・菊地大司教の日記㊾復活徹夜祭@東京カテドラル「暗闇の中で光を輝かせる勇気を」

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 みなさま、御復活おめでとうございます。

 関口教会では、土曜日の午後7時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた復活徹夜祭において、23名の方が洗礼を受けられました。また2名の方が転会されました。受洗されたみなさま、おめでとうございます。これからも教会共同体の一員として、歩みをともにしてまいりましょう。

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 以下、本日の説教の原稿です。

 私は司祭職のはじめから長年にわたって、いわゆる途上国に関わって参りました。司祭としての最初の任地はアフリカのガーナでしたし、帰国してからは教会の国際的援助組織であるカリタスの業務に関わり、多くの国々を視察などで訪れる機会がありました。その援助活動や宣教の現場で、様々な形をとって具体化している貧しさの現実を目の当たりにしてきました。

 貧しさはどちらかと言えば相対的な概念ですから、比較が難しいのですが、それでもいったいどうやって生命をつないでいるのだろうと危機的に感じる貧しさの現実が、確かにあります。絶対的な貧困といえば、たとえば世界銀行は一日の生活を1.9ドル未満で過ごす人たちのことだとしています。世界ではいま7億人ほどの方々が、そのような状況の中で、毎日の生命をつないでいると言われます。

 世界第三位と言われる経済大国である私たちの国でも,貧しさはいま大きな問題となっています。確かにアフリカの現実とは異なり、困窮している現実がはっきりと目に見える形ではないのかもしれません。しかし社会の現実はどうでしょう。全体との比較の中で相対的な貧しさのために、教育や就業の機会が奪われていたり、医療や社会保障が十分に受けられなかったり、頼る人がおらず孤立していたりと、貧しさに起因する困難な状況は枚挙にいとまがありません。そして私たちの国で、生命の危機に直面する人は、いまや例外的存在ではありません。

 インターネットで貧困について検索すれば,どこにでも判で押したようにこう記されています。「世界第3位の経済大国でありながら、日本には高い貧困率という問題が存在している。7人に1人が貧困にあえぎ、1人親世帯では半数以上が貧困に苦しんでいる」

 加えて、少子高齢化の進む中で人手不足が深刻化し、それを補う形で多くの外国籍の方が来日されたり、または生命の保護を求めて来日する方もある中で、厳しい労働環境や住環境、そして法規制という困難に直面しながら、十分な助けのない中で生命をつないでいる方々が増えているという事例は、もう珍しいことではなくなりました。

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 日本の教会は、21世紀の初めから、人間の生命が危機に直面していると訴えてきました。その始めから終わりまで大切にされ守られなければならない人間の生命が、様々な社会の現実の中で危機にさらされている。しかもその解決を、個々人の責任として放置することは,さらなる生命の危機を生み出すと警告し続けてきました。

 障害のある人たちには生きる価値がないとする考えで殺人に走る人や、幼い子どもに虐待を加え生命を奪ってしまう親が存在することは,確かに許されないことですし衝撃的です。しかしそれは、一人加害者が特別な人物だったからではなく、社会に蔓延する生命への価値観そのものを反映した行動だともいえます。

 私たちはいったい何を大切にし、何を優先させて生きているのか。

 本日のミサで一番最初に朗読されたのは,人類創造を語る創世記でありました。そこにこう書いてあります。
「神はご自分にかたどって人を創造された。神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ,それは極めて良かった」

 完全な存在は唯一、神だけです。その完全な存在に限りなく似たものとして,人間の生命は創造されました。そこに人間の尊厳の根源があります。そして人間の生命を含め,すべての被造物は神の目に適うよいものであった。だからこそ神は被造物を,とりわけ人間の生命を限りなく愛されました。

 イスラエルのエジプト脱出の出来事も、そしてイエスの受肉と受難と死と復活も,すべてはその生命の誕生を原点として、神のあふれんばかりの愛といつくしみの結果としての救いの計画の中で実現してきました。

 この生命が、尊厳あるものとして現実社会の中で大切にされ、十分に生きられるようになることは、神が望まれることではないでしょうか。だからこそ私たち信仰者は、そのためにありとあらゆる手を尽くしていかなくてはなりません。危機に直面している生命を守る努力を続けなくてはなりません。

 第二バチカン公会議を契機として、しばしば「開かれた教会」という言葉が聞かれるようになりました。教会は内にこもっていてはいけない、社会に対して開かれていなければならない。それは組織論として、現実において生きる教会の取り組みを強化しようという以上に,信仰者一人一人に社会に開かれた信仰生活を求める回心の呼びかけでもありました。

 教皇フランシスコは,そこに留まらず、「出向いてく教会」であることを呼びかけます。とりわけ、貧困や困難のうちに生命の危機に瀕している人のもとへと、積極的に出向いていく教会であれと呼びかけます。門戸を開いて待っているだけではなく,その門から外へ向かって、社会の中心から離れている人たちのもとへと出向いていくことを求められています。

 その教皇様は、今年の11月頃には東京にやってこられるのですが、私たちはどんな教会の姿を教皇様にお見せするのでしょうか。

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 本日洗礼を受けられる皆さん。先ほど朗読されたエゼキエル書に、こう記してありました。

 「私はおまえたちに新しい心を与え、おまえたちの中に新しい霊を置く」

 洗礼を受けることによって、キリストともに古い自分は終わりを告げ、新しい自分の生き方が始まります。キリストと共に生きる人生の始まりです。共に生きるキリストが,いったい何を大切にしているのか、私たちがどのように生きていくことを望まれるのか、それを心にとめていなければ、キリストと一緒に生きていくことはできません。

 教会が社会の中にあって掲げることのできる希望の根源は、生命を守り抜くところにあります。一人一人の生命は、条件なしに,すべてに尊厳があり、神から大切な存在だと言われているのだということを、多くの方々に伝えていきたいと思います。教会は,社会の中にあって希望の光を輝かせる存在でありたいと思います。

 復活された主に、暗闇の中で光を輝かせる勇気を願いましょう。復活された主に、信仰における勇気を願いましょう。復活された主に、その死と復活に与り、新たな一歩を踏み出す、信仰における力を願いましょう。復活された主に、神の福音の光を照らし続ける忍耐の力を願いましょう。復活された主に、神のいつくしみを一人でも多くの人に分けていく思いやりの心を願いましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教・「司教の日記」より、ご本人の了解を得て転載)

2019年4月22日

・Sr.岡のマリアの風㊳ベトナム2泊4日出張の覚書

ベトナム出張覚書(2019年3月28日~31日)

 Sr.カリスタ(Sr.C) のお伴で、初のベトナム行き。第三修練期のため、Sr. アントニエッタ(Sr.A)が日本に一時帰ること、ベトナムの姉妹の初の終生誓願式があることなどを、教区の司教さまに報告に行くことが主な目的。日程調整が難しく、28日・木曜早朝に福岡発、31日・日曜未明にベトナム発・帰国という短い出張となる。

