・三輪先生の国際関係論㉝「献花」は降伏文書調印の9月2日がふさわしい

   国民統合の象徴として天皇皇后が先の戦争での死亡者の慰霊を見事になされたその直後に、内閣総理大臣とは言え、一政治家が献花する、というのは、彼の憲法改正とか、もろもろの政治的アジェンダを考えると、いかにも不適切である。

    それは終戦記念日とは切り離して、降伏文書調印記念日である9月2日にするのがふさわしい。降伏文書の調印は1945年9月2日、東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で日本と米英ソ中の連合国との間で行われた。そして、翌日の3日に、昭和天皇は歴代の天皇の霊に、これで戦争が終わった、と報告されたのである。(2018.8.15記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

2018年8月17日

・菊地大司教の日記㉛「本当の強さは『謙虚さと優しさ』という徳のうちに」-終戦と聖母被昇天の日

2018年8月16日 (木)聖母被昇天祭@関口教会

 8月15日は終戦の日であるとともに、聖母被昇天祭です。そしてもともとは初代教会時代の殉教者であるタルチシオ-わたしの霊名-の記念日。8月15日は、8世紀くらいから聖母被昇天の日として祝われていたようですが、教義として決定されたのは1950年のこと。

 昨日の聖母被昇天祭は、関口教会の晩6時のミサでお祝いしました。当初の予定ではルルドの前で行うはずでしたが、暑さもある事と台風のために風が強く、断念。聖堂で行いましが、韓人教会と共催であったので、カテドラルの聖堂も一杯でした。思いつきましたが、来年以降は、まずルルドの前でお祈りをして、聖母行列で聖堂に入り、ミサにしたらどうでしょう。

 ミサの最後には、霊名のお祝いの花束も頂きました。感謝。ミサ後には関口会館で納涼会。楽しいひとときを、集まった皆さんとともにしました。

 以下、聖母被昇天祭ミサの説教の原稿です。

 聖母被昇天祭の8月15日は、戦争のない平和な世界について思いを巡らせ祈る日でもあります。

 かつての戦争で生命を奪われた多くの方々、敵味方に分かれた双方の軍隊にいた人たち、一般の市民、戦場になった地で巻き込まれてしまった多くの方々。理不尽な形でその尊厳を奪われ、暴力的に命を失った多くの方々への責任から、私たちは逃れることはできません。「戦争は人間のしわざ」だからです。

 過去の歴史を振り返り、その命に対する責任を思う時、私たちの選択肢は、同じ過ちを繰り返さないという決意を新たにする道しかあり得ないと思います。

 はたして私たちは、いま、どのような道を歩もうとしているのか。あらためて、国家間の対立を解決する手段は武力の行使ではなく、対話でしかないことを、世界の政治の指導者たちが心に留めてくれるように、祈りたいと思います。対立や孤立ではなく、対話と協力の道を選び取る勇気と英知が、国家の指導者たちに与えられるよう、聖霊の照らしを祈りましょう。

 さて、聖母被昇天祭に当たり、私たちの母であり教会の母であるマリア様について、少し考えてみたいと思います。

 教皇フランシスコは、聖母マリアは祈りと観想のうちに、密やかに生きる信仰生活の姿を示しているだけではなく、その霊的な土台の上に、助けを必要とする他者のために積極的に行動する力強い信仰者の姿の模範でもあると指摘されます。

 使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、次のように記しています。

 「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です。・・・教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)。教皇はそう記しておられます。

 その上で、先ほど朗読された聖母讃歌(マグニフィカト)に、その「優しさと愛情の革命的な力」を読み取ることが出来ると、教皇は指摘されています。「革命的な力」です。

 聖母マリアの人生を見れば、それは決して弱さのうちに恐れているような生き方ではありません。それどころか、神から選ばれ救い主の母となるというすさまじいまでの人生の転換点にあって、恐れることなくその運命を受け入れ、主イエスとともに歩み、その受難の苦しみをともにしながら死と復活に立ち会い、そして聖霊降臨の時に弟子たちとともに祈ることで、教会の歴史の始まりにも重要な位置を占めるのです。これほどに強い存在はありません。まさしく、「革命的な力」であります。

 しかし聖母マリアは、あくまでもその強さを誇ることなく、謙虚さと優しさのうちに生きて行かれます。ですから謙虚さと優しさは、弱い者の特徴ではなくて、本当に強い者が持つ特徴です。

 教皇フランシスコの言葉は、現代社会が優先するさまざまな価値観への警鐘であることがしばしばですが、ここでも、いったい本当に力のあるものはだれなのかという、この世の価値基準への警告が含まれていると思います。今の世界では、いったいどういう人が強いものだと考えられているのか。その判断基準は本当の強さに基づいているのか。聖母マリアの生き方を見ると、本当の強さとは、謙虚さと優しさという徳のうちにあるのだとわかります。

 私たちの世界は「謙虚さと優しさ」に満ちているでしょうか。残念ながらそうとはいえません。それよりも、自分たちが一番、自分たちこそが強いと虚勢を張って他者を排除し、困難に直面する人や助けを必要とする存在に手を差し伸べるどころか、不必要なものとして関心を寄せることもない。そんな価値観が力を持ち始めてはいないでしょうか。

 この世界は人間が支配している、自分たちがすべてを決めることができるのだ、などと思い込み、世界の創造主である神の前で、謙遜さを忘れてはいないでしょうか。賜物であるいのちの価値を、役に立つのか立たないのか、などという自分たちの都合で決めることができるかのような傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。

 「自分の重要さを実感するために他者を虐げる」のは、本当に強い者の徳ではないと、教皇は指摘されているのです。しかし現実の世界は、「自分の重要さを実感するために」、弱い立場にある者、対立関係にある者、意見を異にする者、生き方を異にする者、社会の中の少数派を、排除する傲慢さに満ちあふれていないでしょうか。

