・平戸・生月巡礼ー殉教、そして200年以上信仰を保ち続けた潜伏キリシタンの現場を見た

 4月9日から12日にかけて、大学の後輩であるE女史が企画した平戸・生月巡礼に、一昨年秋までローマの教皇庁立グレゴリアン大学で教会法学部長を務め、現在は上智大学神学部の教授をされている菅原裕二神父の同行を得て、夫婦で参加させていただいた。

 平戸・生島は、個人的には「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の中で巡礼をし残した唯一の地域で、以前から訪れたいと思っていたところだった。16世紀半ば、我が国にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルがこの地で布教を始めた当時の領主、松浦氏の親戚が受洗したこともあり、多くの領民がキリシタンとなった、

 だが、豊臣秀吉の宣教師追放令に呼応した松浦氏が弾圧政策に転じ、親戚で重臣のキリシタン、籠手田氏に一族がまとめて長崎に追放、信徒たちは支柱を失い、厳しい取り締まりで多くの信徒が殉教。1613年の慶長の禁教令で宣教師が全て国外追放となった後も、再び潜入して平戸・生月で布教したイエズス会士、カミロ・コンスタンツォ神父もその一人で、海峡を隔てて平戸城を望む火刑場跡が焼罪史跡公園として残されている。

 平戸での殉教は1645年をもって終わりを告げ、キリシタンたちは表向きは仏教徒に改宗し、隠れて信仰を守り続けるようになった。その形は、集落、地域ごとに少しづつ異なったものになっていったが、平戸独特なのが「納戸神信仰」。座敷には神棚や仏壇を置き、監視の目を欺きながら、目立たない奥の納戸に、キリストやマリア、聖人などを描いた掛け軸や聖具を飾り、200年にわたってひそかに信仰を守ったのだった。ただ、明治時代になって禁教令が解かれた後、集落や地域によって、カトリックに戻った「潜伏キリシタン」と、戻らずに、そのままの信仰様式を続けた「隠れキリシタン」に分かれたのも、平戸・生月に特徴的と思われる。

 今回の巡礼では、平戸・生月には16の教会(うち8つが巡回教会)のうち、6つを回り、そのような興味深い歴史の現場を体験して回った。

 4月9日発、長崎から小型バスで2時間半、宿舎の民宿・グラスハウスに。夜、菅原神父が、栄光学園中学校の入学式ミサを終えて大船から飛行機、電車を乗り継いで、合流。

 10日、平戸生まれ、平戸育ちの信徒の高田さんのガイドで、まず平戸ザビエル記念教会で信徒会長と信徒の奉仕のご婦人方。奉仕のシスターとともにミサ。ミサ後に、手作りの餡入り万頭とコーヒーをごちそうになる。

 平戸で最初の教会跡、ザビエルが逗留した松浦藩の重臣で信徒の木村氏の住まい跡(キリスト教受け至れたが後に弾圧側に回った藩主・松浦氏がすべてを打ちこわし、抹消)、イギリス人三浦按針終焉の地、再建されたオランダ商館などを経て、平戸城では二本植えられた平戸二段桜の一段目が満開、二段目もつぼみが開く直前。昼食後、明治に建てられた平戸で一番古い宝亀教会へ。(写真左上は、平戸ザビエル記念教会でミサを捧げる菅原神父、右は巡礼参加者たち)

 次いで、明治の長崎県を中心にした教会建築で名をはせた鉄川与助の最後のレンガ作り聖堂、田平教会、大正4年から3年の歳月をかけて、信者達の手によって建設されたロマネスク様式の荘厳な赤レンガ造り。色鮮やかなステンドグラスは、絵画を思わせる美しさ。フランス製で信徒の家にあったものという。教会の傍らには歴代の信者が眠る墓地がある。

 出迎えてくださった主任司祭の中村神父は、昨年着任し、老朽化した聖堂の抜本修繕か課題に。教会グッズの販売など、修繕費確保に努力されているが、教区が詐欺まがいの資金運用に手を出して失った2億5千万円の教会維持・補修の資金があれば‥と考えてしまう。韓国から毎週のように巡礼団が訪れており、この日も30人ほどがバスでやってきた。日本の30倍とされる韓国の信徒の信仰への熱意に圧倒されそうになる。

 このあと、平戸城と海峡を挟んで建てられた、キリシタン弾圧初期に火刑に処せられたイエズス会士、コンスタンチン神父を記念する焼罪の碑に。

 11日、平戸大橋を渡り、生月の山野教会。信徒11戸、23人の巡回教会。弾圧当時、近くに取り締まりの藩の番所があり、ザビエルから洗礼を受けた信徒もいたというが、厳しい取り締まりや村八分に遭った信徒は激減。明治になって最初にカトリックに復帰したが、小教区として独立したのは1917年。信徒が少ない中で司祭を出している。

 再び平戸に戻り、紐差教会は、町中にある昭和初期のコンクリート作りを代表する聖堂。明治になってキリスト教の布教が認められてから、和歌山から捕鯨のために移住してきた人たちが定住し、洗礼を受けた。ピーク時の信徒は1500人。今も信徒1000人の平戸で最多の信徒がいる。信徒たちは明るく、前向きなのが特徴という。小さいながらパイプオルガンもあるが、残念ながら防犯のために、聖堂の入り口までしか入れず。「昔は幼稚園もありミサ時間以外も訪問者に対応するシスターもいたが、今はいなくなって、本来なら信徒が主体的にそうした役割を担うべきだが、遠慮する風土変わらない」と現地の方の言葉。

 春日集落は、世界歴史遺産にもなっている。隠れキリシタンの家を一部移築して再現した資料館には、集会に使われた部屋、神棚と仏檀を並べて拝む形にしつつ、奥の納戸の中には、聖母の絵の賭け軸が飾ってある。隠れキリシタンたちが苦心して信仰を続けの様子が分かる。この地を布教したアルメイダ神父のイエズス会本部あて書簡には「小高い丘に教会が建っている」とあるが、後の調べで、教会ではなく、墓だったことが判明。残念ながら集落のキリシタンは、明治になってもカトリック信徒に戻らず、そのままの行事を続けてきたという。今でも信徒はこの集落にはおらず、隠れキリシタンも高齢化で跡を継ぐ人はいなくなっている、という。(写真左下は、潜伏キリシタンの部屋の様子。右に神棚と仏壇、左奥の納戸の壁に聖母マリアの絵の賭け軸が)

 木ケ津教会は小さい聖堂に、永井博士自筆の十字架の道行きが掛けられている。長崎の浦上教会に信徒が出向いた際、譲ってもらったもの、と言うが、痛みが激しく、黄色だった十字架は脱色している。浦上教会は返還を求めているが、応じていない、という。貴重な作品なので、博物館に寄贈して保存措置をしてもらい、レプリカを掛けるようにしたらいい、との声もあるようだ。(写真右が、永井博士の描かれた十字架の道行き)

 昼食後、生月大橋を渡り、生月島へ。島の館へ、隠れキリシタンの旧家を移築したもの。そして山田教会。宝亀教会に次いでこの地域で二番目に古い。大正元年に着工。潜伏キリシタンは明治になってカトリックに戻った。

 再び生島大橋を通り、平戸本島に戻り、生島の対岸にある山野教会。現在18世帯。文字通り山の上の開拓地の教会。長崎の外海から移ってきた人々。潜伏キリシタンになったが、明治にカトリックに戻った。(春日集落の隠れキリシタンとは対照的)信徒たちは明るいのだという。

 12日、朝食後、四日間お世話になった宿を発ち、長崎空港へ。昼過ぎの便で東京への帰途に就いた。

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 現地での実質2日間という短い巡礼だったが、収穫はあった。その最大のものは、フランシスコ・ザビエルによってキリストの教えが伝えられた後、キリシタン弾圧の中で殉教の時期よりも長く、明治に入り禁教令が解かれるまで200年以上も、宣教師を欠いたまま、信徒たちだけで”面従腹背”で創造主への信仰を保ち続けた人々がいた、という、その現場を体験したことだ。

 その保ち方は集落や地域によって異なり、信徒たちだけで長い間受け継いでいくうちに”変質”を余儀なくされ、禁教令が解かれても、集落ごとカトリックに戻らない、いわゆる「隠れキリシタン」も少なくなかったこと。そして、今やそれを受け継ぐ人もわずかになり消え去ろうとしている現実も。その一方で、明治になって、和歌山から多くの鯨捕りの漁業者たちが移り住み、洗礼を受けた,禁教令時代の経験をもたない信徒が中心になってできた教会が、かえって今も活気がある多様性にも心がひかれた。

 またカトリック教会も、平戸最大の信徒をもつ教会が、平日に訪れる人を迎えていたシスターなど奉仕者が減って、祭具などの盗難の懸念から聖堂の入り口だけで中に入れないようにするのを余儀なくされている一方で、国内からよりも、韓国から毎週のように多くの巡礼団を受け入れながら、老朽し抜本的な改築の時を迎えているが、改築資金の確保に苦労する教会の姿も目の当たりにした。

 さらに、信徒、聖職者の高齢化、減少という日本の教会の問題が、キリスト教の歴史と伝統のあるこの地域でも深刻化しており、共通の課題となっていることも実感した。

 

(2024年4月18日「カトリック・あい」南條俊二記)

2024年4月18日

・Sr.阿部のバンコク通信(88)タイの教会には、いつも「共同の赦しの秘跡」がある

   大祝日に備えて、タイ国の教会ではいつも、共同の赦しの秘跡があります。「いいなぁ」と感じるタイの教会の典礼のひとつです。ご聖体の秘跡と赦しの秘跡は、カトリック信徒の生活を元気に生き生きとさせくれる恵みの秘跡だと常日ごろ思っています。共に与かることで『兄弟姉妹の皆さんに告白します』の回心の言葉が具体的になり、親しみを感じる機会です。 私たちが所属するバンコクの聖ミカエル教会では少なくても年に4回、大祝日や聖ミカエルの祝日の前に行われます。

 苦手な秘跡に特別な親しみを持つようになったのは、訪問宣教でルーテル教会の牧師さんと出会い、秘跡の凄みに気づいた時からです。「人の魂の救いのために、確実な神からの赦しを与える秘跡、自分には一番肝心なこの権能がありません」と。身近な秘跡を蔑ろにしている私、はっとしました。
それからは足繁く秘跡に近づき、恵みを受けるようになりました。いつも神と他者、自分との関わりに癒しと安らぎを取り戻してくれる大きな恵みの秘蹟、悶々混沌、不安怒り、問題と困難、迷いからの救いとなっています。

