・Sr.岡のマリアの風㉞「地元の病院」に通って気が付いたことは・・

  優しくて人気(?)のH先生の担当日に、いつものように定期通院。でも、いつも車で一杯で、停めるところを探すのに苦労する駐車場が、がら空き。思わず「えっ?H先生、休み?」と、そちらに思考が行く。

 車を降りると、やはり通院に来たおばあちゃんが「今日は、人が少なかとですね~」と、わたしに声をかけてくる。「大丈夫ですか?」とヨロヨロ歩いているおばあちゃんと一緒に病院に入ると、待合室もがら空き。H先生の担当日には、二時間以上待つこともざらなのに…。

 名前をすぐに呼ばれて行くと、H先生は、いた。

 「今日は、人が少ないですね~」と看護師さんに言うと、「そうですね~。稲刈りだからじゃなかとですか~」。「地元の病院」に四週間に一度の定期通院を始めて数か月(お恵みで、いたって健康だけれど、骨密度が問題らしい)。

 初めのころは、あまり病院に通ったことのないわたしにとって、何となく「場違い」な感じがしていた。でも、だんだん、「地元感」の良さを発見するようになってきている。

 確かに、車の窓から、田植え、稲刈りの風景は、見ている。だけど、「いつも通院してきている」おじいちゃん、おばあちゃんが、実際に稲刈りで通院を休んでいる(?)」と思うと、何か、季節感がぐっと現実味を帯びてくる。確かに、最近、台風をはじめとして天気が悪かった。今日は、秋晴れ。そうか、みんな、体が痛いことより、まず、稲刈りなのか…。

 そういえば、と、急に思い出した。東日本大震災後の、岩手県O町で、ボラティアをしていたとき。学童支援センターにいつも来ていたお兄さんが、いなかった。「○○先生は休みですか?」と聞くと、「わかめ取りに行っている。彼は漁師だから」との答え。その時、O町は、こうやって、少しずつ、地道に復興しているのだな~、と実感したっけ。

 O町で、カトリック教会のボランティア活動を立ち上げた、故F神父が、言っていた。わたしたち、長崎で生まれた三つの修道女会(「みつあみの会」)が被災地にボランティアを送ることを計画し、「でも、わたしたちに何が出来るでしょうか?」と尋ねたときだ。「とにかく、まず、現地に行ってください。

 地元の空気を吸い、地元の店で買い物をし、地元の食材を買って味わい…。人々と『共にいる』、同じ空気を吸う、それが、すでにボランティアです」。

 F神父は、その土地その土地で異なる「空気」、「雰囲気」は、決して言葉では通じない。ニュースで見ただけでも感じることは出来ない。自分が、地元に
行かなければ分からない、と言っていた。初めて、O町に行ったとき、それはすぐに分かった。理屈ではなく、体で。

 「地元の病院」の待合室では、病気の話しよりも、「あんたの息子、嫁さんもらうってな~」「○○さんのとこ、男の子が生まれしゃったとよ~」「母ちゃん、元気にしとるとね?」…と、単なる挨拶、好奇心以上に、「寄り添う」心、「関心をもっている」心に出会う。

 キリスト教のある伝統は、ナザレのマリアが、神の使いのお告げを受けた時(受胎告知)、最初の部分は、マリアが井戸に水を汲みに行ったときだった、と語っている。それが事実かどうかはともかく、このような、人類の歴史の中で最も偉大な出来事の一つが、小さな村の「普段性」、「日常性」の中で起きたと考えることが、わたしは好きだ。神はわたしたち自身さえも気づかない時、場所、方法で、わたしたちに会いに来る。教皇フランシスコは、しばしば、わたしたちの神は「サプライズの神」だ、と言う。

 地元の待合室での、何気ない「寄り添い」のひと時。稲刈りの時期には人が少なく、雨が続くと人の多い、待合室。「おはようございます」と挨拶すれば、恥ずかしそうに答えてくれる、おじいちゃん、おばあちゃんたち。

 通院を始めたこともあり、初めて、特定健康診断も「地元の病院」で受けた。シスターたちとは長い付き合いの看護師さんたち。すべての診断(胃カメラも)で、ベールを取らなくていいです、と言われ、「地元感」から来る何とも言えない温かさに、すっかりリラックスした。

 「都会の有名病院」ではないから、高度な治療を受けるわけにはいかないかもしれない。もしかしたら、病気が発見されなかった、ということがあるかもしれない。でも、60歳も過ぎれば、あとは「返す」人生。今まで、わたしだけでなく、先輩たちがお世話になった地域の人々の中で、今日は調子が良いとか悪いとか、痛いとか痛くないとか、よく眠れたとか眠れなかったとか、そんなことを繰り返しながら、一緒に「返していく」ことが出来たらいい、と思うようになった。

 いつかは行くんだ、天国に。それが一年早くても、一年遅くても、同じ共同体のシスターたちだけでなく、「地元の」おじいちゃん、おばあちゃん」たちと一緒に行く方がいい。だって、こうやって、だんだん「中古車」になってきた自分の体と付き合いながら、ときにはつぶやきながらも、それでも寄り添いながら、いたわりながら、共に今まで、歩いてきたのだから。

 教皇フランシスコは、特にシスターたちと話すとき、「お母さんになってください」と呼びかける。「お母さん」は、「わたし」よりも「あなた」-子ども-を中心に置く。お母さんは、生活の中心に「他者」を置くことを、自然に知っている。

