・菊地大司教の日記㊹教皇フランシスコ来日に備えて2

2019年2月 6日 (水)

 教皇フランシスコの言葉から。「福音の喜び」に次のような記述があります。

「神は人々を個々人としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。一人で救われる人はいません。」(EG113)

 教会はいろいろな人の集まりですし、いろいろな人が集まれば、そこには様々な人間関係が生じます。時には教会の中で対立さえみられ、そのために、教会を離れてしまう人も少なくありません。残念なことだと思います。

 信仰は自分と神との関係だから、一人でも大丈夫。そうなのかもしれません。でもわたしたちの信仰の歴史は、その始まりから、共同体のうちに育まれてきました。救いの歴史は、私と神とのプライベートな関係の中にあるのではなく、神とその民との関係の中で刻まれています。

 教会は、単に礼拝のために人が集まる場ではなく、現実社会の中で神の民として存在するあかしとして存在し、救いの実現のために不可欠なのです。わたしたちの信仰は、教会共同体の中で育まれます。

 だからこそ、教会は常に、誰かを排除していないか、対立を生み出していないか、自らのあり方を顧み続けることが必要です。よく言われるように、対話は、互いの自己主張を我慢することではありません。互いに謙遜と尊敬をもって、それぞれの人生の歴史に耳を傾け、唯一の神の懐に抱かれて、ともに救いの道を目指したいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

 

2019年2月6日

・Sr.阿部のバンコク通信㉙聖人像を祭壇に置く仏僧に、エキュメニカルな信仰を感じる

 『行って全ての人に福音を宣べる』緊急課題を実感するこの頃です。人生の師であるイエス=福音、『私は真理、道、命である』と宣言する方と親しく出会えたら…と願わずにいられない人々にしばしば接する機会があり、自分の合掌する気持ちに力が入ります。

   先日、パウロ書院に、仏教の僧侶が来られました。カトリックの霊性神学書、十字架のヨハネ、アヴィラの聖テレジアの著書などを読まれ、これまで何体かの聖人の御像を注文されて、祭壇に飾って祈られている、とのこと。今回も注文の聖ヨハネパウロ2世像を取りに来られ、『大変尊敬しています』と嬉しそうに、大きな十字架像も購入されました。宗旨を超えて偉大なる方を敬い、祈祷に捧げる敬虔な姿、エキュメニカルな信仰心を感じます。故プラサンティ僧も、修院の祝別式に来られたり、僧院を訪ねて、神仏に仕え、人々のために祈る、同じ修道の道を歩む意義を熱く語らい、私たちのことを喜んでくださいました。

  早朝から、裸足で祈りながら街をめぐる僧侶の姿が普段にあるタイ国、40万の出家した僧侶の存在、30万余の寺院。そしてカトリック教会と聖職者2,500人、モスク他…。見えない世界との接点が身近にある事の意義を改めて噛み締めています。Something Great である師イエスが啓示された父なる神、聖霊の交わりに自らを浸らせ、タイでの一粒のパン種として生きる覚悟です。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

 

2019年2月5日

・Sr石野の思い出あれこれ⑦遂に決断、両親に祝福され修道院の門をくぐることに

 蕾、蕾、わたしはまだ蕾なのだ。そんなこと、考えたこともなかったけど・・・・イエス様に蕾を差し上げて、その前でパッと開いて素敵な花を咲かせる。素晴らしいじゃない?

 そんな思いがだんだんわたしの頭の中で、そして心の中で膨らんでいった。そしていつの間にか、シスターになろうかなー、修道院に入ろうかなーという誘惑(?)に変わりつつあった。

 修道院に入るとなると、洗礼の時よりも両親の反対は強いに決まっている、何と言って説得したらよいのだろう? 兄弟たちは? まだ修道生活に入る決心をしたのでもないのに、あれやこれやと思いめぐらした。まるで入会を決めたかのように。修道生活がどんなものであるか、まだ100パーセント分かっていたわけではないけれど、わたしの気持ちはだんだんと修道生活の方に傾きつつあった…。

 そしてついに決心した。修道会に入ろう。修道会に入るということは、生涯を神様に捧げることだと聞いた。イエス様の花嫁になることだとも聞いた。捧げよう、わたしのすべてを神さまに。そう決心した後、わたしの気持ちは揺らがなかった。そして反対は覚悟で周りを納得させるために戦闘を開始した。

 まず、カトリックの友人たちに話した。皆喜んでくれる、あるいは味方になって応援してくれると思っていた。ところが「まだ早すぎる」とか、「修道会の選び方が甘い」、「もう少し考えて他の修道会のことも調べてみたらいい」と、厳しい答えが返ってきた。わたしの心は揺れた。わたし以上に修道会や修道生活を知っている先輩たちの意見だったからだ。でも、誰もわたしの決意をひるがえすことはできなかった。