 タイでは年に一、二度、日本人の神父様が来られてミサと赦しの秘跡が受けられます。「恵みをいただける機会だから」と、ミサに参加された方に赦しの秘跡を受けるように勧めることがありましたが、ある時、「強制しないでください」と言われ、それからは黙って祈る事にしました。その後、秘跡に近づき、大きな恵みに感動し、他人にも勧めているではありませんか。本当にうれしかったです。

 そう言えば、第二バチカン公会議が閉幕して間もなく、イタリアのナポリで女子パウロ会教理センター主催(典礼憲章の解説実践)のカテケージスセミナーがありました。扇状の大会場はまさに「聖堂」と化し、ステージ、横通路、後部、踊り場に司祭が立ち、共同の赦しの秘蹟が始まりました。最前列にいた私が、ステージ前の司祭の所へ進もうとした時、会衆を向いて立っておられ司祭同士が近寄って告白し始めたのにはびっくり、本当に感動しました。その時の忘れ難い光景は、当時の参加者全員の心に刻まれていると思います。

 タイの教会ではミサ前後に司祭が告解場にいてくださるので、秘跡を受けやすいですし、タイの信徒はごく親しく頻繁に受けています。多分仏教文化にも罪の赦しを受ける、平素の習慣があるからだと思います。神様に”秘跡の法廷”で「ごめんなさい」をすると、本当に心身が癒されます。
これからも、聖霊に導かれて謙虚に温順に生きるために赦しの秘跡に与かり、主の福音を豊かに宣べ伝えて行きたいと思います。教会共同体の刷新の秘訣も、ここにあるかも知れませんね。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

2024年4月18日

・ガブリエルの信仰見聞思 ㊱T.S.エリオットの『四つの四重奏』を再び”聴く”

 四旬節が過ぎ、復活節の到来とともに、なぜかT.S.エリオット(英国の詩人、1948年ノーベル文学賞受賞、1965年76歳没)の代表作の一つである『四つの四重奏 The Four Quartets』が頭をよぎり、再びそのページをめくりました。

 『四つの四重奏』はT.S.エリオットが51歳の1943年に刊行され、7年間に亘って書かれた「バーント・ノートン Burnt Norton」(1936年発表)、「イースト・コーカー East Coker」(1940年)、「ドライ・サルビッジズ The Dry Salvages」(1941年)、「リトル・ギディング LittleGidding」(1942年)という、作者ゆかりの地名をそれぞれ題名とした4編の相互に関連した長編詩で構成されています。エリオットの最高傑作とも評されるこの作品は単なる長編詩集ではなく、それぞれの詩は、「時」の本質、贖い、人生の意義と神様の秘儀に関しての熟考と探求をしています。

 キリスト教の象徴性と神秘主義への言及が濃厚なこの作品は、エリオット自身の聖公会への改宗(「(私の)宗教はアングロ・カトリック」と自分の立場を宣言していた)の道標でもあると言われるものの、そのテーマは普遍的に共鳴し、人間の体験を形作る意味の探求に触れています。

*エリオットとの出会い

 エリオットの『四つの四重奏』に初めて出会ったのは、通っていたカトリック系中学校の図書館の静かな片隅でした。15歳の私にとって、エリオットの抽象的なテーマや複雑な表現は難しく理解し辛いものでしたが、その同時に彼の書かれた詩は神秘的な質に何とも言えない惹きつけられるものを感じました。そして文学の先生に指導をお願いしたところ、先生は私の突然の熱意に、驚きながら喜んでくださったことを今でも覚えています。

 その後の長年にわたり、さらに2回ほども読み返したことがありますが、最後に読んでから十数年も経った今、復活節の始まりの光の中で再びエリオットの「四重奏」を聴き返すと、一種の霊的巡礼の旅に出るような気分になり、作品のより深い層を鑑賞するための新たなレンズを与えてくれました。「現代の宗教文学・瞑想詩の一秀作」 とも評されるこの作品を評論する資格もその意図も私にはありませんが、エリオットの四重奏にある、心に響き、考えさせられる数多いフレーズの中から、ほんの幾つかを引いて、簡単に分かち合いたいと思います。

*過去、現在、未来の絡み合い

 エリオットは最初の詩「バーント・ノートン Burnt Norton」でこう書き始めました。

「Time present and time past 現在の時も過去の時も Are both perhaps present in time future、おそらく未来の時の中に存在し、And time future contained in time past. また未来の時は過去の時に含まれる」

 この冒頭の一節は、内省と黙想の本質を捉えているのではないかと思います。「時」の絡み合い、折り重なり合う性質と、その中で私たちの存在を思いこさせます。四旬節の後、復活節の始まりに、これらの言葉を熟考していると、過去の罪の悔い改めと、復活節が象徴するキリストの御復活による刷新、そして過去、現在、未来が「今」という瞬間に収束すること、また、私たちの霊的な旅の連続体について、奥深く語ってくれています。何より、私たちの生活の中に神様の恵みが永遠に存在し続けることも思い起こさせてくれます。

*初めと終わりについての探求

 第2編の「イースト・コーカー East Coker」では、エリオットは「初めと終わり」、「生と死」のテーマについて熟考し、詩の最初と最後のそれぞれの一節にこう書いています。

 「In my beginning is my end… 我が初めこそ我が終わり… In my end is my beginning. 我が終わりこそ我が初め」

 これらの言葉は、悔い改めと回心の過程を通じて、神様、すなわち私たちの原点に立ち戻る、という四旬節のテーマに共鳴し、私たち自身の死すべき運命と、主イエス・キリストの御復活を通じて永遠の命への希望とその新たな始まりを、思い巡らさせてくれます。

 また、聖アウグスチヌスがその名著である『告白』の第1巻の冒頭に書いた「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」をも思い出させてくれます。

*試練や艱難の中で神様の御臨在を見出すこと

 「ドライ・サルビッジズ The Dry Salvages」は、人間の様々な苦しみとその中での意味の探求というテーマに共鳴しています。

 「The river is within us, the sea is all about us; 川は私たちの中にあり、海は私たちの周り全体を囲む… The sea has many voices,  海には多くの声があり、Many gods and many voices. 多くの神々と多くの声がある」

 私にとって「川」はヨルダン川と主イエスの洗礼、そして主と同じように洗礼を授かった私たちに対して、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と主が言われた御言葉を思い出させてくれます。エリオットは「海」を「時」の比喩として用い、私たちがこの「時」の中で生き、様々な遭遇や苦しみや体験など、人生の予測不可能性と不確実性に直面していますが、そんな中でも主が常に私たちと共におられることを示唆してくれます。

 「We had the experience but missed the meaning,.. 私たちは経験をしたが、その意味を取り逃してしまった、… And approach to the meaning restores the experience その意味に近寄れば、その経験をIn a different form, beyond any meaning 私たちが幸福に与えるどんな意味をも超えた形で We can assign to happiness… 取り戻せるのに…」

 エリオットのこれら言葉は、信仰が穏やかな庭園を散歩することよりも、嵐の中を旅するように感じられた時を思い出させてくれます。それは、人生の試練や艱難の中で神様の御臨在を見出すための闘いを反映しており、私たちの最も激動の時代においてさえ、神様の恵みの永続する御臨在についての熟考を促してくれます。

 ちなみに、この作品は 1941 年、ロンドン大空襲の最中に書かれ、空襲は現地で講義をしていたエリオットの身を脅かす出来事でした。

*元の出発点に到着し、その場所を初めて知る

 最後に、エリオットの「四重奏」の第4編である 「リトル・ギディング Little Gidding」 は、霊的真理、救い、神様との究極の交わりを追求する上での浄化、過去と現在の統一というテーマを語っています。エリオットは詩の最後の部にはこのように語ります。

 「We shall not cease from exploration 我々は探求を止めない And the end of all of our exploring そしてすべての探求の終わりは Will be to arrive where we started 元の出発点に到着し And know the place for the first time… その場所を初めて知る… 」

 復活祭の約束を踏まえて読むと、この箇所は私たちの信仰の旅について多くのことを語っていると思います。それは、私たちの信仰の核心に戻る四旬節の旅、信仰に対する新たな理解、そして復活節を祝う感謝の時を映し出しています。また、信仰と理解のレンズを通して、見慣れたものを新たに「観る」という、私たちの変容と原点回帰の継続的な霊的旅でもあります。

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エリオットの『四つの四重奏』を再び「聴く」ことは、旧友と再会することに似ている気がします。そこでは、新たな気づきや洞察があり、不変の真理を再認識することができます。豊かなテーマと絶妙な詩的表現を持つエリオットのこの傑作は、信仰の旅路と、私たちの人生における神様の恵みの永遠の存在を奥深く思い巡らすヒントを与えてくれます。

(注:詩の引用は英語原文のまま、日本語訳は筆者による)

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

2024年4月15日

・Chris kyogetuの宗教と文学 ⑫小泉八雲の「和解」という奇談から

 When did you come back to Kyōto? How did you find your way here to me, through all those black rooms?(いつ京都へお帰りになりまして? あんな暗い部屋を通って、どうしてこのわたしのところへ、お出でなさいましたの?)小泉八雲「和解」(Shadowーthe reconciliation) 訳:田代三千稔

 小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンの左目を失明については、色んな記録があるようだ。回転ブランコでロープが目に当たった、もしくはクリケットのせいだった、という話がある。

 ただ、はっきりしていることは、彼は父親を若く失い、カトリック学校にも馴染めず、常に俯いて失明した左目を隠しているということだった。彼の書いた話にこんな話がある。

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 ある若侍は、主君の没落によって貧乏になった。その時に嫁にもらった女は美人で優しかったが、彼はもっと家柄の立派な女性と結婚して、出世したいと思うようになってしまった。それで妻を捨てて新しい嫁を貰って、念願の地位に辿り着いたが、思い返すのは京都にいた前の妻のことばかりだった。何年も時が過ぎ、主君である国守の任期が満ちたので、この男は、また自分勝手に新しい嫁さえも捨て、前の妻に会いにいくために京都に行った。前の妻の家は人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てていたが、妻が気に入っていた部屋にたどり着いたら、あかりが灯っていて妻は縫い物をしていた。

 「いつ京都へお帰りになりまして? あんな暗い部屋を通って、どうしてこのわたしのところへ、お出でなさいましたの?」と女は昔の思い出と変わらない美しさのまま、自分を捨てた男を出迎えた。

 男は、今までの自分の過ちを認め、女に許してもらうように懇願した。女は、一切怒る様子も見せず、男が出て行った理由が「貧乏」だったことや、一緒にいてくれた時間が仕合わせだったと男をすぐに受け入れた。男は、もう彼女と以外は一緒にならないと決めて、床に横になった。

 一晩中、男と女は語り合って満足をしたのか眠ってしまった。朝になり、男が目を覚ますと広がるのは、荒れている廃墟でしかなかった。一緒に隣で寝ていると思っていた女は、悲しいことに朽ち果てていた亡骸になっていた。