 教皇ヨハネパウロ二世も、聖母マリアの讃歌から、困難に直面する人、とりわけ貧しい人を優先する教会の姿勢を学ぶべきだと、回勅「救い主の母」で次のように指摘されていました。

 「マリアの『マグニフィカト』には、貧しい人たちを優先する教会の愛が見事に刻み込まれています。・・・救いの神であり、すべての恵みの源である神と、貧しい人たち、見下げられた人たちを優先させる神とを分けて考えてはいけない」

 この言葉を受けて教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記しています。
「自分の生活における選択のために他の事柄により注意を払っているので,貧しい人に対しては距離をおいているなどと、だれもいってはなりません。・・・貧しい人と社会正義に対し心を砕くことを免れている人は、誰一人いません。(201)」

 聖母マリアは、ただ単に祈るだけの動こうとしない人ではありませんでした。聖母マリアはエリザベトのところへ手を貸しともにいるために、急いで出かけたのです。福音宣教におけるマリアという生き方とは、すなわち、深い祈りという霊性に支えられながらも、つねに行動することをいとわず、困難に直面する人のために手を貸すためであれば待つことなく即座に そのもとへ出かけていく、生き方であります。

 私たちも「正義と優しさ、観想と他者に向けて歩む力」に満ちあふれたいつくしみ深い聖母の生き方に、少しでも倣っていきたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(「司教の日記」よりご本人の了解を得て転載)

2018年8月17日

・三輪先生の国際関係論㉜「進歩」とは何か-敗戦記念日を前に思う 

 猛暑の夏、今年も早8月、敗戦記念日が近づいている。その年私は旧制中学校の3年生だった。

 郷里長野県松本市の郊外今日の松本飛行場の近くに突如建設された軍需工場で、勤労奉仕に携わっていた。工場は東京の芝浦タービンの松本工場といい、飛行機の過給機を一環生産していた。市内の男女の中等学校から我々3年次生が動員されて、同年輩のプロの少年工に混じって、旋盤など工作機械を操っていた。

 工場が立ち上がってから半年は経っていただろうか、毎日15、6台の完成品が、東京に送られるようになった。しかし、中島飛行機だったと思うが、そこからの報告によると、実際に使用できたものは1台も無い、という日が何日も続くのだった。つまり毎日不良品、いわゆる「お釈迦」を生産し続けていた。それが、「動いた」という報告になった時、工場内の天井近くにそのニュースが掲げられると、熟練工も少年工も、そして我々中等学校生徒等も皆一緒になって、万歳をしたものだ。

 8月15日が来た、工場は閉鎖され、我々は学校に復帰できることになった。松本市には陸軍第50連隊の兵舎があったから、武装解除を確認するため占領軍としてアメリカ兵が進駐してきた。50連隊の将兵はテニアン島で玉砕してしまっていた。あとを継いだ長野県出身の兵士等は第150連隊を形成していた。

 進駐軍は我々の県立松本中学校にもきた。軍事教練関係の小銃「38銃 などを収めた武器庫を閉鎖廃止させるためであった。京都帝国大学でインド哲学を専攻したと聞いていた、我々の英語教師の英語が役立ったようだった。

 2年後の1947年春、入試に成功し、地元の旧制官立松本高等学校の理科1類に進学した。我々は旧制で3年の高校教育を終える最後のクラスに当っていた。日本政府はマッカーサー司令長官のもとで進行する占領政策に対応しつつ、平和国家、文化国家の建設を目指していた。

 1947年4月の入学式で校長がした訓示は肝に銘じた。「君達が勉学し卒業するまでの3年間に君たち一人ひとりに国庫は10万円を費やすのです。その恩を忘れることの無いように」と。しかし、現場の教室には、それなりに曖昧さがあった。

 軍国主義教育のもとでは、例えばドイツ由来の「地政学」も教科のうちだったが、それは「侵略の学問」として当然削除された。新たな意味づけを持って「倫理学」が開講されていたが、戦前の「修身」教育のようにはいかない。担当教授は苦労したろうと思う。「当たり障りの無い内容に」ということだったのだろうか。講義には、アメリカ人にとっての英雄、ジョージ・ワシントンが取り上げられた記憶がある。

 そして開講一番、宿題が出された。「来週までに『進歩』についてエッセーを書け」というものだった。今日の大学生は「進歩」についてどんなことを書くだろうか。敗戦から2年目の1947年4月、私は当惑した。体験的にしか考えることが出来なかった私にとって、「進歩」は難題だった。「進歩」を見たことが無かったからだ。

 そこで、英語に智恵を借りようとした。進歩はprogress。語源的には「前に進むこと」とある。「前」とは何か、「後ろ」とどう区別するのか。今にして思えば、「前」は、何か絶対的「善」に向かうこと、と定義できたのだろうが、「絶対的善」などというものを想定することが出来なかった当時の私は、困惑した。

 我々の世代にとって、その難しさは際立っていたはずだ。何故かといえば、我々の身近な日常生活で「進歩」を「見たこと」がなかったからだ。一日が暮れ、一日が明ける。毎日が同じように明け、終わるのだった。

 小学校に入学した年から中学の3年生まで、盧溝橋事変で始まった日中戦争が、6年生の時には真珠湾攻撃で太平洋戦争へと拡大し、中学3年生の時に原爆とソ連の参戦に耐えられず 日本政府はポツダム宣言を受諾して連合国の軍門に下った。

 徹底した軍国主義支配の時代で、昨日と今日の間に変化はなかったのだ。占領下の日本の国土に教育上の自由はなかった。マッカーサー司令部の求める教育上の変革があったはずだが。倫理学の先生自身、占領軍の顔色を伺っていたかもしれない。むろん知らずしらずのうちに、であったろうが、先生ご自身きちんと我々を納得させる模範答案を用意しかねていたということも十分ありえたのではないだろうか。