 さて両親。何と言おうか、どう切り出せばよいのか?ずいぶん迷った。まず母に告白した。「お父さんに聞いてごらんなさい」と、母は逃げた。「お父さん、わたし修道院に行きたいのですけどいいですか?」

 父は「お母さんに聞いてみなさい」と言って言葉を濁した。「なぜ修道院に行くのか?家で何かいやなことでもあったのか、もし変えられることならいくらでも変えるから言いなさい」と父は言った。「何もいやなことはありません。イエスさまと結婚して、イエス様の花嫁になりたいのです」。

 でも、わたし自身、修道生活について説明することが出来なかった。修道女になるとは、イエスさまと結婚し、イエスさまの花嫁になること、と聞かされていたので、そのことばを受け売りするより他になかった。二人で話しているので、ちょうどいい、許可をもらおう、と思って近づくと警戒してか、父が立ってどこかに行ってしまう。

 6か月が過ぎたある日、父がわたしを呼んで言った。「わたしたちは修道生活についてよく分からない。でもあなたが真剣に考えて、本当に、その道で幸せになれる、と思うなら、お父さんもお母さんも、澪子の望みを叶えることにした。子供の幸せを望むのが親の義務だから」と言って修道院に行くことを許してくれた。こうも言った。「石野家の系図には今まで、お坊さんと尼さんが幾人か出ている。このあたりで、たとえ宗教は違っても、神様にお仕えする人が出てもいいのかもしれない」。

 こうして、わたしは両親に祝福されて修道院の門をくぐることになった。洗礼を受けてから一年と2週間目のことだった。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2019年1月30日

・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑱「”あれ”のある顔の女性」は、神への愛の表徴 

 筆者が毎日暗唱し、教訓・励みとしている14世紀ペルシャの詩人ハーフェズの詩の断片を、そのガザル(短形詩)全体とともに紹介している。しばらく、その続きである。

 

 「美女とは美しい髪や柳腰をいうだけではない “あれ”のある顔(かんばせ)の女性のとりこになろう 天国の妖精や絶世の美人の様(さま)は美しく華やか その美しさ華やかさには“何か”がある

 咲き始めた花よ(美女、神の象徴) 我が目の泉(涙)に気付けよ 汝に願いを懸けて目にあふれる涙を流している我を(助けよ) 汝が目や睫毛は弓矢の術において 弓持つ武者のいずれよりも強い 汝の美しさは輝く太陽にも勝る (太陽すら)手綱を保つことができない武者のよう

 心から絞り出される我が歌は人の心に響き汝(美女)も受け入れた 然り然り恋の歌には ひびきがある(苦しみ痛み) 修道の場で励む者に対して(導師よ)徳を吹聴するなかれ いかなる説教もなす時があり いかなる論義もなすところがある 恋の途においてはだれもが秘密の高みに達せられるわけではない おのおのの理解に応じて信ずるものだ 賢い鳥は野原を住処とはしない 春にはいつも(冷たい)秋が続くから(一時の幸せを追わない)

 賢ぶる者(導師)に伝えよ ハーフェズにその秘儀や論を売り込まないように われら(ハーフェズ)が歌も美しさや趣に こと欠かない」

 筆者が教訓にしているのこの詩の前半の自慢話は控えよ、というのは当然として、特に後半部分、議論のみならず、日常しゃべることでも、時と場所を心得るべきだ、という点は心に留めている。もっとも、なかなかそうはいかないのが凡人の常であり、自戒している。

 他方、ハーフェズの意図は自らの人生への姿勢、すなわち神への恋の道とそれにかける自らの生き方への自負である。求める美女の描写は肌理細かく微妙、まるで実際の恋の経験を踏まえて語っているかのようであるが、あくまで神への恋であり美女はその表徴である。

 美女の何とも言えぬ美しさを描写するのに、ハーフェズは「あれ」や「何か」(冒頭部分で“でくくった2つの言葉)という暗黙の了解を前提とする表現を用いている。“あれ”は、イスラム神秘主義道の専門用語であるが、後のペルシャ語文学では一般化されて、「感得できるものの言葉では、言い表せないもの」を意味するようになった。

 眼や睫毛は美女の象徴であり、その形状から弓矢にたとえられる。目は射る矢であり、睫毛は弓の形をしている。したがって「美女は弓矢の名手、いかなる弓の引き手にも負けない」と言って、その美しさと(魅)力を絶賛している。また「輝ける太陽も、美女の前では手綱さばきもままならない武者のようで、到底美女に太刀打ちできない」と述べている。そうした美女は、神でしかありえないであろう。