 男は、近所の人に他人のふりをして妻の家がどうなったのかを尋ねたら、その人は言った。

 「もとは、数年まえに都を去ったお侍の、奥方のものでした。そのお侍は、出かけるまえに、ほかの女をめとるため、その奥方を離別したのです。それで、奥方はたいそう苦にされ、そのため病気になりました。京都には身寄りの人もなく、世話してくれる者もありませんでした。そして、その年の秋-九月十日に亡くなられました…」

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 妻の死はこの世の無常を表している。批評家の小林秀雄は「思い出が、僕等を一種の動物である事から救うからだ」と書き記したが、この若侍も、出世のために妻を捨てるなど、自己中心的であるが、それゆえに苦しみ、美しい思い出を懐かしみ、また取り返せると思ったが、妻はとっくの昔に朽ち果てた死骸となったことによって、無常を知ったのである。世には自戒の機会を与えられず死んでいく人もいるのだから、知ることができた、というのは無常と対照的となってしまうが、キリスト教でいえば恩寵とも言えるのかもしれない。

 仏教にある逸話がある。ブッダはヴェーサーリーに入ると、生命の急速な衰えを自覚した。それでも彼は、弟子や人々が望むならば、神通力によって寿命を超えてでも生きぬこうと考えていた。もっと長く、人のために尽くして生きていこうとアーナンダに伝えた。しかし、アーナンダはなんだか上の空のようだった。彼はブッダの真意を汲み取ることができなかった。どうやら、アーナンダに「悪魔」がとりついていて、アーナンダの心は悪魔によって惑わされていたのだ。 ブッダは、アーナンダの態度をみて、三ヶ月後に入滅しよう、と決意してしまう。

 物語の若侍が自分の利益のために最愛の妻を捨て去る選択をしてしまったように、アーナンダも自分勝手であり続けたために、ブッダの本意を理解しようしなかった。それは無常への理解を妨げる、私利私欲的なものなのだ。小泉八雲の左目の失明は、欠落や喪失を意味し、同時に物事の常に変動する本質を思い起こす。彼はきっと、最初の妻が生きていた「瞬間」を大切にしなければならなかったことを残したかったのかもしれない。人は大切なものを失ってから気付き、責任を忘れがちである。そして他者への裏切りがどれほどのものか覚悟しておかなければならない。

 ただ、私がこの話を選んだのは、この妻が「妖」(あやかし)というのか、そうまでしても夫を待っていたところである。八雲の「怪談・奇談」に出てくる妖は、悪霊になってしまった話もある。この妻は、ゲーテの「ファウスト」のグレートヒェンや、シェークスピアの「ハムレット」のオフィーリアのような悲劇的な運命を持ち合わせ、精神的に追い詰められながらも、献身的だった。

 旧約聖書で主がサムエルに「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」(サムエル記上16:7)と言ったように、真の美しさと永遠の愛は魂の中に存在するというのは本当なのかもしれない。 妖となった存在は「時間」というものに美化されることも、毒されることもなく、温存された状態で、自分を捨てた男とこの世に留まったまま「和解」をした。妖という影は、侍にとっての無常を気づかせるために存在していた。愛というのは理屈でないものも含んでいる。他人から見れば、この妖は哀れだと思うのかもしれない。愛は良くも悪い方にも動いてしまうが、それは愛とは静止することができないということだろう。だからこそ、愛は魂にとって重要なものを担って常に方向を探している。

 嫉妬に、執着、それは色々あるが、それでも愛は単に利益だけで動かないものでもあるからこそ、人間の目では見落としてしまうところにも、恩寵を運ぶことがあるのかもしれない。

 これは私にとって美しい、愛だと思った。(Chris kyogetu)

2024年3月31日

・“シノドスの道”に思う➉ シノドスをドイツの視点から考える(その4)

 前回、ドイツ司教協議会と信徒組織ZdKが共同で進めてきたドイツ固有の「シノドスの道」での決定がそのままではバチカンに容認されなかったため、シノドス評議会の設立は難しくなったこと、バチカンの主張は、叙階の秘跡によって「統治の権能」を持っている司教が一元的かつ最終的に教会の統治の権限を持っているので、一般信徒をそこに平等に加えることはできない、共同統治は不可であるとのバチカンの主張について若干考察しました。

 いずれにせよ、司教協議会はバチカンによる世界シノドスに合わせながら、ドイツ固有のシノドスを進めていこうとしています。今回は、ドイツ司教協議会春季総会最終日、2月22日付けドイツ司教協議会のプレスリリースから、 協議会議長ベッティングによる「報告書」の言葉を順に追っていきます。司教たちがどこに重点を置いているかが、垣間見えると思うからです。

*総会のシノドス関連のテーマは・・

 総会の議題の中でシノドスに関しては、「シノダルな教会その一:世界シノドス」、「シノダルな教会その二:ドイツの教会のシノドスの道」と2回に分けて議論されました。まず世界シノドスに関して検討されたテーマは3つ。①(司教の)統治の全権をどう取り扱うか。責任重大なかつ構造的に確認・保証されるような取り扱いrückgebundene Umgangをすること。②教会において権力をさらに分散すること。⓷役務担当者は説明責任を実践すべきこと。

*『総括文書』における司教・・

 昨年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会第1会期の『総括文書』Nr.12(シノダルな教会における司教のあり方について)、Nr.18(参加の構造について)から引用がなされています。昨年11月のこのコラムで筆者はNr.12を取り上げましたが、それはシノダルな教会になるか否かは司教にかかっているからでした。先ほど司教の「統治の全権」とあったように、総括文書においても、すべては司教にかかっているのです。

 さて、引用箇所の一つは「この役務は、統治が共同責任においてなされ、宣教・告知が敬虔な神の民に聴くことによってなされ、謙虚さと回心を通して聖化と典礼的祝いがなされる時、シノダルな姿で
現実化する(Nr.12.b)」。すなわち、統治が共同責任によって、宣教が聴くことによって、聖化と典礼的祝いが謙虚さと回心によって、この3点が実践されるなら、司教の統治はシノダルなものになるだろうというのです。

宣教や典礼はさておき、「統治が共同責任によって」なされるのがシノダルである、というのが重要ですが、では司教の全権を、誰が、どのように「共同で」行使するのかは、まだ明らかではありませんし、十分な試みもされていないでしょう。

*ヒエラルキーとシノダリティ

 以上に続けてベッティング司教は「世界シノドスの重要なテーマの一つであり、また次回の審議のため重要なテーマは、ヒエラルキー的に作られている教会の役務とシノダリティの相互性の問題である」と述べています。ヒエラルキーとシノダリティの関係をどう考えるか、です。2015年のフランシスコ教皇によるシノドス設立50周年記念講演で「教会の構成的要素としてのシノダリティは、ヒエラルキー的奉仕自体を理解するための最も適切な解釈の枠組みをわれわれに提供している。聖ヨハネ・クリソストムが言っているように教会とシノドスは同義語である・・」とありました。

 従って、少なくともシノダルなやり方でヒエラルキーは運営されなければならないことは確定していると言えますが、一般信徒との共同統治ができないとすると、どの程度までの共同ができるのか、極めて曖昧になりそうです。第2会期の審議の大きなテーマでしょう。

*司教と共同責任のありかた

 もう一つ引用されているのは「司教は<すべての、ある人々の、一人の>間の循環を促進することで、地方教会のシノダルなプロセスを主導し活性化するという重要な役割を持っている。すなわち、この司教職(「一人の」)は「すべての」信者の参加を、直接的に識別プロセスと意思決定プロセスに携わる「ある人々」の貢献によって、促進するのである。司教が理解するシノダルな観点の確信と、彼が権威を行使する際のスタイルは、司祭、助祭、一般信徒、修道者・修道女がシノダルなプロセスにどのように参加するかに決定的に影響する。全員のために司教はシノダリティの模範となるように召されている」(Nr.12c)。先ほど出ていた統治の「共同責任」を司教がどのように捉え現実化していくのか、第2会期でどこまで議論がされるか、一つの焦点となります。

*共同責任の担い手はシノダルな諸委員会

 続けてベッティング司教は「核心において、世界シノドスの考えは、ドイツの<シノドスの道>の基本文書『権力と教会における権力の分散—宣教の任務における共同参加、共同参与—』の観点と一致している。司教の統治はシノダルな諸委員会での信頼でき、構造的に確認・保証される作業Rückbindungを必要とする。このことは司教の最終責任に矛盾するものではなく、司教の全責任の存立に必須の重要な部分である。」と述べています。

 これは重要な言明です。以下に説明していきます。

 初めに述べた3つのテーマのうち、最初のものは「司教の統治全権の取り扱いについて<責任重大な、構造的に確認・保証されるような取り扱い>をすること」でした。そして「シノダルな諸委員会における信頼でき、構造的に確認・保証される作業を必要とする」と言います。つまり司教の<共同責任>の担い手は「シノダルな諸委員会」であると。

 バチカンの総括文書(Nr.12.b)の「共同責任」の担い手は「シノダルな諸委員会」であるというのがドイツ司教たちの考えです。重い責任を負い、構造的組織的に確認しながら、司教のすることの是非を判断・保証しながら統治の任を分け持つ。あえて敷衍すれば、司教の働きを絶えず監視しながら同行すること。司教が何かを考えたり決めたりするとき、諸委員会もその側にあって同じ問題を考え、 助言し、決定への承認もする。そのためには司教と「シノダルな諸委員会」は信頼関係を持ち、互いに見える距離を保ちながら司教の行為を確認・保証していくということでしょうか。

*カウンターパートとしてのシノダルな諸委員会

 ちなみに、2022年2月3日のシノドス集会で決議された基本文書『権力と教会における権力の分散—宣教の任務における共同参加、共同参与—』の中に、「教区レベルで司教にとってのカウンターパート(対応するもの、相補的なもの)を組織し、彼らがどう働くかを決めるシノダルな構造が必要である」とあります。統治者が司教一人だと君主制になりますが、そうではなく司教と対になるような、司教に相対する存在、カウンターパートが存在すれば、もっと民主的になります。

 先に述べた「シノダルな諸委員会」を設けることがカウンターパートとなり「シノダルな構造」ができるでしょう。そして彼らが司教の働きを監視しつつ、それを是認するなら、司教は確信を持って自分の権威を行使できるようになるでしょう。

 次に2つ目の「権力分散」について。一例として虐待問題の取り扱いに関して総括文書は、多くの司教は父親の役割と裁判官の役割の両方を受け持つのは難しいので、裁判官の任務を別の機関に委ねるべきとしている(Nr.12.i)。同様に、関係所管庁間での<チェックアンドバランス>の原理、<コントロール・調整・協働のメカニズム>が、権力分散のため必要である、とドイツ司教たちは言っています。

