・朝鮮半島非核化をどう実現するか ~緊急フォーラム「米朝会談の結果を読み解く」(言論NPO)

(2018.6. 14 言論NPOニュース) 言論NPOは、歴史的な米朝首脳会談から一夜明けた6月13日、「米朝会談の結果をどう読み解くか」をテーマに緊急フォーラムを開催しました。

 まず、司会を務める代表の工藤泰志が挨拶に立ち、前日行われた米朝会談について、「歴史的な首脳会談と言われながら、非核化に向けた具体的な行動や、期限、検証の方法では合意ができず、今後のプロセスとして先送りされ、単なる政治ショーに付きあわされたような、違和感を覚えた人も多かったのではないか」との見解を語りました。一方で、「朝鮮半島では間違いなく歴史が動こうとしており、私たちは、その準備を始めなくてはならない。そうした中で、朝鮮半島の完全な非核化をどうやって具体的に実現していくのかについて今日は議論したい」と今回の緊急フォーラムの意義を語り、フォーラムは開幕しました。

 今回の議論には、賈慶国・北京大学国際関係学院院長(政治協商会議常務委員)、宮本雄二・元中国大使、西正典・元防衛省事務次官と香田洋二・元自衛艦隊司令官の4氏が出席しました。

*今回の会談で交渉を有利に進めたのは金正恩氏

 議論の冒頭、言論NPOが前日に急遽行った有識者アンケートの結果が工藤から報告されました。

 首脳会談の成否については、「どちらとも言えない」が51.9%で最も多く、次いで「成功した」が29.8%、「失敗だった」が14.4%でした。また、会談での合意によって朝鮮半島の完全な非核化の道筋を描けたか、との問いについては、「解決の一歩とはなったが、最終的な解決は今後の協議次第で先行きが見えない」が48.4%で、「前進はあったが、完全な非核化は未解決のまま」の27.0%と合わせ、75.4%もの人が、将来の非核化の難しさを指摘していました。さらに、「両首脳のどちらが交渉を有利に進めたか」との質問には、二人に一人(50.5%)が金正恩朝鮮労働党委員長を上げ、これに対しトランプ米大統領としたのはわずか9.1%だった、との結果を紹介しました。

*会談は成功、失敗?次への一歩か、引っ込みがつかなくなったか

さて、初の米朝首脳会談は、名を取ったトランプ米大統領と実を取った金正恩委員長とも言われていますが、会談は成功だったのか、失敗だったのか、四氏が語ります。

 まず宮本氏は、「今回の会談のみをもって、『会談は成功』とは言いたくないが、次への一歩という意味では成功だった。ただ、問題は山積しており、楽観は許されない」と語りました。さらに、トランプ大統領の目標として、11月の中間選挙の可能性を挙げ、「中間選挙が終わって国内状況が変わり、望み通りのペースで進まず、北朝鮮が動かないという時には、トランプさんが強い態度で臨むかもしれない」との見解を示しました。

 これに対し賈慶国氏は、「核・ミサイル問題の緊張を緩和できたこと、非核化を原則的な共通認識として示せたことの二点で成功だった」と、前向きに捉えました。さらに、「目標に向かって現実化することが大事だ。平和的解決の基礎ができたからと言って、将来のことを話すのは時期尚早で、多くの困難はまだまだある。平和解決に取り組む準備も必要で、喜ばしいが、喜び過ぎる理由もない」と、冷静に語りました。

 次に、防衛事務次官も務めた西氏は、「両国のトップが会って話をしてしまったから、もう引っ込みがつかない。これからどう転がすかについては、両国に多分、アイディアはない。もう引っ込みがつかないという点では、どこに向かっていくのか、ずっと見ていくしかない」と悲観的に語ります。

一方で西氏は、北朝鮮がミサイル開発に踏み切った理由として、中韓の結びつきを北朝鮮への裏切りとして反発したこと、通常兵器は費用がかかり、核の方がコスト的に安いこと、かつ、通常兵器では軍にお金が回るために、軍の権限を奪い、国内権益の塊の軍を解体することを挙げました。そして、「今回の交渉は、そうした理由からはメリットであり、とにかくサインするのが目的だったはずだ」と、首脳会談の前後の状況を説明します。

*アメリカの採点は「0」

 一方、北朝鮮の核・ミサイル問題についてメディアへの登場が多い香田氏は、「一つの評価尺度では、米朝が当初、意図したものの何を達成し、何を失ったかというと、例えばアメリカで考えると、CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)と朝鮮半島における在韓米軍には手をつけないとか、いくつかあった。でも、今回は全て崩されて試験では0点で、アメリカの明らかに失敗」との視点を披露。さらに、トランプ大統領が記者会見で、米韓演習を止めるという話をしたことに触れ、「会談を行った高揚感からだと思うが勇み足だ。演習は『経済的ではない』、『(北朝鮮に)脅威を与えている』という言葉遣いだったが、米軍の最高司令長官からそうした発言が行われたことに対して、軍は耐えられないだろう」と防衛関係者としての現場感覚を語りました。そうした点も踏まえ、今回の会談は北朝鮮の勝ちだろう、と述べました。

 4氏の発言を受けて工藤が「今回の会談の成果は、精一杯だったのか。会談を進める最終的な落しどころだったのか」と問いかけます。

*今後、問題になる非核化の定義とは

 賈慶国氏が答えます。「(合意文書の)他のバージョンもあったが、双方が発表できる結果があの文書だった。CVIDの問題など具体的な共通認識では、同意したが公開できなかったとかあったのではないか」との見方を披露しました。さらに賈慶国氏は、「核兵器の放棄は含まれていても、アメリカが韓国で核兵器を配備しないとか、北朝鮮に対して、威嚇として核兵器を使わない、先制使用しないとか、韓国に核の傘の保護を与えない、などを求めるという話もあり、非核化の定義が具体的に何なのか、についてはこれから話し合う必要がある」と、今後の問題点を指摘します。

 この点について西氏も、「北朝鮮の核の議論は簡単だが、アメリカの潜水艦の核などはどうするのか。朝鮮半島の非核化となった時、何をアメリカの核として廃止対象にするのか」という問題はあると賈慶国氏の意見に同調します。さらに、「北朝鮮にとって自分の体制を守るというのは、アメリカのみならず、中国、ロシアも含め、自分の体制を保証してくれるとわからない限りは核放棄もない。いつ約束できるかわからない北朝鮮の核放棄と、定義できるかわからないアメリカの核の廃止、朝鮮半島の核廃止という問題をどう乗り越えるのか」と、複雑な核廃絶の困難さを話します。

 続いて工藤は、トランプ大統領には真に非核化に向かうための覚悟があるのかと問いかけました。

*トランプ大統領に対し、安倍首相がしっかりと助言することがカギとなる

 これに対し西氏は、朝鮮半島の非核化といった場合、問題は北朝鮮の核を廃棄することだけではなく、アメリカの核も問題になると解説。しかし、「アメリカの核をどう定義するのか、何を廃棄対象とするのか」といった点が実は曖昧であるとした上で、「不透明な北朝鮮の核と、対象が定かではないアメリカの核をどう考えるのか。これは逃げ水を追うような議論になるが、この難しさをトランプ大統領は本当に理解しているのか」と懸念を示しました。

 香田氏は、両首脳が署名した共同声明の中で、「マイク・ポンペオ米国務長官と北朝鮮の担当高官が主導して、できるだけ早い日程でさらなる交渉を行う」という一文に着目し、「来週にも交渉が始まるというのにもかかわらず、北朝鮮側の担当者がまだ決まっていない」ことを指摘。その上で、「穿った見方をすれば」と前置きしつつ、担当者を頻繁に交代させることで交渉を引き延ばしたり、合意事項を反故にしようしたりとするのではないかと分析しました。そして、そうした中では、アメリカ側に軸のぶれない確固たる方針が必要であるものの、トランプ大統領がこれまでCVIDを強硬に主張していたにもかかわらず、あっさりとその主張を変えるなどしたことから香田氏は、「このように目標を堅持しない態度は危険だ」と警鐘を鳴らしました。その上で、安倍首相にはトランプ大統領が迷走しないように「しっかりと助言すべき」と注文を付けました。

 続いて、工藤は「ずばり、北朝鮮の核問題は解決できるのか」と直球の質問を投げかけました。

*決して楽観はできない

 賈慶国氏は、非核化プロセスにおいては、査察をはじめとして主権国家に対する過度の干渉となり得るようなことが多々あるとし、プライドの高い北朝鮮がこれを受け入れる上では相当の忍耐を要すると指摘。さらに、金委員長は韓国との軍事バランスを保つ上でも、自らの生存を確保する上でも本来的に核は不可欠と考えているため、国際情勢の変化によっては核放棄撤回に踏み切る可能性が高いとし、楽観論を戒めました。

*重要なのはこの1カ月

 西氏は、今回の会談において金委員長には多くの収穫があったとした上で、しかし譲歩を貰ったにもかかわらず、約束を果たせなければトランプ大統領の怒りを買うのは必定であるため、「かえって自分の首を絞めかねない」と語りました。しかも、金委員長にとって勝負となるのはこの1カ月であり、ここでポジティブなメッセージを世界に対して出せなければ、一気に窮地に陥ることになるとの見方を示しました。

ここで止めなければ”地獄”が待ち受けている

 仮に非核化が出来なかった場合に世界はどうなるかを問われた香田氏は、「核保有国北朝鮮を起点とした世界への核の拡散が始まる」と回答。その上で、そうした事態は「今戦争をするよりももっと酷い地獄になる」とし、であるからこそ今ここで解決しなければならないと強調しました。

 最後に工藤は、「では、我々は今何をすべきなのか」と問いました。

*北朝鮮に希望のある未来を感じさせることが大事

 これに対し賈慶国氏はまず、朝鮮半島の安定と繁栄は関係各国共通の大きな利益であることを再確認する必要があると主張。その上で、日本や中国がなすべきこととしては、経済援助や体制の保証などを含めて北朝鮮が非核化のメリットを感じられるような案を提示し、「希望のある未来を感じさせることが重要だ」と語りました。同時に、これから先、アメリカに北朝鮮が受け入れ不能な要求をしないように説得することも必要になると付け加えました。

*今こそ知恵を出し合うべき

 

 宮本氏はまず、これまでの関係各国が自らの国益のみを追求して連携してこなかった結果、今日の北朝鮮の核開発進展を招いたと振り返りました。その上で、「そろそろ各国は知恵を出し合ってまとまるべきだ」と主張。各国が緊密な連携を進める中でこそ、賈慶国氏が言うような案も出てくると語りました。同時に、各国の連携をしていく上ではやはりトランプ大統領の”アメリカ・ファースト”は危険であるとし、日本としてはそれを抑えるための大きな役割を果たし、国際的な連携を積極的に主導していくべきと提言しました。また、民間、そして言論NPOに対しては、そうした連携や案作りを先取りするような動きを期待しました。

 その後、会場からの質疑応答を経て最後に工藤は、「歴史的な変化が始まった。北東アジアの平和実現に向けて議論を加速させていきたい」とし、まずは今月22日の「第6回日韓未来対話」に向けた強い意気込みを語りつつ、白熱した議論を締めくくりました。

2018年6月14日

・栄光学園校長が語る「カトリック学校の現状とこれから」

   栄光同窓カトリックの会第17回総会が10月28日開かれ、講師の栄光学園中学・高等学校校長の望月伸一郎氏から、司祭、信徒が減少する日本におけるカトリック校、同学園の現状と問題、今後に向けた対応についてお話を伺った。講演の内容は次の通り。

 まず本学園の近況についてお話しします。今日は実は、来週火曜日の歩く大会の開催が可能かどうか、台風の近づく中気をもんでいるところです。歩く大会も中間体操も大切にしている伝統の一つで、これをいかに今日化しつつ未来につなげるか、宗教活動についても今日化しつつ、これをいかに未来につなげるかが課題です。

 そこでまず、学園生徒の信者数の現状をご理解いただきたい。今年は180人が入学しましたが、71期入学者のうちカトリック信者は1人、昨年は2人でした。信者の親は4人ですが、子供が受洗していないケースも多いのです。信徒の父兄が分かるのは、入学者説明会の時に信徒の親には受洗教会、受洗の年など記入してもらうので分かります。在学中の受洗者の数はどうかというと、昨年は高校3年生が2人受洗しましたが、前年もゼロですし、今年も受洗準備中の生徒はいません。

 では学校での宗教活動はどうやっているのか。学校では宗教活動委員会があって、7人の信徒教員が中心になって活動の企画・立案をしています。また、金曜日放課後は部活動は無し、としているので、学年ごとに23人の教員が聖堂下の聖書研究室で聖書研究会を開いています。私は36期聖書研究会から担当しましたが、当時は信徒のクラスは別で、司祭が担当していました。

 今はほとんど未信者の聖書研究会ですが、いろいろな企画を立てています。学年別の人数は中1の時が比較的多くて学年末で20名位。それが高3までの各学年の聖書研究会では 10人位になります。ミサは、始業式、終業式、入学式、卒業式、聖土曜日(復活祭)、クリスマスに行いますが、参加者のほとんどが聖体拝領なし、祝別を受けるだけの生徒です。

 宗教活動委員会の企画としては、①聖園子供の家児童への学習支援、②ハンセン病施設へのボランティア訪問、③大阪釜ヶ崎訪問 1日または一泊、二泊(学年によって異なる)の黙想会などがあります。

 栄光では、「宗教活動は自由参加」という原則が貫かれており、教室には十字架を掛けておらず、「倫理」という授業はあるが「宗教」という授業はありません。以前、「ミサを講堂で行って全員参加にしては」という意見もありましたが、自由参加の原則を続けています。「倫理」の授業ではキリスト教について話すので、私の授業(「コチョリン」)では新約聖書を全員に配布し、聖堂へ連れて行って静かにする(長めの瞑目の) 時間を取っています。また、始業式や終業式など年6回の校長講話の際には、テーマに関連した聖書の話をするようにしています。

 信徒の教員は、全専任教員60人中14人、講師3人で、イエズス会士司祭はゼロです。イエズス会からは「今後、イエズス会士の教員は派遣しない」と言われているので、チャプレンの派遣をお願いし、現在、萱場神父に学園でのミサ、黙想会指導、教員や生徒への指導をお願いしています。

