・「改めてイエスへの信頼を深めよう」-菊地・東京大司教の四旬節第五主日のミサ説教

(3月29日 (日)菊地大司教の日記より)

Cathedral200328

 3月29日、雪降る東京です。四旬節第五主日のミサの導入と、説教の原稿です。今回は大聖堂から配信しましたが、音の問題は多少改善されたと思います。映像の乱れが解消していません。

 

【ミサの導入】

 私たちは生まれて初めて、ミサの無い四旬節を過ごしてまいりました。砂漠の中に放り出されたような、霊的な渇きに苦しめられた四旬節です。

 第五主日のミサは、すべてを司る神の力を通じて復活への希望を新たにする日です。感染症が拡大する中で、東京ではこの週末の外出を自粛するようにとの要請が出るなど、希望を見いだすことが難しい状況で私たちは生きています。

 その不安の中にあって、あらためて本当の希望である主イエスへの信頼を、このミサの中で深めましょう。

 また洗礼を準備しているすべての志願者の上に、勇気が与えられ祝福がありますように祈りましょう。

 そして、感染症の拡大が一日も早く終息し、事態が収まるように祈りましょう。

 

【ミサの説教の原稿】

 人間の命のはかなさ。人間の命を奪い去る死への恐怖。福音の冒頭にあったように、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と叫びたい気持ちです。

 今年の四旬節ほど、人間の命について考えさせられた四旬節はありません。感染症の拡大の中で、私自身を含めて、多くの人が「命を守るために」適切な行動をとるようにと呼びかけつづけている四旬節です。初期の段階では大げさだと思われた行動が、時間を経るにつれて、まだまだ厳しい対応をしなければ間に合わないと危機感を募らせることになり、状況は日夜、変化し続けています。

 世界各地で、とりわけ現時点では欧米諸国で、多くの方が感染症のために命を落とし、その原因が目に見えないウイルスであるからこそ、死への恐怖がわたしたちに忍び寄ってきます。

 東京教区がこうして公開の形での主日ミサを取りやめているのも、何度も強調してきましたが、自分の身を守るためと言うよりも、無症状のままで感染源になる可能性があるという今回のウイルス感染の特徴のため、知らないうちに自分が感染源となって、他の人たちを巻き込んでしまうことを避けるためです。

 インターネット上には、医療崩壊を食い止めるために、自宅に留まってくれるように呼びかける医療関係者の動画とか、「私たちの命を守るために、家に留まってくれてありがとう」と呼びかける高齢者の動画などがあふれています。

 コロナウイルス感染症の蔓延は、私たちに、すべての命を守るためには、自分の身を守ることだけではなく、同時に他者の命にも心を配る思いやりが必要なのだということを思い起こさせています。すなわち、すべての命を守るための行動は、社会の中での連帯と思いやりを必要としています。

 私たちは、この理不尽な感染症の蔓延という事態が、どうして、今、この時に起こっているのか、わかりません。なぜこのような苦しみが、世界にもたらされているのか、その理由を知ることも不可能でしょう。

 教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。この世界から理不尽な苦しみを取り除く努力をしなければならない、としながらも、教皇は、人間はその有限性という限界の故に、苦しみの源である悪と罪の力を取り除くことができないのだとも指摘します。それができるのは神だけであり、神は人間の歴史に介入されて、自ら苦しまれることで、世界にいやしを与える希望を生み出した。そこにこそ、私たちが掲げる希望があると指摘されます。

 その上で、教皇は、人間の価値は苦しみとの関係で決まるのだとして、こういいます。
「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」

 苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神が私たちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神が私たちを愛して、この世で苦しむ私たちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

 私たちにとって、命を奪い取る死に至る道は、苦しみの極地ではないでしょうか。

 本日の福音で、イエスは愛する友人であるラザロの死という苦しみと悲しみを通じて、初めて神の栄光を目に見える形で表します。

 そのイエスご自身が、自ら受難の道へと足を進められ、十字架上で命をささげられます。しかしその自己犠牲こそは、永遠の命への復活という栄光を生み出す苦しみでありました。

 イエスの人生こそは、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を具現化する人生であります。

 私たちは洗礼の水を通ることによって、古い自分に死に、新しい自分に生きることになります。エゼキエル書に「私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と墓にいる者たちに告げる言葉が記されています。まさしくわたしたちは、洗礼によって神の霊を吹き込まれて、新たに生かされることになる。

 その新たに生きる人生は、それまでの人生の継続ではなく、新しい人生です。

 すべての悪に打ち勝つイエスの復活の力に希望を見いだす人生です。

 「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を中心に据えた人生です。

 教皇ヨハネパウロ二世は、書簡「サルヴィフィチ・ドローリス」において、苦しみの意味を考察されています。

 教皇は「神は御ひとり子を、人間が悪から解放されるために世に与えられた」と指摘し、御子は、神が愛される人間の救い、すなわち贖いのために、罪と死に打ち勝たなくてはならなかった。そのための戦いが、イエスの人間としての苦しみの生涯なのだと述べています。

 その書簡の終わりにあたり教皇は、ただ漫然と苦しみに耐えていれば良いというわけはではないことも、指摘することを忘れてはいません。漫然と耐えているだけでは、この世における神の国の実現はあり得ないからです。神の国の実現のためには、打って出る行動が必要です。

 教皇は、教会が「善きサマリア人」に倣って生きるように、と呼びかけ、「我々お互いの関係は、苦しむ隣人の方に向かわなければならない」と指摘します。

 その上で、教皇は「苦しみは、また、人間の人格の中で、愛を誘発するために存在している」とまで述べて、困難に直面する人たち、苦しみのうちにある人たちへ、徹底的に自己を与え尽くすことによって奉仕し、寄り添うことが必要であると説きます。苦しみの福音は、善きサマリア人として生きることを通じて、常に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜いた主イエスによる希望へと方向づけられるのです。