【3月28日(木)】
ベトナム行きが決まった時から、ホーチミン在住、パウロ会の山内神父 (Y神父)さまにお会いしたいと思っていた。わたしたちの日程が、かなりギリギリなので、無理かもしれない、と半ばあきらめていたところ、 出発前夜に、ベトナムにいるSr.ビビアンナ(Sr.V )から「ホーチミン空港から直接、神父さまを訪ねることが出来るかもしれない、住所と電話番号を教えてほしい」と連絡が入った。山内神父さまに、その旨メールする。28日出発前、山内神父さまから住所と電話番号を知らせるメールが来ている。急いでプリントアウトして、Sr.Vに連絡する。

 28日の早朝4時45分、Sr.マリア・テレサ(Sr.MT)の運転で修道院出発。高速道路がすいていたので、6時45分くらいには福岡空港に着く。チェックインも、搭乗手続きもスムーズ。福岡空港からホーチミン空港への直通便は週二回。飛行時間は、行きは5時間30分、帰りは4時間50分。ベトナム航空は、エコノミークラスでも 一人40kgまで預けられるとか。そういえば、皆さん、大きな荷物を預けている(乗ってみると、そんなに大きな機体ではないが、どこにそんなに荷物が入るのだろうか?)

 福岡空港8時50分発。九州はまだ肌寒いくらい。 ゲートの電光掲示板は、「ホーチミン 最高気温35度」と知らせている。機内はすいている。膝掛け毛布が、大きく厚いので暖かい。ベトナムとの時差は、マイナス2時間。ホーチミン空港、12時20分頃着。ひじょうに暑い。 今は乾期、湿気がない。Sr.Vが迎えに来てくれた。タクシーで、Sr.Vの寄宿舎―シャルトルの聖パウロ会修道会敷地内―に移動。

 共産国ベトナムでは、ベトナム戦争前からあった修道会は制服 (修道服)着用を許されている。わたしたちのように、新しい修道会は私服である(さらに、わたしたちは少人数なので、修道会としての国への登録手続きはまだ始めていない)。修道院の聖堂では、白い修道服のシスターたちが祈っていた。

 修道服着用を認められていないシスターたちは、使徒的活動 出版、教育、医療事業も出来ない。幼稚園や、無料の診療所などは、ある程度許されているらしい。ここシャルトルのシスターたちは、針灸の診療を無料で行っているそうだ。働く時は、白いベールに白いパンタロン。 さっそうとバイクに二人乗りして、出かけていく。 国際修道会は「外国からの資金援助がないと生活出来ない」のが現状とか。同時に政府としては、国際修道会を通して外貨が入れば国家収入になるので、それも容認の理由とか。

 Sr.Vの部屋に、ひとまず荷物を置き、パウロ会Y神父さまを訪問する。教えてもらった住所に来たが、修道院らしいものはない。神父さまの携帯に電話をすると、「分かりました、今、降りて行きます」とお店のようなところから階段を下りてくる。結構急な階段を上って二階へ。降りるときは滑り落ちそうだが、そのような「事故」は、まだない、と神父さま。

 一か月前に来たという、五島出身のブラザーと、若い神父さまも一緒に懇談。五月初めに、三年の任期を終えて日本に帰るY神父さまに、いろいろとベトナムの事情を伺う。教区のミサには、共同司式はせずに、信徒として預かるそうだ。ミサには、私服の公安警察が来ていて、説教の内容などをチェックしているので、外国人が共同司式をしていると、「あれは誰だ」ということになり、いろいろと調べが入るから。

 国も、外貨が入るというメリットがあるため、外国人神父、修道者たちの存在、普通は知らないふりをしているが、宣教活動をしたり、共産主義の批判をしたりすると、目を付けられ、国外追放となり再び戻ってくることは出来なくなる。パウロ会だけれど、出版やメディアを通しての福音宣教は出来ない。Y神父さまは、Sr.Vと同じベトナム語学校に通っていて、そこで海外からの宣教師たちと出会い、情報交換をするという。互いに自分が修道者であることは言わないけれど、一緒にいるうちに、だんだん分かってくるそうだ。Y神父さまは「将来、国の政治を担っていく若者たちの多くが、今、海外で勉強をしているので、ゆっくりではあるけれど、何かが、若者たちから変わっていくでしょう」と言っておられた。

 Y神父さまに修道院の中を案内していただき、聖堂、屋上にある食堂などを見せていただいた。Sr.Vの宿舎に戻り、荷物を取り、15時15分頃、姉妹たちの小さな共同体があるドンナイ省に向けて出発。約一時間の距離だが、交通渋滞時にはもっとかかるという。

 とにかく、猛烈な数の小型バイクが道を占領して走り、その間を縫って、トラック、車がクラクションを鳴らしながら走っているという感じ。お父さんが運転をし、お父さんの前には小さな子供が座り、その後ろに、赤ちゃん、お母さん…と、四人で乗っているバイクもある。転んだり、事故に会ったらどうするのだろう、とハラハラする。しかし、これが、ベトナムの通常の交通手段らしい(車を買うのは高いので)。

 共同体では、Sr.アントニエッタ Sr.A 、志願者二人、フェさん、ハーさんが、出迎えてくれる。 夕の祈り。ベトナム語の祈りは、音程が上がったり下がったり、歌っているように聞こえる。

 ドンナイ省は、人口の9割程度がカトリック信者だそうだ。多くの家の庭に、ご像が置いてある。み心(または、いつくしみ)のイエスさま、ヨセフさまのご像が多い 。Sr.Aが「ベトナムにはたくさんの問題があり、人々は苦しんでいる。だから、聖家族の家長であるヨセフさまへの信頼が深いのだと思う」と言う。

 ベトナムの朝は早いので、シャワーを浴びて、早めに休む。太陽光を使い始めたので、お湯が出るようになったそうだ(それまでは、水でシャワーをしていたとか)。タイルの上にマットレスのような布団を敷き、その上に寝る。虫対策のための大きな蚊帳を使う

【3月29日(金)】
ベトナムは、日中暑いため、早朝から一日が始まる。午前3時半起床、共同体の祈り。その後、畑を横切って、福音の光修道会の聖堂へ。この修道会は戦前からあったので、シスターたちは修道服を着ている。主に、貧しい子供たちの世話などを無償で行っていて、海外にある本部からの援助を受けながら生活しているそうだ。

 5時半ミサ、イエズス会の若い神父さまが司式。ミサの後、神父さま、修道院の院長シスターに挨拶。共同体に帰り、朝食。今朝は洋式で パンとコーヒー。とにかく果物と、畑からの野菜がふんだんに出る。健康的だ。メスのハムスターを飼っていて、名前は「フランシスカ 」。普段はカゴの中にいるが、午前中は畑に放し飼い。畑の野菜も食べるが、体が小さいので、害にはならない。けっこう、好き嫌いがあるらしい。