 このような状況の中で、カトリック校としてこれからどうするか。配布資料〈JCAP =Jesuit Conference of Asia Pacific=イエズス会アジア太平洋協議会)の統計にあるように 、2016年のアジアの中等教育機関38校の平信徒教員数は4463人に対してイエズス会士は98人、(日本は平信徒教員数226人に対しイエズス会士4人)という状況で、栄光学園の直面している問題はアジア共通であることが分かります。(特にオーストラリアやフィリピンは深刻)。日本のイエズス会では2016年4月にイエズス会校5校の理事会を統合する大きな決断をしました。この背景はイエズス会が毎年発行している年報 39号で李神父が「イエズス会教育の継承と深化」と題して書かれておられる通りです。

 栄光学園として、これから具体的に何をしていくのか。何を考えているのかということをお話ししますと、第一は、大切にされている伝統と文化を守ること、 学園の聖堂を維持していくことが挙げられます。何をもって「カトリック学校」というのかというと、「学校の中心にご聖体がある」「キリスト教に触れ合う場がある」ことです。

 そのための条件の第一に、聖堂でミサを捧げる、具体的には夏休み、冬休みを除く毎月1回、年10回のミサを捧げること。信徒でない教員も祈りをする学校がありますが、栄光でも、信徒でない教員も聖書研究会に参加しており、祈りの場としての聖堂の維持が第一です。

 第二に、グローバル教育の重視ということです。卒業生インタビューで隈研吾氏が「栄光には外国人神父が沢山いて、栄光に通っていることがグローバル教育になっていた。それが自分の現在の建築設計の仕事にもプラスになっている」と答えていました。世界のイエズス会教育機関のネットワークを活用してグローバル教育を進めようとしています。

 2000年からフィリピンのカトリック校との短期交換プログラムは実施していますし、ボストンカレッジが米国の高校生向けに開催している自己啓発セミナーに毎年30名の生徒を派遣することにしました。生徒は5日間の合宿でディスカッションなどを通じて、「自分がいかに大切にされているか」「神は何を望まれるか」など、いろいろな刺激を受け、視野を広げるプログラムに参加するのです。来年の夏休みには、JCAPの会員校の高校生を招いて秦野の上智短大で60人規模の英語でのセミナーを開くことを計画しています。

 イエズス会教育推進センターを中心に、研究、学校連携、教員養成など様々なテーマで新しい展開を模索中で、学校としても同窓カトリックの会とのつながりを大切にし、卒業生信徒との連携が深まることを望んでいます。学校には受洗者名簿はありますが、生徒の信徒名簿はないので、特に20期以降の信徒OBへも栄光同窓カトリックの会から情報を提供していただき、 つながりが出来ることを期待します。

(文責:栄光同窓カトリックの会事務局長・花川泰雄)

2017年12月10日

・カトリック、天理教、仏教の代表者による「若者と宗教」シンポジウムより

 日本カトリック司教協議会諸宗教部門主催のシンポジウム「若者と宗教」が9月16日、天理教、真言宗、曹洞宗、カトリックの4宗派の講師が出題する形で、カトリック奈良教会で開かれました。教皇フランシスコは来年秋に「若者」をテーマにした全世界司教会議(シノドス)を招集されます。そのための準備がすでにはじまっており、バチカンの準備事務局は全世界の教会はもちろん、若者たちに会議に向けた意見、提案の募集を行っています。残念ながら日本の教会の取り組みはあまり活発ではないようですが、このシンポジウムもシノドスに向けた前向きな動きのきっかけになることが期待されます。以下に4人の発題者がまとめたレジメをご紹介します。(「カトリック・あい」)

 

日本カトリック司教協議会 諸宗教部門より挨拶

 このシンポジウムは、2011 年より「自死」をテーマに東京、福岡、大阪の三都市にて開催し、また 2014年には「高齢化社会を豊かに生きること」、2015 年には「平和のための宗教者の使命」、昨年 2016 年には「いつくしみとあわれみ(慈悲)」をテーマに、諸宗教の方々との親交を深めて参りました。

 近年、若い人を含め、人々の宗教離れが指摘され、様々な場面で、若者の減少を実感しております。このような中で、若い人は宗教についてどのように考えているのか、また、信仰をもっている人は自身の宗教に対してどのようなことを感じ、考え、願っているのでしょうか。本年は、この奈良の地で、実際に若い人々と関わっている宗教者、若くして信仰をもち奉仕している天理教、仏教、キリスト教の方々をお招きし、学びたいと思っております。

 人間の根本的な生き方を伝え続けている宗教者として、何を伝えることができるのか、皆様とともに考え、分かち合えれば幸いです。

東井 成則氏(天理教) 若者たちと信仰を歩む

○学生生徒修養会(通称:学修、主催:天理教学生担当委員会) 対象:大学生層 期間:6 泊 7 日の合宿生活の趣旨:天理教教義の研鑽と実践を通して信仰の喜びを味わい、自らが天理教の信仰者であること の使命感を高める 内容:天理教教義を学ぶ講義、礼拝作法を学ぶ修練、 班ごとのグループワーク、布教活動

○カウンセラーとしての準備 学生の心の成人(信仰的成長)を願う “にをいがけ”の姿勢=良い信仰の香りを伝える 種まきとしてのにをいがけ 良い芽が出るよう、良い香りが身に付くよう、自らが教えを実践する

○半数の班員の病気 人間の体は神様からのかしもの・かりもの 心のみ人間の自由に使うことができる →各々の心の遣い方を神様は見ておられる 病気・困難=神様の“てびき” =人間の心の入れ替え、心の成人を促す

○学生たちとの話し合い 身の回りに起こる事態を我がこととして捉える 学生の素直な心、人のたすかりを願う心

○布教活動 “人たすけたらわがみたすかる” 鮮やかな神様のお働きとその実感

○“信仰の元一日”の発見

井川 裕覚師(高野山真言宗)〜お遍路にみる若者の宗教心〜

  1. 若者の宗教離れ?

 昨今、若者が“宗教離れ”をしているといわれています。しかし、何をもって宗教離れといえるのか、そんな疑問が湧いてきます。“宗教”なるものが存在し、くっついたり離れたり……そんなイメージなのでしょうか。全国のお寺の数は約 7 万 7,000 件といわれ、コンビニの数をはるかに凌ぎます。そんなお寺の参拝数が減っていることが宗教離れなのでしょうか。特定の宗教、宗派に所属していないことや、無宗教式のお葬式を行う人が増えていることでしょうか。それとも、信心深くないことを指しているのでしょうか。

 街で見かける寺社仏閣や教会から、道端のお地蔵様、クリスマス、除夜の鐘、初詣……私たちの身の回りには宗教的なものが多数存在しています。宗教について考えるとき、その捉えどころのなさに驚かされることもありますが、その計り知れない可能性に心が踊らされます。私たち人間が、頭で理解することなどできそうにないほどに広く、深い世界がそこには広がっています。若者は本当に宗教から離れてしまったのでしょうか。

 感受性の豊かな若者が必ずしも宗教心に欠けているとは思わないのが、私の考えです。むしろこの多様でとらえどころのない宗教を、柔軟に受け取ることができるのは若い人々ではないでしょうか。仏教の立場から、若者と宗教の関わりについて考察を深めていきたいと思います。

  1. 新しい試みをする現代の仏教寺院

 近年、若者のお寺離れを防ごうと多くの寺院が様々な取り組みを行っています。

 お寺の本堂でライブをする「DJ 坊主」 カンターに立つ「坊主バー」 本堂で汗を流す「寺ヨガ」

 テクノ音楽に乗ってお経を唱える「テクノ法要」 お寺がカフェを運営する「寺カフェ」

 その中でも、仏教に触れられるものとして根強く人気があるのが「修行体験」です。お寺で気軽に座禅や写経などを行うものから、宿坊に泊まり、参加者と寝食を共にするサンガの経験ができる本格的なものまで様々なものがあります。

 そのキーワードは「旅」と「非日常」だと思います。修行体験に参加する人は 20 代や 30 代の若者も多く、熱心に参加されるのが特徴です。多くの人がお寺や修行を通じて、日常を離れ、自分を探し求める旅に出ているように思えます。いつもとは違う自分、本当の自分とは何か−−−修行体験にくる人々からは、そのような眼差しが感じられます。今思えば、私が高野山で行った修行(これは体験ではありませんが)なども、自分を見直す素晴らしい時間でした。世俗を離れ、密教の価値観の中で自我を相対化し、「自分とは何者か」という問いの中で徹底的に自己を見つめます。

 「自由」という言葉は、「自」らに「由」るという仏教に語源を持つ言葉です。お釈迦様は入滅の間際の最後の説法で「法灯明」と「自灯明」という教えを説かれました。法、つまり仏さまの教えを頼りに、そして自らを頼りに生きなさいと教えます。そして、真言密教には「如実知自心」という教えがあります。「大日経」という経典の中には「悟りとは、実の如く自らの心を知ることである」と説かれています。

 あるがままに全ての存在をとらえ、自分の心もあるがままに見つめることから真理は始まります−これを如実知自心といい、ここに密教の修行の本質があります。現代の若者は、頼りにすべき「自」らに不安を覚えるからこそ、あるがままに自心を見つめようと修行体験に参加するのではないでしょうか。

  1. 遍路と弘法大師・空海

 そんな「旅」と「非日常」を満たす修行として、多くの若者が四国遍路に魅了されています。遍路とは、祈願のために弘法大師修行の遺跡である四国八十八か所の霊場を巡り歩く修行のことです。

 その起源として、平安時代末期の聖が行った「四国辺地(へち)」「辺路(へじ)」という修行があります。聖とは、既存の寺院秩序から離脱し、都鄙を往来しつつ、山林修行や寺社造営などに携わった僧のことを指します。12 世紀の『梁塵秘抄』や『今昔物語集』などの説話から、現世とは別の世界とつながる海岸などの僻地を歩く過酷な修行だったことが知られています。その辺地修行と弘法大師信仰が結びついたのがお遍路です。

 御入定後 100 年を経て、醍醐天皇より弘法大師の名を賜った空海は、宝亀 5(774)年、今の香川県の善通寺市に生まれます。叔父に師事して仏教や儒教を学んだ空海は、当時の大学に通いますが、途中で退学し、密教の秘法を修めるべく、若くして山岳修行に入ります。その修行の地となったのが四国の険しい山々や海辺で、弘法大師が開いていった霊場が八十八か所あり、それを巡る旅が「四国巡礼」になったといわれています。

 お遍路には「同行二人」という大切な精神があります。これは、旅をするのは一人だけれど、常に弘法大師・空海とともにあるという考えで、苦難の末に煩悩を一つずつ落とし、悟りを目指すことが旅の目的です。

  1. 4つの道場

 四国四県のお遍路には、それぞれに意味があります。阿波(徳島県)は「発心の道場」で、空海が人々の救済を発願した土地。ここから四国巡礼は始まります。次が土佐(高知県)で「修行の道場」。三番目の伊予(愛媛県)は「菩提の道場」といわれ、ここまで来るとお遍路さんは煩悩から解放され、悟りを得る境地に近づくようです。そして、最後の讃岐(香川県)が「涅槃の道場」。煩悩を捨て去り、いよいよ悟りに到達する土地です。第八十八番の札所となる大窪寺はこの讃岐にあり、ここで遍路は結願します。もっとも四国巡礼の起源については分からないことが多く、八十八か所になったのもいつ頃からかはハッキリしないといわれています。現在は順序にはこだわらず、どこの札所から回ってもよいとされていますが、「発心」「修行」「菩提」「涅槃」の順に霊場を巡り、悟りの境地に近づいていく悟りへの4段階説が、自分を高めたい人々の関心を引きます。

  1. 死出の旅

 今でこそクルマや観光バスで回れるようになったお遍路ですが、昔は「死出の旅」といわれるほど、命がけの旅だったようです。全行程 1,400 ㎞といわれる遍路道は、当然のことながら整備されていないところも多く、険しい山中の道なき道を行く旅であり、道中に休む場所は少なく、ところどころに「遍路ころがし」と呼ばれる難所があり、実際に落命する者もあったとか。常人には成しえない修行を行い、生死の境をさまようことで死を見つめ、生を悟る、そのような深い意味合いが遍路にはあるのです。お遍路の正装とされる白装束は、いつどこで行き倒れてもいいという、死の覚悟を表したものといわれています。

  1. 再生の旅

 もちろん現代のお遍路には、命を賭すような厳しさはありません。第四番札所大日寺の住職である真鍋俊照氏は、著書「四国遍路 救いと癒しの旅」の中で若者の遍路に触れ、「近年の四国遍路は、かつての『死出の旅』から変わって、『癒しの旅』という意味合いが強くなっている」といいます。

 なぜ、遍路をすると癒されるのでしょうか。理由の一つは「お接待」と呼ばれる地元の人々のもてなしにあります。接待とは仏教で、通りすがりの修行僧に茶湯などを振る舞うこと。無縁社会に生きる若者は、この温かい地元の人との交流や、お遍路さん同士の間に生まれる連帯感などに少しずつ癒されるのではないでしょうか。

 もう一つは、自然の中で自分の限界と向き合う体験にあります。家族と離れ、体力の極限に挑み、一人でそれを乗り超えた経験が自信となり、それが「自分をありのままに受け入れる」という自己肯定感につながると考えられます。閉塞した日常にあって、「『死者のように生きている』という状態から、再生するための旅」が若者のお遍路ではないか、つまり、自分の人生を豊かなものにするための旅がそこにはあります。

  1. 若き空海

 しかし、仮に遍路が「自分を再生させる旅」として機能するのであれば、弘法大師もまた同じような思いを抱いて旅に出たのではないでしょうか。あくまでも想像にすぎませんが、10 代の若い空海が大学を辞め、密教の修行に身を投じた背後には、それなりの心の葛藤があったと思います。今、この飽食の世に生まれた若者にとって、1,400km もの道のりを歩き通すのは、まさに苦行に等しい行為。その苦しみの果てに得られる”何か”を探し求めているのであれば、それは立派な修行と言えそうです。そういう意味では、現代の若者の「癒しの旅」こそ、そもそものお遍路の姿に最も近いものかもしれません。