 感染症が蔓延する中で身を守ろうとしている私たちには、すでに述べたように、「命を守るための行動」が必要で、そのためには自分の身を守ることだけではなく、社会の中での連帯と思いやりが必要です。

 今回の事態で、病気に苦しむ人、病気との闘いに苦しむ人、経済の悪化で苦しむ人、雇用を失う人。様々な状況で、命の危機に直面する人たちが社会には存在することでしょう。私たちにはいま、思いやりと共に「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を生き抜くことが求められています。

2020年3月29日

・赦しの秘跡と特別免償について-菊地・東京大司教から

(2020.3.28 カトリック・あい)

 バチカン内赦院からゆるしの秘跡と特別免償についての教令が出されたが、これを受けて、東京教区の菊地大司教が26日、次のような通達を出した。全文以下の通り。

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 カトリック東京大司教区の皆さんへ カトリック東京大司教区 大司教 菊地功

教皇庁からのゆるしの秘跡と特別免償に関する通達について

 使徒座裁判所内赦院から、3月19日付で、現在の新型コロナウイルス感染症の拡大によるパンデミック状況の中で、ゆるしの秘跡をどのように取り扱うかに関連して通達がありました。また特別免償の教令も出されています。

 同通達ならびに同日付の教令に基づいて、現在の状況下でのゆるしの秘跡に関して、東京大司教区の信徒の皆様に、以下のようにお知らせいたします。

 1:ゆるしの秘跡が必要な方は、主任司祭・助任司祭にご相談ください。ただし、それぞれの小教区で事情が異なるとは思いますが、原則としていわゆる「告解室」を使用しないようにと司祭に通達いたしました。
基本的にゆるしの秘跡は、密閉空間である従来の箱形や個室型の「告解室」を利用しないで、会議室、応接室など、プライバシーが保たれ、かつ充分に換気が可能で、距離を置いて着席ができる場所で、互いにマスクを着用の上、とりおこないます。

 2:教会法961条第1項2号には、「重大な必要性がある場合」、一般赦免を与える可能性が定められています。一般赦免とは、個別の告白を伴わないで、多数の人に同時に罪のゆるしを与えることを言い、生命の危険が差し迫っているなどの「重大な必要性」があるときにのみゆるされています。内赦院は、今般の事態にあって、特に感染が拡大している地域においては、おさまるまでの間、「重大な必要性」が発生していると判断しています。

 ただし、一人ひとりに、その都度個別に一般赦免を与えるということではなく、多数の信徒がゆるしの秘跡を求めていて、それぞれが事態が落ち着いてから「いまは一つずつ告白できない重大な罪を適切なときに告白する決心」(962条1項)をしている場合が、その可能性の対象となります。

 それぞれの小教区の状況に応じて必要な対応は異なりますが、東京教区の主任司祭には、今回の事態にあたって一般赦免の機会を設ける許可をいたしました。

 3:また同日付で、内赦院からは、新型コロナウイルス患者とその家族、医療関係者をはじめ、このパンデミック危機下にあるすべての信者らに、特別免償を定めた教令が発表されています。同教令には主に、以下の四点が記されています。

 「新型コロナウイルスによって苦しみ、保健当局の規定により病院もしくは自宅に隔離されている信者に対して、以下の条件のもと全免償を付与します。
自らの霊魂からあらゆる罪を遠ざけ、何らかの通信手段を用いて、ミサ聖祭、聖なるロザリオの朗誦、敬虔なる心による十字架の道行きやその他の形態の献身、あるいは最小限の要件として、敬虔な心で信仰宣言、主の祈り、そして聖なる処女マリアへの祈りの朗誦に精神的に参加し、これを神への信仰と隣人へのいつくしみと愛を持って行うこと。かつ状況が可能になり次第、通常の要件とされる、ゆるしの秘跡、聖体、教皇の意向に従う祈りをささげることを満たす意思を有していること。」

 「医療従事者、家族、その他関係者は、善きサマリア人の模範に倣い、自らも感染の脅威にさらされながら、贖い主の言葉に従いコロナウイルス患者の看護を行っている。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15:13)のです。これらの人々は、同条件のもとで全免償の恩恵を受けることができます」

 「今回の感染症の世界的流行に際して、感染の終息と、これに苦しむ人々への慰め、そして主が自らのもとへ呼び寄せられた人々の永遠の救いを全能の神に祈願するために、聖体訪問、聖体礼拝、最低30分間聖書を読むこと、聖なるロザリオの朗誦、敬虔なる十字架の道行きの実践、神のいつくしみへの祈りの花束の朗誦のいずれかを行った信者に対しても、上記同じ要件において全免償を積極的に付与するものとします」

 「教会は、これまで病者の塗油や臨終の聖体拝領(viaticum)を受けることのできない人々のために祈りを捧げ、聖徒の交わりの力により、すべての人を一人ひとり神の慈悲に委ねて、臨終にある信者が赦免を受けるに相応しい心構えを持ち、生涯を通して何らかの祈りを唱えることを常としていた場合は、この信者に対して全免償を授けています(この場合、通常の3つの必要条件を満たすための行動は教会が代理する)。当該免償を受けるためには、十字架のキリスト像もしくは十字架を用いることが推奨されています」

