbol of this new cult; everything associated with that body is idolized and lusted after, while whatever is not young is despised. But this cult of youth is simply an expedient that ultimately proves degrading to the young; it strips them of any real value and uses them for personal, financial or political profit.

183. Dear young friends, do not let them exploit your youth to promote a shallow life that confuses beauty with appearances. Realize that there is beauty in the labourer who returns home grimy and unkempt, but with the joy of having earned food for his family. There is extraordinary beauty in the fellowship of a family at table, generously sharing what food it has. There is beauty in the wife, slightly dishevelled and no longer young, who continues to care for her sick husband despite her own failing health. Long after the springtime of their courtship has passed, there is beauty in the fidelity of those couples who still love one another in the autumn of life, those elderly people who still hold hands as they walk. There is also a beauty, unrelated to appearances or fashionable dress, in all those men and women who pursue their personal vocation with love, in selfless service of community or nation, in the hard work of building a happy family, in the selfless and demanding effort to advance social harmony. To find, to disclose and to highlight this beauty, which is like that of Christ on the cross, is to lay the foundations of genuine social solidarity and the culture of encounter.

184. Along with the stratagems of a false cult of youth and appearance, we are also witnessing attempts to promote a spirituality without God, an affectivity without community or concern for those who suffer, a fear of the poor, viewed as dangerous, and a variety of claims to offer a future paradise that nonetheless seems increasingly distant. I do not want to offer you any such thing, and with great love I urge you not to let yourselves be taken in by this ideology. It will not make you any younger, but enslave you instead. I propose another way, one born of freedom, enthusiasm, creativity and new horizons, while at the same time cultivating the roots that nourish and sustain us.

185. In this regard, I would note that “many Synod Fathers coming from non-Western contexts pointed out that in their countries globalization is bringing with it forms of cultural colonization that sever young people from their cultural and religious roots. The Church needs to make a commitment to accompanying these young people, so that in the process they do not lose sight of the most precious features of their identity”.

186. Today, in fact, we see a tendency to “homogenize” young people, blurring what is distinctive about their origins and backgrounds, and turning them into a new line of malleable goods. This produces a cultural devastation that is just as serious as the disappearance of species of animals and plants. For this reason, in addressing young indigenous people gathered in Panama, I encouraged them to “care for your roots, because from the roots comes the strength that is going to make you grow, flourish and bear fruit”.

Your relationship with the elderly

187. At the Synod, we heard that “the young are focused on the future and they face life with energy and dynamism. But they are also tempted… to give little attention to the memory of the past from which they come, in particular the many gifts transmitted to them by their parents, their grandparents and the cultural experience of the society in which they live. Helping the young to discover the living richness of the past, to treasure its memory and to make use of it for their choices and opportunities, is a genuine act of love towards them, for the sake of their growth and the decisions they are called to make”.

188. The word of God encourages us to remain close to the elderly, so that we can benefit from their experience: “Stand in the assembly of the elders. Who is wise? Cling to him… If you see an intelligent man, visit him; let your foot wear out his doorstep” (Sir 6:34.36). In every case, the long years they lived and all they have experienced in life should make us look to them with respect: “You shall rise up before the hoary head” (Lev 19:32). For “the glory of young men is their strength, but the beauty of old men is their grey hair” (Prov 20:29).

189. The Bible also tells us: “Listen to your father who begot you, and do not despise your mother when she is old” (Prov 23:22). The command to honour our father and mother “is the first commandment to carry a promise with it” (Eph 6:2, cf. Ex 20:12; Deut 5:16; Lev 19:3), and that promise is: “that it may be well with you and that you may live long on the earth” (Eph 6:3).

190. This does not mean having to agree with everything adults say or approving all their actions. A young person should always have a critical spirit. Saint Basil the Great encouraged the young to esteem the classical Greek authors, but to accept only whatever good they could teach. It is really a matter of being open to receiving a wisdom passed down from generation to generation, a wisdom familiar with human weakness and not deserving to vanish before the novelties of consumer society and the market.