 7時半、共同体があるソンロク教区の、ヨセフ・ダオ司教さまに挨拶するために出発。国道一号、ベトナムの南北を横断する主幹道路を通る。混んでいる。8時半ころ、司教館に着く。温和なダオ司教さまと、一時間くらい懇談。Sr.Cが「わたしたちの修道会のとって、初めてのベトナムの姉妹たちの終生誓願式なので、時間が許せば来てほしい」とお願いする。「まだ予定が分からないけれど、考えてみます」と司教さま。

 この教区内には40の修道会があるらしい。「ベトナムで修道会として活動するには、さまざまな困難があるけれど、わたしに出来ることは喜んで協力します」と言ってくださる。五つの色のロザリオ(五大陸のために祈る)を、一人一人にくださり、最後に祝福をいただいた。司教さまの部屋の横にある小聖堂で聖体訪問をして、別れる。広い敷地に、神学校、司教館、大聖堂がある。神学生は現在、450人くらいとか。

 ダオ司教さまは、わたしが昔、ローマのウルバノ大学で宣教霊性学を勉強していた時の教授であり、同時に、シスターたちの寮のチャプレンだった。ベトナムでの迫害から逃れて、ローマで国際感覚を培った司教さまが、今も、完全には宗教の自由のないベトナムで、五大陸のロザリオをくださったことに、わたしは、何か深い意味があるような気がした。

 その後、再び車に乗り、司教座聖堂まで行き、敷地内の売店で買い物をする。修道院に帰り、昼の祈り、昼食。 酷暑のベトナムでは、昼食後、午後2時頃まで休む。2時から、ロザリオの祈り、いつくしみのイエスさまへの祈りがある。

 志願者の二人が、バイクで買い物に行き、サトウキビ100 パーセントのジュースを買って来てくれる。 少し緑がかっている。甘いけれど(当たり前だけど)さっぱりして美味しい。 わたしに飲ませたい、と、大きなココナッツの実も買って来た。「冷やした方が美味しい」と冷蔵庫に入れる。また、”MIT”という、初めて食べる黄色の果物。甘い。

 その後、Sr.Aのバイクの後ろに乗って、市場へ。バイクの「軍勢」と共に走る。 信号なしの道路に、クラクションが飛び交い、左折は殆ど無理やり(ベトナムは、車は右側なので、日本で言えば右折)。道の端では、逆流しているバイクも。「事故は起こらないの?」と聞くと、「よく起こるよ。特に、バイクとトラックの事故」とSr.A。市場からの帰りは、小学校が終わり、子供たちの下校時間とかち合い、迎えに来る親のバイク、ぎゅうぎゅう詰めのスクールバス、などで、狭い道はさらに大混乱。「これは毎日のこと」とSr.A。ベトナムの人たちの逞しさに感動 する。

 夕食の準備のため、Sr.Vの指揮の下、皆で海苔巻きを作る。 夕の祈りの後、夕食。日本に一年間戻るSr.Aのお別れ会をする。

【3月30日(土)-31日(日)】
午前3時半起床…のつもりが、目覚まし時計のセットをし忘れ、寝坊。ミサに出発する10分前に Sr.Vが起こしに来る。半分寝ぼけながら、慌てて着替える。4時出発。修道院の裏の畑の世話を頼んでいるナムさんの家族は、もう畑の世話、野菜の収穫をしている。きれいに束ねて、市場に出すらしい。今日は、午前4時15分からの教区の教会のミサへ。道の途中で犬が吠える。Sr.Vが「普通は吠えないけれど、今日は吠えるね、シスターたち(Sr.Cとわたし)がいるからかな~」と言う。 こんな暗がりで分かるのか。

 教会では、朝4時から信徒たちの意向の祈りが始まっている。前の方の席に座ったので、どのくらいの人々がミサにあずかっていたか分からないが、聖体拝領のために、チボリウムが7つ準備されていた。 司祭一人、信徒のおじさん一人、修道服姿のシスター4人が、聖体拝領の奉仕をしている。ミサが終わると、外は明るくなっている。

 主任神父のヨセフ神父さまに挨拶する。静かで穏やかな笑顔の、お年寄りの神父さま。迫害下で投獄された辛い経験を持っておられるという。教会の近くに、ヨセフさまに捧げられた、オープンスペースの祈りの場所がある。ヨセフさまの水曜日には、夕方、ここにたくさんの信徒たちが集まって、祈りの集いがあるそうだ。家族のさまざまな問題を託して祈るのだろう。

 朝食は、「ベトナムに来たら、これを食べなければだめです」とSr.Aが言う ベトナムの朝ごはんの定番、 フォー( 牛肉のだしで作ったヌードル)。日本のきしめんくらいの太さ。フィリピンで食べたも
のと似ている。多くのベトナム人は、朝、道端の屋台のようなところで、これを食べるそうだ。食卓の真ん中には、畑からの採りたての、さまざまな生野菜が。名前は覚えきれない。どの野菜も、噛むと、独特、強烈な味がする。果物はドラゴンフルーツ。 赤い皮、中身は白、ゴマのような種が入っている。

 朝食後、Sr.Aがバイクで市場に行き、姉妹たちのお土産、ドライフルーツを買って来る(昨日は夕方で、店が閉まっていた)。Sr.Vが「日本の姉妹たちのために」と、二日がかりでキムチを作ってくれた。それを小さなビニール袋に分けて、口を結び、さらにビニール袋を二重にしたものに入れ、新聞紙に包み、大きな袋に入れ、紐でしばり、荷造りテープで止める。ひと仕事した、と時計を見れば、まだ午前10時。 日本の時間感覚では、昼少し前かな〜という感じなのに 太陽が出て、外はかなり暑くなってきた。ベトナムでは、ひと休みの時間帯。納得。

 Sr.Vと志願者たちは、昼食のために、昨日の残りの海苔巻きに、卵をつけて、フライパンで焼いている。「これが柔らかく食べるひとつの方法です」とSr.V。昼の祈りの後、昼食。キムチを食べようとして、キムチの汁を服にこぼしてしまう。「シスター、動かないで、そのまま!」とSr.V。 ウエットティッシュと洗剤などで、手早くきれいにしてくれる。さすが。

 よく冷やした、昨日買って来てくれたココナッツに穴を開け、ストローをさして飲む。甘すぎず、さわやか。美味しい! 頑張って全部飲んだら、「え~っ、シスター、全部飲んだの?」と言われる(少しずつ飲むものなのか?)。フェさん、ハーさんは、ココナッツの身の白い部分も入れている。

 昼食後は通常14時頃までは、みなさん、休憩の時間。ただ、わたしたちは、小刻みに寝るのには慣れていない(ここの共同体の時間割は、夜10時に寝て、朝3時半に起き、昼食後2時間休む)。とても乾燥しているので、服を洗濯し、手で絞って外に干しておけば、2,3時間で乾く。午後2時からのロザリオ 祈りの途中、突然、豪雨のような音。何事かと思えば、隣の人が、暑いから、屋根に水撒きをしているそうだ。屋根が壊れそうなくらいの音だったけれど…。