 昔、映画が大好きで、よく出かけていた友人が、結婚して、子どもが出来たら、映画を見に行くことも出来なくなった(ビデオやDVDのない時代である。映画館に行かなければ、なかなか映画を見ることは出来なかった)。やっと時間が出来て外出するつもりでいても、子どもが熱を出して行けなくなった、ということはしばしばだった。

 でも、彼女は、だから昔が良かった、とは言わなかった。むしろ、ずっと幸せそうだった。

 生まれてくる子ども、障がいをもった人、高齢者…を、この世は「問題」として提示するけれど、それは「賜物」です、とパパは言う。なぜ「賜物」か、と言うと、この人たちは、わたしたちに、一番大切なもの、中心に置くべきものを教えてくれるから。それは「いのち」。わたしたちが他者に、特に、より弱い、より傷つきやすい「いのち」に、わたしの時間を、わたしの心を、わたしの空間を開く時、その時、わたしたちは、知らない内に、「いのち」を真ん中に置いて生きることを学ぶ。

 パパ・フランシスコは、「若者」をテーマにしたシノドスの機会に集まった若者たちに、語りかけた。

 いただいた賜物であるいのちを、あたかも自分だけのものであるかのように考え、先人たちに耳を傾けることなく、「わたしが」好きなように生きようとする時、わたしたちは迷路に入り、行き詰まり、閉じこもる。「いのち」に開かれていないからだ。わたしたちを解放するのは、自由にするのは、「あなた」、そして特にもっとも小さな「あなた」の「いのち」である。「わたし」が「あなた」に中心を譲る時、わたしたちは癒され、ゆるされ、解放される。

 わたしたちは、一人だけでは、決して解放されることはない。自分の利益だけを求めていると、いくらお金、権力、名声を得ても、「孤独」である。孤独な人は、自由にはなれない…

 「地元の病院」の待合室で、今日も、いろいろなことを考えている。人生は、いくつになっても、学ぶことに満ちている。もし、「謙虚に」「耳を傾ける」ことを知っているなら…。祈りつつ。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年10月13日

・【読者投稿】「小さな胸の内-片親のいない心の痛みを分かって…」

カトリック東京教区信徒 M.K.

 「父の日にお父さんはいない」―親を亡くした子どもの作文集(あしなが育英会)が手元に届いた。微々たる寄付だが子どもが小さい頃から続けている。

 この作文集、書いたのは小学生、中学生、親を早くに亡くした子が父( 母) の日について書いている。読みながら、かつての私と重なるところがいくつもあった。ずっとずっと昔のことであったが、私も同じような思いだったと甦ってきた。この作文を書いた子ども達も父( 母) を亡くし、小さな心に傷み悲しみをもっている。

 父( 母) の日にその主役がいない。学校では父( 母) への作文を書く、絵を描く、回りの皆は当たり前に書く。わたしは書けない。生きていた頃のことを思い出して書くけれど、回りの友や先生の同情はさらに心を傷めることになる。かわいそうね、私もかつて言われた。表現力のまだ乏しい子どものいたわりの言葉であろう。でも……私は悲しかった。

 昔、学校では母の日に造花のカーネーションを胸に付けた。今のように生花を買う程社会は豊かではなかった。母が居ない私は白のカーネーションだった。白を付ける子は殆ど居なかった。寂しく、孤独にも思った。こんなことしない方がいい。だけど私には付けないという勇気もなかった。恐らく、その後じきにカーネーションを付けるということは無くなったように思う。白を付ける子の気持を汲むようになったのだろうか。

 作文では、遺された片親に気遣う優しさを子ども達は持つ。片親になり、その親の大変さを感じ取り、思いやる子ども。私もそうだったと思う。子ども心にも少しでも親を支えようとあまり甘えない。

 父( 母) の日は寂しい。友人はプレゼントの話をする。作文は書かなくていいとか、ばあちゃんのことを書いたら?などと言われる。ちょっとした言葉も辛くなる。授業参観も寂しい、と小さな胸を締めつける。

 これらのことはかつて私はどうだったか、忘れてしまった。父( 母) の日の授業参観は無かったかもしれない。

 母が亡くなって……遠足の日は新しい服を用意してくれていたが、自分で有る物の中から考えて着て行った。

 髪をいつも母が結んでくれていたが、親戚の家に行き、伯母の「誰が結んだの?」という問いかけに「私」と答える。「そう、上手に結べているわね」と言ってくれたが、私が結ぶしかないでしょ、と心の中で叫んだ。悲しかった。

 父の遠縁の人が一年ほど居てくれた。「お姉さん」と呼んでいた。でも母とは違う。今ではとても有り難かったと思う。

 八歳で亡くなったので、母がしてくれたことは覚えているが、母の気持、心の中のことまでは分からない。

 母に叱られて障子におかあさんのバカと書こうとして「おかあさん」までしか書かなかった。私はおとなしい子だった。しかし母亡き後、その障子に書いた「おかあさん」を目にする度に悲しくなった。

 母は最期に救急車で運ばれて行った。とても長い間、救急車を見たり、サイレンを聞いたりする度に、この救急車で運ばれている人が助かって欲しいと心の中で願っていた。

 母亡き後、弟が居たこともあり、悲しみを抑えていたのだと思う。私がしっかりしなくてはと幼な心に思っていたのだろう。この抑えたままの悲しみはずっと胸の内に持ち続けていた。クリスチャンになってやっとそのことに気付いた。三十数年も経っていた。牧師先生にその悲しみをイエス様に癒してほしいと、祈ってもらった。悲しみ、苦しみの癒やしはイエス様に願うのが一番の近道だから。