 3つ目、役務の担当者の説明責任について。総括文書で「参加する組織体・団体は・・・共同体に対して説明責任の文化を実践するように勧めます」(Nr.18i)。教会を透明な組織・構造にして、説明責任も持たせないと、もはや人々は納得しないということでしょう。

 以上、3つのテーマは第1の「司教全権が共同責任で」という点が具体化できれば、第2「権力分散」、第3「説明責任」もクリアできそうに思います。

 次にドイツのシノドスの道を今後どう進めていくかに関しては、これまで司教たちとZdKで進めてきたイニシアティブをさらに発展させること、そして「教会法の条件に合致したシノドス評議会を準備すること」が決議されたことを特に述べておきたいと思います。「シノドス評議会」設立を諦めたわけではありません!なお6月に司教とZdKの、シノドス委員会(代表者会議)開催予定です。

*秋のシノドス総会第二会期に向けた作業

 ところで、1月23日付け司教協議会のプレス報道で、協議会の常任委員会は、世界シノドス第二会期に向けた今後の準備として、各教区に、以下のような質問に対して最大5ページの「省察報告書」(司教協議会事務局による)を3月31日までに提出するよう求めています。シノダルで宣教的な教会になるため、どうすれば教区レベルで神の民全員が連携して「異なった共同責任」を強化できるか、またどうすれば地方教会の諸関係を創造的に形作っていけるか、そのためには教会の全構成員の共同責任を中心に置いて地方教会は具体的な変換が求められているが・・・。

 「異なった」とは様々な次元や側面での奉仕・職務があるという意味です。その後、それらについて4月に常任委員会で司教たちによって話し合いがなされ、8ページの要約が作られ、5月15日までにローマに提出されることになっています。バチカンが第二会期の準備文書を用意するためです。

 最後に、シノダリティを進める上で「共同責任」をどのように捉えるかが、大きな問題となることが、ドイツの例で理解されると思います。
:ドイツ司教協議会www.dbk.de

 (西方の一司祭)

2024年3月31日

・愛ある船旅への幻想曲 ㊳今は亡き司教の、信徒に対する真摯な姿勢を思いやる

 主の御復活おめでとうございます。

 今年もイエスと共に新しい旅に出掛ける日、一人旅もいいだろうが、旅の感動を分かち合う気心の知れた相手が居る方がもっといいに違いない。。

 4月、満開の桜を楽しんでいるのは外国人観光客だけではないだろう。毎年、桜の名所へと花見に出かけることが年中行事の一つとなっている日本人も多い。

 この『桜』、J-POPでは、出会いよりも別れの場面に使われることが多いようだ。満開の桜が、儚く散って行くさまを感慨深く綴られ、「また、会えるよね」と、再会を願い「また会える」雰囲気を最後のフレーズが醸し出す。“歌は世に連れ、世は歌に連れ”の如く、歌と世は影響しあっている。だからこそ、「思い出の歌」として歌い継がれ、人はその当時を懐かしむことができるのだろう。そして、女性へのイメージが暗く差別的だった昔の歌詞から、ありのままの女の子の日常が段々と綴られてきた1970年代の歌を男性聖職者、教会トップ集団には特に思い出して欲しいものだ。

 先日、私は未信者の大学教授から、「昔の教会の聖堂内陣の様子を詳しく知りたい」との依頼を受けた。その当時の担当宣教会や信徒家族に問い合わせたが、今のところ参考になる写真や資料が全くない。当時の司祭や信者が居ない現状は当然だが、誰にも『初期の教会の姿』が伝えられてないことは残念である。

 私自身、『戦争で焼けた教会』との認識しかなかったが、その時代に思いを馳せた司祭の教会建立、国を離れなければならなかった外国人信徒の深い信仰そして自由な発想が取り入れられた聖堂内陣の姿があったことが今、未信者の手によって明らかになろうとしている。担当する宣教会が次々変わってきたことが歴史を辿るデメリットになっている事を知った。

 カトリック教会は、過去の振り返りも未来の姿も思い描かず、その時々の受け身の姿勢だけで満足している信者たちの旅が続いているように感じる。「信徒が教会の問題についてあれこれ言ってはならない。それがカトリックや。意見するならプロテスタントや」と、信徒をコントロールする聖職者達がいる教会では、今も続く“シノドスへの旅”にも信徒は意見を言ってはならないことになる。各ハラスメント問題も然りである。何よりも、ハラスメント相談窓口担当者と司教が問題聖職者をかばい、他教区に転任させる、というありえない筋書きさえある。転任先に正直な説明などしてないこと、これはれっきとした“隠蔽”とご存知か。

 聖香油のミサでは、司祭叙階の振り返りと、「司祭も信徒と共に歩まねばならない」という教会共同体へのあり方などを司教は再度、確認するはずだが、私が今回初めてミサに与った教区の司教が熱弁されたのは、「健康状態が悪くなるのは“悪霊”の働きであり、その悪霊を追い出す為に『油』が必要」との話であった。このような理解が、この教区のスタンスなのか。それなら、「教会で今一番『油』が必要なのは誰なのか」と、是非ともうかがいたい。

 ある亡くなられた司教様は、シノドスについての私の質問にも真摯に答えてくださり、ヒントもいただいた。それを元に私たち二十数名は真面目に分かち合った。後日、そのまとめをお伝えした時も、司教様は謙遜の言葉で礼を述べられ、力付けてくださった。その司教様の言葉を、私は身近な若者達に伝えている。

 一人でもまともな司教が居られたこと、その司教が持つ「カトリック『教会』の正しい姿」を、未来の教会へ旅する若者たちに微力ながらも伝えていくことが、今の私にできることと思っている。信徒を思う教会作りのために貢献されたこの司教様は聖職者から受けた痛みも大変大きかっただろう、と立場は違えども思い知る今年の私の『聖なる過越の3日間』の始まりであった。

 追記として、3月のコラムで紹介した女子高生の政治分野でのジェンダー平等についての発表後に男性教員が質問した内容を、女性記者が後日、記事にした。「女性が増えて男性が減るデメリットをどう解消するのか」「むやみに女性を増やすと質が悪くなるという反論が出るが、能力を担保する方法は」と女子生徒に質問したと言うのだ。

 根拠のないデメリットや能力の有無を持ち出すことこそ、性差別だろう。教育現場の男性教員の質の改善こそ、早急に必要な事を感じさせた新聞記事であった。

 内心ジェンダーの話題を快く思っていない一部男性(指導者?)たちの存在を知る中、ある男子高校生の卒業式の答辞に感動した。歴史ある高校に誇りを持ち、若者としての気概を感じさせる内容からは、良き環境で高校生活を送ったことを、うかがい知ることができた。まともな人が育つ為の人間環境は大事である。

 ある男子高校生の卒業式答辞から一部抜粋。

 「僕達が一生かけて取り組む問題集には、別冊の解答、解説なんて付いていません。解説されてたまるものか。解答なんてあるはずもない、だけれども、あるいは、だからこそ、その問題を直視し、従うべき、逆らうべき風を判断せねばなりません」。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年3月31日

・カトリック精神を広める ⑤あなたは、死んだ人が蘇るのを信じますか?

 昭和20年代生まれで、彼らが高校生時代に流行ったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」(おらは死んじまっただ!)を知らない人はいないだろう。確か、詩の話しは、交通事故で死んだ人が、天国で、酒だ!女だ!で遊び惚け、神様から天国から追放されてしまい、挙句の果て、遺体の前で読経を読んでいたお坊さんの前で蘇るという話だった。当時は、余りにも荒唐無稽で、仏様を軽んじていると非難されたものだった。

 ことほど左様に、人が蘇って、この世に戻ってくるという話は、小説でも、テレビや映画でも盛んに取り上げられている。しかし、実際に蘇って、多くの人に目撃され、信じるに値する人というのは、人類の歴史上、今まで誰もいない。唯一の例外が、イエス・キリストである。あなたは、イエス・キリストが蘇った、復活したという事実を信じるだろうか?

 聖書にある事の次第は面白いので、ご一読をお勧めするが、本稿では、ヨハネによる福音書 20章(新共同訳)の概要を記す。

「イエス・キリストは、金曜日に十字架に付けられて死んだ後に葬られている。下記の話しは、3日後の日曜日に起こった出来事を記している。

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」

この後、イエス・キリストは、マグダラのマリアや鍵のかかった部屋にいた弟子たちに現れ、さらにその場にいなかった、トマスにも現われている。

 引用が長くなったが、このように、イエス・キリストを目撃した人は、枚挙に暇がない。12人の弟子の他に、付き従っていた多くの弟子たちが目撃した。それだけではない、イエスが天に上げられた後には、ローマの皇帝ネロによる大迫害で多くの弟子たちが、キリストが蘇ったという信仰を捨てずに殉教していった。ただ一人の人が目撃しただけではないのだ。多くの人が目撃し、そうして、死をも恐れず、キリストの復活を信じて止まなかった。ただ一人の人の妄想ではないのだ。これは信じるに値するのではないか。

 もうすぐカトリック教会では、復活祭が執り行われる。興味がある方は、3月30日土曜日の復活徹夜祭、大方、午後7時とか8時に開かれるので、近くのカトリック教会に行かれてはどうだろうか。教会では、未信者の方も、中に入ることができる。

ところで、上記、引用した聖書の中で、「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」の布が、なんと、2千年の数奇な時を経て、今も現存し、聖骸布(せいがいふ)と呼ばれて、崇敬されている。現在は、イタリア、トリノの大聖堂に安置され、公開されている。聖パウロ女子修道会の聖骸布についての記述を紹介しよう。

「聖骸布は、聖書に、十字架に釘付けられ亡くなられたイエス・キリストの遺骸を亜麻布で包んで、墓に葬られたという記述がありますが、そのイエスの遺骸を包んだ亜麻布だと言われているものです。長さ4.36メートル、幅1.1メートルあり、この布には、1メートル80センチの男性の前面と背面の画像が映し出されています。イエスの遺体には、当時の埋葬の習慣に従って、持ってきた「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ」(ヨハネ 19.39)塗り、亜麻布で包んだのですが、パレスチナ地方の乾燥した風土と、岩に掘られた墓穴というよい条件に恵まれ、イエスの遺体の画像が反転画像で、その布に映し出されたのだと言われています。この画像の男性には、確かに十字架に釘付けられた傷跡や血の流れた跡などがあるので、イエスの姿だと言う人と、そうではないと言う人がいます。この真偽については、現在も調査中であり、論争中ですが、聖骸布の存在が発見されて以来、大変な尊敬を払われています」

(横浜教区信徒 森川海守 ホームページ:https://www.morikawa12.com)

 

2024年3月31日

・神様からの贈り物 ⑨ご復活祭を機に、私も新たな出発!