 それから71年がたった。私もそれなりに思想を深めたと言えるだろう。 「進歩」とは絶対的価値を前提としたとき成り立つものだと言い切れるだろう。たとえば「平和」。あの屈辱と希望がないまぜになっていた敗戦の日に夢みた「二度と戦争の無い、平和」こそが、その絶対的価値だ。

 あの日から、どれだけそれに近づくことが出来たのだろうか。いや後退してしまったのだろうか。「進歩」は有ったのか無かったのか… 今ならはっきりわかる。悲しいことだが。(2018年8月1日記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

2018年8月2日

・菊地大司教の日記㉚人身取引反対世界デー・・大阪教区補佐司教叙階

7月30日・人身取引反対世界デー

 2014年以来7月30日は、国連薬物犯罪事務所United Nations Office on Drugs and Crime(UNODC)によって制定された人身取引反対世界デーとされています。(the World Day against Trafficking in Persons)

 人身売買や人身取引というと、なにか現代世界とは関係のない、奴隷売買でもあったような時代の昔話のように響きますが、これは日本も無関係ではない21世紀の今の時代の世界的な問題です。

 ユニセフのプレスリリースにこう記されています。「ユニセフ(国連児童基金)と人身取引反対機関間調整グループ(ICAT)は7月30日の「人身取引反対世界デー」を前に、世界で人身取引(人身売買)の被害者として確認できた人の約28%が子どもであることを本日明らかにしました。

 サハラ以南のアフリカ地域、ラテンアメリカ・カリブ海諸国地域などでは、人身売買被害者に占める子どもの割合はさらに高く、それぞれ64%と62%です。特に人身売買に巻き込まれやすいのが、難民・移民・避難民の子どもたちです。戦争や暴力を逃れ、あるいはより良い教育や生活の機会を求める子どもたちが、家族と共に正規ルートで安全に移動できることはほとんどありません。そのために、子どもたちと彼らの家族は非正規の危険なルートを取り、あるいは子どもたちはひとりで移動することになり、人身売買業者による暴力、虐待、そして搾取に遭いやすくなります」

 この日を前に、昨日7月29日のアンジェルスの祈りで教皇様は7月30日が人身取引反対世界デーであることに触れ、次のように述べられました。「人身取引の目的は、被害者を安価な労働力、売買春、臓器売買、物乞い、あらゆる悪行の対象として搾取することにあります。移住が、人身売買の隠れ蓑となり、移住者の中から新たな被害者が生まれています。これは人道に反する犯罪です」

 人身取引は、国際条約によって定義が定められています。一般に「人身取引議定書」といわれる「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性及び児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書」には、次のような定義が掲載されています

 「“人身取引”とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」

(同議定書第3条(a)) 日本も例外ではありません。実際に警察によって摘発されている事件も毎年あり、移動の自由などを奪って、ほぼ強制的に労働に従事させるような事例が、人身取引にあたるのではないかという指摘も聞かれることがあります。また被害を受ける人は、海外からの移住者や難民の方々だけではなく、日本人も含まれます。

 教皇様と国際カリタスの呼びかけに応えて、カリタスジャパンは難民移住移動者委員会と共同で「排除ゼロキャンペーン(Share the Journey)」を繰り広げています。これは、難民や移住者として来られる方々の体験に耳を傾け、互いを知ることで、排除ゼロの世界を目指し、互いに助け合って生きる世界を目指そうというキャンペーンです。同時に、人身売買の被害者は、教皇様が指摘するように難民や移住者の中に多く見られるのであり、またユニセフが指摘するように、子どもたちの多くが被害に遭っていることを考えるとき、人身取引に反対する意識を共有することも、このキャンペーンにとっては大切であると思います。

 わたし自身に自分の人生のストーリーがあるように、すべての人にはそれぞれのストーリーがあり、すべてのストーリーは大切な宝物です。 それはキリスト教では、神が一つ一つの命をよいものとして創造されたと信じているからです。命は、この世界に存在するという事実を持って、すべからく大切な価値を持っています。その命の価値を、何らかの判断基準で勝手に決めることは、人には許されないことだと、信仰者は考えます。

 ですから、危険にさらされている命を守るように、たとえ直接の行動が難しかったとしても、そういう現実があるのだと言うことを知り、その認識を通じて、それぞれの国が何らかの行動をとるように促していくことは、共通善に彩られた良い世界の実現に少しでも近づくために、大切なことだと思います。

7月22日大阪教区補佐司教叙階式

 旧聞になりますが、7月16日の午前11時から、大阪教区のカテドラル玉造教会で、二人の補佐司教の叙階式がありました。またこのミサは、前田枢機卿様の親任報告と感謝のミサでもありました。

 今更言うまでもなく、とても暑い日でした。玉造教会にはエアコンがないので、氷柱と扇風機を各所に配置。たしかに「エコ・フレンドリー」と言えないこともありませんが、しかしあの気温と湿度では、身の危険を感じるほどです。

 司祭のシャツの上にアルバ(白衣)をつけ、さらにカズラ(祭服)。頭にはズケット(赤い丸帽子)とミトラ。ミトラをつけるとこれまた暑く、ミサ中は頭から玉のような汗が流れておりました。冷たいおしぼりと水を大量に用意してくださった関係者に感謝です。(写真下、ミサ後の酒井司教)

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叙階された方々も大変だったと思いますが、何よりも前田枢機卿が、式後に、あの緋色の枢機卿正装で、炎天下のテントを挨拶して回 ったのは、体重が減るほど大変であったと思います。