 続いて、神への恋の道を修行する場、修道場における先輩導師の腐敗ぶりに矛先を向け、彼らは修道場では格好よく徳を語り高説を吐くが、陰ではなにをしているのかと強く批判する。腐敗した導師を導師として認めないハーフェズに対して、導師たちも厳しく当たっていたようである。また存命当時から広くペルシャ文化の世界に知られていた詩人ハーフェズに対して、先輩導師たちのやっかみ、反発も強かったのであろう。

 それに対してハーフェズも「自分(詩作)こそ、神を求める道における苦しみや痛みを心の底から絞り出して歌っているから、人の心に訴えるのだ」と言って、導師たちに余計な説教(非難)はよしにしてくれ、と叫ぶ。それは、自らの生き方と詩人としての創造に対する強い自負の表明であり、「神への修行の道においては、誰もが目的を達せられるわけではない」とまで言っている。

(詩の翻訳は筆者)

(駒野欽一=元イラン大使)

2019年1月30日

・三輪先生の現代短評④アラン・コルバンの『静寂と沈黙の歴史』に触発されて

 平成31年1月28日午前4時、私は寝室の静寂から書斎の静寂へと身を移した。

 机上には気になった新聞記事の切り抜きが置かれている。防衛大学校の国分良成校長の教育理念の淵源が説かれている。範はイギリスのパブリックスクールにあり、「ノブレス・オブリージ」、「士官にして紳士」人のために一生を捧げる覚悟・知識・体力を備えた人間を涵養することを目標としている。

 『日経』(2019・1・21)の郵送による世論調査の結果は「信頼できる」日本の機関や団体、公職のなかで「トップ」が自衛隊であった。この2つの情報を繋ぐと、誰しもが防衛大学校の教育の成果と思わずにはいられないだろう。

 昨年の春、講演を頼まれて防衛大学校を訪れたことがある。広々としたキャンパスの戸外にも校舎内にも、豊かな静寂が満ちみちていることに、深い感銘を覚えた。

 ひるがえって自身の経験に照らして、旧制高校に同じ質の沈黙の時間帯はあったろうか。寮生にとって寝室の静寂はストームの暴力的喧噪で破られた。静寂は図書室内だけだったろうか。剣道場、柔道場に禅的な静寂はあったのだろうか。一大騒音の典型は「デカンショデカンショで半年や暮す、後の半年や寝て暮らす、ヨーイ、ヨーイデッカンショ」だった。寮生活はまさにこの造られた騒音と就寝という自然な沈黙と静寂の混淆であった。

 戦後旧制高校は廃絶され、その教育制度を惜しむ経験者はあまたいるが、その静寂を懐かしむ者はあまりいないようだ。それはどういう事か。

 戦前日本の教育の現場では沈黙と静寂は基本的徳目とされていたと思う。毎年何処かで旧制高校の卒業生による寮歌祭が開催されている。騒音による一体化の方が記憶に残り、懐かしがられている、という事なのであろうか。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

2019年1月30日

・Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」㉗かけがえのない人生を大切に-名物教授の名物講座

 早稲田大学に、名物教授による名物講座がある。

 そんなの、珍しくもなんともないーと思い込まないでほしい。講座が設置されているのは、学部でも大学院でもない。社会人でも高齢者でも、誰もが自由
に通うことができる「早稲田大学オープンカレッジ」なのだ。

 講師を務めるのは、大槻宏樹・名誉教授。昭和8年、長野県生まれの名誉教授は、教育学とりわけ生涯学習・社会教育の権威で、オープンカレッジでは2000年度から「Death Education―死と向き合って生きる」と題する講座を約20年にわたって続けている。

 大槻講座を「死生学」と総括するのでは、かえってその対象を狭めてしまう。2018年度のカリキュラムを見ても、「他者と生きる」「〈生〉とは」「死は選べるか」「動物の死」「超高齢社会に〈老〉とは」「『きけわだつみのこえ』とその周辺」「在宅死と病院死」「墓と塔」「自死と無縁死」「生命倫理と優生思想」「遺言と辞世」――と実に幅広い視点から「生きることと死ぬこと」を学ぶ機会を与えてくれている。

 講座の狙いについて大槻名誉教授は、「死がタブー視されているのを直そうと思います。死ぬ時だけが尊厳ではないはずです。生きている時こそ尊厳であ
りたいものです。かけがえのない人生を大切に――という思いです」と語る。「Death Educationとは、死の準備教育ではありません。むしろ、死と向き
合って『生きる』ことに重点をおいています。生きるために、人と人との関係の大切さを知り、無理な自立よりも依存の大切さを学んでもらいたいのです」。