  ご復活祭おめでとうございます!私たちにとって大切な記念日を今年も無事にお祝いできることが嬉しいです。このご復活祭を機に、私も新たな出発です。

  私たちの健康を守り、新たな出発へのお手伝いをしてくださる医療従事者の皆さまに、心からの祈りを捧げます。彼らを通してイエスさまが私を訪問しているのが実感でき、感謝でいっぱいです。私の家にも、毎週、精神科の訪問看護師が来てくださっていましたが、この春、私が次のステップへ進むため治療関係を終えることになりました。

  私は別れを人一倍恐れてしまうタイプです。理由は、複数ある私の障害のひとつに『人を顔で認識できない』というものがあるからです。このような障害を専門用語では「アファンタジア」と呼び、『心の目が見えない』を意味します。

  毎日会っている障害者施設のスタッフや、仲間たちの顔を見ても、それが誰なのか分かりませんし、友達や家族の顔も判別できません。「かわいいお姉さんが手を振っている」と思ったら、それが待ち合わせていた友人だった、というのが日常です。

  顔を見て家族や友人を見分けることができる方たちが、この世界のほとんどだと知った時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。私もそんな世界を見てみたい、と憧れます。

  3年前の冬、私はとても体調が悪く、たった2週間で5キロ以上やせてしまうほどでした。その時、保健師から「今のあなたには週に6日の精神科訪問看護が必要だ」と言われてしまいました。それは、「入院寸前だ」ということを意味し、絶体絶命のピンチでした。

 その時、訪問看護師は主治医から特別な指示を出してもらい「14日間、月曜日から土曜日まで毎日看護に来る」と約束してくれました。

  それは、当時の私にとって、最も豊かな時間でした。私には、充分に愛情を注がれずに、度の過ぎた厳しさを受けて育った過去があります。なので、一人暮らしの家で優しい看護をしてもらえたのは、心の癒しに繋がりました。

  私は看護師を母親のように思うあまりに、甘えすぎてしまうことが多々ありました。何度も迷惑をかけてしまいました。それでも私のすべてを受け止め続けてくれました。

  そうやって濃密なケアをして重ね、その段階を終え、「自立した生活がしたい」という思うようになりました。

  しかし、別れの際には、私特有の悲しみが訪れます。冒頭で伝えたように、私は顔を見てもその人だとわかりません。別れた後は、たとえ彼女が目の前を通ったとしても、私はその存在には気づけないのです。想像するだけで、とても切ない気持ちになります。

  けれども、私は、看護師が我が家に訪れていた期間を、決して忘れることはありません。それは、単に看護師が来ていた期間というだけではありません。神さまが私の家にいらして、優しく看病してくださった日々でもありました。たしかに病気は辛いけれど、神さまの愛が降り注がれる機会でもあると思います。

  今の私は、まるで小さなヨットで大きな海へ漕ぎ出すような気持ちです。心細く、頼りないけれども、ずっと港にいては、嵐に遭わないかわりに何も冒険ができません。感謝という追い風を帆にはらませ、航海を始めたい―そう決意しています。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年3月31日

・Sr.阿部のバンコク通信(87) スマホなし、不便な生活の中で神と出会う―タイ北部の山岳民族の村で

 2月末、久しぶりにバンコクの喧騒を離れ、タイ北部の山岳民族の村に入りました。チェンマイから南へ2時間、ランプーン県の舗装道路から凸凹曲がりくねった山道をガタンゴトンと半時間。緑の鬱蒼とした山間、標高1400mにパペー村(75軒)があります。

 鶏の鳴き声で目を覚まし、風のそよぐ音、虫の鳴き声、鳥の囀りが体に染み込むように響きます。花や葉っぱ、枯れ葉の香りが心地よく、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みながら枯れ葉を踏みしめて歩く…何とも清々しい。

 ここはカレン山岳民の村、13世帯カトリック信徒の住む教会のある一角に、日本人4人(青年男子2人、熟年男性、私)と米国籍のベトナム人司祭でやってきました。共に生活し、祈り、言葉と心で語らい通じ合い、笑いと喜びいっぱいの日々を過ごしました。

 飛行場に出迎えてくれたイタリア人のブルーノ神父とカレン族の友人シリーさんの運転で深い山奥のこの村に来ました。電波も届かないソーラーの電源で生活、携帯電話は万事窮す、ブルーノ神父いわく、「まさに天国」です。

 大自然の生態を守りながら、1毛作の陸稲、水穂は自給自足のために、珈琲の栽培、牛や水牛、豚の飼育で生計を立てています。こんな深い山の中に人々が住んでいます。

 ちょうど農閑期で、村人と山焼きの準備を手伝い、子供達と遊び、村人と語らい、夜は囲炉裏を囲んで過ごすひと時…スマホなし、顔と顔目と目を合わせて過ごす…豊かな生活体験でした。集めて持って行った沢山の寄付物資はクーポンを配ってお買物ごっこ、信者でない村人も招きました。教会前広場は楽しい、にわか市場。

 皆でロザリオもたくさん作り祝福していただき、平和のために苦しむ人々のため、お祈り捧げました。

 ミサはカレン語と日本語を交え、聖歌も交代。深い山奥で共に祈りミサを捧げる、カトリックの信仰の普遍を感じます。「神様を信じて結ばれている出会い」の体験に、村人も、私たちも、ことのほか感じ入り、時空を超えて共に在る幸せを満喫しました。

 「本当に必要な情報ってすごく少ないですね」「スマホなしの解放された生活、できるんですね」「山を下りたら、スマホを時間限定にしようと思う」… 新たな気持ちで街に戻りました。

 夜はキラキラ瞬く満天の星、懐中電灯でタハロ(手洗い)へ、とっぷりと暮れた山中では早々就寝です。

そうそう、夜のオルティ(水浴び)は寒くて閉口、日中にしましたが、それでも水では冷たかった。

 感性を全開にして生きる、体全身で吸収する…自分を取り巻く自然、状況、殊に共にある人々との関わり… 言葉の壁を乗り越えて目と満面の顔が物を言う。通じてなくても大笑い。感覚をフル回転させると無感心や無神経から確かに救われるなぁ〜。

 不便で面倒な生活条件の効能、都会で、都合よく楽な生き方をして無くしているものを取り戻そうと思います。ほんの十日で、不安定な足場の村の坂道を毎日上り下りして体が引き締まり、バランス感覚もバッチリです。

 感覚を研ぎ澄ませて生きる、神様からいただいた感性の賜物の凄さに改めて感謝。小さな私の考えで捉えるのではなく、まず全身で物事を感じ取って生きていこう、それは創造主の視野と摂理の中に生きることだ―そう実感しました。

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

 

 

2024年3月16日

(投稿)主任司祭から受けたハラスメント、教区の担当チームの対応は… 聖職者主義の”文化”と”仕組み”を改めねば

 「カトリック・あい」の評論を読んで、ハラスメント問題に関し「司法的任務を、教会法により規定される他の機関に委ねることの妥当性を検討すべき」との意見に同感です。

 私は主任司祭から受けたハラスメントについて、教区のハラスメント窓口に助力を求めました。教区ハラスメント対応チームは信徒、シスター、神父の三名で構成され、司教は含まれていません。面談には私について証言できる第三者を同伴するよう依頼され、「純粋で神聖な教会を求める共同体」において非常にハードルが高い要望だと感じましたが、幸いにも協力者を得て面談が実現しました。

 対応チームは「司教に報告するかどうかはこちらで検討し、結果は後日、連絡する」と約束してくれたのですが、その後、随分たった今も、連絡がありません。私に対するケアや謝罪等をどうするか決定できていないからだと考えられますが、問題となっていた司祭は異動人事がされています。

 ハラスメント対応チームの困難は、訴える人の証言が事実かどうか判断することにあるようです。私が受けたハラスメントで、労務問題に関するものが事実かどうかは、教区も確認できますが、誰も見ていない所で行われた行為は、当然ながら、第三者が直接目撃した事実として証言することはできず、物証など決定的な証拠を挙げることもできません。

 対応チームが「被害者に寄り添って耳を傾ける」ためには、相談してきた相手を「被害者」と認識する事が前提となりますが、その前段階の確認のための面談での私への聞き取りは、「司祭に対する従順に、あなたは信徒として反していなかったか」という事に重点が置かれていました。加害者の司祭が、私について「証言は全て嘘。思い込みの激しい人だ」と、まるで気がふれた信徒のように吹聴していたためと思われますが、こうした教区の姿勢に「寄り添い」を実感できませんでした。

 何の反省もなく暴言や偽りを繰り返した司祭を回心させ、その行動を改めさせるためには、被害者が孤独に心引き裂かれながらも、その全てに耐えて冷静に行動することが必要なのだ、と今、改めて感じています。これは非常にハードな作業です。心の内で応援して下さる信徒もいましたが、教区の窓口に訴えた当初は、「嘘つき」呼ばわりされる私を表立って擁護して下さる人はなく、教会から離れようと何度、思ったかわかりません。

 問題の司祭はささいな事でも気にいらないと瞬間的に激高するため、完全に「恐怖支配」の状態でした。間違った権力の行使を抑えるシステムが教会に存在しません。司祭の聖性はいつも特別視されますが、信徒の聖性が無視されているのではないかと感じます。このような教会で、特にハラスメントという問題に対して、「誰が」ではなく「何が」正しいか、司教職とは別に、現実的で司法的な視点も持った第三者の機関が教区にあれば、もっと公正で迅速な対応が期待できるでしょう。

 多くの信徒に対する聖職者のハラスメント、司祭の「絶対的支配」、言い換えれば「聖職者主義」がまかり通る、という現実を見せつけられて、そのようなことを放置している教会に絶望し、離れていく信徒たちを、私は実際にたくさん見ています。このような流れを食い止め、教会が、教皇フランシスコが繰り返し訴えておられる、「聖職者主義」を排し、司祭も信徒も、弱者とされている人も、心からの愛をもって「共に歩む」教会となるために、”文化”と”仕組み”を抜本的に改めることが求められているのではないでしょうか。

(西日本にある教区の女性信徒、2024.3.8記)

2024年3月8日

・竹内神父の午後の散歩道 ㉘四旬節ーそれは、変容の時

灰の水曜日から、四旬節が始まりました。四旬節はまた、〝変容の時〟とも言われます。イエスが十字架に向かって歩まれた道、それを辿ることによって、私たちは、少しずつイエスに似た者へと変えられていきます。それは痛悔・回心に始まり、イエスの苦しみに与り、さらに彼の愛に留まることによって可能となります。

 ミサの入祭唱では、次の言葉が語られます。

 神よ、あなたはすべてのものをあわれみ、お造りになったものを一つも嫌われることはない。あなたは人の罪を見逃し、回心するひとをゆるしてくださる。まことにあなたはわたしたちの神。