 午後2時半、フェさん、ハーさんと別れを惜しんで、出発。4時20分ころ、Sr.Vの寄宿舎に着く。シスターたちへのお土産など、預ける荷物は全部で七個。それらをすべて、Sr.Vの部屋に運ぶ。その後、マリア大聖堂の近くの売店で、ベトナムの有名な聖母巡礼地、ラバンの聖母のご像、ロザリオ、ベトナムの殉教者たちのご絵などを買う。この辺りは、都会の観光地という雰囲気。大きなスーパーで夕食の果物、パンなども買う。

 急いでSr.Vの寄宿舎に戻り、荷物を置き、歩いてすぐのところにある大神学校のキャンパス内の大講堂のような建物での、午後6時からの主日前夜の英語ミサに預かる。福音は、放蕩息子のたとえ話 。わたしたちは、神さまのいつくしみの恵みで(放蕩息子のように)失われていたのに見つかり、死んでいたのに再び生きるものになった。 だから、わたしたちは喜ばなければならない、祝わなければならない、と、力強い説教だった。

 ミサの後、再び、Sr.Vの部屋へ。 スーパーで買ったパンと果物で夕食 その後、9時まで休み、9時半出発。たくさんの荷物だが、Sr.Vが、寄宿舎の上の階の学生さんたちを呼び 荷物を階段で降ろし、玄関まで運ぶのを手伝ってもらう。 Sr.Vが呼んでくれた車で空港へ。

 空港は、けっこう混んでいて、チェックインのために、長蛇の列が出来ている。わたしたちが乗る飛行機は満席らしい。出発ゲートに着いたのが、午後11時過ぎ 。飛行機は翌日午前零時5分出発予定だったが、空港混雑のため、20分くらい遅れる。前の席のベトナムの小さな女の子が、ぐずって大声で泣いている。夜中だし、眠たいのかな。お母さんが、一生懸命なだめている。この風景は、どこの国でも同じ。それでも、飛行機が飛び立って少しすると、疲れ果てたのか眠ってしまう。お母さん、よかったね!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2019年4月8日

・菊地大司教の日記㊽北町教会、茂原教会訪問・4月の予定

北町教会

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 3月24日の日曜日は、東京都内の北町教会へ司牧訪問に出かけました。関口の司教館からは車で30分ほどの距離ですが、当日は近隣でマラソン大会があり、道路が規制されていたこともあり、事前にグーグルマップで写真を見ながら道を確認していたとおりには走れず、結構道幅の狭い裏道に入り込み、このまま車の両サイドをするのではないかと心配しながら北町教会の横に無事到着。

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 北町教会の主任は、教区司祭で教会法の先生でもある田中昇神父様。堅信の準備をしてくださり、この日のミサで11名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

 ミサ後には、祝賀会も催され、その中では、皆さんからの質問コーナーもありました。子どもたちから、『日曜は何をしてますか』なんて言う質問もいただいて、そりゃ日曜はこうやって教会に出かけてますよとも思いましたが、思いの外、東京では教区や宣教協力体の合同の行事が午後にあることが多く、そういえば午前中はゆっくりしていることもあるなと思いながら、『時間があるときは、ぼーっとしてます」とお答えしました。ぼーっとする時間も必要です。

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 準備してくださった皆さん、ありがとうございます。大きくもなくちょうど良いくらいのサイズの共同体です。互いの絆を深めながら、教会共同体を育ててくださいますように。

 

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茂原教会

 翌週の3月31日は、千葉県の茂原教会で四旬節の黙想会を行いました。茂原教会は千葉県でも九十九里浜に近い方面にありますので、かなりの距離です。初めてでしたのでナビの言うとおりに出かけましたら、まずはレインボーブリッジを通り、ディズニーランドの横を過ぎてMobara1902、いくつかの自動車専用道を経て茂原に到着。1時間40分ほどでした。

 主任司祭の安次嶺神父様は、現在は療養中で不在です。安次嶺神父様は、以前新潟教区でも働いてくださいました。近くに桜のきれいな公園のあるすてきな場所に教会はありました。

 9時半から講話を一つ、一時間ほど。実は、この直前にウィーンに会議で出かけていましたが、そこでの寒さと飛行機の機内の乾燥などで風邪を引き、体調は今ひとつでしたが、それ以上に、この日は途中から声の出が悪くなりました。ゆるしの秘跡後、11時からミサ。しっかりと歌いました。そして昼食会で質疑応答。ここまで来たら、声が出なくなりました。その後、声はますます出なくなり、月曜日にはまったくアウト。これを書いているのは水曜日の夜ですが、ほんの少し戻ってきたところ。まだ声がまともに出ていません。困りました。

 千葉県内の教会は、一つ一つの守備範囲が広い。茂原教会も、かなり広い範囲から信徒の方がおいでになるようです。ここもまたちょうど良いくらいのサイズの共同体ですから、これからさらに結びつきを深めて良い教会共同体を育てられるように願っています。迎える準備をしてくださった皆さんありがとうございます。

【4月の主な予定】

 以下、すでに4月になりましたので、4月の主な予定です。

4月3日(水) 東京カトリック神学院開校ミサ (上石神井11時)

4月4日(木) 常任司教委員会 (潮見10時)

4月6日(土) 新潟清心女子中学高校入学式 (新潟)

4月8日(月) 東京教区司教顧問会など (関口)

4月14日(日)受難の主日ミサ (東京カテドラル10時)

4月15日(月)ロゴス図書館会議 (潮見)

4月17日(水)新潟教区聖香油ミサ (新潟)

4月18日(木)東京教区聖香油ミサ (東京カテドラル10:30)、主の晩餐ミサ (東京カテドラル19時)

4月19日(金)聖金曜日主の受難 (東京カテドラル19時)

4月20日(土)復活徹夜祭 (東京カテドラル19時)

4月21日(日)復活祭 (東京カテドラル10時)

4月22日(月)カリタス南相馬法人設立総会 (南相馬)

4月23日(火)カリタスジャパン会議 (潮見)

4月27日(土)イエズス会黙想の家60年ミサ (上石神井11時)

4月28日(日)千葉中央宣教協力体ミサ (鎌取12時)

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

2019年4月8日

・菊地大司教の日記㊼東京カテドラルの晩の祈り-教会のために、弱い人間である司祭たちのために

3月24日、東京カテドラルでの晩の祈り

 毎週日曜日の午後5時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、晩の祈りが捧げられています。構内に修道院のあるシスター方と一緒に、教会の祈り(時課の典礼)を唱え、また司式する司祭が、説教も行います。お時間に都合がつく方は、どうぞ毎週日曜夕方の晩の祈りにご参加ください。