 式中にはもちろん、前田枢機卿の俳句披露もありました。配られたカードに記された、ローマでの親任式翌日のミサの時の句です。

「緋色受く 五島椿や ペトロ祭」

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酒井司教様、アベイヤ司教様、おめでとうございます。

 日本の司教団は17名です。新潟が決まれば18名になります。私より先に司教になったのは5名だけとなりました(高見大司教、大塚司教、梅村司教、松浦司教、宮原司教)。また今回の任命で、修道会と属人区出身の司教が増えました。わたし、バーント司教、アベイヤ司教、酒井司教、山野内被選司教の5名です。司教団の構成が大きく変わろうとしています。どうか日本の司教団のためにお祈りください

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

2018年7月31日

・Sr.岡のマリアの風 ㉛少し長めの欧州出張から帰って…猛暑+会議、行事、原稿…

   七月も終わりに近づき…

    I神父さま、メールをありがとうございます。  ローマ・ポーランドの 少し長めの出張から帰ってきて、猛暑+会議、行事、原稿(閉め切り過ぎ!)…で、その時々を ♪わた しの望みではなく、あなたの望みどおりに、あなーたの願いどおりに、わたしにーなるように…♪」という T神父さまの歌を口ずさみながら生きている、という感じです。

  ちなみに、この、歌の繰り返し部分、覚えやすいし、何も考えられなくなったときに(暑くて頭が真っ白になったときなど)、よく歌っています。

   「ローマ・ポーランド出張報告」も、ざっと書き留めたものの、まだ完成していません。後になったら忘れてしまうだろう、新鮮な印象、大切だと思ったことを、記しておきたいと思うので。落ち着いて書くことが出来るころには、その時の感動は色あせてしまう、今、書かなければ…と思いながらも、なかなか時間がなくて。

   今度の『日本カトリック神学院紀要』第9号のために、「教会の母マリア」の名称についてまとめています。ローマに行った時、恩師のサルバトーレ教授が、発表前の自分の小論文を「参考にしなさい」と、わたしにくださいました。

   恩師はありがたい!ほんとうに。日本ではアクセスが難しい、膨大な資料を駆使しての論文ですから。サルバトーレ教授の研究をもとに、日本の教会のため(大げさに聞こえますが、わたしなりに気合を入れて)、少しでも役に立てばと、書いています(というより、「あともうちょっとで終わり」というところで、じっと机の前に座れる時間が少ないのが現状です)。

  その原稿、締め切りを過ぎているので、編集作業をしてくださっているO神父さまに、遅れていることをお詫びするメールを書きました。O神父さまからは、自分もまだ、なかなか編集作業に取り掛かれないから、いいですよ、と寛大な返事をいただきました とはいえ、出来れば8月始めには書き終えたいと思います。時間をかければよい論文が書けるというわけではない、区切りとけじめも必要だ、と、これまたサルバトーレ教授の言葉です。

   たくさんの限界があるわたしですが、いつも、主の望みに対して、素直で謙虚、率直でありますように!と祈っています。

 暑い夏、I神父さま、シスター方、信徒のみなさんの、心と体の健康を祈りつつ...

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年7月30日

・Sr石野の思い出あれこれ①焼け野原の東京-修道院の門を初めてくぐった時のこと

 わたしが修道院の門を初めてくぐったのは、今から60年以上も前のことである。戦争で東京も廃墟と化し、通っていた学校も講堂を残して全焼した。だから授業も午前と午後に分かれて二部授業が行われていた。なにをするでもなく時間を持て余していた。

 そんなある日、「公共要理の勉強に行かないか」と、一人の学友から誘われた。「勉強」と聞いたわたしはとびついた。公共要理と言う言葉をまだ知らなかったから、代数や幾何学、国語などが学べると思ったのだ。放課後、行く先も知らずその友の後について歩いた。そして目的地に着いた。

 近くまで戦火に見舞われているのに、立派な門構えの家が建っている。門の中に入ったわたしは度肝を抜かれた。青々と茂った大きな木々、話すのも控えたいような沈黙と静寂。修道院と聞いてわたしは緊張していた。恐ろしく緊張していた。

 玄関までの砂利道を黙って歩いた。玄関を入り、シスターがいらっしゃるまで、ここに座って待つようにと勧められた椅子にも座らず直立不動でシスターをお待ちするほど程緊張していた。やがて美しい外人のシスターがにこにこしながら出ていらして挨拶し、会話が始まった。

 わたしは緊張のあまり、シスターが何語を話していらっしゃるのか分からなかった。外国語と思いこんでいた。気持ちを落ち着け注意して聞いて、日本語だと分かった。

 戦争に負けて街全体が焼け野原になった東京に、こんな清らかですがすがしい感じのするところがあったのか。大発見したわたしは、心が洗われたような思いで、また訪れることを約束して修道院を後にし、言葉に出せない深い幸せ感に包まれて家路に向かった。

 その夜、わたしの心は満たされていた。何で?と聞かれても分からない。お布団に入っても眠れない。人生で初めて足を踏み入れた修道院で見たこと、聞いたこと、感じたことすべてがわたしの頭の中で走馬灯のように映し出され、心が平和と喜びに溢れた。

 翌日、学校に行った。数人の友に、前日経験したことを語った。みな興味を示した。大好きだった代数や幾何学が学べなくてもよい、早口だけど日本語で話してくださる外人のシスターのやさしい笑顔に触れながら過ごす時間は、戦争や戦災で傷つき、これからの人生に対する夢も希望も見つけることの出来ない殺伐とした心を癒し、満たしてくれた。わたしは大きな宝を見つけたような思いで前日の出来事をあれやこれやと語った。

 そして放課後、前日行ったところに自然に足が向いてしまうのを止めることは出来なかった。叱られるのを覚悟で、2・3人の友を連れて修道院を訪れた。前日シスターのやさしい笑顔に癒されたわたしは、その日はそれほど緊張していなかった。ただ二日も続けて来ることにお小言をいただくことだけは覚悟していた。