 二度目の母と衝突すると、どうしてお母さんは死んじゃったの?と一人泣いた。死ななかったらこんな悲しみは無かったのに、とすら思っていた。

 娘が生まれた時、この子が二十歳になるまでは私は生きなければと思った。今その倍生かされていることに感謝している。

 時代は変わっても、親を亡くした子どもの悲しみは同じだとつくづく思った。今では心のケアもよく考えられるようになった。あしなが育英会は奨学金が始まりだったが、心のケアにも力を入れている。阪神淡路大震災では五七三人もの子どもが遺児となった。その四年後、神戸に初めてレインボーハウスが海外、国内からの寄付により創られ、続いて東京日野にもできた。東日本大震災では二千人を超える子ども達が遺児、孤児となり、東北にも三か所開設されたという。これは遺児達にとって大変良い場となっている。

 サンドバッグがある「火山のへや」、みんなで語り合う「おしゃべりのへや」、「あそびのへや」、静かになれる「おもいのへや」、創作や絵を描く「アートのへや」、があるようだ。

 心の内にしまい込み、悲しみを言い出せない子。そこに集まった子たちは皆同じ境遇であることで、誰かの話を聞いた子が、安心してポツリ、ポツリと話し出す。ここではスタッフも元遺児のようだ。皆が共感しあえる。このような場が創られたことは大変有り難い。
心の内が次第に楽になっていくことだろう。「時間の経過だけでは悲しみは小さくならない」と、レインボーハウスのスタッフは言う。

 あしなが育英会は、初めは交通事故の遺児への奨学金のために玉井義臣さんが中心となり創られた。ご自身は母親を交通事故で亡くされていた。その後尽力の末、国に移管され交通遺児育英会となった。あしながでは災害遺児、病気遺児、自殺遺児と次々と支援を広めている。

 私も大人になるまで、母が小さい頃亡くなったこと、二度目の母のことをなかなか人に話せなかった。回りはまだ母親が健在の人が多かったことや当時二度目の母に心を閉ざしていたことがあったからだろう。レインボーハウスがその頃あったなら、そこに行ったかも知れない。しかし、幸いにも私にはその後、イエス様との出会いがあった。

 子どもにとって、親は自分を守ってくれる人である。親の離婚もそうであるが、片親が居ないということは、子にとって大きな不安であり、心の痛みである。このような子ども達に、社会はもっと配慮していって欲しいと願う。

2018年10月12日

・菊地大司教の日記㉞真生会館感謝の集いーさらなる信仰養成と学びの場に

2018年10月 6日 (土)

 信濃町にある真生会館が、新しい建物になってから二年。6日の土曜日の午前11時から、二周年を記念して感謝ミサが捧げられました。

  新しいビルの四階には聖堂がありますが、感謝ミサに集まったすべての人を収容するには小さすぎます。そこでミサは、三階のネランホールで行われ、私が司式し、森司教と福島一基師が共同司式してくださいました。

Shinseikaikan1801_2

Shinseikaikan1804 信濃町にある真生会館が、新しい建物になってから二年。本日10月6日の土曜日の11時から、二周年を記念して感謝ミサが捧げられました。

 新しいビルの四階には聖堂がありますが、感謝ミサに集まったすべての人を収容するには小さすぎます。そこでミサは、三階のネランホールで行われ、私が司式し、森司教と福島一基師が共同司式してくださいました。

 

 真生会館には長い歴史があります。ホームページに掲載された理事長の森司教の言葉には、次のように記されています。

 「真生会館が、産声を上げたとき。それは、今から80数年前の1934年。日本全体が軍国主義一色に覆われて行った日本社会に、キリスト教的な価値観に根ざした若い人々の育成の必要性を確信した岩下壮一神父によって、財団法人聖フィリッポ寮として誕生しました」

 1952年からは、学生寮を廃止して、信仰養成の学びの場として真生会館となり、さらに新たな生涯学習の場として、現在の建物での活動は2年前から始まっています。定期的に様々な講座が開かれており、東京教区のみならず関東一円の、信仰養成と学びの場として、重要な役割を果たしてくださっています。

Shinseikaikan1806 神のみ言葉は教会内外の至る所に種まかれていますが、その種がふさわしく健全に育っていくためには、教会共同体の積極的な関与が不可欠です。その意味で、真生会館にかぎらず、信仰の継続養成は不可欠です。それは、一人個人の信仰を深めることに留まるのではなく、教会共同体全体の一致と、その一致がもたらすあかしの働きを深め、社会の中で福音を生きるあかしの共同体を実現するために、欠かすことができません。これからの真生会館の活動と、福音宣教への貢献に期待しています。

 ミサ後、懇親会を挟んで、午後1時半から講演をさせて頂きました。わたし自身のアフリカでの宣教師の体験と、それに続く新潟での体験などから、現代における福音宣教の可能性についてお話しさせて頂きました。(写真は歌っているわけではなく、話しているのです)

Shinseikaikan1803 祈りあい、分かちあい、学びあい、支えあう教会共同体は、必ずや福音を宣教する共同体へと育っていきます。一つの体の部分として、それぞれが与えられた使命に気がつき、自らの役割を忠実に果たしながら、信仰における一致のうちに、福音を告げ知らせる共同体をそだてていきたいと思います。

 さて報道されているように、バチカンではシノドス(世界代表司教会議)が始まっています。今回は「若者、信仰そして召命の識別」をテーマとして、代表の司教たちが青年たちの声に耳を傾けるところから会議が進められているようです。日本の教会からは、札幌教区の勝谷司教が代表として参加しています。会議は10月28日まで開催されます。また、先日、司教任命に関する暫定合意が署名されたと報じられている中国からも、2名の司教が参加しています。(なお暫定合意については、具体的な内容がまだわかりませんので、今の段階では情報は提供できません)