 この言葉の背後には、知恵の書11章の言葉が響いています。そこにおいて神は、「命を愛される主」と語られます。この神は、自らを隠すことによって自らを顕す方です(イザヤ書45章15節)。また私たちに、祈る時には隠れた所で祈るようにと勧められます。

 

*愛された塵

「あなたは塵であり、塵に帰って行くのです(あるいは、『回心して福音を信じなさい』)」という言葉とともに、私たちは、頭あるいは額に灰をかけられます。人間は塵から造られている、と聖書は語ります。しかしそれだけなら、単なる人形と変わりません。さらに神の命の息が注ぎ込まれることによって、私たちは、生きた者となります。

 私たちは、ほんの塵に過ぎない。しかし単なる塵ではなく、神に愛された塵である—これが、人間の現実です。儚い存在であると同時に、尊厳を持った存在でもあります。儚さを静かに実感することによって、私たちは、真の謙虚さを学ぶことができます。それが、命への道です。

*十字架を通して命へ

 私たちの前には、生と死が置かれています。そして神は、私たちに命の選択を求めます(申命記30章19節)。「命を選ぶ」とは、神につながるということでもあります。それゆえイエスは、自らをぶどうの木にたとえ、「自分につながっているように」と語ります。さらにそれは、彼の愛に留まることでもあります(ヨハネによる福音書15章1‐10節)。

 真にイエスにつながるということは、同時にまた、彼の苦しみに与るということでもあります。イエスが担われた十字架は、私たちの命の源。それゆえ彼は、こう私たちを招きます。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(ルカによる福音書9章23節)。十字架によらなければ、霊魂の救いはなく、永遠の生命もありません(『キリストにならう』第2巻第12章2)。しかし同時にまた、神は、あらゆる試練の時、私たちと共にいてくださいます。

*回心への招き

  神は、悪人の死を喜びません。むしろその人が、その道から立ち帰って生きることを喜びます(エゼキエル書18章21-23節、33章11節)。どのような悪人であっても、もし心から回心するなら、神は必ず受け入れてくれます。「私はあなたに罪を告げ/過ちを隠しませんでした。私は言いました『私の背きを主に告白しよう』と。/するとあなたは罪の過ちを赦してくださいました」(詩編32章  )。

 次の言葉も、私たちに慰めを与えてくれます—「私は痛悔の定義を知るよりも、むしろその心を感じたい」(『キリストにならう』第1巻1章3)。

 私たちは、命へと招かれています。その試金石は、誠実であること。自分に対して、人に対して、そして神に対して誠実であること。真の誠実さへの変容です。これ以外に命への道はありません。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

2024年3月4日

・ガブリエルの信仰見聞思 ㉟四旬節の旅を思い巡らす

 温かいカトリックの家庭に生まれ育ち、幼児洗礼の聖水によって印された私の信仰の旅は、無邪気な幼い頃から始まりました。その出発点から、四旬節は、この旅路における繰り返す通過点であり続けました。初期の頃、それは畏敬の念と伝統的な慣習の厳かさが混ざり合った道程のようでした。大切にしていたご馳走や気ままな娯楽を(一時的に)放棄したり、祈りや「十字架の道行き」の粛々とした信心業を耐えたりして、まるで意志と信仰の試練かのように感じられました。

*四旬節は一人旅ではない

 

 年月が経つにつれて信仰の旅を歩んでいくうちに、四旬節の輪郭は次第に変化し、継続的な霊的成長と刷新、そして神様とのより深い出会いの契機に富んだ風景が徐々に明かされてきます。この季節は、単なる「自制」や「我慢」の時ではなくなり、内省、清め、神様とのより深い交わりに捧げられる大切な期間として現れてきます。それは、心の荒れ野に踏み込み、自分の弱さと向き合い、「涸れた谷に鹿が水を求めるように」(詩編42編2節)、悔い改めの癒しの水を受け入れるように、との呼びかけであり、ダビデが切に祈り求めたように、自分の存在そのものを再形成する回心へと促しています―「神よ、私のために清い心を造り/私の内に新しく確かな霊を授けてください」(詩編51編12節)。

 四旬節は一人旅ではなく、新たな永遠の命へ導いてくださる主イエスとの旅です。この40日間、主に従って心の荒れ野に入り、主イエスが御父への完全なる信頼を倣い、自分の力ではなく「神の口から出る一つ一つの言葉」(マタイ福音書4章4節)に寄りかかるように招かれます。そして、主イエスが私たちのために、御自分を貧しくされ、へりくだってくださったのと同じように、私たちも栄光の主の御前に自分の魂をさらけ出します。

*人間共同体の中の私たちの立ち位置の再発見

けれども、四旬節の旅は、主に従って荒れ野に向かう主と一体化するだけでなく、人間共同体の中の私たちの立ち位置を再発見することでもあります。この季節に教会が特に勧める「祈り」「断食」「施し」の三つの行為は、愛の三位一体のようになり、神様と私たち信仰の本質に近付けさせてくれる意義深い信心業になります。これらを通して、私たちは恵みの変容的な力にあずかり、神様から遠ざけている重ね着を脱ぎ捨て、神様の愛の光を身にまとうよう招かれています。

 かつての子供の頃、忍耐力を試すような儀式のように思っていた「十字架の道行き」の信心業は、主イエス・キリストの足跡と苦しみをたどる深い黙想へと進化してきました。各留(場面)は、神様の深淵な愛の側面と人間の苦しみを映し出す鏡となり、キリストの苦しみ、ひいては今日の世界の苦しみとの深い交わりを招いて
いるように思えます。

*断食と施し―祈りの二つの翼

私たちが断食するのは、主イエスの体験を分かち合い、自分の意志を強め、物質的な糧だけに頼らず神様への信頼を深めるための手段だけではありません。私たちが断食をするのも、他の人々に与えるためです。聖アウグスチヌスが教えるように、「断食によって自分から取り去るものは、施しに加えなさい」(“Sermons onthe Liturgical Seasons: Fathers of the Church”/教会の教父たちの典礼季節に関する説教集(拙訳))。今日、私たちが断食のために使わなかった食費を「愛の献金」”に入れることをよく勧められています。

 また、「断食と施しは祈りの二つの翼です。それらは神に達するための飛翔を容易にしてくれます」(『説教206――四旬節について』:Sermones 206, 3, PL 38,1042)と聖アウグスチヌスが教え、イスラエルの民に対する主の問いかけを思い起こさせてくれます―「私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けることではないのか」(イザヤ書58章6-7節)

*復活祭への旅

四旬節が聖週間と復活祭に向かって進むにつれて、主イエス・キリストの受難、死、そして御復活の物語は、私たちに深い希望と新たな命の約束を与えてくれます。ラザロの復活は、この希望を力強く物語っています。「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。/生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない』」(ヨハネ福音書11章25-26節)。この言葉は、キリストの復活によって私たちに約束された永遠の命について思い巡らすよう私たちを招き、この賜物に相応しい生き方をするよう私たちを励ましています。

 四旬節は、祈り、断食、施しの呼びかけと共に、私たち個人的にも共同体的にも内省と回心のための神聖な時を与えてくれます。これは、自分の弱さと向き合い、赦しを求め、神との関係を深める旅です。四旬節を旅するとき、神様が与えてくださる変容的な恵みに心を開き、主イエス・キリストに従うより良いキリスト者となるよう、私たちを形作っていただけますように!

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

2024年3月3日

・愛ある船旅への幻想曲 ㊲3月に二つの女性の日ー人間として、当たり前に、自然に生きたい

 春の訪れを感じる3月、日本には女性のために制定された日が2つある。3月3日の『ひな祭り』と3月8日の『国際女性の日』である。

 『ひな祭り』は、日本において、幼い女子の健やかな成長を祈る節句の年中行事である。女の子が生まれて初めて迎える”初節句“は、ひな人形の前で縁起物満載の祝い善を囲み家族全員で祝う日本独特の習わしである。我が家も2人の娘のひな人形を選ぶために「あの作家さんの人形がいい、いや、こちらのほうがいい」と、生まれたすぐに相談せねばならなかった。お節句にも日本人として先ずは形から入るのである。

 『国際女性の日』は、国際婦人年である1975年3月8日に国連で提唱され、その後1977年の国連総会で議決された。日本ではまだまだ認知度が低い『国際女性の日』であるが、私の地域の女子高校生たちはジェンダー格差に関する考えをまとめ、新聞に発表している。

 ある女子生徒は、「女の子のおもちゃはぬいぐるみ、男の子はミニカー。幼少期から刷り込まれる男女差が積み重なり、成長後の進路選択や収入格差にもつながっている」ことから「性別による文系・理系選択の差」をテーマに選び「男子は理系、女子は文系」といった傾向の不思議さから「理系のほうが平均年収は高いと知り、進路選択の理由を考えることが、男女の収入格差を縮めることにつながるかもしれない、と思った」と言う。

 ある高校では、校歌の歌詞の中に男女差があると思われるような表現の箇所は歌われていない。一部とはいえ校歌を歌わないことに賛否はあるが、昨年発行されたその学校の創立100周年記念誌で「(該当の歌詞は)性による人間の在り方の決めつけや役割の固定と受け取られかねない」と記し、男女平等の理念を示した上で、女性解放運動に参加したこの女性作詞家は、本校の措置をおおらかに受け止めてくださるのではないか」と結ばれている。

 別の高校では、「女性国会議員を増やす方策」をテーマにし、高齢男性ばかりの国会議員に違和感を持つと意見し、「海外では女性議員がたくさんいるのに日本にはほとんどが男性。社会の男女
格差を知るほど、女性であることがこの社会で不利になるのでは感じ、社会に出るのが怖くなる」とした。

 若い世代のジェンダーを巡る問題への関心の高さと率直な意見を知り、ジェンダー平等を目指して取り組みを進める教育現場に変化があることがわかる。教育現場では変わりつつある男女平等の理念を
学ぶ生徒たちだが、ポーズばかりで変わらない日本社会の現状に不安を持っていることも確かだ。

 このように、変わりつつある若者の世界にカトリック教会は対応できるだろうか。宗教が、これから先も、現代社会と遊離し続ければ、宗教組織としての共同体の“形態”が確立できない状態に陥るのではないか、と私は危惧しているのだが、いかがであろうか。

 先日、今年から社会人になる大学院生と話をしている時、地方のカトリック教会への感想があった。「この教会に感じるのは、イデオロギーが強すぎる、ということなんですよね。」と、率直な的を射た感想に私は驚き、そして喜んだ。彼には、「毎週熱心にミサに与る信者たち」とは別な観点が、しっかり備わっている。そして、何よりも、彼から揺るがないカトリックの信仰を持つ自分に誇りを持
っていることを感じた。