 なお免償とは、罪のゆるしではありません。カテキズムの要約によれば、「免償は、罪過としてはすでに赦免された罪に対する有限の罰の神の前におけるゆるしです」とされ、「有限の罰」を免ずることです。なお免償は自分のためだけではなく、すでに亡くなった方々のためにも得ることができます。

                  以上

註:「免償」に関する補足

 免償とは、ゆるしの秘跡の代わりになるものではありません。ゆるしの秘跡の最後には司祭から果たすべき「償い」が言い渡されますが、免償を受けることによって、この「償い」が全面的に(全免償)、あるいは部分的に(部分免償)、果たされたとみなされます。

2020年3月28日

・カトリック中央協議会も30日から業務停止に、4月13日再開予定

(2020.3.27 カトリック・あい)

 新型コロナウイルスの感染拡大が止まらないことから、カトリック中央協議会も業務を停止することになり、27日休業のお知らせをホームページに掲示した。

 期間は3月30日から4月12日までとし、4月13日から業務を再開する予定、としている。

 カトリック新聞4月5日(受難〈枝〉の主日)付と4月12日付(復活祭特集号)は通常通り発行。出版部へのこの期間中の注文には可能な限り対応するが、通常に比べ、対応に多少、時間がかかる可能性もある、としている。

2020年3月27日

・東京教区、3月30日以降も公開ミサを原則中止継続、聖週間も

(2020.3.24 カトリック・あい)

 カトリック東京教区は、新型コロナウイルス感染拡大への対処の一環として教区の全教会などでの公開ミサを中止しているが、3月30日以降も、公開ミサの原則中止を決めた。

 聖週間の典礼も聖香油ミサを含めて非公開とするが、主日のミサは、聖週間も含めてインターネットによる映像配信を継続する。また、復活祭の洗礼式は各教会の「主任司祭の指示」に従うよう求めている。

 

 菊地大司教による、教区の聖職者、信徒宛ての通知全文は次の通り。

【新型コロナウイルス感染症に伴う3月30日以降の対応】

                   カトリック東京大司教区の皆様 カトリック東京大司教区 大司教 菊地功

 新型コロナウイルスによる感染症は世界的な規模で拡大を続け、各地で重篤な症例の報告が相次いでいます。ご存じのように世界各国でも、公開のミサなど教会活動の中止が決められています。
3月19日の政府専門家会議の新たな見解に基づき、3月30日以降の東京教区の対応を以下のように定めましたので、具体的な対策をお願いいたします。

1:3月30日(月)以降も,当面の間、東京教区のすべての信徒を対象に、主日のミサにあずかる義務を免除します。

2:3月30日(月)以降、当面の間、不特定多数が参加する公開のミサを原則として中止します。

3:結婚式と葬儀については、充分な感染症対策をとった上で、通常通り行います。

4:諸行事に関しては、20名程度の小さい集まりを除いて、できる限り延期または中止するようにご配慮ください。実施する場合でも、手指消毒はもとより、換気を充分に行い、互いの間隔を大きくとり、短時間で終了するように心がけてください。

5:聖週間の典礼は聖香油ミサを含めすべて非公開としますが、復活祭の洗礼式については、主任司祭の指示に従ってください。

6:いのちを守るため、特に高齢で持病のある方にあっては、自宅において共同体の祈りに加わるようになさってください。

7:四旬節愛の献金をはじめ、この典礼季節に特別に献金をされてきた方は、個別に主任司祭にご相談ください。

 なお、関口教会の信徒の方のご協力を得ておこなっている主日ミサのインターネット映像配信ですが、これを継続するとともに、聖週間の典礼も配信します。

 なお映像配信については、字幕などのサービスを常時提供できないこともあります。担当してくださる方にボランティアとしてお願いしていますので、ご理解いただきますようにお願いいたします。

2020年3月24日

・「今こそ、祈りと心配りを」-聖週間を前に菊地・東京大司教呼びかけ

(2020.3.24 カトリック・あい)

 カトリック教会では4月5日から聖週間を迎えるが、カトリック東京教区の菊地大司教が23日、「聖週間を迎えるにあたって」と題するメッセージを教区の聖職者、信徒に対して出された。

 全文以下の通り。

【聖週間を迎えるにあたって】

                     カトリック東京教区の皆様  カトリック東京大司教区 大司教 菊地功

   新型コロナウイルスによる感染は世界的レベルで拡大し、毎日のニュースにおいて国内外における感染者と死者の増加が報道されない日はありません。

   亡くなられた方々の安息を祈ると共に、感染された方々、現在治療を受けられている方々の一日も早い回復をお祈りいたします。同時に、対策や治療のために日夜努力されている研究者、医療関係者の方々の超人的な働きには感謝の言葉しかありません。この方々の健康のためにお祈りいたします。

   世界的なレベルで感染が拡大する中、世界各国は鎖国のような状況に陥っていますが、このような時だからこそ、政治のリーダーたちが互いの相違を乗り越えて、信頼の内に協力しあう世界の実現を願っています。また政治のリーダーにあっては、すべてのいのちを守ることを優先され、様々な側面から忘れ去られる人のないように、対策を進められることを願っています。

   そして宗教に生きる私たちは、祈りの持つ力への信頼を失わず、それぞれの場にいながらも、信仰に結ばれながら、祈り続けたいと思います。

  私たちは,これまでにない厳しい挑戦を受け続けながら四旬節を過ごしております。感染症の拡大が要因とはいえ、四旬節中にミサにあずかることなく,また御聖体を受けることなく過ごすような事態となってしまったことは、非常に残念ですし心苦しく思っています。