 3月24日の日曜日夕方5時からは、私が司式して、性虐待被害者のための祈りと償いの日の晩の祈りを捧げました。以下、当日お話しした説教の原稿です。

 この世において聖なる存在、善なる存在であるはずの教会は、残念ながら時にその道からはずれ、悪のささやきに身をゆだねてしまうことすらあります。聖なる存在、善なる存在は、常に宣教を妨げようとする悪のささやきにさらされます。その最前線で防波堤となり、悪への傾きから教会を護らなくてはならない牧者。その牧者たるべき聖職者が、自らが護らなくてはならない人々、とりわけ年齢的にも立場的にも弱い人々へ、性的な虐待をすることで、教会を悪のささやきにゆだねてしまった事例が、全世界であまりにもたくさん報告されております。

 米国での聖職者による性的虐待問題の報告書や枢機卿の辞任、オーストラリアやフランスなど、各地で自らの犯罪行為や事実の隠蔽に関わったとして、聖職者がその責任を問われています。残念ながら、教会が聖なる道から離れ、善なる存在とは全く異なる過ちを犯した問題が次々と明らかになり、日本でも同様の事例があることも、明らかになっています。

 教会において、聖性の模範であるはずの聖職者が、全く反対の行動をとって多くの人の心と体を傷つけ恐怖を与えてきたことを、特に私たち聖職者は真摯に反省しなければなりません。被害を受けられた方々に、また信頼していた存在に裏切られたと感じておられる方々に、心からゆるしをこいねがいます。

 教会が今直面するGyakutai1901危機的状況は、単に偶発的に発生している問題ではなく、結局は、これまでの長年にわたる教会の歴史の積み重ねであり、悪のささやきに身を任せて積み重なってきた諸々のつまずきが、あらわになっているのだろうと思います。教皇様を頂点とする教会は、結局のところ、この世における巨大組織体ともなっています。

 組織が巨大になればなるほど、その随所で権力の乱用と腐敗が生じます。この世の組織としての教会のあり方をも、私たちは今、真摯に反省し、組織を自己実現のためではなく、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。そういう「とき」に、私たちは生きているのだと感じています。

 そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

 同時に、積極的で真摯な対応を怠り、事態の悪化を漠然と看過してきた私たち司教も、その怠りの罪を反省し、真摯に対応していく決意を新たにしたいと思います。

 私たちは「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」というイエスの言葉のうちに、すべての人、とりわけ弱い立場に置かれた人のうちに主がおられると信じているはずです。虐待の加害者は、残念ながら、被害者の方の心に思いを馳せることができなかっただけでなく、そこにおられる主ご自身をも傷つけてしまいました。

 教会は「キリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む」存在であるはずです。教会は、世界にいつくしみを伝え、それを生きる姿で具体的に表す存在であるはずです。教会は「神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具で」あるはずです。

 しかし教会は、聖職者自身の犯した罪によって、その輝きを失い、いつくしみを表すことなく、自ら一致ではなく混乱する姿をさらけ出してしまっています。

 現代社会こそ、暗闇に輝く光を必要としています。神が賜物として与えられた人間のいのち、神の似姿として尊厳を与えられた人間のいのちが、社会の様々な現実の中で危機にさらされている様々な現実を目の当たりにするとき、まさしくわたしたちは暗闇の中に生きていると感じさせられます。

 その暗闇の中で、教会こそは、キリストの光を輝かせる存在でなくてはならない。果たしてその役割を真摯に果たしているのだろうか。

 また現代社会の様々な現実を客観的に見るならば、私たちは一致と言うよりも分裂の中に生きていると感じることがあります。教皇様がしばしば指摘されるように、現代社会には排除の論理が横行し、異質な存在を排斥し、時に無視し、自分を中心とした身内だけの一致を護ろうとする傾向が見受けられます。

 教皇様は「廃棄の文化」という言葉さえ使われます。弱い立場にある人、助けを必要としている人に手を差し伸べるのではなく、そんな人たちは存在しないものとして、社会の枠から追い出されてしまう、捨てられてしまう。

 護るべきいのちの尊厳を、自分中心の考えから、ないがしろにしてしまった聖職者の存在と、その逸脱を許してしまった教会組織が、いのちの尊厳を語る教会から信用と信頼を失わせてしまっています。

 2月21日から24日まで、「教会における未成年者の保護」をテーマに、世界中の司教協議会会長が呼び集められ、バチカンで会議が行われました。その閉幕にあたりささげられたミサで教皇様は、「人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、私たちは悪の手を見ることができる」と指摘されました。

 その上で、「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」と厳しく指摘し、この問題に真摯に取り組んでいく姿勢を強調されました。

 教皇フランシスコは、教会の聖職者による性的虐待の問題、特に児童に対する問題に教会が全体として真摯に取り組み、その罪を認め、ゆるしを願い、また被害に遭った方々と教会がともに歩むことを求めておられます。またそのために、特別の祈りの日を設けるように指示されました。

 日本の司教団は、2016年12月14日にメッセージを発表し、その中で日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日とすることを公表しております。2019年にあっては、3月22日(金)がこの「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたります。

 聖職者が自らの生き方を顧み、無関心や隠蔽も含め、その罪を真摯に認めなくてはなりません。被害を受けられた方々に、神のいつくしみの手が差し伸べられ、癒やしが与えられるように、祈るだけではなく、教会として具体的な対応をとるように努めたいと思います、被害を受けられた世界中の多くの方々に、心から許しを願います。

 そして、教会のために、また弱い人間である司祭たちのために、祈りをお願いいたします。

(「司教の日記」より)

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

2019年4月2日

・Sr.阿倍のバンコク通信㉛福音は全ての人々への神からの贈り物、を実感

 タイは仏教を厚く信奉する国、仏教国という意識を強く持って、私は派遣され、カトリック国フイリピンの姉妹たちと共にフィリピン管区下で25年前宣教の歩みを始めました。

 私は神道・仏教の風習の中で育ったので、ごく自然に溶け込めましたが、カトリック教会の庇護の下に育った姉妹たちは「仏教文化を尊敬し改宗を強いないように」と警告され、宣教研修を受けたものの、生活習慣にまで浸透しているわけではなく、「では何のために来たのか」と自問自答し、苦しんでいました。

  まずは、自分が福音の喜びを深く体験し、宣べ伝えずにはいられない気持ちを募らせ、聖霊の導きに委ね、謙虚にこの地の人々の文明と信仰に敬意を尽くして、学びました。福音を喜んで受け入れられる道を探しながら福音の種を撒き、養分を注ぎ込む日々。福音は全ての人々への神からの賜物、その確信を胸に励んだ、学ぶことの方が多い25年でした。

 タイに来て間もない頃、ある食堂に入ってびっくり。大きな聖家族像がどっかりと奥の中央に飾ってあったのです。それぞれが信仰を公表して生き、生活の場、職業や商売のただ中に、信奉する信仰を表明している事実に出会ったのです。