 彼の家庭は曽祖父の時代からカトリックであるが、身内にいらっしゃる高齢司祭からさえも、教会に行くことを強制されたことがない、という。私は感動した。今までに聞いた「親戚に司祭や修道者がいらっしゃる知り合い」の話とは、随分と違いがあったからだ。

 宗教には、マニュアルからの”圧力”は必要ないのかもしれない。だが、どこの組織も「マニュアルに従ったほうが活動しやすい」という事実があることも承知している。カトリック教会はその傾向が今や一層強くなっている、と感じている。

 私が知る教会のトップ集団(と本人たちが思っている)は、女性信徒からの自分たちの意に沿わない意見や質問には、手っ取り早いのだろうか、位階制度を駆使して話し合いもなく胸に突き刺さるパワハラを持って、それを封じようとする。その言葉の後ろには「女(性)は意見を言うな」があると思われる。普段から、そう感じさせる意識があることを、私たち女性は知っている。

 なぜ、教会トップ集団の方々は、自然でまともな対応ができないのだろうか。これが、カトリック教会での生き方とやり方なのか、と思わざるを得ない言動が近ごろとみに増えている、と感じる。「人間として考え、人間としての言葉と行動を持って、人間の私たちに丁寧にお示しください」とまで言わねばならないようである。

 現実の社会で生活している私たちは、日々そこにある大小の問題に試行錯誤の連続である。自分自身で考えねばならないことが山ほどであり、マニュアル通りにいくことは、ほぼないに等しい。世の中は変わっていくし、自分の考えも変わるし、相手の考えも変わる。一番身近な家庭生活も毎日、万事順調とは言い難く、そうかといって納得がいかないことに、「はいはい」と安易に従うわけにはいかない。「とことん話し合うのが夫婦円満、家庭円満の秘けつ。そこに、大喧嘩は付き物」というのが私のこれまでの人生から導き出した生活信条である。

 それでも、相手の言い分、置かれている立場を知り、どう変化するのかを予想しながら、相手を認めていく努力をし、たまに力を抜いて相手を見たら、怒っている自分が馬鹿らしくなる時があるわけだ。とにかく、相手を知るためには頻繁に会話を重ねる必要があり、そこに「嘘と言い訳」という”飾り”を私は求めていない。私自身ありのままの私を相手に知ってもらうことで、私自身が私を知る
ことにもなっているのだ。

何度、自分の至らなさに気持ちが落ち込んだことか。こんな私であるから、未だに人生損をしているようだが仕方ない。しかし、人間として、互いの心に共通の「愛」があれば、問題も短時間で丸く収まり、信頼関係も、より深まるだろう。それを教え学ぶのが、カトリックではないのだろうか。

 故松下幸之助氏は、「人間の本能は自然に備わっているもので、これをなくすることは絶対にできません。これを無視した政治、経済、宗教は、ムダであるばかりではなく、かえって人間を苦しめることになります」と語っておられる。人間としての本能を生かせないシステムは成り立たない、ということ、その上で人間の本能をコントロールする人間の理性がうまく機能すること、が人間の幸福につながる、と言われているのだ。

 私たちは、人間社会で人間として生きている。人間として「当たり前に」自然に生きていきたい。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年3月2日

・Chris Kyogetuの宗教と文学 ⑪「金銭的豊かさ」と「幸福」ーアマルティア・セン経済学から

1 はじめに

 2024年2月22日、日経平均株価の終値がバブル絶頂期の1989年12月29日の3万8915円87銭を上回り、史上最高値を更新した。新NISAも始まり、今後は、そのような株価対策に効果があったかのように、しばらく株価は動いてくれると思う。というのも、やはりヨーロッパと比べると日本株の方が安定しているし、バブル崩壊、リーマンショックの引き金となった不動産の懸念事項が今回は見当たらないからだ。次にとても言いにくいが「戦争」も株価を好調にさせている一つでもある。東日本の震災や、今までの中東の戦争、ウクライナとロシアの戦争にコメントを述べていた企業も、今回のガザ地区のことにはコメント述べない企業が多いことでそれは明確に表れている。(これらは陰謀論ではなく、第二次世界大戦の株価の動きを見ていたら戦時中の株価の基本ぐらいは抑えられるとは思う)

 私はこのことについて専門家ではないので深く言及するつもりはないが、今後の生活を考えるのなら投資を学び、資産を増やすことを考えることは、「日本」でやっていくのなら致し方がないと思う。しかし、それでも貧困の問題がなくなることはないし、何年か後に、この政策に上手く乗れなかった人達への批判が始まる前に少し考えたいな、と思ったので、今回のコラムで扱うことにした。

 

2 アマルティア・センとcapability approach(潜在能力アプローチ

 アマルティア・センというインドの経済学者でハーバード大学の教授は、文学と明確な接点は無いが、彼の提唱した経済学は、文学でもテーマになっている「解放と自由」と「幸福追求」の要素が詰まっている。経済学の中でも高度な数学論理学を使う厚生経済学社会選択理論の権威者で、適応選好やcapability approach(潜在能力アプローチ、)、「人間の安全保障」などの概念は現在日本でも高校の公民の授業で教えられることがある。

 インドのカースト制の中に生きていて、9歳の頃にベンガル飢饉によって狂乱した人たちを見て衝撃を受け、研究した。大学に通える身分でありながら貧困に目を向けた彼は、貧困の定義を「貧困は基礎的潜在能力の欠如した状態である」とした。1998年にノーベル経済学賞を受賞するが、それまでは「大きな経済がうまくいくことによって人々が幸福になれる」とされてきたのを、センは「人間の幸福」に着目をし、「個人が自由に自己決定できることが重要だ」としたのだ。

 アマルティア・センの研究は主に経済学の分野に属するものであるが、人間の幸福と個人の自由の重要性を認識する、より広範な視点が盛り込まれている。

 貧困に対する研究はさまざまなものがあるが、マーガレット・サッチャーは「貧困は人格の欠如」と指摘した。また、貧困層に対するアプローチについてもさまざまな研究が行われており、対策は「寄付」なのか、それとも生き方を変えることなのかについて、現代でもさまざまな意見が錯綜している。

 100年前の作家ジョージ・オーウェルは自身も貧困を経験し、「貧困とは未来を握り潰すことだ」と述べています。彼は小説「ウィガンの波止場への道」で失業や貧困層のストレスについて触れ、「体に良い野菜を選ぶよりも、嗜好性があるものを選んでしまう」という内容で問題の本質に迫っていた。人は不足を補うために行動してしまう傾向があるからだ。「貧困においては正確な判断ができなくなる」という点は何世紀も前から研究が行われており、現在でも多くの大学で議論が続いている。

 アマルティア・センの経済学は、それを経済学の視点から考察し、選択の制約に苦しむ貧困問題に焦点を当てている。経済投資の観点から見ると、アマルティア・センの経済学は時代遅れな側面もあるのかもしれないが、今回は倫理の視点から注目することにした。彼の経済学は、経済の指標の向上だけでなく、個人の自由や機会の平等にも重視し、それを通じて包括的かつ持続可能な経済成長が可能であることを示唆している。アマルティア・センの経済学は、経済成果だけでなく、人々の生活の質や幸福の指標にも焦点を当てていた。経済が繁栄しているように見えても、格差や貧困が未だに存在する社会では真の成功とは言えないのだ。経済の健全性を評価するためには、経済成長率や株価の上昇だけでなく、より包括的な視点を持つ必要がある。

 

 

3 ケインズ経済学と日本

 

 資本主義の利点については、効率的な資源配分、競争による革新や効率改善、個人の自由や所有権の保護などが挙げられる。また、ケインズ経済学の理論に基づいた政策が「昭和」時代に夢を実現する手助けをしたとされる。この時期の成功した政策の一つは、財政政策だ。ケインズは、景気刺激策や公共投資を通じて経済成長と雇用創出を促進するために財政政策の活用を提唱した。また、不完全競争市場の理論も重要である。

 ケインズは、「市場が完全競争でない場合、価格や賃金が柔軟に変動しない」と主張し、需要を刺激することが雇用と生産に対して良い影響をもつとした。そして、失業者を支援するために積極的な政府の財政政策と需要管理の重要性を強調し、完全な競争市場ではなく、不完全な市場環境で経済がどのように機能するかを考え、景気循環や失業などの問題に対処するための政策を提案した。これには「産業政策」、大規模な公共事業やインフラ投資、経済成長と雇用の拡大、日本銀行の独立、効果的な金融政策の活用などが含まれる。さらに、自動車や電力などの製造業は貿易政策において強さを増し、国際的な協力の増加に貢献した。

 では、欠点は何だったのか、一つはインフレーションリスクである。ケインズ経済学は「需要刺激を通じて経済を活性化させる一方、それが長期的にはインフレーションを引き起こす可能性がある」という批判があった。二つ目は、政府の実行能力である。ケインズ経済学は「政府による積極的な介入を必要とするが、政府の実行能力には限界があり、効果的な政策の実施が難しい」とされることがある。

 次に「共産主義」とは、貧困の解決において政府の役割を重視し、国家による経済・社会管理を中心とした政治体制を意味する。共産主義では、資本主義の私有財産制を否定し、生産手段の共有化や平等な資源分配を追求する。共産主義の下で行われる政治では第一が「国家」になるのに対して、資本主義、及びケインジアン経済学の政治の第一は「市場」である。共産主義とケインズの政治との違いは、経済・社会の仕組みや役割分担の観点で異なる。共産主義では政治の役割が大きく、経済活動の中心的な調整や貧困の解決を国家に委ね、ケインズの政治では市場経済を前提としつつ、政府の介入を通じて経済の安定と公共の福祉を追求する。

 日本において、資本主義と福祉、救済がうまく働かなくなった原因として、資本主義の基本的な原則である「利益追求」と社会的な問題に対する十分な福祉がうまく回らなかったことにある。そこに、市場の限界も見られる。昨今に見られる福祉の不足や救済は市場の限界を越える課題であり、市場のメカニズムだけでは解決しにくいなどが見られる。そして最後に難易度の高いのが政治的な意思決定の問題である。福祉や弱者救済は社会的な公共財であり、政府の役割が重要であるが、政治的な意思決定は様々な利益や価値観が絡んで複雑なものになっている。

 

 

4 幸福と経済学

 

 経済学は、どこまでの幸福を考えるものなのか。そもそも経済学というものは、幸福そのものを直接的に扱う学問ではない。経済学とは多義に説明することは困難だが、資源の配分や経済活動の分岐に焦点を当て、人々の行動や選択に関与する経済的要因を研究したりする。

 アマルティア・センの経済学は、経済学に単に賃金による幸福だけでなく、他の要素も着目することになった。日本は犯罪率が諸外国よりも低く、学歴不問でも最低賃金の水準に伴い、仕事を選ばなければ最低限の生活が凌げるのかもしれないが、それはあくまでも賃金による保証の一面に過ぎないのだ。

 幸福を考える際に個々の主観的な感情や要素にも大きく依存するが、貧困による苦しみを「甘え」や「怠惰」と片付けてしまってはならないのだ。センはインドのカースト制度に焦点を当てたが、日本ではどうすべきなのか?

