・「中国の戦略をどう読み解くか」言論NPO/有識者調査・座談会

言論NPO/有識者調査「中国の戦略をどう読み解くか」

1978年の日中平和友好条約の締結から40周年の節目の年を迎え、日中両国政府は日中関係の改善に向けて動いている。そこでまず、こうした改善に向けた動きをどのように評価しているのかを尋ねた。

その結果、有識者の84.6%が「賛成」と回答し、「反対」は3.5%にすぎなかった。

1.png

【日中関係改善に向けた動きに対する評価】

 

中国の政治改革は、習近平氏の独裁体制に向けた動きとの回答が7割近くに

次に、中国の政治体制についても尋ねた。中国の習近平国家主席は、毛沢東以来の最も強い指導者を目指して、国家主席の任期の撤廃など指導力を強めている。こうした習近平氏の動きは、独裁体制に向けた動きなのか、有識者の見方を尋ねた。

これに対しては、68.5%が「そう思う」と回答し、7割近くの有識者は習近平一強体制の確立が着々と進行していると見ている。

2.png

【習近平氏の改革は独裁体制に向けた動きか】

既存の国際秩序と、中国が主張する新しい秩序が併存するとの回答が最多

習近平氏は各種演説の中で、中国が今後の国際秩序の構築において、「新時代の中国の特色ある社会主義外交思想」を指導方針としながら主導的役割を果たすことを明確に打ち出している。そこで、欧米を中心とした既存の国際秩序は、この中国がつくる新秩序にとってかわられるのか、その見通しについて尋ねた。

その結果、「既存の国際秩序を変更し、中国主体の新秩序にとってかわられる」との予測は2.8%にすぎなかった。ただ、「2つの秩序が並存し、衝突し続けることになる」との予測が44.1%となり、中国主体の新秩序の存在感が無視できないほど大きくなるとの見方は4割を超えている。

【既存の国際秩序と中国がつくる新秩序の行方】

3.png

中国は自由貿易の旗手としての役割を「担えない」との回答が7割を超える

次に、これまでアメリカが担ってきた「自由貿易」の旗手としての役割を今後、中国が担っていけると思うかについて質問したところ、「担っていけない」という回答が74.8%となり、「担っていける」という回答の4.2%を大きく上回っている。ただ、「現時点では判断できない」と評価を保留する有識者も21%いた。

【中国は自由貿易の旗手となるか】

4.png

米中間の貿易戦争については、両国の行動に「賛同できない」との回答が最多

アメリカの中国に対する340億ドル規模の追加関税措置に対して中国も同規模の報復関税を発動するなど、現在、”米中貿易戦争”の様相を呈している。そこで、アメリカと中国のどちらの行動に賛同するかを聞いた。

その結果、68.5%と7割近い有識者が、「どちらの行動にも賛同できない」と回答し、これが突出している。「アメリカの行動に賛同する」(9.8%)、「中国の行動に賛同する」(11.9%)はそれぞれ1割程度にすぎない。

【米中貿易戦争でどちらに理があるか】

5.png

既存の秩序維持のため、多国間が関与する枠組みを求める声が半数近くに

政治・経済・安全保障など様々な面で中国の影響力が強まる中、今後、日本は中国に対してどのような行動をとるべきか。これに対し、有識者の49.7%と半数近くが「既存の秩序を維持するための枠組みを多国間で形成し、多くの国のコミットメントを求めていく」と回答し、これが突出して多い。

ただ、「中国が主張する一帯一路構想などを批判するだけでなく、中国との共同プロジェクトなどを進める」と中国に対して、ある程度歩み寄るべきだと考える有識者も25.2%いた。

また、安倍政権が進める「自由で開かれたインド太平洋戦略」に関連する「中国に対抗するため、インド太平洋戦略などの新しいアジア戦略を進める」を選択した有識者は11.9%と1割程度だった。

【今後、日本は中国に対してどのような行動をとるべきか】

6.png

自由や民主主義といった戦後の規範を守るため、日本はリーダーシップを発揮すべきとの声が最多に

さらに、トランプ政権や中国の動向によって、世界秩序が不安定化する状況の中、日本の行動や役割について尋ねた。

その結果、「日本は、不安定な国際秩序下だからこそ、自由や民主主義、多国間主義に基づく国際協力など、戦後日本の発展を具現化してきた規範を世界に主張し、独自のリーダーシップを発揮すべき」が33.6%で最も多い。

次いで、「日本は過度にアメリカとの同盟関係にこだわるべきではなく、中国も含め様々な大国との関係正常化や協力を考える時期である」が28%、「日本は、この状況下では、アメリカ以外の先進国との連携を強化し、多国間の枠組みを軸とした共同のリーダーシップを模索すべき」が21.7%となっている。

これまで通り、一層強化し、アメリカを軸にした2国間での国際的なリーダーシップを強化すべき」は4.2%にとどまり、「トランプ大統領の行動に対抗するため、中国との連携を強化すべき」も2.1%にすぎない。アメリカ中心とした外交展開からの脱却と同時に、多国間の枠組みを重視する有識者の意識が鮮明となっている。

【日本がとるべき行動や役割】

7.png

調査の概要

gaiyo.png

言論NPO座談会・中国の戦略をどう読み解くか

(2018.7.25 言論NPO)

 司会者:工藤泰志(言論NPO代表)


 2018年は日中平和友好条約の締結から40周年。この節目の年に日中両国政府は関係改善に向けて動いている。一方で、中国の習近平国家主席は、国家主席の任期の撤廃など国内における指導力を強めると同時に、新たな国際秩序の構築にも意欲を示している。こうした新たな局面の中、日本は中国にどのように向かい合うべきなのか。今回の言論スタジオでは、中国の戦略を読み解きながら議論が展開された。

15.jpg

 まず、司会の言論NPO代表の工藤泰志が、「中国の戦略をどう読み解くか」と題して行った緊急有識者調査の結果の概要を説明しました。その後、中国が自由で開放的な貿易体制の擁護者としての姿勢を示しその存在感を示しつつある中で、中国が貿易体制についてどのような国際秩序を求めているのかに関する本音が見えにくいことについて言及し、中国の本音に関する見解を3氏に問い、議論が始まりました。

 中国はなぜ自由貿易体制を望ましいと考えているのか

 初めに、川島氏は第19回党大会での「『新型の国際関係』に基づいて、経済的にウィンウィンの関係を作り、そのパートナーシップに基づき『人類運命共同体』を形成していく」という中国の習近平国家主席の発言に触れました。また、そこに民主主義という言葉が使用されておらず、既存の経済秩序とは異なった体制を2050年という遠い未来に作り上げることを想定していることを指摘しました。

 次に、「中国は周囲が自由貿易空間である方が望ましいと考えているのは、他の国々が自由貿易を推進している方が物を売買しやすいから。商品の宣伝もしやすいし、相手に浸透もしやすい。しかし中国自身は自由貿易主義をとろうとしない。それでも自由貿易と対立しないように、WTOには参与し、世界銀行やIMFとも対話を続ける意志を示している」と中国が自由貿易の旗手のように振る舞う理由について語りました。

 最後に川島氏は、中国はもし相手が言うことを聞かなければ経済的にも軍事的にも脅しとなる材料を保持しつつ利益分配を行っていることを強調した上で、貿易秩序のルールを欠いており、またそのようなものを作ることはできないと分析。「軍事力とルールを形成するには時間を要するという背景から、中国はしばらく世界の自由貿易体制に協調的となる」との見方を示しました。

“人類運命共同体”とは何か

 続けて工藤が、「中国のいうところの運命共同体とは、中国の勢力拡大を前提としたものなのか」と質問を投げかけました。それに対し川島氏は、「2050年時点で中国が世界一の経済大国となっていることが大前提。中華民族が世界のトップに立つ一方、他国への利益分配に関する判断については今後中国に都合のよいシナリオを作りあげるが、他国にも利益がある以上それでよいのではないかという姿勢をとるだろう」と断じました。

厳しい局面にある習近平政権だが、反転攻勢のチャンスも

 伊藤氏も、基本的には川島氏の意見に賛同しつつ、トランプ米大統領の出現によって中国が民主的で自由貿易主義的な国際秩序を作りあげるかに関する中長期的な設計の決定を迫られている事実を付け加えました。その上で、「今年は改革開放政策施行40周年で、習近平政権がどれだけ政策を実行してきたのかが突きつけられている。また、中国は国有企業の体制に関して国際社会から批判を浴びており、それに対する応答の要求もつきつけられているという厳しい状況にある」ことも指摘しました。

 しかしその一方で、「トランプはWTOの協定に違反する行為をとっており、中国はそれをうまく突いて、中国に自由貿易の守護者というイメージを作り上げられれば、中国は世界でのリーダーシップを形成できる」と、厳しい状況にありつつもチャンスもまた存在するという見解も提示しました。

 これに対し工藤は、米中の貿易戦争の現状について伊藤氏に問いかけました。伊藤氏は、「中国はWTOに加入した際の約束はある程度は果たしたが、輸出競争力をつけ、所得水準も向上し世界での影響力を高めたのだからもっと市場を開放をしてもよいのではないか」という見解が国際社会に存在していることに言及。したがって、中国にWTOルールに沿うようにさらなる市場開放を求めているトランプ政権の要求自体についてはあながち不当ではないとの見方を示しましたが、同時にその要求を通すための手段がWTOルールから逸脱するようなものであることの矛盾を指摘。実際、国際社会にもそうしたトランプ大統領のやり方に対する戸惑いが広がっていると述べました。

習近平演説から垣間見える中国の危機感

 続けて増田氏は、中国は国際社会でリーダーシップをとっていく方針を示しているものの、第19回党大会では「安全」や「国家安全」という用語が多用され、強国路線を示し国内外のリスク対処の協調姿勢を示していたことに中国の危機感を読み取れると語りました。また、一帯一路構想についても、「基本的な経済のコネクティビティの議論に帰結するのだが、アメリカとの関係に頼りきれないという側面があるので、中国が時代を掌握しているとは考えていないのではないか」と指摘しました。

自由貿易は中国にとっても利益だが、自身と同じ体制の国が出ていることは望まない

 3氏の発言を受けて工藤は、中国にとって自由なシステムが中国経済にとって利益となるという論点に着目しました。そして、「そのようなシステムを目指しながら共産党指導体制を維持するということは可能なのか。それが可能だとしても、今回のトランプの刃に対して中国は自由貿易の旗手としてどう対抗するのか」と疑問を投げかけました。

 川島氏は、「中国にとって世界が自由貿易体制となるのは望ましいことだが、中国自身と同じようなコピーが世界にたくさんできると困ってしまう。アメリカのような自国保守的姿勢に対しては、WTOを利用してノーを突きつけるしかない」と、中国が直面している困難について語りました。

 伊藤氏は、中国自身も開放の必要性は自覚していると述べた上で、「早い段階で開放してしまうと、国有企業の問題が発生してしまう。そこに対する不安の一つは、共産党のレゾンデートル(存在意義)とも関連する。現実的問題として、中国の国有企業の割合は約半分であるが、それらが国際競争に巻き込まれた場合に国有企業の存続と競争の両立が図れなくなる。その中で、EUなどと新しいWTOのルールを作るための協議を進めることで、変わっていく中国というイメージ作りと時間稼ぎをしている」と論じました。

安全保障上の中国の最終目標とは

 最後に工藤は、「2050年までに中国が軍事拡大を推進すると述べているが、中国は最終的な世界の安全保障体制をどのようにイメージしているのか」と更なる論点を加えました。

 それに対し増田氏は、現時点ではわからないと前置きした上で、「基本的には2049年までに世界一流の地位を得ると言っているが、世界一流という言葉は極めて曖昧である。ただ、かつては軍事バランスの観点では中国はアメリカには敵わなかったが、中国近海ではバランスが変化する可能性がある。軍事的なものを表には出さずに、アメリカと対立しないように中国は強い戦域を周辺に作り上げる方向へ進んでいる」と応答しました。

中国の目指すものは何か

 第2セッションに入ってまず工藤は、「中国は共産党の指導により中央集権体制などを整え、力の集約によって、何を実現しようとしているのか」と問いました。

 川島氏は、「共産党の一党独裁体制の維持、これが中国の第一目標であり、目まぐるしく変わる世界情勢に迅速に対応する体制を、どう作ればいいか。それには、集団指導体制でトップに力を集め決断させていくしかない。党主席制にはいかなかったが、習近平は、毛沢東、鄧小平レベルになり、憲法の改正で最低10年は力が発揮でき、次があるかもしれないと見せることが可能になり、レームダック化しない」と指摘。

 一方で、「中央の権力政治においてはこれでいいかもしれないが、中国の弱いところは、個人崇拝が過ぎると党内で反発が出てくることだ。特に、地方社会にパワーを十分に持っておらず、地方政府が萎縮している面もあり、仕事をやらないサボタージュ傾向もある」と解説しました。

 こうした独裁的な動きに対し、中国国民は反発しないのか、との工藤の問いには、「色々な批判はあるが、公の場で批判をすれば捕まるから皆さん黙っている。それに昔と違って、ハイテク権力だから発言しにくくなっている」と、苦笑する川島氏です。

美しく良い生活を決めるのは

 では、経済的には何を実現しようとしているのか。「中国は今、国民の多様な価値観の登場と、それを十分に満たせていない矛盾を抱えている状況で、これをどう処理していくかに強い危機感がある。その結果として、できるだけ権力集中し、トップデザインで高みに立って調整をしていかないと、中国の諸問題は解決できない。しかし、トップの権力者が全て指示するのは非効率であり、人治ではなく、ルールベースのガバナンスを作らないと、政権は十分に機能していかないのではないか」と、伊藤氏は説明します。

 さらに川島氏が言葉を繋ぎます。「中国は沿海部を中心に非常に豊かに発展し、人々は多様な価値観を持つようになった。それに対して共産党の一党独裁を続ける上で、1981年にできた市場矛盾は、人々の物質的需要に対して生産が追いつかない。だから単純に数値を伸ばすことで対応してきた。それが今度は、”美しく良い生活”を実現したい、それに対し生産が不均衡で不十分だ、とそういう矛盾に変えた。”美しく良い”とは形容詞で、測定できない。そこで、その価値を党の方で決めた。我々が価値、基準、規範を作るということに共産党が転換した」と説明しました。

 これに対して、「中国は市場化すればするほど、国民の様々なニーズと党の連携によって、QOL(生活の質)を実現する仕組みになりえるのか」と、工藤は尋ねます。「そこを上手にやっていかないと政権に対する支持が失われることを政権としても気にしている。何が中国にとって正しいか、それを決定する力は共産党にあるが、世論はどうなっているのか、その声は政策に反映されているか。上からの指導だけではなく、公聴会などをしっかりやり、業界との関係なども密接にするのが大事だ」と返答したのは伊藤氏です。

規模とスピード感の中国

 議論では、顔認証システムなど中国が力を入れている高いレベルでのリスク管理の技術開発も取り上げられました。増田氏がその背景を説明します。「AIは常に更新する必要があるので、ビッグデータを取っている。この分野は、それまで米国の独占状態だったが、中国はそれができる規模を持っている。その結果、米国にとっては安全保障上のリスクにもなっている」と語り、今後、この分野でのルール化が必要となる場合、中国は国家戦略として取り組める強みがあり、「規模とスピード感」でイノベーションできる国と、その脅威を語りました。

 最後の第3セッションではまず、日中平和友好条約40周年を迎える今年、日中関係をどのように発展させるべきか、について議論が交わされました。

日本が中国を助ける課題、中国が日本を助ける課題

 川島氏は、まず中国の軍事的な側面の現状評価として、「グローバルでアメリカに追いつくことは到底不可能であるが、中国近海ではアメリカを凌駕する力を持ち得る」、「サイバーではアメリカの弱点を突くことができる力がある」などと分析。こうしたことから、東シナ海でのアメリカの優位性は落ちて来るとの見通しを示しつつ、これは「日中関係に直結する問題であり、こうした軍事・安全保障上のリスクは日中関係をこれから考えていく上での大前提となる」と指摘しました。

 その上で、イノベーションについて言及。AI技術などを中心として、次の「第4次産業革命」をどこがリードするのかが大きな焦点となっている今、そこでやや出遅れている日本は、キャッチアップしていく上で中国と協力していくべき領域が大きいと語りました。

 逆に、中国の国家目標に盛り込まれているQOLについては、日本に優位性があるので、環境や社会保障面を中心として「中国の新たな国家建設に協力していくことがあり得る」と語りました。

通商では協力の余地が大きいが、AIでは注意も必要

 伊藤氏は、トランプ政権の誕生に伴い、中国は開放を迫られているが、「自主的な開放」という名の下、これまでよりも開放のペースを早めているとした上で、それは中国自身の国益になると同時に、日本も含めた東アジア、ひいては世界全体の利益になると指摘。したがって、日本は中国に対し、開放をさらに促すようなメッセージを出していくべきと述べました。

 伊藤氏はそれに加えて、自由貿易が危機に晒される中、WTO体制の再構築についても、日中は、EUなどとともに取り組んでいくことが求められているとし、ここでも協力の余地が大きいとの認識を示しました。

 もっとも、伊藤氏はAI技術における協力については、その必要性を認めつつも、この技術が軍事・安全保障とも密接に関わってくるため、「『線引きとルール化』をしっかりと定めておかないと国際的なアライアンスは困難になる」と注意を促しました。

中国の船舶急増に伴い、自衛隊は新たな対応が求められる

 増田氏は、日中間の安全保障関係については、「海空連絡メカニズム」などで前向きな進捗が見られることを評価しつつ、「もっとも、これで十分というわけではない」とも指摘。その理由として、日中間の安全保障領域では、「グレーゾーン」が中国に有利な形で拡大しつつあることを挙げました。そこでは、このグレーゾーンを軍事的な次元までエスカレーションさせないために、「我慢をし、自衛隊の力をシグナルとして見せることにかなり慎重だった」とこれまでの日本側の対応を振り返りましたが、「中国の法執行機関の船舶が急増している現状では、グレーゾーンを日本に有利なかたちで管理可能かというとかなり悲観的にならざるを得ない。そこで自衛隊の見せ方も含めて今一度対応を考えなければならない」と語りました。

 しかしその一方で、防衛交流など安定的なコミュニケーションの維持も不可欠であるため、「異なる方向の2つのベクトルを両立させることは難しい作業だ」とし、日本が直面する課題の大きさを明らかにしました。

 最後に工藤は、アメリカの変化や中国の動向を踏まえた上で、今後の日本がとるべき立ち位置について尋ねました。

価値観を共有する国々との連携が重要

 これに対し増田氏は、アメリカに対する信頼感が下がってきたからといって、「いきなり中国側に行くわけにはいかない」とし、日本と価値観を共有する国々との連携の重要性を強調。安全保障面でいえば、すでに協力の蓄積があるオーストラリア、インドなどとの関係をさらに強化すると同時に、アメリカ以外のG7国とも連携を深めた上で、中国と向き合っていくことが大事だと説きました。

 伊藤氏はまず、日米FTAなど2国間交渉を求めてきているアメリカに対しては、「アメリカが要求している開放事項についてはある程度は”お付き合い”をしていく」ものの、同時に「開放しても経済成長をしていけるような力を日本自身が身に付けていくこと」が必要になると指摘。