 仏教、イスラム教、ヒンズー教、儒教…、お互いの信条を尊敬し合い、胸にかざして誇りを持って生きているのです。家庭も商売も、ご保護の下に守られている社会なのだ、と感じました。タイ人の元来の気質と、タイ仏教の受容と寛容の精神に生かされた文明… 誰もが居心地の良い、歓迎された気分を感じるのでしょう。文化の中に芽生えている福音です。

 先日、夕食に招かれたマンションの入り口に、素敵なマリア様が! 名前も 聖三位の名を頂いてTrinity Complex。何とも言えない、うれしい気持ちで友人宅を訪れました。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2019年4月2日

・三輪先生の時々の想い②半世紀前のメキシコで、学生に「中国文化大革命の教訓は」と問われて

 今年の10月1日に、中華人民共和国としての現代中国は、建国70周年を迎える。その立役者は毀誉褒貶相半ばする毛沢東(1893-1976)だ。日中戦箏を勝ち抜くことに貢献したが、建国後の中国を計り知れぬ混乱に導いた文化大革命もその功罪のうちにある。それにつけても思い起こすのは、私の個人的経験であったメキシコ大学院大学での半年にわたる客員教授としての思い出である。

 それは1969年9月から1970年3月までの半年間の事であった。当時文部大臣を引き受けていた永井道雄さんが、メキシコ合衆国の首都メキシコ市の国立メキシコ大学院大学に日本文化講座を開設し、そこでの講義を頼まれたのだ。

 永井さんからは、明治維新後の日本の近代化路線の歴史を教えるように、と言われた。時はあたかも「明治100年」を祝ったばかりのころであった。日本は近代化に成功したとされていた。それに対し中国は毛沢東の指導の下で、混乱を極めていた。いわゆる「文化大革命」政策の結果であった。

 その頃アメリカの大学では日本と中国を比較対象とする近代化論の研究が進んでいた。その中心にいたのはプリンストン大学のマリウス・B・ジャンセン教授であった。私はちょうどジャンセン教授を指導教授としてプリンストンで博士号を取得帰国し上智大学の国際関係研究所の創設に参画したばかりのときであった。明治100年を迎え、太平洋戦争に敗北した失敗した近代国家日本ではなく、真逆に、中国との比較において東アジアでの唯一無二の近代化に成功した例、とされたのである。

 しかし日本の歴史学会では、これを当時駐日大使に就任したばかりのハーヴァード大学のライシアワー教授に引っ掛けて、「アメリカによる同盟国日本への肩入れのライシアワー攻勢」とされていたのである。「軍国主義の前科者国家、日本」ではなく、アメリカにならって「民主主義、自由主義万歳の新日本」になるという事であった。

  当時日本の中国学者は、押しなべて「文革」をもう一つの「近代化」として高く評価していた。八幡製鉄のような巨大な工業化ではなく、「個人が自分の家の裏庭で、鍋や鉄瓶を鋳造している」と報告していた。中国専門家のうちで唯一、例外だったのは中嶋嶺雄東京外国語大学教授だけであった。中嶋教授は香港に居を定め、文革の経緯を観察していた。毎日、多数の人間の死骸が大陸から流れてきていたという。後に中国政府自身が公表した総数は3000万人にのぼっていた、と記憶する。これが文革という変革がもたらした一結果とされた。

 今年10月1日は中国共産党政権にとって建国70年の節目である。この時に当たって、毛沢東人気が再燃している、という。しかしそれは「文革」とは絶縁した、一般の市民と変わるところ無い「質素で穏健な好人物」としてであるらしい。今日の中国の最高指導者である習近平国家主席が進めている反腐敗闘争にとって、毛沢東は清廉潔白なリーダーの鏡になる、ということだ。

 前置きのつもりが長くなってしまった。問題はメキシコ大学で何が起ったか、ということである。

 私の講義が始まって2、3週間は経っていただろうか。コロンビア出身の学生が言った。「我々ラテンアメリカの学生にとって、明治日本の近代化路線の歴史はイレレヴァントである。今日のラテンアメリカ諸国にとっては、現代中国が体験している文化大革命こそが、数多のポジティヴな教訓を示している、と言えるでしょう」と。そして続けて「是非、文化大革命の話が聞きたい」と言うのであった。

 それに私は、どう対応したか。私が承知していることのうちには、母校プリンストン大学でのことがあった。60年代に世界中の大学キャンパスを吹き荒れた学園紛争のあとで、一時の平和が訪れた時、プリンストンの学部学生はヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』の購読を要望した。すると大学当局はその要望を具体化して、学生に応えたのであった。付加価値創造型の教科目内容の変更であった。学生の私への要望に対して起きた事は刮目に値する。外務省の担当官に提案した「中国の『文革』を教えることのできるのは宇野重昭・成蹊大学教授」が、即座に具体化されたのである。

 一見、時代離れした牧歌的展開のようだが、メキシコの高等教育機関が置かれていた変革への切迫感からして、妥当な対応であった、と言えるかもしれない。数ヶ月前に、学園紛争制圧のために銃砲が使われたばかり。街中に立地している校舎の外壁は分厚いガラス張りだったが、街路に面した6階の教室の壁面には,官憲が放った銃弾が貫通し、直径2センチほどの穴が生々しく残っていた。

 若い政治学担当の教師の研究室の扉には部屋側にフィデル・カストルの大きな肖像写真のポスターが貼られていたりしていた。若い日系女性の教師が「白人の教師達は近郊のメスティーソの貧農が鋤や鍬をかついで市中のインテリも敵とする階級闘争に攻め入ってくる、と本気で心配しています」と教えてくれたりもした。-そんな世相の時代だったのである。(2019・3・30記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授・元同大学国際関係研究所長)

2019年3月31日

・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」㉙ 私の「カンタベリー物語」

 英国に留学中、イングランド北東部にある大学の町で、長女を出産した。長身で金髪碧眼の人々が暮らす社会にあって、ちびた東洋人の赤ん坊など、誰も目を向けはしない――そんな風に思っていたが、予想は大きく裏切られた。

 道行くたびに乳母車(=英国流のpram。『メリー・ポピンズ』に出てきそうな大きな代物だった)の中をのぞかれ、街を歩く英国人から盛んに声をかけられた。その際のお決まりのフレーズは、「Oh, she is gorgeous!」だった。はじめは、「ゴージャス」という言い回しに感激したものの、それが英国流の言い回しで、単に「かわいい子ね」程度のニュアンスだと知るのはしばらくたってからだった。

 それにこうした会話は、ほとんどいつも次にように結ばれた。「Boy or girl?」(で、この子は男の子? 女の子?)。性別も判然としないうちに繰り出されていたほめ言葉。娘の「ゴージャス」ぶりは、その程度のものだった。

 当時は、忙しかった日本での仕事を離れ、夫婦ともに学生だった。お金はないが、小さな中古車が一台あった。初めての長期滞在でもあり、週末は英国各地をその車で訪ね歩いたものだ。