191. The world has never benefited, nor will it ever benefit, from a rupture between generations. That is the siren song of a future without roots and origins. It is the lie that would have you believe that only what is new is good and beautiful. When intergenerational relationships exist, a collective memory is present in communities, as each generation takes up the teachings of its predecessors and in turn bequeaths a legacy to its successors. In this way, they provide frames of reference for firmly establishing a new society. As the old saying goes: “If the young had knowledge and the old strength, there would be nothing they could not accomplish”.

Dreams and visions

192. The prophecy of Joel contains a verse that expresses this nicely: “I will pour out my Spirit upon all flesh, and your sons and your daughters shall prophesy, and your young men shall see visions, and your old men shall dream dreams” (3:1; cf. Acts 2:17). When young and old alike are open to the Holy Spirit, they make a wonderful combination. The old dream dreams, and the young see visions. How do the two complement one another?

193. The elderly have dreams built up of memories and images that bear the mark of their long experience. If young people sink roots in those dreams, they can peer into the future; they can have visions that broaden their horizons and show them new paths. But if the elderly do not dream, young people lose clear sight of the horizon.

194. Perhaps our parents have preserved a memory that can help us imagine the dream our grandparents dreamed for us. All of us, even before our birth, received, as a blessing from our grandparents, a dream filled with love and hope, the dream of a better life. Even if not our grandparents, surely some of our great-grandparents had that happy dream as they contemplated their children and then grandchildren in the cradle. The very first dream of all is the creative dream of God our Father, which precedes and accompanies the lives of all his children. The memory of this blessing that extends from generation to generation is a precious legacy that we should keep alive so that we too can pass it on.

195. That is why it is a good thing to let older people tell their long stories, which sometimes seem legendary or fanciful – they are the dreams of old people – yet are often full of rich experiences, of eloquent symbols, of hidden messages. These stories take time to tell, and we should be prepared to listen patiently and let them sink in, even though they are much longer than what we are used to in social media. We have to realize that the wisdom needed for life bursts the confines of our present-day media resources.

196. In the book Sharing the Wisdom of Time, I expressed some thoughts in the form of questions. “What do I ask of the elders among whom I count myself? I call us to be memory keepers. We grandfathers and grandmothers need to form a choir. I envision elders as a permanent choir of a great spiritual sanctuary, where prayers of supplication and songs of praise support the larger community that works and struggles in the field of life”. It is a beautiful thing when “young men and maidens together, old men and children, praise the name of the Lord” (Ps 148:12-13).

197. What can we elderly persons give to the young? “We can remind today’s young people, who have their own blend of heroic ambitions and insecurities, that a life without love is an arid life”. What can we tell them? “We can tell fearful young people that anxiety about the future can be overcome”. What can we teach them? “We can teach those young people, sometimes so focused on themselves, that there is more joy in giving than in receiving, and that love is not only shown in words, but also in actions”.

Taking risks together

198. A love that is generous and outgoing, that acts and takes risks, may at times make mistakes. Here we may find timely the witness of Maria Gabriella Perin, who lost her father shortly after her birth: she reflects on how this influenced her life, in a relationship that did not last but that left her a mother and now a grandmother. “What I know is that God makes stories. In his genius and mercy, he takes our triumphs and our failures and weaves beautiful tapestries that are full of irony. The reverse of the fabric may look messy with its tangled threads – the events of our life – and maybe this is the side we dwell on when we doubt. But the right side of the tapestry displays a magnificent story, and this is the side that God sees”. When older people look at life closely, often they instinctively know what lies behind the tangled threads, and they recognize what God can create even out of our mistakes.

199. If we journey together, young and old, we can be firmly rooted in the present, and from here, revisit the past and look to the future. To revisit the past in order to learn from history and heal old wounds that at times still trouble us. To look to the future in order to nourish our enthusiasm, cause dreams to emerge, awaken prophecies and enable hope to blossom. Together, we can learn from one another, warm hearts, inspire minds with the light of the Gospel, and lend new strength to our hands.