  1. まとめ

 お遍路を通じて「若者と宗教」というテーマについて考えてきました。実際は信仰心のない方も篤信の方も様々な人々が八十八ケ所の霊場を巡っています。しかし、そこに共通していることは、自分を支えてくれる“何か”を見つめ、そして自分のうちから沸き起こる“何か”を探し求めることではないでしょうか。

 高野山の道場で修行をしている時、「修行は先人の宗教体験の追体験をすること」と言われたのを覚えています。弘法大師は遍路の道中で、自身の修行をしながら多くの人々を救いました。高野山に「相互供養・相互礼拝」という教えが伝わっているように、きっと人を救い、それと同時に人に救われて、

 感謝の気持ちで四国を巡ったことと思います。自分に足りない“何か”を求めて遍路の旅に出る若者は、お接待をしてくださる現地の人々に救われて、そして救い、心が満たされていく中で、弘法大師の感謝、感謝の旅の追体験をしていることでしょう。

 お遍路に見出された一人、種田山頭火は「伊予にしにたし」と晩年四国を歩き、「人生即遍路」という碑を残しました。仏教に「生死」という言葉があるように、死出の旅から生き生きとした生へと再生を果たしていく−−−お遍路の旅は、まさに人生そのもののように思えます。仏教は、「生老病死」−−−まさに人生そのものへの問いかけから始まりました。宗教とは、神仏や教義、礼拝の施設だけを指すのではなく、自分とは何かを教えてくれ、自分を変容させてくれるものということもできます。

 遍路道を歩く若者が絶えないことは、まさに若者の宗教心の現れを意味しています。札所の寺院を巡って納経帳に朱印をもらうことが目的のように見えますが、本来の目的は「人生を歩くこと」。日々の生活のなかで見失ったものを再発見する−−−それが現代の若者のお遍路さんの姿です。そして、私たちの人生に息吹を与えてくれるのが宗教ではないでしょうか。

◎ 其れ仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し 『般若心経秘鍵』弘法大師・空海(仏の教えは、遥かに遠いところにあると思われるかもしれませんが、本当は意外に近いところ、即ち私たちの心の中に存在しているのです)

秋田 修孝師(曹洞宗) 【永平寺の修行】 

【永平寺の修行】~行を迷中に立てて證(しょう)を覚(かく)前(ぜん)に獲(う)る 

  永平寺では、毎年 2 月 18 日から 3 月末日までに、新たな修行僧が上山します。大半の修行僧は大学 卒業後、すぐに上山しますので、年齢は 22・23 歳です。

 彼らは初めに旦過(たんが)寮(りょう)(約 1 週間の坐禅期間)を過ごします。次に、鳴らしものを学ぶ 鐘 洒(しょうしゃ)(永平寺は、鐘や太鼓など音を合図に行動します)を過ごし、各部署(寮舎)へと配属(転役)されます。

 就寝時間、起床の時間、食事、入浴など、永平寺に来て彼らの日常は一変します。さらに、当たり前にあった携帯電話や個人の自由な時間もない生活となります。 彼らは、修行生活により、様々な戸惑い、悩み、迷いながら、それでも懸命に修行を行じております。

【修行僧との関わりを通して】~修行、その中で、気づき、成長する~

 ・応量器作法で母の気持ちに (同事) ・毎日何度も繰り返し行う諸堂のご案内を通して一期一会に (而今) ・食べ物を捨てて (老婆心) ・伝道部で古参になって山門で (縁起) ・永平寺の修行僧たちは皆、若き仏です。 【宗教は必要とされている】~参拝者・参籠者・参禅者の声~

  親を亡くした、受験に向けて、仕事の悩みなど、多くの方が訪れ、思いを伝えてくださいます。誰もが、悲しみ、悩みや迷いをもち、幸せになりたいと願い、救いを求めております。 永平寺の修行僧は、その願いに寄り添い、共に生きていく僧侶となるべく、修行に励んでおります。

白浜 満司教(カトリック)テーマに基づく問いかけ

「近年、若い人々を含め、宗教離れが指摘されております。このような中で、人間の根本的な生き方を伝え続けている宗教者として、何を伝えることができるのでしょうか。若い人は宗教についてどのように考え、また、信仰をもっている方々は、自身の宗教に対して、どのようなことを感じ、考え、願っているのでしょうか。」

1:価値観の多様性の中で

 日本では、政治、経済、学問、文化、宗教など、種々の分野において、多様な価値観が尊重される社会です。宗教の分野に関しても信教の自由が保証されています。日本には、おおらかに受け入れる風土があるのではないでしょうか。このような社会風土の中で、人々は多くのものの中から、自分の意志で自由に選ぶことができるのに、日本の若者は、自分のための宗教を選択し、それに従って生きる必要性を感じていないように思います。現在、いわば無宗教の状態で生活している方々が多いのではないでしょうか。しかし、自分の人生に孤独や虚しさを感じ、何か大切なもの、あるいは仲間を見出すために、宗教に「救い」を求めている人々も少なくないように思います。

2:宗教の役割

 多様な価値観をおおらかに受け入れる社会風土の中で言えることは、どの分野においても、人々は根本的に良心にもとる言動を警戒しているということです。しばしば宗教の中にさえ、良心にもとる言動がはびこり、宗教に対する負のイメージが日本社会の中に広がっていることは残念ですが、このような宗教に対する逆風の中にあっても、宗教に期待されている役割とは、多様な価値観をおおらかに受け入れる社会風土の中にあって、「良心の声」となるということではないでしょうか。社会の中で、宗教こそ「良心の声」を代弁しなければならない立場にあるものだからです。

3:人類が直面している異変の中で

 ローマ法王(教皇)フランシスコは、2015 年 5 月 24 日に公布した『ラウダート・シ』(ともに暮らす家を大切に)という環境問題への取り組みを促す文書の中で、人類が直面している異変(叫び)を大きく二つに大別しています。

  • 現代社会の異変(叫び

一つは「自然環境」の叫びです。大気汚染、土壌汚染、廃棄物、気候変動、水資源の不均衡と質の低下、生物多様性の喪失などです。もう一つは人間(社会)環境の叫びです。不公平な分配や消費、情報過多、過労、自死、暴力、テロ、薬物などの人間社会の崩壊の兆候が、とくに巨大都市化した社会の中で生じていることを指摘しています。そして、ローマ法王フランシスコは、この自然環境の悪化と人間とその倫理の退廃とは密接にかかわっており、人類は「環境的でも社会的でもある一つの複雑な危機」に直面していると分析しています。

  • 今、求められていること

 ローマ法王フランシスコは、これまでの人間の反省を踏まえ、宗教の役割を期待しながら、次のように教えています。―「はかり知れない科学技術の発展に、人間の責任感や価値観や良心の成長を伴わせてこなかったのですから、実際のところ現代の人間は、権力を正しく用いるための教育を受けてはいないのです。健全な倫理を、また、限界をさだめさせ、明確な自覚に基づく自制を教えてくれる文明や霊性を有していると主張することはできません。」(105 番)―科学技術の発展に、人間の責任感や価値観や良心の成長を伴わせる役割を担うもの、また健全な倫理・限界を定めさせ、それに基づく自制を教えてくれる文明や霊性を生み出す母体となるものこそ、宗教ではないでしょうか。

  • 宗教の役割・分野

 「環境的でも社会的でもある一つの複雑な危機」に直面して、ローマ法王フランシスコは、当初から聖書が打ち出している教えを思い起させます。すなわち、聖書の創造記事に基づいて、人間は、①神とのかかわり、②隣人とのかかわり、③自然(大地)とのかかわり、という三つのかかわりの中で生かされていると教えています。そして、この三つのかかわりの中で、次のような自覚を促しています。「わたしたちが自然の価値と脆弱さを、また同時に神から賜ったわたしたちの能力を認めるなら、際限のない物質的な進歩という現代の神話をようやく捨て去ることができます。大切にするようにと神から委ねられた壊れやすい世界が、自らの力を方向づけ、発展させ、制限する賢明な道を見出すよう、わたしたちに挑んでいるのです。」(78 番)

4:次の世代を担う若者たちに(キリスト教的立場から

 人類は、これまで進歩してきた歴史が自己破滅の道に向いつつある現実をしっかりと見つめ、「際限のない物質的な進歩という現代の神話をようやく捨て去る」謙虚さと賢明さを見出すときに来ています。

 人類を破滅に導く異変に直面している中で、若者たちには、今こそ、「良心の声」に耳を傾け、人類の危機に立ち向ってほしいと思います。多様な価値観の中にあっても、すべての人間の心に響く「良心の声」を大切にし、聖書が教えている三つのかかわりの断絶が起きていることを見抜いてほしいと思います。①自然とのかかわりの中でその異変に気付き、②また隣人とのかかわりの中で人間(社会)環境の叫びを受け止め、人間の傲慢がその原因であることを謙虚に認め、③人間を越えた偉大な力の存在に心を開いてほしいと思います。なぜなら、自然もそして人間も、自らの知恵と力で存在し、始めたものではないからです。

2017年10月5日

・鼎談と分かち合いの集い「キリスト教用語の日本語訳は本来の意味を伝えているか」

 (2017.9.東京・信濃町) 真生会館主催 司会:森一弘司教(真正会館理事長) 出席者:高木賢一神父(東京教区事務局長) 石井祥裕氏(上智大学神学部講師・日本カトリック典礼委員会委員)

 (日本の教会にとって極めて重要なテーマであり、もっと関心を持って真剣に取り組むべき課題と思われます。この鼎談はかなりフランクな形で行われたため、発言者が特定できるようなまとめ方をすると、ご迷惑がかかることが考えられるため、三人、あるいは会場の参加者の発言のポイントと思われるものを匿名でまとめ、感想を加えることとしました=「カトリック・あい」南條俊二)

 日本語の聖書やミサ典礼の祈りの言葉は、本来の意味を伝えているか

・日本語の聖書やミサ典礼の祈り、歌で「栄光」という言葉が頻繁に使われるが、この言葉の本来の意味はどういうものなのか、疑問を持った。ヘブライ語でこの箇所に使われている言葉は「重み」「重さ」であり、ギリシャ語では「見かけ」「表れ」に通じる意味で使われており、「光」は意味としてでてこない。「神の存在、表れを確実にするもの」というのが本来の意味だったようだ。

・「聖体」も、聖なる体、と言うのは一体何なのか。もとになったギリシャ語のeucharistiaは「感謝」。もとにあるべブライ語では「感謝の捧げもの」を指していた。根本に、「神の恵みに感謝する」という意味がある。

・また、「信仰の神秘」というように使われている「神秘」。以前は「秘義」と言うこともあったが、第二バチカン公会議後に「神秘」と直された。このギリシャ語のmysterionには「隠された神の計画」が実現した喜びが含まれている。これを、簡単に「神秘」と訳していいものだろうか。

・さらに「福音」という言葉も、一般的に日本で使われている意味とは違う、教会独特の言葉。‶内向き〟の言葉のように思われる。「愛」「あわれみ」「慈しみ」など、教会では使い慣れた言葉も含めて、日本の典礼書の改定作業がされているが、容易ではない。現代の日本の人々に本当に通じる言葉にするにはどうしたらいいか、考え直す機会だともいえる。

・「栄光」「聖体」「神秘」と言った言葉は翻訳の下になった原語も含めて、ヨーロッパのメンタリティーが反映している、という気がする。「ご聖体」は「聖なるもの」という発想は、ヨーロッパの感性、「人間は穢れたもの」「神は聖なるもの」と強調したのはヨーロッパの教会。

・「栄光」はラテン語に翻訳した時に変わった。ヨハネ福音書では、栄光は十字架とつながっている。福音書、教義、典礼はつながっており、言葉は時代や社会とともに変わっていくが、この三つを関連させて考えていく必要がある。

・ミサ総則の改訂版が出たが、ナンセンスと思われる個所がかなりある。奉納行列の際に着席せよ、とあるが、起立して迎えるのが筋ではないか。また「キリストの体」と言っていたのを、「キリストのおん体」と変えたが、変える意味がない。

・「罪」もよく使われているが、これは「神の道から外れること」を意味すると思う。「原罪」はアウグスチヌスが使った一過性の表現、と理解している。人間を邪悪視している。キリストの言う「罪」はそうではないし、「あがなう」というのも「もう一度、神に向き合う」ことだ。関連して、「赦しの秘跡」は「疎外感からの解放」だと理解している。

・「大きな罪を告白しないと、地獄に落とされる」という言い方がよくされてきた。神から「拒まれる」という印象が強い。そうではなくて「大丈夫だよ」ということではないか。

・「赦し」と言う日本語訳がいいのか。「悔い改め」とか、「和解」の意味も元の言葉には含まれている。イエスが「あなたの罪は赦された」と言われたが、この中に「赦し」の本当の意味を解き明かすヒントがある。

・「赦し」は、神理解に関わっている。「最悪のことをした弟子たちが赦された。だからあなた方も大丈夫」ということだ。

 「神」という訳語の見直しも

・(明治以降、日本で使われるようになった)「神」という言い方は、1950年代生まれで、ずっと子供のころから使われてきたので違和感はない。「神学部」というように言葉が固定されているし。ただ、あまり考えずに使っていた側面は否定できず、見直そうと思っている。キリスト教が伝来する前から「神」があった日本の文化、社会環境の中で、どのようにキリスト教の「神」を伝えていけるのか、問い直すのは意味があると思う。ちょうど自分の教会の勉強会でこの問題を取り上げようとしているので、我々の世代は「神」に違和感がないなかで、見直しているつもりだ。

・かつて「天主」と言う言葉が使われ、現在では「主」と「神」。日本の社会では、最近は「神ってる」という使い方もされている。

・バチカンにいる神学者や典礼の専門家には日本語が分かる人はほとんどいない。とすると、日本で改訂案をもっていっても、適切なアドバイスを受けられるのか。そんな状態で、日本の典礼の見直しができるのだろうか。

 問題意識を今後どう生かすか

・キリスト教への理解を多くの日本人に深めてもらうためにも、以上のような議論を体系的にまとめようという考えは・・日々のミサの説教などに活かしていく・・学生たちと共にまとめていこうと考えている。