 ところが・・・わたしたちをご覧になったシスターは両手を広げて歓待して下さった。緊張は一気に消え、嬉しさと喜びが込み上げてきた。そして、早口ではあったけれど、話される日本語はよく理解できた。「またお待ちしています」。

 内容はよく分からなかったけれど、キリスト教について話してくださったシスターのやさしい心に触れて、その日も修道院を後にした。その日も前日のように、言葉に表すことが出来ない喜びと幸せ感に、心は満たされていた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年7月29日

・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑫「美女と葡萄酒」は実体験か、神の愛を求める修行人生の象徴か 

 ペルシャの大詩人ハーフェズの詩に常に登場する美女と葡萄酒は、神の愛を求める修業人生の体験を象徴的・詩的に描写するめのシンボルに過ぎないのか、それとも実人生でもそのような恋愛を経験し、葡萄酒を嗜んでいたのだろうか。

 ハーフェズは妻や子をこよなく愛したと伝えられるが、妻以外の美女たちとも関わりがあったのかは、あまりよく分からない。何せ五百数編の詩しか残っていないのだから。ハーフェズの詩は、神への愛を美女との恋に託してその愉悦と苦痛とを描いているが、自由な恋愛が行われる時代でも社会でもないことを考えれば、現実の描写というより、詩的表現のための工夫と考えざるを得ない。

 それにしても、その描写は迫真に迫っている。その中でよく問題となるのは葡萄酒である。古来議論の分かれるところであるが、イランの革命後は、イスラームが禁じる酒はご法度である。したがって、イランの専門家に聞いても歯切れは悪い。ハーフェズは実際には酒は嗜まず、あくまで象徴的に葡萄酒のもたらす陶酔感を神との一体感にたとえたもの、という議論になる。

 ハーフェズがこよなく愛した故郷シラーズは、ブドウの産地である。葡萄酒こそご法度であるが、イランでは今でも葡萄自体は普通に手に入る。シラーズの葡萄酒がおいしかったことは、シラーズ種の葡萄のワインが、今でも世界で嗜まれることで分かろう。

 ハーフェズの時代に葡萄酒が嗜まれていたことは、すでに紹介した下記の詩句からも明らかである。

 「美しき娘よ 公正の酒壺から葡萄酒を小さな杯に分けてくれ 乞食(紳士に道に励む者)が 世界をひっくり返さないように」

 当時、「公正の壺」と言われた葡萄酒壺があり、支配者が商人に対して税を胡麻化すことがないよう、この壺を使って店にある葡萄酒の量を測り納税額の基準としていたことが知られる。

 また、「忘れはしない 我は裏庭に住し(真摯に道に励む)(神に)酔うていた(自己滅却)今我のいるモスクにないものが そこにはあった」(カッコ内は訳者注)。本来、神を求めて自己滅却を目指す導師や修行者が、神への恋の道(徳)を説く傍ら、自己の欲望にふけるさまを嘆き糾弾するものであるが、ここでのハーフェズは、葡萄酒に酔っていたわけではない。あくまで、真摯な修行を通じて神との融合に愉悦・陶酔していたのである。むしろ、導師や同僚の修行者が、人目を盗んで葡萄酒を飲んでいたのであろう。

 それならば、ハーフェズは葡萄酒を飲んでいなかった、と言い切れるであろうか。実はそうとも言えないような気がする。

 「葡萄酒のもたらす至福を想えば 本源(万物の主、神)の巧みさが知れる バラの花びらの内で密かに バラ水が育まれるように」

 ここでいうバラ水とは、アルコールを含まないバラのエキスで、今でもイラン(カーシャンという町はバラ水で有名)で作られている。バラのエキスは、バラの花びらがつぼみから開花していく過程で、人からは見えはしないが徐々に育まれていく。自然の妙であり神の力のなす業、それは葡萄酒についても同じである。

 葡萄酒(味のみならず、香り色すべてを含めて)を本源(創造主)の巧みな力を示すものととらえているが、その味わいを自ら経験することなくそうまで言えるのであろうか。

 これまでは、ハーフェズの得意とした「ガザル」という短編の詩形式の一部の詩句を引用して紹介してきたが、次回にはガザル一遍全体を紹介する。ハーフェズが、実際に葡萄酒を飲んだのか飲んでいなかったのか、参考になろう。

(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)

(駒野欽一=元イラン大使)

2018年7月29日

・Sr 阿部のバンコク通信㉓人目を気にせず・・でも「われ関せず」ではないタイ人の暮らし

    ある夕刻、書院勤務を終えていつものように渋滞の中を帰途に着きました。

  タイでの生活で、感心する事は多々あります。不便を改善せず、苦にせず、文句を言わず、面倒がらずやる、延々と待つ。日本人の感覚では一つ一つが苦情の対象。

  また、それぞれのやる事なす事に干渉しない。無関心と言えば語弊があるが、自分の衣食住を悠々と、人の目を気にせず思うままに営む。清々して、自分を出して生きられる環境、日本から来た人々が「『監視カメラから解放』された体験をしている」と言う、正にその通り。

  かと思えば、誰かが倒れれば必ず走り寄る、困った人への素早く、優しい配慮。タイの人々の「われ関せず」ではない気持ちに胸が熱くなります。

  その日も、バスを降り大通りから修道院のある路地に差し掛かると、ちょっとした人だかり。近づいて見ると、足首に怪我をしたおじさんを囲んで、どくどく流れる傷口を何とか処置しようと駆け寄ったところ。