200. Roots are not anchors chaining us to past times and preventing us from facing the present and creating something new. Instead, they are a fixed point from which we can grow and meet new challenges. It does us no good “to sit down and long for times past; we must meet our culture with realism and love and fill it with the Gospel. We are sent today to proclaim the Good News of Jesus to a new age. We need to love this time with all its opportunities and risks, its joys and sorrows, its riches and its limits, its successes and failures”.

201. During the Synod, one of the young auditors from the Samoan Islands spoke of the Church as a canoe, in which the elderly help to keep on course by judging the position of the stars, while the young keep rowing, imagining what waits for them ahead. Let us steer clear of young people who think that adults represent a meaningless past, and those adults who always think they know how young people should act. Instead, let us all climb aboard the same canoe and together seek a better world, with the constantly renewed momentum of the Holy Spirit.

(2019.12.12 Vatican News)

Christus vivit ⑰ friendship is a great gift from God

One year after the Synod on young people, Catholic youth from around the world engage with “Christus vivit”, Pope Francis’ Apostolic Exhortation. “I no longer call you slaves but friends”, Jesus says to his disciples. Pope Francis writes that friendship is not a “fleeting or temporary relationship”, but a solid one of affection, “that brings us together”. Klara from Denmark says that having a friend teaches us how to love.

In friendship with Christ

150. No matter how much you live the experience of these years of your youth, you will never know their deepest and fullest meaning unless you encounter each day your best friend, the friend who is Jesus.

151. Friendship is one of life’s gifts and a grace from God. Through our friends, the Lord refines us and leads us to maturity. Faithful friends, who stand at our side in times of difficulty, are also a reflection of the Lord’s love, his gentle and consoling presence in our lives. The experience of friendship teaches us to be open, understanding and caring towards others, to come out of our own comfortable isolation and to share our lives with others. For this reason, “there is nothing so precious as a faithful friend” (Sir 6:15).

152. Friendship is no fleeting or temporary relationship, but one that is stable, firm and faithful, and matures with the passage of time. A relationship of affection that brings us together and a generous love that makes us seek the good of our friend. Friends may be quite different from one another, but they always have things in common that draw them closer in mutual openness and trust.

153. Friendship is so important that Jesus calls himself a friend: “I do not call you servants any longer, but I call you friends” (Jn 15:15). By the gift of his grace, we are elevated in such a way that we truly become his friends. With the same love that Christ pours out on us, we can love him in turn and share his love with others, in the hope that they too will take their place in the community of friendship he established. And even as he enjoys the complete bliss of the life of the resurrection, we, for our part, can work generously to help him build his kingdom in this world, by bringing his message, his light, and above all his love, to others (cf. Jn 15:16). The disciples heard Jesus calling them to be his friends. It was an invitation that did not pressure them, but gently appealed to their freedom. “Come and see”, Jesus told them; so “they came and saw where he was staying, and they remained with him that day” (Jn 1:39). After that unexpected and moving encounter, they left everything and followed him.

154. Friendship with Jesus cannot be broken. He never leaves us, even though at times it appears that he keeps silent. When we need him, he makes himself known to us (cf. Jer 29:14); he remains at our side wherever we go (cf. Jos 1:9). He never breaks his covenant. He simply asks that we not abandon him: “Abide in me” (Jn 15:4). But even if we stray from him, “he remains faithful, for he cannot deny himself” (2 Tim 2:13).

155. With a friend, we can speak and share our deepest secrets. With Jesus too, we can always have a conversation. Prayer is both a challenge and an adventure. And what an adventure it is! Gradually Jesus makes us appreciate his grandeur and draw nearer to him. Prayer enables us to share with him every aspect of our lives and to rest confidently in his embrace. At the same time, it gives us a share in his own life and love. When we pray, “we open everything we do” to him, and we give him room “so that he can act, enter and claim victory”.