 ユニークなのは、講座の内容だけではない。毎回の講義終了後、名誉教授と受講生による茶話会を開くといったところは、まだ序の口だ。公式のカリキュラムにはない施設見学会や懇親会の開催、合宿旅行や自主勉強会などを受講生に企画させ、毎年の授業成果をまとめた論文集も、編集委員による数次の会議を経て発刊する。

 さらに2007年からは、受講年を問わず歴代の受講生たちが自由に参加できる研究発表会を11月に開催。年度末3月には、歴代の受講生が集うメガ同窓会も開かれる。同窓会組織を維持・運営するのは各期の世話役を務める幹事たち……。まさしく、大学のゼミとそのOB会のような集まりになっている。

 あまたあるカルチャーセンターの講座と同様、大学の教室内限りで離合集散するのが当たり前の公開講座で、実に「濃い」相互交流を実現していると言えるだろう。

 縁あって1月中旬、大槻名誉教授宅を訪ねた。その日は、受講生たちが名誉教授宅を訪ね、ちゃんこ鍋をごちそうになるという、これも大槻講座の「正月
行事」の日だった。

 四方の壁がびっしりと本で埋まる書斎に、いくつものテーブルを並べ、あつあつの鍋とおせち料理をいただき、受講生らが手土産に持ち寄った酒を開けていく。名誉教授を囲む形でそろった受講生たちは、おおむね60歳代以上。初孫の話をしながらワインに手を伸ばす教え子を前に、相好を崩して鍋をすすめる80歳代の恩師の姿……。「かけがえのない人生を大切に」という言葉が改めて思い起こされる冬の一日だった。

(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が昨夏、文庫化された。クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた長編小説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中)

2019年1月26日

・菊地大司教の日記㊸「シノダリティ」について/東京教区修女連新年研修会@イグナチオ教会

2019年1月21日

シノダリティについて

 東京教区の皆様には、新年の教区ニュースの冒頭でお願いしているとおり、宣教司牧の基本方針を策定するために、今年の聖霊降臨までに、多くの方の意見を伺いたいとお願いしているところです。(教区ニュースへのリンクです

 具体的なお願いの詳細については、あらためて短い文書で、月末までに、各小教区にお願いをいたします。

 でもその前に、今回のご意見を伺うに当たって、是非とも心にとめて頂きたい言葉があります。それが、「シノダリティ」です。

 昨年10月のシノドス閉会ミサ後のお告げの祈りでの、教皇様のメッセージを、是非ともお読みください。このリンクに、中央協議会の翻訳があります。是非、ご一読を。

 その中で、教皇様は、次のように言われます。

「それは『いやしと希望』のときであり、何よりも『傾聴』のときでした。傾聴するためには、時間、注意力、さらには心と気持ちを開け放つことが必要です。しかしその行程は、日々、いやしに変わっていきました」

 互いの話に耳を傾け合うことの重要性です。その上で、

「傾聴というこの基本的な手だてを通して、わたしたちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、みことばと聖霊の光のもとに、『共同体としての識別』が行われました。それは、主からカトリック教会に与えられたもっとも素晴らしいたまものの一つです。つまり、まったく異なる状況にある人々の発言や表情を集め、つねに福音の光のもとに、その現象の利点と複雑性を考慮に入れながら解釈しようとしたのです」

 神の求める道はどこにあるのかを、識別するのです。それも一人でそうするのではなく、共同体としての識別です。そして、

「書面の文書を作成することを第一の目的としない『シノドス様式』です。書面の文書も貴重で有益なものですが、それ以上に、現状に即した司牧的選択をするために、老若男女が集まり、協力しながら傾聴と識別を行う方法を推進することが重要です」

 「シノドス様式」と訳されている「シノダリティ」。東京教区の宣教司牧の方針を定めるに当たっても、シノダリティの道を歩みたいと思います。互いの意見に耳を傾けあい、共同体としての識別を重ねたいのです。

 ですから、今回、意見を求めるにあったては、個々人の方のご意見ではなくて、二人三人が集まって形成する「共同体」の識別の結果を伺いたいと願っています。小教区全体では無理としても、何らかの形での複数の方の互いの分かち合いと傾聴と、その上での識別の結果をお聞かせ願えればと思います。

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2019年1月12日 (土)

Shujot1904

 東京教区の修道女連盟主催で、毎年この時期に行われる新年研修会と新年の感謝ミサが本日1月12日午前9時半から午後3時まで、四谷のイグナチオ教会を会場に開催され、教区内の各地から300名を超えるシスター方が集まりました。