 「何の役にも立てそうもない」と、通り過ぎようとした私。その日に限ってタオルを持っていたのを思い出し、彼の傷口にタオルをしっかり当てて、病院に辿り着くまでの応急手当。後は近所の人に任せて修道院へ帰り、カバンを置いて急いで夕飯の仕度。夕食時の話題の一つになりました。

  思い出すと、今でもうれしい気持ちになります。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2018年7月29日

・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」㉒「 終息宣言」の陰で

 スイス・ジュネーブの町は涼しい。とりわけ、その高台にある世界保健機関(WHO) の本部は、美しい森の中にあるたたずまいだ。しかし最近の約3か月間、ここで働くメディカル・オフィサーたちの目は、遠くヨーロッパの外に向けられていたに違いない。

 7月24日、ようやくの終息宣言にほっと息をついた。数年前の 「悪夢の再来」を懸念させるように拡大したアフリカのエボラ出血熱のことだ。

   WHOは今年5月8日、アフリカ中部のコンゴ民主共和国(旧ザイール)で、エボラ出血熱の感染を確認したと発表した。7月9日までに 人がエボラウイルスに感染し、このうち疑い例も含めると29人が死亡。致死率は実に76%に達している。

 2014年から16年にかけて、アフリカが史上最悪とされるエボラ感染を経験したのは記憶に新しい。前回のアウトブレイク(集団発生)では、ギニア、リベリア、シエラレオネの西アフリカを中心に約2万8000人が感染し、約1万1100人が死亡した。同じ時期、コンゴ民主共和国でも66人が感染し、少なくとも49人が死亡したと報告されている。同国に限って見れば、今回の感染拡大は前回と同じ規模の被害に迫りかねないものだった。

 とりわけ今年のエボラ感染では、都市部でウイルス被害が広がっている事実が早くから報告され、WHO が警戒を強めた経緯がある。

 エボラへの感染は、同ウイルスに感染したサルやコウモリ、ヤマアラシなどの野生動物やその死骸にヒトが触れるところから始まると見られている。つまり、初期段階のヒトへの感染は、森の周辺で発生する。過去に感染が確認されたケースでも、患者の発生が辺境の村落にとどまった事例も多い。

  WHOによると、今回も当初は、都市部から150キロ以上離れた森林地帯に患者が限定されていた。ところが発生確認から1週間もたたない5月中旬、感染疑いの患者が同国北西部の主要都市ムバンダカで隔離される事態となった。

 ムバンダカは、首都キンシャサと結ばれる空港を持ち、約120万人が住む大都市だ。感染拡大の不安が一気に広がったものの、 WHOや医療援助団体などの尽力で 開発中のワクチンを住民ら3300人以上に接種し ギリギリのところで食い止められた。

 今回のエボラ感染では、医療関係者の間で懸念された点がもうひとつある。それは、アメリカ・トランプ政権のスタンスだ。今回のエボラ感染例が発表されたのと同じ5月8日、トランプ大統領は議会に対し、政府事業の見直しや予算削減を盛り込んだ法案を提出した。その中には、前回の被害を受けて創設されたエボラウイルス感染対策用の基金2億5200万ドルをそっくり削減することも盛り込まれていた。

 基金は、アフリカ諸国に米兵を派遣する態勢を維持したり、ワクチン開発や感染防御対策を進めたりするための貴重な財源だった。削減の意図は明らかにされていないが、「アメリカ・ファースト」の一貫であると指摘されている感染症のアウトブレイクは、世界のどこで、いつ起こるか分からない。今回のエボラ感染は、トランプ大統領の見識の欠如が最悪のタイミングで露呈する寸前だったとも言えるだろう。

 「次」が今回と同じ程度で収まるとは誰にも保証できない。あの涼しいジュネーブでWHO本部の仕事をいっときお手伝いした経験を思い起こし、震える思いでいる。

 (みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が、7月12日に文庫化されました クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中)

2018年7月26日

・菊地大司教の日記㉙アジア司教協議会連盟の援助関係会議、そして日本の司教団総会

FABCの会議でマニラへ

司教総会が終わった翌金曜日夕方の便で、フィリピンのマニラへ飛びました。アジアの司教協議会連盟(FABC)関係の会議に参加するためです。

 マニラ空港の混雑でなかなか着陸できず、夜の9時前のはずが到着したら10時過ぎ。外へ出てタクシーを待ってさらに1時間。会場は結構空港からは距離的には近いはずのパコという地区にあるマニラ教区のピオ12世カトリックセンター。司教総会など大きな会議や研修会の開かれる宿泊できる施設です。これがまたマニラ湾沿いの道は大渋滞で、空港から1時間以上。結局宿舎に到着したのは真夜中12時過ぎでした。空港で並んで乗ったイエロータクシーのドライバーは、親切に開いている入り口を探してくれました。

 会議はFABCのOHDというセクションの会議。OHDは「人間開発局」と訳されています。わたしはそこの委員であるとともに、協働するはずのカリタスアジアの責任者としても呼ばれました。

 OHDはFABCができる以前に、社会活動に携わっていた司教や司祭や修道者、信徒の話し合いの中で1969年頃にフィリピンで誕生した組織で、1970年以降はFABCの一部門となりました。それでも誕生の経緯から、マニラに実際の事務所を構え、独立した組織として運営されてきました。故浜尾枢機卿様も、OHDの責任者を務めたことがあります。

 わたしがカリタスに関わるようになった90年代後半までは、OHDの責任者がカリタスアジアの総裁を兼務していましたので、両者は協力しながら活動を進めてきました。ところがアジアのカリタスに関わるメンバーたちの希望で、1999年に、カリタスアジアはOHDから独立した組織となっています。

 その後、紆余曲折があり、人材を見つけることもできない事情もあり、OHDを今後どのように運営していくのか、また事務所をこのまま運営するのかが、この数年の大きな課題でした。今回の会議は、これにめどをつけて、次の3年の計画を明確にすることにありました。