 同時に、中国はまだ輸出依存度が高い経済であり、多国間主義、自由貿易主義の恩恵は大きいため、「これらを擁護するために中国により大きなコミットを求めるべき」と主張。その際、日本だけでなく、EUなどとも連携して働きかけていくことによって、「その場限りの対応ではなく、新たなルールを形成していくために働きかけるべき」とし、増田氏と同様に価値観を共有する国々との連携がカギとなるとの見方を示しました。

短期的には時間稼ぎで対応。長期的には戦略の練り直しも

 川島氏は、アメリカがリベラルな秩序から後退している現在の対応としては、「時間を稼ぐこと」がまず大事になると指摘。具体的には、「中国に対しては、『こちら側のルールに則った方がメリットがある』ということを理解させて、新秩序構築を足止めしながら、アメリカが”こちら側”に戻ってくるのを待つ」べきと語りました。

 もっとも、これはあくまでも短期的な戦術にすぎず、仮にトランプ政権が2期にわたり、さらにその後任も同じような主張の大統領だとすると、「アメリカを軸とする国際秩序を維持することは困難になる。そうなれば、同盟国+αという新たな枠組みや戦略も考えなければならない」と警鐘を鳴らしました。

 その後、会場からの質疑応答を経て最後に工藤は、「日中関係や北東アジアの今後の方向性については、専門家の議論を見てもかなり大きな差が見られるし、政治からのビジョンの提示はまだない」とした一方で、言論NPOが実施している世論調査結果からは、両国国民が「平和」と「協力発展」を求めていることは明確であると指摘。その基礎をつくるための動きを民間から進めていくことの強い意欲を改めて示し、議論を締めくくりました。

2018年7月26日

・「第6回日韓未来対話」大きく動く北東アジア情勢-日韓関係は、朝鮮半島は-(言論NPO)

・北東アジア情勢が大きく動き始める中、新たな日韓関係をどう構築すべきなのか ~

0B9A5227.jpg

 言論NPOは6月22日、東アジア研究院(EAI)と韓国高等教育財団との共催で、「第6回日韓未来対話」をソウルで開催しました。

 今回の対話は、歴史的な米朝首脳会談終了後、日韓両国で初めて行われる民間のハイレベルな対話で、外交、安全保障の専門家や、政治家、メディア関係者ら20氏が参加し、100人を超える聴衆が議論に耳を傾けました。

まず、今回の「第6回日韓未来対話」開催にあたり、日韓両国の主催者を代表し、東アジア研究院院長の孫洌氏、言論NPO代表の工藤泰志が挨拶に立ちました。

 孫洌氏は、日韓未来対話の特徴として、世論調査をベースにしながら日韓両国の未来や協力関係について議論する場であることを挙げました。その上で、「韓日両国で何かの事象が起こればすぐに世論に反映されてしまう。韓日国交正常化以降、世論をベースにした両国の対話が蓄積されているのはこの対話だけであり、今回の対話にも期待したい」と語り、北東アジア情勢が大きく動く中、今回の対話への期待を示しました。

 続いて挨拶した工藤は、日韓未来対話の特徴である公開対話や世論調査の動向にこだわる理由として、「多くの市民が当者として自らその改善に取り組まない限り、日韓両国の未来は描けないからだ」と語ります。そして、南北首脳会談、米朝首脳会談を経て、歴史的な局面で開催される今回の対話について、「北東アジアに平和な未来を作り出すためにも民間にいる私たちも議論を開始したい。その議論を通じて、皆さんも日韓関係の未来を考えてもらう契機にしてほしい」と聴衆に語りかけました。

 次に、祝辞として挨拶に立った朴仁國・韓国高等教育財団総長は、2回の南北首脳会談、米朝首脳会談を経る中で、日韓間でもグローバルストラテジーをつくるなど、日韓関係も新たな挑戦に取り組む必要があると指摘。さらに、「非核化のプロセスが進み、朝鮮半島の情勢が動く中で、米朝関係がどのような構造に変化していくのか、日韓両国で注視する必要がある」と語ります。そして、今回の対話が、日韓両国が協力しながら北東アジアの平和に向けて努力するための、課題やその解決方法を提供し、新時代の課題に向けて日韓協力の契機になることへの期待を示しました。

 続いて登壇した、東アジア研究院理事長の河英善氏は、今回の対話へ3つの期待を示しました。まず、過去の日韓関係を振り返りながら、今回の対話が過去と未来、国家と世界を複合的に見ながら、過去の時代の精神を受け継ぎ、世論をリードしていくような対話にしていくこと、さらに、19世紀半ば以降、両国間での悲劇的な体験のため、力ではなく、感情が両国の国際政治に影響を与えてきたが、世論調査といった手段を利用して、両国国民の心の声に耳を傾けていく重要性と期待を示しました。

 そして最後に河氏は、朝鮮半島の国際秩序は未来を予測できないほど速い変化の渦の中にあるとした上で、北朝鮮の核問題を解決し、非核化を実現するためには、「関係国の国際協力が必要不可欠であり、その中で韓日の協力は大きな構成要素を示している」と指摘。当面の日韓関係を改善していく上でも、未来志向的な対話を行える今回の対話は最適であり、2日間の対話を通じて、北朝鮮の非核化を含め、アジア体制の新秩序を示してほしい、との期待を込めて挨拶を締めくくりました。

 祝辞の最後に登壇した小倉和夫・国際交流基金顧問は、今年行われた日韓世論調査結果の分析として、韓国は今ある問題や課題を解決することによって日韓関係が樹立されるととらえている一方、日本は信頼関係を樹立することによって現在の問題を解決できる、という認識ギャップを指摘。このギャップを克服するために、日韓関係を日本と韓国の関係と見るのではなく、東アジアや世界全体で考えるなど「発想の転換が必要だ」と述べ、今回の対話では「発想の転換」を念頭に、活発な議論が行われることを期待したい、と語りました。

 こうした挨拶を受け、公開セッション1「2018年、日韓共同世論調査結果に基づく日韓国民の外交政策に関する意識の動向」が始まりました。

公開セッション1

2018年日韓共同世論調査結果に基づく日韓国民の外交政策に関する意識の動向

第1セッションの議論に先立って、今回の「第6回日韓共同世論調査」の結果概要について両国から報告が行われました。

浮き彫りとなった日韓間の意識のギャップ

 まず、韓国側からは孫洌氏が登壇し、今回の調査結果の中で、特に顕著な傾向を示し、注目すべきポイントについて説明。様々な項目で日韓間の認識のギャップが浮き彫りとなったことを明らかにしました。

 孫洌氏は最初に、「相手国に対する印象」に言及し、この6年間の経年変化を見ると、韓国人の対日印象は改善傾向にあるのに対し、日本人の対韓印象は下落傾向にあると指摘。そのうち、韓国側世論の傾向を掘り下げて分析した結果としては、「日本に対する渡航経験がある層」、「若い世代」、「高学歴」は日本に対して良い印象を持つ人が相対的に多い傾向にあると解説し、「さらなる印象好転の手掛かりを得るためにも、こうした結果となった原因を探るような議論をすべき」と語りました。

 孫洌氏はこの他にも、「相手国への渡航希望」の有無や、「日韓関係の重要性」を認識しているか否か、「慰安婦問題をどう解決すべきか」、「自国の将来を考える上で重要な国」などといった質問項目で日韓間のギャップが大きかったことを指摘しましたが、今回特にその傾向が大きかったものとして北朝鮮の核開発問題や朝鮮半島の将来についての結果を紹介。特に、核開発問題の解決時期について、「解決は難しいと思う」という回答が日本人では65.1%だったのに対し、韓国人では昨年の71.3%から23.2%へと急減した結果に言及し、こうした認識の相違がある中、いかにして朝鮮半島と北東アジアの平和をつくっていくべきなのか、日韓間で掘り下げた議論をすべきと呼びかけました。

協力に対して「反対」は少ないことは光明

 続いて工藤が登壇し、孫洌氏の報告を踏まえながら日本側の読み方について解説しました。まず、北朝鮮の核開発問題や朝鮮半島の将来について、日本人は韓国人だけではなく、米国人との比較で見ても懐疑的であることを、今月上旬に公表した「第2回日米世論調査」結果を紹介しながら指摘。そして、その原因として、一連の外交交渉の中では、日本が当事国ではないために「距離感がある」とした上で、さらに、「政府が交渉当事者であればその結果をメディアに説明し、それをメディアが国民に説明するという流れになるが、政府からの情報がないため、メディアの周辺取材による情報しかないのが現状だ」と解説。判断材料の不足が懐疑的な見方の背景にあると語りました。同時に、国民感情が現状認識に及ぼす影響についても言及。その証左として、韓国に対してプラスの印象を持っている人は、核開発問題や朝鮮半島の将来に対しても比較的楽観的な見通しを持っていることを紹介しました。

 その国民感情の現状については、渡航経験が相手国に対する印象改善に寄与することを踏まえた上で、日本人の訪韓者数が伸び悩んでいることが、対韓印象の大きな改善につながらない一因にあると述べました。しかし、より根本的な原因として工藤は、日韓関係はなぜ重要なのか、という設問に対して、日本人の回答は「隣国だから」など一般的な認識にとどまり、「民主主義などの価値を共有する」、「米国の同盟国同士」などを選んでいる人が少ないことを指摘。アジアが大きく変化する中で、なぜ日韓関係が重要なのか、しっかりと考えていないことが、相手国に対する無関心にもつながっているとの認識を示しました。

 もっとも工藤は同時に、「この状況は決して絶望的ではない」とも語り、その根拠として、安全保障など日韓間の様々な協力を問う設問において、日本人では「わからない」は多いものの、「反対」は少数派であることを挙げました。そして、「平和実現のために力を合わせる必要があるということは多くの人がきちんと理解している」とした上で、それを確固たる認識とし、北東アジアの平和で安定的な未来につなげるために「両国は話し合うべき」とし、これからの対話の展開に期待を寄せました。

 世論調査結果の報告に引き続いて、パネリストによるディスカッションに入りました。

新たな日韓関係を構築するために、埋めるべき認識の相違とは

 西野純也氏(慶應義塾大学法学部教授)はまず、今年中に朝鮮戦争の終戦宣言が行われる可能性が高く、朝鮮半島及び北東アジアは新しい秩序に向けて動き出している局面にあると現状分析。そうした中では「新しい日韓関係を新しい秩序に埋め込むべき時期に来ている」と切り出しました。

 しかし、韓国側では、文在寅政権下でこの1年間、慰安婦問題で国民世論を意識した様々な動きが展開される中、それに呼応して韓国国民の意識にも落ち着きが見られる一方で、それを見た日本側は日韓関係の先行きに対して不安を感じ、さらには不満を抱き始めていると指摘。これが日本側が今後に対して明るい展望を描けていない背景であるとするとともに、こうした認識の相違を埋めることの必要性を説きました。

 一方、西野氏は、日米韓の安全保障協力に対して、韓国世論が肯定的な結果について、日本側は軍事的な”抑止”をイメージしているのに対し、韓国側は”関与”をイメージしているのではないかと指摘。したがって、これが日韓協力拡大の土台となり得るかどうかについても、「慎重に見るべき」と注意を促しました。

認識の相違を埋めるため、活発な戦略的対話が不可欠

 趙世暎氏(東西大学校日本研究センター所長、元外交通商部東アジア局局長)は、西野氏が指摘したような韓国政府の慰安婦問題に関する新たな動きへの日本側の不信感に対して、「こうした日本側の雰囲気を韓国側も理解する必要がある」としました。しかし同時に、韓国政府が取ろうとしている新たな措置は慰安婦問題そのものに向けたものではなく、国際的な人権擁護一般に対する取り組みであるとして、日本側に理解を求めました。

 また、日米韓協力の強化については、北東アジア全域の秩序構築をしていく上では中国、ロシアの参画が不可欠であるとし、単にアメリカを中心とした秩序を追求していくだけでは不十分であるとしました。そして、中露との距離感は日韓両国では異なる以上、簡単に見解は一致しないため、今まで以上に活発に戦略的な対話をする必要があると語りました。

よりオープンでルールに基づいた秩序をつくり出すために、日韓は協力すべき

 李淑鍾氏(成均館大学校国政管理大学院教授、前東アジア研究院院長)は、今後の日韓協力を拡大していく上でのポイントとなるものとして、「朝鮮半島情勢の安定化」と、「アジア太平洋のルールに基づいた秩序づくり」を提示。前者については、非核化、さらに北朝鮮の経済安定化にも長いプロセスが必要となることから、そこで日本が果たす役割は大きいと期待を寄せました。

 後者についてはまず、米国がアジアに対する関与から手を引くとともに、中国のさらなる台頭が予想される中では、アジア太平洋地域の秩序の不安定化が予想されると懸念を示しました。その上で、日韓両国の中国に対する見方の差が小さくなりつつあることから、両国が協力して中国を巻き込みながら「よりオープンでルールに基づいた秩序をつくり出すべき」と主張しました。

これを受けて杉田弘毅氏(共同通信社特別編集委員)も、日韓は共にルールに基づいた秩序の恩恵を受けて成長してきたことを指摘した上で、だからこそ日韓両国がこの秩序を支えるべきと応じました。

 一方で、今回の世論調査結果では、民主主義という普遍的な価値観を共有していることの意識が薄かったということを問題視。特に、世界的にこの価値を否定する風潮が蔓延する中で、日韓両国までもがその波に乗ってしまうことへの懸念を示した上で、こうした普遍的な価値観を守るために、日韓両国の知識層が具体的な行動をとることの必要性を説きました。

政治リーダーやメディアは何をすべきか

 沈揆先氏(ソウル大学校言論情報学科基金教授、元東亜日報顧問)は、日韓間の印象や認識を改善する上でカギとなるものとして「リーダー」と「メディア」に言及。まずリーダーについては、これまで両国のリーダーに求められてきたのは、国民の情緒を忠実に反映することであったと振り返った上で、これから求められるのは、短期的には国民にとって不都合なことでも、大局的な観点に立って粘り強く説得することだと主張。そうしたリーダーシップの発揮に政治家が躊躇するようであれば、今後も日韓関係は変わらないと断じました。

 さらに、こうしたマインドの転換はメディアにも求められるとし、相手批判に終始するのではなく、相手と対話したり、説得したりするようなスタイルへの転換を求めました。

 阪田恭代氏(神田外語大学国際コミュニケーション学科教授)は、「日韓関係はなぜ重要なのか」という設問に対して、日本人の回答は「隣国だから」など一般的な認識にとどまっていることに対して、より戦略的な理由で「重要である」と感じられなければ日韓関係は成熟した関係にならないと指摘。その上で、そうした重要性を国民一般に認識させるための方策として、両国の首脳が折に触れて相手国のメディアに登場してビジョンを発信したり、相手国の国民と直接対話したりすることなどを提案しました。

 朴仁國氏(韓国高等教育財団事務総長、元国連大使)は、沈揆先氏が言及したメディアのあり方について、特に携帯機器を日韓関係や相手国に関する情報源とする人は、テレビや新聞など既存のメディアを主な情報源とする人よりも、日本に対して良い認識を持つ傾向にあることから、両国民の認識を改善していく上で、こうした新しいメディアの活用法について検討を進めるべきだと語りました。

 また、阪田氏が語った首脳による直接発信に賛同。4月の板門店会談で、北朝鮮の金正恩委員長の肉声が直接韓国のテレビで流れて以降、金委員長に対する韓国国民の印象が改善していることを紹介し、「金委員長でさえ改善するのであれば、安倍首相なら大きく改善するだろう」と述べました。

より根本的な日韓間のギャップとは

 澤田克己氏(毎日新聞社外信部長)は、工藤の「韓国に対してプラスの印象を持っている人は、核開発問題や朝鮮半島の将来に対しても比較的楽観的な見通しを持っている」という点について、その裏返しとして、「韓国に対して嫌悪感があるが故に、対北政策が進展することを快く思わない層が存在している」と指摘。同時に、日本人の対韓印象が好転していない背景には、日韓間の国力差の縮小があるとしました。そしてその結果、日本側にかつてのような余裕がなくなったために、「以前であれば受け流せたような批判に対しても非常に不快感を抱いてしまう」とし、これが日本側の対韓印象、認識の背景にある大きなトレンドであると語りました。

 また、韓国は大統領制であるが故に、政権が代われば対外関係もリセットするという意識がある一方で、日本側にはそうした意識はないために、文政権に対して大きな不信感を抱くに至ったと分析し、「こうした認識の違いをどう克服するか。これを直視せずに首脳レベルの交流を促進しても根本的な解決につながらない」との認識を示しました。

日韓が真のパートナーとなるために必要なこととは

 高杉暢也氏(元韓国富士ゼロックス代表取締役会長兼CEO)は、韓国で19年間を過ごした経済人としての立場からコメント。これまでの韓国生活からは、「漢江の奇跡」や通貨危機など様々なパラダイム・チェンジを経て経済発展してきた韓国の自信を感じると評価。そして、日韓は単なる2国間を越えて、アジア、そして世界の発展に貢献していく上でのパートナーになるべき存在であると説きました。

 しかし、そうした思いから日韓間の経済、文化交流に携わっているものの、時として韓国が日本に対して仕掛ける”道徳争奪戦”のようなやり方に対しては不満を感じるとし、「これを解決しないと日韓協力は前に進まない」と苦言も呈しました。

川島真氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)は、世論調査と対話のあり方について提言。政府間関係のあり方など、政府に対する提言になるようなものにとどまらず、「同じ民主主義国家同士である以上、国民同士の関係をどう構築するか、国民間の合意をどうつくるか、などといった視点から調査や対話をしていくことができるはずだ」と主張。そうした展開を基礎に国民間の信頼を構築していくべきだと語りました。

 尹炳男氏(西江大学校史学科教授)は、学生を引率して日本を訪問した後、その学生たちの対日印象が改善したのを、身を持って体感したという経験を紹介。孫洌氏の「日本に対する渡航経験がある層」の対日印象が高いという分析結果に全面的に同意しました。さらに、直接交流の好影響はそれにとどまらないとし、例えば、文化やライフスタイル、さらには個人を尊重する日本の風潮などについても、「自然と韓国に入り、広がっている」と指摘し、やはり交流拡大こそが日韓関係改善の王道であると強調しました。

 これを受けて最後に工藤は、直接交流が印象改善に寄与するのは事実としつつ、調査結果をさらに深掘りすると、「単なる渡航経験だけでは、例えば、『日本は軍国主義の国である』などといった政治・社会体制に対する誤解は解け切れていない」ことを解説。したがって、より直接的な判断が可能とならない限り、根本的な認識の改善につながらないとした上で、相互理解を深めるために何をすべきなのかこれからも議論をすべきだと語りました。

米朝会談の評価と朝鮮半島の今後を考える

公開セッションの第2部は、言論NPO代表の工藤の司会の下、「米朝会談の評価と朝鮮半島の今後を考える」をテーマに議論が行われ、辛星昊氏(ソウル大学校国際大学院教授)ら四氏が基調報告しました。

トランプだからできた米朝首脳会談

 辛星昊氏は、「日本は明治維新150年で大変、重要な時期を迎えているが、将来に向けて行動をするなら、過去を振り返るのが大事だ。多くの朝鮮通信使が通った下関は、日清戦争の講和条約が結ばれた地で、北東アジアの情勢も大きく変化していた。その時と同じで、北東アジアでは毎週のように首脳会談が行われている」と、まず日韓の歴史を振り返りました。