 バチカンニュースによれば、開会のミサ説教で、教皇様は次のように述べられたと言うことです。

「若者たちは、彼らの尊厳ある人生の発展を妨げるすべてのものに対する戦い、創造性・知的な大胆さ・情熱・希望に満ちた献身を、わたしたちに望んでいると述べた教皇は、若者たちの人生を脅かし、そのビジョンを曇らせる死の商人たちの手に、彼らを委ねたままにすることはできない、と話された」

 様々な意味で危機に直面している教会は、これまでの歩みを真摯に振り返り、将来の世代を担う若者たちの声に耳を傾けながら、よりよい道を選び取って行こうとしています。東京教区でも、同じようにできるだけ多くの若者たちの、国籍を超えた若者たちの声に、教区全体が積極的に耳を傾けることができればと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(「司教の日記」より許可を得て転載)

2018年10月7日

・菊地大司教の日記㉝20回目の新潟教区信徒大会を秋田・大潟村で一泊二日

2018年9月30日 (日)第20回新潟教区信徒大会@秋田

 第20回目となる新潟教区の信徒大会が、9月29日と30日、秋田県の大潟村で開催され、新潟教区各地から170名以上の方々が参加してくださいました。大潟村というのは、八郎潟の干拓地で、広々とした干拓地の一角にあるホテルサンルーラル大潟が、今回の信徒大会の会場となりました。

Kyokutaikai1804 新潟教区は、秋田県、山形県、新潟県の三県からなる教区で、南北に非常に長く、南の端の糸魚川から北の端の大館までは、距離にして560kmにもなります。これをすべて自動車で移動すると、8時間強。鉄道の便も非常に悪い。

 そんな南北に長い教区ですから、なかなか教区全体の行事というのが企画しにくいのです。そこで、3年に一度に絞り、各地区持ち回りで、教区全体の信徒大会を開催しています。今回はその20回目。秋田県が担当でした。

Kyokutaikai1805 教区全体では、統計上は七千人は信徒がおられるので、今回参加した170名は、本当にその一部でしかありませんが、しかし今回は、一番南の端の糸魚川からも、信徒の方々がバスに乗って駆けつけてきてくださいました。全部で30ほどある小教区のうち、21の小教区から代表が参加。

 信徒大会は、昨日午後の基調講演で始まりました。今回のテーマは「愛のよろこび」。もちろん教皇フランシスコの使徒的勧告の表題です。基調講演は、私が務めました。

 その後、小グループに分かれて分かち合い。夕食は懇親会で、各県からの歌や踊りの披露となりました。

 日曜は、まずそれぞれの地区から、都合4名の方が、自らの信仰体験について分かち合ってくださいました。そして最後は派遣ミサ。

Kyokutaikai1803台風も近づいていたこともあり、山形や新潟方面にバスや車で戻る方も多数おられたので、大会は11時半で終了。帰途につきました。 私は、東京まで飛行機で帰る予定でしたが、結局台風のため欠航に。急遽、秋田新幹線で戻りました。

 3年に一度であり、また全員が参加できるわけではないのですが、こういった教区全体の代表が集まって分かち合い、交流を深める大会は、とても大切だと思います。これに参加した個々人が、自分だけのよい思い出として心にしまい込むのではなく、ご自分の小教区に戻ってから、大会で心に残ったことを分かち合ってくださることを期待します。共同体の中での信仰体験の分かちあいから、わたしたちの福音宣教始まります。

 準備してくださった、秋田地区の皆さん、ありがとうございました。東京教区でも、こういった信徒の交わりの集いを、実行してみたいと切に思います。東京教区の皆さん、いかがですか?

(評論)このような行事は、東京教区でも白柳枢機卿・大司教、森補佐司教のもとで、第二バチカン公会議と全国福音宣教推進会議の精神を受けて作られた「生涯養成委員会」(今あるものとは別)で、行われていたものに近い。生涯養成委員会には3グループ、40代から50代の20数人の信徒それに数人の若手司祭がスタッフとして、各小教区から自由意思で集まり、毎月全体会議、グループ会議を開いて企画を立て、東京教区の全信徒を対象に「一泊交流・分かち合いの会」「日帰り黙想会」「教会運営に関する連続講演会」、さらに、特別企画として連続講演会「第二バチカン公会議と私たちの歩むべき道」を開催し、信徒たちの精神的、実質的な意識向上、小教区での具体的な活動に大きな成果を上げてきた。生涯養成委員会の活動は1990年代に10年以上にわたって続けられたが、大司教、補佐司教の交替とともに委員会のスタッフたち関係者に全く何の説明も、通告もなく、カテドラルに置かれていた事務局もろとも”消滅”させられた。その後、このような東京教区挙げての信徒の恒常的な活動はなされていない。別ものの”生涯養成委員会”はあるようだが、小教区にその活動はほとんど知らされず、構成員がどのように選ばれ、どのような方がいるのかも定かでない。そのような経過を知ったうえで、どうするのか。当時のスタッフも高齢化し、どのように再び行動を起こせばいいのか。40代、50代の信徒にかつてのようなこうした活動への熱意をどの様に呼び起こすか、課題は少なくない。(「カトリック・あい」南條俊二)

2018年10月4日

・Sr.阿部のバンコク通信㉕仏教寺院で奉仕活動する尼僧がカトリックに受洗!