 ひとつ候補を挙げるのなら「発達障害」への対応が考えられる。報告件数の増加は、ソーシャルメディアを通じての認知度の向上と、障害を特定するための敷居の低さが影響している、と言われている。京都大学名誉教授の河合俊雄氏は、「発達障害が焦点を浴びる以前は、自傷行為や過食の相談が多かった」とメンタルヘルスの問題をめぐる状況の変化を示唆している。

 日本では、昭和の時代に比べて、『主体性』の必要性が高まっている。その時代には、男女の社会的役割分担、結婚や出産に関する期待、個性よりも協調性の重視がより広まっていた。地域社会は主体性によって繁栄し、終身雇用と社会規範への適合が普通だった。しかし、こうした力学は変わりつつある。発達障害はさまざまな症状を示すが、共通の特徴は主体性が弱いこととされる。

 1995年に内閣府が出した障害者白書には「障害は個性である」という肯定的な見解があったが、私たちは、しばしば個性と主体性を混同してしまう。「主体性」とは、個人が自分の意志、信念、思考を持ち、それらに基づいて行動する能力や傾向を指す。主体的な人は、自分の価値観に従って目標を追求し、自分を表現することができる。

 一方、「個性」とは、その人独自の特徴や特性を指す。一人ひとりを他人と区別するものであり、創造性や表現力に大きな役割を果たす。 個性が幾ら才能溢れて輝いていても、「主体性」が社会の抑圧や貧困により圧迫されるのであれば、それは自己の主体性を欠如させ、自己決定すら奪っていく。よって主体性を重視することは、アマルティア・センが提唱したケイパビリティの理論と繋がっていくだろう。これは一個人の心の治療だけにとどまらず、包括的に経済と社会も取り組まなければならないのだ。

最後に

 洗礼を受けた信徒は「信徒使途職」に就いている、とされている。社会の中に福音を広めることが広義な意味での「召命」になっているが、その際に経済のことも外せないのは、イエスが貧しい人を救ったことに倣うだけでなく、主が「正しい天秤、正しい重り、正しい升と正しい瓶を用いなさい」(レビ記19章36節)とモーセに告げているように、感情まかせに表層的な捉え方でイエス・キリストに倣うのではなく、経済学の観点などを用い、公正な社会の実現や貧困や不平等への取り組みと関連付けることも、重要になってくる。

 「発達障害」を例に出したのは一例に過ぎないが、「貧しさ」とは金銭的な貧しさだけではなく、相対的貧困があるように貧困とは何を指すのか、定義つけることがより一層複雑になっている。しかし、それを忘れたかのように、信仰で全て解決するような「嘘」をつくようなこともしてはならない。

 「金銭的豊かさ」と「幸福」、それを天秤にかけることは容易ではない。その苦しみこそ、痛感しておくことなのだ。

 あくまでも倫理を外さずに今回の話を終わらせるとするなら、私達も富んでいるのであり、また貧しいのかもしれない。ここまでの話の流れで、自分はどちらの立場にいると思えるのか、それによって体感は違ったはずだ。自分は貧しいのか、それとも豊かなのか。しかし、対極にいる存在は、いずれ自分自身がなる「鏡」なのかもしれない。

 例えば、私達は成功したとしても、子供がもしかしたら貧しくなるのかもしれないし、障害を持つのかもしれない。大学まで行けば成功のように認識しているが、突然、我が子が障がい者になるかもしれない。今、自分が綺麗な家に住んでいるとして、スキルを物凄く身につけたとし、ポジティブに頑張ってきたとする。そして、愚痴を言わずに頑張ってきたことを誇りに思えるかもしれない。

 だからと言って、愚痴を言う人間を批判することは本来ならできないはずだ。何故なら、もしかしたら自分の勉強した本を運んでくれた人や、印刷した人は愚痴を言いながら作ったのかもしれない。その中には、見えない「貧困と労働」があるのだ。私はこのことについて、大多数に向ける言葉と少数に向ける言葉と分けている。誰かが困っていたとして、叱咤激励をすることは、友好関係上あり得ることかもしれないが、大多数に向けて貧困に対して決めつけることは、あってはならないことだ。しかし残念ながら、世の中はそのような「専門家」で溢れている。

 もしも、今夜お祈りすることがあるのなら、そのことを考えながら何を行動すべきか考えながら祈ってほしい。

 イエスに倣うこと、それが苦しくても私たちにとって幸福であるように。

*注

・「ウィガンの波止場への道」:正式には「失業者や貧乏人は、食料を買うとき、オレンジや人参といった身体に良いものを買って食べればよいのに「美味しい味」だけを求めてしょうもないものを購入して食べる」

・「鏡」:コリントの信徒への手紙1・13章12節に「 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には… 今は一部分しか知りませんが、その時には私が神にはっきり知られているように、はっきりと知ることになります」とある。

(Chris Kyogetu)

2024年3月1日

・カトリック精神を広める③ 若かりし頃の恩人たち

 筆者が物心付いたころ、家族は既に離婚していて、姉2人は母親が引き取り、筆者は父親に引き取られた。だが、その実の父親がある日、養育を放棄して、借りていたアパートの部屋から、筆者を一人残して出奔してしまった。慌てたのは、アパートに住む隣人たちである。警察が呼ばれて、児童相談所に預けられることになった。ここで行き先が決まり、小平にある東京サレジオ学園に行くこととなった。

 カトリックとの関わりは、この時からである。筆者が小学1年の時の話である。学園を運営しているサレジオ修道会は、聖ドン・ボスコが創始した、カトリックの青少年教育に特化した修道会の一つで、 「ドン・ボスコ(1815~1888年)の原点は、イタリア統一運動と産業革命のただ中で、誰からも相手にされずにいた少年刑務所の青少年であり、ひどい労働条件の下で働いている青少年、また仕事もなく悪に染まっていく路上の青少年だった。彼はこの目の前にある現実から出発し、永遠の視点から一人ひとりの幸せを実現しようとした。

 日本では第二次大戦後の混乱の中にあって、身寄りがない子供や、子供を養育できない家族の子供を引き取り、子供の教育を
施したのが東京サレジオ学園である。サレジオの名前は、聖フランシスコ・サレジオから取られている。「熱意あふれる司牧者、慈愛の教会博士として有名な聖人で、人々への深い愛情と柔和な聖性は、聖ドンボスコにも大きな影響を与えた」という。

 現在、サレジオ会の学校は世界130か国にあり、日本では、工業高等専門学校が1つ、中高一貫校が3つ、小中一貫校が1つ、6つの幼稚園、筆者がいた東京サレジオ学園を含め3つの児童福祉施設がある(https://salesio.jp/about/education)。

 本稿は、筆者の生い立ちを書き並べるために筆を起こした訳ではなく、一切身寄りのない筆者が接した大人たちから、いかに恩恵を被ったか、そのことがいかに情操面で良い思い出を作ったかを言い表したいためである。

 まず、なんと言っても、六本木にあった「ニコラス」というイタリア料理店に感謝申し上げたい(1954年誕生の老舗店で、日本で初めてアメリカンスタイルのピザを提供した店として有名。現在六本木店は閉店、新橋、横浜馬車道、品川に店がある)。

 中学生の頃、毎年のクリスマス期間中に、六本木の店まで学園在校生100名ほどを、バスに乗せて招待し、ピザなどを振舞ってくれた。店への招待が難しい場合は、料理人を学園まで派遣し、パンに温かいソーセージを挟んだホットドックを振舞ってくれた。

 以来イタリア料理が好きになった。筆者は当時、聖歌隊に所属し、薄暗い店内でクリスマスソングを歌った記憶がある。ボトルをわら(トウモロコシの皮)で包んだ「キャンティ・フィアスコ」というワインも置いてあり、店内はイタリア一色の雰囲気。当時六本木で羽振りを利かせていたようで、「東京アンダーワールド」(角川出版、著者:ロバート ホワイティング、翻訳:松井 みどり)では、ニコラス創立者のニコラ・ザペッティのことを、東京のマフィア・ボスと呼ばれ、夜の六本木を支配した男と紹介している。

 彼は、「東京のヤミ社会、日本の暗部と深くかかわったこの男は、マフィア牛耳るイースト・ハーレムに産まれ、ボロもうけをもくろみGIとして東京に上陸した。つぎつぎと闇のベンチャーで成功するニコラのもとには、ありとあらゆる人種が集まった…政治家、ヤクザ、プロレスラー、高級娼婦、諜報部員」などなど。力道山とも関わっていることにも言及している。大儲けしたが故に、罪滅ぼしとして、学園への慈善事業を行ったのだろうか。

 イタリア系アメリカ人だけではない、日本の蕎麦屋さんの組合の有志が、学園にやってきて、全校生徒にそばを振舞ってくれたこともある。だしの風味が効いていて、当時はこんなにおいしい食べ物があるんだと思ったものである。この時の味を超えるそばには、今に至るも出合ったことがない。

 食べ物だけではない。学園の近くには、学芸大学があり、幼児教育を学ぶ若い女学生さんが、学園に慰問にやってきて、歌を教えてくれたこともある。この時に教わった「どじょっこ」の歌などは、今に至るも忘れないでいる。「女心の唄」で250万枚のレコードを売った歌手として、当時大人気だったバーブ佐竹氏が、慰問に来てくれたこともある。重い機材を学園に運び込み、低温の美声を披露してくれた。

 学園卒業後は、昼間働き、夜は定時制に通ったが、勤めた会社は温度計を作る精密機械会社で、大学出たての社長の息子が働いていた。彼は、筆者が「大学に行きたい」と言うと、数学を教えてくれた。まだ、新婚ほやほやなのに、家に招き、数学を教えてくれたのだ。

 社会では、いろんな方々が、ボランティアをしているが、子供にとっては、日常の生活から離れるために、記憶に仕舞い込まれ、いろんなときに思い出されて、そうだ、あの時はこんな美味しい物を施してくれた、いろんな歌を教えてくれたと思い出され、自分も、施されるだけではなく、施す側に付きたいと思うことにもなっている。筆者がレジ袋等のごみ問題から、社会を変える運動に携わっているのは、サレジオ学園を始め、そんな恩人たちのお陰と思っている。

横浜教区信徒 森川海守(ホームページ:https://www.morikawa12.com)

2024年2月29日