 そして辛星昊氏は、「米朝首脳会談については、会談自体は問題なく終了し、G7の雰囲気が悪かったこともあり、トランプ大統領はシンガポールでは満足していたのではないか」と、直前に開かれ米国とG6の間の溝を引き 合いに出して語ります。その上で、米朝会談の評価として、「失望も多かった」と指摘。「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」の合意を期待していたものの、一般的な宣言だけで成果はなかった、と語りました。一方で、アメリカと北朝鮮の最高司令官同士が70年ぶりに会談したことについては、「トランプ氏が大統領だったからできたことで、オバマ前政権だったら不可能だった。トランプ流の外交に対して批判はあるが、ユニークな外交スタイルで、自分独自の判断で決め、金正恩氏がそのチャンスを捉えた結果だ」と歴史的な会談の実現について、トランプ流の外交に一定程度の評価を与えました。

 但し、トランプ大統領が在韓米軍の韓国との合同軍事演習を停止する、と電撃的に記者会見で表明したことについて、米国と他国の同盟に及ぼす影響は大きく、トランプ大統領が歴史的な米朝首脳会談という高揚感からか口走ってしまった米韓合同軍事演習停止の影響を心配します。

非核化のプロセスと平和のプロセスを同時に行うことは可能か

 次の基調報告は、中国から朝鮮半島を観察している川島真氏(東京大学大学院総合文化研究科教授)です。川島氏は「明治維新100年は、1968年で東アジアでは未曾有の学生による民主化運動が起こり、日本は世界2位の経済大国になった。維新150年の2018年は東アジアは歴史的な大きな転換点であり、変動の時期になるのではないか」と詰め掛けた聴衆に語ります。

 そのうえで、朝鮮半島の非核化について、「米朝関係の信頼関係形成が前提条件になっているが、果たしてそれをいかに行うのか、ということは不透明なままであり、今回の合意事項は”プロセス”というべきものだ。トランプ政権の今後、個々の担当者の継続性から見れば、そのプロセスの遂行は可能なのか疑問が残る」と今回の米朝合意に疑問を投げかけます。さらに、非核化のプロセスと、平和のプロセスを同時に行うことについて、「政治、安全保障、経済などの面での『保障』を与えながら非核化していくということになり、どのような非核化の行為に対して、どのような保障を与えるのかということも定かではない」と述べ、非核化と平和プロセスの複雑な背景を説明。加えて、川島氏は「アメリカ側が主張していたような、非核化が完遂してから次のプロセスに行くのではなく、非核化と平和のプロセスを同時に進めようとしているが、これは中国自身が提案していたことでもあり、中国は自らの提案が実現したと胸を張っている」と話します。

日本にとっても様々な面で避けて通れない北朝鮮問題

 こうした点も踏まえながら、非核化の完遂と拉致問題の解決を、経済支援などの条件としてきた日本にとっては、大きな衝撃であり、安倍政権は北朝鮮の問題を避けて通れなくなるだろうと語ります。そして、日本は少なくとも、非核化のプロセスとともに、平和のプロセスにも一定の貢献を求められ、経済支援もそこには含まれるかもしれない、と川島氏は分析しました。

 また、朝鮮戦争の終結が行われれば、国連軍司令部が撤退することになり、同時に在韓米軍の改編が行われることは必至と見られ、これは日米同盟のありかただけでなく、東アジア全体の安全保障体制に影響する問題で、この点で日本は、米中韓と密接な関係を持ちつつ、北朝鮮との直接対話をするよう求められるだろう、と川島氏は指摘します。その上で、難しいのは中国のスタンスだと主張。「中国から見れば、北朝鮮の核保有以上に在韓米軍が問題だった。20世紀後半、アメリカを中心とするハブ&スポークスの切り崩しを図り、1979年に台湾から米軍が撤退し、1990年代にはフィリピンから米軍が撤退すると、中国は南シナ海に展開した。今回、朝鮮半島から米軍が撤退すれば、三度目の成果となるだろう」と過去の状況も踏まえた見解を主張しました。

 今回の米朝接近に際して、金正恩が三度にわたり訪中し、中国が深くコミットしたことについて川島氏は、「特に注目されているのは、二回目の大連での中朝首脳会談後、北朝鮮が国家建設の重点を経済に移すと宣言し、中国がこれを支持したこと。これは事実上、経済制裁を解除することを示唆していたと言える」と語りました。さらに、6月12日の会談当日、中国外交部スポークスマンが、経済制裁解除と、あるいは暫時凍結をほのめかしてることに触れ、「日朝二国間ではなく、東アジアという大きな枠組みから日本に役割が求められた場合、安倍政権はそこにコミットせざるをえなくなる」と述べる川島氏でした。

北の核武装阻止ができないということは、パンドラの箱を開けるのと同義

 次いで香田洋二氏(元自衛艦隊司令官)がマイクを握ります。「アメリカは二度と過ちを繰り返さないこと。クリントン政権時は核凍結で合意し、六カ国協議の時も、2012年のオバマの時には非核化合意も、実施の段階で徹底してできなかった」と過去の北朝鮮に対する合意を振り返りました。その上で、「北朝鮮の首に縄をつけてでも徹底的にやらせる。これができるのがトランプなのだ」と、持論を展開します。一方で、今回の米朝会談後の記者会見でトランプ大統領が「同盟は金がかかる」と発言したことで、ドイツ、イタリア、イギリスに8万人の米兵を置くNATOとの同盟、3万2千人を置く米韓同盟、7万人を数える日米同盟の三つの同盟の足元がグラついていることを指摘。こうした状況を高笑いしてみているのか中国だと語ります。

 さらに香田氏は、「北の核武装阻止は、核拡散のカギを開けさせないためで、拡散すれば人類が消滅してしまう。だからこそパンドラの箱を開けてはいけない」として、今後、どんな道筋を描いていくのか、米朝の交渉を心配しながらも、北の核武装阻止は人類にとって必要不可欠だと強く話す香田氏です。

日韓両国は歴史問題を乗り越え、信頼関係を改善し、北朝鮮を説得できるような協力強化を

 田奉根氏(国立外交院教授)は、米朝首脳会談の成果として、①お互いの立場を確認したこと、②包括的ではあるが米朝関係を改善し、朝鮮半島の非核化の合意をしたこと、③独裁者を国際社会に引っ張りだしてきたことを挙げました。そして、田奉根氏は何より衝撃だったこととして、軍事演習の中止が記者会見で語られたことで、核の非核化をしない可能性が出てきたことを挙げ、「根本的な解決はさらに難しくなった」との見解を示しました。

 さらに、今回の会談を受けて日韓両国の協力できることとして、日韓両国が立場を超えて努力すること、経済的な面のみならず、様々な形で協力できるような改革を行うこと、核脅威が完全に消えるまで日韓の安全保障協力を強化することを指摘し、そのためにも日韓両国は、たとえ、歴史問題を抱えていても信頼関係を改善し、拉致や関係問題を解決できるように一緒に説得できるように協力を強化することが必要だと語りました。

 4人の基調報告終了後、司会を務める言論NPO代表の工藤泰志が「金正恩氏は本気で核を止めようと思っているのか」とパネリストに投げかけると、「本気だ」と手を挙げたのは慶應義塾大学法学部教授の西野純也氏、これに対して「本気ではない」と手を挙げたのは元自衛艦隊司令官の香田洋二氏で、多くのパネリストは北朝鮮の非核化に対する本気度については「決めかねている」と回答し、議論はスタートしました。

認めるわけにはいかない「力の外交の勝利」

 まず、韓国大使を務めたこともある小倉和夫氏(国際交流基金顧問)は、今回の米朝会談について、北朝鮮は米国が善意の措置をとれば自国も善意の措置を取るといい、米国は北朝鮮が自国を信頼するに値する何らかの措置をとれば行動する、という態度をとっており、米朝間での埋められていないギャップを指摘。その上で小倉氏は、「米朝両国とも『力の外交の勝利』と言っているが、これを世界中で認めるわけにはいかない」として、そのためにも米朝間のギャップを埋めるために、日本も間接的に協力しながら、韓国が米朝間の間を取り持つことができるのではないかと語り、韓国と日本の役割に言及しました。

 続いて発言した申珏秀氏(韓国国立外交院国際法センター所長、元駐日韓国大使)は米朝会談について、信頼関係の初めのボタンが半分かけられたことは評価しているとする一方で、米国の強い圧力による交渉にもかかわらず、追加的な交渉は行われるとしても、結局は北朝鮮が主張してきた段階的な核軍縮が確認されたと言えるのではないか、と指摘。そして、「我々は後戻りできない橋を渡ったかもしれない、ということを深刻に考えるべきだ」と語り、今後、日米韓3カ国や国際社会が「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」が実現するかを注視していく必要性を強調しました。さらに重要な点として、①時間を引き延ばすだけでは北朝鮮の核開発は続く可能性があるためタイムリミットを設定すること、②未来、現在の核の廃棄と、ICBM能力を制限するという線で適当に終わらせる可能性もあるため、過去の核の廃棄まで求める、③制裁についても多様な制裁の方法があるため、今後の交渉におけるロードマップが重要だ、との見解を示しました。

 慶應義塾大学法学部教授の添谷芳秀氏は、「米朝両首脳が会談し合意したことは1つの成果だ」と評価する一方で、「交渉したものの公表するレベルに至らず、具体的な合意を盛り込めなかったのではないか」と推察し、今後の米朝間の交渉で重要になる点として、米朝の信頼醸成に基づく関係改善、平和体制の構築、非核化を挙げました。そして、冒頭の工藤の質問に対しては、「理論的には本気だと思う」として、2016年の段階で金正恩氏は内部で非核化を決定していたのではないか、と指摘。その上で、金正恩氏が非核化に本気であるなら、我々がいざなうことを試してみる価値はある、と語りました。

 李大根氏(京郷新聞論説主幹)は、金正恩氏が核実験設備を廃止し、経済並進路線から、経済発展へ方針転換するなど、非核化に関する事後措置がとられ、今までとは違う展開を見せており、騙すことにプラスの作用がないと述べました。その上で、外部が本当に非核化の条件作り出せるかどうかだと主張し、「米朝会談については米朝両国の勝利だった」と語りました。

 冒頭の工藤の質問に対して「本気だ」と主張した西野氏は、「本気で準備しているが決断はしていないし、決断する必要はない」と説明。その上で、金正恩氏が米朝間で相互信頼関係が醸成されることが非核化につながると判断した時点で決断するだろう、と語りました。

 さらに西野氏は、日本は拉致と非核化、韓国は非核化と朝鮮半島の緊張緩和に重点を置いており、日韓両国で米朝会談に対する評価基準が違うことを改めて意識しておくことが重要だ、と指摘しました。

北朝鮮の核とミサイル開発の理由は、「体制保証」に向けた時間稼ぎ

 防衛事務次官を務めた西正典氏は、今回の米朝会談について、明確な定義や合意がなく、空中に漂っている状況だとの見解を示しました。こうした状況下では、判断基準をトランプ氏と金正恩氏が握っており、恣意的な判断で、相手が期待に沿わなかったら「自分に約束したことを守らなかった」と言い、態度を変更することができると分析。今回の初手でトランプが譲れるものをほとんど譲ってしまったことで、それに報いるだけのプレゼントを金正恩氏が送らないと、トランプは腹を立て、何度か軍事的な危機が起こり、それが解消しという形で物事が動いていくだろう、と主張。ただし、トランプ氏には任期があり、金正恩氏には任期がないことについても注意しながら、今後の米朝会談の行方を見ていく必要があると、独自の視点で解説します。

 さらに西氏は、当初は金正日氏が先軍政治を掲げ、軍が正面に立って責任を負いながら前に進めていたことから、核とミサイルの開発も軍が主導する形で行われていたものの、金正恩氏がトップになると軍を排除し、核もミサイルも党が主導して開発しており、かなりの数の軍人が粛清されているという現状を解説しました。加えて、自身が予算編成にかかわった経験から、通常兵器は高額である一方で抑止力も限定的であるが、通常兵器よりも安価な核とミサイルを開発することで、ワシントンやモスクワを射程にいれる大きな抑止力を持つことが達成できた、と指摘。

 その上で、北朝鮮が核を持つことは「あくまでも抑止力と、その抑止力が効いている間に譲歩を獲得するための時間確保のためだけ」であり、確保できた時間によって、「体制の保障」を図ることが目的だ、と西氏は付け加えます。こうした交渉は今後、アメリカだけではなく、北京、モスクワ、ソウル、東京全てに対して行われると解説。そこには軍の姿はなく、トップと党の姿しかないだろう、と語ります。ただそうした交渉が始まるまでに、もう一度、核の恐怖は起こるだろうし、軍事的な協議も起こるだろうが、それらを一つ一つ乗り越える必要がある強調すると同時に、交渉を受ける側がどこまでネットワークを整理できるのかが課題になる、と今後の状況を分析しました。

 国連大使も務めた朴仁國氏(韓国高等教育財団事務総長)は、「米朝会談は成功だった」としつつ、①アメリカの戦略的利益と日韓の安保に対する見方にズレが生じていること、②北朝鮮の非核化に向けたロードマップをどう作るかが不透明である中、本来、最後に出てくる話題である在韓米軍の話が早い段階出てきた、という2点について懸念を示しました。

北東アジアの平和構築に向けて日韓に何ができるか

 その後、会場からの質問として、仮に在韓米軍が撤退した場合、安全保障上大きな影響が出るが、そうした状況下で日本ができる協力として何があるのか、日本が北東アジアにおける平和構築に向けて、何ができるのか、と質問が投げかけられました。

 これに対して、日本側かはら西野氏が、専門家の間では共通の認識であると前置きした上で、「朝鮮半島における米国のプレゼンスが縮小していくと不安定な状態に陥るが、それを立て直すため日韓両国が協力していくことが1つのモデル」と述べました。そして具体例として冷戦期の構造を挙げ、「今の状況は冷戦期の構造に近い」と指摘。朝鮮半島情勢が大きく動き、トランプ政権の行動や今後の行方に対して日韓両国が不安を持っている状況では、日韓が協力して管理・マネジメントをしていくことが必要だ、と主張しました。

 さらに西野氏は、朝鮮半島における平和秩序の構築については、「南北朝鮮と米中の2プラス2が中心的なプレーヤーであるものの、より広い意味での北東アジアの平和という点では日本は協力しなければいけない。日本が朝鮮半島の新しい秩序に賛意を示すことが必要」と主張。さらに、国交がない北朝鮮、国交はあるものの平和条約がないロシアとの関係については、戦後の日本外交の宿題であり、必ず超えていかなければいけない日本外交の課題である、と語りました。

 続けて会場から、政治的目的のためにヘイトスピーチなど利用する人たちがいるが、それをどのようにコントロールするか、との質問が韓国側に投げかけられました。

 自身も正しい未来党の政治家である鄭柄国氏は、日韓関係を悪化する要因の1つとして、「政治家がその時、その時で政治家の票につながる発言をし、国民世論に影響を及ぼしていることは否めない」と語り、政治科自身の問題を認める一幕もありました。

 最後に孫洌氏は、今日の議論を聞いた多くの人たちが、北東アジアに新しい秩序をつくっていくためには、日韓両国の協力が必要不可欠であるということを肌で感じたのではない、日韓新時代をさらに発展させるためにも、私たちの日韓未来対話が重要であり、来年の7回目の対話への期待を込めて挨拶を締めくくり、「第6回日韓未来対話」の公開セッションは幕を閉じました。

 

2018年6月23日

・朝鮮半島非核化をどう実現するか ~緊急フォーラム「米朝会談の結果を読み解く」(言論NPO)

(2018.6. 14 言論NPOニュース) 言論NPOは、歴史的な米朝首脳会談から一夜明けた6月13日、「米朝会談の結果をどう読み解くか」をテーマに緊急フォーラムを開催しました。

 まず、司会を務める代表の工藤泰志が挨拶に立ち、前日行われた米朝会談について、「歴史的な首脳会談と言われながら、非核化に向けた具体的な行動や、期限、検証の方法では合意ができず、今後のプロセスとして先送りされ、単なる政治ショーに付きあわされたような、違和感を覚えた人も多かったのではないか」との見解を語りました。一方で、「朝鮮半島では間違いなく歴史が動こうとしており、私たちは、その準備を始めなくてはならない。そうした中で、朝鮮半島の完全な非核化をどうやって具体的に実現していくのかについて今日は議論したい」と今回の緊急フォーラムの意義を語り、フォーラムは開幕しました。

 今回の議論には、賈慶国・北京大学国際関係学院院長(政治協商会議常務委員)、宮本雄二・元中国大使、西正典・元防衛省事務次官と香田洋二・元自衛艦隊司令官の4氏が出席しました。

*今回の会談で交渉を有利に進めたのは金正恩氏

 議論の冒頭、言論NPOが前日に急遽行った有識者アンケートの結果が工藤から報告されました。

 首脳会談の成否については、「どちらとも言えない」が51.9%で最も多く、次いで「成功した」が29.8%、「失敗だった」が14.4%でした。また、会談での合意によって朝鮮半島の完全な非核化の道筋を描けたか、との問いについては、「解決の一歩とはなったが、最終的な解決は今後の協議次第で先行きが見えない」が48.4%で、「前進はあったが、完全な非核化は未解決のまま」の27.0%と合わせ、75.4%もの人が、将来の非核化の難しさを指摘していました。さらに、「両首脳のどちらが交渉を有利に進めたか」との質問には、二人に一人(50.5%)が金正恩朝鮮労働党委員長を上げ、これに対しトランプ米大統領としたのはわずか9.1%だった、との結果を紹介しました。

*会談は成功、失敗?次への一歩か、引っ込みがつかなくなったか

さて、初の米朝首脳会談は、名を取ったトランプ米大統領と実を取った金正恩委員長とも言われていますが、会談は成功だったのか、失敗だったのか、四氏が語ります。

 まず宮本氏は、「今回の会談のみをもって、『会談は成功』とは言いたくないが、次への一歩という意味では成功だった。ただ、問題は山積しており、楽観は許されない」と語りました。さらに、トランプ大統領の目標として、11月の中間選挙の可能性を挙げ、「中間選挙が終わって国内状況が変わり、望み通りのペースで進まず、北朝鮮が動かないという時には、トランプさんが強い態度で臨むかもしれない」との見解を示しました。

 これに対し賈慶国氏は、「核・ミサイル問題の緊張を緩和できたこと、非核化を原則的な共通認識として示せたことの二点で成功だった」と、前向きに捉えました。さらに、「目標に向かって現実化することが大事だ。平和的解決の基礎ができたからと言って、将来のことを話すのは時期尚早で、多くの困難はまだまだある。平和解決に取り組む準備も必要で、喜ばしいが、喜び過ぎる理由もない」と、冷静に語りました。

 次に、防衛事務次官も務めた西氏は、「両国のトップが会って話をしてしまったから、もう引っ込みがつかない。これからどう転がすかについては、両国に多分、アイディアはない。もう引っ込みがつかないという点では、どこに向かっていくのか、ずっと見ていくしかない」と悲観的に語ります。