   タイは仏教の国、僧侶や尼僧の姿を普段に見かけます。人々は親しく「メーチー」と呼んでいます。私たち修道者も一般人から「メーチー」と呼ばれます。

 私たちのセントマイケル教会に、ある平日の夕方、メーチーがミサに与り、友人信徒と一緒にご聖体拝領の列に加わったのです。主任司祭が躊躇して事情を訪ねてましたが、ご聖体を授けました。

 剃髪した尼僧姿なので、皆んなびっくりしました。主任のドミニコ神父が「ミサに与るだけでなく、ご聖体拝領するなら、躓きを避けるために尼僧の姿を何とかするように」と言ったようで、それ以来、自分でデザインした写真の様な姿で教会に来るようになりました。もちろん教会に来る時のみ。

 その後、頻繁にミサで出会い、メーチー・モーと親しくお話しするようになりました。仏道に励み、その道に詳しく、会話内容が深いです。

 そして、メーチー・モーはカトリックの教えに惹かれ、司祭から要理を学び受洗したのです!

 仏教寺院で奉仕活動を続けているため、普段は尼僧の姿のままで活動していますが、カトリック信徒として私的に誓約し、修道の道を生きているとの事でした。颯爽と車を運転して教会にやって来ます。

 9月29日、セントマイケル教会のお祝いのミサで久々に会い、写真を撮りました。仏教国のとっておきの福音の喜び実話。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2018年9月30日

・三輪先生の現代短評①全体主義の台頭許すべからずー個人主義のサムライ文化振起すべし

 昨日、封切り日の朝一番に、映画「散り椿」を観てきた。感動した。

 葉室麟原作の映画化である。今日の世相へ「個人主義」の一針を突き立てたものと感じた。「全体主義」の足音への知的批判と読めた。

 手元に『危機の時代と「知」の挑戦』と題する上下2巻本がある。中野晃一、村上雄一など海外の大学で研鑽した者を含み当代を代表する社会科学者による時宜をえた著作である。本書を企画した長谷川雄一は編著者を代表してこう記している。

 「日本がそして世界があてどなく『漂流』し続けているともいうべき今日の危機的状況において社会科学を生業にしている者は如何にこの状況を分析解明しそれに立ち向かうべきなのかというのが、本書のテーマである。

 端的に言って、最大の関心事は「全体主義」の澎湃とした台頭にどう立ち向かうのかということにある。

 サムライ文化の中の「封建主義」的自己犠牲は排除し、全体主義に果敢に立ち向かうサムライ文化を振起したいものである。   (2018 9 29記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

2018年9月29日

・Sr.石野の思い出あれこれ③初めて修道院の門をくぐったころ-洗礼を受けるか迷う

 今から60年以上も前、初めて修道院の門をくぐったころの前々回の話に戻る。

 修道院に行くのに遠慮する必要はない、と分かったわたしは、それからたびたび足を運んだ。お玄関を入っても緊張しなくなった。受付のシスターにご挨拶をして、いつもお話を聴く部屋に通った。

 どんなときにもやさしく、笑顔で迎えてくださるシスターがわたしは大好きだった。修道院の雰囲気にも環境にも慣れ、「公共要理」とやらのお勉強も順調に進んでいた。今までキリスト教のキの字も知らなかったわたしの頭の中に毎日毎日新しいことが飛び込んでくる。すべてが新しく、新鮮だった。でも理解に苦しんだこともたくさんあった。

 そんな私の心を察したのか、シスターが言われた「これは奥義です。人間の知恵で理解することはできません。ただ信じるのです。信じればよいのです」。

 素直にシスターの言葉に従った。でも、復活の話になった時は、そう単純に信じられなかった。亡くなった人が生き返るなんて・・・ある日、信じられない苦しみを胸に、暗くなりかけた道を「どうしたらよいのだろう」と考えながら一人で歩いていた。

 その時、ふと、面白い解決策が頭に浮かんだ。

 シスターはスペインの外交官の娘、毎週修道院に通って来られる神父様はウイーン出身のピアニスト。あの方たちがすべてを捨て、いのちをかけて信じていることがもし本当なら、たとえ、わたしが疑ったとしても、真理は真理として動くことなく存在する。疑うわたしが愚かなのだー未熟で単純な”解決策”だけど、それで納得がいって、心が軽くなるのを感じ、足取り軽く家路を急いだ。

 その頃、修道院には若い女性がたくさん通っていた。公共要理のお勉強が主だった。勉強がひと通り終え、受洗を希望する人が次々と洗礼を受けていた。

 わたしの勉強も終わりに近づいたある日、シスターがおっしゃった。「次に洗礼を受けるグループには石野さんも入れましょうね」。

 わたしはぎょっとした。洗礼のことは一応考えてはいたけれど、まだまだと思っていたし、未だ決心がつきかねていた。洗礼を受けたら一生涯クリスチャンでいなければならない。毎日曜日に教会に行かなければいけない。他にも、カトリックになれば、いろいろ守る掟がある。そんなこと絶対に出来ない、と考えていた。家は、特に父は熱心な仏教徒、死ぬまであるお寺の会計監査役をしていた。そんな両親がわたしの洗礼を許してくれるはずがない。それ以上に、わたしの気持ちがまだ固まっていなかった。

 あまりにも急なシスターの言葉に「洗礼を受けることは、母が赦してくれないと思います」と答えて、一応妥当な返事をしたつもりでいた。ところが、シスターは「洗礼を授けるのは、あなたのお母様ではありません。神様です」と返してこられた。