 今年のテーマは、「真の喜びに生きる教会」で、ミサと講話を今年もまた私が担当。昨年も初めてでしたので、ミサと講話を担当しましたが、そのときに話しきれなかったことが多々あったので、(たぶんそういう意味でも)、今年もミサと講話を担当することに。

Shujof1903

 テーマは、着座して一年以上が過ぎ、教区の宣教司牧の方針を確立する段階に入ったこともあり、現在の課題について話すことが主眼でした。同時に、先般青年たちの召命や信仰をテーマとしたシノドスがあったことから、「青年と召命」もサブテーマに。

 とはいえ、シノドスの最終文書の英語訳は数日前に発表されたばかりで、今回には読み込みが間に合いません。

 そこで、シノドス最終日の教皇様のメッセージ(お告げの祈り)と、閉会時に発表された短いメッセージを基にして、いくつかお話しさせて頂きました。

 その中で触れたのは、シノダリティ(シノドス様式とかシノドス的とか)のことです。

 今回のシノドスの終わりに当たっての教皇様のメッセージには、今回は参加者と青年たちがともに道を歩みながら互いに傾聴を心がけ、聖霊に導かれて識別を行い、神の呼びかけに応えることを目指したのであり、文書を作成することが最終目的ではなかったと言う言葉がありました。

 多くの人が互いの話に耳を傾けあい、自らの体験を分かち合い、祈りをともにし、神の民として一緒に道を歩みながら識別を重ねるところに、シノダリティの本質があるのだと言うことでしょう。

 教会のあShujof1905り方を考えるときに、この点を教皇様はしばしば強調されているように思います。

 東京教区にあっても、宣教司牧の方針を定めるに当たって、そういったともに歩みをともにし、互いに耳を傾け合って、祈りのうちに識別を進める道を進みたいと思います。

 準備してくださったシスター方と、イグナチオ教会の皆さんに感謝します。

 ところで、2019年度の教区の人事異動に関して、第一次の人事発表が、教区ホームページに掲載されていますので、ご覧ください。このあと、修道会なども含めて、数次にわたり、人事異動が発表されることになります。

(菊地功=きくち・いさお=東京教区大司教)

2019年1月13日

・Sr.阿部のバンコク通信㉘活気に満ちたタイの市場に活力をもらう!

  いつも活気に満ち、早朝から人々の生気で賑わう市場、私のタイでの生活になくてはならない足繁く通うお気に入りの場所です。自転車で買い出しに行く度に、喝が入り、命が湧いてくるのを感じます。

  駐車場に止めてキャスター付きの鞄を引いて、値段と品を見定めながら市場を先ずは一巡り。とにかく広い。ある時、どっさり魚を買って預け、後で持って帰ろうとして、店が見つからず困ったこともありました

 今は通い慣れた横丁、良い品をいい値段で買出し、前の籠、後ろの荷台、ハンドルにもフラフラするぐらいぶら下げて、汗だくで帰ります。帰ってから仕分け、使い勝手を考えながら捌いたり拵えたり、生きているって感じしますね。姉妹たちの食事の世話は大切な仕事、家庭と宣教の足場作りで、私は企画編集の傍、炊事

の役も兼ねています。

    この市場は「インチャルーン」と言う名で、バンコク郊外にある最大の私設市場。総面積15,000平方メートルの敷地には、約1,600店が軒を連ね、野菜、肉、魚、米、果物などタイ各地から集まるあらゆる食料品を中心に、衣料品雑貨、あらゆる日常品が揃っていて、1日2万人のお客さんで賑わうとか

     タイの国土は日本と逆、平地の割合が広く、歌にもある様に「種を巻けば必ず芽を出し豊かに実」り~で、産地と結ばれた市場には新鮮な食材が常に豊富に並んでいます。生活を支える活気ある市場が、タイ中のここそこにあり、人々が交錯する生活の銀座です。

 今年は猪年、タイでは豚です。人の命を養ってくれるありがたい生き物の数々、感謝して頂き、嬉々として生きて行きましょう。

 コラム愛読者の皆さん、謹賀新年!