 忘れられない街がある。英南西部ケント州のカンタベリーだ。春先の週末、北の町にある洋裁店の2階に間借りしたフラットを早朝に抜け出し、モーターウェイをひたすら南下。ロンドンを経由してようやくたどり着いた。

 カンタベリー大聖堂を擁する英国国教会の聖地である。中世期のロマネスク様式とゴシック様式が同居する教会は、まさに威容を誇りながらそびえ立つ。聖堂の内部も「素晴らしい」の一言だった。6世紀末に聖アウグスティヌスがローマからイングランドにキリストの教えをもたらして以来、英国最大の巡礼地となった聖堂に、夫と私は魅了された。

 西側にある大回廊の片隅か身廊のコーナーだったと思う。幸いなことに、すやすや眠ってくれている娘を乳母車に残し、私たちは聖堂の中を歩み進んだ。翼廊から聖アンドリュース礼拝堂、三位一体礼拝堂へ――。離れていたのは、10分程度だったと思う。そして、元の場所に戻ったところで仰天した。人だかりができている。ひと目でそれと分かる聖職者やスタッフらが、乳母車を取り囲んで大騒ぎをしている。

 「捨て子らしい」
「見たところ、東洋人のようだ」
「カンタベリー大聖堂に赤ん坊を託したのだろう」
「まだ生まれて間もないというのに……」

 どうやら、そんな会話が交わされていたようだ。私たちは、こっぴどく説教される前に、大いにあきれられ、英国随一の聖なる地を小さな車で後にした。

 あれから20数年がたった。日本で毎日のように報道される児童虐待、中国から聞こえてくる乳幼児の誘拐事件、ヨーロッパでも頻発している子どもを標的にした凶事……。それらを耳にするたびに、当時の自分たちの軽率さに身が縮む。

 性別も不確かだった娘は、「ゴージャス」とは言われなくなったものの、それなりに青春も謳歌し、この4月、二つ目の大学で最終学年を迎えた。あの旅の記憶は、彼女にはない。だがその両親は、背筋が寒くなった思いとともに、罪深き「巡礼の旅」をしっかりと胸に刻んでいる。

(みなみきょうこ・医師、作家:終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が昨夏、文庫化されました。クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中)

2019年3月31日

・Sr.石野の思いであれこれ⑨夜が明けたら修道女志願者-身の引き締まる思い

 一夜明けたら私はもうれっきとした聖パウロ女子修道会の志願者。

 裁縫を一手に引き受けていたシスター・ロレンチ―ナが私の寸法を測り、志願者の制服を縫ってくれた。黒一色、前に箱ひだがあり、ひざ下までの少し長めのワンピース。それに丸い白襟。髪の毛は左右に分けて三つ編みにして、それを頭の上で交叉させる。早速それまで着ていた服を脱いで制服に着替えた。

 これで外見は志願者の出来上がり。身が引き締まる思いだった。5人いた日本人先輩の志願者たちにいろいろ教えてもらいながら、少しずつ、修道会の生活に慣れるように努めた。

 修道院といっても日本家屋。二階がシスターたちの住まい。シスターたち以外は禁域なので、入ることも見ることも出来ない。どうなっていて、どのような生活を送っているのか想像もつかない。一階は聖堂、応接間、シスターたちの食堂兼集会室、それに志願者たちの部屋(畳の部屋で、寝室になったり、食堂になったり、勉強室や作業室に早変わり)だった。

 イタリア人と日本人の共同生活。何といっても一番大きな障害は言語。イタリア人の日本語はまだゼロに近い、日本人のイタリア語は”イタチ語”程度。双方を分けている言葉の壁は高かった。しかしその壁も、私たちの心の一致まで分けることは出来なかった。手振り身振りで話し合い、通じたり、通じなかったりで大笑い、時には、笑いが最高のコミュニケーションになったりした。

 イタリア人のシスターたちと一緒にする朝の祈りはイタリア語。ミサはラテン語。シスターたちと一緒にイタリア語の祈り本を使って祈る。イタリア語はローマ字のように発音すればよいから意味は分からないが、私たち日本人にとって、発音は難しくない。「お寺の小僧習わぬ経を読む」とか言いながら、楽しく発音の練習をした。

 シスターがいない自習時間になるとイタリア語の祈りに簡単なメロディーをつけて覚えたり、よく似ている日本語に変えたりした。そんな私たちの苦労(?)も知らず、お祈りの時に、シスターたちと一緒に祈ろうと努力している姿に、満足しているようだった。

 修道院の中での「有難う」は、ラテン語でDeo gratias(神に感謝)。どんな時でも挨拶は、イタリア語でSia lodato Gesu Cristo (イエス・キリストは讃えられますように)と言うように教えられた。多少でもラテン語やイタリア語を知っている、という快感は心地よかった。

 日用会話だってイタリア語、日本語、英語とミックスされた国際語。ある日、お洗濯をしていたイタリア系アメリカ人のシスターが、お手伝いをしていた日本人の志願者に言った「acqa, go, nigemasu」。aquaはイタリア語で水、goは英語で行く、nigemasu  は日本語。つまり、「水が流れて行くから、その場をどいてください」の意味。こんな漫画チックな情景は日常茶飯事だった。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

2019年3月31日

・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑳神との融合を求めるハーフェズの人生

 引き続いて、筆者が日ごろ暗唱している14世紀ペルシャの大詩人ハーフェズの詩の断片を、その短形詩(ガザルという)全体とともに紹介する。

「我が心(恋)の苦しみを 涙が露わにしてしまうのを恐れる 確かに封印されていた(恋の)秘密が 世に知られるのを

 (A)石は忍耐の挙句ルビーになるという然り しかし全身の血を吐いての挙句である 柳のようにすらっとした長身の汝(美女)の頭のかたくなさに いつ我が短き手は 汝の腰に届き抱擁できるのか 汝への愛の錬金術でわが顔は金色(泥色)となった なるほど汝が情けで土が金色になった

 (B)あらゆる方向から願の矢を放った そのうちの一つでも当たれば良いではないか 泣きながら助けを求めて酒場(修道、すなわち神との融合・陶酔を求める場)に行こう
悲しみが我が手から離れるよう 果たしてかなうであろうか

(恋人を取り巻く)守り人の傲慢さに困惑する極みの中で 神よ(我が)卑しさが露呈しませんよう たくさんの醜きことにも出会わざるを得ない 正しい見方のできる人に評価されるまでは 月見の欄干のある王のあの宮殿 たくさんの(恋人を求めた者が想いをかなえられず)さらし首が宮殿の入り口にうずたか く積み上げられている (恋人に)結びあえるはずの宮殿の(城壁の)小尖塔の高みには たくさんのさらし首がその入り口に土朽れている