 これには二の句が継げなかった。シスターはわたしも洗礼を受けることを考えていらっしゃるのか、と思うと憂鬱になった。どうしよう。それでも修道院に通うのを控えることは出来ず、それまで通り、週に二回、ときには三回通った。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

 

2018年9月28日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風㉝教皇フランシスコの聖母巡礼地・アグロナでのミサ

教皇フランシスコのバルト3国訪問中の 24日、ラトビアの聖母巡礼の中心地、アグロナ でのミサが感動的でした。試訳でお届けします。(小見出しも)

「あなたが母であることを示してください!」

十字架のもとに立つ母 わたしたちは、こう言うことが出来るでしょう:聖ルカが使徒言行録の最初に語っていることが、今日、ここで繰り返される、と。わたしたちは、深く結びつき(一致し)、祈りに専念しています、わたしたちの母、マリアと共に(1 14参照)。今日、わたしたちは、この訪問のモットーをわたしたちのものにしましょう:「あなたが母であることを示してください!」“Mostrati Madre! Show yourself as Mother! ” 母よ、あなたが「マニフィカト」を歌い続けている場所を、わたしたちに示してください。

わたしたちに、あなたのみ子が十字架につけられている場所を示してください-わたしたちが、十字架のもとで、あなたの堅固な存在と出会えるように-。カナの婚礼と、十字架のもと ヨハネの福音は、イエスの生涯が、彼の母の生涯と交差する、ただ二つの時だけを語っています:カナの婚礼(2 1 12参照)と、今、聞いたばかりの、十字架のもとの母(19 25 27参照)。

ヨハネの福音書は、人生の、一見して反対の状況の中で、わたしたちにイエスの母を示そうとしたとも言えるでしょう:婚礼の喜びと、子の死のための苦しみ。わたしたちが、「みことば」の神秘の中に深く入り込むとき、「みことば」はわたしたちに、主が、今日、わたしたちと共に分かち合うことを望んでいる「善い知らせ(福音)」が何であるかを示します。
「しっかりと(堅固に)立っていた」

福音作者が強調する最初のことは、マリアが、彼女の子の傍らに、「しっかりと(堅固に)立っていた」“saldamente in piedi”ということです。

気楽な方法で立っているのでもなく、あいまいでも、ましてや臆病な方法でもなく。マリアは、断固として、十字架のもとに「釘づけにされて」います。彼女の体の姿勢をもって、何も、誰も、彼女をあの場所から動かすことは出来ないことを表現しながら。

マリアは、世界中が避けている人々の傍らに、ご自分を示すマリアは、先ず、このように ご自分を示します :苦しんでいる人々の傍らに、世界中が避ける人々の傍らに、告訴された人々、すべての人々から糾弾された人々、追放された人々の傍らにも。抑圧され、または搾取されただけでなく、直接、「システムの外に」、社会の縁にいる人々の傍らに(使徒的勧告『福音のよろこび』53項参照)。彼らと共に、母もいます-無理解と苦しみの十字架の上に釘付けにされて-。

マリアは、持続的に、傍らに留まることを、わたしたちに示す

マリアは わたしたちに示しています この現実の傍らに立つ方法をも ちょっとした散歩や、短い訪問、ましてや「連帯のツアー(観光)」をするのではなく。

苦しみの現実を耐えている人々が、わたしたちを、彼らの傍らに感じること、彼らの側にいると感じること-断固とした、持続的な方法で-が必要です;社会の「廃棄された人々」がすべて、繊細に(思いやりをもって)近くにいるdelicatamente vicina「母」の経験をすることが出来ます―なぜなら、苦しんでいる人の中に、彼女の子イエスの開かれた傷が続いているから―

マリアは、それを、十字架のもとで学びました。わたしたちもまた、人々の苦しみに「触れる」よう呼ばれています。わたしたちの民に会いに行きましょう。彼らを慰め、彼らに寄り添うために;わたしたちは、「やさしさの力」を経験すること、他の人々の生活に巻き込まれ、面倒になることを、恐れません(同上、270項参照)。

そして、マリアのように、堅固に、立って、留まりましょう:神に向けられた心をもって、勇敢に。転んだ人を再び起こし、みじめな人を慰め、彼らを、十字架につけられた者たちのようにしている、あらゆる抑圧の状況を終わらせるよう、助けながら。

マリアは、わたしたちを「子」として受け入れる

マリアは、イエスから、愛する弟子を、彼女の子として受け入れるよう招かれました。福音箇所はわたしたちに、彼らが共にいたと語っています。しかしイエスは、互いに受け入れ合わなければ、十分ではないと気付きました。

なぜなら、ひじょうにたくさんの人々の傍らにいることは出来ます、同じ住まい、地区、または仕事を共有することさえ出来ます;信仰を共有し、同じ神秘を観想し、享受することが出来ます。しかし、受け入れることなしに、他者を 愛をもって受け入れようとせずに。

どんなにたくさんの夫婦が、近くにいながら、共にいない彼らの物語を語ることが出来るでしょうか;どんなにたくさんの若者たちが、大人たちに関するこの隔たりを、苦しみをもって感じているでしょうか;どんなに多くの高齢者たちが、冷たく世話をやかれていると-愛情をもって気遣われ、受け入れられているのではなく-感じているでしょうか。

マリアは、赦しに開かれた女性としてご自分を示す

わたしたちが他の人々に開くとき、時に、それがわたしたちをひじょうに傷つけることがあるのは、本当です。そしてまた、わたしたちの政治的現実において、民の間の衝突は、まだ痛ましくも生々しいことは本当です。