  もちろん、ミサがないことで教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。私たちは信仰によって互いに結ばれているのだ、という意識を,この危機に直面する中で改めて心に刻んでいただければと思います。祈りの内に結ばれて、キリストの体をともに作り上げる兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、命の源であるキリストの光を輝かせましょう。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます。(マタイ福音書28章20節)

 この挑戦は,私たちに、生活において信仰を意識する機会を与えています。私たちはこの困難な時期を、信仰を見つめ直したり、聖体や聖体祭儀の意味について改めて学んだり、霊的聖体拝領に与ったりと、普段はあまり気に留めていない信仰生活を、見直す機会ともしたいと思います。

  私たちは、一人で信仰を生きているのではなく、キリストの体である共同体のきずなの内に結ばれています。今こそ、そのきずなが必要です。共同体にあって私たちは、すべての命を守るようにと呼ばれています。自分のいのちを守るためだけではなく、互いの命を守るために、今こそ、思いやりの心遣いが求められています。様々な立場で感染症と闘っている専門家、病気と闘っている患者、社会的状況や経済的状況によって命の危機に直面している人々。すべての命が守られるように、今こそ、私たちの祈りと心配りが必要です。

 

  東京教区ではこれまで二度にわたる注意喚起を発出し、感染予防を訴えてきました。

  また、2月13日の香港教区での公開ミサ中止を受けて信徒の医療専門家と話し合い、2月24日の厚生労働省の専門家会議の見解に基づいて、一回目の公開ミサの中止を決定いたしました。さらに3月9日の司祭評議会での話し合いと、同日の厚生労働省専門家会議の見解に基づいて、公開ミサ中止延長を決定いたしました。

  今回の感染症にあっては、感染者の多くが無症状なままで回復していると報告されています。しかし大きな問題は、その感染者の多くが、無症状なまま感染源となり得ることにあります。

  厚生労働省の専門家会議は、感染が拡大しやすい環境として次のように指摘します。
「これまで集団感染が確認された場に共通するのは、①換気の悪い密閉空間であった、②多くの人が密集していた、③近距離(互いに手を伸ばしたら届く距離)での会話や発声が行われたという 3 つの条件が同時に重なった場です」

  これまでのインフルエンザ流行対策などでは、熱があったり体調を崩している人が家で療養してくだされば、健康な信徒が教会に集まることには問題がないのですが、今回は、自覚症状がないとしても実は感染している人が存在する可能性があり、その方から、特に高齢で持病のある方に感染した場合、重篤な症状を引き起こす可能性があります。

  従って、公開のミサを自粛する一番の理由は、自分が感染しないようにするためではなく、意識しないまま感染源となり、他の方を危険にさらす可能性を避けるためです。

 間もなく聖週間が始まるのを前にして,政府の専門家会議の見解に基づいて東京教区の対応を別途発表いたしました.

 

   私たちはいま、体験したことのない聖週間と復活祭を迎えようとしています。聖週間の毎日を、どうか大切にしてください。聖週間の聖書朗読を必ずお読みください。祈りを共にしてください。苦難に打ち勝ち復活の栄光に達した主の力に、私たちをゆだねましょう。信仰を生きる意味を改めて見つめ直しながら、一日も早い事態の終息を、慈しみ深い神である御父に祈りましょう。

  聖なる神の御母よ、
あなたの保護のもと私たちは身を寄せます。
試練の中で祈る私たちを見捨てないでください。
栄光ある、祝福された乙女よ、
私たちをあらゆる危険から守ってください。 (教皇フランシスコの祈りより)

(表記は、当用漢字表記に直させていただきました)

2020年3月24日

・4月下旬予定の「校長・理事長・総長管区長の集い」中止に

(2020.3.23 カトリック・あい)

 カトリック中央協議会の学校教育委員会は23日、4月下旬に予定していた第33回「校長・理事長・総長管区長の集い」の中止を決定し、中央協議会のホームページに掲載するとともに、関係者に通知した。

 この集いは4月28、29の両日開催を予定していたが「新型コロナウイルス感染症の影響および国内の感染状況に鑑み、ご参加いただく皆様の健康と安全を第一に考慮した結果」中止を決定した、としている。

 

2020年3月23日

・「困難の中で互いに祈りの内に結ばれ、キリストを証しする者となれるように」菊地大司教の四旬節第四主日の説教

四旬節第四主日ミサ@東京カテドラル(2020年3月22日)

【ご説明】

 インターネットで配信した、3月22日、四旬節第四主日のミサの説教原稿です。東京カテドラル聖マリア大聖堂は、大聖堂と地下聖堂とも、音声を収録することに困難がつきまとっています。備え付けのマイクからの音声と、聖堂内の全体の音声などのバランスを調整しながら収録することがとても困難で、例えば教皇様の来日の際のように、独自の機材を大量に持ち込めば良いのですが、残念ながら突発的な出来事でしたので、教区の予算の制約もあります。できる限り機材を購入しながら、少しずつ改善しているところですが、準備が整えば、大聖堂からの配信もできるように、主任の天本神父以下取り組んでくださる信徒のボランティアの方々と、鋭意挑戦中です。

【ミサの初めに】

 四旬節第四主日は、伝統的に、このミサに固有の入祭唱が、イザヤ66章の「神の民よ、喜べ、 神の家を愛するすべての者よ、ともに集え」という言葉からとられていることで、レターレの主日とかバラの主日とも呼ばれています。復活祭の喜びへと旅を続けるわたしたちに、まもなく訪れる希望の光を先取りする形で、キリストの光にあずかるようにと招いている主日です。