156. In this way, we can experience a constant closeness to him, greater than anything we can experience with another person: “It is no longer I who live, but it is Christ who lives in me” (Gal 2:20). Do not deprive your youth of this friendship. You will be able to feel him at your side not only when you pray, but at every moment. Try to look for him, and you will have the beautiful experience of seeing that he is always at your side. That is what the disciples of Emmaus experienced when, as they walked along dejectedly, Jesus “drew near and walked with them” (Lk 24:15). In the words of a saint, “Christianity is not a collection of truths to be believed, rules to be followed, or prohibitions. Seen that way, it puts us off. Christianity is a person who loved me immensely, who demands and claims my love. Christianity is Christ”.

157. Jesus can bring all the young people of the Church together in a single dream, “a great dream, a dream with a place for everyone. The dream for which Jesus gave his life on the cross, for which the Holy Spirit was poured out on the day of Pentecost and brought fire to the heart of every man and woman, to your heart and mine. To your heart too, he brought that fire, in the hope of finding room for it to grow and flourish. A dream whose name is Jesus, planted by the Father in the confidence that it would grow and live in every heart. A concrete dream who is a person, running through our veins, thrilling our hearts and making them dance”.

2019年12月8日

12.24更新・スマホ、ゲーム…「読解力」の低下どころではない「思考能力」「思いやり」の喪失!体力も低下

(2019.12.5 カトリック・あい)

 先日、厚生労働省の研究班が「若者の『ゲーム依存』に関する初の全国実態調査」の結果を発表し、若者の2割が平日3時間以上もスマホなどでゲームに浸りきり、「生活で一番大切」と考え、心身に障害を起こす例も増えていることが明らかになったが、今度は、「世界の15歳を対象とした経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査」で、日本の高校一年を含む子供たちの読解力が15位まで落ちた、という結果が出た。

 新聞やテレビなどでは「今の学校は英語や道徳など新たな課題が山積し、読解力の育成が難しくなっている」などという専門家のコメントが出ているが、本当にそうだろうか。昨年春、スマホが学力を破壊する”これだけの根拠ー3時間触ると2時間の勉強がムダに」という見出しで記事を書いておられたが、多くの子供たちが”スマホ中毒”に陥りかけているのが、大きな原因ではないだろうか。

 電車によく乗られる方はかなり気づいておられるだろうが、若者の10人のうち8人は座っても、立っていてもスマホを見、聴いている。周囲がほとんどそうなので、のぞかなくても、いやでも内容が見えてしまうのだが、ほとんどがゲーム、漫画、そしてファッション情報、食べ物情報、ゴシップ情報だ。

 要するに、まったく受け身、主体的に何か特定の情報を調べるとか、今日の日本の、世界のトッニュースは何か、などの問題意識はほとんど感じられない。まさに”生活”の一部、無くてはならない”自然”の一部になっている。若者だけではない。最近では、どんどん年齢層が上がっているように見える。そしてほとんどの人に共通しているのが、「無表情」、場合によって「般若面」になっていることだ。

 私が所属する教会の友人の85歳の女性も、「電車に乗って優先席に前に立ったが、座っているのは全部、若者。スマホをひたすら眺め続け、席を譲るそぶりも見せない。そもそも周りが見えていない。お年寄りや妊婦が側に来ても、知らんふりする以前に、気が付いていない。別に座らせてもらいたくもないが、つくづく情けなくなった」とお話しになっていた。

 スマホの急速な”普及”、朝から晩までゲームに浸る社会現象が一時のものとは思われない。なぜなら、「努力をすることなく、ひたすら楽しい」からだろう。「読解力」「学力」の低下も問題だが、もっと恐ろしいのは、こうした現象の中で、「思考能力」「相手を思いやり、助けようとする意志」、あるいは、「物事の良し悪しを見抜き、社会に生きるものとしての常識を働かせる、識別力」がどんどん失われていることではなかろうか。