・長い日本の歴史の中で育ってきた文化と、とくに明治以降持ち込まれたヨーロッパの文化との葛藤。自分の過去を支えてきた文化と新しい文化との葛藤、そういうものも、日本人に理解される日本語訳の問題の背景にある、と言う言ことを念頭に置くことも必要。

・キリスト教を日本に伝えようとした宣教師が、一神教にこだわり、八百万の神を否定し、一神教を強制しすぎた、という歴史もある。

・ヨーロッパには他者との出会いの体験が希薄なように思う。ヨーロッパでは、「自由・平等・博愛」で近代世界を切り開いたかのように言われるフランス革命も、オスマントルコから見たら「近代資本主義イデオロギーの一つに過ぎない」という評価になる。知らず知らずのうちにヨーロッパの視点にならされているものの見方を、見直す必要もある。

・ただ、「日本」「ヨーロッパ」とひとまとめにできない側面もある。単純に二つに分けて論じるよりも、個々に分けて考えるべきではないか。

・言葉にこだわり過ぎず、どのような神理解、どのような人間理解をもとにするのか、そこから解釈し直す、ということだろうか。

【鼎談を聞いて】日本の教会は日本語訳の「失敗の本質」を理解しているか

・非常に示唆に富む、本音の意見を聞くことができたように思う。私見を申し上げれば、歴史的に見て「キリスト教の日本語訳の失敗の本質」は、英語のGod、ギリシャ語のTheos, ラテン語のDeus を明治時代初めから中期にかけて、日本の長い歴史の中で森羅万象に敬意を示す言葉として使われてきた「神(かみ)」を、十分な検討、いやほとんど何の考慮もなしに、キリスト教の奉じる存在の日本語訳にしてしまったことにある、と考える。

・GodあるいはTehos、Deusの本質をどのように自分たちキリスト教徒は、宣教師は理解し、日本の歴史風土、社会に合った言葉で、それをできるだけ正確に伝えるには、どのような日本語訳が可能なのか、真剣に考えたとは、とても思われない。「神」をキリスト教の「神」に‶流用〟あるいは‶盗用〟したもともとは、19世紀に中国における英米プロテスタント宣教師たちが「God」を漢語で同訳したらいいかで、喧々諤々の議論をしたことに始まる。

・簡単に説明すると、主として英国から来た宣教師たちは「上帝」(中国古来から「至上の存在」。自然界の不思議な力を持つ聖霊の意味も)、米国から来た宣教師たちは「神(shen)」(世界を統べる法則―天―の命を行う神話伝説時代の三人の皇帝)を主張して譲らず、このうち、後者の宣教師が日本に宣教に来て、「神(shen)」を使った中国語訳の聖書をもとに、日本語訳にして出版したのが1871年。恐らく、同じ「神」と言う漢字が、「かみ」という読み方で使われていたので、そのまま使ってしまった、と言われている。カトリック教会ではそれより20年以上遅れて、日本人でプロテスタント宣教師の翻訳を手伝った人が、パリ外国宣教会の宣教師の翻訳を手伝ったことから、そのまま「神」と訳され、現在の聖書、典礼の祈りや歌に使われて、現在に至っている、というのが真実だ。

・ちなみに、中国のカトリック教会では、当時も現在も「天主」(古代中国の天地万物を支配する創造主)と訳されているが、日本では、戦時中に政府・軍部の批判を受けて「天主」と一時的に改められた。戦後、進駐軍のキリスト教を背景にした民主化政策のもとで、海外から大量の宣教師が呼び込まれ、彼らが日本語を十分知らないままに「神」を使ったことで、「神」が本質をあらわす適切な日本語かどうかの議論もないまま、現在に至っている、と言うのが事実である。

・立教大学の教授だった前島潔氏は1938年に出版した「日本に於ける基督教の『神』に就いて」の中で、「『神』と言う語は日本人が決めたのではなく、外国人宣教師が決めたことで、日本の長い神道の伝統と紛らわしい」と批判し、戦後も、ハーバード大学教授で最高の知日派と言われ、米国の駐日大使を務めたライシャワー博士は自著「ライシャワーの日本史」でに「日本の古代から伝わる神(かみ)は信頼万象の礼拝の対象、ユダヤ・キリスト教の「ゴッド」との概念とは全く異なるものだ」と異論を唱えたが、教会関係者は全くといっていいほど、関心を示さなかったのだ。

・なぜこのようなことになってしまったのか。それは、日本語も日本文化・歴史も十分に理解していない外国人宣教師が、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語もキリスト教の歴史も、キリストのメッセージもほとんど知らない日本人の助けを受けて、しかも、かなり限られた人々の手で翻訳されたことにある、と言えると思う。この「失敗の本質」は、日本の教会では今も反省が十分に行われないまま、受け継がれているようである。

・聖書にしても、典礼で使われる祈り、歌の文句にしても、それが、キリストが伝えようとしたメッセージを、日本の長い歴史文化を背景にした社会で生きている言葉で表現しよう、という意識が、日本の教会の指導層には、全く感じられない。真剣にそのように考えるならば、聖書、典礼、教義に精通した専門家は当然のこと、言語学者、日本語学者、そして日々、生きた言葉で読者にどう伝えたらいいか苦闘しているまともなジャーナリスト、とくに論説委員など、教会の持てる力を総結集して、言葉を削り出していく必要があるのだが。私は、第二バチカン公会議以来、翻訳に関与する責任ある司祭たちに、そのようなことを言い続けてきたつもりだが、半世紀たっても、まったく改善された様子がない。改めて言おう。「失敗の本質」を謙虚に反省すること。それは、キリスト教が日本に土着していくために欠かすことのできない要点の一つだ。

   鼎談で一つ気になったのは、ある聖職者が「自分は『神』と言う言葉に違和感がない」と繰り返し、まったく、問題意識がないようなことを言われたことだ。「本質が問題だ」とも言われたようだが、まさに、日本人が何百年、何千年も意識してきた「神」をたかだか150年前に、キリスト教の「神」に、十分な本質的理解もなく‶流用‶したことが、日本人の間に、いまだにキリスト教の本質が十分に理解されない原因の一つがある、と考えるのだ。聖職者は毎日、「神」という言葉を使い慣れ、違和感がないのはある意味で当然だ。問題は本人が違和感をもつかどうかでなく、対象となる一般の日本人がどのように、キリスト教の「神」を受け止めているかではないか。このような問題が欠落したままでは、「日本語訳の失敗の本質」は理解されず、失敗が繰り返される(現にそうなっている)のではないだろうか。

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

(以上のご参考までに、拙著「なぜ『神』なのですか―聖書のキーワードのルーツを求めて」(燦葉出版社刊)をご覧いただけれ幸いです。Amazonで購入可能ですが、難しければandynanjo@gmail.comへ。送料・梱包費300円でお送りします)

2017年9月9日

・「家庭における愛の喜び-教皇フランシスコの思い」南條俊二 

 「家庭における愛の喜び-教皇フランシスコの思い」

・・使徒的勧告Amoris Laetitia(家庭のおける)愛の喜び」から何を学び、生かすか

はじめに

・講座の狙いは、日本の信徒にほとんど届いていない、教皇が最重要課題の一つとしている「家庭をめぐる問題と対応」についての、教皇の努力、メッセージを受け止め、考え、自分たちの置かれた場で何ができるか、具体的に少しでも新しい試みを始めていく、すでにしているならそれを育てていく、きっかけになること。

・勧告自体は、二度にわたるシノドス、合計で20日以上もかけた議論、それをもとに半年かけて教皇がまとめた、公式英語訳でA4の紙に小さい字で印刷しても75ページあり、1時間ではとても全部を説明できない。

・これを機会に関心をお持ちになり、中央協議会が早く日本語訳を完成、出版してくれれば、それに越したことはないが、いつまで待てばいいか分からない、とすれば、英語版、イタリア語版、フランス語版などすでに入手可能なものを、直接、お読みになる、あるいは小生が進めている日本語訳(一部抄訳)などを使って、一人で、グループでお読みいただければ幸い。

①Amoris Laetitiaが出されるまでの経過

・新聞・テレビを見ても、家庭に関する事件、問題が報道されない日はない。地域社会、教会共同体でも、高齢化の進展、一人暮らしの増加、子育て、若者教育の問題など、家庭をめぐる問題に日々身近に接している。内容、程度は違うが、全世界共通の深刻な問題である。

→4月に読売新聞で連載された[孤絶・家族内事件]第2部「親の苦悩」を「カトリック・あい」に掲載、現在でも閲覧件数でトップクラス。一日で10件近くなる日も。

・2013年春に教皇に就任したフランシスコは、家庭に関わる問題への対応をカトリック教会にとっての最重要課題として取り上げ、「家庭」をテーマに2014年秋、2015年秋と二度にわたる全世界司教会議(シノドス)を招集し、全世界の教区、修道会、教育機関など諸団体から集めた意見・報告・提案をもとに議論を重ね、それをもとに2016年3月に使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭のおける)愛の喜び」を発表された。

・教皇は就任した年の11月に使徒的勧告「Evangelii gaudium(福音の喜び)」(2014年6月に日本語訳が中央協議会から刊行)、さらに2015年5月24日に環境回勅「Laudato Si‐ともに暮らす家を大切に」を出した。(2013年6月29日に出た回勅 「信仰の光」は前任者、ベネディクト十六世が草稿をまとめ、フランシスコが引き継いだ。就任から3か月。本人の思いは十分反映されていない)

・そして、二つ目の使徒的勧告「Amoris Laetitia」は、「Evangelii gaudium」を教会、信徒としての基本的な在り方について勧告した「総論」とすれば、その延長上に「家庭」に関する現実を見据えた「各論」「現状分析と実践」の勧告、と言える。

②Amoris Laetitiaとりまとめの過程のユニークさと教皇の思い

この使徒的勧告を発出するにあたって、教皇は二度のシノドスをもったが、それだけでなく、最初のシノドス前に、世界の司教に、シノドスの準備のための質問状を送り、小教区や修道会、関係機関の声を吸い上げる形で、教区の現状、問題、対応、提案などを事務局に送るよう要請→回答を取り入れた準備書面をまとめて→一回目のシノドスを開き→その結果を書面にして、世界の司教に伝達、教会、信徒に伝え→それに対する意見、提案を求め→それをもとに二回目のシノドスの準備書面をまとめ→二回目のシノドスを開き、できるだけ多くの司教が発言し、議論を徹底するよう分科会方式など運営に工夫し、→その結果を最終文書として、世界の司教に伝達→反応などを踏まえて、教皇が使徒的勧告にまとめた。

・これまでの回勅、使徒的勧告などに見られなかった緻密な準備、末端の信徒、小教区までいきわたるような“双方向”の作業がされた。ここにも、教皇の「家庭」についての強い思い、全世界の教会、信徒とともに取り組みたい、という願いを知ることができる。

③Amoris Laetitia勧告の序章で、教皇本人が語る勧告の意義と読み方・・

(勧告の意義)

・家庭生活における『愛のよろこび』の体験は教会の喜びでもあります。結婚の制度・慣習に多くの危機の兆候が出ているにもかかわらず、結婚して、家庭を持ちたい、という願望は、特に若者たちの間でなお強く・・それに応えるものとして、キリスト教徒の家庭生活に関する意思表明は、実に“よき知らせ”なのです。

・この勧告は、2016年が『いつくしみの特別聖年』であることで、とくに時宜を得たものになりました。それは「勧告が、キリスト教徒の家庭に対して、結婚と家庭生活という贈り物を大切にし、寛大さ、献身、貞節、忍耐の徳で強められる愛の中で、保ち続けるように勧めるもの」であり、「不完全で、平和とよろこびを欠いた家庭生活のどの場においても、いつくしみと親密さのしるしとなるよう、一人一人を励まそうとするもの」だからです。

(勧告の流れ)

第一章で、聖書に霊感を受けて最初の章を始め、適切な基調を定めます。

第二章で、現実にしっかりと根を下ろした姿勢を維持するため、家庭の実際の状況を考察

第三章で、結婚と家庭に関する教会の教えの本質的な側面を思い起こし、

愛に捧げられた二つの中心的な章(第四、第五章)への地ならしをします

第六章)で神の計画に合わせた健全で実り多い家庭の形成に私たちを導くことのできる司牧的取り組み方に焦点を当てます

第七章を子供たちの養育に充て、

第八章で、慈しみへの招きと主の期待に及ばない状況について司牧上の識別を提示します。(勧告の読み方の勧め)

・2年にわたるシノドスの過程の豊かな実りを受け、勧告は多岐にわたる様々な問題を取り扱うため、ある程度の長文となることが避けられず、勧告全文の速読はお勧めしません。

家庭をもつ方々自身、家庭生活に関わる使徒職に携わる方々にとって各章を忍耐強く、注意深く読む、あるいは、それぞれの立場で特に必要と判断される内容を注意を払って読むのがいいでしょう。

・例えば、結婚したカップルは、第4章と第5章にもっと関心を持つでしょうし、司牧者の関心は第6章、そして誰もが第8章から課題を提示されていると感じるに違いありません。

・私の希望は、すべての方が、勧告を読んで、家庭生活を愛し、育むように呼ばれていると感じること。「家庭はやっかいな問題ではない。家庭は第一の、随一の絶好の機会」だからです。

 

家庭テーマのシノドス後の教皇の使徒的勧告「愛の喜び」要旨 2016.4.5 バチカン放送日本語課

序章・・上記に・・本文は9つの章で構成。

第1章「みことばの光に照らされて」

:神のみことばは、「抽象的な文章の羅列」ではなく、「家族に歩むべき道を指し示す、旅の友」である。また、三位一体の神は愛の共同体であり、「家庭はその反映でなくてはならない」。

 

第2章「現実と家庭の挑戦」(公式英語訳を翻訳すると「家庭の現実」)

:教皇は「家庭の善は、世界と教会の未来を左右するもの」であるとし、「家庭の具体的な現実に関心を払うことの重要性」を説いている。そして、今日の家庭が抱える問題として、「行き過ぎた個人主義」や、「仮の姿」を選ぶ風潮などを挙げ、こうした傾向の中で、家庭という存在が、「必要な時や便利な時だけ頼る、単なる“仮の場所”となることを懸念している。