一方で西氏は、北朝鮮がミサイル開発に踏み切った理由として、中韓の結びつきを北朝鮮への裏切りとして反発したこと、通常兵器は費用がかかり、核の方がコスト的に安いこと、かつ、通常兵器では軍にお金が回るために、軍の権限を奪い、国内権益の塊の軍を解体することを挙げました。そして、「今回の交渉は、そうした理由からはメリットであり、とにかくサインするのが目的だったはずだ」と、首脳会談の前後の状況を説明します。

*アメリカの採点は「0」

 一方、北朝鮮の核・ミサイル問題についてメディアへの登場が多い香田氏は、「一つの評価尺度では、米朝が当初、意図したものの何を達成し、何を失ったかというと、例えばアメリカで考えると、CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)と朝鮮半島における在韓米軍には手をつけないとか、いくつかあった。でも、今回は全て崩されて試験では0点で、アメリカの明らかに失敗」との視点を披露。さらに、トランプ大統領が記者会見で、米韓演習を止めるという話をしたことに触れ、「会談を行った高揚感からだと思うが勇み足だ。演習は『経済的ではない』、『(北朝鮮に)脅威を与えている』という言葉遣いだったが、米軍の最高司令長官からそうした発言が行われたことに対して、軍は耐えられないだろう」と防衛関係者としての現場感覚を語りました。そうした点も踏まえ、今回の会談は北朝鮮の勝ちだろう、と述べました。

 4氏の発言を受けて工藤が「今回の会談の成果は、精一杯だったのか。会談を進める最終的な落しどころだったのか」と問いかけます。

*今後、問題になる非核化の定義とは

 賈慶国氏が答えます。「(合意文書の)他のバージョンもあったが、双方が発表できる結果があの文書だった。CVIDの問題など具体的な共通認識では、同意したが公開できなかったとかあったのではないか」との見方を披露しました。さらに賈慶国氏は、「核兵器の放棄は含まれていても、アメリカが韓国で核兵器を配備しないとか、北朝鮮に対して、威嚇として核兵器を使わない、先制使用しないとか、韓国に核の傘の保護を与えない、などを求めるという話もあり、非核化の定義が具体的に何なのか、についてはこれから話し合う必要がある」と、今後の問題点を指摘します。

 この点について西氏も、「北朝鮮の核の議論は簡単だが、アメリカの潜水艦の核などはどうするのか。朝鮮半島の非核化となった時、何をアメリカの核として廃止対象にするのか」という問題はあると賈慶国氏の意見に同調します。さらに、「北朝鮮にとって自分の体制を守るというのは、アメリカのみならず、中国、ロシアも含め、自分の体制を保証してくれるとわからない限りは核放棄もない。いつ約束できるかわからない北朝鮮の核放棄と、定義できるかわからないアメリカの核の廃止、朝鮮半島の核廃止という問題をどう乗り越えるのか」と、複雑な核廃絶の困難さを話します。

 続いて工藤は、トランプ大統領には真に非核化に向かうための覚悟があるのかと問いかけました。

*トランプ大統領に対し、安倍首相がしっかりと助言することがカギとなる

 これに対し西氏は、朝鮮半島の非核化といった場合、問題は北朝鮮の核を廃棄することだけではなく、アメリカの核も問題になると解説。しかし、「アメリカの核をどう定義するのか、何を廃棄対象とするのか」といった点が実は曖昧であるとした上で、「不透明な北朝鮮の核と、対象が定かではないアメリカの核をどう考えるのか。これは逃げ水を追うような議論になるが、この難しさをトランプ大統領は本当に理解しているのか」と懸念を示しました。

 香田氏は、両首脳が署名した共同声明の中で、「マイク・ポンペオ米国務長官と北朝鮮の担当高官が主導して、できるだけ早い日程でさらなる交渉を行う」という一文に着目し、「来週にも交渉が始まるというのにもかかわらず、北朝鮮側の担当者がまだ決まっていない」ことを指摘。その上で、「穿った見方をすれば」と前置きしつつ、担当者を頻繁に交代させることで交渉を引き延ばしたり、合意事項を反故にしようしたりとするのではないかと分析しました。そして、そうした中では、アメリカ側に軸のぶれない確固たる方針が必要であるものの、トランプ大統領がこれまでCVIDを強硬に主張していたにもかかわらず、あっさりとその主張を変えるなどしたことから香田氏は、「このように目標を堅持しない態度は危険だ」と警鐘を鳴らしました。その上で、安倍首相にはトランプ大統領が迷走しないように「しっかりと助言すべき」と注文を付けました。

 続いて、工藤は「ずばり、北朝鮮の核問題は解決できるのか」と直球の質問を投げかけました。

*決して楽観はできない

 賈慶国氏は、非核化プロセスにおいては、査察をはじめとして主権国家に対する過度の干渉となり得るようなことが多々あるとし、プライドの高い北朝鮮がこれを受け入れる上では相当の忍耐を要すると指摘。さらに、金委員長は韓国との軍事バランスを保つ上でも、自らの生存を確保する上でも本来的に核は不可欠と考えているため、国際情勢の変化によっては核放棄撤回に踏み切る可能性が高いとし、楽観論を戒めました。

*重要なのはこの1カ月

 西氏は、今回の会談において金委員長には多くの収穫があったとした上で、しかし譲歩を貰ったにもかかわらず、約束を果たせなければトランプ大統領の怒りを買うのは必定であるため、「かえって自分の首を絞めかねない」と語りました。しかも、金委員長にとって勝負となるのはこの1カ月であり、ここでポジティブなメッセージを世界に対して出せなければ、一気に窮地に陥ることになるとの見方を示しました。

ここで止めなければ”地獄”が待ち受けている

 仮に非核化が出来なかった場合に世界はどうなるかを問われた香田氏は、「核保有国北朝鮮を起点とした世界への核の拡散が始まる」と回答。その上で、そうした事態は「今戦争をするよりももっと酷い地獄になる」とし、であるからこそ今ここで解決しなければならないと強調しました。

 最後に工藤は、「では、我々は今何をすべきなのか」と問いました。

*北朝鮮に希望のある未来を感じさせることが大事

 これに対し賈慶国氏はまず、朝鮮半島の安定と繁栄は関係各国共通の大きな利益であることを再確認する必要があると主張。その上で、日本や中国がなすべきこととしては、経済援助や体制の保証などを含めて北朝鮮が非核化のメリットを感じられるような案を提示し、「希望のある未来を感じさせることが重要だ」と語りました。同時に、これから先、アメリカに北朝鮮が受け入れ不能な要求をしないように説得することも必要になると付け加えました。

*今こそ知恵を出し合うべき

 

 宮本氏はまず、これまでの関係各国が自らの国益のみを追求して連携してこなかった結果、今日の北朝鮮の核開発進展を招いたと振り返りました。その上で、「そろそろ各国は知恵を出し合ってまとまるべきだ」と主張。各国が緊密な連携を進める中でこそ、賈慶国氏が言うような案も出てくると語りました。同時に、各国の連携をしていく上ではやはりトランプ大統領の”アメリカ・ファースト”は危険であるとし、日本としてはそれを抑えるための大きな役割を果たし、国際的な連携を積極的に主導していくべきと提言しました。また、民間、そして言論NPOに対しては、そうした連携や案作りを先取りするような動きを期待しました。

 その後、会場からの質疑応答を経て最後に工藤は、「歴史的な変化が始まった。北東アジアの平和実現に向けて議論を加速させていきたい」とし、まずは今月22日の「第6回日韓未来対話」に向けた強い意気込みを語りつつ、白熱した議論を締めくくりました。

2018年6月14日

・栄光学園校長が語る「カトリック学校の現状とこれから」

   栄光同窓カトリックの会第17回総会が10月28日開かれ、講師の栄光学園中学・高等学校校長の望月伸一郎氏から、司祭、信徒が減少する日本におけるカトリック校、同学園の現状と問題、今後に向けた対応についてお話を伺った。講演の内容は次の通り。

 まず本学園の近況についてお話しします。今日は実は、来週火曜日の歩く大会の開催が可能かどうか、台風の近づく中気をもんでいるところです。歩く大会も中間体操も大切にしている伝統の一つで、これをいかに今日化しつつ未来につなげるか、宗教活動についても今日化しつつ、これをいかに未来につなげるかが課題です。

 そこでまず、学園生徒の信者数の現状をご理解いただきたい。今年は180人が入学しましたが、71期入学者のうちカトリック信者は1人、昨年は2人でした。信者の親は4人ですが、子供が受洗していないケースも多いのです。信徒の父兄が分かるのは、入学者説明会の時に信徒の親には受洗教会、受洗の年など記入してもらうので分かります。在学中の受洗者の数はどうかというと、昨年は高校3年生が2人受洗しましたが、前年もゼロですし、今年も受洗準備中の生徒はいません。

 では学校での宗教活動はどうやっているのか。学校では宗教活動委員会があって、7人の信徒教員が中心になって活動の企画・立案をしています。また、金曜日放課後は部活動は無し、としているので、学年ごとに23人の教員が聖堂下の聖書研究室で聖書研究会を開いています。私は36期聖書研究会から担当しましたが、当時は信徒のクラスは別で、司祭が担当していました。

 今はほとんど未信者の聖書研究会ですが、いろいろな企画を立てています。学年別の人数は中1の時が比較的多くて学年末で20名位。それが高3までの各学年の聖書研究会では 10人位になります。ミサは、始業式、終業式、入学式、卒業式、聖土曜日(復活祭)、クリスマスに行いますが、参加者のほとんどが聖体拝領なし、祝別を受けるだけの生徒です。

 宗教活動委員会の企画としては、①聖園子供の家児童への学習支援、②ハンセン病施設へのボランティア訪問、③大阪釜ヶ崎訪問 1日または一泊、二泊(学年によって異なる)の黙想会などがあります。

 栄光では、「宗教活動は自由参加」という原則が貫かれており、教室には十字架を掛けておらず、「倫理」という授業はあるが「宗教」という授業はありません。以前、「ミサを講堂で行って全員参加にしては」という意見もありましたが、自由参加の原則を続けています。「倫理」の授業ではキリスト教について話すので、私の授業(「コチョリン」)では新約聖書を全員に配布し、聖堂へ連れて行って静かにする(長めの瞑目の) 時間を取っています。また、始業式や終業式など年6回の校長講話の際には、テーマに関連した聖書の話をするようにしています。

 信徒の教員は、全専任教員60人中14人、講師3人で、イエズス会士司祭はゼロです。イエズス会からは「今後、イエズス会士の教員は派遣しない」と言われているので、チャプレンの派遣をお願いし、現在、萱場神父に学園でのミサ、黙想会指導、教員や生徒への指導をお願いしています。

 このような状況の中で、カトリック校としてこれからどうするか。配布資料〈JCAP =Jesuit Conference of Asia Pacific=イエズス会アジア太平洋協議会)の統計にあるように 、2016年のアジアの中等教育機関38校の平信徒教員数は4463人に対してイエズス会士は98人、(日本は平信徒教員数226人に対しイエズス会士4人)という状況で、栄光学園の直面している問題はアジア共通であることが分かります。(特にオーストラリアやフィリピンは深刻)。日本のイエズス会では2016年4月にイエズス会校5校の理事会を統合する大きな決断をしました。この背景はイエズス会が毎年発行している年報 39号で李神父が「イエズス会教育の継承と深化」と題して書かれておられる通りです。

 栄光学園として、これから具体的に何をしていくのか。何を考えているのかということをお話ししますと、第一は、大切にされている伝統と文化を守ること、 学園の聖堂を維持していくことが挙げられます。何をもって「カトリック学校」というのかというと、「学校の中心にご聖体がある」「キリスト教に触れ合う場がある」ことです。

 そのための条件の第一に、聖堂でミサを捧げる、具体的には夏休み、冬休みを除く毎月1回、年10回のミサを捧げること。信徒でない教員も祈りをする学校がありますが、栄光でも、信徒でない教員も聖書研究会に参加しており、祈りの場としての聖堂の維持が第一です。

 第二に、グローバル教育の重視ということです。卒業生インタビューで隈研吾氏が「栄光には外国人神父が沢山いて、栄光に通っていることがグローバル教育になっていた。それが自分の現在の建築設計の仕事にもプラスになっている」と答えていました。世界のイエズス会教育機関のネットワークを活用してグローバル教育を進めようとしています。

 2000年からフィリピンのカトリック校との短期交換プログラムは実施していますし、ボストンカレッジが米国の高校生向けに開催している自己啓発セミナーに毎年30名の生徒を派遣することにしました。生徒は5日間の合宿でディスカッションなどを通じて、「自分がいかに大切にされているか」「神は何を望まれるか」など、いろいろな刺激を受け、視野を広げるプログラムに参加するのです。来年の夏休みには、JCAPの会員校の高校生を招いて秦野の上智短大で60人規模の英語でのセミナーを開くことを計画しています。

 イエズス会教育推進センターを中心に、研究、学校連携、教員養成など様々なテーマで新しい展開を模索中で、学校としても同窓カトリックの会とのつながりを大切にし、卒業生信徒との連携が深まることを望んでいます。学校には受洗者名簿はありますが、生徒の信徒名簿はないので、特に20期以降の信徒OBへも栄光同窓カトリックの会から情報を提供していただき、 つながりが出来ることを期待します。

(文責:栄光同窓カトリックの会事務局長・花川泰雄)

2017年12月10日

・カトリック、天理教、仏教の代表者による「若者と宗教」シンポジウムより

 日本カトリック司教協議会諸宗教部門主催のシンポジウム「若者と宗教」が9月16日、天理教、真言宗、曹洞宗、カトリックの4宗派の講師が出題する形で、カトリック奈良教会で開かれました。教皇フランシスコは来年秋に「若者」をテーマにした全世界司教会議(シノドス)を招集されます。そのための準備がすでにはじまっており、バチカンの準備事務局は全世界の教会はもちろん、若者たちに会議に向けた意見、提案の募集を行っています。残念ながら日本の教会の取り組みはあまり活発ではないようですが、このシンポジウムもシノドスに向けた前向きな動きのきっかけになることが期待されます。以下に4人の発題者がまとめたレジメをご紹介します。(「カトリック・あい」)

 

日本カトリック司教協議会 諸宗教部門より挨拶

 このシンポジウムは、2011 年より「自死」をテーマに東京、福岡、大阪の三都市にて開催し、また 2014年には「高齢化社会を豊かに生きること」、2015 年には「平和のための宗教者の使命」、昨年 2016 年には「いつくしみとあわれみ(慈悲)」をテーマに、諸宗教の方々との親交を深めて参りました。

 近年、若い人を含め、人々の宗教離れが指摘され、様々な場面で、若者の減少を実感しております。このような中で、若い人は宗教についてどのように考えているのか、また、信仰をもっている人は自身の宗教に対してどのようなことを感じ、考え、願っているのでしょうか。本年は、この奈良の地で、実際に若い人々と関わっている宗教者、若くして信仰をもち奉仕している天理教、仏教、キリスト教の方々をお招きし、学びたいと思っております。

 人間の根本的な生き方を伝え続けている宗教者として、何を伝えることができるのか、皆様とともに考え、分かち合えれば幸いです。

東井 成則氏(天理教) 若者たちと信仰を歩む

○学生生徒修養会(通称:学修、主催:天理教学生担当委員会) 対象:大学生層 期間:6 泊 7 日の合宿生活の趣旨:天理教教義の研鑽と実践を通して信仰の喜びを味わい、自らが天理教の信仰者であること の使命感を高める 内容:天理教教義を学ぶ講義、礼拝作法を学ぶ修練、 班ごとのグループワーク、布教活動

○カウンセラーとしての準備 学生の心の成人(信仰的成長)を願う “にをいがけ”の姿勢=良い信仰の香りを伝える 種まきとしてのにをいがけ 良い芽が出るよう、良い香りが身に付くよう、自らが教えを実践する

○半数の班員の病気 人間の体は神様からのかしもの・かりもの 心のみ人間の自由に使うことができる →各々の心の遣い方を神様は見ておられる 病気・困難=神様の“てびき” =人間の心の入れ替え、心の成人を促す

○学生たちとの話し合い 身の回りに起こる事態を我がこととして捉える 学生の素直な心、人のたすかりを願う心

○布教活動 “人たすけたらわがみたすかる” 鮮やかな神様のお働きとその実感

○“信仰の元一日”の発見

井川 裕覚師(高野山真言宗)〜お遍路にみる若者の宗教心〜

  1. 若者の宗教離れ?

 昨今、若者が“宗教離れ”をしているといわれています。しかし、何をもって宗教離れといえるのか、そんな疑問が湧いてきます。“宗教”なるものが存在し、くっついたり離れたり……そんなイメージなのでしょうか。全国のお寺の数は約 7 万 7,000 件といわれ、コンビニの数をはるかに凌ぎます。そんなお寺の参拝数が減っていることが宗教離れなのでしょうか。特定の宗教、宗派に所属していないことや、無宗教式のお葬式を行う人が増えていることでしょうか。それとも、信心深くないことを指しているのでしょうか。

 街で見かける寺社仏閣や教会から、道端のお地蔵様、クリスマス、除夜の鐘、初詣……私たちの身の回りには宗教的なものが多数存在しています。宗教について考えるとき、その捉えどころのなさに驚かされることもありますが、その計り知れない可能性に心が踊らされます。私たち人間が、頭で理解することなどできそうにないほどに広く、深い世界がそこには広がっています。若者は本当に宗教から離れてしまったのでしょうか。

 感受性の豊かな若者が必ずしも宗教心に欠けているとは思わないのが、私の考えです。むしろこの多様でとらえどころのない宗教を、柔軟に受け取ることができるのは若い人々ではないでしょうか。仏教の立場から、若者と宗教の関わりについて考察を深めていきたいと思います。

  1. 新しい試みをする現代の仏教寺院

 近年、若者のお寺離れを防ごうと多くの寺院が様々な取り組みを行っています。

 お寺の本堂でライブをする「DJ 坊主」 カンターに立つ「坊主バー」 本堂で汗を流す「寺ヨガ」

 テクノ音楽に乗ってお経を唱える「テクノ法要」 お寺がカフェを運営する「寺カフェ」

 その中でも、仏教に触れられるものとして根強く人気があるのが「修行体験」です。お寺で気軽に座禅や写経などを行うものから、宿坊に泊まり、参加者と寝食を共にするサンガの経験ができる本格的なものまで様々なものがあります。

 そのキーワードは「旅」と「非日常」だと思います。修行体験に参加する人は 20 代や 30 代の若者も多く、熱心に参加されるのが特徴です。多くの人がお寺や修行を通じて、日常を離れ、自分を探し求める旅に出ているように思えます。いつもとは違う自分、本当の自分とは何か−−−修行体験にくる人々からは、そのような眼差しが感じられます。今思えば、私が高野山で行った修行(これは体験ではありませんが)なども、自分を見直す素晴らしい時間でした。世俗を離れ、密教の価値観の中で自我を相対化し、「自分とは何者か」という問いの中で徹底的に自己を見つめます。

 「自由」という言葉は、「自」らに「由」るという仏教に語源を持つ言葉です。お釈迦様は入滅の間際の最後の説法で「法灯明」と「自灯明」という教えを説かれました。法、つまり仏さまの教えを頼りに、そして自らを頼りに生きなさいと教えます。そして、真言密教には「如実知自心」という教えがあります。「大日経」という経典の中には「悟りとは、実の如く自らの心を知ることである」と説かれています。