 困難な時期にあって、事態の一日も早い収束と、病気にあって苦しまれている人たちの回復を祈りましょう。また治療のために日夜取り組んでおられる医療専門家の方々や研究者、今回の事態にあって社会的に経済的にいのちの困難や危機に直面している多くの方々の上に、いつくしみ深い神の手が差し伸べられるように、祈りましょう。

【共同祈願】

 四旬節は復活祭に洗礼を受ける準備をされている方々にとって、心を整える最終的な準備の期間です。四旬節第四主日は、荒れ野の中を旅するような苦しみの中で信仰を見つめ直し、洗礼への準備を進める旅路にあって、まもなく洗礼を言う喜びのときが近づいていることを心にとめる、喜びの主日でもあります。残念ながら、今年は小教区での主日のミサが行われていないため、洗礼志願者の方々にあっては、まもなく訪れる喜びを、共同体のなかで実感していただくことができません。

 洗礼は個人的な出来事にとどまらず、教会共同体に迎え入れられること、すなわち、キリストの体の一部となることでもあります。四旬節の主日のミサにおいて、教会共同体が洗礼志願者のために祈るのは、共同体に迎え入れられるという出来事を、信徒も志願者も、互いに実感するためでもあります。

 本日のミサには、それぞれの場から映像を通して参加されている洗礼志願者の方もおられることと思います。教区の共同体全体が、皆さんのために祈り、また皆さんを兄弟姉妹として共同体に迎え入れる日を、心待ちにしています。本日の共同祈願の中でも、洗礼志願者の方々のために祈り、また終わりには洗礼志願者が、「やみから光に移り、暗闇の力から解放」され、「光の子として歩むことができ」るように、「解放を求める祈り」を唱えます。

 それでは、光の源である神に心を開いて祈りましょう。

【説教】四旬節第四主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂(映像配信ミサ)2020年3月22日

 わたしたちは,厳しい挑戦を受け続けながら、今年の四旬節を過ごしております。教会の歴史の中では初めてではないのだろうと思いますが、しかし、私を含めて多くの方が,信仰生活の中でこれまでに体験したことのない事態に遭遇し,困惑しています。

 四旬節は、洗礼の最終的な準備をしている洗礼志願者と歩みをともにしながら、キリストに従うわたしたちが、信仰を振り返り、イエスとの出会いの原点に立ち返ろうとする季節です。感染症の拡大が要因とはいえ、その四旬節中にミサにあずかることができず、また御聖体のうちに現存される主との一致の機会も霊的な拝領に限定され、黙想会などを通じて信仰を見つめ直す機会もなくなってしまったことは、わたし自身非常に残念ですし、教区に対してそのような判断をせざるを得なかったものとして大変心苦しく思っております。

 もちろんミサがないことだけで、わたしたちの教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。この危機的な状況に直面する中で、あらためて、わたしたちは信仰によって結ばれている兄弟姉妹なのだという意識を、さらにわたしたちは共に、同じキリストの体を形作っているのだと言う意識を、心に刻んでいただければと思います。

 祈りのきずなによって結ばれて、共に困難に立ち向かう兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。

 わたしたちは、暗闇の中に取り残されて、一人で信仰をまもろうとしているのではありません。わたしたちは、神から与えられた賜物であるいのちを共に生きているように、物理的に離れていても、たとえ皆が集まることに困難があったとしても、同じ信仰の内にあって共に祈ることで、一緒になって力を合わせて信仰をまもっています。

 パウロはエフェソの教会への手紙の中で、わたしたち一人ひとりに、主に結ばれて「光の子として歩みなさい」と呼びかけます。その「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」と記されています。

 わたしたちは、暗闇の中で疑心暗鬼に苛まれている社会にあって、キリストの光を輝かせ、「善意と正義と真実」を生じさせるように努めたいと思います。

 パウロは同じ手紙の中で、わたしたちが光の子として先に光を輝かせるのではなく、まず「キリストはあなたを照らされる」と記しています。しかし、そのためには条件があるとも記されています。それはその言葉の直前にある、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ」と言う言葉に示されています。

 わたしたちはキリストからの光の照らしを受けたから立ち上がることができるのではなくて、わたしたちが、立ち上がるからこそ、そこに結果としてキリストの光が照らされるのだ、というのです。すなわち、わたしたちが光の子として輝くためには、キリストからの光の照らしが必要であって、その照らしを受けるためには、わたしたちの主体的な行動がまずなければならないのです。

 ヨハネの福音では、シロアムの池で癒やされた盲人の話が記されています。もちろん冒頭で、イエスは土をこねて盲人の目に塗るのですが、そこで本人の行動を促します。

「シロアムの池に行って洗いなさい」

 盲人は自ら行動することによって、癒やしをえるというキリストの光に照らされることになるのです。そして、さらには、福音には、「帰ってきた」と記されています。すなわち、キリストに導かれながら自ら行動したことによって光に照らされた盲人は、その光の源であるキリストから離れることはなかった、キリストの光の内にとどまったということです。

 その一連の行動を、律法の規程に背いているとして咎め立てるファリサイ派の人たちは、キリスト光の内にとどまることのない人の姿を現しています。

 自らの常識やプライドにがんじがらめにされているため、目の前で起こっている事実を、自分の世界の枠組みの中でしか理解することがありません。その目には、キリストの光は届いていないのです。

 福音の中では、ファリサイ派の人たちとイエスとの立ち位置の違いが象徴的に描かれています。イエスは外に立っている者として描かれ、ファリサイ派の人たちは自分たちの場所の中にとどまっているように描かれています。目の不自由な人は、翻弄されながら、その間を行き来しています。

 キリストの光は、自分たちの殻に閉じこもり、常識とプライドの中に安住を求めている中の人たちには届いていません。そこには、善意と正義と真実が欠けてしまっているのです。