教皇は、キリスト者の結婚と家族を守るための責任ある心広い努力を呼びかけ、「教義・生命倫理・道徳の面しか語られず、抽象的で、理想化された結婚に対する考え方」を自から反省し、「人々に幸福への道を示すことができるような、前向きで受容性のある司牧」を訴えている。

そして、教会が家庭のために関心を持つべき課題として、産児制限、信仰生活の弱体化、住居問題、未成年への虐待、移民問題、キリスト教徒や少数民族・宗教への迫害、障害者、高齢者、貧困、事実婚や同性婚、女性への暴力、ジェンダー思想の問題などを挙げている。

第3章「イエスに向かう眼差し:家庭の召命」

:「結婚と家庭に対する教会の教え」の概要を改めて提示。神の恵みとしての男女間の結婚、その不解消性は束縛ではなく「賜物」、「真の愛の源泉である三位一体の神を映し出すもの」と説いている。結婚は「召命」であり、「秘跡」である、とし、同棲する信者、民法上のみの結婚をした信者、離婚して再婚した信者、困難な状況に置かれた家族、傷ついた家族への、教会の司牧的配慮を呼びかけている。

すべてのケースにおいて、当事者たちの責任の重さがいつも同じではないことを考慮し、司牧者は、愛と真理のために状況をじっくり判断することが求められる、と指摘。は教会の教えをはっきり明示する一方で、様々な状況の複雑さや一人ひとりの苦しみを考慮することの必要性を強調。

また、教皇は子どもを授かることのできない夫婦も、人間的・キリスト教的に完全に満たされた夫婦生活をおくることができるとし、子はあくまでも神の賜物であり、子を持つのが当然ということではない。また、一つの命が別の人間の立場から支配されてはならないと、受胎から自然な死までの命の大切さを説いている。

第4章「結婚における愛」(同「結婚生活における愛を考える」)

:結婚における愛について、「相手のためを思う心」、「相互性、優しさ、安定などを、秘跡による特別な不解消性の中に融合した最も大きな友情」と表現。結婚は「神の賜物を段階的に受け入れ完成させていくためのダイナミックなプロセス」と述べている。

教皇は、結婚を避けようとする最近の若者の風潮に対して、「結婚を人生の重荷や到達不可能な理想として恐れてはなりません。『絶えざる成長の歩み』として捉えるように」と励ましている。

 

第5章「愛は豊かになる」(同「愛は実り多い」)

:家庭における命の受け入れをテーマに取り上げ、「すべての子どもは神の御心の中にある」と述べて、「受胎した瞬間からの命の尊重」を説くとともに、「子どもたちの持つ尊厳と権利の尊重」を強調している。子どもにとって「母と父を持つという自然の権利は、統合的で調和の取れた成長に必要」としている。

また、「母性は必ずしも生物学的な親だけに限られたものではない」とし、家族の無い子どもに家族を与える「養子制度」を容易にするための法整備の必要に言及すると共に、こうしたことが中絶や子どもの遺棄の防止にもつながることを期待している。

第6章「いくつかの司牧的展望」(同「結婚と離婚についての司牧的観点」)

:シノドスの結果に答える「新しい司牧の道」を一般論として示し、これに沿って、「それぞれの教会共同体が、教会の教えと地域の必要に照らした『「より実践的で効果ある提案」を練る必要がある」と強調。2014年、2015年の2回のシノドスで言及された司牧上の配慮が必要な課題を列挙した。

まず、「キリスト者の家族」は常に「家庭司牧の主体であり、単なる目的ではない」と前置して、「司祭・助祭・修道者・カテキスタなど家庭司牧に関わる者の育成」が強く求められており、彼らには教義において堅固であるだけでなく、物事を見る能力が必要、と指摘。教会の様々な召命を生かすために、女性の存在の重要性も強調。

「婚約者」たちの歩みを、結婚前だけではなく、早い時期から導き、結婚の秘跡の価値と豊か

さを発見できるよう助けねばならない。「結婚して間もない夫婦」に対しても、日々の歩みにおいて、忍耐や理解、寛大さと共に成長できるよう導かねばならず、「信仰」を励ます必要。

「様々な家庭の危機」については、「すべての危機には良い知らせが隠されているが、それを知るためには心の耳を澄ますことが必要」とし、「家庭の危機が、赦し赦されることを通して、愛を強め成熟させる機会となることを願う」と。

「離婚」は、「一つの悪であり、その増加は憂慮すべきもの」としたうえで、家族に求められて

いるのは、「愛を強め、傷を癒し、離婚という現代の悲劇が広がることを防ぎ、子どもたちがこの状況の人質となることを避けること」と強調している。一方で、離婚が危機-暴力や、横暴、搾取など-を前に、究極の解決策として、人道的に必要とされる場合もあることを考慮すべき。

「離婚して再婚した人」と「離婚して新しい関係にある人々」については、特に「配偶者を不当に選ばされた人々への特別な判断と配慮の必要」を示している。「離婚したがその後、結婚していない人」については、「支える糧」として聖体に積極的に近づくよう促すと共に、離婚して再婚した人々に対して、「教会から破門されたかのように感じさせてはならず、教会の一員として迎え、注意深い判断と大きな尊重をもって、見守る必要がある」としている。

「カトリック信者と他のキリスト教教会の信者との結婚」「カトリック信者と他の宗教の信者との結婚」「カトリック信者と無宗教者との結婚」にも特別な配慮が必要であり、これらの結婚を、「エキュメニカルまたは諸宗教対話の機会、また福音を証しする機会」とするよう促している。

「同性愛者」については「不当な差別をせず、すべての人の尊厳を重んじる教会」の立場を明記。ただし、「同性愛者のカップルを、神の計画に従った結婚と家庭と同等に見なすことはできない」としている。

第7章「子どもの教育の強化」(同「より良い子供の養育に向けて」)

:子どもに十分な教育を与えることは、両親にとって「重大な義務」であり、「最優先の権利」であるとしたうえで、教育とは「強制的に、すべてをコントロールすること」ではなく、「責任ある自由を育て、人生の岐路に立った時、良識と知性をもって判断できるように、人間として成長させること」と強調。道徳教育を中心に、教育において配慮すべき点を指摘している。

第8章「弱さを見守り、判断し、補う」(同「結婚生活の弱さに寄り添い、識別し、包み込む」)

「秘跡としての結婚の教義」と「弱さを見守り、判断し、補う必要」の双方をめぐる考察。

秘跡としての結婚は「キリストと教会の一致の反映であり、それは男女間の自由と忠実に基づく特別な一致」としたうえで、「教会の仕事はしばしば野戦病院の仕事に似ている。多くの信者たちの弱さをいつくしみをもって見守り、判断し、補う必要がある」と述べている。

こうしたことから、司牧者には「キリスト教的結婚を進めること」と「そうでない多くの人々の状況を司牧的に判断すること」の両方が必要。教会の道は常にイエスの道、すなわち「いつくしみと融合」にあり、そこでは「誰もが永久に罪に定められることはなく、神のいつくしみは、誠実な心をもってそれを求めるすべての人に及ぶ」とし、したがって、「離婚して民法上の再婚をした人々についても、個々の複雑な状況を認識することが必要」であり、その状況は「人によって非常に異なるため、厳しすぎる定義で分類したり決め付けたりすることはできない」と注意を促している。(注・このあたりの解釈をめぐって、欧米の関係者、進歩派と保守派の間で、離婚・再婚者への聖体拝領を認めるか否かの意見対立が起きている)

皆を受容するという意味で、2015年のシノドスでも意見されたように、典礼・司牧・教育などの場における排他的な対応を深く反省し、克服する必要がある、とする一方で、「シノドスやこの使徒的勧告から、すべてのケースに適用できるような新しい教会法的規則が生まれることを期待してはならない」と注意し、「責任をとるレベルは、すべてのケースで同じではない(注・つまり、画一的な対応、判断はできない)。特別なケースに出会った場合には、責任ある個人的・司牧的判断を勇気をもって行うこと」。(注・教区レベル、あるいは小教区レベルの責任者に判断をゆだねることを示唆する内容となっている)。

誰をも裁かず、罪に定めず、排除せず、いつくしみの中に生きることを強調し、「教会は関所ではなく、生活の労苦を背負うすべての人々が安らぐ父の家」と念を押している。

第9章「夫婦と家族の霊性」(同「結婚生活の霊性」)

:信仰を表現し強める手段として、家庭の中で祈りを実践するよう促し、「キリストは、たとえ

辛い日々においても、家庭生活を一致させ、光で照らし、十字架の神秘によって困難と苦しみを愛の捧げ物に変えてくださいます」と強調。「どのような家庭も、いつも完璧で型どおりのものではありません」としつつ、「家庭とは『愛する能力を段階的に発展させていく場』です」と述べ、「家庭よ、歩みましょう、歩み続けましょう」「希望を失ってはなりません」と呼びかけ。

 

⑤勧告を日々の暮らし、教会活動、社会活動にどう生かすか

・勧告には、世界中の様々な家庭の問題を、教皇が、司教たちが、どのように受け止め、世界の教会が、司祭が、信徒がどのように考え、対応していく必要があるか、が広範に、深く書かれている。今、日本の教会が最優先で取り組まねばならないことを改めて考え、具体的行動をとる手がかりとなるものだ。

・教皇は、勧告の序章で、次のように語られているのは、参考になる。

「家庭をテーマとした二度のシノドスでの議論を通じて「家庭生活をめぐる問題の多様さ、複雑さが明らかになり、教義上、道義上、霊性上、司牧上の数々の課題について、幅広い議論を続ける必要があることが認識されました。『時は空間に勝る』(「福音の喜び」222項)のですから、教義上、道義上、あるいは司牧上の議論のすべてを、教導職(教皇と司教たち)が介入して解決する必要はない、ということを明確にしておきます。教会の教えと実行の一致は確かに必要ですが・・・それぞれの国、地域は、それぞれがもつ文化、伝統や求められるものの影響を受ける形で、解決策を立てることができるのです。私の希望は、すべての方が、勧告を読んで、「家庭生活を愛し、育むように呼ばれている」と感じること。なぜなら、家庭はやっかいな問題ではない。家庭は第一の、随一の絶好の機会だから」。

・勧告を日々の暮らし、教会活動、社会活動に生かすためにはまず、各自が自分で勧告の内容を理解する必要がある。教皇が言われているように、「家庭をめぐる問題の多様さ、複雑さを認識し、教会としてそれに応えたい、という思い」から、従来のこの種の回勅、勧告に比べて分かりやすい内容になってはいるものの、かなり長文で、しかも慎重に、できれば全文を時間をかけて、やむを得ない場合は、教皇の序章での助言をもとに、先のに概要をもとに、関心のある章から読むのがいいだろう。

 ・勧告の全文を知ろうとする際の最大の問題は公式の日本語訳が15か月もたって未だに出てこないこと。イタリア語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語、ロシア語、アラビア語、中国語(北京語と台湾語)版は、勧告発表とほぼ同時に、バチカンから出され、それ以外は、各国の教会に自国語への翻訳が任された。

全文の和訳が中央協議会から出されるのが待たれているが、いつ出されるのか不明。今できることは、極めて不完全ではあるが、このような場を設けていただいて、できる限りの説明をお聞きいただくこと。英語の公式文書はバチカンのホームページaから引き出すことができるので、それをお読みいただくこと。それと、小生が「カトリック・あい」bに序章から翻訳出来次第掲載している私訳(現在4章まで。分量が極めて多く、特殊用語の翻訳に時間を要すること、全文直訳ではかえって理解しにくい部分があること、などから、一部に抄訳も含んでいる)をご覧になること、だ。個別に翻訳されているケースも章によってはあるが。

・勧告に込められた教皇のメッセージを理解し、指針として、それぞれの教会、地域社会、日本、世界においてどのような働きができるか、個別の事情、環境に応じて考え、できることから実行していきたい。

・インターネットで読むには・

  a/Holy See http://w.va/2.vaticancontent/vatican/en.html→Apostolic Exhortations→Amoris Laetitia(英文)

   b/「カトリック・あい」http://catholic-i.net→特集→Amoris Laetitia翻訳(第四章まで掲載)

・英語の指導書、参考書(アマゾンで入手可能)

 「The Joy of Love-Group Reading Guide to Pope Francis’s Amoris Laetitia」(Twenty-third Publications) 「Accompanying,Discerning,Integrating-a handbook for the pastoral care of the family addording Amoris Laetitia」(Emmaus Road)

ご参考

・・来年の若者シノドスへ→「Amores」に続く、延長上にある使徒的勧告第三弾につながる見通し・・

若者と召命をめぐる来年のシノドスに向けた準備書面発表 2017.1.13 バチカン放送

 シノドス事務局(事務局長、ロレンツォ・バルディッセーリ枢機卿)が、来年開催される若者と召命をめぐるシノドスに向けて、準備書面を発表。2018年10月に、「若者たち、信仰と召命の判断」をテーマに、世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会がバチカンで開かれる。若者たちが自分の人生の召命を知り、それに精一杯応えることができるよう導くため、若者たちにより効果的な方法で福音を伝えるための、最良の方法を見出すことを目標としているが、。インターネットなどを通して、会議の主人公となる、若者自身に参加してもらうことも計画されている。→6月14日から、シノドス準備事務局が若者を主たる対象として、シノドス準備の特設サイトhttp://youth.synod2018.vaを開設。日本の司教協議会も6月下旬に、シノドス事務局に提出する回答書作成のための意見などを7月末までに提出するよう全国の小教区などに通知した。

 準備書面は、各国の司教団をはじめ、教皇庁各組織、修道会総長連盟など教会関係者に広く提示し、16歳から29歳の若者の社会文化的な状況についての情報を収集し、その様々な背景を理解し、シノドスに生かすために作られた。内容は主に「現実を知り見つめる」「召命と識別の重要性」「教会における司牧活動」の3つに分かれ、次のようなタイトルから構成される。

序章・イエスに愛された弟子のように

第1章 今日の世界における若者たち 1.急速に変化する世界 2.新しい世代 3.若者と選択

第2章 信仰・判断・召命 1.信仰と召命 2.判断の賜物 3.召命とミッションの道のり 4.指導

第3章 司牧活動 1.若者と歩む 2.主役となるもの 3.場所 4.手段 5.ナザレのマリア

 文書は現在のところ5カ国語(イタリア語・英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語)。シノドス事務局関係者は、次回のシノドスが、若者たちが福音の光のもとに人生の選択ができるよう、どのように見守るべきかを考えるだけでなく、若者たちの望みや計画や夢、それを実現するために出会う困難などに耳を傾けていく機会となることを期待している。