 あるがままに全ての存在をとらえ、自分の心もあるがままに見つめることから真理は始まります−これを如実知自心といい、ここに密教の修行の本質があります。現代の若者は、頼りにすべき「自」らに不安を覚えるからこそ、あるがままに自心を見つめようと修行体験に参加するのではないでしょうか。

  1. 遍路と弘法大師・空海

 そんな「旅」と「非日常」を満たす修行として、多くの若者が四国遍路に魅了されています。遍路とは、祈願のために弘法大師修行の遺跡である四国八十八か所の霊場を巡り歩く修行のことです。

 その起源として、平安時代末期の聖が行った「四国辺地(へち)」「辺路(へじ)」という修行があります。聖とは、既存の寺院秩序から離脱し、都鄙を往来しつつ、山林修行や寺社造営などに携わった僧のことを指します。12 世紀の『梁塵秘抄』や『今昔物語集』などの説話から、現世とは別の世界とつながる海岸などの僻地を歩く過酷な修行だったことが知られています。その辺地修行と弘法大師信仰が結びついたのがお遍路です。

 御入定後 100 年を経て、醍醐天皇より弘法大師の名を賜った空海は、宝亀 5(774)年、今の香川県の善通寺市に生まれます。叔父に師事して仏教や儒教を学んだ空海は、当時の大学に通いますが、途中で退学し、密教の秘法を修めるべく、若くして山岳修行に入ります。その修行の地となったのが四国の険しい山々や海辺で、弘法大師が開いていった霊場が八十八か所あり、それを巡る旅が「四国巡礼」になったといわれています。

 お遍路には「同行二人」という大切な精神があります。これは、旅をするのは一人だけれど、常に弘法大師・空海とともにあるという考えで、苦難の末に煩悩を一つずつ落とし、悟りを目指すことが旅の目的です。

  1. 4つの道場

 四国四県のお遍路には、それぞれに意味があります。阿波(徳島県)は「発心の道場」で、空海が人々の救済を発願した土地。ここから四国巡礼は始まります。次が土佐(高知県)で「修行の道場」。三番目の伊予(愛媛県)は「菩提の道場」といわれ、ここまで来るとお遍路さんは煩悩から解放され、悟りを得る境地に近づくようです。そして、最後の讃岐(香川県)が「涅槃の道場」。煩悩を捨て去り、いよいよ悟りに到達する土地です。第八十八番の札所となる大窪寺はこの讃岐にあり、ここで遍路は結願します。もっとも四国巡礼の起源については分からないことが多く、八十八か所になったのもいつ頃からかはハッキリしないといわれています。現在は順序にはこだわらず、どこの札所から回ってもよいとされていますが、「発心」「修行」「菩提」「涅槃」の順に霊場を巡り、悟りの境地に近づいていく悟りへの4段階説が、自分を高めたい人々の関心を引きます。

  1. 死出の旅

 今でこそクルマや観光バスで回れるようになったお遍路ですが、昔は「死出の旅」といわれるほど、命がけの旅だったようです。全行程 1,400 ㎞といわれる遍路道は、当然のことながら整備されていないところも多く、険しい山中の道なき道を行く旅であり、道中に休む場所は少なく、ところどころに「遍路ころがし」と呼ばれる難所があり、実際に落命する者もあったとか。常人には成しえない修行を行い、生死の境をさまようことで死を見つめ、生を悟る、そのような深い意味合いが遍路にはあるのです。お遍路の正装とされる白装束は、いつどこで行き倒れてもいいという、死の覚悟を表したものといわれています。

  1. 再生の旅

 もちろん現代のお遍路には、命を賭すような厳しさはありません。第四番札所大日寺の住職である真鍋俊照氏は、著書「四国遍路 救いと癒しの旅」の中で若者の遍路に触れ、「近年の四国遍路は、かつての『死出の旅』から変わって、『癒しの旅』という意味合いが強くなっている」といいます。

 なぜ、遍路をすると癒されるのでしょうか。理由の一つは「お接待」と呼ばれる地元の人々のもてなしにあります。接待とは仏教で、通りすがりの修行僧に茶湯などを振る舞うこと。無縁社会に生きる若者は、この温かい地元の人との交流や、お遍路さん同士の間に生まれる連帯感などに少しずつ癒されるのではないでしょうか。

 もう一つは、自然の中で自分の限界と向き合う体験にあります。家族と離れ、体力の極限に挑み、一人でそれを乗り超えた経験が自信となり、それが「自分をありのままに受け入れる」という自己肯定感につながると考えられます。閉塞した日常にあって、「『死者のように生きている』という状態から、再生するための旅」が若者のお遍路ではないか、つまり、自分の人生を豊かなものにするための旅がそこにはあります。

  1. 若き空海

 しかし、仮に遍路が「自分を再生させる旅」として機能するのであれば、弘法大師もまた同じような思いを抱いて旅に出たのではないでしょうか。あくまでも想像にすぎませんが、10 代の若い空海が大学を辞め、密教の修行に身を投じた背後には、それなりの心の葛藤があったと思います。今、この飽食の世に生まれた若者にとって、1,400km もの道のりを歩き通すのは、まさに苦行に等しい行為。その苦しみの果てに得られる”何か”を探し求めているのであれば、それは立派な修行と言えそうです。そういう意味では、現代の若者の「癒しの旅」こそ、そもそものお遍路の姿に最も近いものかもしれません。

  1. まとめ

 お遍路を通じて「若者と宗教」というテーマについて考えてきました。実際は信仰心のない方も篤信の方も様々な人々が八十八ケ所の霊場を巡っています。しかし、そこに共通していることは、自分を支えてくれる“何か”を見つめ、そして自分のうちから沸き起こる“何か”を探し求めることではないでしょうか。

 高野山の道場で修行をしている時、「修行は先人の宗教体験の追体験をすること」と言われたのを覚えています。弘法大師は遍路の道中で、自身の修行をしながら多くの人々を救いました。高野山に「相互供養・相互礼拝」という教えが伝わっているように、きっと人を救い、それと同時に人に救われて、

 感謝の気持ちで四国を巡ったことと思います。自分に足りない“何か”を求めて遍路の旅に出る若者は、お接待をしてくださる現地の人々に救われて、そして救い、心が満たされていく中で、弘法大師の感謝、感謝の旅の追体験をしていることでしょう。

 お遍路に見出された一人、種田山頭火は「伊予にしにたし」と晩年四国を歩き、「人生即遍路」という碑を残しました。仏教に「生死」という言葉があるように、死出の旅から生き生きとした生へと再生を果たしていく−−−お遍路の旅は、まさに人生そのもののように思えます。仏教は、「生老病死」−−−まさに人生そのものへの問いかけから始まりました。宗教とは、神仏や教義、礼拝の施設だけを指すのではなく、自分とは何かを教えてくれ、自分を変容させてくれるものということもできます。

 遍路道を歩く若者が絶えないことは、まさに若者の宗教心の現れを意味しています。札所の寺院を巡って納経帳に朱印をもらうことが目的のように見えますが、本来の目的は「人生を歩くこと」。日々の生活のなかで見失ったものを再発見する−−−それが現代の若者のお遍路さんの姿です。そして、私たちの人生に息吹を与えてくれるのが宗教ではないでしょうか。

◎ 其れ仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し 『般若心経秘鍵』弘法大師・空海(仏の教えは、遥かに遠いところにあると思われるかもしれませんが、本当は意外に近いところ、即ち私たちの心の中に存在しているのです)

秋田 修孝師(曹洞宗) 【永平寺の修行】 

【永平寺の修行】~行を迷中に立てて證(しょう)を覚(かく)前(ぜん)に獲(う)る 

  永平寺では、毎年 2 月 18 日から 3 月末日までに、新たな修行僧が上山します。大半の修行僧は大学 卒業後、すぐに上山しますので、年齢は 22・23 歳です。

 彼らは初めに旦過(たんが)寮(りょう)(約 1 週間の坐禅期間)を過ごします。次に、鳴らしものを学ぶ 鐘 洒(しょうしゃ)(永平寺は、鐘や太鼓など音を合図に行動します)を過ごし、各部署(寮舎)へと配属(転役)されます。

 就寝時間、起床の時間、食事、入浴など、永平寺に来て彼らの日常は一変します。さらに、当たり前にあった携帯電話や個人の自由な時間もない生活となります。 彼らは、修行生活により、様々な戸惑い、悩み、迷いながら、それでも懸命に修行を行じております。

【修行僧との関わりを通して】~修行、その中で、気づき、成長する~

 ・応量器作法で母の気持ちに (同事) ・毎日何度も繰り返し行う諸堂のご案内を通して一期一会に (而今) ・食べ物を捨てて (老婆心) ・伝道部で古参になって山門で (縁起) ・永平寺の修行僧たちは皆、若き仏です。 【宗教は必要とされている】~参拝者・参籠者・参禅者の声~

  親を亡くした、受験に向けて、仕事の悩みなど、多くの方が訪れ、思いを伝えてくださいます。誰もが、悲しみ、悩みや迷いをもち、幸せになりたいと願い、救いを求めております。 永平寺の修行僧は、その願いに寄り添い、共に生きていく僧侶となるべく、修行に励んでおります。

白浜 満司教(カトリック)テーマに基づく問いかけ

「近年、若い人々を含め、宗教離れが指摘されております。このような中で、人間の根本的な生き方を伝え続けている宗教者として、何を伝えることができるのでしょうか。若い人は宗教についてどのように考え、また、信仰をもっている方々は、自身の宗教に対して、どのようなことを感じ、考え、願っているのでしょうか。」

1:価値観の多様性の中で

 日本では、政治、経済、学問、文化、宗教など、種々の分野において、多様な価値観が尊重される社会です。宗教の分野に関しても信教の自由が保証されています。日本には、おおらかに受け入れる風土があるのではないでしょうか。このような社会風土の中で、人々は多くのものの中から、自分の意志で自由に選ぶことができるのに、日本の若者は、自分のための宗教を選択し、それに従って生きる必要性を感じていないように思います。現在、いわば無宗教の状態で生活している方々が多いのではないでしょうか。しかし、自分の人生に孤独や虚しさを感じ、何か大切なもの、あるいは仲間を見出すために、宗教に「救い」を求めている人々も少なくないように思います。

2:宗教の役割

 多様な価値観をおおらかに受け入れる社会風土の中で言えることは、どの分野においても、人々は根本的に良心にもとる言動を警戒しているということです。しばしば宗教の中にさえ、良心にもとる言動がはびこり、宗教に対する負のイメージが日本社会の中に広がっていることは残念ですが、このような宗教に対する逆風の中にあっても、宗教に期待されている役割とは、多様な価値観をおおらかに受け入れる社会風土の中にあって、「良心の声」となるということではないでしょうか。社会の中で、宗教こそ「良心の声」を代弁しなければならない立場にあるものだからです。

3:人類が直面している異変の中で

 ローマ法王(教皇)フランシスコは、2015 年 5 月 24 日に公布した『ラウダート・シ』(ともに暮らす家を大切に)という環境問題への取り組みを促す文書の中で、人類が直面している異変(叫び)を大きく二つに大別しています。

  • 現代社会の異変(叫び

一つは「自然環境」の叫びです。大気汚染、土壌汚染、廃棄物、気候変動、水資源の不均衡と質の低下、生物多様性の喪失などです。もう一つは人間(社会)環境の叫びです。不公平な分配や消費、情報過多、過労、自死、暴力、テロ、薬物などの人間社会の崩壊の兆候が、とくに巨大都市化した社会の中で生じていることを指摘しています。そして、ローマ法王フランシスコは、この自然環境の悪化と人間とその倫理の退廃とは密接にかかわっており、人類は「環境的でも社会的でもある一つの複雑な危機」に直面していると分析しています。

  • 今、求められていること

 ローマ法王フランシスコは、これまでの人間の反省を踏まえ、宗教の役割を期待しながら、次のように教えています。―「はかり知れない科学技術の発展に、人間の責任感や価値観や良心の成長を伴わせてこなかったのですから、実際のところ現代の人間は、権力を正しく用いるための教育を受けてはいないのです。健全な倫理を、また、限界をさだめさせ、明確な自覚に基づく自制を教えてくれる文明や霊性を有していると主張することはできません。」(105 番)―科学技術の発展に、人間の責任感や価値観や良心の成長を伴わせる役割を担うもの、また健全な倫理・限界を定めさせ、それに基づく自制を教えてくれる文明や霊性を生み出す母体となるものこそ、宗教ではないでしょうか。

  • 宗教の役割・分野

 「環境的でも社会的でもある一つの複雑な危機」に直面して、ローマ法王フランシスコは、当初から聖書が打ち出している教えを思い起させます。すなわち、聖書の創造記事に基づいて、人間は、①神とのかかわり、②隣人とのかかわり、③自然(大地)とのかかわり、という三つのかかわりの中で生かされていると教えています。そして、この三つのかかわりの中で、次のような自覚を促しています。「わたしたちが自然の価値と脆弱さを、また同時に神から賜ったわたしたちの能力を認めるなら、際限のない物質的な進歩という現代の神話をようやく捨て去ることができます。大切にするようにと神から委ねられた壊れやすい世界が、自らの力を方向づけ、発展させ、制限する賢明な道を見出すよう、わたしたちに挑んでいるのです。」(78 番)

4:次の世代を担う若者たちに(キリスト教的立場から

 人類は、これまで進歩してきた歴史が自己破滅の道に向いつつある現実をしっかりと見つめ、「際限のない物質的な進歩という現代の神話をようやく捨て去る」謙虚さと賢明さを見出すときに来ています。

 人類を破滅に導く異変に直面している中で、若者たちには、今こそ、「良心の声」に耳を傾け、人類の危機に立ち向ってほしいと思います。多様な価値観の中にあっても、すべての人間の心に響く「良心の声」を大切にし、聖書が教えている三つのかかわりの断絶が起きていることを見抜いてほしいと思います。①自然とのかかわりの中でその異変に気付き、②また隣人とのかかわりの中で人間(社会)環境の叫びを受け止め、人間の傲慢がその原因であることを謙虚に認め、③人間を越えた偉大な力の存在に心を開いてほしいと思います。なぜなら、自然もそして人間も、自らの知恵と力で存在し、始めたものではないからです。

2017年10月5日

・鼎談と分かち合いの集い「キリスト教用語の日本語訳は本来の意味を伝えているか」

 (2017.9.東京・信濃町) 真生会館主催 司会:森一弘司教(真正会館理事長) 出席者:高木賢一神父(東京教区事務局長) 石井祥裕氏(上智大学神学部講師・日本カトリック典礼委員会委員)

 (日本の教会にとって極めて重要なテーマであり、もっと関心を持って真剣に取り組むべき課題と思われます。この鼎談はかなりフランクな形で行われたため、発言者が特定できるようなまとめ方をすると、ご迷惑がかかることが考えられるため、三人、あるいは会場の参加者の発言のポイントと思われるものを匿名でまとめ、感想を加えることとしました=「カトリック・あい」南條俊二)

 日本語の聖書やミサ典礼の祈りの言葉は、本来の意味を伝えているか

・日本語の聖書やミサ典礼の祈り、歌で「栄光」という言葉が頻繁に使われるが、この言葉の本来の意味はどういうものなのか、疑問を持った。ヘブライ語でこの箇所に使われている言葉は「重み」「重さ」であり、ギリシャ語では「見かけ」「表れ」に通じる意味で使われており、「光」は意味としてでてこない。「神の存在、表れを確実にするもの」というのが本来の意味だったようだ。

・「聖体」も、聖なる体、と言うのは一体何なのか。もとになったギリシャ語のeucharistiaは「感謝」。もとにあるべブライ語では「感謝の捧げもの」を指していた。根本に、「神の恵みに感謝する」という意味がある。

・また、「信仰の神秘」というように使われている「神秘」。以前は「秘義」と言うこともあったが、第二バチカン公会議後に「神秘」と直された。このギリシャ語のmysterionには「隠された神の計画」が実現した喜びが含まれている。これを、簡単に「神秘」と訳していいものだろうか。

・さらに「福音」という言葉も、一般的に日本で使われている意味とは違う、教会独特の言葉。‶内向き〟の言葉のように思われる。「愛」「あわれみ」「慈しみ」など、教会では使い慣れた言葉も含めて、日本の典礼書の改定作業がされているが、容易ではない。現代の日本の人々に本当に通じる言葉にするにはどうしたらいいか、考え直す機会だともいえる。

・「栄光」「聖体」「神秘」と言った言葉は翻訳の下になった原語も含めて、ヨーロッパのメンタリティーが反映している、という気がする。「ご聖体」は「聖なるもの」という発想は、ヨーロッパの感性、「人間は穢れたもの」「神は聖なるもの」と強調したのはヨーロッパの教会。

・「栄光」はラテン語に翻訳した時に変わった。ヨハネ福音書では、栄光は十字架とつながっている。福音書、教義、典礼はつながっており、言葉は時代や社会とともに変わっていくが、この三つを関連させて考えていく必要がある。

・ミサ総則の改訂版が出たが、ナンセンスと思われる個所がかなりある。奉納行列の際に着席せよ、とあるが、起立して迎えるのが筋ではないか。また「キリストの体」と言っていたのを、「キリストのおん体」と変えたが、変える意味がない。

・「罪」もよく使われているが、これは「神の道から外れること」を意味すると思う。「原罪」はアウグスチヌスが使った一過性の表現、と理解している。人間を邪悪視している。キリストの言う「罪」はそうではないし、「あがなう」というのも「もう一度、神に向き合う」ことだ。関連して、「赦しの秘跡」は「疎外感からの解放」だと理解している。

・「大きな罪を告白しないと、地獄に落とされる」という言い方がよくされてきた。神から「拒まれる」という印象が強い。そうではなくて「大丈夫だよ」ということではないか。

・「赦し」と言う日本語訳がいいのか。「悔い改め」とか、「和解」の意味も元の言葉には含まれている。イエスが「あなたの罪は赦された」と言われたが、この中に「赦し」の本当の意味を解き明かすヒントがある。

・「赦し」は、神理解に関わっている。「最悪のことをした弟子たちが赦された。だからあなた方も大丈夫」ということだ。

 「神」という訳語の見直しも

・(明治以降、日本で使われるようになった)「神」という言い方は、1950年代生まれで、ずっと子供のころから使われてきたので違和感はない。「神学部」というように言葉が固定されているし。ただ、あまり考えずに使っていた側面は否定できず、見直そうと思っている。キリスト教が伝来する前から「神」があった日本の文化、社会環境の中で、どのようにキリスト教の「神」を伝えていけるのか、問い直すのは意味があると思う。ちょうど自分の教会の勉強会でこの問題を取り上げようとしているので、我々の世代は「神」に違和感がないなかで、見直しているつもりだ。

・かつて「天主」と言う言葉が使われ、現在では「主」と「神」。日本の社会では、最近は「神ってる」という使い方もされている。

・バチカンにいる神学者や典礼の専門家には日本語が分かる人はほとんどいない。とすると、日本で改訂案をもっていっても、適切なアドバイスを受けられるのか。そんな状態で、日本の典礼の見直しができるのだろうか。

 問題意識を今後どう生かすか

・キリスト教への理解を多くの日本人に深めてもらうためにも、以上のような議論を体系的にまとめようという考えは・・日々のミサの説教などに活かしていく・・学生たちと共にまとめていこうと考えている。