 集まったのは、FABCの会長を務めるボンベイのオジワルド・グラシアス枢機卿。その補佐司教で、OHDの秘書を務めるアーヴィン司教。タイで難民救援組織に長年関わるピブル司教。そしてカリタスアジアを代表して私。加えてバチカンに新しくできたタクソン枢機卿の人間開発の部署から難民と移民セクションのアジアコーディネーター、ムラヤマさん。気候変動の専門家であるノエリン博士。そして香港のFABC事務局から司祭が一人。

 少しは将来の方向性を定めることができたと思いますし、今後のカリタスアジアとの長期的な協力体制にも目処をつけることができたのではないかと思います。

 私は明日の大阪での補佐司教お二人の叙階式に行かなくてはならないので、日曜日午後の便で早めに失礼することに。羽田行きの全日空便は午後2時40分の出発ですが、この土日は、マニラ市内で、キリスト教系の新興団体イグレシア・ニ・クリストが大規模集会を開催し、主な道路が閉鎖されることになっているのだとか。日曜とはいえ、大渋滞が懸念されていました。どうなるかわからないので、会議場の車で送って頂くことに。10時に玄関にやってきた車の運転席には、私が見た感じでは80歳ほどの超ベテランです。街の裏の路地のようなところを右に左にと走り抜け、最後は高速道路で、結局、40分で空港に到着。さすが、道を知り尽くしているベテラン。感謝でした。(2018年7月15日記)

司教総会開催

 7月9日から12日まで、日本のカトリック司教団の司教総会が、東京のカトリック中央協議会で開催されました。議事が思いの外早く進み。13日昼までの予定が、12日夕方で終わりとなりました。

 今回は、この数週間の間に教皇様から新しく任命された4名の被選司教たちと、開催直前に引退が受理された郡山司教、そして後任が任命されたさいたま教区管理者の岡田大司教も加わり、19名の参加となりました。

Soukai1806 総会の議事については、カトリック中央協議会のホームページに公式の報告がありますので、このリンクからご覧ください。

Soukai1803 11日の水曜日夕方には、場所をイグナチオ教会に移して、司教団主催で、ペトロ岐部と187福者殉教者の列福10周年と列聖祈願ミサを捧げました。司式はこのたび枢機卿の親任された大阪の前田枢機卿。教皇大使のチェノットゥ大司教も参加されました。

 また、このたびの西日本豪雨災害で亡くなられた方々の安息と、被災された方々のために、ミサの中で祈りを捧げました。聖歌隊で奉仕してくださったイエスのカリタス会のシスター方、イグナチオ教会の皆様、ありがとうございました。

 災害の発生中に司教総会があったこともあり、急遽でしたがわたしが起案して、豪雨災害で被災された方々へのメッセージを司教団として発表することができました。司教団の名前で出すメッセージは、司教全員の賛成が必要であるため、よく見ていただくとわかりますが、多くのメッセージはそれ以外の名称、つまり会長個人や、常任司教委員会や各委員会の名前で発信されています。今回は即座に賛成が得られたので、頂いた意見を基に加筆して発表メッセージとなりました。

カリタスジャパンは、被災された教区の担当者と連絡を取りながら、教会としてできることへ取り組むために動いているところです。(2018年7月14日記)

 

カリタス・ウガンダのンダミラ師の講演など

*十数年前、ンダミラ師に会いにウガンダまで

 カリタスジャパンと長年のパートナー関係にあるアフリカのカリタス・ウガンダ。私が司教になる以前、2003年頃に初めて訪問したのは、当時、あまりにもたくさんの援助申請書がウガンダから届くようになり、添付の推薦状が同じ人物のはずなのに、どれもこれも署名の字体が異なる、という事態に直面したからでした。その署名の人物の名前はモンセニョール・ンダミラ師。これは本人に会って確かめなくてはと、ウガンダまで出かけました。

 カンパラ郊外のエンテベ空港まで迎えに来てくれたンダミラ師は、笑顔の優しい神父さんでした。早速、彼の事務所で、持参した推薦状のコピーを見せながら話をすると、どれもこれも偽物。まるで本物のような司教協議会のレターヘッドの偽物までありました。

 そのときに合意したのが、ンダミラ師の事務所と直接やりとりをして、現地で進められるプログラムをカリタス・ジャパンで支援すること。いわゆる持続可能な農業の様々なプログラムを中心に、それ以降、今に至るまで、カリタス・ジャパンはンダミラ師の率いるカリタスウガンダを支援してきました。カリタス・ジャパンからも、毎年現地視察に出かけ、日本からの支援が生かされている現状を確認してきました。

 その後司教になった後に一度、ンダミラ師と一緒に、ウガンダ北部のグルへ出かけ、当時激化していた内戦とそれに伴う国内避難民の様子を、特に子どもたちの状況を中心に視察に出かけたことがあります。

 グルのオダマ大司教は、国内避難民の子どもたちの保護に奔走し、反政府勢力と政府の和平の仲介になったりと、国際的に知られた人物です。そこで、農業支援に取り組む時とは異なる、平和構築に真摯に取り組むンダミラ師とカリタス・ウガンダの姿を見ることになりました。現時点では、ウガンダ北西部で、南スーダンからの難民への対応に当っておられます。

 カリタス・ジャパンは、国際カリタスが昨年から推進する難民や移住者への理解を深め、排除することのない世界を築こうという「Share the Journey・排除ゼロ」キャンペーンに積極的に関わっています。司教協議会の難民移住移動者委員会とも連携し、様々な企画を行っています。ちょうど6月の末が、国際カリタスの進める世界的行動の週であったことから、日本での企画を考えました。