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2019年1月2日

・菊地大司教の日記㊷喜びと希望、そして平安に満ちた年となりますように

2019年1月 1日 (火)

 みなさま、新年あけましておめでとうございます。

 2019年が、神様からの祝福と護りのうちに、みなさまそれぞれにとって、喜びと希望、そして平安に満ちた年となりますように、お祈り申し上げます。

 2019年1月1日の深夜零時、年が明けてすぐに、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、神の母聖マリアの祝日のミサを捧げました。深夜にもかかわらず、聖堂に一杯の方が参列してくださいました。

Nymidmass1901
2019年は、教皇フランシスコの来日が期待されている年です。最終的にはバチカンと日本政府の交渉によって、実現するかどうかは決まるのですが、現時点では、教皇様をはじめ教皇庁の方々は、訪日実現に向けて動いてくださっています。実現を信じながら、わたしたちは、単に訪問のときだけの準備をするのではなく、訪問が日本における福音宣教をさらに強める契機となるように、事前に霊的にも良い準備をしていきたいと思います。

 その手始めとして、教皇フランシスコの書かれた文書を、あらためて読み直すことなどはどうでしょうか。ひとりでは難しくても、何人かのグループで、例えば「福音の喜び」などや、または文庫で出ている説教集などを読んでみる会を開いてみるのはいかがでしょう。日本にお迎えする教皇が、どのような教会のあり方を望んでおられるのか、学ぶことは大切だと思います。

 勉強はちょっと、と言う方には、ぜひとも、教皇様のために、また教皇様の意向のために、祈ることができます。これもひとりでは大変かも知れませんが、何人かのグループで、例えばロザリオを一緒に唱えることもできるでしょう。教皇様は、常々、ご自分のために祈ってほしいと願われています。

 また、2019年は、日本にあっては平成の時代が終わり、今上天皇が譲位され、新しい時代が始まる年でもあります。憲法の精神が豊かに生かされ、新しい国民統合の象徴をいただき、世界に誇る平和国家日本の存在が強められることを、心から祈ります。

 東日本大震災の発生から、この3月で8年となります。被災した各県の復興状況は異なりますが、日本の教会全体としての関わりは、様々な地域で、様々なレベルで継続されています。東京教区が関わる南相馬にあっては、取り組みが新たな次元に入ろうとしています。これからも歩みをともにする道を進みたいと思います。東北以外にも、昨年は全国各地で災害が続きました。教会の様々な取り組みをもって、いのちの与え主である神の、誰ひとり忘れてはいないと言う思いを、目に見える形にしていくことができればと思います。

 創造主としての神が望まれる世界秩序が実現しない限り、本当の平和はあり得ないと思います。残念ながら、神が望まれる世界のあり方とは異なる方向に向かう出来事は、各地に数限りなく存在しています。神の御旨に誠実にしたがって、生きる勇気を願いたいと思います。

Nymidmass1903
以下、深夜ミサの説教の原稿です。

 お集まりの皆さん、新年明けましておめでとうございます。

 主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念する私たちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

 先ほど朗読された福音には、主イエスの誕生の夜、羊飼いたちが天使に導かれて聖家族のもとに駆けつけ、そこで目の当たりにした神による不思議なわざを、今度はさらに多くの人たちに告げ知らせていった様が描かれておりました。福音には「不思議に思った」と記されていますが、実際にはどうだったのでしょう。

 今でも、世界各地では、常識を裏切るような出来事がしばしば発生し、そのたびごとに私たちは大騒ぎをいたします。よりよい対応ができずに、たとえば予想を上回るような大災害が発生すると、「想定外」などといった言葉も使われます。そういった「想定外」の出来事が起こるとき、今の時代にはインターネットをはじめとした様々なコミュニケーション手段があるのですから、出来事のインパクトが大きければ大きいほど、多くの人を巻き込んだ騒ぎとなります。多くの人が熱狂します。

 もし仮に、2000年前にそのようなコミュニケーション手段があったとしたら、天使に導かれて聖家族に到達した羊飼いの話はあっという間に広まり、ちょっとした騒ぎを巻き起こしていたのかもしれません。

 でもわたしたちは、そういった熱狂が一時的であることを、体験を持って知っています。熱はあっという間に冷めてしまい、そうなると誰も起こった出来事に関心を持たなくなってしまう。

 羊飼いたちにしても、そうであったかもしれません。その晩起こった出来事の不思議さを耳にした人たちは、一時的に興奮し熱狂したのかもしれませんが、それはすぐに忘れ去られていったことでしょう。それを福音は、「不思議に思った」という言葉で記します。

 それに対して神の母である聖マリアは、出来事にいちいち興奮することなく、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」のだと福音は記します。

 すべての出来事は神の御手の中にあって起こっています。起こる出来事のいくつかを通じて、神はご自分の計画を示されることでしょう。興奮していては、熱狂していては、その神の声を聞き分けることはできません。熱狂は、結局はイエスを十字架につけて殺してしまったのです。

 マリアは、観想のうちに落ち着きながら、神の思いを識別する姿の模範を私たちに示します。

 いちいち例を挙げるまでもなく、諸外国との関係にあっても、国内で起こる様々な出来事にあっても、私たちは、圧倒的な情報の前で一喜一憂し、時に興奮し、熱狂のうちにあっという間の判断を下してしまいます。落ち着きましょう。私たちが興奮して焦って、人間の思い通りに何かを進めても、それが神の計画にかなうものとは限らない、どころか、しばしば反対の結果になるのです。