・長い日本の歴史の中で育ってきた文化と、とくに明治以降持ち込まれたヨーロッパの文化との葛藤。自分の過去を支えてきた文化と新しい文化との葛藤、そういうものも、日本人に理解される日本語訳の問題の背景にある、と言う言ことを念頭に置くことも必要。

・キリスト教を日本に伝えようとした宣教師が、一神教にこだわり、八百万の神を否定し、一神教を強制しすぎた、という歴史もある。

・ヨーロッパには他者との出会いの体験が希薄なように思う。ヨーロッパでは、「自由・平等・博愛」で近代世界を切り開いたかのように言われるフランス革命も、オスマントルコから見たら「近代資本主義イデオロギーの一つに過ぎない」という評価になる。知らず知らずのうちにヨーロッパの視点にならされているものの見方を、見直す必要もある。

・ただ、「日本」「ヨーロッパ」とひとまとめにできない側面もある。単純に二つに分けて論じるよりも、個々に分けて考えるべきではないか。

・言葉にこだわり過ぎず、どのような神理解、どのような人間理解をもとにするのか、そこから解釈し直す、ということだろうか。

【鼎談を聞いて】日本の教会は日本語訳の「失敗の本質」を理解しているか

・非常に示唆に富む、本音の意見を聞くことができたように思う。私見を申し上げれば、歴史的に見て「キリスト教の日本語訳の失敗の本質」は、英語のGod、ギリシャ語のTheos, ラテン語のDeus を明治時代初めから中期にかけて、日本の長い歴史の中で森羅万象に敬意を示す言葉として使われてきた「神(かみ)」を、十分な検討、いやほとんど何の考慮もなしに、キリスト教の奉じる存在の日本語訳にしてしまったことにある、と考える。

・GodあるいはTehos、Deusの本質をどのように自分たちキリスト教徒は、宣教師は理解し、日本の歴史風土、社会に合った言葉で、それをできるだけ正確に伝えるには、どのような日本語訳が可能なのか、真剣に考えたとは、とても思われない。「神」をキリスト教の「神」に‶流用〟あるいは‶盗用〟したもともとは、19世紀に中国における英米プロテスタント宣教師たちが「God」を漢語で同訳したらいいかで、喧々諤々の議論をしたことに始まる。

・簡単に説明すると、主として英国から来た宣教師たちは「上帝」(中国古来から「至上の存在」。自然界の不思議な力を持つ聖霊の意味も)、米国から来た宣教師たちは「神(shen)」(世界を統べる法則―天―の命を行う神話伝説時代の三人の皇帝)を主張して譲らず、このうち、後者の宣教師が日本に宣教に来て、「神(shen)」を使った中国語訳の聖書をもとに、日本語訳にして出版したのが1871年。恐らく、同じ「神」と言う漢字が、「かみ」という読み方で使われていたので、そのまま使ってしまった、と言われている。カトリック教会ではそれより20年以上遅れて、日本人でプロテスタント宣教師の翻訳を手伝った人が、パリ外国宣教会の宣教師の翻訳を手伝ったことから、そのまま「神」と訳され、現在の聖書、典礼の祈りや歌に使われて、現在に至っている、というのが真実だ。

・ちなみに、中国のカトリック教会では、当時も現在も「天主」(古代中国の天地万物を支配する創造主)と訳されているが、日本では、戦時中に政府・軍部の批判を受けて「天主」と一時的に改められた。戦後、進駐軍のキリスト教を背景にした民主化政策のもとで、海外から大量の宣教師が呼び込まれ、彼らが日本語を十分知らないままに「神」を使ったことで、「神」が本質をあらわす適切な日本語かどうかの議論もないまま、現在に至っている、と言うのが事実である。

・立教大学の教授だった前島潔氏は1938年に出版した「日本に於ける基督教の『神』に就いて」の中で、「『神』と言う語は日本人が決めたのではなく、外国人宣教師が決めたことで、日本の長い神道の伝統と紛らわしい」と批判し、戦後も、ハーバード大学教授で最高の知日派と言われ、米国の駐日大使を務めたライシャワー博士は自著「ライシャワーの日本史」でに「日本の古代から伝わる神(かみ)は信頼万象の礼拝の対象、ユダヤ・キリスト教の「ゴッド」との概念とは全く異なるものだ」と異論を唱えたが、教会関係者は全くといっていいほど、関心を示さなかったのだ。

・なぜこのようなことになってしまったのか。それは、日本語も日本文化・歴史も十分に理解していない外国人宣教師が、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語もキリスト教の歴史も、キリストのメッセージもほとんど知らない日本人の助けを受けて、しかも、かなり限られた人々の手で翻訳されたことにある、と言えると思う。この「失敗の本質」は、日本の教会では今も反省が十分に行われないまま、受け継がれているようである。

・聖書にしても、典礼で使われる祈り、歌の文句にしても、それが、キリストが伝えようとしたメッセージを、日本の長い歴史文化を背景にした社会で生きている言葉で表現しよう、という意識が、日本の教会の指導層には、全く感じられない。真剣にそのように考えるならば、聖書、典礼、教義に精通した専門家は当然のこと、言語学者、日本語学者、そして日々、生きた言葉で読者にどう伝えたらいいか苦闘しているまともなジャーナリスト、とくに論説委員など、教会の持てる力を総結集して、言葉を削り出していく必要があるのだが。私は、第二バチカン公会議以来、翻訳に関与する責任ある司祭たちに、そのようなことを言い続けてきたつもりだが、半世紀たっても、まったく改善された様子がない。改めて言おう。「失敗の本質」を謙虚に反省すること。それは、キリスト教が日本に土着していくために欠かすことのできない要点の一つだ。

   鼎談で一つ気になったのは、ある聖職者が「自分は『神』と言う言葉に違和感がない」と繰り返し、まったく、問題意識がないようなことを言われたことだ。「本質が問題だ」とも言われたようだが、まさに、日本人が何百年、何千年も意識してきた「神」をたかだか150年前に、キリスト教の「神」に、十分な本質的理解もなく‶流用‶したことが、日本人の間に、いまだにキリスト教の本質が十分に理解されない原因の一つがある、と考えるのだ。聖職者は毎日、「神」という言葉を使い慣れ、違和感がないのはある意味で当然だ。問題は本人が違和感をもつかどうかでなく、対象となる一般の日本人がどのように、キリスト教の「神」を受け止めているかではないか。このような問題が欠落したままでは、「日本語訳の失敗の本質」は理解されず、失敗が繰り返される(現にそうなっている)のではないだろうか。

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

(以上のご参考までに、拙著「なぜ『神』なのですか―聖書のキーワードのルーツを求めて」(燦葉出版社刊)をご覧いただけれ幸いです。Amazonで購入可能ですが、難しければandynanjo@gmail.comへ。送料・梱包費300円でお送りします)

2017年9月9日

・「家庭における愛の喜び-教皇フランシスコの思い」南條俊二 

 「家庭における愛の喜び-教皇フランシスコの思い」

・・使徒的勧告Amoris Laetitia(家庭のおける)愛の喜び」から何を学び、生かすか

はじめに

・講座の狙いは、日本の信徒にほとんど届いていない、教皇が最重要課題の一つとしている「家庭をめぐる問題と対応」についての、教皇の努力、メッセージを受け止め、考え、自分たちの置かれた場で何ができるか、具体的に少しでも新しい試みを始めていく、すでにしているならそれを育てていく、きっかけになること。

・勧告自体は、二度にわたるシノドス、合計で20日以上もかけた議論、それをもとに半年かけて教皇がまとめた、公式英語訳でA4の紙に小さい字で印刷しても75ページあり、1時間ではとても全部を説明できない。

・これを機会に関心をお持ちになり、中央協議会が早く日本語訳を完成、出版してくれれば、それに越したことはないが、いつまで待てばいいか分からない、とすれば、英語版、イタリア語版、フランス語版などすでに入手可能なものを、直接、お読みになる、あるいは小生が進めている日本語訳(一部抄訳)などを使って、一人で、グループでお読みいただければ幸い。

①Amoris Laetitiaが出されるまでの経過

・新聞・テレビを見ても、家庭に関する事件、問題が報道されない日はない。地域社会、教会共同体でも、高齢化の進展、一人暮らしの増加、子育て、若者教育の問題など、家庭をめぐる問題に日々身近に接している。内容、程度は違うが、全世界共通の深刻な問題である。

→4月に読売新聞で連載された[孤絶・家族内事件]第2部「親の苦悩」を「カトリック・あい」に掲載、現在でも閲覧件数でトップクラス。一日で10件近くなる日も。

・2013年春に教皇に就任したフランシスコは、家庭に関わる問題への対応をカトリック教会にとっての最重要課題として取り上げ、「家庭」をテーマに2014年秋、2015年秋と二度にわたる全世界司教会議(シノドス)を招集し、全世界の教区、修道会、教育機関など諸団体から集めた意見・報告・提案をもとに議論を重ね、それをもとに2016年3月に使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭のおける)愛の喜び」を発表された。

・教皇は就任した年の11月に使徒的勧告「Evangelii gaudium(福音の喜び)」(2014年6月に日本語訳が中央協議会から刊行)、さらに2015年5月24日に環境回勅「Laudato Si‐ともに暮らす家を大切に」を出した。(2013年6月29日に出た回勅 「信仰の光」は前任者、ベネディクト十六世が草稿をまとめ、フランシスコが引き継いだ。就任から3か月。本人の思いは十分反映されていない)

・そして、二つ目の使徒的勧告「Amoris Laetitia」は、「Evangelii gaudium」を教会、信徒としての基本的な在り方について勧告した「総論」とすれば、その延長上に「家庭」に関する現実を見据えた「各論」「現状分析と実践」の勧告、と言える。

②Amoris Laetitiaとりまとめの過程のユニークさと教皇の思い

この使徒的勧告を発出するにあたって、教皇は二度のシノドスをもったが、それだけでなく、最初のシノドス前に、世界の司教に、シノドスの準備のための質問状を送り、小教区や修道会、関係機関の声を吸い上げる形で、教区の現状、問題、対応、提案などを事務局に送るよう要請→回答を取り入れた準備書面をまとめて→一回目のシノドスを開き→その結果を書面にして、世界の司教に伝達、教会、信徒に伝え→それに対する意見、提案を求め→それをもとに二回目のシノドスの準備書面をまとめ→二回目のシノドスを開き、できるだけ多くの司教が発言し、議論を徹底するよう分科会方式など運営に工夫し、→その結果を最終文書として、世界の司教に伝達→反応などを踏まえて、教皇が使徒的勧告にまとめた。

・これまでの回勅、使徒的勧告などに見られなかった緻密な準備、末端の信徒、小教区までいきわたるような“双方向”の作業がされた。ここにも、教皇の「家庭」についての強い思い、全世界の教会、信徒とともに取り組みたい、という願いを知ることができる。

③Amoris Laetitia勧告の序章で、教皇本人が語る勧告の意義と読み方・・

(勧告の意義)

・家庭生活における『愛のよろこび』の体験は教会の喜びでもあります。結婚の制度・慣習に多くの危機の兆候が出ているにもかかわらず、結婚して、家庭を持ちたい、という願望は、特に若者たちの間でなお強く・・それに応えるものとして、キリスト教徒の家庭生活に関する意思表明は、実に“よき知らせ”なのです。

・この勧告は、2016年が『いつくしみの特別聖年』であることで、とくに時宜を得たものになりました。それは「勧告が、キリスト教徒の家庭に対して、結婚と家庭生活という贈り物を大切にし、寛大さ、献身、貞節、忍耐の徳で強められる愛の中で、保ち続けるように勧めるもの」であり、「不完全で、平和とよろこびを欠いた家庭生活のどの場においても、いつくしみと親密さのしるしとなるよう、一人一人を励まそうとするもの」だからです。

(勧告の流れ)

第一章で、聖書に霊感を受けて最初の章を始め、適切な基調を定めます。

第二章で、現実にしっかりと根を下ろした姿勢を維持するため、家庭の実際の状況を考察

第三章で、結婚と家庭に関する教会の教えの本質的な側面を思い起こし、

愛に捧げられた二つの中心的な章(第四、第五章)への地ならしをします

第六章)で神の計画に合わせた健全で実り多い家庭の形成に私たちを導くことのできる司牧的取り組み方に焦点を当てます

第七章を子供たちの養育に充て、

第八章で、慈しみへの招きと主の期待に及ばない状況について司牧上の識別を提示します。(勧告の読み方の勧め)

・2年にわたるシノドスの過程の豊かな実りを受け、勧告は多岐にわたる様々な問題を取り扱うため、ある程度の長文となることが避けられず、勧告全文の速読はお勧めしません。

家庭をもつ方々自身、家庭生活に関わる使徒職に携わる方々にとって各章を忍耐強く、注意深く読む、あるいは、それぞれの立場で特に必要と判断される内容を注意を払って読むのがいいでしょう。

・例えば、結婚したカップルは、第4章と第5章にもっと関心を持つでしょうし、司牧者の関心は第6章、そして誰もが第8章から課題を提示されていると感じるに違いありません。

・私の希望は、すべての方が、勧告を読んで、家庭生活を愛し、育むように呼ばれていると感じること。「家庭はやっかいな問題ではない。家庭は第一の、随一の絶好の機会」だからです。

 

家庭テーマのシノドス後の教皇の使徒的勧告「愛の喜び」要旨 2016.4.5 バチカン放送日本語課

序章・・上記に・・本文は9つの章で構成。

第1章「みことばの光に照らされて」

:神のみことばは、「抽象的な文章の羅列」ではなく、「家族に歩むべき道を指し示す、旅の友」である。また、三位一体の神は愛の共同体であり、「家庭はその反映でなくてはならない」。

 

第2章「現実と家庭の挑戦」(公式英語訳を翻訳すると「家庭の現実」)

:教皇は「家庭の善は、世界と教会の未来を左右するもの」であるとし、「家庭の具体的な現実に関心を払うことの重要性」を説いている。そして、今日の家庭が抱える問題として、「行き過ぎた個人主義」や、「仮の姿」を選ぶ風潮などを挙げ、こうした傾向の中で、家庭という存在が、「必要な時や便利な時だけ頼る、単なる“仮の場所”となることを懸念している。

教皇は、キリスト者の結婚と家族を守るための責任ある心広い努力を呼びかけ、「教義・生命倫理・道徳の面しか語られず、抽象的で、理想化された結婚に対する考え方」を自から反省し、「人々に幸福への道を示すことができるような、前向きで受容性のある司牧」を訴えている。

そして、教会が家庭のために関心を持つべき課題として、産児制限、信仰生活の弱体化、住居問題、未成年への虐待、移民問題、キリスト教徒や少数民族・宗教への迫害、障害者、高齢者、貧困、事実婚や同性婚、女性への暴力、ジェンダー思想の問題などを挙げている。

第3章「イエスに向かう眼差し:家庭の召命」

:「結婚と家庭に対する教会の教え」の概要を改めて提示。神の恵みとしての男女間の結婚、その不解消性は束縛ではなく「賜物」、「真の愛の源泉である三位一体の神を映し出すもの」と説いている。結婚は「召命」であり、「秘跡」である、とし、同棲する信者、民法上のみの結婚をした信者、離婚して再婚した信者、困難な状況に置かれた家族、傷ついた家族への、教会の司牧的配慮を呼びかけている。

すべてのケースにおいて、当事者たちの責任の重さがいつも同じではないことを考慮し、司牧者は、愛と真理のために状況をじっくり判断することが求められる、と指摘。は教会の教えをはっきり明示する一方で、様々な状況の複雑さや一人ひとりの苦しみを考慮することの必要性を強調。

また、教皇は子どもを授かることのできない夫婦も、人間的・キリスト教的に完全に満たされた夫婦生活をおくることができるとし、子はあくまでも神の賜物であり、子を持つのが当然ということではない。また、一つの命が別の人間の立場から支配されてはならないと、受胎から自然な死までの命の大切さを説いている。

第4章「結婚における愛」(同「結婚生活における愛を考える」)

:結婚における愛について、「相手のためを思う心」、「相互性、優しさ、安定などを、秘跡による特別な不解消性の中に融合した最も大きな友情」と表現。結婚は「神の賜物を段階的に受け入れ完成させていくためのダイナミックなプロセス」と述べている。

教皇は、結婚を避けようとする最近の若者の風潮に対して、「結婚を人生の重荷や到達不可能な理想として恐れてはなりません。『絶えざる成長の歩み』として捉えるように」と励ましている。

 

第5章「愛は豊かになる」(同「愛は実り多い」)

:家庭における命の受け入れをテーマに取り上げ、「すべての子どもは神の御心の中にある」と述べて、「受胎した瞬間からの命の尊重」を説くとともに、「子どもたちの持つ尊厳と権利の尊重」を強調している。子どもにとって「母と父を持つという自然の権利は、統合的で調和の取れた成長に必要」としている。

また、「母性は必ずしも生物学的な親だけに限られたものではない」とし、家族の無い子どもに家族を与える「養子制度」を容易にするための法整備の必要に言及すると共に、こうしたことが中絶や子どもの遺棄の防止にもつながることを期待している。

第6章「いくつかの司牧的展望」(同「結婚と離婚についての司牧的観点」)

:シノドスの結果に答える「新しい司牧の道」を一般論として示し、これに沿って、「それぞれの教会共同体が、教会の教えと地域の必要に照らした『「より実践的で効果ある提案」を練る必要がある」と強調。2014年、2015年の2回のシノドスで言及された司牧上の配慮が必要な課題を列挙した。

まず、「キリスト者の家族」は常に「家庭司牧の主体であり、単なる目的ではない」と前置して、「司祭・助祭・修道者・カテキスタなど家庭司牧に関わる者の育成」が強く求められており、彼らには教義において堅固であるだけでなく、物事を見る能力が必要、と指摘。教会の様々な召命を生かすために、女性の存在の重要性も強調。

「婚約者」たちの歩みを、結婚前だけではなく、早い時期から導き、結婚の秘跡の価値と豊か

さを発見できるよう助けねばならない。「結婚して間もない夫婦」に対しても、日々の歩みにおいて、忍耐や理解、寛大さと共に成長できるよう導かねばならず、「信仰」を励ます必要。

「様々な家庭の危機」については、「すべての危機には良い知らせが隠されているが、それを知るためには心の耳を澄ますことが必要」とし、「家庭の危機が、赦し赦されることを通して、愛を強め成熟させる機会となることを願う」と。

「離婚」は、「一つの悪であり、その増加は憂慮すべきもの」としたうえで、家族に求められて

いるのは、「愛を強め、傷を癒し、離婚という現代の悲劇が広がることを防ぎ、子どもたちがこの状況の人質となることを避けること」と強調している。一方で、離婚が危機-暴力や、横暴、搾取など-を前に、究極の解決策として、人道的に必要とされる場合もあることを考慮すべき。

「離婚して再婚した人」と「離婚して新しい関係にある人々」については、特に「配偶者を不当に選ばされた人々への特別な判断と配慮の必要」を示している。「離婚したがその後、結婚していない人」については、「支える糧」として聖体に積極的に近づくよう促すと共に、離婚して再婚した人々に対して、「教会から破門されたかのように感じさせてはならず、教会の一員として迎え、注意深い判断と大きな尊重をもって、見守る必要がある」としている。

「カトリック信者と他のキリスト教教会の信者との結婚」「カトリック信者と他の宗教の信者との結婚」「カトリック信者と無宗教者との結婚」にも特別な配慮が必要であり、これらの結婚を、「エキュメニカルまたは諸宗教対話の機会、また福音を証しする機会」とするよう促している。