 小教区や青年の集まりなどで意見、提言をまとめて、日本の中央協議会事務局(締め切りが7月末だが)、あるいは英文に訳したものを直接、11月末までにバチカンのシノドス準備事務局へインターネットで送ることをお勧めしたい。

(2017.7.1 カトリック船橋学習センター・ガリラヤでの社会講座で)

2017年7月6日

・「宗教改革500年にあたって-ルターの信仰義認論- 」棟居 洋氏

1 ルターの信仰義認論とは

   「人は信仰によってのみ神から義(正しい)と認められる」、言い換えると「神の前で罪人である人間が義と認められるのは、信仰のみによる、行いによるのではない」という教理。これは換言すれば、人間は誰も神の前で罪人であり、その罪責を償わなければならないが、それができないので、罪がないキリストが罪人である人間に代わって十字架に架かられ、罪を贖って(apolýō)くださったという、その事実を受け入れる信仰によって神との間に正しい関係が結ばれるという教理である。

 これをルターは、「教会が立ちもし倒れもする(教理上の)条項」と言った。この教理上の理解は、実はすでにパウロにおいて確立していた。ローマの信徒への手紙第3章20~22節「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられる神の義です(前田護郎訳『新約聖書』では、ギリシア語原文dia pisteōs Iēsou Chritou eis pantas に忠実に「すなわち、イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずる者すべてのためのものです」と訳されている-棟居注)」とある通りである。したがってルターがこの認識に達したことを「福音の再発見」とも表現される。

2 この認識に至った経緯

 修道士としてのルターの生き方は、当時の神学の潮流の一つ、ガブリエル・ビールの唯名論の影響を強く受けていた。13世紀以来の神学の主流であったトマス主義の実在論では、「普遍」を問題とし、その「存在と本質」を問うたのに対し、ビールの唯名論では、「個体」を問題とし、その「意志と能力」を問うというように捉えられた。

 すなわち、実在論は人間を問題とする場合、個々の個体については何も問わない。人間総体について「そもそも人間とは?」という問い方をし、その存在と本質は何かを問う。これに対して唯名論は、人間総体などは単に「名ばかり(唯名)」で実在せず、実在するのは個々の個体であるとし、そのうえで、個体を捉えるために、その意志 と能力とは何かと問うのである。

 この唯名論は、救われるためには、神の前に立つ個体が、意志と能力の限りを 尽くして善い行いに努め、義なる神に受け入れられるレベルにまで到達すべきであるという救済論にもつながった。この唯名論の影響を受け、ルターは修道士に求められる「完徳」に至るためのお勤めに模範生的に励んだ。しかし励めば励むほど、そういう努力に対する懐疑心に悩まされ、深い心の葛藤に追い込まれていった。

 そのルターに転機が訪れた。ヴィッテンベルク大学聖書教授として行った第1回詩編講義(1513年冬学期~1514年冬学期)、それに続くローマ書講義(1515年夏と冬学期)の準備中、修道院の自室におけるいわゆる「塔の体験」によって信仰義認論という新しい認識を持つに至った。それまでのルターは、神の義とは、罪人を裁く義(能動的義justitia activa)であると思っていた。

 ところが「塔の体験」においてルターが改めて気づいたことは、神の義は罪びとに贈り物として与えられる義(受動的義justitia passiva)だということである。この義は、人間の外からextra nos 来る。詩編第31編2節の「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、あなたの義によって私を解放してください(in justitia tua libera me [『新共同訳聖書』では、「恵の御業によってわたしを助けてください」と訳されている-棟居注])」という言葉、さらに第71編1~2節にも繰り返し出てくるこの言葉、さらに特にローマ書第1章16~17節の「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」という言葉の意味を問いつつ黙想している間に今言った認識に到達した。

 ちなみに、ここで言われる「信仰」とは、ギリシア語でpistisといい、人が予め持っている信仰(「鰯の頭も信心から」の信心)ではなく、神の信仰=神の真実(それは聖書に啓示されている)のことである。したがって、聖書の言葉が語られる時、それを聞く者のうちに信仰が起こされるのである。ローマの信徒への手紙第10章17節に「実に、信仰は 聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とある通りである。

 その時、大切なことはみ言葉が語られる時、聞く者のなかに聖霊が働き、あたかもこだまのようにみ言葉に対する応答(共鳴)として信仰が生ずる、あるいはキリストとの出会いが起こるということである。ルターも「聖霊はみ言葉とともに働く」と言っているのは、み言葉と聖霊と信仰の緊密な関りを説いているのである。ルードルフ・ボーレンというドイツの神学者は、こうした事情を「聖霊による神律的相互作用」と呼んでいる。

 

3 信仰義認論vs.行為義認論

   当時のローマ・カトリック教会の贖宥制度は、行為義認論の上に成り立っていた。つまり善い行い(悔い改め、徹夜の祈り、断食、施し、巡礼、十字軍への参加等)により罪の償いを果たす、言い換えれば、義と認められるとされていた。

 ルターによる「宗教改革」の直接のきっかけになった具体例を示せば、1515年教皇レオ10世がサンピエトロ大聖堂の改築の資金を得るため、マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに彼の領内における贖宥状販売を許可した。これは、贖宥状を買えば、それは善い行いをしたと同然で、自らの救いも確保できるし、すでに死んで煉獄で苦しんでいる者の魂も、即座に天国に行くことができるという触れ込みで販売されたので、そうであるとすれば、救いにはキリストの十字架による贖罪が必ずしも必要なくなることになる。つまり人間は自力(金)で罪の償いを果たすことができ、キリスト抜きで救いを獲得できることになる。これに対して、すでに信仰義認の認識に達していたルターが疑問を抱いたのは当然のことである。彼は、1517年10月31日付でマインツの大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク宛に手紙を出して、それに添付する形で95箇条の論題(表題:贖宥の効力を明らかにするための討論)を提示したところから「宗教改革」が始まった。

 

補足説明:行為義認論の説く「義」は、歴史を遡ればアリストテレスの正義論における正義、つまり「分配的正義」「応報的正義」である。その原則は「各自に相応しいものを帰せよ」ということ、つまり正しい人間には報償を与え、不正な人間には罰を与えるということである。それは、キリストの十字架による贖罪を信じる信仰義認の捉え方とまったく違う捉え方であった。なぜなら、キリストの十字架による贖罪という捉え方は「罪人(正しくない者)に一方的に(無条件に)義をプレゼントすること」、人間の側には義とされる根拠はまったくなく、神からいただく外ない、つまり「恵みによる義認」以外にないということを意味しているからである。

4 ルターの信仰義認論の現代における意義

1) 現代的表現で言うと、罪とはどういう事態か

 聖書で言う罪とは、本来「的外れ」という意味。神を侮り、背を向けること。罪は「~に対して罪を犯す」と表現されるように、いつも誰かに対する罪として、関係性の中で捉えられている。ルターは罪のことを「自分自身へのねじ曲がりincurvatus in se ipsum」と表現した。これは、人間は本来神と世界に対して開かれた関係を持つ存在であるのに、そこから逸脱した人間の非本来的なあり方を示す、優れた表現である。言い換えると、人間の自己中心性、あるいはエゴイズムを意味する表現であるとも言える。

 人間は、本来神の似姿に創造された、神に向い合い神に対して開かれた存在、神に問われ答える、逆に神に問い神の答えを受ける人格的な関係を持つ存在であるにもかかわらず、やがて自分の自由意志によって神の御心に背き、神から身を隠し、神に対して自らを閉ざす者となった。この人間が抱える根源的な矛盾、これは、本来の自分とは違う自分になるという意味でアイデンティティの喪失、あるいは自己疎外とも言えるが、そうした事態を罪と言うことができる。

 ついでに言えば、アイデンティティの喪失、あるいは自己疎外に陥った者は、自分を愛することができない。そうなると、まして他者を愛することもできなくなる。したがって罪とは、愛の喪失という事態に陥ることでもある。

2) 現代的表現で言うと、義認とはどういう事態か

   義認とはどういう事態かを明らかにするために、現代の日常用語の中から「愛」「承認ないし評価」「赦し」「自由」という4つの表現をもって言い換え説くことができるが、ここでは、「承認ないし評価」という表現から、説明に取り組みたい。

 人間は、上述したように、他者との関係の中で生きていて、つねに自分の存在、また正しさを認めてもらうことを求めている。したがって他者から認められないと生きていけない(少なくとも生き生きと生きられない)。ある高名な評論家が彼をたえず支えていた妻の死後、間もなく自殺したことは、一つの例である。

 他者の最高のもの、つまり絶対他者は神である。一人の人間が周りの誰にも認められず、自分の居場所を見失って孤独の中にあっても、その絶対他者である神によって正しいと認められ、保証され、その祝福の中で生かされていることを知るとき、その人間は、どんな場所でも自分の居場所になり、なお生きることができる。誰にも認められないように思える時でも、神によって正しいと認められているならば、これほど確かなことはないはずだからである。

 このように、自分の存在、人格、生の最終的保証を与えられることが、義認ということである。その義認がキリストの十字架の出来事によって起こったというのが、聖書が言う福音である。

   『リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーのことば』(ライナー・アンゼン編 加藤常昭訳 日本基督教団出版局刊 1996年) の一節「人間は、取り替えることのできない、ただ一度の人生を生きる、しかも、親しく神から呼び招かれている者である。そのことが、人間を人格ある者(神と向き合った者=神の前に居場所を持つ者-棟居注)とする。その尊厳は犯しがたい(なぜならキリストが自らの命を投げ出して保証したものであるから-棟居注)。その尊厳は、その人生の成功・不成功によらず、他人の評価によっても左右されることなく、その人に備わって(与えられて-棟居注)いるものである。」これも人格の尊厳が神によって保証されていることを語っている言葉である。

3) 現代は業績(成果)至上主義、効率第一主義の時代である

   現代社会は、業績至上主義、効率第一主義の競争社会である。ここにテクノロジーの問題も絡む。テクノロジーが生み出す様々なメカやツールを駆使して何事にも短時間で業績を上げないと認められない社会であるから、業績を上げるための激しい競争が生じている。これはまさに行為義認の原則が支配する時代である。

 現代では、効率的に業績を上げ認められた成功者は、評判も上がり社会的地位も上昇していって「勝ち組」として称賛される。他方、なかなか業績を上げられず、認められない失敗者は、無視され、社会的地位が上がらない(相対的に下がる)「負け組」と侮られる。したがって負け組にならないため、誰もが業績を上げるために頑張る。その結果、抑圧的な力が社会全体に働く。労働者は雇用者から限界を超えた労働を強いられ、労働は苦役となる(創世記3・17)。過労死の問題に現れているように、業績優先で人間の命も粗末にされる。他方、健常者に比べ業績を上げにくい障碍者に対する偏見・差別が助長され、社会的格差も、増大する。

 また、多くの負け組に属する者、社会的弱者が自分の価値を見失い、生きる意味を見失い、先行きの希望を見失う。精神的に障害を抱える者も多くなる。

   もちろん、業績(成果)を上げること自体は悪ではない。ただその成果は何のための成果かということと、その成果を自分の利益だけにではなく社会、特に社会から疎外された人々の利益に還元するかどうかが問題なのである。これは、栄光の教育理念でもある、Man for  others , with others に通ずる。

 この根拠は、まさにすべての人の人格の基礎には、キリストの十字架の出来事による神の義認があるからである。極言すれば、あのヒトラーのためにもキリストは十字架に架かられた。言い換えると、キリストの十字架ゆえにすべての人間は神の愛の中に入れられている。

 この信仰義認の原点に立てば、異質な者同士の共生・連帯への道も開かれる。なぜなら、すべての人間はキリストの十字架ゆえに神の愛の中に入れられているならば、人間的にどんな違いがあっても共生・連帯が可能であるはずだからである。また、争い合っている敵同士も、争いを止め、平和に向けた対話の席につくことが可能なはずだからである。

 ただ現実には、そのような信仰義認の原点に立った人間理解を受け入れるか受け入れないかの違いが残されているにすぎない。ここにキリスト者-カトリック、プロテスタントの違いを問わず-の宣教の使命が示されている。

                 棟居 洋(栄光カトリックOB会会員)(2017520  カトリック大船教会にて)

2017年5月21日

・「教会の変化・改革を求める教皇フランシスコ」森一弘司教

1.教会の現状に対する教皇の認識は

  教皇フランシスコが教会の現状をどうご覧になっているかを知るため、教皇に就任されて初めてお出しになった使徒的勧告「福音の喜び」(2013年11月24日)の49項を読んでみましょう。

 「(前略)私は、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。(中略)過ちを恐れるのではなく、偽りの安心を与える構造、冷酷な裁判官であることを強いる規則、そして安心できる習慣に閉じこもったままでいること、それらを恐れ、その恐れに促されて行動したいと思います」(カトリック中央協議会訳)

  以上でお分かりになる通り、神の憐れみについての理解を深めて、「教会そのものを変えましょう」という呼びかけをなさっているところに、教皇フランシスコの特徴があります。これまでの教皇は、人の生き方、社会の問題には言及しても、教会そのものの改革については直接言及してきませんでした。現教皇は、人々に「悔い改めなさい」と呼びかけるよりも、教会そのものに対して「改めなさい」と呼びかけているのです。

 使徒的勧告「福音の喜び」では、まず、「あわれみの神」」を強調したうえで、教会の現状をどのように見、どうあるべきかを語っているのです。

 もし、皆さんが、主任司祭たちに面と向かって、「安全地帯にしがみつき・・中心であろうと心配ばかり‥強迫観念や手順に縛られている・・そういう今の教会を変えなければならない・・」などと言ったら、皆が皆そうではないでしょうが、「もうここに来るな」と怒る司祭がいるかもしれません。一般の信徒が語っても、おそらく受け止めてもらえなかったでしょう。教会についてこれほど辛辣な言葉を口にした教皇は、これまでおりませんでしたね。