 とはいえ、ファリサイ派の人たちが、取り立てて悪人であると断罪することは、わたしたちにはできません。なぜならそこに描かれている姿は、わたしたちそのものでもあるからです。わたしたちは、個人としても共同体としても、自分の思いや社会の常識や長年の伝統やプライドを優先させて、時としてそれを守ることに力を傾けてはいないでしょうか。

 積極的に出向いていく教会の姿を説き続ける教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージにこう記しています。

 「主への回心の時期や方法を司るのは自分だといううぬぼれた思い違いで、この恵みの時を無駄に過ごすことのないようにしましょう」

 その上で教皇は、「イスラエルの民のように荒れ野に導かれましょう。そうすれば、花婿であるかたの声をついに聞き、その声を心のうちで、より深く意欲をもって響かせることができるでしょう。そのかたのことばにすすんで関わればそれだけ、わたしたちに無償で与えられる主のいつくしみをますます味わえるようになります」と述べています。

 さらに教皇は四旬節メッセージにこう記します。

 「イエスにおいて、神の熱意は、ご自分の独り子にわたしたちのすべての罪を負わせるほどに、また教皇ベネディクト十六世が述べたように、「自らに逆らう神のわざ」となるほどまでに高まります。神はまさに、ご自分の敵さえも愛しておられるのです」

 わたしたちの旅路の主役は、光であるキリストです。わたしたちを愛するがあまり、先頭に立って十字架を背負い、わたしたちを導いてくださるキリストです。自分という殻を打ち破って外へと出向き、行動するように促すキリストです。

 わたしたちはこのキリストに、ひとりでつき従うのではなくて、神の民として、共同体としてつき従っています。それは光の子として、わたしたち一人ひとりが、そして共同体全体が、この世界に「あらゆる善意と正義と真実」を生じさせるためであります。神が求められる世界を実現し、神の声に身をゆだね、神の愛を分かち合うために行動する共同体となるためであります。

 困難な状況の中にあって、互いに祈りの内に結ばれて、キリストを証ししていく者となることができるように、招かれる主に従って一歩先へと歩み続けたいと思います。

 

 

2020年3月22日

・日本の教会、新型コロナウイルス感染症に伴う対応は教区によってばらつき

(2020.3.20 カトリック・あい)

 日本のカトリック中央協議会が3月18日現在の新型コロナウイルス感染拡大に対する各教区の対応をまとめた。ただし、日本の司教団としての感染者への共同の祈りやミサ中止などが続く教会としての信徒へのケアを含めた、一体となった対応、取り組みはいまだになされていない。

 【カトリック中央協議会が3月18日現在でまとめた新型コロナウイルス感染症に伴う教区の対応】

2020年3月18日現在

教区 対応 期間 備考
札幌 公開ミサ中止 4月4日 小規模のミサ・集会についてはHP参照
仙台 公開ミサ中止 4月3日 聖体拝領についてはHP参照
新潟 公開ミサ中止 3月31日 3/29まで主日のミサにあずかる義務の免除
さいたま 公開ミサ中止 3月29日 4/8の聖香油ミサは司祭団・助祭団のみ
東京 公開ミサ中止 当面の間 3/29まで主日のミサにあずかる義務の免除
横浜 小教区の判断 主日のミサにあずかる義務の免除
名古屋 公開ミサ中止 3月29日 平日のミサについてはHP参照
京都 公開ミサ中止 4月3日 4/8の聖香油ミサは司祭団のみ
大阪 公開ミサ中止 3月31日 3/20の「教区召命の日・助祭叙階式」は延期
広島 小教区の判断 3月29日 事情によっては報告の上、中止可
高松 公開ミサ中止 沈静化まで
福岡 公開ミサ中止 3月29日
長崎 公開ミサ中止 3月15日 3/22以降については3/19に決定
大分 公開ミサ中止 3月15日 3/19にあらためてお知らせ
鹿児島 主任司祭の判断 政府による終息宣言まで 主日のミサにあずかる義務の免除
那覇 注意喚起 主日のミサにあずかる義務の免除

※最新情報は各教区のHPでご確認ください。
https://www.cbcj.catholic.jp/japan/diocese/

2020年3月20日

・中国の二人の研究者「新型ウイルスの発生源は武漢の研究所のコウモリ」、論文消される(BW)

   中国・武漢で最初の発症が確認された新型コロナウイルスが世界中を感染危機に巻き込む中で、いまだにその感染源が明らかになっていないが、中国の二人の研究者が、発生源は武漢の二つの研究所に保管されているコウモリだとする論文を出した。この論文は、まもなく当局の検閲にかかり、国際学術データベース「Research Gate」から抹消された。中国共産党・政府は実際に何が起きたのかを、世界に説明すべきである。

 

ResearchGate
ResearchGateから消えた2人の研究者の論文.