「同性愛者」については「不当な差別をせず、すべての人の尊厳を重んじる教会」の立場を明記。ただし、「同性愛者のカップルを、神の計画に従った結婚と家庭と同等に見なすことはできない」としている。

第7章「子どもの教育の強化」(同「より良い子供の養育に向けて」)

:子どもに十分な教育を与えることは、両親にとって「重大な義務」であり、「最優先の権利」であるとしたうえで、教育とは「強制的に、すべてをコントロールすること」ではなく、「責任ある自由を育て、人生の岐路に立った時、良識と知性をもって判断できるように、人間として成長させること」と強調。道徳教育を中心に、教育において配慮すべき点を指摘している。

第8章「弱さを見守り、判断し、補う」(同「結婚生活の弱さに寄り添い、識別し、包み込む」)

「秘跡としての結婚の教義」と「弱さを見守り、判断し、補う必要」の双方をめぐる考察。

秘跡としての結婚は「キリストと教会の一致の反映であり、それは男女間の自由と忠実に基づく特別な一致」としたうえで、「教会の仕事はしばしば野戦病院の仕事に似ている。多くの信者たちの弱さをいつくしみをもって見守り、判断し、補う必要がある」と述べている。

こうしたことから、司牧者には「キリスト教的結婚を進めること」と「そうでない多くの人々の状況を司牧的に判断すること」の両方が必要。教会の道は常にイエスの道、すなわち「いつくしみと融合」にあり、そこでは「誰もが永久に罪に定められることはなく、神のいつくしみは、誠実な心をもってそれを求めるすべての人に及ぶ」とし、したがって、「離婚して民法上の再婚をした人々についても、個々の複雑な状況を認識することが必要」であり、その状況は「人によって非常に異なるため、厳しすぎる定義で分類したり決め付けたりすることはできない」と注意を促している。(注・このあたりの解釈をめぐって、欧米の関係者、進歩派と保守派の間で、離婚・再婚者への聖体拝領を認めるか否かの意見対立が起きている)

皆を受容するという意味で、2015年のシノドスでも意見されたように、典礼・司牧・教育などの場における排他的な対応を深く反省し、克服する必要がある、とする一方で、「シノドスやこの使徒的勧告から、すべてのケースに適用できるような新しい教会法的規則が生まれることを期待してはならない」と注意し、「責任をとるレベルは、すべてのケースで同じではない(注・つまり、画一的な対応、判断はできない)。特別なケースに出会った場合には、責任ある個人的・司牧的判断を勇気をもって行うこと」。(注・教区レベル、あるいは小教区レベルの責任者に判断をゆだねることを示唆する内容となっている)。

誰をも裁かず、罪に定めず、排除せず、いつくしみの中に生きることを強調し、「教会は関所ではなく、生活の労苦を背負うすべての人々が安らぐ父の家」と念を押している。

第9章「夫婦と家族の霊性」(同「結婚生活の霊性」)

:信仰を表現し強める手段として、家庭の中で祈りを実践するよう促し、「キリストは、たとえ

辛い日々においても、家庭生活を一致させ、光で照らし、十字架の神秘によって困難と苦しみを愛の捧げ物に変えてくださいます」と強調。「どのような家庭も、いつも完璧で型どおりのものではありません」としつつ、「家庭とは『愛する能力を段階的に発展させていく場』です」と述べ、「家庭よ、歩みましょう、歩み続けましょう」「希望を失ってはなりません」と呼びかけ。

 

⑤勧告を日々の暮らし、教会活動、社会活動にどう生かすか

・勧告には、世界中の様々な家庭の問題を、教皇が、司教たちが、どのように受け止め、世界の教会が、司祭が、信徒がどのように考え、対応していく必要があるか、が広範に、深く書かれている。今、日本の教会が最優先で取り組まねばならないことを改めて考え、具体的行動をとる手がかりとなるものだ。

・教皇は、勧告の序章で、次のように語られているのは、参考になる。

「家庭をテーマとした二度のシノドスでの議論を通じて「家庭生活をめぐる問題の多様さ、複雑さが明らかになり、教義上、道義上、霊性上、司牧上の数々の課題について、幅広い議論を続ける必要があることが認識されました。『時は空間に勝る』(「福音の喜び」222項)のですから、教義上、道義上、あるいは司牧上の議論のすべてを、教導職(教皇と司教たち)が介入して解決する必要はない、ということを明確にしておきます。教会の教えと実行の一致は確かに必要ですが・・・それぞれの国、地域は、それぞれがもつ文化、伝統や求められるものの影響を受ける形で、解決策を立てることができるのです。私の希望は、すべての方が、勧告を読んで、「家庭生活を愛し、育むように呼ばれている」と感じること。なぜなら、家庭はやっかいな問題ではない。家庭は第一の、随一の絶好の機会だから」。

・勧告を日々の暮らし、教会活動、社会活動に生かすためにはまず、各自が自分で勧告の内容を理解する必要がある。教皇が言われているように、「家庭をめぐる問題の多様さ、複雑さを認識し、教会としてそれに応えたい、という思い」から、従来のこの種の回勅、勧告に比べて分かりやすい内容になってはいるものの、かなり長文で、しかも慎重に、できれば全文を時間をかけて、やむを得ない場合は、教皇の序章での助言をもとに、先のに概要をもとに、関心のある章から読むのがいいだろう。

 ・勧告の全文を知ろうとする際の最大の問題は公式の日本語訳が15か月もたって未だに出てこないこと。イタリア語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語、ロシア語、アラビア語、中国語(北京語と台湾語)版は、勧告発表とほぼ同時に、バチカンから出され、それ以外は、各国の教会に自国語への翻訳が任された。

全文の和訳が中央協議会から出されるのが待たれているが、いつ出されるのか不明。今できることは、極めて不完全ではあるが、このような場を設けていただいて、できる限りの説明をお聞きいただくこと。英語の公式文書はバチカンのホームページaから引き出すことができるので、それをお読みいただくこと。それと、小生が「カトリック・あい」bに序章から翻訳出来次第掲載している私訳(現在4章まで。分量が極めて多く、特殊用語の翻訳に時間を要すること、全文直訳ではかえって理解しにくい部分があること、などから、一部に抄訳も含んでいる)をご覧になること、だ。個別に翻訳されているケースも章によってはあるが。

・勧告に込められた教皇のメッセージを理解し、指針として、それぞれの教会、地域社会、日本、世界においてどのような働きができるか、個別の事情、環境に応じて考え、できることから実行していきたい。

・インターネットで読むには・

  a/Holy See http://w.va/2.vaticancontent/vatican/en.html→Apostolic Exhortations→Amoris Laetitia(英文)

   b/「カトリック・あい」http://catholic-i.net→特集→Amoris Laetitia翻訳(第四章まで掲載)

・英語の指導書、参考書(アマゾンで入手可能)

 「The Joy of Love-Group Reading Guide to Pope Francis’s Amoris Laetitia」(Twenty-third Publications) 「Accompanying,Discerning,Integrating-a handbook for the pastoral care of the family addording Amoris Laetitia」(Emmaus Road)

ご参考

・・来年の若者シノドスへ→「Amores」に続く、延長上にある使徒的勧告第三弾につながる見通し・・

若者と召命をめぐる来年のシノドスに向けた準備書面発表 2017.1.13 バチカン放送

 シノドス事務局(事務局長、ロレンツォ・バルディッセーリ枢機卿)が、来年開催される若者と召命をめぐるシノドスに向けて、準備書面を発表。2018年10月に、「若者たち、信仰と召命の判断」をテーマに、世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会がバチカンで開かれる。若者たちが自分の人生の召命を知り、それに精一杯応えることができるよう導くため、若者たちにより効果的な方法で福音を伝えるための、最良の方法を見出すことを目標としているが、。インターネットなどを通して、会議の主人公となる、若者自身に参加してもらうことも計画されている。→6月14日から、シノドス準備事務局が若者を主たる対象として、シノドス準備の特設サイトhttp://youth.synod2018.vaを開設。日本の司教協議会も6月下旬に、シノドス事務局に提出する回答書作成のための意見などを7月末までに提出するよう全国の小教区などに通知した。

 準備書面は、各国の司教団をはじめ、教皇庁各組織、修道会総長連盟など教会関係者に広く提示し、16歳から29歳の若者の社会文化的な状況についての情報を収集し、その様々な背景を理解し、シノドスに生かすために作られた。内容は主に「現実を知り見つめる」「召命と識別の重要性」「教会における司牧活動」の3つに分かれ、次のようなタイトルから構成される。

序章・イエスに愛された弟子のように

第1章 今日の世界における若者たち 1.急速に変化する世界 2.新しい世代 3.若者と選択

第2章 信仰・判断・召命 1.信仰と召命 2.判断の賜物 3.召命とミッションの道のり 4.指導

第3章 司牧活動 1.若者と歩む 2.主役となるもの 3.場所 4.手段 5.ナザレのマリア

 文書は現在のところ5カ国語(イタリア語・英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語)。シノドス事務局関係者は、次回のシノドスが、若者たちが福音の光のもとに人生の選択ができるよう、どのように見守るべきかを考えるだけでなく、若者たちの望みや計画や夢、それを実現するために出会う困難などに耳を傾けていく機会となることを期待している。

 小教区や青年の集まりなどで意見、提言をまとめて、日本の中央協議会事務局(締め切りが7月末だが)、あるいは英文に訳したものを直接、11月末までにバチカンのシノドス準備事務局へインターネットで送ることをお勧めしたい。

(2017.7.1 カトリック船橋学習センター・ガリラヤでの社会講座で)

2017年7月6日

・「宗教改革500年にあたって-ルターの信仰義認論- 」棟居 洋氏

1 ルターの信仰義認論とは

   「人は信仰によってのみ神から義(正しい)と認められる」、言い換えると「神の前で罪人である人間が義と認められるのは、信仰のみによる、行いによるのではない」という教理。これは換言すれば、人間は誰も神の前で罪人であり、その罪責を償わなければならないが、それができないので、罪がないキリストが罪人である人間に代わって十字架に架かられ、罪を贖って(apolýō)くださったという、その事実を受け入れる信仰によって神との間に正しい関係が結ばれるという教理である。

 これをルターは、「教会が立ちもし倒れもする(教理上の)条項」と言った。この教理上の理解は、実はすでにパウロにおいて確立していた。ローマの信徒への手紙第3章20~22節「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられる神の義です(前田護郎訳『新約聖書』では、ギリシア語原文dia pisteōs Iēsou Chritou eis pantas に忠実に「すなわち、イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずる者すべてのためのものです」と訳されている-棟居注)」とある通りである。したがってルターがこの認識に達したことを「福音の再発見」とも表現される。

2 この認識に至った経緯

 修道士としてのルターの生き方は、当時の神学の潮流の一つ、ガブリエル・ビールの唯名論の影響を強く受けていた。13世紀以来の神学の主流であったトマス主義の実在論では、「普遍」を問題とし、その「存在と本質」を問うたのに対し、ビールの唯名論では、「個体」を問題とし、その「意志と能力」を問うというように捉えられた。

 すなわち、実在論は人間を問題とする場合、個々の個体については何も問わない。人間総体について「そもそも人間とは?」という問い方をし、その存在と本質は何かを問う。これに対して唯名論は、人間総体などは単に「名ばかり(唯名)」で実在せず、実在するのは個々の個体であるとし、そのうえで、個体を捉えるために、その意志 と能力とは何かと問うのである。

 この唯名論は、救われるためには、神の前に立つ個体が、意志と能力の限りを 尽くして善い行いに努め、義なる神に受け入れられるレベルにまで到達すべきであるという救済論にもつながった。この唯名論の影響を受け、ルターは修道士に求められる「完徳」に至るためのお勤めに模範生的に励んだ。しかし励めば励むほど、そういう努力に対する懐疑心に悩まされ、深い心の葛藤に追い込まれていった。

 そのルターに転機が訪れた。ヴィッテンベルク大学聖書教授として行った第1回詩編講義(1513年冬学期~1514年冬学期)、それに続くローマ書講義(1515年夏と冬学期)の準備中、修道院の自室におけるいわゆる「塔の体験」によって信仰義認論という新しい認識を持つに至った。それまでのルターは、神の義とは、罪人を裁く義(能動的義justitia activa)であると思っていた。

 ところが「塔の体験」においてルターが改めて気づいたことは、神の義は罪びとに贈り物として与えられる義(受動的義justitia passiva)だということである。この義は、人間の外からextra nos 来る。詩編第31編2節の「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、あなたの義によって私を解放してください(in justitia tua libera me [『新共同訳聖書』では、「恵の御業によってわたしを助けてください」と訳されている-棟居注])」という言葉、さらに第71編1~2節にも繰り返し出てくるこの言葉、さらに特にローマ書第1章16~17節の「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」という言葉の意味を問いつつ黙想している間に今言った認識に到達した。

 ちなみに、ここで言われる「信仰」とは、ギリシア語でpistisといい、人が予め持っている信仰(「鰯の頭も信心から」の信心)ではなく、神の信仰=神の真実(それは聖書に啓示されている)のことである。したがって、聖書の言葉が語られる時、それを聞く者のうちに信仰が起こされるのである。ローマの信徒への手紙第10章17節に「実に、信仰は 聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とある通りである。

 その時、大切なことはみ言葉が語られる時、聞く者のなかに聖霊が働き、あたかもこだまのようにみ言葉に対する応答(共鳴)として信仰が生ずる、あるいはキリストとの出会いが起こるということである。ルターも「聖霊はみ言葉とともに働く」と言っているのは、み言葉と聖霊と信仰の緊密な関りを説いているのである。ルードルフ・ボーレンというドイツの神学者は、こうした事情を「聖霊による神律的相互作用」と呼んでいる。

 

3 信仰義認論vs.行為義認論

   当時のローマ・カトリック教会の贖宥制度は、行為義認論の上に成り立っていた。つまり善い行い(悔い改め、徹夜の祈り、断食、施し、巡礼、十字軍への参加等)により罪の償いを果たす、言い換えれば、義と認められるとされていた。

 ルターによる「宗教改革」の直接のきっかけになった具体例を示せば、1515年教皇レオ10世がサンピエトロ大聖堂の改築の資金を得るため、マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに彼の領内における贖宥状販売を許可した。これは、贖宥状を買えば、それは善い行いをしたと同然で、自らの救いも確保できるし、すでに死んで煉獄で苦しんでいる者の魂も、即座に天国に行くことができるという触れ込みで販売されたので、そうであるとすれば、救いにはキリストの十字架による贖罪が必ずしも必要なくなることになる。つまり人間は自力(金)で罪の償いを果たすことができ、キリスト抜きで救いを獲得できることになる。これに対して、すでに信仰義認の認識に達していたルターが疑問を抱いたのは当然のことである。彼は、1517年10月31日付でマインツの大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク宛に手紙を出して、それに添付する形で95箇条の論題(表題:贖宥の効力を明らかにするための討論)を提示したところから「宗教改革」が始まった。

 

補足説明:行為義認論の説く「義」は、歴史を遡ればアリストテレスの正義論における正義、つまり「分配的正義」「応報的正義」である。その原則は「各自に相応しいものを帰せよ」ということ、つまり正しい人間には報償を与え、不正な人間には罰を与えるということである。それは、キリストの十字架による贖罪を信じる信仰義認の捉え方とまったく違う捉え方であった。なぜなら、キリストの十字架による贖罪という捉え方は「罪人(正しくない者)に一方的に(無条件に)義をプレゼントすること」、人間の側には義とされる根拠はまったくなく、神からいただく外ない、つまり「恵みによる義認」以外にないということを意味しているからである。

4 ルターの信仰義認論の現代における意義

1) 現代的表現で言うと、罪とはどういう事態か

 聖書で言う罪とは、本来「的外れ」という意味。神を侮り、背を向けること。罪は「~に対して罪を犯す」と表現されるように、いつも誰かに対する罪として、関係性の中で捉えられている。ルターは罪のことを「自分自身へのねじ曲がりincurvatus in se ipsum」と表現した。これは、人間は本来神と世界に対して開かれた関係を持つ存在であるのに、そこから逸脱した人間の非本来的なあり方を示す、優れた表現である。言い換えると、人間の自己中心性、あるいはエゴイズムを意味する表現であるとも言える。

 人間は、本来神の似姿に創造された、神に向い合い神に対して開かれた存在、神に問われ答える、逆に神に問い神の答えを受ける人格的な関係を持つ存在であるにもかかわらず、やがて自分の自由意志によって神の御心に背き、神から身を隠し、神に対して自らを閉ざす者となった。この人間が抱える根源的な矛盾、これは、本来の自分とは違う自分になるという意味でアイデンティティの喪失、あるいは自己疎外とも言えるが、そうした事態を罪と言うことができる。

 ついでに言えば、アイデンティティの喪失、あるいは自己疎外に陥った者は、自分を愛することができない。そうなると、まして他者を愛することもできなくなる。したがって罪とは、愛の喪失という事態に陥ることでもある。

2) 現代的表現で言うと、義認とはどういう事態か

   義認とはどういう事態かを明らかにするために、現代の日常用語の中から「愛」「承認ないし評価」「赦し」「自由」という4つの表現をもって言い換え説くことができるが、ここでは、「承認ないし評価」という表現から、説明に取り組みたい。

 人間は、上述したように、他者との関係の中で生きていて、つねに自分の存在、また正しさを認めてもらうことを求めている。したがって他者から認められないと生きていけない(少なくとも生き生きと生きられない)。ある高名な評論家が彼をたえず支えていた妻の死後、間もなく自殺したことは、一つの例である。

 他者の最高のもの、つまり絶対他者は神である。一人の人間が周りの誰にも認められず、自分の居場所を見失って孤独の中にあっても、その絶対他者である神によって正しいと認められ、保証され、その祝福の中で生かされていることを知るとき、その人間は、どんな場所でも自分の居場所になり、なお生きることができる。誰にも認められないように思える時でも、神によって正しいと認められているならば、これほど確かなことはないはずだからである。

 このように、自分の存在、人格、生の最終的保証を与えられることが、義認ということである。その義認がキリストの十字架の出来事によって起こったというのが、聖書が言う福音である。

   『リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーのことば』(ライナー・アンゼン編 加藤常昭訳 日本基督教団出版局刊 1996年) の一節「人間は、取り替えることのできない、ただ一度の人生を生きる、しかも、親しく神から呼び招かれている者である。そのことが、人間を人格ある者(神と向き合った者=神の前に居場所を持つ者-棟居注)とする。その尊厳は犯しがたい(なぜならキリストが自らの命を投げ出して保証したものであるから-棟居注)。その尊厳は、その人生の成功・不成功によらず、他人の評価によっても左右されることなく、その人に備わって(与えられて-棟居注)いるものである。」これも人格の尊厳が神によって保証されていることを語っている言葉である。

3) 現代は業績(成果)至上主義、効率第一主義の時代である

   現代社会は、業績至上主義、効率第一主義の競争社会である。ここにテクノロジーの問題も絡む。テクノロジーが生み出す様々なメカやツールを駆使して何事にも短時間で業績を上げないと認められない社会であるから、業績を上げるための激しい競争が生じている。これはまさに行為義認の原則が支配する時代である。