マリアは ご自分を示します 赦しに開かれた女性、怨恨(えんこん)、不信をわきに置く女性として マリアは、もし、彼女の子の友人たちが、彼女の民の祭司たちが、「こうすることが出来たら」、または、政治家たちが、異なる方法でふるまったなら、と非難することを放棄します。マリアは、欲求不満(フラストレーション)、または無気力に勝たせるに任せません。

マリアは、イエスを信じ、弟子を受け入れます。なぜなら、わたしたちを癒し、わたしたちを解放する関係は、他の人々との出会い、兄弟愛にわたしたちを開く関係だからです。そのような関係は、他者の中に、神ご自身を見出すからです(同上、92項参照)。

Sloskans司教の言葉

ここに眠っているSloskans司教は、捕らえられ、遠くに連れて行かれた後、彼の両親に書いています:「あなた方に、わたしの心の奥深くからお願いします:復讐、または絶望が、あなた方の心の中に開かれるままにしないでください。もし、わたしたちがそれを許すなら、わたしたちは本当のキリスト者ではなく、狂信者となるでしょう」。

わたしたちに、他の人々を信用しないよう(警戒するよう)招き、統計をもって、わたしたちに、もしわたしたちが一人でいるなら、より繁栄を得、より安全だと示そうとしているメンタリティーが戻って来たように見える、今の時代において、マリアと、この地の弟子たちは、わたしたちに、受け入れ、兄弟について、普遍的兄弟愛について、再び賭けをするよう、招いています。

マリアは、受け入れられるに任せる女性としてご自分を示す

しかしマリアはまた ご自分を示します 受け入れられるに任せる女性として、弟子に属する物事の一部になることを、謙虚に受け入れる女性として。

あの、ぶどう酒がなくなった婚礼―喧嘩に満ち、しかし、愛と喜びに欠けて終わる危険とともに―の中で、イエスが彼らに言うだろうことを行ってくださいと命じたのは、彼女でした(ヨハ2 5参照)。

今、マリアは従順な弟子として、受け入れられ、変えられ、より若い者のリズムに自らを順応させるにまかせます。

いつも、調和は苦労を要します:わたしたちが異なるとき、年月、歴史、状況が、わたしたちに、一見して反対であることのように見えることを 感じ、考え、行なうように仕向ける時。わたしたちが、受け入れなさいという命令、受け入れられなさいという命令を 信仰をもって聞く時、違いにおける一致を形づくることが可能になります。

なぜなら、違いは、わたしたちにブレーキをかけることも、わたしたちを分裂させることもせず、わたしたちは、さらに向こうを見つめることが出来るから、他の人々を、彼らの、より深い尊厳において見ることが出来るから―同じ「御父」の子らとして(福音的勧告『福音のよろこび』228項参照)。

このミサ聖祭の中で-あらゆるミサ聖祭の中でのように-、わたしたちはあの日の記念を行います。十字架のもとで、マリアはわたしたちに思い起こします:マリアの子らとして認められたことの喜びを。そして御子イエスはわたしたちを招きます:マリアを家に連れて行くことを、マリアを、わたしたちの生活の真ん中に置くことを。

マリアは、わたしたちに与えることを望んでいます:堅固に立つために、彼女の勇気を;歴史のあらゆる時の座標軸に、自らを順応させるにゆだねる、謙虚さ(へりくだり)を;そして、彼女の声を上げます-この彼女の巡礼地に、わたしたちすべてが、差別無しに、集まるよう努力するように。そして、ラトビアにおいて、わたしたちすべてが、より貧しい人々を優先し、倒れた人々を再び起こし、到着し、わたしたしたちの前に現れる他の人々を受け入れる心構えが出来ているように。

ミサの終わりに-感謝-

愛する兄弟姉妹たち、この祭儀の終わりに、あなた方の司教の言葉に感謝します。また、さまざまな方法で、この訪問のために協力したすべての人々に、心からありがとうを言いたいのです。特に、ラトビア共和国大統領と、各界代表の方々の歓迎に、心からの感謝を表します。

この「マリアの地」で、神の聖なる母に、特別なロザリオを捧げます:おとめマリアが、あなた方を守り、あなた方につねに寄り添ってくださいますように。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年9月28日 | カテゴリー :

・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑭イスラーム時代の世界をリードした高度な科学知識 

  今回はハーフェズの生きざま、時代背景や環境、その詩的人生を紹介する最後として、イスラーム時代の科学知識について触れておく。

 イスラームというと今は、ヘジャーブ(女性の髪や顔、肌さらには身体全体を覆う)や断食など宗教儀礼の一部やイスラーム過激派のことがすぐに浮かぶが、その歴史は栄光に輝く。

 イスラーム生誕後(7世紀)、8世紀には、バグダード(現在のイラク)を首都とするイスラーム帝国が樹立され、宗教の拡大に合わせて、文化、商業、科学・技術を発展させて世界の中心となる。イスラームを生み出したアラブ人のみならず、征服されてイスラームを受け入れたペルシャの世界も、科学知識の発展に大きく貢献した。

 当時のイスラーム世界の科学・知識の水準は世界の最先端であった。占星術・天文学、化学、数学、神学、哲学、論理学、文学・詩など輝かしい発展を遂げ、またギリシャ哲学やその科学的知識を積極的にアラビア語に翻訳した。イスラーム世界の学問とともに、アラビア語訳されたギリシャの哲学が、その後西洋に逆輸入されて、その復興(ルネサンス)に深く貢献した。