 教皇フランシスコはこのことを、「時間は空間に勝る」という言葉で示されています。

 使徒的勧告『福音の喜び』に、平和を実現するための4つの原理というのがあって、最初に言われているのがこの「時間は空間に勝る」という原理です。

 教皇はこの原理について、こう言います。
「この原理は、早急に結果を出さず、長期的な取り組みを可能にします。…空間を優先することは、現時点ですべてを解決しようとする、あるいは、権力と自己主張が及ぶ空間すべてを我が物にしようとする愚かな行動へと人を導きます。」(『福音の喜び』223)

 マリアは、熱狂のうちに興奮して拙速な判断をすることなく、時間を優先して、落ち着きのうちに、神の御旨を知ろうとする謙遜な姿の模範を示しています。

 「時間は空間に勝る」は、平和を実現するための四つの原理の一つでありましたが、この1月1日を教会は、世界平和の日とも定めています。今年の世界平和の日にあたり、教皇フランシスコは、「よい政治は平和に寄与する」という題名のメッセージを発表され、政治に携わる人々に語りかけ、また多くの人がよりよい政治の実現に関心を寄せるようにと呼びかけられています。

 その中で教皇様は、まず次のように指摘されます。
「平和をもたらすことは、キリストの弟子の使命の核心です。そしてその相手は、人類の歴史に刻まれた悲劇と暴力のただ中で、平和を願い求めるすべての人です」。

 その上で、政治の果たすべき役割の重要性に触れながら、次のように政治に対する前向きな期待を述べられています。「人間のいのちと自由、尊厳に対する根本的な敬意のもとに行われるとき、政治は愛のわざの卓越したかたちとなるにちがいありません」

 そして、政治家の理想的な姿を表現するものとして、2002年に死去したベトナム出身のフランシスコ・ザヴィエル・ヴァン・トゥアン枢機卿の「政治家の真福八端」を掲げます。こう書いてあります。

        「自分の役割に対して高い意識と深い理解をもつ政治家は、幸いである。
信頼できる人柄の政治家は、幸いである。
自分の利益のためにではなく、共通善のために働く政治家は、幸いである。
一貫して忠実である政治家は、幸いである。
一致を実現する政治家は、幸いである。
抜本的改革を行うために尽力する政治家は、幸いである。
耳を傾けることのできる政治家は、幸いである。
ひるまない政治家は、幸いである」

 そして教皇様は、終わりにこう指摘されます。
「政治が平和に寄与するのは、各人のカリスマと能力を正当に評価し、それを明らかにするときです」

 新しい年の初めに当たり、この一年が私たちにとって、熱狂ではなく観想のうちに、神の御旨を識別する年となりますように、またすべての人が、それぞれに与えられたカリスマと能力を正当に評価され、それに十全に生きることのできる社会が実現しますように、ともに神の母である聖母マリアの取り次ぎのうちに、神の導きを祈りましょう。

1月の主な予定

2019年1月の主な予定です。

1月06日(日) 主の公現 (9:30新潟教会)

1月07日(月) 司祭評議会など (教区本部)

1月08日(火) カリタスジャパン会議 (全日、潮見)

1月09日(水) HIV/AIDSデスク会議 (午後、潮見)

1月10日(木) 常任司教委員会、カトリック新聞会議 (全日、潮見)

1月11日(金) ペトロの家会議 (午後、教区本部)

1月12日(土) 東京教区修女連新年研修会 (全日、麹町教会)

1月14日(月) 神言会聖霊会創立者記念日ミサ (午前中、吉祥寺教会)

1月14日(月) 新年の集いミサ (14時 カテドラル)

1月15日~19日 司教研修会 (海外)

1月20日(日) キリスト教一致祈祷集会 (14:30小金井教会)

1月21日(月) CTIC会議 (午前中 教区本部)、ロゴス点字図書館会議 (午後、潮見)

1月23日~24日 カリタスアジア理事会 (バンコク)

1月25日(金) 聖パウロの回心、祝日ミサ (夕方、聖パウロ女子修道会)

1月26日(土) 宣教司牧評議会 (14:30教区本部)

1月27日(日) 碑文谷教会ミサ (10:30)

1月28日(月) 司祭月例会 (午前中、教区本部)、教区社会部門連絡会(午後)、平和旬間拡大委員会 (夕方)

1月29日(火) WCRP(世界宗教者平和会議)日本委理事会 (10:30)

1月30日(水) カトリック新聞諮問委員会 (17:00潮見)