 現代では、効率的に業績を上げ認められた成功者は、評判も上がり社会的地位も上昇していって「勝ち組」として称賛される。他方、なかなか業績を上げられず、認められない失敗者は、無視され、社会的地位が上がらない(相対的に下がる)「負け組」と侮られる。したがって負け組にならないため、誰もが業績を上げるために頑張る。その結果、抑圧的な力が社会全体に働く。労働者は雇用者から限界を超えた労働を強いられ、労働は苦役となる(創世記3・17)。過労死の問題に現れているように、業績優先で人間の命も粗末にされる。他方、健常者に比べ業績を上げにくい障碍者に対する偏見・差別が助長され、社会的格差も、増大する。

 また、多くの負け組に属する者、社会的弱者が自分の価値を見失い、生きる意味を見失い、先行きの希望を見失う。精神的に障害を抱える者も多くなる。

   もちろん、業績(成果)を上げること自体は悪ではない。ただその成果は何のための成果かということと、その成果を自分の利益だけにではなく社会、特に社会から疎外された人々の利益に還元するかどうかが問題なのである。これは、栄光の教育理念でもある、Man for  others , with others に通ずる。

 この根拠は、まさにすべての人の人格の基礎には、キリストの十字架の出来事による神の義認があるからである。極言すれば、あのヒトラーのためにもキリストは十字架に架かられた。言い換えると、キリストの十字架ゆえにすべての人間は神の愛の中に入れられている。

 この信仰義認の原点に立てば、異質な者同士の共生・連帯への道も開かれる。なぜなら、すべての人間はキリストの十字架ゆえに神の愛の中に入れられているならば、人間的にどんな違いがあっても共生・連帯が可能であるはずだからである。また、争い合っている敵同士も、争いを止め、平和に向けた対話の席につくことが可能なはずだからである。

 ただ現実には、そのような信仰義認の原点に立った人間理解を受け入れるか受け入れないかの違いが残されているにすぎない。ここにキリスト者-カトリック、プロテスタントの違いを問わず-の宣教の使命が示されている。

                 棟居 洋(栄光カトリックOB会会員)(2017520  カトリック大船教会にて)

2017年5月21日

・「教会の変化・改革を求める教皇フランシスコ」森一弘司教

1.教会の現状に対する教皇の認識は

  教皇フランシスコが教会の現状をどうご覧になっているかを知るため、教皇に就任されて初めてお出しになった使徒的勧告「福音の喜び」(2013年11月24日)の49項を読んでみましょう。

 「(前略)私は、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。(中略)過ちを恐れるのではなく、偽りの安心を与える構造、冷酷な裁判官であることを強いる規則、そして安心できる習慣に閉じこもったままでいること、それらを恐れ、その恐れに促されて行動したいと思います」(カトリック中央協議会訳)

  以上でお分かりになる通り、神の憐れみについての理解を深めて、「教会そのものを変えましょう」という呼びかけをなさっているところに、教皇フランシスコの特徴があります。これまでの教皇は、人の生き方、社会の問題には言及しても、教会そのものの改革については直接言及してきませんでした。現教皇は、人々に「悔い改めなさい」と呼びかけるよりも、教会そのものに対して「改めなさい」と呼びかけているのです。

 使徒的勧告「福音の喜び」では、まず、「あわれみの神」」を強調したうえで、教会の現状をどのように見、どうあるべきかを語っているのです。

 もし、皆さんが、主任司祭たちに面と向かって、「安全地帯にしがみつき・・中心であろうと心配ばかり‥強迫観念や手順に縛られている・・そういう今の教会を変えなければならない・・」などと言ったら、皆が皆そうではないでしょうが、「もうここに来るな」と怒る司祭がいるかもしれません。一般の信徒が語っても、おそらく受け止めてもらえなかったでしょう。教会についてこれほど辛辣な言葉を口にした教皇は、これまでおりませんでしたね。

 日本の教会は第二バチカン公会議の結果を受けて、1986年に第一回福音宣教推進全国会議を開きましたが、「カトリック信者としての私たち自身の生活と信仰の遊離、教会の日本社会からの遊離」などを共通の認識として明確にしたものの、教皇フランシスコの言葉ほど明確な表現ではありませんでした。教皇のこのような認識に共感する人は、「よくぞ言ってくださった」と感じる人は、今の日本の教会の信者の中でも少なくなくはないのではないでしょうか。

 そうした現教皇の呼びかけの背景に何があるのか、考えてみたいと思います。

 「自分の安全地帯にしがみつく」「偽りの安心を与える構造」

 「福音の喜び」の上記の箇所にある「自分の安全地帯にしがみつく」「偽りの安心」という指摘の背景にあるのは、「秘跡中心主義」です。16世紀の宗教改革の先頭に立ったマルチン・ルターは、「信仰のみ」「聖書のみ」「恵みのみ」の三原則野畑を掲げて、権力におぼれ、堕落した教会に立ち向かいました。これに対して、時の教皇、パウルス三世がトレント公会議を招集し、宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にしましたが、その柱になったのは、「秘跡」「教義」「掟」でした。

 日本にカトリック宣教師によって伝えられたキリスト教は、まさに欧州でそのようなことを背景にしたものでした。秘跡、教義、掟を中心にしたキリスト教でした。

 許しの秘蹟を求め続ける、遠藤周作の「沈黙」で象徴的に描かれているキチジローの姿の中には、秘跡中心に教会理解があります。秘跡―ミサや赦しの秘跡にあずかってさえいれば、救われるというというメンタリティが深くしみ込んだのが、この時代だったのです。秘跡中心主義は、隠れキリシタンの時代にも受け継がれていたのです。

 「ミサに出て、赦しの秘跡を受けて、亡くなる前に病者の秘跡を受けていれば、救いは保障される」、そうした秘跡を中心とした信仰生活が、宗教改革を契機に起こったプロテスタントとの対立で強調されるようになり、「ミサに出て、黙想会などにも参加したりして教会につながっていれば、安全である」という安易な考え方が、教会全体に染みこんでしまったのです。それが、現代の教会にも受け継がれて、そこから払拭できないでいるのです。

  「世俗社会から信徒を護る城塞」

  教会は世俗社会から信徒を護る城塞であると言う認識が深まるのは、18世紀以降です

  教会は、近代社会の土台となる「自由主義、合理主義、科学技術中心の発展、労働者階級の誕生、資本主義」が芽生えてきたとき、その意味を理解できず、『自由、平等主義、合理主義』を、カトリック教会の信仰に逆らう危険な毒としてとられ、弾圧する側に立って、教会を近代主義から信者を守る『城塞』と位置づけたのです。 信者たちには、たとえ理解できなくても教会の教えを信じ、聖職者たちに従うことを、求め指導したのです。結果として、信者たちの思考停止を生んでしまったのです・

  それが、信仰の日々の生活からの遊離、教会の現実社会からの遊離を助長してしまい、また、それが、一般の人々には敷居の高い、近付きがたい教会を生んでしまったのです。

 「中心であろうと心配ばかりしている教会」

 こうした教会の葉池にあるものは、中世期に確立した教会像です。

 中世期、教教皇は宗教と政治を合わせた絶対的な権力者、王の中の王と理解されるようになり、教皇をはじめとする司教、司祭たちは、地上におけるキリストの代理者として認識されるようになります。

 聖職者は、地上におけるキリストの代理者としての理解は、時代を超えて受け継がれてきており、今もって善良な信者たちの心には染みついてしまっているように思えます。

 近代主義が台頭してきた18世紀以降、ヨーロッパ全体に大きな影響力を及ぼしてしまう近代主義と向き合うため、っかとリック教会は、教皇をピラミッドの頂点とした強固な「中央集権主義体制」が確立したのです。その中心的な人物が、ピオ9世でした。1869年に第一バチカン公会議を招集し、教皇の不可謬権を宣言し、司教は教皇に、司祭は司教に、そして信徒は司祭に従順、という〝ヒエラルヒー″が完成します。教会の統治は聖職者に委ねる、という「聖職者主義」が確立します。

 よく「教会には民主主義がない」という声を聞きますが、司法、行政、立法の三権分離は、教会の構造にはまだ確立していないのです。教会は、中心でなければならないという観念がまだまだ染みついてしまっているのです

 このように教皇フランシスコは司教として現実の社会の現場で活動されて、色々な問題にぶつかってきた経験から、痛切に感じたことを表に出し、「秘跡に頼り、権威主義に頼ってきた教会を内側から変えなければならない」という呼びかけをされたのです。

2.教皇フランシスコの目指す教会は

 まず「出て行く教会」です。教会の外に出て、人と向き合い、人それぞれの人生とまじりあうことをイメージされているのだと思います。

 教皇は、ブエノスアイレス司教となって、市内のスラムに入り、住民一人ひとりと言葉を交わし、親しく付き合われました。教皇になられた直後のインタビューで「教会は〝野戦病院″であるべきだ」「扉を開いて歓迎し、受け入れるばかりでなく、新たな道を見出す教会になろう・・信仰を捨てた人や関心のない人たちのために」と語られたのも、その延長上にあります。また、別の雑誌のインタビューで、「私は『神』を信じていますが、『カトリックの神』ではありません・・・おられるのは『神』だけ、イエス・キリスト、人間の姿を借りてこの世に現れた『神』です」と語りました。教皇が見ている眼は、神が人を見ている眼なのです。

 もう一度、使徒的勧告「福音の喜び」に戻りましょう。「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆、かつ創造的であってください」(33項)と教皇は、強く呼びかけられています。

 第二バチカン公会議を受けて日本の教会が開いた1986年の第一回福音宣教推進全国会議も、どこか遠いところで作られた信仰様式に無理やり私たちの生活に合わせるのではなく、現実の生活と日本社会の中で生きる、ということで捉えなおすように、教会を転換していくべきだ、というのが、司教たちの考えでした。

 それから30年経って、教皇フランシスコが、別の言葉でもっとはっきりと語られたのです。このような認識を共有したうえで、前を向いた改革を進めていく。それが、私たちに求められていることではないでしょうか。

(2017.3.11真生会館講座「信仰生活を深め生きる」シリーズより)

2017年3月17日

「家族とどう向き合うか-自分の思いに相手を過剰適応させる?」精神科医師・片田珠美

  精神科医として、心を病んだ子供たちを多く診ていますが、特に摂食障害-母と娘の葛藤の結果-が多い。私個人も母との関係で悩み続けてきました。田舎で教師をしていた母は、私を妊娠して、夫の実家(母の実家には継母がいるなど、問題があったので)で舅、姑と同居することになったのですが、とくに姑からいじめられ、生まれた私が女の子だったことで、余計に肩身の狭い思いをした。それで、私を、田舎ではステータスとみなされる「医者」にして、見返そうとしたのです。私自身は物書きになりたい、というのが本心でしたが、母から愛されたい、愛情を失いたくない、という思いから本心を抑えて頑張り、大学の医学部に入って、医者になりましたが、いつも「これは自分の人生じゃない」というこだわりを抱き続けたのです。

  このように、母親の欲望、父親の欲望を押し付けられながら、それを受け止めようとするあまり、生きるのがしんどくなっている、という子供たちが最近、とくに増えています。先日、研修医と医学部学生の男3人が集団で女性を酔わせて、強姦したというとんでもない犯罪事件がありましたが、いずれの親も開業医でした。もちろん悪いのは3人ですが、おそらく親たちが後を継がせようと、本人の気持ちも考えずに医者にしようとした、それが、犯罪の遠因になっているのではないか。私の周囲の人たちをみてもそう思うのです。

  これは極端な例としても、親の押し付けは、様々な問題を引き起こしています。「期待」という名の下に、将来の進路を押し付け、受験を押し付け、職業を押し付ける。「愛情」の名の下に、子供を支配しようとする。いい大学に入れて、いい会社にいれて・・。10年ほど前に奈良県の進学校に入った医者の子供が、自宅に放火して、継母と弟妹を焼き殺すという悲惨な事件がありました。父親は、息子を国立大学の医学部に入れて、医者にしたいと思い、学校や塾の成績が悪いと頭ごなしに叱りつけていたそうです。

  その結果がこのような事件になってしまったわけですが、女の子の場合に多いのは、拒食症です。親が自分の果たせなかった夢を子供に託し、子供は親に気に入られたい、と必死に「いい子」を演じようとして、「過剰適応」してしまい、疲れ果ててしまう。大人になると、相手は親から周囲の人、上司などになる。先日、東大を卒業して一流会社に入った女性が入社一年で自殺されましたが、母子家庭で母親の期待を一身に受け、それに応えたい、と無理をした。そんなに辛い、耐えられない、というのなら、辞めればよかったのに、と思う方もいるかも知れませんが、「いい会社に入った」と喜んでいる母親を悲しませたくない、と頑張りすぎたのでしょう。「いい子」が「過剰適応」したあげくに、「燃え尽き」てしまう。

  このような患者さんを私も多く診てきました。結論は「あまり『いい人』になるのはよくない」ということです。頑張りが積もり積もって切れてしまうと、逆効果になる。苦痛、怒りはため込まずに、小出しにしたほうがいい。「嫌われる勇気」という本が売れていましたが、「嫌われたくない」と無理をする人が、とくに若い人の間で増えています。「過剰適応」して、しんどくなって、医者のところに来るのです。

  家族の間でもそうですが、精神的な葛藤、怒りや敵意が生じるのは当たり前です。お互いの距離が近いほど、恨みや憎しみが強くなることがある、ということを認識する必要があります。殺人事件に占める親族殺人の割合が半分以上になっている。「愛」で結ばれていることが望ましいのだけれども、互いの敵意、憎悪が強まって、心理的に追い詰められることもある、と知ってもらいたいのです。

  そうした精神的な葛藤の背後に、「支配」がある。親が子を「支配」したい、夫が妻を「支配」したい、あるいは妻が夫を「支配」したい・・。その動機としては、「物的、精神的な利得」「自己愛」「支配の連鎖」がありますが、支配する、あるいは支配される当人がそれを自覚せず、体調不良、吐き気、めまいなどの症状が出て、医者の診断を受けて分かることが多い。

  こういう例もあります。定年後の嘱託勤務で単身赴任するようになった夫をもつ奥様が「毎週末に夫が帰宅する前日になると、動悸が激しくなり、吐き気を催すようになる」と相談に来られました。お聞きすると、ご主人は帰宅するたびに、家じゅうを掃除し、靴のおき方も含めて全部整頓しなおす。そして、「お前の掃除、整頓の仕方はなっていない」と怒鳴り散らす。奥様は自己否定されたように感じ、落ち込んでしまう、ということでした。ご主人はきっと勤務先で、もと部下だった上司に屈辱感を味わわされたりして、その憤懣のはけ口を奥様に求めたのかもしれません。

  親による子の「支配」に話を戻すと、当事者が気が付かないうちに、深刻な事態になっているケースが少なくありません。背景に、まず、少子化がある。一人の子供に目が行き過ぎる、期待を集中させてしまう。それと、「自己実現」をあきらめきれない親が増えていることがあります。昔は、皆、生きることに、食べることに精いっぱいで、子供に何になってほしい、何にならせたい、というようのことを考える余裕はなかったが、いまその余裕がある、と言う事情もある。「ステージママ」も含めて、子供の思い、希望と関係なく、自分の思いを押し付け、自己実現の欲求を満たそうとする親が増えています。

  では、どのような親が危ないのか。まず、夫婦の間に問題を抱えている親。次に、代々続く医者の家など、支配の連鎖を抱えている親。それと、希望していた職業に就けなかったなど、自己実現ができていない親-です。不登校、拒食症、果ては追い詰められて命を落とすような事態にならないように、親の思い、夢を子に押し付けることが、子にとって幸せなのか、親は問い直す必要があります。しかし三つのうち、一番悪いのは、夫婦の間で「敵対的」になることです。私がよく受ける相談に「主人の暴言に耐えられない。離婚して、解放されたいが、専業主婦で1人では生きていけない」というのがある。また「一人になると子供も育てられないし」と子供に転嫁することもあります。

  親子で「敵対的」な関係になるのは、母と娘が多い、と言われます。こういう例があります。看護師をしていた娘さんが人間関係などに悩んだ挙句、仕事を辞めて無職になり、住む実家に戻って、母の介護をするようになった。だが、母は「お前は仕事もせずに私の年金で食べている。働き口を見つけて来な」とののしられ、杖を振り回される。心の救いを求めて近くのキリスト教会に行き、本を借りて読んでいたが、母が「こんな本を読んで」と怒って破り捨ててしまい、自分が全否定されたようですごいショックを受けた、というのです。「そのままでは、大変なことになりかねません。お母さんを施設に入れるか、ご自分が生活保護をもらって家をでたら」とアドバイスしたのですが、結局、「母を捨てられない」と、そのままの生活を続けておられるようです。

  このように、母と娘の関係が「介護」をきっかけに深刻になるケースが増えているようです。政府は財政事情の悪化から、施設介護を在宅介護にシフトさせていますが、負担が家族、とくに女性にかかることになる。それで、「夫が死んだら、舅や姑など夫の家族の介護などしたくない」ということで、「姻族関係終了届」を出す、いわゆる「死後離婚」をする女性が増えているのも、それと関係があるのでしょう。在宅介護はものすごい危険を含んでいるのです。介護殺人が二週間に一回の割で起きていますのも、在宅介護中心主義と関係があると思います。憲法改正で、「家族の助け合い」条項を入れようとする動きがあるようですが、一見、美しい言葉のようですが、家族に負担を強い、敵対的関係にある家族を介護殺人に追いやる危険もあることを認識する必要があるのではないでしょうか。

  おわりに、このような家族をめぐって起きている問題と向き合う際に、気を付けるべき点を列挙します。

 ①まず、「問題に気づく、自覚する」ことです。さきほども申し上げましたが、気がつかずに、事態を深刻にしていることが多いのです。うすうす感じても、「自分は親に、夫に敵意も、憎しみも持っていないのだ」と思い込もうとする傾向もある。体がSOSを発したら、あるいはそうなる前に、自分はどうなのか、親の期待と自分のやりたいことは違っていないか、など、自分自身を見つめなおすことが必要です。

 ②「相手(親や夫、妻)を他の人と替えることはできない」と割り切ること。とくに歳を取ってから生き方を変えるのは難しい。「あきらめる」ことも時には必要です。

 ③「離れる」ことも悪くない。無理をしてそれまでの関係を続けようとすると、自分自身も、相手も罪悪感が募ってやりきれなくなる。施設に入ってもらう、あるいは介護サービスを受けて、その間は外出して気分転換を図るようにする。

 ④「少し距離」を置いてみる。食事を別々にする。家の中でも、できるだけ顔を合わせない。夫が定年になっても、できるだけ外にでてもらう。趣味を広げる、などです。

 ⑤「各々が豊かな人間関係を作る」こと。相手や子供にあまり期待をかけすぎないようにし、それぞれがそれぞれの人間関係を広げていく。これが一番、前向きで必要な対応かも知れません。

   (片田珠美=かただ・たまみ=精神科医、京都大学非常勤講師、臨床経験にもとづき、犯罪や心の病の構造を分析している。著書に「一億総うつ社会」(ちくま新書)、「他人を攻撃せずにはいられない人」(PHP新書)など。

(真生会館・講座シリーズ「現代社会に生きる」の2月25日「家族とどう向き合うか」より・文責=南條俊二)

 

2017年2月28日