 ハーフェズの関心は、神すなわち見えざる世界とのかかわりであり、それを中心に据えた人の生き方として、イスラーム教の神秘主義の道を実践する人生であった。ハーフェズの名前そのものが、イスラームの聖典「コーラン」を暗唱する人を意味し、また詩人として「見えざる世界の舌(語る人)」と評された。同時にハーフェズは、一級の知識人であり当時の科学知識も教養の一端とし、それが詩の中にも垣間見ることができる。

 「我々の存在は謎である。ハーフェズよ、研究したところで無駄である。無駄」と歌うのは、コーランや神学を懸命に学び研鑽しながら、それで神を体得できるわけではないことを自覚しているからであり、あるいは、「我が知識の集積はすべて葡萄酒で洗い流そう。宇宙は我々の知ったかぶりに復讐する心はコンパスのようにあちこちに動き回る。 しかし結局、固定された円の内にとどまっている」と語り、あたかも科学・知識を否定するがごとくであるのは科学知識では神の世界を捉ええないことをはっきりと認識していたからである。

 むしろここでは、宇宙、コンパス、円といった言葉が用いられていることに注目したい。ハーフェズの科学知識に対するレベルを示すものであり、現代の詩歌で用いられても全く遜色のない言葉である。

 また、「幸せの錬金術は友である。友に限る」と言って錬金術に言及している。

 錬金術は価値のない金属から金を作り出そうとする術であるが、ローマ・ギリシャ以来重要な科学技術の一分野であり、ハーフェズの時代でも立派な科学であった。その後そのようなことが不可能であることは明らかになったが、ありきたりの金属を金に変えようとする努力は現代の化学の基礎になった。

 ハーフェズが内外(ペルシャ・アラブ)の文学に広く通じていたことも、ハーフェズの詩の中で「コーラン」とともに引用される多くの文学上のエピソードから知られることであるが、同時に言葉の専門家として、「意味は言葉ですべて言い尽くすことはできない。大海が入れ物に収まらないように」と言葉の限界を巧みに科学的に表現している。

 イスラーム世界は、ヨーロッパ文明がルネサンス、地理上の発見、産業革命を経て世界をリードするまでの間、世界の科学技術の発展に大きな役割を果たした。ハーフェズはそんなイスラーム世界の一級の知識人であった。

 次回からはいよいよ、筆者が毎日暗唱し自らの生き方の指針としているハーフェズのいくつかの詩の断片を、その詩全体とともに紹介する。

(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)

(駒野欽一=元イラン大使)

2018年9月27日

・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」㉔ 届けたい音がある

 和太鼓の音に魅入られている。

 はじまりは2010年秋、縁あって訪れた国際基督教大学(ICU)の大学祭。同大学の和太鼓部によるパフォーマンスを目の当たりにした時のことだ。青空の下、校舎をバックにした緑の芝生の上で、高らかに響きわたる太鼓の音を聞いて驚いた。このICUでは、和太鼓部の演奏が大学祭プログラムの人気投票で毎年のようにトップを占めるというから、彼らのバチさばきと人気のほどはご理解いただけるだろう。

 あれから毎年のように和太鼓の演奏会やワークショップなどに足を運ぶようになって9年。聞く側の楽しみは色あせない。古来、「五穀豊穣」や「無病息」を祈る際に打ち鳴らされることが伝統の和太鼓だが、最近は災害からの復興支援をうたい、被災者へエールを送ることを主眼に演目が組まれることも多くなった。

 被災地・被災者の支援を主眼に置く和太鼓の演奏会が本格化したのは、1995年に起きた阪神大震災が契機と言えそうだ。各地の催しを振り返ってみる、この震災の翌年以降、神戸市などで地元の和太鼓集団が復興を誓う演奏会が毎年続けられるようになっている。

 そうした中で2000年6月、伊豆諸島・三宅島で雄山が噴火。全島避難で多くの人々が島を離れることを余儀なくされた。三宅島といえば、江戸時代から伝わる「三宅島神着神輿(かみつきみこし)太鼓」で知られる。「三宅太鼓」の通称で親しまれるこの太鼓の演奏は、低い姿勢から体全体を使って打ち込むスタイルと、聞く者の体に響くような音で和太鼓ファンの大きな人気を集める。

 島の噴火を機に都内へ移り住んだ元島民が三宅太鼓の普及に努めたり、著名な太鼓集団が三宅島支援の募金活動やチャリティー演奏会を開催したりするなどの活動を展開。災害からの復興支援と和太鼓演奏は、結びつきを一層強める形となった。「がんばれ」「くじけないで」「私が応援している」という思いがこもった和太鼓の演奏は、聞く者の心に強く響くものだ。

 病を押してステージの出演を目指す人たちを医療的な側面からサポートする女性医師の物語<ステドク>シリーズの第5話「届けたい音がある」を9月22日発売の小説現代10月号に発表した。

 今回の物語では、病床にある大切な人の回復を祈りつつ懸命に三宅太鼓を打つ奏者の姿を描いた。「がんばれ」「くじけないで」「私が応援している」と2
いう太鼓の音を文字で表現するのは、とても難しいが刺激的な体験だった。

 西日本を中心に全国の広い範囲で記録した集中豪雨、大阪北部と北海道を襲った地震、相次いで上陸した台風……。2018年は、災害の多い夏だった。ようやく季節が移り変わる時期を迎えたものの、今でも誰かが「がんばれ」「くじけないで」「私が応援している」と声を枯らしているはずだ。時には耳をすましたい。寄り添う思いを届けたい。

 (みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が、7月12日に文庫化されました。クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中)

2018年9月27日