 確かにこれは日本だけの現象ではない。教皇フランシスコも、ことあるごとに、スマホ、インターネットの弊害について、とくに若者たちに対して警告を繰り返されておられる。だが、個人的な経験では、日本ほど極端な状況になっている国は少ないのではないだろうか。残念なのは、日本の教会のリーダーたち(つまり高位聖職者たち)に、この問題への危機意識がほとんど感じられないことである。

 

(参考)

 世界各国の15歳の学力を測る国際学力調査の結果が公表されました。日本の子どもは科学と数学はトップレベルを維持しましたが、課題とされている読解力は前回より低い15位でした。専門家は「今の学校は英語や道徳など新たな課題が山積し、読解力の育成が難しくなっている」と指摘しています。

  「PISA(ピザ)」と呼ばれるこの国際学力調査は、経済協力開発機構(OECD)が世界の15歳を対象に科学と数学、それに読解力を測定するため、3年に一度実施しています。

去年の調査には世界79の国と地域から、日本の高校1年生を含む、60万人の子どもが参加し、その結果が公表されました。日本の子どもの結果は、科学が529点で前回の2015年の時と比べて、順位は3つ低い5位、数学は527点で順位は1つ低い6位で、いずれも順位は下げましたがトップレベルでした。

 一方、文章や図表から必要な情報を取り出して文章などにまとめる「読解力」は504点で、順位を7つ下げて15位でした。

 参加した国や地域では、いずれも中国の北京、上海、江蘇、浙江の4つの地域が3つの部門ともトップ、次いで、シンガポールやエストニアなどが上位を占めました。

「脱ゆとり教育」へ転換のきっかけ

日本の教育政策はこの国際学力調査に大きく影響を受けてきました。2003年には、順位が下がったことがPISAショックといわれ、それまでの「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育」へと転換し、授業時間や教える内容の増加、さらに、全国学力テストの復活にもつながりました。

日本の子どもは過去の調査でトップレベルを維持している科学や数学と比べると、「読解力」が低いとされていて、今の「脱ゆとり教育」は、その育成に力を入れてきたものの今回はその成果が見られませんでした。

結果について、文部科学省は「読解力の低下については、重く受け止めている。要因の分析を詳細に行うとともに、新たな学習指導要領により、教育の質の向上に取り組みたい」とコメントしています。

「読解力」の問題例

今回公表された「読解力」の問題です。

試験はパソコンを使って行われました。モアイ像で知られるイースター島をテーマとした大学教授のブログと、本の書評、さらに、科学雑誌の記事の3つの異なる文章を読み比べてもらい、島から大木が消滅した原因について、資料から根拠を挙げて記述するよう求めています。

「読解力」の問題例

正答例は以下のとおりです。

(学説を支持したもの)
▼人々がモアイ像を動かすために大きな木を切り倒した。
▼ネズミが木の種を食べたため、新しい木が育たなかった。

(いずれの学説も選ばず)
▼実際に大木に何が起こったかについては、さらに研究を進めなければならない。

このように、どの学説を選ぶかは自由ですが、なぜそれを選んだのか、根拠を示しながら自分の考えをまとめる力が問われています。

日本の読解力の正答率は、全体ではOECDの平均を上回っていますが、この問題については48.6%でOECDとほぼ同じレベルでした。

読解力向上 模索する学校現場

課題となっている「読解力」を伸ばそうと、学校現場では試行錯誤を続けています。

福岡県久山町の久原小学校ではおよそ20年前から登校後に15分間読書をしたり、保護者らが参加して、本を読み聞かせたりする取り組みを続けています。

また、児童文学作家、新美南吉の「ごん狐」を題材とした国語の授業でも、子ギツネの「ごん」の心の変化や作者のメッセージについて、互いに意見を交換しながら、自分の考えを文章にまとめるようにしていました。