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教「司教の日記」より)

2019年1月1日

・Sr.岡のマリアの風㊲新年の独り言「今年もよろしくね!」

 「今年も、シスターの、聖霊の『あきらめ』に期待しています!」… 「は~っ?」少し経って…「ごめんなさい、間違えました。聖霊の『ひらめき』です!」ー新年早々、ポーランドのシスターとのやりとり。

 「あきらめ」と言えば、先日、一か月に一回の修道院会議で、韓国のシスターが「みなさん、『聖なるあきらめ』という言葉があります。この言葉を覚えましょう」と言っていた。

 日本人にとって「あきらめ」という言葉の響きは、何となくネガティブ、「静止状態」「後退」「無関心」…を連想する。でも、「聖なるあきらめ」(誰が言ったか知らないけれど)という言葉を聞いたとき、それはわたしにとって、とても新鮮で印象的だった。

 「わたしは、(または、この人、あの人は)ど~せ変わらない」という、ネガティブな「あきらめ」ではなく、「わたしも(または、この人、あの人も)一人ひとり、いただいた性格、キャラは、その人なりのユニークさであり、大切なもの。それは、変えなくてもいいし、変えようとしてはいけない」という、ポジティブな(?)「あきらめ」。

 この「聖なるあきらめ」を土台にすると、パパ・フランシスコが繰り返し言うところの、「わたしのエゴ」中心ではなく、「あなた(神)」、「あなた(他の人々)」中心、「あなた」の理屈、やり方に耳を傾け、理解しようとする態度(わたしの理屈、やり方が、当然正しい、というのではなく)が生まれるのだろう。

 一つの修道院に、さまざまな国籍のシスターたち。同じ日本人でも、育ってきた背景のまったく違うシスターたち。誤解もある、でも、豊かさも。だから、面白い。

 1月1日の朝食の最後に、みなで「一月一日」と「一寸法師」の歌を、大声で歌った。なぜ「一寸法師」かというと、昨年、「一月一日」の歌の楽譜に、その歌詞が載っていて、「なんで、それも歌わないの~?」ということになり、ついでに踊りも入って、楽しかったから。

 パパ・フランシスコは、「サプライズの神」という表現を好む。神さまが「サプライズ」なのだから、神さまを中心に集まって共に生きている、この共同体もまた、「サプライズ」の連続。

 こうやって、共同体の中で、「わたしのやり方」「わたしの好み」の「型」から「解放され」、少しずつ、神の子どもとして、自由になっていくのだろう。

 2019年、一人ひとりのシスターへの、最初の一言、最初の思いが、悪口ではなくて、良い言葉になりますように!

***

 殆ど「初夢」は覚えていたことがないが、今年の一月一日の朝(たぶん)見た夢は、強烈だった。

 海外出張で、カバンをどこかに忘れ、パスポートもお金もなく、滞在していた家にバスに乗ろうとしたら、何番のバスに乗ったらいいのか、どこで降りたらいいのかも分からない。まったく「陸の孤島」で、どうしていいのか分からない状態…で、目が覚めた。

 「恐れることはない。何を心配しているのか。あなたは小さく、足りないところばかり、分からないことばかりなのだから、わたしにすべてを委ね、信頼しなさい」という、神さまの「新年のメッセージ」のように感じた。(それでも、「正夢」でないことを願っているけれど…「海外+パスポート無し+お金無し」という経験は、さすがのわたしでも、まだ、ないし…)。

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 聖書学のS神父が、イエスの「放蕩息子のたとえ」についての講話の中で、他の人の「成功」を、自分のことのように喜ぶことが、いかに難しいか、という話をしてくださった。特に、過去に「わたしも」同じことを一生懸命したのに、誰も目に留めてくれなかった、という状況で。

 「あの人」は、わたしと同じことをして、あんなに誉めてもらった。みんなが感謝している。わたしは、誰からも誉めてもらえず、感謝もされなかったのに。

 こういう時、「道」は二つある。

 (1)「わたし」は認めてもらえなかったのに、なんで「あの人」が認められるのか。「ずるい」「不公平」…。

 (2)「わたし」は認めてもらえなかったけれど、「あの人」は認めてもらえた。「うれしい」「感謝」…。

 放蕩息子のお父さん(神さま)は、祝宴まで開いて、とことん喜ぶのだから、すごい。この「天のお父さん」のようになるように、と、キリストに従うわたしたちは招かれている。

 イエス・マリア・ヨセフ、2019年、不足ばかりの貧しいわたしを、助けてください。あなたの「心の広さ」、「真の喜び」を、わたしが体験し、わたし自身がそれを生き、人々に運ぶことが出来ますように!アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2019年1月1日