 さあ我らが(恋の苦しみの)話を思いの人に告げよ しかし(おしゃべりな)北東風には聞かれないようにしてくれ ハーフェズよ (メス鹿の内臓に懸かる)嚢のように汝の手は(美女の)髪の毛に懸からんとする 静かにしていよう さもなくば東北風が聞き広めてしまう」

 上記(A)(B)の2か所は、筆者の教訓とする詩句の断片であり、何ごとにも忍耐、あらゆる努力が肝心という、我が国も含めて世界のどこにでもある格言であろう。もっとも詩自体は、ペルシャ文学の世界からは縁遠い日本の読者には分かりずらいであろう。そこで、我々にはなじみのない詩人の人生への基本的姿勢・態度を改めて述べておこう。

 神への愛の道、すなわち神との融合を求めるのがハーフェズの人生である。しかし、それは捉えたと思えばすぐに突き放されてしまう、現実の恋にも似た悲喜こもごも、容易な技ではない。涙や苦しみは日常茶飯の人生である。全身で血を吐くような苦しみ、それに耐え続けなければ目的は成就しない。

 神の愛を成就するためにはあらゆる努力・工夫がいり、その過程では不愉快なこと、我が意に添わない事にもしばしば出くわさざるを得ない。わが身を貶めかねない事態も懸念される。そうした覚悟のうえで、四方八方に願の矢(祈り)を放つ。そのうち一つでも当たればよいではないか。そうした想いで苦難に立ち向かって行かなければならない。

 もとより、(美女・神への)恋は己の密かな問題で外に向かって吹聴すべき問題ではないし、(恋の)痛みや苦しみで流す涙も人に知られたくはない。しかし、恋の苦しみで流す涙は、外にも見られ人にもわかってしまう。

 神と融合しえない苦しみ・苦痛から、詩人の顔からは色が失せて土色となる中で、それを黄金と言っているのは、皮肉とも聞こえるが、神との融合の瞬間も体験しているからであろう。愛の錬金術と言っているが、土色の鉄を金に変えようとしたのが錬金術である。もとより神との融合は持続せず、またしても救いを求めて修道の場に戻ることになる。

 以上の諸点が入り乱れて詩の中盤までに述べられている。後半のエピソードは、神との恋を果たす道がいかに険しきものかを、月見(月は美女の象徴)の欄干のある宮殿にたとえている。

 美女(神)の住む城は、兵に守られ近づくことさえかなわない。これまでどれほどたくさんの者が、美女(神の表象)を求めて城壁を上ろうとして果たせなかったか。城の高い尖塔の足元にはそうした者たちの髑髏(どくろ)がうずたかく積み上げられている。

 最後のメス鹿の袋とは、ホタン(中国西部に位置する、かつてはシルクロードで栄えオアシスの町)に産する鹿で、メス鹿の体内にぶら下がるオレンジ大の嚢は、香料として珍重された。鹿の内臓に垂れ下がる嚢に連想されて、ハーフェズは我が手が美女の髪を捉えて(美女に)ぶら下がろうとする、すなわち神との愛の成就を予感している。まさに色を失い黄色ばんだ顔が金色に輝こうとしている。

 しかし、そのことは我が秘め事であり、我が恋の苦しみは北東風には悟られず美女(神)のみに伝わってほしい。ペルシャの文学では、北東風は秘密をあまねく広める役回りであり、北東風に悟られず、というのは、世間に知られとやかく言われないように、ということである。

(駒野欽一=元イラン大使)

2019年3月28日

・WYDに参加して①「苛酷な環境、でも様々な国の仲間から多くのメッセージをもらった」(土屋みほ)

(2019.3.10 カトリック・あい)

 1月にパナマで開かれたワールドユースデー(世界青年の日、WYD)大会には、日本からも若い人々が参加しました。このほど、参加者の土屋みほさん(横浜教区・茅ヶ崎教会)と吉松愛さん(東京教区・碑文谷教会がその体験、感想をお寄せくださいました。以下に①②として掲載いたします。

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「苛酷な環境、でも様々な国の仲間から多くのメッセージをもらった」・・・土屋みほ(横浜教区茅ヶ崎教会)

 

 私は今回、ワールドユースデーパナマ大会にはじめて参加し、日本中、世界中の仲間と数々の貴重な体験や祈りの日々をともにしました。

 プログラム前半の4日間は、パナマシティでの本大会に向けての準備期間ということで、チトレという、空港からバスで約6時間の町に滞在し、チトレ教区での日々を過ごしました。そこではエコロジー活動としての植樹や、ボランティア活動としての老人ホームでのダンスなど、一人一人が選んだアクティビティに参加し現地の方々を中心に、様々な人と交流を行いました。また、近くの大きい公園(広場)で、チトレ教区に滞在した数千人と共にミサに預かったり、カテドラル周辺でパレードが行われたりと、町中が歓迎と喜びの雰囲気に満たされました。

 プログラム後半の7日間は、パナマシティでの本大会(教皇主催の大会)のプログラムでした。初日は教皇歓迎式典にて教皇様をお迎えし、その後は各国や地域、教区などに分かれてカテケージスを行いました。日本巡礼団は歓迎式典の開催場所から地下鉄で2駅の所にある、聖マリア教会(St. Mary church)を拠点とし、本大会プログラムに参加しました。そして十字架の道行、数十キロに及ぶ徒歩巡礼を経て、徹夜祭(野外宿泊)、閉会ミサに預かりました。最終日はパナマ市街地の訪問やパナマ運河の見学など、観光の1日でした。

 日本巡礼団としては1月16日から1月31日までの約2週間の日程が組まれ、カナダのトロント経由で経て日本~パナマ間を移動するという、片道約30時間超の長旅でしたが、大きな怪我や病気も無く、全員が無事に行って帰ることができました。日本で私たちの無事を祈って下さった全ての方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。

 日本からは司教、司祭、シスター、青年合わせて54名の参加でした。中でも、高校生や大学生、社会人など様々な立場や年齢の仲間と共にワールドユースデーに参加出来たことは、私にとっても、新しい発見や学びを得た貴重な機会となりました。

 様々な国の人々と、ひとりの神様を見つめ続ける2週間、また、自分を見つめ続ける2週間。平均気温30度以上、湿度70%前後、ほぼ毎日、数十万人規模の集まりに参加する、という、正直言って、過酷な環境であったことは否定できません。

 でも、生まれ育った環境も、使う言語も、肌の色や目の色も違う人々が大切な人たちのことを思い、祈り、そして歌い、抱き合って、どんな人も変わらない体温に触れている姿は、平和そのものを象徴しているのだなぁ、と強く感じました。

 見るだけでなく、触れること。家のソファに座って、液晶画面越しの世界を知る、知った気になるのではなく、実際に外の空気に触れてみること。人に触れること、心や声に触れてみること。平和のはじまりは、ともに祈ること。ともに歌うこと。少しだけ、外に出てみること。誰か、何かに触れること。神様からだけでなく、名前も知らない無数の仲間からも、たくさんの大切なメッセージを貰いました。

2019年3月10日