児童の1人は「友達と話し合う中で答えが分かった時は『ああ、そうだ!』とうれしくなります」と話していました。

読解力向上 模索する学校現場

小学校では、来年度から英語が教科化されたりプログラミング教育も始まったりするため、読解力の育成ばかりに時間をかけられないなどの課題もあります。

吉田昌平教諭は「こうすれば読解力が育つという正解はなく、なかなか目に見えた結果が出ないところに難しさを感じる。子どもはもともと好奇心が旺盛なはずだが、テストで与えられた問題しか答えなくなる。テストで測りえない考え続ける姿勢の土台を育てたい」と話していました。

日本の順位の水位

 国際学力調査で、日本の子どもは「科学的リテラシー」と「数学的リテラシー」については第1回の2000年から今回の2018年まで、7回の調査すべてでトップクラスを維持しています。

実施年           科学・数学
2000年・・・・・・・・・ 2位・1位
2003年・・・・・・・・・ 2位・6位
2006年・・・・・・・・・ 6位・10位
2009年・・・・・・・・・ 5位・9位
2012年・・・・・・・・・ 4位・7位
ーー(調査方法変更)ーー
2015年・・・・・・・・・ 2位・5位
2018年・・・・・・・・・ 5位・6位

 一方、読解力については、ほかの2つの部門と比べて、低い順位が続いています。2000年が8位、2003年は14位に下がり、教育関係者などの間で、ゆとり教育による学力低下が裏付けられたとして、PISAショックと言われました。2006年は15位、2009年は8位と推移しましたが、2012年に4位に順位を上げると、授業時間や教える内容を増やすなどした「脱ゆとり教育」の成果とされました。

【”スマホが学力を破壊する”これだけの根拠3時間触ると2時間の勉強がムダに】(2018.3.29 PRESIDENT Online)

 携帯・スマホの使用時間が長い子どもの学力が低いと聞くと、教育関係者を含む多くの人は、それは自宅で勉強しないで携帯・スマホを操作しているのだから低くて当たり前だと考えます。しかし、グラフから読み取れるように、自宅で勉強をしている生徒も、していない生徒も、等しく成績が低下しています。すなわち、家庭学習時間の減少が学力低下の直接の原因である可能性は低いと考えることができるのです。

 私が特に深刻にとらえたのは、家でほとんど勉強をしない生徒たちのデータです。家で勉強をしない生徒たちは、当たり前のことですが、学校でしか勉強していませんから、学校の授業を受けた時に作られた知識・記憶によって、テストの成績が決まります。

 学校の授業を受けただけの状態で数学の試験を受けると、平成25年度の試験では平均で約62点の点数がとれています。それが、携帯・スマホを1時間以上使うと、使った時間の長さに応じて成績が低下してしまうのです。4時間以上使うと15点も低くなっています。

 2時間も自宅で勉強して、知識や記憶が増えたはずなのに、4時間以上携帯・スマホを使うと、自宅学習の分はおろか、学校で学んだことまで相殺されてしまっているのだとしたら、これは由々しき事態ではないでしょうか。

 この結果から想定される最悪の仮説は、携帯・スマホを長時間使うことで、学校での学習に悪影響を与える何かが生徒の「脳」に生じたのではないかというものです。可能性(1)は、学校の授業で脳の中に入ったはずの学習の記憶が消えてしまった。可能性(2)は、脳の学習機能に何らかの異常をきたして学校での学習がうまく成立しなかった。どちらが正しいかはわかりませんが、ただ事ではないことは間違いありません。

*数学以外の教科では?

 携帯・スマホを使うことで点数が下がってしまうのは、数学だけなのでしょうか? 他の科目のデータも見てみましょう。グラフ1-2は国語、1-3は理科、1-4は社会の成績です。理科と社会では、数学と同様に携帯・スマホの使用時間が長いほど成績が低くなる傾向が顕著でした。国語は、テストの性格の違いもあってか、成績の低下率が弱いように見えます。

2019年12月5日