 致死性の高いこの新型ウイルスがどこから発生したのか。大方の世界のメディアは憶測でセンセーショナリズムをかきたてるような報道しかしないので、誰も信用しない。わがイタリアでも最大の日刊紙Corriere della Seraが、新型コロナウイルスは武漢に由来しない、と繰り返している。

 だが、National GeographicからのGoogleの二つの記事は、それと反対だーウイルスは武漢の魚市場から来た、と。記事の日付はいずれも2020年1月20日で、2020年3月9日のGoogle検索で最初に表示された。

 権威ある英国医学雑誌The Lancetは2月15日、武漢の市場が新型コロナウイルスの発生源とする見方を科学的に否定した。中国での最初の新型コロナウイルスの症例は、実際には2019年12月1日付であり、武漢の市場とのつながりは確証がない。また、41件の症例のうち13件は、武漢の市場とつながりがない、と。そして世界中のメディアがこれを伝えた。

 しかし、それで問題は終息しなかった。2月中旬、広東省広州市にあり、政府から教育部直属重点大学に指定されている華南理工大学の2人の研究者、 Botao Xiao 、 Lei Xiao両博士が、感染源がコウモリであることを確認する論文を出したのだ。興味深いことに、二人の論文は間もなく、国際学術データベースResearch Gateから姿を消した。

 中国共産党が好まない論文についてこのようなことが起きるのは珍しいことではないが、インターネット上で削除された内容を回復するツールWayback Machineで、その論文を読むことはまだ、可能だ。

 新型コロナウイルスが発現した地域にはコウモリは生息していない。つまり、この論文が指摘するコウモリは、野生ではない、ということだ。コウモリが生息している地域は、最も近い所でも武漢から900キロメートルも離れており、仮に新型ウイルスをもったコウモリがいたとしたら、武漢の住民が感染する前に、生息地から武漢までの途中の地域が”無傷”ではありえない。.

 従って、この新型ウイルスを運んだコウモリは武漢とその近隣にある二つの研究所からのものである可能性がある。 1つは武漢の市場から300 mしか離れていない武漢疾病管理予防センターであり、もう1つは、約12キロメートルにある中国科学院が管理する武漢ウイルス学研究所だ。

 2人の研究者の論文によれば、新型ウイルスに関する実験がこれらの研究所で行われており、「主任研究者は、新型コロナウイルスを reverse genetics(逆遺伝学=遺伝子構造から機能形質解明することを目指し研究手法組換えDNA技術ゲノム研究進展で可能になった)手法を使ってキメラ(異質同体)ウイルスを生成するプロジェクトに参加し、人体への出現の潜在可能性を指摘していたしていた。そして、直接的な懸念は、新型コロナウイルスあるいはその派生ウイルスが実験室から漏れる可能性がだった、という。

 論文は、コウモリが新型コロナウイルスの発生源とし、それは人間に感染する。それが始まった経緯に関する可能な答えは、2つの研究所で何かが制御不能になり、外に漏れてしまった可能性がある、ということだ。 2人の論文で明確にしていないのは、世界を苦しめている致命的な新型ウイルスが、果たして、意図的に作成られ、増殖されたかどうかである。

 中国の2人の研究者の論文に関するニュースを最初に伝えた西側の新聞は、英国の日刊紙、デイリーメールだ。同紙は、すでに、SARSとエボラ出血熱のような危険な病原体の研究の為に、二つ目の研究所が、2018年1月に武漢地域に開設されたことを報じていた。そして、ウイルスがそこから漏れるのを懸念した米国の生化学安全問題の専門家は既に2017年にその問題を指摘していた。中国には、2004年にSARSウイルスが北京の研究所から漏れた前歴があったからだ。

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 「ビターウィンター」の誰もが、ウイルス学者でも伝染病の専門家でもないので、問題全体の判断を専門家に委ねている。2人の論文の信頼性について、自分たちで評価することもできない。だが、はっきり言えるのは、私たちが透明性を求めている、ということだ。国際社会は、中国に対し説明を求める権威と力があるー全世界に向かって武漢の二つの研究所で何が起きているのか、どのようにしてウイルスを扱い、動物を使った実験をしているのか、動物をどのように扱っているのか、を明らかにすることを。

 私たちは”グローバル化”した世界に住んでおり、新型コロナウイルスの蔓延危機は、この”グローバル”の困難な意味を提起している。私たちは、中国が陰謀をはかっていると非難してはいない。ただ、真実を知りたいのだ。 世界の人々は真実を求めている。そして、抑圧された中国の人々も真実を求めている。 そして、この様々な情報、主張、専門家の意見、疑問などが飛び交う中で、私たちを最も困惑させているのは、人権と偽情報に関する恐るべき前歴を持つ中国に対して、ほとんどの国の関係者が、中国に明確な説明を求めていないことだ。

 武漢の研究所は、発生場所とされた市場から一つは300メートル、もう一つは12キロメートル にある。 私たちは誰も、中国を軽い心で非難していない。 私たちは問いを発し、答えを求めている。それなのに、 なぜ世界は、も同じような問いを発しないのだろうか?

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

*Bitter Winter(https://jp.bitterwinter.org )は、中国における信教の自由 と人権 について報道するオンライン・メディアとして2018年5月に創刊。イタリアのトリノを拠点とする新興宗教研究センター(CESNUR)が、毎日5言語でニュースを発信中。世界各国の研究者、ジャーナリスト、人権活動家が連携し、中国における、あらゆる宗教に対する迫害に関するニュース、公的文書、証言を公表し、弱者の声を伝えている。中国全土の数百人の記者ネットワークにより生の声を届け, 中国の現状や、宗教の状況を毎日報告しており、多くの場合、他では目にしないような写真や動画も送信している。中国で迫害を受けている宗教的マイノリティや宗教団体から直接報告を受けることもある。編集長のマッシモ・イントロヴィーニャ(Massimo Introvigne)は教皇庁立グレゴリアン大学で学んだ宗教研究で著名な学者。ー「カトリック・あい」はBitterWinterの承認を受けて記事を転載します。

 

2020年3月19日

・「性的虐待被害者に謝罪し、祈る」-菊地・東京大司教の四旬節第三主日ミサの説教

(2020.3.15 カトリック・あい)