 日本の教会は第二バチカン公会議の結果を受けて、1986年に第一回福音宣教推進全国会議を開きましたが、「カトリック信者としての私たち自身の生活と信仰の遊離、教会の日本社会からの遊離」などを共通の認識として明確にしたものの、教皇フランシスコの言葉ほど明確な表現ではありませんでした。教皇のこのような認識に共感する人は、「よくぞ言ってくださった」と感じる人は、今の日本の教会の信者の中でも少なくなくはないのではないでしょうか。

 そうした現教皇の呼びかけの背景に何があるのか、考えてみたいと思います。

 「自分の安全地帯にしがみつく」「偽りの安心を与える構造」

 「福音の喜び」の上記の箇所にある「自分の安全地帯にしがみつく」「偽りの安心」という指摘の背景にあるのは、「秘跡中心主義」です。16世紀の宗教改革の先頭に立ったマルチン・ルターは、「信仰のみ」「聖書のみ」「恵みのみ」の三原則野畑を掲げて、権力におぼれ、堕落した教会に立ち向かいました。これに対して、時の教皇、パウルス三世がトレント公会議を招集し、宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にしましたが、その柱になったのは、「秘跡」「教義」「掟」でした。

 日本にカトリック宣教師によって伝えられたキリスト教は、まさに欧州でそのようなことを背景にしたものでした。秘跡、教義、掟を中心にしたキリスト教でした。

 許しの秘蹟を求め続ける、遠藤周作の「沈黙」で象徴的に描かれているキチジローの姿の中には、秘跡中心に教会理解があります。秘跡―ミサや赦しの秘跡にあずかってさえいれば、救われるというというメンタリティが深くしみ込んだのが、この時代だったのです。秘跡中心主義は、隠れキリシタンの時代にも受け継がれていたのです。

 「ミサに出て、赦しの秘跡を受けて、亡くなる前に病者の秘跡を受けていれば、救いは保障される」、そうした秘跡を中心とした信仰生活が、宗教改革を契機に起こったプロテスタントとの対立で強調されるようになり、「ミサに出て、黙想会などにも参加したりして教会につながっていれば、安全である」という安易な考え方が、教会全体に染みこんでしまったのです。それが、現代の教会にも受け継がれて、そこから払拭できないでいるのです。

  「世俗社会から信徒を護る城塞」

  教会は世俗社会から信徒を護る城塞であると言う認識が深まるのは、18世紀以降です

  教会は、近代社会の土台となる「自由主義、合理主義、科学技術中心の発展、労働者階級の誕生、資本主義」が芽生えてきたとき、その意味を理解できず、『自由、平等主義、合理主義』を、カトリック教会の信仰に逆らう危険な毒としてとられ、弾圧する側に立って、教会を近代主義から信者を守る『城塞』と位置づけたのです。 信者たちには、たとえ理解できなくても教会の教えを信じ、聖職者たちに従うことを、求め指導したのです。結果として、信者たちの思考停止を生んでしまったのです・

  それが、信仰の日々の生活からの遊離、教会の現実社会からの遊離を助長してしまい、また、それが、一般の人々には敷居の高い、近付きがたい教会を生んでしまったのです。

 「中心であろうと心配ばかりしている教会」

 こうした教会の葉池にあるものは、中世期に確立した教会像です。

 中世期、教教皇は宗教と政治を合わせた絶対的な権力者、王の中の王と理解されるようになり、教皇をはじめとする司教、司祭たちは、地上におけるキリストの代理者として認識されるようになります。

 聖職者は、地上におけるキリストの代理者としての理解は、時代を超えて受け継がれてきており、今もって善良な信者たちの心には染みついてしまっているように思えます。

 近代主義が台頭してきた18世紀以降、ヨーロッパ全体に大きな影響力を及ぼしてしまう近代主義と向き合うため、っかとリック教会は、教皇をピラミッドの頂点とした強固な「中央集権主義体制」が確立したのです。その中心的な人物が、ピオ9世でした。1869年に第一バチカン公会議を招集し、教皇の不可謬権を宣言し、司教は教皇に、司祭は司教に、そして信徒は司祭に従順、という〝ヒエラルヒー″が完成します。教会の統治は聖職者に委ねる、という「聖職者主義」が確立します。

 よく「教会には民主主義がない」という声を聞きますが、司法、行政、立法の三権分離は、教会の構造にはまだ確立していないのです。教会は、中心でなければならないという観念がまだまだ染みついてしまっているのです

 このように教皇フランシスコは司教として現実の社会の現場で活動されて、色々な問題にぶつかってきた経験から、痛切に感じたことを表に出し、「秘跡に頼り、権威主義に頼ってきた教会を内側から変えなければならない」という呼びかけをされたのです。

2.教皇フランシスコの目指す教会は

 まず「出て行く教会」です。教会の外に出て、人と向き合い、人それぞれの人生とまじりあうことをイメージされているのだと思います。

 教皇は、ブエノスアイレス司教となって、市内のスラムに入り、住民一人ひとりと言葉を交わし、親しく付き合われました。教皇になられた直後のインタビューで「教会は〝野戦病院″であるべきだ」「扉を開いて歓迎し、受け入れるばかりでなく、新たな道を見出す教会になろう・・信仰を捨てた人や関心のない人たちのために」と語られたのも、その延長上にあります。また、別の雑誌のインタビューで、「私は『神』を信じていますが、『カトリックの神』ではありません・・・おられるのは『神』だけ、イエス・キリスト、人間の姿を借りてこの世に現れた『神』です」と語りました。教皇が見ている眼は、神が人を見ている眼なのです。

 もう一度、使徒的勧告「福音の喜び」に戻りましょう。「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆、かつ創造的であってください」(33項)と教皇は、強く呼びかけられています。

 第二バチカン公会議を受けて日本の教会が開いた1986年の第一回福音宣教推進全国会議も、どこか遠いところで作られた信仰様式に無理やり私たちの生活に合わせるのではなく、現実の生活と日本社会の中で生きる、ということで捉えなおすように、教会を転換していくべきだ、というのが、司教たちの考えでした。

 それから30年経って、教皇フランシスコが、別の言葉でもっとはっきりと語られたのです。このような認識を共有したうえで、前を向いた改革を進めていく。それが、私たちに求められていることではないでしょうか。

(2017.3.11真生会館講座「信仰生活を深め生きる」シリーズより)

2017年3月17日

「家族とどう向き合うか-自分の思いに相手を過剰適応させる?」精神科医師・片田珠美

  精神科医として、心を病んだ子供たちを多く診ていますが、特に摂食障害-母と娘の葛藤の結果-が多い。私個人も母との関係で悩み続けてきました。田舎で教師をしていた母は、私を妊娠して、夫の実家(母の実家には継母がいるなど、問題があったので)で舅、姑と同居することになったのですが、とくに姑からいじめられ、生まれた私が女の子だったことで、余計に肩身の狭い思いをした。それで、私を、田舎ではステータスとみなされる「医者」にして、見返そうとしたのです。私自身は物書きになりたい、というのが本心でしたが、母から愛されたい、愛情を失いたくない、という思いから本心を抑えて頑張り、大学の医学部に入って、医者になりましたが、いつも「これは自分の人生じゃない」というこだわりを抱き続けたのです。

  このように、母親の欲望、父親の欲望を押し付けられながら、それを受け止めようとするあまり、生きるのがしんどくなっている、という子供たちが最近、とくに増えています。先日、研修医と医学部学生の男3人が集団で女性を酔わせて、強姦したというとんでもない犯罪事件がありましたが、いずれの親も開業医でした。もちろん悪いのは3人ですが、おそらく親たちが後を継がせようと、本人の気持ちも考えずに医者にしようとした、それが、犯罪の遠因になっているのではないか。私の周囲の人たちをみてもそう思うのです。

  これは極端な例としても、親の押し付けは、様々な問題を引き起こしています。「期待」という名の下に、将来の進路を押し付け、受験を押し付け、職業を押し付ける。「愛情」の名の下に、子供を支配しようとする。いい大学に入れて、いい会社にいれて・・。10年ほど前に奈良県の進学校に入った医者の子供が、自宅に放火して、継母と弟妹を焼き殺すという悲惨な事件がありました。父親は、息子を国立大学の医学部に入れて、医者にしたいと思い、学校や塾の成績が悪いと頭ごなしに叱りつけていたそうです。

  その結果がこのような事件になってしまったわけですが、女の子の場合に多いのは、拒食症です。親が自分の果たせなかった夢を子供に託し、子供は親に気に入られたい、と必死に「いい子」を演じようとして、「過剰適応」してしまい、疲れ果ててしまう。大人になると、相手は親から周囲の人、上司などになる。先日、東大を卒業して一流会社に入った女性が入社一年で自殺されましたが、母子家庭で母親の期待を一身に受け、それに応えたい、と無理をした。そんなに辛い、耐えられない、というのなら、辞めればよかったのに、と思う方もいるかも知れませんが、「いい会社に入った」と喜んでいる母親を悲しませたくない、と頑張りすぎたのでしょう。「いい子」が「過剰適応」したあげくに、「燃え尽き」てしまう。

  このような患者さんを私も多く診てきました。結論は「あまり『いい人』になるのはよくない」ということです。頑張りが積もり積もって切れてしまうと、逆効果になる。苦痛、怒りはため込まずに、小出しにしたほうがいい。「嫌われる勇気」という本が売れていましたが、「嫌われたくない」と無理をする人が、とくに若い人の間で増えています。「過剰適応」して、しんどくなって、医者のところに来るのです。

  家族の間でもそうですが、精神的な葛藤、怒りや敵意が生じるのは当たり前です。お互いの距離が近いほど、恨みや憎しみが強くなることがある、ということを認識する必要があります。殺人事件に占める親族殺人の割合が半分以上になっている。「愛」で結ばれていることが望ましいのだけれども、互いの敵意、憎悪が強まって、心理的に追い詰められることもある、と知ってもらいたいのです。

  そうした精神的な葛藤の背後に、「支配」がある。親が子を「支配」したい、夫が妻を「支配」したい、あるいは妻が夫を「支配」したい・・。その動機としては、「物的、精神的な利得」「自己愛」「支配の連鎖」がありますが、支配する、あるいは支配される当人がそれを自覚せず、体調不良、吐き気、めまいなどの症状が出て、医者の診断を受けて分かることが多い。

  こういう例もあります。定年後の嘱託勤務で単身赴任するようになった夫をもつ奥様が「毎週末に夫が帰宅する前日になると、動悸が激しくなり、吐き気を催すようになる」と相談に来られました。お聞きすると、ご主人は帰宅するたびに、家じゅうを掃除し、靴のおき方も含めて全部整頓しなおす。そして、「お前の掃除、整頓の仕方はなっていない」と怒鳴り散らす。奥様は自己否定されたように感じ、落ち込んでしまう、ということでした。ご主人はきっと勤務先で、もと部下だった上司に屈辱感を味わわされたりして、その憤懣のはけ口を奥様に求めたのかもしれません。

  親による子の「支配」に話を戻すと、当事者が気が付かないうちに、深刻な事態になっているケースが少なくありません。背景に、まず、少子化がある。一人の子供に目が行き過ぎる、期待を集中させてしまう。それと、「自己実現」をあきらめきれない親が増えていることがあります。昔は、皆、生きることに、食べることに精いっぱいで、子供に何になってほしい、何にならせたい、というようのことを考える余裕はなかったが、いまその余裕がある、と言う事情もある。「ステージママ」も含めて、子供の思い、希望と関係なく、自分の思いを押し付け、自己実現の欲求を満たそうとする親が増えています。

  では、どのような親が危ないのか。まず、夫婦の間に問題を抱えている親。次に、代々続く医者の家など、支配の連鎖を抱えている親。それと、希望していた職業に就けなかったなど、自己実現ができていない親-です。不登校、拒食症、果ては追い詰められて命を落とすような事態にならないように、親の思い、夢を子に押し付けることが、子にとって幸せなのか、親は問い直す必要があります。しかし三つのうち、一番悪いのは、夫婦の間で「敵対的」になることです。私がよく受ける相談に「主人の暴言に耐えられない。離婚して、解放されたいが、専業主婦で1人では生きていけない」というのがある。また「一人になると子供も育てられないし」と子供に転嫁することもあります。

  親子で「敵対的」な関係になるのは、母と娘が多い、と言われます。こういう例があります。看護師をしていた娘さんが人間関係などに悩んだ挙句、仕事を辞めて無職になり、住む実家に戻って、母の介護をするようになった。だが、母は「お前は仕事もせずに私の年金で食べている。働き口を見つけて来な」とののしられ、杖を振り回される。心の救いを求めて近くのキリスト教会に行き、本を借りて読んでいたが、母が「こんな本を読んで」と怒って破り捨ててしまい、自分が全否定されたようですごいショックを受けた、というのです。「そのままでは、大変なことになりかねません。お母さんを施設に入れるか、ご自分が生活保護をもらって家をでたら」とアドバイスしたのですが、結局、「母を捨てられない」と、そのままの生活を続けておられるようです。

  このように、母と娘の関係が「介護」をきっかけに深刻になるケースが増えているようです。政府は財政事情の悪化から、施設介護を在宅介護にシフトさせていますが、負担が家族、とくに女性にかかることになる。それで、「夫が死んだら、舅や姑など夫の家族の介護などしたくない」ということで、「姻族関係終了届」を出す、いわゆる「死後離婚」をする女性が増えているのも、それと関係があるのでしょう。在宅介護はものすごい危険を含んでいるのです。介護殺人が二週間に一回の割で起きていますのも、在宅介護中心主義と関係があると思います。憲法改正で、「家族の助け合い」条項を入れようとする動きがあるようですが、一見、美しい言葉のようですが、家族に負担を強い、敵対的関係にある家族を介護殺人に追いやる危険もあることを認識する必要があるのではないでしょうか。

  おわりに、このような家族をめぐって起きている問題と向き合う際に、気を付けるべき点を列挙します。

 ①まず、「問題に気づく、自覚する」ことです。さきほども申し上げましたが、気がつかずに、事態を深刻にしていることが多いのです。うすうす感じても、「自分は親に、夫に敵意も、憎しみも持っていないのだ」と思い込もうとする傾向もある。体がSOSを発したら、あるいはそうなる前に、自分はどうなのか、親の期待と自分のやりたいことは違っていないか、など、自分自身を見つめなおすことが必要です。