*ンダミラ師を招いて、アフリカの難民や移住者の現実を

 そしてカリタスジャパンとの長年のパートナーとして信頼関係にあるンダミラ師を招いて、アフリカの難民や移住者の現実についてお話をしていただくことになりました。

 講演会を一つだけではもったいないので呼びかけたところ、聖心女子大学のグローバル共生研究所の協力が得られ、同研究所との共催で、7月6日夜に、ンダミラ師の講演と、学生さんとのクロストークのイベントが開催され、100名を超える方々に参加していただきました。会場はかつてJICAの海外青年協力隊の研修所だった広尾の聖心女子大学の建物です。中心になって動いてくださる大橋正明先生は、シャプラニールをはじめ海外で活躍する多くのNGOに関わって来られた方です。

 学生の皆さんからも、様々に興味深い質問をいただき、ンダミラ師のお話を皆で深く聞く機会となりました。ではもったいないので呼びかけたところ、聖心女子大学のグローバル共生研究所の協力が得られ、同研究所との共催で、7月6日夜に、ンダミラ師の講演と、学生さんとのクロストークのイベントが開催され、100名を超える方々に参加していただきました。(7月6日記)

*東京教会管区アクションデーを関口で:7月8月の予定

 翌日、7月7日は、難民移住移動者委員会と共催で東京教会管区アクションデーを関口で行いました。これには遠くは札幌教区からも参加者があり、300人近い方が集まりました。東京教区の国際センターCTIC所長の高木健次神父がスタッフも動員して準備に奔走してくださいました。感謝です。

 午前中は私の導入の後、私が質問してンダミラしに答えていただく形でお話を伺い、さらに難民や移住者としての当事者の方々3名のお話を伺い、キャンペー

ンの趣旨に則って一緒に昼食を分かち合い、午後はワークショップ。そして3時からカテドラルで国際ミサとなりました。ミサは基本は日本語でしたが、歌は、特にインドネシアの方々を中心とした素晴らしい聖歌隊が歌ってくださり、共同祈願も各国語で。多くの人が様々な役割を担うミサとなりました。

 参加してくださった皆さん、準備してくださった皆さん、本当にありがとうございました。

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 移民や難民として流入してくる人たちが、世界各国で増加するにつれ、どこの国でも排斥する傾向が強くなっています。それに対して教皇フランシスコは、手を広げて迎え入れようと呼びかけます。様々な理由で人は旅に出るのですけれど、自分自身の毎日と照らし合わせて考えてみれば、今の生活を捨てて旅に出ることは、簡単な決意でできることではありません。多くの人が重大な決断のもとに旅に出ます。その人たちを、迎え入れようというのが教皇フランシスコの呼びかけです。

 同時に、そういった人たちを受け入れることを難しくしているのは、相手を知らないからだとも、教皇は指摘されています。知らないから不安になり、排斥に進むのだと。だから理解するためにも互いに知り合おう、互いの旅路を物語を分かち合おう。食事を分かち合おう.そこから相互の理解が生まれるのだと、教皇フランシスコは呼びかけています。

 このキャンペーンも、まず互いに知り合って理解を深めようとするキャンペーンです。ンダミラ師はあと数日は日本に滞在され、今週初めには、名古屋の南山大学でも話をされることになっています。

7月8月の主な予定

 あっという間に関東の梅雨は明け、真夏のような7月が始まっています。7月と8月の主な予定を記しておきます。
  • 7月4日 ペトロの家司祭ミーティング (朝)
  • 7月5日 常任司教委員会 (10時、潮見)
  • 7月5日と6日 神学院常任司教委員会 (東京キャンパス)
  • 7月6日 カリタスウガンダ講演会 (聖心女子大学)
  • 7月7日 排除ゼロキャンペーン・アクションデー (午前中、関口教会)
  • 7月7日 国際ミサ (キャンペーン行事) (15時、東京カテドラル)
  • 7月8日 下井草教会堅信式 (9時半、ミサ)
  • 7月9日~13日 司教総会 (潮見)
  • 7月14日 FABC/OHD (アジア司教協議会連盟人間開発局)会議 (全日、マニラ)
  • 7月16日 大阪教区司教叙階式 (11時、玉造教会)
  • 7月17日 新潟教区顧問会など (全日、新潟)
  • 7月18日・19日 東京教会管区会議 (札幌教区)
  • 7月21日 宣教司牧評議会 (14時半)、永代働く人の家 (夕方)
  • 7月23日 HIV/AIDSデスク会議 (13時、潮見)
  • 7月24日 ペトロの家運営会議 (14時)
  • 7月25日 マリアの宣教者フランシスコ会瀬田修道院 (午後)
  • 7月26日・27日 聖体奉仕会 (秋田)
  • 7月29日 豊四季教会英語ミサ (14時)
  • 8月3日 日本カトリック医療施設協会全国大会 (都内)
  • 8月11日 平和旬間行事、平和祈願ミサ (14時、イグナチオ、18時、東京カテドラル)
  • 8月12日 平和旬間行事、ミサ・講演 (10時、上野教会、18時半、立川教会ミサのみ)
  • 8月15日 聖母被昇天祭
  • 8月17日 新潟教区保育者研修会 (新潟)
  • 8月19日 宮古教会ミサ (岩手県宮古)
  • 8月21日 EWTNインタビュー収録 (午前中)
  • 8月22日 生涯養成委員会 (夕方)
  • 8月24日 仙台教区サポート会議 (10時、仙台)
  • 8月25日 神言会宣教事務局講演会 (13時半、吉祥寺教会、16時ミサ)
  • 8月27日 カリタスジャパン事務局会議 (9時半、潮見)
  • 8月28日 カリタスジャパン会議 (午前午後、潮見)
  • 8月29~31日 教区神学生合宿
  • (菊地功=きくち・いさお=東京大司教)