    新型コロナウイルスの感染拡大の非常事態に対応するため、東京教区など日本国内の多くのカトリック司教区で公開ミサが中止されているが、東京教区長の菊地大司教は先週に続いて15日の主日のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂の小聖堂から動画配信した。「司教の日記」に同日夕から掲載されたミサ中の説教の内容は以下の通り。

March15cathedral

*「性虐待被害者のための祈りと償いの日」のミサ

 四旬節第三主日にあたる今日、東京教区ではこのミサを、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」のミサとしてささげます。

 聖職者による性虐待の罪に許しを願い、被害を受けられた方々の心のいやしのために祈り、同じ過ちを繰り返さない決意を新たにするために、教皇フランシスコは、全世界の司教団に向けて、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるように通達され、日本では「四旬節・第二金曜日」と定めました。今年は3月13日ですが、東京教区ではその次の主日に、この意向でミサを捧げることにしています。

 すべてのキリスト者とともに、傷ついた被害者の方々の悲しみと苦しみをおもい、いやしと回復の恵みのために、いつくしみ深い神に祈り、また、全世界の教会が同じ過ちを繰り返すことのないように、神のゆるしと導きを祈りましょう。

*「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」

 先ほど朗読された福音では、実際に、のどの渇きをいやす水について話すサマリアの女に対して、イエスは、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語っています

 自らをいのちの水として語られる主イエスに従う教会は、つねに「いのちの福音」を語り続けています。人間のいのちは、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで、例外なく尊厳をまもられ尊重されなくてはならない。教会はそのように主張し続けています。

 教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという現代社会の思い上がりを戒めながら、そういった現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を実現しなければならない。

 回勅「いのちの福音」の冒頭に、こう記されています。
「いのちの福音は、イエスのメッセ-ジの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『良い知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」

 さらに教皇ヨハネパウロ二世は、この回勅において「殺してはならない」と言う神のおきてを取り上げ、こう述べています。
「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています。そのおきては、創造主である神が人類との間に結んだ最初の契約を告げる響きとして、すべての人の道徳的良心にもう一度響き渡ります(77)」

 キリストに従うわたしたちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。

*命が危機に直面し続けている今こそ、教会は命の水を多くの人に

 残念なことにわたしたちが生きている社会にあっては、神からの賜物であるいのちが危機に直面し続けています。いったいわたしたちは、人間のいのちをどのような価値観に基づいて判断しているのかを、大きな疑問を抱かせるような事件も相次ぎました。

 障害と共に生きておられる方々を、社会に貢献しなければいのちが存続する意味はないとして、暴力的にいのちを奪う事件もありました。

 この数年、せっかく与えられたいのちを生きている幼子が、愛情の源であるべき親や保護者の手で虐待され、命を暴力的に奪われてしまう事件もしばしば耳にします。様々な事由から、誕生することのなかったいのちも少なくありませんし、様々な要因に絡め取られる中で自死へと追い詰められる人も、多くおられます。

 また社会全体の高齢化が進む中で、孤独のうちに人生を終える方々の存在もしばしば耳にいたします。誰にも助けてもらえない。誰からも関心を持ってもらえない。孤立のうちに、いのちの危機へと追い詰められていく人たちも少なくありません。

 さらには、雇用環境の厳しさの中で、不安定な生活を送る若者も増えています。加えて、海外から来日し、不安定な労働環境の中で、困難に直面している人たちにも、出会うことが増えてきました。

 危機にさらされるいのちの現状、教皇ヨハネパウロ二世が指摘する「死の文化」が支配する現実の中で、教会こそは、「いのちの福音」を高く掲げ、わき出るいのちの水を多くの人に届ける努力をしていなければなりません。

 その教会にあって聖職者には、神の賜物である尊厳あるいのちを守るために最善を尽くす義務があります。牧者として自らが神の民の先頭に立ち、「いのちの福音」をその言葉と行いを持って証しする義務があります。

*模範たるべき聖職者に人の尊厳を貶める行為が多数

 その模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という他者の人格を辱め人間の尊厳を蹂躙する行為におよび、いのちの尊厳をおとしめる事例が、過去にさかのぼって多数報告されています。

 それは、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声に耳を閉ざしてしまう行動です。神が、自ら愛される人間を、いのちの水が豊かにわき出る泉へと導こうとしているときに、枯れ果てた空の井戸へと導こうとする行動です。性虐待は、被害を受けられた方の人格の否定であり、尊厳あるいのちを与えてくださった神への挑戦です。

 さらには大人による保護を必要とする未成年者に対する性虐待や、暴力行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。

 加えて司教をはじめとした教区や修道会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽したり、その被害を過小評価した事例も、世界各地で多数指摘されています。

 日本の教会も例外ではなく、聖職者から性的な虐待や暴力行為を受けた事例があります。とりわけ被害者が未成年であった場合、深い苦しみと大きな葛藤のなかで、何十年も経ってからはじめて、その事実を公にできたという方もおられます。

  *性的虐待の被害者に心から詫びる-教会が真摯に反省する時

 そのような深い苦しみと大きな葛藤を長年にわたって強いてきた聖職者の加害について、被害を受けられた皆様に、心からお詫びいたします。

 教会がこの世界にあって、枯れた井戸ではなく、いのちの水を湧き出させる泉になるように、この世の組織としての教会のあり方を真摯に反省し、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。いまはそういう「とき」であると思います。

 そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

 教会は、いのちの福音を語り、神のいつくしみと愛を語り、すべてのいのちを守ることを語り続けています。そうであるからこそ、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声に心を閉じることなく、いのちの尊厳を、一人ひとりの人格の尊厳を守りぬく道を、先頭に立って歩み続ける存在でありたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

2020年3月15日