 ②「相手(親や夫、妻)を他の人と替えることはできない」と割り切ること。とくに歳を取ってから生き方を変えるのは難しい。「あきらめる」ことも時には必要です。

 ③「離れる」ことも悪くない。無理をしてそれまでの関係を続けようとすると、自分自身も、相手も罪悪感が募ってやりきれなくなる。施設に入ってもらう、あるいは介護サービスを受けて、その間は外出して気分転換を図るようにする。

 ④「少し距離」を置いてみる。食事を別々にする。家の中でも、できるだけ顔を合わせない。夫が定年になっても、できるだけ外にでてもらう。趣味を広げる、などです。

 ⑤「各々が豊かな人間関係を作る」こと。相手や子供にあまり期待をかけすぎないようにし、それぞれがそれぞれの人間関係を広げていく。これが一番、前向きで必要な対応かも知れません。

   (片田珠美=かただ・たまみ=精神科医、京都大学非常勤講師、臨床経験にもとづき、犯罪や心の病の構造を分析している。著書に「一億総うつ社会」(ちくま新書)、「他人を攻撃せずにはいられない人」(PHP新書)など。

(真生会館・講座シリーズ「現代社会に生きる」の2月25日「家族とどう向き合うか」より・文責=南條俊二)

 

2017年2月28日

「The Promotion of a Culture of Peace」ギャラガー・バチカン外務長官(要約)

 現代世界では、社会から疎外されている人、助けを求めている人のことを配慮しなけらばならない、と言われ、人と人、国と国などの障壁をなくし、オープンな世界にしなけらばならない、と言われながら、出来ないのが現実です。私たちが目指すべき核となるのは「平和」。教皇フランシスコは、先月の恒例の駐バチカン外交団に対する年頭あいさつでも、平和の実現に積極的に努力するように求め、単に政府レベルにとどまらず、個々人と社会が一致協力することの必要性を説かれました。

 カトリック教会の現在の平和への取り組みは、教皇ヨハネ23世1963年4月に発せられた回勅「パーチェム・イン・テリス(地上の平和)」に始まりました(「カトリック・あい」注・カトリック信者だけでなく、「すべての善意の人びと」に宛てて教皇が発した初の回勅であり、人間個人が有する生存、尊厳、自由、教育といった権利を列挙するとともに、核兵器や軍拡競争を終わらせるための取り組みについて言及した)。これは、教会の教義であるにとどまらず、国際社会が取り組むべき優先課題なのです。言うまでもなく、カトリック教会の平和のビジョンは国際社会が額面通り共有できるものではありません。必要とされるのは、個人、国家、宗教などのそれぞれのレベルで分離・対立の原因となっているものを除くことなのです。

 平和への努力は、まず、人間関係の基本に戻るところから始める必要があります。国々のリーダーは、人間の基本的権利を守り、育てるという基盤に立脚し、政治的、法制度的手段を使って平和実現に努めなばなりませんが、「平和の文化」との関係を無視してはなりません。世界で起きている紛争の現実を直視すべきだし、あらゆる手を尽くして、それでもやむを得ない場合には、正当な武力の行使を否定することはできませんが、事の本質を見失うことがあってはなりません。

 戦時下では戦時国際法に基ずく行動が求められ、捕虜の虐待などは認められないにもかかわらず、基本的人権を無視する行為が起きている。現在の〝戦争″は在来型の内戦や国家間の紛争だけでなく、テロやさまざまな形で起きています。人々の間に恐怖や疑惑を高め、力を合わせる動きを壊してしまう。若者も、高齢者も、悲嘆の中で命を落としている。国家間の対話だけでは解決できません。

 教皇フランシスコは2015年秋の国連総会での演説で「特定の明白な自然倫理制限の認識がなければ、また必要不可欠な人間発達の要件の迅速な実行がなされなければ、『戦争の惨害から将来の世代を救済』し『社会進歩と生活基準を向上する』という理想は、達成できないか、さらに悪い状態となります。そしてあらゆる乱用や破壊の言い訳をすることになり、あるいは人々にとって無縁の特異な基準やライフスタイルを押し付けることでイデオロギーの植民地化をし、最終的には責任を負えない状況に陥ります。戦争は全ての権利を否定し環境を無残に破壊します。全ての人間が進歩していくには、国家や人間同士の戦争を避けるため、たゆまぬ努力をする必要があります」と話されました。

 そして、この目標を達成するためには「国際連合憲章の章でも提示されている通り、真の基本的な法規定で構成されてる協議された法の支配を確実にし、交渉、仲裁や調停を精力的に行なうことが必要です。・・国際連合憲章が、偽りの意図を覆い隠すことなく正義の義務的基準点として、尊敬され、透明性と誠実性を持って、下心なしで適用されたときに、平和的結果が得られるでしょう」と強調されました。

 この時の国連持続可能な開発サミット」で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」では、「平和と安全」の項で、「持続可能な開発は、平和と安全なくしては実現できない。・・新アジェンダは、司法への 平等なアクセスを提供し、(発展の権利を含む)人権の尊重、効果的な法の支配及び全ての レベルでのグッド・ガバナンス並びに透明、効果的かつ責任ある制度に基礎をおいた平和 で、公正かつ、包摂的な社会を構築する必要性を認める。・・我々は、平和構築及び国家建設において・・紛争の解決又は予防、及び紛争後の国々の支援のため の努力を倍加しなければならない。経済的・社会的発展及び環境の面でも悪影響 を及ぼし続けている植民地下及び外国占領下にある人民の自決の権利の完全な実現への障 害を除去するために、国際法に合致する更なる効果的な手段と行動を求める」としています。

 そして「文化」の項で、「我々は、文化間の理解、寛容、相互尊重、グローバル・シチズンシップとし ての倫理、共同の責任を促進することを約束する。我々は、世界の自然と文化の多様性を 認め、すべての文化・文明は持続可能な開発に貢献するばかりでなく、重要な成功への鍵 であると認識する」と「平和の文化」の重要性を強調しています。真の「平和の文化」はすべての人が関与したうえでの成果でなければなりません。

 教皇フランシスコは先の駐バチカン外交団へのあいさつで、平和実現のために大胆さと構想力の必要を力説されました。困難な障害はあっても、平和の文化を国際社会、地域社会、そして個々人の関係の中で育てることが今、最も必要とされているのです。

質疑

(「カトリック・あい」南條)「今、世界中で深刻な議論を呼んでいます。それは就任したばかりの米国のトランプ大統領の言動、とくに先週署名した大統領令で、中東・アフリカのイスラム7か国からの入国を差し止めたことです。教皇フランシスコの2月の祈りの意向は、弱いもの、助けを求める者を慈しみをもって受け入れる、というものであり、教皇が、トランプ大統領の就任時に送ったメッセージでも弱い者たちへの配慮を強く求めていた。それに全く反するものです。ここ数日の動きとして、米国や英国などの司教団が、入国差し止めの措置を撤回するよう求める声明を出していますが、バチカンも具体的な意思表明をすべき時ではありませんか」

 外務長官「私たちは幅広い視野で対応する必要があります。また、特定の政策が今とられていても、変わっていくこともある。拙速な判断はしたくありません。今起きていることに、色々の人が意見を表明する権利はありますが、バチカンとしては、動きを見ながら、色々な人の声を聴いているところなのです。国際社会の原理原則に従う必要がありますし、個別の件に触れるのは差し控えたい」

(2017.2.2 日本・バチカン外交関係樹立75周年記念・上智大学主催特別講演会で) 要約文責・「カトリック・あい」南條俊二

2017年2月2日

「私たちにとって『強み』『弱み』『機会』『脅威』とは」‐菊地司教の説教から

 この数ヶ月の間、カリタスアジアやカリタスジャパンでは、「戦略計画の策定」という作業を続けています。

 「戦略計画」というと何か軍事用語みたいで響きが悪いのですが、元々の英語の単語を日本語に訳そうとするとこうなってしまうので仕方がないのです。要は、過去の振り返りに基づいてよりふさわしい将来への道筋を明らかにする作業です。戦略計画を策定した後に、それに基づいて中期的な活動計画を定めていきます。それによって、過去の失敗を繰り返さずに、さらにより良い活動が出来るようにするというものです。ビジネスの世界では普通に行われているようでもありますが、NGOなどの世界でも広く取り入れられてきました。

 その作業の中で、一番最初にしなければならないのが、SWOT分析。それは計画を策定する組織における「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」を見つけ出し、そこから、組織の目的を効率よく達成するためには何が欠けているのか、より目的に近づくための優先事項は何なのかを明確にしていこうとする作業です。

 教会も、御言葉を一人でも多くの人に告げ知らせることを使命として与えられた組織体であります。ですからそこには、同じように、「S(強み)、W(弱み)、O(機会)、T(脅威)」が存在し、それを分析することで、より良くその使命を果たすことが出来るようになるのではないかと思いました。

 いまわたしたちが生きているこの地域での教会の福音宣教の現実を考えるとき、わたしたちにとっての「強み」、「弱み」、「機会」そして「脅威」は何でしょうか。主の降誕を祝うこの日にあたり、その出来事に思いをはせながら、思いつくことを掲げてみたいと思います。

 先ほど朗読されたヨハネの福音に、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と記されていました。わたしたちが告げ知らせるよう使命を受けている神の御言葉は、人間を照らす光であり、そこにこそ命があるのです。わたしたちは、その命が、神の望まれるあり方でより良く生きられるようにと、この世界の中で神の言葉を告げ知らせていかなくてはならないのです。そういう使命が、教会には与えられています。

 そして、教会にはというとき、誰かの組織ではなく、それは、イエス・キリストを信じるすべての人、すなわちわたしたち一人ひとりのことを指しているのです。わたしたち一人ひとりの使命であります。

 さて、「強み」から見てみましょう。わたしたちには、かけがえのない「強み」があります。それはすべての創り主であり生命の与え主である神ご自身が、人間に対する愛のあふれとして、人となり、その罪を担い、死と復活を通して自ら示された、神の愛の力の絶対的な強さそのものであります。わたしたちには、自信をもって告げるべきメッセージがあります。自信をもって倣うべき、人生の生き方の最高の模範があります。

 その夜、聖母マリアには神の言葉である御子が人として宿られている。ですからこの聖なる家族は、神ご自身を運ぶ家族であります。新しい生命の誕生を待ち望む人間の愛が、その家族を満たしています。人間の愛を通じて、神の絶対的な愛を多くの人に運んでいこう、もたらそうとする聖なる家族は、わたしたち信仰者にとって最大の強みは何であるのかを教えています。何も恐れるものがない、神の愛のあふれである御子イエスの存在そのものであります。

 では、「弱み」は何でしょう。聖なる家族は、ナザレからベトレヘムまで長い旅を続けてきました。その夜、宿を求めてベトレヘムの町をさまよった聖なる家族を、多くの人々は拒絶します。神の愛そのものである言葉は、人として誕生したその瞬間から、多くの人に拒絶される存在だったのです。

 わたしたちの住む日本において、キリスト者は徹底的に少数派です。そのために、わたしたちが信仰において当たり前だと思っていることは、日本社会全体の常識とはかけ離れているのかもしれません。あまりにも小さな集まりであるがために、勇気をもって福音をあかしすることを躊躇している現実が、わたしたちの弱みかもしれません。その夜の聖なる家族のように、わたしたちは、誰かに受け入れてもらえる場を求めて、闇の中をさまよっているのかもしれません。

 「機会」とは何でしょう。聖家族は最終的に、彼らを受け入れてくれる人々に出会います。それは立派な宿屋ではなかったものの、少なくとも幼子を守るに十分な飼い葉桶であり、また誕生を祝うために集まった町の多くの人々なのではなく、野宿する羊飼いたちでありました。その出会いによって、場所を提供してくれた人たちに、そして羊飼いたちに、その人々の内に神を迎え入れる機会が与えられました。

 そうすると、わたしたちの社会の様々な動きの中で示される、神の愛に基づいた奉仕の可能性は、わたしたちにとって大きな「機会」ではないでしょうか。

 いま多くの人が迎え入れられることなく、拒絶されています。教皇様の繰り返されるシリアでの和平への呼びかけと、難民受け入れの呼びかけにもかかわらず、未だに和平は実現せず、難民の人たちへの受け入れは困難を極めています。それははるかヨーロッパだけでの問題ではなく、教皇様がしばしば指摘されるように、全世界で、「無関心と排除」の態度として拡がっています。日本も例外ではありません。

 漠然としたテロなどへの恐怖感をはじめ、治安維持への不安感は、何となくわたしたちを疑心暗鬼の暗闇に引きずり込み、「排除」する姿勢へと導きます。目に見えるところで、分かっている範囲で、わたしたちは安心をしたいのです。異質なものを、普通と異なる存在を、社会は、いやわたしたち教会は、排除しようとしていないでしょうか。教皇の呼びかけるように、すべてを受け入れるいつくしみの共同体であるでしょうか。排除しないまでも、そういった異なる存在に目をつむる、「無関心」な共同体になっていないでしょうか。主ご自身を迎え入れる「機会」は、常にわたしたちの目の前にあるのです。もしかしたらわたしたちは、宿を求めてたたずむ聖なる家族の面前で、冷たく扉を閉めているのかもしれません。

 最後に「脅威」。主の降誕にあって最大の脅威は、その存在を否定しようとするヘロデの存在であったかもしれません。神の愛の充満である生命、神の御言葉そのものである幼子への攻撃です。

 あらためて繰り返すまでもなく、いま日本を含め世界の至る所で、生命は危機にさらされています。守られるべき生命と存在を無視される生命との格差が広がっています。まず第一に考えられるべきは生命の尊厳であるにもかかわらず、そうではない価値観が優先されています。これほどの「脅威」はありません。どのようなレベルにおいても、どのような形であっても、人間の生命は、神の似姿である限り尊厳があり、守られなくてはなりません。

 主の降誕にあたり、あらためてわたしたちが、御言葉を告げる使命を勇気を持って生きることが出来るように、祈りましょう。

(2016年12月25日 新潟教会の主の降誕(日中)ミサで)

2016年12月28日